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結縁豆

中國の思想問題

中國の思想問題、これはまことに重大な問題である。だが重大ではあつても、決して緊急ではない。私はかねて〔以前から〕あらゆる物事に對して輕々(かるがる)しく樂觀はせぬが、たゞ中國の思想問題に對してだけは頗(すこぶ)る〔かなり〕樂觀してゐる。その前途には大いに希望があると思つてゐる。中國の最近の思想界が相當混亂してゐることは確かである。だがそれは表面の一時的な現象にすぎぬ。若(も)しも遠い處(ところ)深い處まで見て行つたならば、中國人の思想は本來非常に健全なものである。さういふ根本基礎がそこにあるのだから、これを大事に培養(ばいやう)して行きさへすれば、必ず生長繁茂(はんも)し、この健全なる思想の上に健全なる國民を造り上げることが出來ると思ふ。

この中國固有の思想は何であるか? 或(あ)る人々は中國には昔から中心思想は無いと爲(な)し、いろいろ苦心して何か一つ新しく定めてやらうと考へてゐるが、これは中々(なかなか)難(むつ)かしい事で、うまく行かぬのは當然である。だが私の考へでは、何もそんな事をするには及(およ)ばぬ。といふのが、中國の中心思想は、殆(ほとん)ど幾千年來何等(なんら)變化することなく、ちやんと存在してゐるからである。簡單に一口(ひとくち)で云へば、それは卽ち儒家(じゆか)思想である。もつとも、これはさう簡單に云ふことは出來ない。といふのは、「儒」といふ名稱の無かつた前からこの思想はすでに成立してゐたのであり、また士人(しじん)が八股文(はつこぶん)(官吏(くわんり)登用試驗に用ひる文章)を專業(せんげふ)とするやうになつた後も依然(いぜん)この儒といふ名を標榜(へうばう)してゐるので、單に儒家と云つただけでは、頗る紛(まぎ)らはしいやうに思はれる。だからここではその點をもつとはつきりさせて、それは卽ち孔孟(かうまう)を以て代表となし、禹稷(うしよく)〔禹と后稷(周室の祖)〕を以て模範(もはん)としてゐるところのあの儒家思想である、とさうことわつておかねばならぬ。實例を擧げて云つた方が一番解(わか)り易い。『孟子』卷四離婁(りろう)下にかう云つてある。

禹稷は平世に當りて、三(み)たびその門〔わが家の門〕を過ぎしかど入(い)らざりき〔職務に邁進していたから〕。孔子これを賢(けん)なりとし給ふ。顏子〔顔回〕は亂世に當りて、陋巷(ろうかう)に居(を)り、一簞(いつたん)の食(し)、一瓢(いつぺう)の飮(いん)、人はその憂(うれ)ひに堪(た)へざるも顏子(ぐわんし)はその樂しみを改めざりき。孔子これを賢なりとし給ふ。孟子曰く、禹稷・顏回は道を同じうす。禹は天下に溺(おぼ)るる者あるときは己(おの)れ之を溺らすが如く思ひ、稷は天下に飢(う)うる者あるときは己れ之を飢ゑしむるが如く思へり。それ故にこそ是(かく)の如(ごと)く急(きふ)なりしなれ。禹稷と顏子とは地を易(か)ふれば則ち皆然らん。〔立場を入れ替えても、同様のことをしただろう。〕

同じく卷一梁惠王(りやうのけいわう)上に云ふ。

五畝(ほ)の宅(いへ)、之に樹(う)うるに桑(くわ)を以てせば、五十の者以て帛(きぬ)〔絹織物の衣装〕を衣(き)るべし。鶏豚狗彘(けいとんくてい)の畜(ちく(やしなひ))、その時を失ふこと無くば、七十の者以て肉を食ふべし。百畝の田(でん)、その時を奪ふこと無くば、數口(すうこう)の家以て飢うること無かるべし。庠序(しやうじよ)の教(をしへ)を謹(つつし)み、之に申(かさ)ぬるに孝悌(かうてい)の義を以てせば、頒白(はんぱく)の者道路に負戴(ふたい)せざらん。七十の者帛(きぬ)を衣、肉を食ひ、黎民(れいみん)飢ゑず寒(こご)えず、かくの如(ごと)くにして王たらざる者は未(いま)だこれ有らざるなり。

