結縁豆
日本の再認識
私は日本に六年程暮したことがあるが、それは東京の一個處のみで、しかも三十年も昔の事である。當時はあたかも〔折しも、ちょうど〕明治時代の末期で、文學の上ではすでに抒情的浪漫主義運動を經、科學思想が次第に文藝の領域に侵入し來つて寫實主義の文學を成立せしめた時であつた。これは文學史の上で自らその評價がなされることであらうが、しかし私個人から見れば、無論これは異國の素人的見方に過ぎぬけれども、まことに一個の偉大なる時代であつたやうに感ぜられ、私達が最もよい作品と看做してゐるものは大抵みなこの時期に成長——少くとも萌芽したやうな氣がしてならぬのである。當時の東京は現在のそれに比べれば無論ずつと劣つてゐたであらう。しかし西方化必ずしも現代化ではない筈であり、ましてそれが直ちに善美を盡したものとは決していへまいと私は考へる。だから私は明治時代の古い東京も非常に好きであり、七年前私が東京へ行つた時にも、例の震災〔大正12年(一九二三)の関東大震災〕の時に燒けなかつた本鄕區を特に選んで二個月ほど滯在したわけであつた。私達が外國に留學する場合、言葉が一言もわからずに單身外國の都會へはいり込むとすれば、當然孤獨と困苦を感ずる筈である。ところが私にけ全然さうしたことがなく、その土地と時代の空氣に對して間もなくしつくりと調和したものを感じ、いな、もつと嬉しいものさへ覺えられた。だから私は曾て、東京は私の第二の故鄕であると云つたことがあり、非常に懷しい氣持を抱いてゐるのである。一九一一年の春に作つた古詩の中に
遠遊、歸るを思はず、
久客、異鄕を戀ふ。
といふ句があつたのは、つまりその氣持を述べたものである。時はあたかも淸朝の最後の年であつた。
私の知つてゐる日本の土地はほんの東京の一部分にすぎず、その文化もせい〴〵東京の生活と明治時代の文學、それから少し溯つて江戸時代の文學と美術までがこの範圍内に包含されてゐるにすぎぬ。だから私の日本に對する了解はもと〳〵極めて限られたものなのである。私は日本の日常生活を甚だ愛好してゐる。五六年前、隨筆の中でこれに言及したことがあり、その主な原因は私個人の性分と習慣に在ると云つた。私は曾て『東京を懷ふ』といふ拙文の中で次のやうに云つておいた。私は中國の東南の水鄕に生長した人間である。そこの生活の寒苦なことはひどいもので、冬は屋內に火の氣がなく、冷たい風は蒲團の中までどん〳〵吹き込んで來る。食物といへば年がら年ぢゆう恐しく鹽辛い醃菜か、それでなければ恐しく鹽辛い醃魚きりである。〔醃は調味料に漬け込むこと。〕そんな訓練を受けて行つたのだから、東京の下宿生活がしつくりしないわけはなかつた。しかしこの外になほ第二の原因があつた。それは懷古的幽情とでもいふべきところであらう。私達は當時又民族主義の信徒でもあつた。凡そ民族主義の中には必ず復古思想が含まれてゐるものである。私達は淸朝に反對してゐたから、淸以前或は元以前のものなら殆ど何でもよいやうな氣がしてゐた。無論それよりもつと以前のものなら尚の事であつた。何でもむかし夏穗卿〔淸・夏曾佑〕・錢念劬〔淸・銭恂〕の二先生は東京の街を歩きながら、店の看板に書いてある或る文句や或る字體を見る毎に、いつもそれを指しては、そこになほ唐代の遺風を存してゐる、現代の中國には見られぬものだと讃歎せられたさうである。かうした氣持は當時に於ては大抵きはめて普通の事であつた。私達の日本に於ける感じは、半ばは異域であつたが、半ばは古代であつた。しかもその古代は健全に異域に活きてゐるものであり、だからそれは夢幻のやうな架空のものでなく、また朝鮮や安南のやうな優孟の衣冠とも全くちがつたものであつた。この理由のために私達は和服も大いに着てよいと思つてゐた。袍子〔長袍〕や馬褂〔ジャケット。「長袍馬褂」は民国時代には男性の第一礼装とされた。〕のごときば民國以前にはみな胡の服と看做してゐた。章太炎先生〔章炳麟〕が初めて日本へ行かれた時の寫眞が『民報』に載つたが、やはり和服を着てゐられた。卽ちこの小さな一事によつても當時の一般の空氣が窺はれよう。食物に關しては私は曾てかう云つておいた。
