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結縁豆

日本の再認識

私は日本に六年程暮(くら)したことがあるが、それは東京の一個處(いつかしよ)のみで、しかも三十年も昔の事である。當時はあたかも〔折しも、ちょうど〕明治時代の末期で、文學の上ではすでに抒情(じよじよう)的浪漫(ろうまん)主義運動を經(へ)、科學思想が次第に文藝の領域に侵入し來(きた)つて寫實(しやじつ)主義の文學を成立せしめた時であつた。これは文學史の上で自(おのづか)らその評價(ひやうか)がなされることであらうが、しかし私個人から見れば、無論これは異國の素人(しろうと)的見方に過ぎぬけれども、まことに一個の偉大なる時代であつたやうに感ぜられ、私達が最もよい作品と看做(みな)してゐるものは大抵(たいてい)みなこの時期に成長——少くとも萌芽(はうが)したやうな氣がしてならぬのである。當時の東京は現在のそれに比べれば無論ずつと劣つてゐたであらう。しかし西方化必ずしも現代化ではない筈(はづ)であり、ましてそれが直(ただ)ちに善美を盡(つく)したものとは決していへまいと私は考へる。だから私は明治時代の古い東京も非常に好きであり、七年前私が東京へ行つた時にも、例の震災(しんさい)〔大正12年(一九二三)の関東大震災〕の時に燒(や)けなかつた本鄕區(ほんがうく)を特に選んで二個月ほど滯在(たいざい)したわけであつた。私達が外國に留學する場合、言葉が一言(ひとこと)もわからずに單身(たんしん)外國の都會へはいり込むとすれば、當然孤獨と困苦を感ずる筈である。ところが私にけ全然さうしたことがなく、その土地と時代の空氣に對して間もなくしつくりと調和したものを感じ、いな、もつと嬉しいものさへ覺えられた。だから私は曾(かつ)て、東京は私の第二の故鄕(ふるさと)であると云つたことがあり、非常に懷(なつか)しい氣持を抱(いだ)いてゐるのである。一九一一年の春に作つた古詩の中に

遠遊(ゑんいう)、歸るを思はず、
久客(きうかく)、異鄕を戀(こ)ふ。

といふ句があつたのは、つまりその氣持を述べたものである。時はあたかも淸朝(しんてう)の最後の年であつた。

私の知つてゐる日本の土地はほんの東京の一部分にすぎず、その文化もせい〴〵東京の生活と明治時代の文學、それから少し溯(さかのぼ)つて江戸時代の文學と美術までがこの範圍内(はんゐない)に包含(はうがん)されてゐるにすぎぬ。だから私の日本に對する了解はもと〳〵極めて限られたものなのである。私は日本の日常生活を甚(はなは)だ愛好してゐる。五六年前、隨筆の中でこれに言及(げんきふ)したことがあり、その主(おも)な原因は私個人の性分(しやうぶん)と習慣に在ると云つた。私は曾て『東京を懷(おも)ふ』といふ拙文(せつぶん)の中で次のやうに云つておいた。私は中國の東南の水鄕(すいがう)に生長した人間である。そこの生活の寒苦(かんく)なことはひどいもので、冬は屋內(をくない)に火の氣(け)がなく、冷たい風は蒲團(ふとん)の中までどん〳〵吹き込んで來る。食物(しよくもつ)といへば年(ねん)がら年ぢゆう恐しく鹽辛(しほから)い醃菜(つけもの)か、それでなければ恐(おそろ)しく鹽辛い醃魚(しほざかな)きりである。〔醃は調味料に漬け込むこと。〕そんな訓練を受けて行つたのだから、東京の下宿生活がしつくりしないわけはなかつた。しかしこの外になほ第二の原因があつた。それは懷古(くわいこ)的幽情(いうじやう)とでもいふべきところであらう。私達は當時又民族主義の信徒でもあつた。凡そ民族主義の中には必ず復古思想が含まれてゐるものである。私達は淸朝(しんてう)に反對してゐたから、淸以前或は元以前のものなら殆(ほとん)ど何でもよいやうな氣がしてゐた。無論それよりもつと以前のものなら尚(なほ)の事(こと)であつた。何でもむかし夏穗卿(かすいけい)〔淸・夏曾佑〕・錢念劬(せんねんく)〔淸・銭恂〕の二先生は東京の街を歩きながら、店の看板に書いてある或る文句や或る字體を見る毎(ごと)に、いつもそれを指しては、そこになほ唐代の遺風(ゐふう)を存(そん)してゐる、現代の中國には見られぬものだと讃歎(さんたん)せられたさうである。かうした氣持は當時に於(おい)ては大抵きはめて普通の事であつた。私達の日本に於ける感じは、半(なか)ばは異域(いゐき)であつたが、半ばは古代であつた。しかもその古代は健全に異域に活(い)きてゐるものであり、だからそれは夢幻(ゆめまぼろし)のやうな架空(かくう)のものでなく、また朝鮮や安南のやうな優孟(いうまう)の衣冠(いくわん)とも全くちがつたものであつた。この理由のために私達は和服も大いに着てよいと思つてゐた。袍子(パオツ)〔長袍〕や馬褂(マーコア)〔ジャケット。「長袍馬褂」は民国時代には男性の第一礼装とされた。〕のごときば民國以前にはみな胡(ゑびす)の服と看做(みな)してゐた。章太炎(しやうたいえん)先生〔章炳麟〕が初めて日本へ行かれた時の寫眞が『民報』に載つたが、やはり和服を着てゐられた。卽(すなは)ちこの小さな一事によつても當時の一般の空氣が窺(うかが)はれよう。食物に關しては私は曾(かつ)てかう云つておいた。