後者に云つてある具體的(ぐたいてき)な事柄は、所謂(いはゆる)仁政(じんせい)なる者これである。前者(ぜんしや)は仁人(じんじん)の心構(こころがま)へを云つたのだ。故(ゆゑ)に儒家の根本思想は仁(じん)であつて、之を分けると忠(ちゆう)・恕(じよ)〔恕は思いやりの心。孟子のいう怵惕惻隠〕となり、しかもなほ一(いつ)以て之を貫いてゐる。〔論語・里仁篇の語を受ける。「一貫」の語源。〕人道主義〔白樺派の唱えたので有名。〕といふやうな名稱では誤解を受けよう。これは「人たるの道」と云つた方がよいかも知れぬ。阮伯元(げんはくげん)〔清・阮元〕は『論語論仁論』〔阮元「揅經室集」所収〕の中でかう云つてゐる。

中庸(ちゆうよう)篇〔礼記・中庸篇〕に「仁とは人(じん)なり」とあり、鄭康成(ていかうせい)〔後漢・鄭玄(でふげん)。〕は「相人偶(さうじんぐう)の人の如く讀むべし」と注してゐる。相人偶とは互ひに人の之を偶(つれあひ)とする〔人が互いに相手を自分の偶(連れ合い)とみなす。〕といふ意味である。凡そ仁は必ず身に行ふ所の者に於いて之を驗(けん)して始めて顯現(けんげん)する。亦(また)必ず二人以上の者が居つて始めて仁は顯現する。若しもたゞ一人戸を閉(とざ)して齊(つつし)み居り、瞑目(めいもく)靜坐してゐたとすれば、たとへ心に德の理が有つたとしても、終(つひ)に〔最終的に〕これをば聖門で謂(い)ふ所の仁であると云ふことは出來ないであらう。蓋(けだ)し士・庶人(しよじん)の仁は宗族(そうぞく)鄕黨(きやうたう)に顯現し、天子・諸侯・卿大夫(けいたいふ)の仁は國家臣民に顯現する。同樣に相人偶の道であり、これは必ず人と人とが相偶(あひぐう)してここに始めて仁は顯現するのである。

ここに解(と)かれてゐる儒家の仁の解説は實に簡單明瞭である。所謂(いはゆる)「仁を爲(な)す」とは手取(てつと)り早(ばや)く云へばつまり人と爲(な)ることであり、仁とは即ち他人を人として取扱(とりあつか)ふことである。消極的に己れの欲(ほつ)せざる所は人に施(ほどこ)さず〔論語・顔淵篇、衛霊公篇〕と云ふだけでなくて、更に己れの欲する所を以て人に施さねばならぬ。それはつまり己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達せしめ〔論語・雍也篇〕、更に進んで、人の欲する所を以て之を人に施すことであり、それは恕よりして忠(ちゆう)〔原義は真心、至誠〕に至ることになる。章太炎(しやうたいえん)先生〔章炳麟〕は『菿漢微言(たうかんびげん)』〔菿漢は章太炎の号〕の中にかう云つて居(を)られる。

