結縁豆
中國の思想問題
中國の思想問題、これはまことに重大な問題である。だが重大ではあつても、決して緊急ではない。私はかねて〔以前から〕あらゆる物事に對して輕々しく樂觀はせぬが、たゞ中國の思想問題に對してだけは頗る〔かなり〕樂觀してゐる。その前途には大いに希望があると思つてゐる。中國の最近の思想界が相當混亂してゐることは確かである。だがそれは表面の一時的な現象にすぎぬ。若しも遠い處深い處まで見て行つたならば、中國人の思想は本來非常に健全なものである。さういふ根本基礎がそこにあるのだから、これを大事に培養して行きさへすれば、必ず生長繁茂し、この健全なる思想の上に健全なる國民を造り上げることが出來ると思ふ。
この中國固有の思想は何であるか? 或る人々は中國には昔から中心思想は無いと爲し、いろいろ苦心して何か一つ新しく定めてやらうと考へてゐるが、これは中々難かしい事で、うまく行かぬのは當然である。だが私の考へでは、何もそんな事をするには及ばぬ。といふのが、中國の中心思想は、殆ど幾千年來何等變化することなく、ちやんと存在してゐるからである。簡單に一口で云へば、それは卽ち儒家思想である。もつとも、これはさう簡單に云ふことは出來ない。といふのは、「儒」といふ名稱の無かつた前からこの思想はすでに成立してゐたのであり、また士人が八股文(官吏登用試驗に用ひる文章)を專業とするやうになつた後も依然この儒といふ名を標榜してゐるので、單に儒家と云つただけでは、頗る紛らはしいやうに思はれる。だからここではその點をもつとはつきりさせて、それは卽ち孔孟を以て代表となし、禹稷〔禹と后稷(周室の祖)〕を以て模範としてゐるところのあの儒家思想である、とさうことわつておかねばならぬ。實例を擧げて云つた方が一番解り易い。『孟子』卷四離婁下にかう云つてある。
禹稷は平世に當りて、三たびその門〔わが家の門〕を過ぎしかど入らざりき〔職務に邁進していたから〕。孔子これを賢なりとし給ふ。顏子〔顔回〕は亂世に當りて、陋巷に居り、一簞の食、一瓢の飮、人はその憂ひに堪へざるも顏子はその樂しみを改めざりき。孔子これを賢なりとし給ふ。孟子曰く、禹稷・顏回は道を同じうす。禹は天下に溺るる者あるときは己れ之を溺らすが如く思ひ、稷は天下に飢うる者あるときは己れ之を飢ゑしむるが如く思へり。それ故にこそ是の如く急なりしなれ。禹稷と顏子とは地を易ふれば則ち皆然らん。〔立場を入れ替えても、同様のことをしただろう。〕
同じく卷一梁惠王上に云ふ。
五畝の宅、之に樹うるに桑を以てせば、五十の者以て帛〔絹織物の衣装〕を衣るべし。鶏豚狗彘の畜、その時を失ふこと無くば、七十の者以て肉を食ふべし。百畝の田でん、その時を奪ふこと無くば、數口すうこうの家以て飢うること無かるべし。庠序しやうじよの教をしへを謹つつしみ、之に申かさぬるに孝悌かうていの義を以てせば、頒白はんぱくの者道路に負戴ふたいせざらん。七十の者帛きぬを衣、肉を食ひ、黎民れいみん飢ゑず寒こごえず、かくの如ごとくにして王たらざる者は未いまだこれ有らざるなり。
後者に云つてある具體的ぐたいてきな事柄は、所謂いはゆる仁政じんせいなる者これである。前者ぜんしやは仁人じんじんの心構こころがまへを云つたのだ。故ゆゑに儒家の根本思想は仁じんであつて、之を分けると忠ちゆう・恕じよ〔恕は思いやりの心。孟子のいう怵惕惻隠〕となり、しかもなほ一いつ以て之を貫いてゐる。〔論語・里仁篇の語を受ける。「一貫」の語源。〕人道主義〔白樺派の唱えたので有名。〕といふやうな名稱では誤解を受けよう。これは「人たるの道」と云つた方がよいかも知れぬ。阮伯元げんはくげん〔清・阮元〕は『論語論仁論』〔阮元「揅經室集」所収〕の中でかう云つてゐる。