私の鄕里は貧苦(ひんく)甚だしく、人民は努力してやつと三度の飯(めし)を食ひ、たゞ醃菜(つけもの)と臭豆腐(しうどうふ)と螺螄(たにし)とを以ておかずとする。故(ゆゑ)に鹽辛(しほから)いのや臭(くさ)いのは平氣である。また油を命のやうに嗜(たしな)むこともない。だから日本に行つて何を食べてもうまくないものはなかつた。その多くは故鄕の何かに比(たぐ)へられたし、多くのものは又中國の何處(どこ)かのものとそのまゝで、そんな事を考へるのも非常に興味が深かつた。味噌汁(みそしる)と干菜湯(かんさいとう)、金山寺味噌(きんざんじみそ)と豆板醬(とうばんじやん)、福神漬(ふくじんづけ)と醬咯噠(じゃんぐーた)〔高菜漬〕、牛蒡(ごぼう)・獨活(うど)と蘆笋(ろじゆん)〔アスパラガス〕、鹽鮭(しほじやけ)と勒鮝(ろくしよう)〔干魚〕、これらは皆よく似た食物である。また大德寺納豆(だいとくじなっとう)は卽ち鹹豆豉(かんとうち)であり、澤庵漬(たくあんづけ)は卽ち福建(ふくけん)の黃土蘿蔔(くわうどらふ)であり、蒟蒻(こんにやく)は卽ち四川(しせん)の黒豆腐であり、刺身(さしみ)は即ち廣東(クワントン)の魚生(ユーサーン)であり、壽司(すし)は即ち古(いにし)への魚鮓(ぎよさ)で、その製法は『齊民要術(せいみんえうじゆつ)』〔北魏・賈思勰〕に見えてゐる。これらはその間(かん)に文化交通の歴史を含んでをり、食べてうまいばかりか、更にいろいろと考へさせられる。家庭や宴會では勿論(もちろん)もつと御馳走(ごちそう)が出るが、それでもアツサリしたものたるに變(かは)りはなく、やはり菜蔬魚介(さいそぎよかい)を以て主(しゆ)とする。鷄(とり)や豚は食べないわけではないが、それもなるべく脂(あぶら)の少(すくな)いのを用ひる。故(ゆゑ)にやはり油濃くない〔ママ〕のである。

谷崎潤一郎(じゆんいちらう)は『東京をおもふ』といふ一文の中に東京の食物をいろいろ批評してゐるが、彼は鮒(ふな)の雀燒(すずめやき)とタヽミイワシとを擧(あ)げて代表となし、薄(うす)つぺらで貧弱(ひんじやく)で、見るからに寒氣(さむけ)がするほどあぢきなくて、少しも景氣(けいき)のいゝ豐かさ潤(うるほ)ひといふものがない。これは東京人の缺點(けつてん)で、その現今(げんこん)の東京を以て中心とせる文學美術の誕生に影響せるものは甚大(じんだい)であると云つてゐる。彼の云ふところにも勿論一理(いちり)ある。しかしこれらの食物の面白さはとりもなほさず〔そのまますなわち〕こゝにあると私には思はれる。換言(くわんげん)すれば淸淡質素(しつそ)といへる。それは富家(ふけ)の厨房(ちゆうばう)のやうに油濃くて片栗粉(かたくりこ)の多いといふことがない。その鹽(しほ)と淸(すまし)湯を用(もち)ひる點は私の鄕里の普通の民家に似てをり、私個人にとつて甚だいゝと思はれる。かりに私に御馳走を振舞(ふるま)つてくれる人があるとすれば、魚翅(ふかのひれ)や燕窩(つばめのす)は勿論熊掌(くまのて)でも、みな私は食べきれる。それはちやうど大葱(にら)や卵蒜(にんにく)を私が食べきれるのと同樣である。しかしそれらは食べる機會がなくても決して食べたいとは思ふまいし、人が食べてゐるのを見て食氣(くひけ)を起(おこ)すこともあるまい。私が食べたいと思ふのは、少し贅澤(ぜいたく)なところで、まづ白鮝(いしもち)湯といつたもの、その次に鰵魚鮝(ほしだら)湯である。もう一つ、肉をおし出した蝦(えび)の殼(から)と、突き碎(くだ)いた鞭笋(たけのこ)の食べられぬ「老頭」(根に近い硬い部分をいふ)に、更に干菜〔大根葉〕を加へて蒸し上げた、名前は知らぬが何とか湯(タン)(吸物(すいもの))といふのがあるが、これは實際みすぼらしい、あぢきない極(きは)みである。しかし越人はこれを非常においしがつて食べる。そしてそのおいしい點はやはりこのあぢきなさ卽ち淸淡質素の中にあるのであつて、まあ強(し)ひてこれを俳味(はいみ)といふことも出來よう。