仲尼(ちゆうじ)〔孔子〕は一貫を以て道と爲し學と爲した。之を貫く者は何であるかと云へば、それは忠恕(ちゆうじよ)に外(ほか)ならぬ。而(しか)して絜矩(けつく)の道〔礼記・大学篇〕、卽ち己れを推(を)して人に及ぼすといふことは、恕といふことにすでに盡(つく)されてゐる。人は五穀〔稲・黍・稷(粟)・麦・菽(豆)。日本では米・麦・粟・豆・黍(稗)。〕を食ひ、麋鹿(びろく)は薦(くさ)を食ひ、螂蛆(むかで)は帶(へび)を甘(うま)しとし、鴟鴞(ふくろふ)は鼠(ねずみ)を嗜(この)む。その好む所は必ずしも同じでない。同じく人類に在つても、その好む所の高下(かうげ)には種々異(ことな)るものがあり、單に絜矩(けつく)(己れの尺度(しやくど)で他人を推し量ること)を知つただけでは、人の好む所と思つて與(あた)へたのが、意外にも實はさうでなくて反(かへ)つてその惡(にく)む所であることもあるから、これはどうしても忠まで行かなければ人を滿足させることは出來(でき)ぬ。忠恕を盡(つく)すことの出來たのは莊子(さうじ)だけである。莊子の云ふ「齊物(せいぶつ)」は即ち忠と恕と二つながら〔二つまとめて〕擧(あ)げた者である。二程子(にていし)〔北宋・程顥(明道)、程頤(伊川)〕はこれに氣がつかず、「佛法では己(おのれ)が身を厭棄(えんき)して、頭でも目でも腦髓(なうずゐ)でも、すべてを人に與(あた)へよと教へるが、あれは己れの欲せざる所を以て人に施すものだ。」などと云つてゐる。果(はた)してさうだとすれば、魯國(ろこく)が爰居(えんきよ)といふ海鳥を養ふのに、必ず太牢(たいらう)九鼎(きうてい)の食(し)〔荘子では太牢・九韶。太牢は牛羊豬(豚)の犠牲を捧げることをいい、九韶は宮廷音楽のことをいう。〕を以てせねばならぬと云ふのであらうか。法を以て人に施すのは恕の事である。財と無畏(むゐ)〔安心〕とを以て人に施す〔布施〕のは忠の事である。

忠と恕と二つながら盡(つく)すことは、まことに人たるの極致(きよくち)である。だが頂巓(ちやうてん)も高く峻(けは)しいが、その根礎(いしずゑ)も非常に深く廣(ひろ)く、聖賢より凡人(ぼんじん)に至るまで、一樣(いちやう)にこの心を具(そな)へざるはなく、各々(おのおの)その分際(ぶんざい)に應(おう)じて幾(いく)らでも推(を)し廣(ひろ)めて行くことが出來るのであつて、阮君の云つた如(ごと)く、士・庶人の仁は宗族鄕黨に顯現し、天子・諸侯・卿大夫の仁は國家臣民に顯現するのである。あたかも海水中の鹽分(えんぶん)が、杓子(しやくし)一杯から全大洋(たいやう)に至るまで、量に多少はあつてもその味は同一であるやうなものである。更にもう一つ特に有意義なことがある。それは、我々は仁といふと何だか極めて高遠(かうゑん)な事のやうに思つてゐるが、實はそれはむしろ極めて切實(せつじつ)な、いはば卑近(ひきん)なものであるといふことである。なぜならそれの根本は本々(もともと)人の生物的本能(ほんのう)に外ならぬからである。焦理堂(しやうりだう)〔清・焦循〕著『易餘籥錄(えきよやくろく)』卷十二に次のやうな文章がある。

亡父(ばうふ)は嘗(かつ)て云はれた。人生は飮食(食慾)と男女(性慾)に過ぎぬ。飮食に依(よ)らなければ生きることは出來ぬし、男女に依らなければ子を生むことは出來ぬ。思ふに自分が生きることを欲(ほつ)するやうに、人も生きることを欲する。自分が子を生むことを欲するやうに、人も子を生むことを欲する。孟子の「貨(たから)を好む」「色(いろ)を好む」といふ説はよく之を言ひ盡(つく)してゐる。必ずしも自分の生きること、自分の子を生むことを屛(しりぞ)けることはいらぬにしても、たゞ人の生きること、人の子を生むことを忘れてはならぬ〔と〕。私(焦循)は易(えき)を學ぶこと三十年にして、始めて亡父のこの言葉は聖人も易(か)へ給はぬといふことを知つた。