私の鄕里は貧苦甚だしく、人民は努力してやつと三度の飯を食ひ、たゞ醃菜と臭豆腐と螺螄とを以ておかずとする。故に鹽辛いのや臭いのは平氣である。また油を命のやうに嗜むこともない。だから日本に行つて何を食べてもうまくないものはなかつた。その多くは故鄕の何かに比へられたし、多くのものは又中國の何處かのものとそのまゝで、そんな事を考へるのも非常に興味が深かつた。味噌汁と干菜湯、金山寺味噌と豆板醬、福神漬と醬咯噠〔高菜漬〕、牛蒡・獨活と蘆笋〔アスパラガス〕、鹽鮭と勒鮝〔干魚〕、これらは皆よく似た食物である。また大德寺納豆は卽ち鹹豆豉であり、澤庵漬は卽ち福建の黃土蘿蔔であり、蒟蒻は卽ち四川の黒豆腐であり、刺身は即ち廣東の魚生であり、壽司は即ち古への魚鮓で、その製法は『齊民要術』〔北魏・賈思勰〕に見えてゐる。これらはその間に文化交通の歴史を含んでをり、食べてうまいばかりか、更にいろいろと考へさせられる。家庭や宴會では勿論もつと御馳走が出るが、それでもアツサリしたものたるに變りはなく、やはり菜蔬魚介を以て主とする。鷄や豚は食べないわけではないが、それもなるべく脂の少いのを用ひる。故にやはり油濃くない〔ママ〕のである。
谷崎潤一郎は『東京をおもふ』といふ一文の中に東京の食物をいろいろ批評してゐるが、彼は鮒の雀燒とタヽミイワシとを擧げて代表となし、薄つぺらで貧弱で、見るからに寒氣がするほどあぢきなくて、少しも景氣のいゝ豐かさ潤ひといふものがない。これは東京人の缺點で、その現今の東京を以て中心とせる文學美術の誕生に影響せるものは甚大であると云つてゐる。彼の云ふところにも勿論一理ある。しかしこれらの食物の面白さはとりもなほさず〔そのまますなわち〕こゝにあると私には思はれる。換言すれば淸淡質素といへる。それは富家の厨房のやうに油濃くて片栗粉の多いといふことがない。その鹽と淸湯を用ひる點は私の鄕里の普通の民家に似てをり、私個人にとつて甚だいゝと思はれる。かりに私に御馳走を振舞つてくれる人があるとすれば、魚翅や燕窩は勿論熊掌でも、みな私は食べきれる。それはちやうど大葱や卵蒜を私が食べきれるのと同樣である。しかしそれらは食べる機會がなくても決して食べたいとは思ふまいし、人が食べてゐるのを見て食氣を起すこともあるまい。私が食べたいと思ふのは、少し贅澤なところで、まづ白鮝湯といつたもの、その次に鰵魚鮝湯である。もう一つ、肉をおし出した蝦の殼と、突き碎いた鞭笋の食べられぬ「老頭」(根に近い硬い部分をいふ)に、更に干菜〔大根葉〕を加へて蒸し上げた、名前は知らぬが何とか湯(吸物)といふのがあるが、これは實際みすぼらしい、あぢきない極みである。しかし越人はこれを非常においしがつて食べる。そしてそのおいしい點はやはりこのあぢきなさ卽ち淸淡質素の中にあるのであつて、まあ強ひてこれを俳味といふことも出來よう。
日本の家屋も私は大へん好きである。その原因は食物と同樣、その質素なるに在る。私は曾てかう云つた。私の好きなのはやはりその部屋の手頃なこと、特に簡易生活に便利なことである。又かうも云つておいた。一部屋四疊半の面積は僅か八十一平方尺で、維摩居士の斗室よりなほ二割も狹い。四方の壁はガランとしてゐて、下宿から茶道具だけ貸してもらひ、自分で小机一つ買つて來て窓に据ゑ、あと座布團の二三枚もあれば、結構樂に住める。机に向つて坐り本を讀み字を書けば、前後左右はすべて空地で、自由に書物や紙を置くことが出來、宛ら一大書卓に等しい。來客があれば何處にでも坐れるし、六七人ぐらゐ容れても餘裕綽々である。倦めばそのまゝごろりと横になつて、別にソファーを備へつけることもいらぬ。深夜押入から布團を出して敷けば、それで正式に睡ることになる。昔は日本の書生の引越しといへば、車に積んだ荷物は僅か蒲團と柳行李と小机、それに本箱が加はるくらゐのもので、自分は硝子のランプを下げて車の後からついて行く、そんな圖をよく見たものである。中國の公寓(下宿屋)の住室はみな方丈以上であるが、板の寢臺と卓椅子と、トランクを載せる臺を据ゑると、もういくらも餘地がなく、窮屈な感じを抱かせ、少しも安閑の趣がない。どうも中國の家屋は西洋のそれと同樣、みな華麗なるに宜しく、簡陋なるに宜しくないやうで、一間の家屋を造り上げても、百里を行く者は九十里を半ばとすといふ具合で、相當の器具を備へつけなければ完成したとは云へないのである。ところが日本では土木工事が畢つて、疊を敷き障子を張れば、そのまゝ住むことが出來、それで別に何一つ不足はなく、反つて小ざつぱりとして奧床しく覺えるのである。むかし日向を旅行して、吉松・高鍋等の山村に泊り、宿屋の質素な一室の窓に凭つて山を眺め、急須に茶を入れて來させて飮んだことがあるが、それはこれまで泊つたことのある洋式や中國式のどの旅館よりも氣持がよく、簡單で費用もかゝらなかつた。今思ひ出したが、まことに梁實秋君が云はれたやうに、中國の料理はたしかに外國のそれよりうまいかも知れぬし、中國の長袍や布鞋は外國のそれより具合がいゝかも知れぬ。しかし家屋、少くとも普段に使ふ居間に關しては、私はやはり日本の舊式のそれを最もよいと思つてゐる。蓋し三十餘年來この意見は變らぬのである。
