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藥堂語錄

藥堂語錄序(やくだうごろくじよ)

以前私は短(みじか)い隨筆(ずゐひつ)を集めて『藥堂文錄(やくだうぶんろく)』一卷(いつくわん)を作らうと考へたことがあつたが、いまだに手を着(つ)けてゐない。しかるに今『語錄』を書いたのは、後の鳥が先になり、先の鳥が後になる〔順序が顛倒する意。出典未詳。〕といふあの古い言葉と合致(がつち)する。大體(だいたい)、儒釋兩家(じゆしやくりやうか)の古いしきたりでは、語錄(ごろく)は門人弟子が記(しる)したお師匠(ししやう)さんの日常の言行(げんかう)なのである。楊子雲(やうしうん)(『法言(ほふげん)』『太玄(たいげん)』の著者)〔前漢・楊雄〕や王仲淹(わうちゆうえん)(『論衡(ろんかう)』著者)〔ママ。後漢・王充の字は仲任〕が自ら書物を著(あらは)したことは、後世(こうせい)の人から非常な非難のたねとなつてゐる。我々は何(なに)もまたその眞似(まね)をするには及ばぬ筈(はづ)である。ここの語錄といふのは實はたゞ名前が同じだけで、内容は全く何一つ似寄(によ)つた點(てん)はないのである。この事は一應(いちおう)はつきりとことわつておかねばなるまい。私は玄學(げんがく)〔魏晋南北朝時代の清談の背景をなした思潮、または風水のような観念形態〕はわからぬので、佛法や道學に對しては喙(くちばし)を容(い)れようと思はぬ〔容喙しない、口出ししない〕。語はやはり普通の話ばかりで、上下四旁(じやうげしはう)〔あらゆる事柄〕について取りとめもなく談(かた)つてはゐるが、何か或(あ)る一つの宗派を持つてゐるわけではない。假(かり)に分類せねばならぬとすれば、まづ雜家(ざつか)の中に入れる外はあるまい。私は最初『常談(じやうだん)』と題をつけようかと大分(だいぶ)考へた。この話に百に一つでも取るべきものがあるとすれば、それはその中の些(いささ)かの常識の爲であるからだ。たゞ殘念なことには劉靑園(りゆうせいゑん)〔清・劉玉書、字潤堂、号青園。〕にすでに『常談(じやうだん)』四卷あり、李登齋(りとうさい)〔清・李元復〕に『常談叢錄(じやうだんそうろく)』九卷あり、延茘浦(えんれいほ)〔清・延君寿〕にも『老生常談(らうせいじやうだん)』といふ詩話がある。すでに「三あり一を缺く」とはいへ、この上そのお仲間に入らせて貰(もら)ふのも一寸(ちよつと)きまりが惡い〔格好がつかず、照れくさい〕。で今度のは無論雷同(らいどう)〔付和雷同。むやみに同調すること。〕は雷同でも、名が同じだけで實は異(ちが)ふのであるから、大(たい)して差障(さしさは)り〔不都合〕もなからうと思ふ。「藥草堂」の名に至つては元々何の意義もありはしない。たゞ有るといへばさうも云へるに過ぎぬ。實はここに外の名前を用ひなかつかに就いてはやはり少しくわけがあるので、それをばそのまま意義であると云へばそれもよらう。數年前『藥草堂記』を作つて明らかにしておいた通り、妄(みだ)りに神農(しんのう)を氣取(きど)らうといふのでは決してなく、その氣持はたゞ民間療法の醫者(いしや)がやるやうに、幾種かの藥草を机の上にひろげてみるだけの話である。だが藥を少し並べてみればそれでよいので、針砭(しんぺん)を下す〔針砭時弊(社会悪に鍼を指し、矯正する)を念頭に置くか。〕などといふやうな事が出來るわけもないのは勿論(もちろん)である。この事もはつきりことわつておくに値(あた)ひしよう。私は本草(ほんざう)〔本草学(動植金石を調べる学問)〕には幾分興味を持つてゐるから、藥の材料を幾(いく)らか知つてはゐる。だがそれらを煎(せん)じて、眞黒(まつくろ)な苦(にが)い藥湯(やくたう)が出來上(できあが)つた時には、無論私は頂(いただ)くのは御免蒙(ごめんかうむ)りたい〔遠慮したい〕のである。しかしながら若(も)しも之を一品一品眺めるだけだとすれば、差向(さしむ)き植物の標本(へうほん)といつたところで、否(いな)そればかりか味(あぢ)もある物である。飴(あめ)の中にはいつてゐる肉桂(につき)や薄荷(はつか)は言ふまでもない。小さい時分には生藥(しやうやく)を買つて來て嚼(かぢ)り、そのまま食べてしまつたことさへあるのだが、一番普通なのは玉竹(ぎよくちく)〔甘野老(あまどころ)の乾燥根茎〕と甘草(かんざう)だつた。それらの味は今もつて忘れぬ。私の語にどうしてそれらの藥の味があり得ようぞ。たゞ平淡(へいたん)に行きさへすればよく、必ずしも良藥たるを求めない。故に口に苦くなければならぬといふのでもない。私の郷里では夏になるとよく金銀花(すいかづら)と夏枯草(うつぼぐさ)の二味(み)を煎じて茶の代りに飮み、暑さを凌(しの)ぐにはこれに限ると云つてゐるが、あれこそまさしく常談の本領(ほんりやう)である。私の語が幾らかでもそれに近いものになれば、それこそ私の本懷(ほんくわい)である。中華民國廿九年〔一九四〇年〕六月五日。

譯註

*上下四旁について——晉(しん)の木華(ぼくくわ)は『海賦(かいふ)』〔「文選」所収〕を作り、「なんぞ海の上下四旁(しはう)に於いて之を言はざる」〔ある人が木華に告げた言葉。海の上下四方に筆を広げれば想は尽きない、という意。〕と云つた。明(みん)の張岱(ちやうたい)はこれに傚(なら)つて、『岱志(たいし)』〔泰山の紀行文。「琅嬛文集」所収。〕を作るや、つひに岱(たい)の上下四旁に於いて之を言うた。周氏もかつて『家の上下四旁』について談つたことがある。
*三あり一を缺(か)く——麻雀(マージヤン)は四人でやるものだが、三人だけで、一人足りないことを云ふ。