案ずるに『禮記(らいき)』禮運篇に

飮食男女に人の大欲(たいよく)存す。死亡貧苦に人の大惡(たいお)〔大いに悪むもの〕存す。

とあり、云つてあることは大體同樣の理窟(りくつ)である。たゞ焦君の發展的(はつてんてき)解釋によつて、その意味が一層明らかになつてゐる。飮食によつて個體(こたい)の生存を求め、男女によつて種族の生存を求める。これは本々あらゆる生物の本能であり、進化論者の所謂(いはゆる)「生を求むる意志」である。人も生物である。だからこの本能をも當然有してゐる。ただ一般の生物の生の求め方は單純であつて、生存の爲には手段を擇(えら)ばず、自分さへ生存が出來れば他の者の生存に危害を與(あた)へでもかまはぬとするに對し、人はさうでなく、生物と同樣に生存を求めはするが、最初、單獨では目的を達することが出來ぬと思ひ、他と聯絡(れんらく)をとり、互ひに扶助(ふじよ)し合ふことによつて、良き生存を得ようとする。その後更(さら)に、他人も自分と同樣に好惡(かうお)の心を有してゐるといふことを知り、何とかして一緒に仲良く附き合つて行かうと考へる。前者は「生存の方法」であつて、動物中にも能(よ)くこれをなす者があるが、後者はたゞ人のみが有する所の「生存の道德」である。古人(こじん)は「人の禽獸(きんでう)に異(ことな)る所以(ゆゑん)の者は幾(ほとん)ど稀(まれ)なり」〔孟子・離婁章句下〕と云つてゐるが、恐らくこれこそその稀なる一つであらう。この原始的な生存の道德こそは卽ち仁の根苗(こんべう)であり、人類のみな一樣に具(そな)へてゐる所のものである。もつとも、人の心の心の同じからぬは恰(あた)かもその面(おもて)の如くであつて〔顔が違えば心も異なる〕、各民族心理の發展もそれぞれ異(ことな)つた道を辿(たど)つて來てゐる。猶太(ユダヤ)や印度が宗教に走つたやうに、生存を求めることから進んで永生乃至(ないし)無生(むしやう)〔生死輪廻を脱した悟達、涅槃〕を求めるに至つたものもある。或は羅馬(ローマ)が帝國主義を建設したやうに、生存を求めることから轉(てん)じて權力を求めたものもある。これらはみな顯著な例である。たゞ獨(ひと)り中國は簡單なる現世(げんせ)主義を固執(こしふ)し、實際を重んずると同時に又中庸を保(たも)つてゐる。故に專(もつぱ)ら共濟(きようさい)、卽ち今日(こんにち)言ひ古されてゐる所の共存共榮を以て目的となし、事かはつた高遠(かうゑん)な主張などは全然持たなかつたのである。淺(あさ)い處から言へば、これは生物的な生を求める本能に根據(こんきよ)するのであるが、それ故(ゆゑ)にこそその根本はあくまで深いわけである。更に高い處から言へば、人にも我にもそれぞれの所を得(え)せしめようといふのは、聖人の心構へとせられることであるが、それはまた匹夫匹婦(ひつぷひつぷ)〔凡俗の庶人〕にとつても努力出來る所であり、全く人情道理に順應(じゆんのう)したもので、一點の不自然な所もないのである。私が健全な思想と云つたのは卽ちこの故である。これは又人の本性(ほんせい)から出たもので、人工を用ひて外から灌(そそ)ぎ込んだものと違ふのであるから、學問をして道理に明らかな士人(しじん)に一層よく了解出來(でき)るのは勿論(もちろん)、目に一丁字(いつていじ)もなく〔無学で〕、聖賢(せいけん)の書を一句も讀んだことのないやうな水呑(みづのみ)百姓(びやくしやう)にも解(わか)りきつたことである。人に對し物に接する場合には自(おのづか)ら禮法(れいほふ)があり、聖賢の道に合はざるはないのである。私が樂觀してよいと云つた、その原因は即ちここに在る。中國人民の思想は儒家に本(もと)づき、最高の代表は云ふまでもなく孔子である。だがその理由は決して孔子が儒家を創立して、盛大(せいだい)に傳道(でんだう)を行つたが故(ゆゑ)にさう云ふのではない。これは寧(むし)ろ逆に云つた方がよい。卽ち孔子は我々中國人であるが故に、彼は中國思想を代表する頂巓(ちやうてん)、卽ち集大成(しふたいせい)なのである。國民思想は根苗であり、政治や教化(けうくわ)は日光や水のやうな養料(やしなひ)である。それも無論重要ではあるが、根苗は特に大切である。といふのは、これは先天的部分に屬(ぞく)し、良かれ惡(あ)しかれ、外力(くわいりよく)に依(よ)つては容易に變(か)へることの出來ぬものであるからだ。中國は幸(さいはひ)にしてこの思想の良き根苗を有してゐる。これは極めて喜ぶべき事である。萬事(ばんじ)に樂觀を容(ゆる)さぬ今日の時代に於いて、たゞこの一點だけは樂觀してよいと私は思つてゐる。中國の思想に關する限り絕對に問題は無い、と積極的に言明(げんめい)してよいと私は思つてゐる。