日本の生活のうちの多くの習俗も私の喜ぶところである。卽ち淸潔なこと、禮儀正しいこと、洒脱なことの如きそれである。洒脱なことと禮儀正しいこととは一見衝突するかに思はれるけれども、實は決してさうでない。洒脱は粗暴無禮ではない。それはたゞ宗敎的及び道學的僞善を有せず、淫逸から生ずるところのエセ眞面目を有しないことである。最も顯著な例は裸體に對する態度である。エリス〔Henry Havelock Ellis〕は『聖フランシスその他』(St. Francis and Others)の中でかう云つてゐる。
希臘人は曾て裸體を喜ばぬといふ事を波斯人及びその他の異邦人の一特性と看做した。日本人——時代と風土とを異にした希臘人——も、かの西方の異邦人の淫逸な羞恥の眼が彼等に敎へるまでは、裸體を忌避することに全然考へ及ばなかつた。私達の間では今なほ單に足を露出するだけでも嫌惡すべきことだと考へられてゐる。
私は今裸體を禮讚して凡俗を駭かすつもりはない。たゞ日本の民間の素足の風俗はたしかに極めていゝものだと私は信じてゐる。外に出るときには勿論下駄か草履を穿くが、室内の疊の上では素足のまま歩くといふことは、實際この上もなく健全で且つ美しい事である。私の嫌惡する中國の惡俗の一は女子の纒足である。そのため反動的に素足を讚美するのであつて
兩足白きこと霜の如く、
鴉頭襪〔布、絹、革製の女性用靴下〕を著けず。
の句を思ひ出して、さすがに靑蓮居士(李白)はうれしい人で、中國文人中には滅多に得られぬと思ふ。私はいつもさう思ふのであるが、世界中の履物のうち最も善美なるは希臘古代のサンダラ(Sandala)であり、閑適なるは日本の下駄(Geta)であり、經濟的なるは中國南方の草鞋である、そして皮靴の類はこの數に入らぬのである。凡そこれらは皆その隱さず、飾らず、ひたすらその自然にまかせながら、それでゐて穿き具合もよく見苦しくもないところがよいのである。それとて別に深い意味があるのでもなく、たゞ足その他の身體の一部合に對しては、これを解放する方がこれを束縛し忌み隱すよりも必ず勝つてゐると愚考する。從つて希臘や日本の良風美俗に對して讚美の意を表示し、中華の如かざるところとなさゞるを得ないのである。希臘の古國は恨むらく未だ見るを得ないが、日本ならば幸ひに曾て身ら歴、外出するごとに、別に何の得るところは無くとも、往さ來るさの〔行き来する〕人々のみな平常の人であるのに、今日わが國内の路を歩いていつも經驗するところの、あの見ただけでも胸のわるくなる不愉快きはまるもの——足を裹んだ人の一人だにないのを見て、この一事だけでも大いに嬉しかつたものである。
日本の生活に對する私の愛好は、僅かに東京を以て標準とする。しかし假りにこれが全日本を代表するに足り、土地や時代はいづれも問題にならぬとすれば、そして當時の東京の生活が後の更に西洋化したものに比して、少くとも更に日本的特色を有してゐたとすれば、私の了解するところはたとへ甚だ淺いとしても、とにかく大して間違つてはゐないであらう。だが私の據るところは經驗であつて理論ではない。故に自分の感覺が切實なる根柢となつてゐるとしても、さてこれを口に出して言ふとなると、なか〳〵うまく言へないのである。それに多く主觀に據つたもので、觀察も勿論周密であり得ないのであり、これは實際如何ともすべからざる事なのである。同樣な理由のために、日本の文學藝術に對する私の了解も部分的にすぎぬ。理論の上からならば私といへども知つてゐる。いはゆる日本精神を文學の上に求めようとするには必ず奈良朝から上を以て限りとすべきで、『古事記』と『萬葉集』とはどうしても必讀すべきであること、その次には平安朝にも力を入れねばならぬといふこと、といふのが王朝以後はもはや幕府の文學であつて、その意義は多分いくらか異つて來るからである。