日本の家屋(かをく)も私は大へん好きである。その原因は食物と同樣、その質素(しつそ)なるに在る。私は曾てかう云つた。私の好きなのはやはりその部屋の手頃(てごろ)なこと、特に簡易生活に便利なことである。又かうも云つておいた。一部屋四疊半(よでふはん)の面積は僅(わづ)か八十一平方尺(しやく)で、維摩居士(ゆいまこじ)の斗室(としつ)よりなほ二割も狹(せま)い。四方(しはう)の壁はガランとしてゐて、下宿から茶道具だけ貸してもらひ、自分で小机(こづくえ)一つ買つて來て窓に据(す)ゑ、あと座布團(ざぶとん)の二三枚もあれば、結構樂(らく)に住める。机に向(むか)つて坐り本を讀み字を書けば、前後左右はすべて空地(あきち)で、自由に書物や紙を置くことが出來(でき)、宛(さなが)ら一大書卓に等しい。來客があれば何處(どこ)にでも坐(すわ)れるし、六七人ぐらゐ容(い)れても餘裕綽々(よゆうしやくしやく)である。倦(う)めばそのまゝごろりと横になつて、別にソファーを備へつけることもいらぬ。深夜押入(おしいれ)から布團(ふとん)を出して敷(し)けば、それで正式に睡(ねむ)ることになる。昔は日本の書生の引越(ひつこ)しといへば、車に積んだ荷物は僅か蒲團と柳行李(やなぎがうり)と小机、それに本箱が加(くは)はるくらゐのもので、自分は硝子(ガラス)のランプを下げて車の後からついて行く、そんな圖(づ)をよく見たものである。中國の公寓(コングー)(下宿屋)の住室はみな方丈(はうぢやう)以上であるが、板の寢臺(しんだい)と卓(テーブル)椅子(いす)と、トランクを載せる臺(だい)を据(す)ゑると、もういくらも餘地(よち)がなく、窮屈な感じを抱(いだ)かせ、少しも安閑(あんかん)の趣(おもむき)がない。どうも中國の家屋は西洋のそれと同樣、みな華麗なるに宜(よろ)しく、簡陋(かんろう)なるに宜しくないやうで、一間の家屋を造り上げても、百里を行く者は九十里を半(なか)ばとすといふ具合(ぐあひ)で、相當の器具を備へつけなければ完成したとは云へないのである。ところが日本では土木工事が畢(おは)つて、疊(たたみ)を敷き障子(しやうじ)を張れば、そのまゝ住むことが出來、それで別に何一つ不足はなく、反つて小(こ)ざつぱりとして奧床(おくゆか)しく覺えるのである。むかし日向(ひゆうが)を旅行して、吉松・高鍋等の山村(さんそん)に泊り、宿屋(やどや)の質素な一室の窓に凭(よ)つて山を眺め、急須(きふす)に茶を入れて來させて飮んだことがあるが、それはこれまで泊(とま)つたことのある洋式や中國式のどの旅館よりも氣持がよく、簡單で費用もかゝらなかつた。今思ひ出したが、まことに梁實秋(りやうじつしう)君が云(い)はれたやうに、中國の料理はたしかに外國のそれよりうまいかも知れぬし、中國の長袍(ながぎ)や布鞋(くつ)は外國のそれより具合がいゝかも知れぬ。しかし家屋、少くとも普段に使ふ居間(ゐま)に關しては、私はやはり日本の舊式(きうしき)のそれを最もよいと思つてゐる。蓋(けだ)し三十餘年來この意見は變(かは)らぬのである。

日本の生活のうちの多くの習俗(しふぞく)も私の喜ぶところである。卽ち淸潔(せいけつ)なこと、禮儀(れいぎ)正しいこと、洒脱(しやだつ)なことの如(ごと)きそれである。洒脱なことと禮儀正しいこととは一見衝突(しやうとつ)するかに思はれるけれども、實は決してさうでない。洒脱は粗暴無禮(ぶれい)ではない。それはたゞ宗敎的及び道學的僞善(ぎぜん)を有(いう)せず、淫逸(いんいつ)から生ずるところのエセ眞面目(まじめ)を有しないことである。最も顯著(けんちよ)な例は裸體(らたい)に對する態度である。エリス〔Henry Havelock Ellis〕は『聖フランシスその他』(St. Francis and Others)の中でかう云つてゐる。

希臘(ギリシヤ)人は曾(かつ)て裸體を喜ばぬといふ事を波斯(ペルシヤ)人及(およ)びその他の異邦人(いはうじん)の一特性と看做(みな)した。日本人——時代と風土とを異(こと)にした希臘人——も、かの西方の異邦人の淫逸な羞恥(しうち)の眼(め)が彼等(かれら)に敎へるまでは、裸體を忌避(きひ)することに全然考へ及ばなかつた。私達の間では今なほ單に足を露出(ろしゆつ)するだけでも嫌惡(けんお)すべきことだと考へられてゐる。

私は今裸體を禮讚(らいさん)して凡俗(ぼんぞく)を駭(おどろ)かすつもりはない。たゞ日本の民間(みんかん)の素足(すあし)の風俗はたしかに極めていゝものだと私は信じてゐる。外に出るときには勿論下駄(げた)か草履(ざうり)を穿(は)くが、室内の疊(たたみ)の上では素足のまま歩くといふことは、實際この上もなく健全で且(か)つ美しい事である。私の嫌惡する中國の惡俗の一は女子の纒足(てんそく)である。そのため反動的に素足を讚美(さんび)するのであつて