ところで樂觀的なことを申し上げたが、それは決して現在或は將來(しやうらい)に於いて憂慮(いうりよ)も無ければ危險も無いと云つてゐるわけではないのである。諺(ことわざ)に「一利あれば一害あり」と云ふ。中國の思想に於いても正(まさ)にその通りである。だがそれとて怪(あや)しむに足らぬ。人は水と火が無しには生活出來ぬものの、洪水と大火の禍害(くわがい)も亦最も烈(はげ)しいものであつて、之に對する處置(しよち)が宜(よろ)しきを得ないと、人を養ふ筈(はづ)の者が反つて人を害(そこな)ふことさへ往々(わうわう)にしてあるのである。中國の國民思想は非常に良いものだと我々は思ふが、過去の時代それぞれ相應(さうおう)の處置を取つて來たやうに、なほ將來にもそれは當嵌(あては)まるのである。といふのは、世の中がどんなに變(かは)つたところで、要するに我々が人と成(な)らねばならぬことに變りはないからである。そして人たるの道は、やはり要するに生存を求めることであり、ここでは他人との共存共榮も確かに正當な方法であらう。しかしこれは正面(しやうめん)から云つたものであつて、當然この外(ほか)にその反面がある。そしてこの反面こそ憂慮すべきものである。中國人民の生活的要求は甚(はなは)だ簡單なものである。だがそれは甚だ切迫(せつぱく)してゐる。彼は生存を求める。彼の生存の道德は、人を損(そこな)ふことによつて己れを利(り)しようとは思はぬにしても、聖人の如く己れを損(そん)してまで人を利するといふやうな眞似(まね)は出來るものでない。他の宗教的國民はよく天國近(ちか)づけりと夢想して、永生(えいせい)を求めんが爲(ため)に火のなか水の中にも飛び込むのであるが、中國人はさういふ信心(しんじん)を持たぬ。彼は神の爲(ため)とか道の爲とかで犠牲(ぎせい)となることを好まぬ。しかしながら彼も時としてはよく火のなか水の中に飛び込むことを辭(じ)せぬ場合がある。假(かり)に彼が生存の望みなしと思つた時には、所謂乘(の)るかそるか、窮(きう)しては手段を擇(えら)ばぬ冒險(ぼうけん)をやつてのけるのである。孟子は仁政(じんせい)を説明して「黎民飢ゑず寒えず」といふことを主(しゆ)としてゐるが、その反面は即ち「仰(あふ)いでは以て父母に事(つか)ふるに足らず、俯(ふ)しては以て妻子を畜(やしな)ふに足らず。樂歳(らくさい)にも身を終ふるまで苦しみ、凶年(きようねん)には死亡を免(まぬか)れず」であり、これはつまり喪亂(さうらん)の兆(きざし)である。この事は極めて簡單である。故に孔子の言葉を述べて、「道は二つ、仁と不仁とのみ。」〔孟子・離婁上〕と云つてゐるのである。仁の現象は「居(きよ)に安(やす)んじ業(げふ)を樂しむ」ことであり、その結果は「太平(たいへい)」である。不仁の現象は「民、生に聊(やす)んぜぬ」ことであり、その結果は「亂(らん)」である。ここで私の憂慮してゐる事、私の云つた危險が何であるか、すでに説明されたわけである。それは即ち亂である。私は嘗(かつ)て中國の史書を調べ、中國の思想を考察したことがあるが、その結果、歸納(きなふ)的に感じたことは、中國で最も恐るべきは亂であること、そしてその亂はすべて人民の生を求むる意志の反動であつて、決して何々主義だとか理論だとかによつて指導されたものではなく、人民の欲望が阻碍(そがい)され、或は滿足させられなかつた爲に起つたものだといふことであつた。我々は今、近世のみに就いて云ふならば、明末(みんまつ)に於(お)ける張獻忠(ちやうけんちゆう)・李自成(りじせい)等(ら)の流寇(りうこう)、清末(しんまつ)に於ける洪秀全(こうしうぜん)・楊秀清(ようしうせい)等の長髪賊(ちやうはつぞく)は、歴史を讀む人によつて批評はまちまちであるにしても、それは同じく一種の動亂(どうらん)であり、その殘忍(ざんにん)なる破壞(はくわい)の經過(けいくわ)は今に至(いた)つてなほ語る人をして戰慄(せんりつ)せしめるのであるが、その原因は何かと云ふと、やはりいづれも民が生に聊(やす)んぜなかつた爲(ため)である。これは確かに殷鑑(いんかん)〔身近な手本。「殷鑑遠からず、夏后の世に在り。」(詩経・大雅)〕となすに足りる。中國人は平常は和平を愛好し、時には忍耐(にんたい)し過ぎるとさへ思はれるのであるが、いざ一(いち)か八(ばち)かといふ時になると、こんどはがらりと樣子が變(かは)つて、今までの思想態度を完全に九霄(きうせう)の雲の彼方(かなた)に抛(な)げすて、反對に野性を發揮(はつき)しはじめるのである。だがこれは又誰を咎(とが)めることが出來よう? 俗諺(ぞくげん)にも