中庸ちゆうよう篇〔礼記・中庸篇〕に「仁とは人じんなり」とあり、鄭康成ていかうせい〔後漢・鄭玄でふげん。〕は「相人偶さうじんぐうの人の如く讀むべし」と注してゐる。相人偶とは互ひに人の之を偶つれあひとする〔人が互いに相手を自分の偶(連れ合い)とみなす。〕といふ意味である。凡そ仁は必ず身に行ふ所の者に於いて之を驗けんして始めて顯現けんげんする。亦また必ず二人以上の者が居つて始めて仁は顯現する。若しもたゞ一人戸を閉とざして齊つつしみ居り、瞑目めいもく靜坐してゐたとすれば、たとへ心に德の理が有つたとしても、終つひに〔最終的に〕これをば聖門で謂いふ所の仁であると云ふことは出來ないであらう。蓋けだし士・庶人しよじんの仁は宗族そうぞく鄕黨きやうたうに顯現し、天子・諸侯・卿大夫けいたいふの仁は國家臣民に顯現する。同樣に相人偶の道であり、これは必ず人と人とが相偶あひぐうしてここに始めて仁は顯現するのである。
ここに解とかれてゐる儒家の仁の解説は實に簡單明瞭である。所謂いはゆる「仁を爲なす」とは手取てつとり早ばやく云へばつまり人と爲なることであり、仁とは即ち他人を人として取扱とりあつかふことである。消極的に己れの欲ほつせざる所は人に施ほどこさず〔論語・顔淵篇、衛霊公篇〕と云ふだけでなくて、更に己れの欲する所を以て人に施さねばならぬ。それはつまり己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達せしめ〔論語・雍也篇〕、更に進んで、人の欲する所を以て之を人に施すことであり、それは恕よりして忠ちゆう〔原義は真心、至誠〕に至ることになる。章太炎しやうたいえん先生〔章炳麟〕は『菿漢微言たうかんびげん』〔菿漢は章太炎の号〕の中にかう云つて居をられる。
仲尼ちゆうじ〔孔子〕は一貫を以て道と爲し學と爲した。之を貫く者は何であるかと云へば、それは忠恕ちゆうじよに外ほかならぬ。而しかして絜矩けつくの道〔礼記・大学篇〕、卽ち己れを推をして人に及ぼすといふことは、恕といふことにすでに盡つくされてゐる。人は五穀〔稲・黍・稷(粟)・麦・菽(豆)。日本では米・麦・粟・豆・黍(稗)。〕を食ひ、麋鹿びろくは薦くさを食ひ、螂蛆むかでは帶へびを甘うましとし、鴟鴞ふくろふは鼠ねずみを嗜このむ。その好む所は必ずしも同じでない。同じく人類に在つても、その好む所の高下かうげには種々異ことなるものがあり、單に絜矩けつく(己れの尺度しやくどで他人を推し量ること)を知つただけでは、人の好む所と思つて與あたへたのが、意外にも實はさうでなくて反かへつてその惡にくむ所であることもあるから、これはどうしても忠まで行かなければ人を滿足させることは出來できぬ。忠恕を盡つくすことの出來たのは莊子さうじだけである。莊子の云ふ「齊物せいぶつ」は即ち忠と恕と二つながら〔二つまとめて〕擧あげた者である。二程子にていし〔北宋・程顥(明道)、程頤(伊川)〕はこれに氣がつかず、「佛法では己おのれが身を厭棄えんきして、頭でも目でも腦髓なうずゐでも、すべてを人に與あたへよと教へるが、あれは己れの欲せざる所を以て人に施すものだ。」などと云つてゐる。果はたしてさうだとすれば、魯國ろこくが爰居えんきよといふ海鳥を養ふのに、必ず太牢たいらう九鼎きうていの食し〔荘子では太牢・九韶。太牢は牛羊豬(豚)の犠牲を捧げることをいい、九韶は宮廷音楽のことをいう。〕を以てせねばならぬと云ふのであらうか。法を以て人に施すのは恕の事である。財と無畏むゐ〔安心〕とを以て人に施す〔布施〕のは忠の事である。