兩足白きこと霜の如く、
鴉頭襪(あとうべつ)〔布、絹、革製の女性用靴下〕を著(つ)けず。

の句を思ひ出して、さすがに靑蓮居士(せいれんこじ)(李白)はうれしい人で、中國文人中には滅多(めつた)に得られぬと思ふ。私はいつもさう思ふのであるが、世界中の履物(はきもの)のうち最も善美なるは希臘(ギリシヤ)古代のサンダラ(Sandala)であり、閑適(かんてき)なるは日本の下駄(Geta)であり、經濟的なるは中國南方の草鞋(わらじ)である、そして皮靴(かはぐつ)の類(たぐひ)はこの數(かず)に入(い)らぬのである。凡(およ)そこれらは皆その隱さず、飾らず、ひたすらその自然にまかせながら、それでゐて穿き具合もよく見苦しくもないところがよいのである。それとて別に深い意味があるのでもなく、たゞ足その他の身體(しんたい)の一部合に對しては、これを解放する方がこれを束縛(そくばく)し忌(い)み隱すよりも必ず勝(まさ)つてゐると愚考(ぐかう)する。從(したが)つて希臘や日本の良風美俗に對して讚美の意を表示し、中華の如(し)かざるところとなさゞるを得(え)ないのである。希臘の古國は恨(うら)むらく未(いま)だ見るを得ないが、日本ならば幸(さいは)ひに曾て身(みづか)ら歴(へ)、外出するごとに、別に何の得(う)るところは無くとも、往(あう)さ來(き)るさの〔行き来する〕人々のみな平常の人であるのに、今日(こんにち)わが國内の路(みち)を歩いていつも經驗するところの、あの見ただけでも胸のわるくなる不愉快(ふゆくわい)きはまるもの——足を裹(つゝ)んだ人の一人だにないのを見て、この一事だけでも大(おほ)いに嬉(うれ)しかつたものである。

日本の生活に對する私の愛好は、僅(わづ)かに東京を以て標準(へうじゆん)とする。しかし假(か)りにこれが全日本を代表するに足り、土地や時代はいづれも問題にならぬとすれば、そして當時の東京の生活が後(のち)の更に西洋化したものに比(ひ)して、少くとも更に日本的特色を有してゐたとすれば、私の了解するところはたとへ甚だ淺いとしても、とにかく大(たい)して間違つてはゐないであらう。だが私の據(よ)るところは經驗であつて理論ではない。故に自分の感覺が切實(せつじつ)なる根柢(こんてい)となつてゐるとしても、さてこれを口に出して言ふとなると、なか〳〵うまく言へないのである。それに多く主觀(しゆくわん)に據(よ)つたもので、觀察も勿論周密(しうみつ)であり得ないのであり、これは實際如何(いかん)ともすべからざる事なのである。同樣な理由のために、日本の文學藝術に對する私の了解も部分的にすぎぬ。理論の上からならば私といへども知つてゐる。いはゆる日本精神を文學の上に求めようとするには必ず奈良朝から上(かみ)を以て限(かぎ)りとすべきで、『古事記(こじき)』と『萬葉集(まんえふしふ)』とはどうしても必讀(ひつどく)すべきであること、その次には平安朝にも力を入れねばならぬといふこと、といふのが王朝以後はもはや幕府の文學であつて、その意義は多分いくらか異(ことな)つて來るからである。だが、それは知つてゐても、さて古典はなか〳〵容易(ようい)に讀めるものではなく、近代文學のやうな具合に讀んでもサラリとわかるといふわけには行かぬ。ところが近代文學になると、これは社會生活と相連(あひつらな)つてゐるから、比較的容易に了解が出來るやうに思はれる。私はほんの少しばかりの東京の事情を知つてゐるだけであり、そのため私の興味を感じてゐるのも、この生活を以て背景としてゐるところの近代の文學と藝術、近いところは明治時代、更(さら)に溯(さかのぼ)ればせい〴〵德川時代までである。民國六年〔一九一七年〕に北京(ペキン)にやつて來てから今日まで二十年の間に涉獵(せうれふ)した雜書(ざつしよ)のうち、一部分は日本に關するものであつたが、それは大抵、俳諧(はいかい)・俳文・雜俳(ざつぱい)、特に川柳(せんりう)・狂歌(きやうか)・小唄(こうた)・俗曲・洒落本(しやれぼん)・滑稽本(こつけいぼん)・小咄(こばなし)即ち落語(らくご)等であり、別の方面では浮世繪(うきよゑ)・大津繪(おほつゑ)及び民藝(みんげい)であつて、殆(ほとん)どすべては民間のもので、私としてはたゞそれらがあまり解(わか)りにくくなく、また私の見た生活とも互(たがひ)に發明(はつめい)するところのあるやうなのを選んだまでであつた。私はこのやうに日本を見てゐる。硏究とはいへぬが、自分でも稍(やや)得(う)るところがあつたやうな氣もする。私は當時日本を一つの特異(とくい)な國として見ず、その特に他と同じくないところは努めてこれを去つて、私はひたすらに見て行き、たゞ自分の理解しうるところだけに注意を加へた結果、多くの他と近似(きんじ)した事物をさがし當(あ)てた。これはもとより日本の特徴とすることは出來ぬが、しかしこれによつて日本の東亞性(とうあせい)をつくづく感じたのであつた。けだし政治状態・家族制度・社會習俗・文字技術の傳統(でんとう)・儒釋(じゆしやく)思想の交流は、東亞各民族の間に於(おい)ては大抵は大同小異(だいどうせうい)であるから、こゝらから着眼(ちやくがん)して見て行けば、おのづと理解し易(やす)いばかりでなく、甚だ有意義(いういぎ)でもあると思はれたからである。十七八年前に私が、中國はその獨特の地位上特別に日本を了解する必要と可能とを有する、と云つたのは、卽(すなは)ちさういつた意味であつたのである。私は昔から同文同種(どうぶんどうしゆ)の說は信じない。しかし地理及び歷史の上から西洋人と比較すれば、私達は確かにさうした便利を有してゐるやうに思はれる。これは權利であるが、同時に義務であると言つても何等(なんら)差支(さしつか)へはない。永井荷風(かふう)はその著『江戶藝術論』の第一篇『浮世繪の鑑賞』の中でこんなことを云つてゐる。