相罵(あひののし)るに好言(かうげん)なし、相打つに好拳(かうけん)なし。〔荘子・人間世篇。好拳は手加減した殴り方の意。〕

とある。不仁(ふじん)を以て不仁を招(まね)くのは、むしろ事の當然ではないか。今、我々は繰返(くりかへ)して云ふ。中國の思想問題には別に問題はない。重要なのはたゞ亂を防ぐに在る。而して亂を防ぐには亂の起るのを防ぐことが第一であり、その責任は恐らく政治に在つて教化には在るまい。再び孟子の言葉を用ひて言ふならば、我々の力で「七十の者をして帛(きぬ)を衣(き)、肉を食(くら)ひ、黎民をして飢ゑず寒(こご)えざらしめる」ことは出來ないまでも、兎(と)も角(かく)何とかして「仰いでは以て父母に事ふるに足らず、俯しては以て妻子を畜(やしな)ふに足らず、樂歳にも身を終ふるまで苦しみ、凶年には死亡を免れず」といふ土壇場(どたんば)まで行かせぬやうにしてやり、亂を起(おこ)す機會と條件とを造らぬやうにせねばならぬ。これは消極的な仕事ではあるが、その効果たるや思想肅正(しゆくせい)などよりは遙(はる)かに大きいと思ふのである。これは西洋外國の理論とは必ずしも合致(がつち)せぬがも知れぬ。しかし中國の千百年の史書の中から得來(えきた)つた經驗であつて、少くともこの國に於いては更に適切妥當(だたう)だと信ずる。過去の史書はまことに國家の至寳(しはう)である。この大福帳(だいふくちやう)には國民の健康と疾病(しつぺい)とが一つ一つ記錄されてゐる。流寇(りうこう)の始末(しまつ)〔顛末〕を讀めば、それが何による中毒であつたかが解るのである。もつとも、王安石(わうあんせき)の新法(しんぽふ)が反つて人民を病(や)ましめたことを思ふと、強壯劑(きやうさうざい)の服用(ふくよう)宜しきを得ない場合にも命を取られることが有り得(う)るやうである。古人は史書を以て鏡鑑(かがみ)に比(ひ)し、「資治(しぢ)」といふ名を冠(くわん)した者〔北宋・司馬光の資治通鑑〕さへあるが、實にぴつたりと嵌(はま)つた云ひ方である。我々は史書を讀み、又經子(けいし)詩文をも史料として見て、そこから直接に結論を抽(ひ)き出す。往々にしてそれは極めて平凡な一句にすぎぬ。だがそれこそ極めて眞實な、眞(しん)に國家の診斷書(しんだんしよ)であり處方箋(しよはうせん)なのであつて、偉大なる理想ばかり高い空論(くうろん)に優(まさ)ること萬々(ばんばん)であると信ずる。曾(かつ)て『老學菴筆記(らうがくあんひつき)』〔南宋・陸游〕卷一に次のやうな一條があつたのを見た。