忠と恕と二つながら盡つくすことは、まことに人たるの極致きよくちである。だが頂巓ちやうてんも高く峻けはしいが、その根礎いしずゑも非常に深く廣ひろく、聖賢より凡人ぼんじんに至るまで、一樣いちやうにこの心を具そなへざるはなく、各々おのおのその分際ぶんざいに應おうじて幾いくらでも推をし廣ひろめて行くことが出來るのであつて、阮君の云つた如ごとく、士・庶人の仁は宗族鄕黨に顯現し、天子・諸侯・卿大夫の仁は國家臣民に顯現するのである。あたかも海水中の鹽分えんぶんが、杓子しやくし一杯から全大洋たいやうに至るまで、量に多少はあつてもその味は同一であるやうなものである。更にもう一つ特に有意義なことがある。それは、我々は仁といふと何だか極めて高遠かうゑんな事のやうに思つてゐるが、實はそれはむしろ極めて切實せつじつな、いはば卑近ひきんなものであるといふことである。なぜならそれの根本は本々もともと人の生物的本能ほんのうに外ならぬからである。焦理堂しやうりだう〔清・焦循〕著『易餘籥錄えきよやくろく』卷十二に次のやうな文章がある。
亡父ばうふは嘗かつて云はれた。人生は飮食(食慾)と男女(性慾)に過ぎぬ。飮食に依よらなければ生きることは出來ぬし、男女に依らなければ子を生むことは出來ぬ。思ふに自分が生きることを欲ほつするやうに、人も生きることを欲する。自分が子を生むことを欲するやうに、人も子を生むことを欲する。孟子の「貨たからを好む」「色いろを好む」といふ説はよく之を言ひ盡つくしてゐる。必ずしも自分の生きること、自分の子を生むことを屛しりぞけることはいらぬにしても、たゞ人の生きること、人の子を生むことを忘れてはならぬ〔と〕。私(焦循)は易えきを學ぶこと三十年にして、始めて亡父のこの言葉は聖人も易かへ給はぬといふことを知つた。
案ずるに『禮記らいき』禮運篇に
飮食男女に人の大欲たいよく存す。死亡貧苦に人の大惡たいお〔大いに悪むもの〕存す。
とあり、云つてあることは大體同樣の理窟りくつである。たゞ焦君の發展的はつてんてき解釋によつて、その意味が一層明らかになつてゐる。飮食によつて個體こたいの生存を求め、男女によつて種族の生存を求める。これは本々あらゆる生物の本能であり、進化論者の所謂いはゆる「生を求むる意志」である。人も生物である。だからこの本能をも當然有してゐる。ただ一般の生物の生の求め方は單純であつて、生存の爲には手段を擇えらばず、自分さへ生存が出來れば他の者の生存に危害を與あたへでもかまはぬとするに對し、人はさうでなく、生物と同樣に生存を求めはするが、最初、單獨では目的を達することが出來ぬと思ひ、他と聯絡れんらくをとり、互ひに扶助ふじよし合ふことによつて、良き生存を得ようとする。その後更さらに、他人も自分と同樣に好惡かうおの心を有してゐるといふことを知り、何とかして一緒に仲良く附き合つて行かうと考へる。前者は「生存の方法」であつて、動物中にも能よくこれをなす者があるが、後者はたゞ人のみが有する所の「生存の道德」である。古人こじんは「人の禽獸きんでうに異ことなる所以ゆゑんの者は幾ほとんど稀まれなり」〔孟子・離婁章句下〕と云つてゐるが、恐らくこれこそその稀なる一つであらう。この原始的な生存の道德こそは卽ち仁の根苗こんべうであり、人類のみな一樣に具そなへてゐる所のものである。もつとも、人の心の心の同じからぬは恰あたかもその面おもての如くであつて〔顔が違えば心も異なる〕、各民族心理の發展もそれぞれ異ことなつた道を辿たどつて來てゐる。猶太ユダヤや印度が宗教に走つたやうに、生存を求めることから進んで永生乃至ないし無生むしやう〔生死輪廻を脱した悟達、涅槃〕を求めるに至つたものもある。或は羅馬ローマが帝國主義を建設したやうに、生存を求めることから轉てんじて權力を求めたものもある。