而(しか)して余(よ)は今自己の何(なん)たるかを反省すれば、予はヴェルハアレン(Verhaeren)の如く白耳義(ベルジツク)人にあらずして日本人なりき。生れながらにして其(そ)の運命と境遇(きやうぐう)とを異(こと)にする東洋人なり。戀愛(れんあい)の至情(しじやう)はいふも更(さら)なり〔もとより〕、異性に對する凡(すべ)ての性欲的感覺を以て社會的最大の罪惡とされたる法律を戴(いただ)くものたり。泣く兒(こ)と地頭(ぢとう)には勝つ可(べ)からざる事を敎へられたる人間たり。物云へば唇寒きを知る國民たり。ヴェルハアレンを感奮(かんぷん)せしめたる生血(なまち)滴(したた)る羊の美肉と芳醇(はうじゆん)の葡萄酒(ぶだうしゆ)と逞(たくま)しき婦女の畫(ゑ)も何かはせん〔新しい芸術美の理解に何の活路も拓かせない社会的桎梏をどうすることもできずに喘いでいる〕。嗚呼(ああ)余(よ)は浮世繪を愛す。苦界(くがい)十年親の爲(ため)に身を賣りたる遊女(いうぢよ)が繪姿(ゑすがた)はわれを泣かしむ。竹格子(たけがうし)の窓によりてたゞ茫然(ばうぜん)と流るゝ水を眺(なが)むる藝者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麥賣(そばうり)の行燈(あんどう)淋(さび)しげに殘る川端(かはばた)の夜景はわれを醉(ゑ)はしむ。雨夜(あまよ)の月に啼(な)く時鳥(ほととぎす)、時雨(しぐれ)に散る秋の木の葉、落花(らつくわ)の風にかすれ行く鐘(かね)の音、行(ゆ)き暮(く)るゝ山路(やまぢ)の雪、およそ果敢(はか)なく賴りなく望みなく、この世はたゞ夢とのみ譯(わけ)もなく嗟嘆(さたん)せしむるもの悉(ことごと)くわれには親(した)し。われには懷(なつ)かし。

永井氏の言はうとしてゐることは必ずしも私のそれと全く同じではないかも知れぬ。しかし私はこれを讀んで非常に感動した。思ふに文學や藝術から全東洋人の悲哀を感得(かんとく)するのは、文化研究の正道(せいだう)ではないかも知れぬが、亦(また)きはめて面白い事ではあるまいか? 私は『東京を懷(おも)ふ』の一文の中で云つておいたのであるが、今日(こんにち)いかに中國と日本とが敵對的(てきたいてき)地位に立つてゐようとも、もし一時的關係を離れて永久的性質を論ずるときは、兩者は共に生れながらにして西洋と遙(はる)かにその運命と境遇とを異にするところの東洋人なのである。私達は今日、經驗に限られて、なほ世界の事情に通ずることが出來ないかも知れぬが、せめて東洋を知ることが出來ればまあよいとすべきであらう。私達がこれまで自分の才力(さいりよく)の及ばぬことも顧(かへり)みずに日本文化を妄談(まうだん)したのは、實はこの意味に本づくものであつて、己(おのれ)を知り彼(かれ)を知り以て勝(かち)を制(せい)せんことを求めようといふのでは決してなく、「吾(われ)も爾(なんぢ)もなほ彼(かれ)のごとし」といふ王陽明(わうやうめい)の言葉に感じたために外(ほか)ならぬ。けだし彼を知らうと求めることは、とりもなほさず己を知らうと欲(ほつ)するためでもあるからである。