靑城山(せいじやうざん)の上官道人(じやうくわんだうじん)〔著者陸游と交際のあった道士〕は北人(ほくじん)である。樹上に巢居(そうきよ)して松の葉のコガシを食ひ、年は九十になる。面會(めんくわい)に來る者があると、燦然(さんぜん)と一笑するだけである。何か伺(うかが)ひ立てても、耳が遠いからと云つて一語も答へようとせぬ。予は嘗(かつ)てこの人と丈人觀(ぢやうじんくわん)といふ道教(だうけう)のお寺で會(あ)つたところが、この老人何と思つたか突然自分から養生法(やうじやうほふ)を語り出して、「國家を治(をさ)めて太平を致(いた)すことと長生不死といふものは、どちらも凡人に出來ることではない。だから先(ま)づ國を守つて亂(みだ)さぬやうにしておいてから奇才(きさい)の出現を待つべきであり、先づ養生をして夭(わかじに)せぬやうにしておいてから異人(いじん)の來るのを待つべきである。亂さず夭せぬにはみな特別異(ことな)つた方法があるわけではない。たゞ謹(つつし)みさへすればよいのだ。」と云つた。予は大いに喜び、更にいろいろ訊(たづ)ねようとすると、忽(たちま)ち例の「わしは耳が遠いのでな。」の一言(いちごん)で撃退(げきたい)されてしまつた。

この語を讀んで私は非常に感服(かんぷく)した。上官道人は道士でこそあれ、夭せず亂さずといふ言(げん)は正に儒家思想と合致(がつち)する。それは最小限度の政治主張なのである。たゞ惜しいことに言ふは易(やす)く行(おこな)ふは難(かた)いだけである。私は嘗(かつ)て歎息(たんそく)して云つた。「北宋・南宋より明の末に至るまで殆(ほとん)どみな故意(こい)に亂と夭とを作らうとしてゐるが、これは實に不思議な事である。だが飜(ひるがへ)つてつらつら〔よくよく〕考へてみるに、今日だつてやつぱり同じ事ではないか。正(まさ)にかのルイ十四世(せい)が、洪水の必至(ひつし)を前以(まへも)つて明らかに知つて居(を)りながら、手を束(つか)ねて何等(なんら)の方法も講(かう)ぜず、人民の爲に生きる機會の一筋(ひとすぢ)をも殘してやらず、逃路(にげみち)一つ設(まう)けてやらなかつたのと同樣(どうやう)、これこそ天下の大馬鹿者(おほばかもの)ではないだらうか。」私はむかし塾(じゆく)で『古文析義(こぶんせきぎ)』〔清・林雲銘〕を讀み、杜牧之(とぼくし)〔唐・杜牧〕の『阿房宮賦(あばうきうのふ)』の最後に「秦人(しんひと)は自(みづか)らを哀れむに暇(いとま)なくして後人(こうじん)之を哀れみ、後人は之を哀れみて而(しか)も鑑(かんが)みず、亦後人をして復(ふたた)び後人を哀れましむ。」とあつたのを、當時は琅々(らうらう)と誦(しよう)して、中々聲調(せいてう)がよいと感心してゐたものだが、今にして思へば、その意味も亦(また)まことに深長(しんちやう)であつたと思ふのである。