これらはみな顯著な例である。たゞ獨ひとり中國は簡單なる現世げんせ主義を固執こしふし、實際を重んずると同時に又中庸を保たもつてゐる。故に專もつぱら共濟きようさい、卽ち今日こんにち言ひ古されてゐる所の共存共榮を以て目的となし、事かはつた高遠かうゑんな主張などは全然持たなかつたのである。淺あさい處から言へば、これは生物的な生を求める本能に根據こんきよするのであるが、それ故ゆゑにこそその根本はあくまで深いわけである。更に高い處から言へば、人にも我にもそれぞれの所を得えせしめようといふのは、聖人の心構へとせられることであるが、それはまた匹夫匹婦ひつぷひつぷ〔凡俗の庶人〕にとつても努力出來る所であり、全く人情道理に順應じゆんのうしたもので、一點の不自然な所もないのである。私が健全な思想と云つたのは卽ちこの故である。これは又人の本性ほんせいから出たもので、人工を用ひて外から灌そそぎ込んだものと違ふのであるから、學問をして道理に明らかな士人しじんに一層よく了解出來できるのは勿論もちろん、目に一丁字いつていじもなく〔無学で〕、聖賢せいけんの書を一句も讀んだことのないやうな水呑みづのみ百姓びやくしやうにも解わかりきつたことである。人に對し物に接する場合には自おのづから禮法れいほふがあり、聖賢の道に合はざるはないのである。私が樂觀してよいと云つた、その原因は即ちここに在る。中國人民の思想は儒家に本もとづき、最高の代表は云ふまでもなく孔子である。だがその理由は決して孔子が儒家を創立して、盛大せいだいに傳道でんだうを行つたが故ゆゑにさう云ふのではない。これは寧むしろ逆に云つた方がよい。卽ち孔子は我々中國人であるが故に、彼は中國思想を代表する頂巓ちやうてん、卽ち集大成しふたいせいなのである。國民思想は根苗であり、政治や教化けうくわは日光や水のやうな養料やしなひである。それも無論重要ではあるが、根苗は特に大切である。といふのは、これは先天的部分に屬ぞくし、良かれ惡あしかれ、外力くわいりよくに依よつては容易に變かへることの出來ぬものであるからだ。中國は幸さいはひにしてこの思想の良き根苗を有してゐる。これは極めて喜ぶべき事である。萬事ばんじに樂觀を容ゆるさぬ今日の時代に於いて、たゞこの一點だけは樂觀してよいと私は思つてゐる。中國の思想に關する限り絕對に問題は無い、と積極的に言明げんめいしてよいと私は思つてゐる。
ところで樂觀的なことを申し上げたが、それは決して現在或は將來しやうらいに於いて憂慮いうりよも無ければ危險も無いと云つてゐるわけではないのである。諺ことわざに「一利あれば一害あり」と云ふ。中國の思想に於いても正まさにその通りである。だがそれとて怪あやしむに足らぬ。人は水と火が無しには生活出來ぬものの、洪水と大火の禍害くわがいも亦最も烈はげしいものであつて、之に對する處置しよちが宜よろしきを得ないと、人を養ふ筈はづの者が反つて人を害そこなふことさへ往々わうわうにしてあるのである。中國の國民思想は非常に良いものだと我々は思ふが、過去の時代それぞれ相應さうおうの處置を取つて來たやうに、なほ將來にもそれは當嵌あてはまるのである。といふのは、世の中がどんなに變かはつたところで、要するに我々が人と成ならねばならぬことに變りはないからである。そして人たるの道は、やはり要するに生存を求めることであり、ここでは他人との共存共榮も確かに正當な方法であらう。しかしこれは正面しやうめんから云つたものであつて、當然この外ほかにその反面がある。そしてこの反面こそ憂慮すべきものである。中國人民の生活的要求は甚はなはだ簡單なものである。だがそれは甚だ切迫せつぱくしてゐる。