右のやうな意見を相當(さうたう)長い間抱(いだ)いてゐたのであるが、しかしその後たうとう、これはどうもあまり當(あ)てにならぬと悟(さと)つた。單に異中に同を求めるのみで、同中に異を求めようとせ限(かぎ)り、單に主觀的にとゞまり客觀的(きやつくわんてき)な考察(かうさつ)をなさぬ限り、一民族の文化を了解しようと考へるのは恐らく、少くとも徒勞(とらう)の事であらう。私達が若(も)し日本文化を見て、政治状態・家族制度・社會習俗・文字技術の傳統・儒釋思想の交流等のために、その大同の者を取つてその東亞性なりと認(みと)めるならば、こゝに一つの大きな誤謬(ごびゆう)が生れる。といふのは上に云々(うんぬん)したのは實は單に東洋の公産であり、今ではもはや多くの民族の共有となつてゐるものであつて、西洋から見れば無論最も注目すべき事項(じこう)ではあらうが、東亞人、特に日、華、朝鮮、安南〔ベトナム〕、緬甸〔ミャンマー〕の各國に於て相互に研究しようといふ場合には、最初まづこれらの諸事項を羅列してこれを高閣(かうかく)に束(たば)ね、更に大同の中にその小異を求め、或は大異を得るに至つたならば、こゝに始めてその幾分かを了解し得たといへるわけであり、その了解も始めて西洋人より更に一歩を進め得(え)たわけであつて、それこそ貴(たつと)いといへるのである。私達はこれまで日本文化を觀察する場合、往々(わうわう)にしてその自分と近似(きんじ)してゐるものを取つてこれに鑑賞を加へ、それが單に日本文化中の東洋共有の成分たるにとゞまり、本々(もともと)その固有(こいう)の精神の所在(しよざい)ではないといふことを知らなかつた。たゞ自分と近似してゐて理解し易(やす)いためにそのまゝこれを取り、これでもう日本文化の要點(えうてん)を了解したと思つてゐた。がこれこそまさしく極めて大きな幻覺(げんかく)であり、最も自らを誤(あやま)り人を誤り易いものであつた。私は上に日本に對する觀察をいろ〳〵と述べたが、その目的は、實は今日に至つて全部これを抹殺(まつさつ)し、私が今まで步いて來た路(みち)はすべて誤つてゐたことを説明するために外ならなかつたのである。私の知つてゐるところのものは單なる日本文化中の東亞性の一面にとゞまり、日本の本來(ほんらい)の面目(めんもく)のごときは全然曾(かつ)て知らなかつたといつてよいのである。一國の文化を知らうと欲(ほつ)して、單にこれを文學藝術に求めるのも誤りである、少くとも不充分(ふじゆうぶん)である。一國の文化に對する解釋は必ず別のあらゆる方面にも當てはめられるべきである。假(か)りにそれが文化の上に當てはまるだけで、その他の事情を説明するのには役に立たぬとすれば、その解釋はもはや確實妥當(だたう)といふことは出來ぬ。私のこれまでの意見はみなさうした缺點(けつてん)を免(まぬか)れなかつた。そこで私は大いに改正の必要を感じてゐる。日本文化の中(うち)、その東洋民族に共有の「同」を忽略(こつりやく)に付(ふ)して〔等閑に付して、なおざりにして〕、その日本民族に特有の「異」——特に中國民族に無いもの、或は少ししかないもの、を求めることを以て標準としなければならぬと思つてゐる。それは何であらうか? 私は知らぬ。だから私には言へぬ。しかし私もいろ〳〵考慮し、それはことによれば宗敎ではあるまいか? と考へてゐる。十分に確定的なことは私にはまだ言へぬが、とにかく信仰上に關して日華(につくわ)兩民族には甚だ大きな差異(さい)があるやうに私は思ふ。無論、儒學と佛敎(ぶつけう)がどちらに於(おい)ても流行してゐるとはいへ。中國人にもその信仰はある。たとへば私の鄕里(きやうり)の張老相公(ちやうらうしやうこう)〔北宋・張夏が錢塘江の治水に殉じて神格化されたもの〕の渡御(とぎよ)だとか、北京の妙峯山(めうほうざん)の朝頂(てうちやう)(山上のお廟(べう)に詣(まゐ)り燒香(せうかう)すること)〔道敎で泰山の神である東岳大帝の娘として崇められる碧霞元君(泰山娘娘)を祀る。〕だとか、私はみなよく了解できるやうに思ふ。自分は神滅論者であるにも拘(かかは)らず、菩薩(ぼさつ)を拜(をが)む善男善女達(ぜんなんぜんによたち)の氣持(きもち)はよく理解できるのである。私達の信仰はどうやらすべて功利的(こうりてき)であつて、基督(キリスト)敎徒のやうに食事のたびに忘れず感謝することもなければ、巫師(みこ)の降神の歌舞(かぶ)などもない。けだし中國の民間信仰は大抵(たいてい)低級なものでも、決して熱烈な若(も)しくは神秘的なものではないからである。ところが日本ではさうでないらしい。彼等の崇拜(すうはい)や儀式の中には往々にして神憑(かみがか)り、或は柳田國男氏のいはゆる神人融和(ゆうわ)の状態が見られる。これは中國では絶(た)えて見られぬものであり、また了解し易くない事でもある。鄙近(ひきん)な例は、たとへば鄕村(がうそん)の神社の渡御(とぎよ)である。神輿(みこし)の中に神體——といつてもそれは決して神樣の像ではなく、石とか木といつた不可思議な代表物、或は見てならぬし又見ることの出來ぬところの別のもの——を入れ、それを十六人以上の若い衆(しゆ)が舁(かつ)いで行くのであるが、今まで輕かつたものが俄(には)かに重くなつたり、西へ行つてゐたのが急に東に行つたりして、人家(じんか)の門や塀(へい)を突きこはし、或は途中で停(とま)つて動かなくなる等、まるで自由意志を有してゐるかのやうである。輿丁(よちやう)〔担ぎ手〕はたゞ蟹(かに)の一脚(ひとあし)のやうに、無意識に動くだけである。事情にくらい人は或は若い衆連中(れんぢゆう)の自由行動ではないかと疑ひを挾(さしはさ)むかも知れぬが、この事柄はどうも說明がしにくく、實際決してそんな簡單なものではないらしい。柳田氏の著『祭禮と世間』の第七節にうまく云つた一段がある。

自分は幸ひにして、もと村童(そんだう)であつた爲(ため)に、祭の日に渡御を待ち佗(わ)びると云ふ、古風な心持(こころもち)に經驗がある。今年はどういふものか、神輿(みこし)樣がひどく荒いなどと云ふ時がある。そんな場合には路の辻(つじ)まで行列は來て居(を)りながら、何時(いつ)になつても神輿が見えず、見えたと思つてからも、右へ左へ傾(かたむ)きかゝり、之を舁(かつ)ぐ若い衆(しゆ)の素足(すあし)がYになり、Xになり、又Wの字(じ)に成り、「さす」と稱(しよう)して屢々(しばしば)手の擧(あ)がる限り高く輿(こし)を突き揚(あ)げることがある。