以上、私の言はんとすることは極めて簡單なのであるが、それをたゞくど〳〵言つたまでである。いま之を總括(そうくわつ)しておくことにしよう。中國の思想には問題は無いと私は信じてゐる。なぜならそこには中心思想が永久に存在してゐるからである。それは生物的本能に出で、人類の道德に止(とど)まるのであるが故に、非常に堅固(けんご)でしかも健全である。他の民族の最高理想は、或は君の爲であるとか、神の爲であるとかであるのに反し、中國では小人(せうじん)は己(おの)れ一人乃至(ないし)宗族(そうぞく)の爲、君子(くんし)は民(たみ)の爲で、要するに實はやはり一つの物である。これは中國の一部分一階級のみが有するものでなくて、一人々々が一樣(いちやう)に具(そな)へてゐることである。たゞ廣狭(くわうけう)の程度が同じでないだけである。これは聖賢が發起(ほつき)して、次第に教化して衆人(しゆうじん)に及んだものでなく、反(かへ)つてその反對に、衆人からして聖賢に及び、更に益〻(ますます)高められ廣(ひろ)げられたものなのである。それ故に、中國の思想に關する限り何等(なんら)の問題はなく、たゞ之を培養し、之を正當に生長させるやうな方法を講じさへすればよいのである。だが又、中國の思想は國民の生存を以て本(もと)とするが故に、假(かり)に生存が問題になつたとすれば、思想にも動搖(どうえう)が起り、亂の生ずる危險がある。これは理論や主義によつて引起(ひきおこ)されるのではないから、文字や言語によつて防止することは不可能である。私のかうした樂觀と悲觀と兩面(りやうめん)を持つた言葉に賛成しない人も相當(さうたう)あらうかと思ふ。といふのが、これは外國の理窟と合致せぬことが多いからである。だが私は、自分の云つてゐることは極めて確實で誠實なものであると信じてゐる。私も曾ては心を虚(むな)しくして外國の書物の中の理窟に耳を傾けたものである。だがその結果は、一部分の宇宙と生物とに關する常識を受取(うけと)つたに止(とど)まつた。若(も)しも中國の事、特にその思想生活等となると、私はやはり本國の人が一番よく知つてゐる、或は一番正確に知つてゐると信じてゐる。私は愛國者のやうに專(もつぱ)ら英雄賢哲(けんてつ)の言行(げんかう)ばかりに例をとるといつた眞似(まね)はせずに、たゞ一般民衆を觀察し、彼等(かれら)の平凡な言葉と平凡な行ひの中から我々中國人の人生觀を求めた。之を持つて行つて英雄賢哲と比較するに、根本の上ではなほ相通(あひつう)じてゐる。更に歷史中の治亂(ちらん)の跡(あと)を以て之を印證(いんしやう)〔引証〕するに、これ亦大旨(たいし)に於いて乖謬(くわいびゆう)してをらぬ。故に私の言ふことは、たとへ淺いにしても、その理は頗る正しいと自ら信じてゐる。識者(しきしや)は必ずやよく之(これ)を認めて下さることと思ふ。陳腐(ちんぷ)の言(げん)で、到底(たうてい)時世(じせい)に合はぬことが多いかと思はれるが、それは取りも直さず私の才の拙(つた)なさを示すものである。だが亦そこにこそ私の氣持の僞(いつは)りでないことが窺(うかが)ひ知られるかと思ふ。民國三十一年〔一九四二年〕十一月十八日。