彼は生存を求める。彼の生存の道德は、人を損そこなふことによつて己れを利りしようとは思はぬにしても、聖人の如く己れを損そんしてまで人を利するといふやうな眞似まねは出來るものでない。他の宗教的國民はよく天國近ちかづけりと夢想して、永生えいせいを求めんが爲ために火のなか水の中にも飛び込むのであるが、中國人はさういふ信心しんじんを持たぬ。彼は神の爲ためとか道の爲とかで犠牲ぎせいとなることを好まぬ。しかしながら彼も時としてはよく火のなか水の中に飛び込むことを辭じせぬ場合がある。假かりに彼が生存の望みなしと思つた時には、所謂乘のるかそるか、窮きうしては手段を擇えらばぬ冒險ぼうけんをやつてのけるのである。孟子は仁政じんせいを説明して「黎民飢ゑず寒えず」といふことを主しゆとしてゐるが、その反面は即ち「仰あふいでは以て父母に事つかふるに足らず、俯ふしては以て妻子を畜やしなふに足らず。樂歳らくさいにも身を終ふるまで苦しみ、凶年きようねんには死亡を免まぬかれず」であり、これはつまり喪亂さうらんの兆きざしである。この事は極めて簡單である。故に孔子の言葉を述べて、「道は二つ、仁と不仁とのみ。」〔孟子・離婁上〕と云つてゐるのである。仁の現象は「居きよに安やすんじ業げふを樂しむ」ことであり、その結果は「太平たいへい」である。不仁の現象は「民、生に聊やすんぜぬ」ことであり、その結果は「亂らん」である。ここで私の憂慮してゐる事、私の云つた危險が何であるか、すでに説明されたわけである。それは即ち亂である。私は嘗かつて中國の史書を調べ、中國の思想を考察したことがあるが、その結果、歸納きなふ的に感じたことは、中國で最も恐るべきは亂であること、そしてその亂はすべて人民の生を求むる意志の反動であつて、決して何々主義だとか理論だとかによつて指導されたものではなく、人民の欲望が阻碍そがいされ、或は滿足させられなかつた爲に起つたものだといふことであつた。我々は今、近世のみに就いて云ふならば、明末みんまつに於おける張獻忠ちやうけんちゆう・李自成りじせい等らの流寇りうこう、清末しんまつに於ける洪秀全こうしうぜん・楊秀清ようしうせい等の長髪賊ちやうはつぞくは、歴史を讀む人によつて批評はまちまちであるにしても、それは同じく一種の動亂どうらんであり、その殘忍ざんにんなる破壞はくわいの經過けいくわは今に至いたつてなほ語る人をして戰慄せんりつせしめるのであるが、その原因は何かと云ふと、やはりいづれも民が生に聊やすんぜなかつた爲ためである。これは確かに殷鑑いんかん〔身近な手本。「殷鑑遠からず、夏后の世に在り。」(詩経・大雅)〕となすに足りる。中國人は平常は和平を愛好し、時には忍耐にんたいし過ぎるとさへ思はれるのであるが、いざ一いちか八ばちかといふ時になると、こんどはがらりと樣子が變かはつて、今までの思想態度を完全に九霄きうせうの雲の彼方かなたに抛なげすて、反對に野性を發揮はつきしはじめるのである。だがこれは又誰を咎とがめることが出來よう? 俗諺ぞくげんにも
相罵あひののしるに好言かうげんなし、相打つに好拳かうけんなし。〔荘子・人間世篇。好拳は手加減した殴り方の意。〕