かういつた類(たぐひ)の事柄は中國の神像渡御の場合には絶對にない、少くとも私個人の狹い見聞を以(もつ)ていへば、みなさうであつた。若(も)しも書物から得た知識をふりまはすことを私達に許されるならば、ことによつたら希臘(ギリシヤ)古代のいはゆる酒神(デイオニソス)の祭の時の儀式の中に似たやうな處(ところ)があるかも知れぬ。しかしあの祭典(さいてん)は希臘に於(おい)ても末世になつて外部から移入されたものであり、日本の狀態は又これと同じくないのである。日本の上層思想界は中國の儒敎及(およ)び印度(インド)の佛敎を受け容(い)れ、近くは又西洋の科學を加へた。しかしその民族の根本信仰はやはり本來の神道(しんたう)であつて、知識階級には無論神輿(みこし)を舁(かつ)ぐ人々に於(お)ける如(ごと)き神憑(かみがか)り狀態は見られない。しかし普通の文章の中にも神國(しんこく)とか惟神之道(かんながらのみち)とかいつた文句(もんく)があつて、私達はいつも見慣(みな)れてゐるからこそあたり前のやうに思つてゐるけれども、しかし實は、日本人の了解してゐるやうなその眞意義は私達には到底(たうてい)わからない。この事はどうしてもこれを感情に訴(うつた)へなければならぬ。論理的解釋(かいしやく)のやうなものでは恐らく仕樣(しやう)あるまい、少くとも役には立たぬだらうと私は考へる。日本を了解するには、どうしても日本人の感情を理解しなければならぬ、そしてその方法は宗敎信仰(しんかう)から入るべきであると私は考へる。惜(を)しいことに私自身信仰うすき者であることを知つてゐるので、宗敎の重要性はよく知つてゐるが、どうも自分には解(わか)りかねる。だから入口(いりぐち)は認識しながらも、入(はい)つて行く希望はないわけである。私はいつもさう考へ、時々日本の友人に向(むか)つて言ひもするのであるが、中國人の日本了解を助けるために、日本の神社(じんじや)の祭禮(さいれい)や渡御、各地の廟會(ミヤオホイ)即ち縁日(えんにち)の有樣(ありさま)、田舍(ゐなか)に於ける中國とちがつたいろ〳〵の宗敎的行事や傳説などに就(つ)いて、字と繪を巧(たく)みに配列して書いた小册子(せうさつし)を澤山(たくさん)編纂(へんさん)印刷したならば、甚だ有意義(いういぎ)な事であらう。私達は東洋の藝文(げいぶん)を渉獵(せうれふ)して、常に禪(ぜん)と關係の深いことを感じ、何とかして少しわかり參考(さんかう)にしたいと考へるのであるが、實はもと〳〵これは思想ではない。禪はたゞ行(ぎやう)であつて、論理的に理解し得(え)られるものではない。私達は禪學史を讀み、語錄(ごろく)を讀(よ)んでも、結局みな理障(りしやう)に落ちて、禪から遠く離れてしまふ。のみならず普通、文學や藝術の上に表現されてゐるものも、思ふに大抵(たいてい)は老莊(らうさう)思想の一路にとゞまつてゐる。若(も)しも禪といふことになると必ずしも表出し得(え)られない。たとへ表出し得られたとしても、語錄みたやうな具合に、到底わかるものではないのである。かういふ風に云ふならば、圖說(づせつ)も無用になつてしまふ。けだし一民族の宗敎感情を了解しようと欲(ほつ)する場合には、眼(め)學問も耳(みみ)學問も同樣にあてにならず、どうも經歴と體驗とがない限り駄目(だめ)らしいからである。私は自分の言ふ所のあまりにも否定的なことを甚だ遺憾(ゐかん)に思ふ。だが私は私の日本に對する感想を略述(りやくじゆつ)して、また完全にこれを否定し去(さ)つたに拘(かかは)らず、なほ一言(いちごん)、肯定的(こうていてき)な言葉を殘(のこ)してゐる。それは即ち日本を了解するにはその宗敎から手を染(そ)めるべきであるといふことである。この言葉は甚だ簡短(かんたん)であるが、しかし極めて誠實(せいじつ)な、極めて重要なものである。孔子は曾(かつ)ていつた、「知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。」〔論語・為政篇〕私は敢(あへ)て自ら儒家(じゆか)の仲間に阿附(あふ)加入〔阿諛加担〕するつもりはないけども、こゝでは出來(でき)る限り奮發(ふんぱつ)してこれを勉(つと)めぬわけには行(ゆ)かぬのである。廿九年〔一九四〇年〕十二月十七日。

附記(ふき)