とある。不仁ふじんを以て不仁を招まねくのは、むしろ事の當然ではないか。今、我々は繰返くりかへして云ふ。中國の思想問題には別に問題はない。重要なのはたゞ亂を防ぐに在る。而して亂を防ぐには亂の起るのを防ぐことが第一であり、その責任は恐らく政治に在つて教化には在るまい。再び孟子の言葉を用ひて言ふならば、我々の力で「七十の者をして帛きぬを衣き、肉を食くらひ、黎民をして飢ゑず寒こごえざらしめる」ことは出來ないまでも、兎とも角かく何とかして「仰いでは以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜やしなふに足らず、樂歳にも身を終ふるまで苦しみ、凶年には死亡を免れず」といふ土壇場どたんばまで行かせぬやうにしてやり、亂を起おこす機會と條件とを造らぬやうにせねばならぬ。これは消極的な仕事ではあるが、その効果たるや思想肅正しゆくせいなどよりは遙はるかに大きいと思ふのである。これは西洋外國の理論とは必ずしも合致がつちせぬがも知れぬ。しかし中國の千百年の史書の中から得來えきたつた經驗であつて、少くともこの國に於いては更に適切妥當だたうだと信ずる。過去の史書はまことに國家の至寳しはうである。この大福帳だいふくちやうには國民の健康と疾病しつぺいとが一つ一つ記錄されてゐる。流寇りうこうの始末しまつ〔顛末〕を讀めば、それが何による中毒であつたかが解るのである。もつとも、王安石わうあんせきの新法しんぽふが反つて人民を病やましめたことを思ふと、強壯劑きやうさうざいの服用ふくよう宜しきを得ない場合にも命を取られることが有り得うるやうである。古人は史書を以て鏡鑑かがみに比ひし、「資治しぢ」といふ名を冠くわんした者〔北宋・司馬光の資治通鑑〕さへあるが、實にぴつたりと嵌はまつた云ひ方である。我々は史書を讀み、又經子けいし詩文をも史料として見て、そこから直接に結論を抽ひき出す。往々にしてそれは極めて平凡な一句にすぎぬ。だがそれこそ極めて眞實な、眞しんに國家の診斷書しんだんしよであり處方箋しよはうせんなのであつて、偉大なる理想ばかり高い空論くうろんに優まさること萬々ばんばんであると信ずる。曾かつて『老學菴筆記らうがくあんひつき』〔南宋・陸游〕卷一に次のやうな一條があつたのを見た。
靑城山せいじやうざんの上官道人じやうくわんだうじん〔著者陸游と交際のあった道士〕は北人ほくじんである。樹上に巢居そうきよして松の葉のコガシを食ひ、年は九十になる。面會めんくわいに來る者があると、燦然さんぜんと一笑するだけである。何か伺うかがひ立てても、耳が遠いからと云つて一語も答へようとせぬ。予は嘗かつてこの人と丈人觀ぢやうじんくわんといふ道教だうけうのお寺で會あつたところが、この老人何と思つたか突然自分から養生法やうじやうほふを語り出して、「國家を治をさめて太平を致いたすことと長生不死といふものは、どちらも凡人に出來ることではない。だから先まづ國を守つて亂みださぬやうにしておいてから奇才きさいの出現を待つべきであり、先づ養生をして夭わかじにせぬやうにしておいてから異人いじんの來るのを待つべきである。亂さず夭せぬにはみな特別異ことなつた方法があるわけではない。たゞ謹つつしみさへすればよいのだ。」と云つた。予は大いに喜び、更にいろいろ訊たづねようとすると、忽たちまち例の「わしは耳が遠いのでな。」の一言いちごんで撃退げきたいされてしまつた。
この語を讀んで私は非常に感服かんぷくした。上官道人は道士でこそあれ、夭せず亂さずといふ言げんは正に儒家思想と合致がつちする。それは最小限度の政治主張なのである。たゞ惜しいことに言ふは易やすく行おこなふは難かたいだけである。私は嘗かつて歎息たんそくして云つた。「北宋・南宋より明の末に至るまで殆ほとんどみな故意こいに亂と夭とを作らうとしてゐるが、これは實に不思議な事である。だが飜ひるがへつてつらつら〔よくよく〕考へてみるに、今日だつてやつぱり同じ事ではないか。正まさにかのルイ十四世せいが、洪水の必至ひつしを前以まへもつて明らかに知つて居をりながら、手を束つかねて何等なんらの方法も講かうぜず、人民の爲に生きる機會の一筋ひとすぢをも殘してやらず、逃路にげみち一つ設まうけてやらなかつたのと同樣どうやう、これこそ天下の大馬鹿者おほばかものではないだらうか。」私はむかし塾じゆくで『古文析義こぶんせきぎ』〔清・林雲銘〕を讀み、杜牧之とぼくし〔唐・杜牧〕の『阿房宮賦あばうきうのふ』の最後に「秦人しんひとは自みづからを哀れむに暇いとまなくして後人こうじん之を哀れみ、後人は之を哀れみて而しかも鑑かんがみず、亦後人をして復ふたたび後人を哀れましむ。」とあつたのを、當時は琅々らうらうと誦しようして、中々聲調せいてうがよいと感心してゐたものだが、今にして思へば、その意味も亦またまことに深長しんちやうであつたと思ふのである。
以上、私の言はんとすることは極めて簡單なのであるが、それをたゞくど〳〵言つたまでである。いま之を總括そうくわつしておくことにしよう。中國の思想には問題は無いと私は信じてゐる。なぜならそこには中心思想が永久に存在してゐるからである。それは生物的本能に出で、人類の道德に止とどまるのであるが故に、非常に堅固けんごでしかも健全である。他の民族の最高理想は、或は君の爲であるとか、神の爲であるとかであるのに反し、中國では小人せうじんは己おのれ一人乃至ないし宗族そうぞくの爲、君子くんしは民たみの爲で、要するに實はやはり一つの物である。これは中國の一部分一階級のみが有するものでなくて、一人々々が一樣いちやうに具そなへてゐることである。たゞ廣狭くわうけうの程度が同じでないだけである。これは聖賢が發起ほつきして、次第に教化して衆人しゆうじんに及んだものでなく、反かへつてその反對に、衆人からして聖賢に及び、更に益〻ますます高められ廣ひろげられたものなのである。それ故に、中國の思想に關する限り何等なんらの問題はなく、たゞ之を培養し、之を正當に生長させるやうな方法を講じさへすればよいのである。だが又、中國の思想は國民の生存を以て本もととするが故に、假かりに生存が問題になつたとすれば、思想にも動搖どうえうが起り、亂の生ずる危險がある。これは理論や主義によつて引起ひきおこされるのではないから、文字や言語によつて防止することは不可能である。私のかうした樂觀と悲觀と兩面りやうめんを持つた言葉に賛成しない人も相當さうたうあらうかと思ふ。といふのが、これは外國の理窟と合致せぬことが多いからである。だが私は、自分の云つてゐることは極めて確實で誠實なものであると信じてゐる。私も曾ては心を虚むなしくして外國の書物の中の理窟に耳を傾けたものである。だがその結果は、一部分の宇宙と生物とに關する常識を受取うけとつたに止とどまつた。若もしも中國の事、特にその思想生活等となると、私はやはり本國の人が一番よく知つてゐる、或は一番正確に知つてゐると信じてゐる。私は愛國者のやうに專もつぱら英雄賢哲けんてつの言行げんかうばかりに例をとるといつた眞似まねはせずに、たゞ一般民衆を觀察し、彼等かれらの平凡な言葉と平凡な行ひの中から我々中國人の人生觀を求めた。之を持つて行つて英雄賢哲と比較するに、根本の上ではなほ相通あひつうじてゐる。更に歷史中の治亂ちらんの跡あとを以て之を印證いんしやう〔引証〕するに、これ亦大旨たいしに於いて乖謬くわいびゆうしてをらぬ。故に私の言ふことは、たとへ淺いにしても、その理は頗る正しいと自ら信じてゐる。識者しきしやは必ずやよく之これを認めて下さることと思ふ。陳腐ちんぷの言げんで、到底たうてい時世じせいに合はぬことが多いかと思はれるが、それは取りも直さず私の才の拙つたなさを示すものである。だが亦そこにこそ私の氣持の僞いつはりでないことが窺うかがひ知られるかと思ふ。民國三十一年〔一九四二年〕十一月十八日。