去年は恰(あたか)も日本の紀元二千六百年祭に當(あた)つてゐたので、國際文化振興會(しんこうくわい)では紀念論文集の發刊を計畫(けいくわく)せられ、地域別に論文を募集した外(ほか)、更にそれぞれの人々にも文章を書くやうに依頼(いらい)せられた。同會の北京代理人(だいりにん)が私を訪(たづ)ねて來たのは三月中のことで、原稿の締切(しめきり)は年末といふのであつた。私は後(あと)まだ十個月もあるのだし、それに錢稻孫(せんたうそん)先生も原稿を書くことを承諾(しようだく)せられ、私が若(も)しも書けなかつたら錢先生の一篇でも間(ま)に合(あ)ふだらうと思つたので、うかうかと承知したのであつた。ところが時といふものは全くあてにならぬ。忽(たちま)ちいつしか〔早くも〕十二月となつてしまひ、錢先生は紀念祭參加のため東京へ赴(おもむ)かれることになつて、論文は書けぬと云はれ、私はすつかり周章(あは)ててしまつた。だが仕方(しかた)はない。老秀才(らうしうさい)が歳考(さいかう)〔官立学校の定期試験〕を受ける時のやうな具合に、面(つら)の皮(かは)を厚くして〔鉄面皮に、臆面もなく〕受けに行く外(ほか)はない。四等(最下等)になるのはもとより覺悟(かくご)の前(まへ)であつた。幸ひにして私は國際文化振興會と約束をきめた際(さい)に一つの伏線(ふくせん)を張(は)つておいた。即ち如何(いか)なる報酬(ほうしう)も受けないといふことを條件(でうけん)としておいたのである。その意味はつまり、文章が好(よ)く書けなかつたとしても惡く思はないで欲(ほ)しいといふのである。その上なほ私は、文章が若(も)しもお役に立たぬやうだつたら紙屑籠(かみくづかご)に投げ入れ下さつてもよい、と確かにことわつておいたつもりである。ところが振興會では快(こころよ)く御採用(ごさいよう)下さつたばかりでなく、某(ぼう)雜誌に渡してその本年十二月號に譯文(やくぶん)を發表されたのであつた。大體私の條件の中にはもう一箇條(かでう)あつた。それは飜譯(ほんやく)せられる際には必ず譯文の原稿を私に見せて欲しいといふのであつた。ところがこんどは一向(いつかう)それが履行(りかう)せられず、多分振興會か、それでなければ雜誌社で譯されたものであらうか、その爲に不幸にして些(いささ)か誤譯(ごやく)があつたのである。最も重要なのは最後の一節中、私が、知識階識階級中には無論神馮(かみがか)り狀態は見られないと云つてゐるのが、譯文では見られるとなつてゐて、否定を肯定に譯(やく)してゐることである。この間違ひは如何(いか)にも滑稽(こつけい)で且(か)つ奇怪(きくわい)である。私はそこでここに原文を發表して、私の言つてゐることが正しいか正しくないかはすべて此(これ)を以て標準とし、訛(くわ)を以て訛を傳へることなきやうに〔間違いをさらに広めることのないように〕希望する次第(しだい)である。三十年十二月十五日。

譯註

*夏穗卿——夏曾佑(かそういう)、字(あざな)は穗卿(すいけい)、一(いつ)に別士(べつし)とも署(しよ)す。浙江(せつかう)省錢塘(せんたう)の人で、民國十三年〔一九二四年〕に歿(ぼつ)した。有名な歴史家で『中國歴史敎科書』の著がある。また奇怪な性格的な詩を作り、淸末思想界革命の先驅者(せんくしや)といはれてゐる。
*錢念劬(せんねんく)——錢恂(せんじゆん)、字は念劬、浙江省呉興(ごこう)の人、淸末の外交官として知られ、東京駐在(ちゆうざい)淸國公使館の參贊(さんさん)(參事官(さんじくわん))から留日學生監督を經(へ)て駐伊大使(たいし)になつた。幾多(いくた)の著書あり。現北京大學校長錢稻孫(せんたうそん)氏の父君(ふくん)である。
*優孟(いうまう)の衣冠(いくわん)——優孟は春秋時代楚國(そこく)の樂人(がくじん)で、頓智(とんち)にたけ諷刺(ふうし)に巧(たく)みであつた。宰相(さいしやう)孫叔敖(そんしゆくがう)の死後その子が貧乏で困(こま)つてゐたので、彼は孫叔敖の衣冠を著(つ)けてこれに扮(ふん)し、やがて孫叔散そつくりに見えるに至り、楚王に見(まみ)え歌を作つてこれを動かし、孫叔敖の子を召出(めしいだ)しこれを寢丘(しんきう)に封(ほう)ぜしめた。
*章太炎(しやうたいえん)——名は炳麟(へいりん)、自(みづか)ら太炎と署(しよ)す。浙江省餘杭(よこう)の人、近代不世出(ふせいしゆつ)の〔類稀な〕學者で『國故論衡(こくころんかう)』、『檢論(けんろん)』その他著述極めて多し。又淸末の革命運動に投じて孫文(そんぶん)等(ら)と相知り、淸廷の忌諱(きい)に觸(ふ)れて日本に亡命、『民報』等の新聞を主宰(しゆさい)して革命精神を鼓吹(こすい)する外、留日學生に國學(こくがく)〔中国古典学〕を敎授し、その下(もと)から幾多の俊才(しゆんさい)を出した。魯迅(ろじん)や周作人(しうさくじん)も當時の弟子である。民國廿五年〔一九三六年〕歿。
*梁實秋(りやうじつしう)——浙江省杭縣(こうけん)の人。文藝批評家として知られ、『文學の紀律』、『罵人(ばじん)の藝術』、『浪漫的と古典的』等の著書がある。
*吾(われ)も爾(なんぢ)もなほ彼(かれ)のごとし——王陽明の文集に「旅(たびゞと)を瘞(うづ)むる文」といふ一文があり、陽明が流謫(るたく)せられて龍場の丞(じよう)となり、その道中にて行(ゆ)き倒(だお)れた死人を見て下僕(げぼく)と共にこれを葬(はうむ)つた事を記してある。陽明が下僕にいつた言葉。