だが、それは知つてゐても、さて古典はなか〳〵容易に讀めるものではなく、近代文學のやうな具合に讀んでもサラリとわかるといふわけには行かぬ。ところが近代文學になると、これは社會生活と相連つてゐるから、比較的容易に了解が出來るやうに思はれる。私はほんの少しばかりの東京の事情を知つてゐるだけであり、そのため私の興味を感じてゐるのも、この生活を以て背景としてゐるところの近代の文學と藝術、近いところは明治時代、更に溯ればせい〴〵德川時代までである。民國六年〔一九一七年〕に北京にやつて來てから今日まで二十年の間に涉獵した雜書のうち、一部分は日本に關するものであつたが、それは大抵、俳諧・俳文・雜俳、特に川柳・狂歌・小唄・俗曲・洒落本・滑稽本・小咄即ち落語等であり、別の方面では浮世繪・大津繪及び民藝であつて、殆どすべては民間のもので、私としてはたゞそれらがあまり解りにくくなく、また私の見た生活とも互に發明するところのあるやうなのを選んだまでであつた。私はこのやうに日本を見てゐる。硏究とはいへぬが、自分でも稍得るところがあつたやうな氣もする。私は當時日本を一つの特異な國として見ず、その特に他と同じくないところは努めてこれを去つて、私はひたすらに見て行き、たゞ自分の理解しうるところだけに注意を加へた結果、多くの他と近似した事物をさがし當てた。これはもとより日本の特徴とすることは出來ぬが、しかしこれによつて日本の東亞性をつくづく感じたのであつた。けだし政治状態・家族制度・社會習俗・文字技術の傳統・儒釋思想の交流は、東亞各民族の間に於ては大抵は大同小異であるから、こゝらから着眼して見て行けば、おのづと理解し易いばかりでなく、甚だ有意義でもあると思はれたからである。十七八年前に私が、中國はその獨特の地位上特別に日本を了解する必要と可能とを有する、と云つたのは、卽ちさういつた意味であつたのである。私は昔から同文同種の說は信じない。しかし地理及び歷史の上から西洋人と比較すれば、私達は確かにさうした便利を有してゐるやうに思はれる。これは權利であるが、同時に義務であると言つても何等差支へはない。永井荷風はその著『江戶藝術論』の第一篇『浮世繪の鑑賞』の中でこんなことを云つてゐる。
而して余は今自己の何たるかを反省すれば、予はヴェルハアレン(Verhaeren)の如く白耳義人にあらずして日本人なりき。生れながらにして其の運命と境遇とを異にする東洋人なり。戀愛の至情はいふも更なり〔もとより〕、異性に對する凡ての性欲的感覺を以て社會的最大の罪惡とされたる法律を戴くものたり。泣く兒と地頭には勝つ可からざる事を敎へられたる人間たり。物云へば唇寒きを知る國民たり。ヴェルハアレンを感奮せしめたる生血滴る羊の美肉と芳醇の葡萄酒と逞しき婦女の畫も何かはせん〔新しい芸術美の理解に何の活路も拓かせない社会的桎梏をどうすることもできずに喘いでいる〕。嗚呼余は浮世繪を愛す。苦界十年親の爲に身を賣りたる遊女が繪姿はわれを泣かしむ。竹格子の窓によりてたゞ茫然と流るゝ水を眺むる藝者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麥賣の行燈淋しげに殘る川端の夜景はわれを醉はしむ。雨夜の月に啼く時鳥、時雨に散る秋の木の葉、落花の風にかすれ行く鐘の音、行き暮るゝ山路の雪、およそ果敢なく賴りなく望みなく、この世はたゞ夢とのみ譯もなく嗟嘆せしむるもの悉くわれには親し。われには懷かし。
永井氏の言はうとしてゐることは必ずしも私のそれと全く同じではないかも知れぬ。しかし私はこれを讀んで非常に感動した。思ふに文學や藝術から全東洋人の悲哀を感得するのは、文化研究の正道ではないかも知れぬが、亦きはめて面白い事ではあるまいか? 私は『東京を懷ふ』の一文の中で云つておいたのであるが、今日いかに中國と日本とが敵對的地位に立つてゐようとも、もし一時的關係を離れて永久的性質を論ずるときは、兩者は共に生れながらにして西洋と遙かにその運命と境遇とを異にするところの東洋人なのである。私達は今日、經驗に限られて、なほ世界の事情に通ずることが出來ないかも知れぬが、せめて東洋を知ることが出來ればまあよいとすべきであらう。私達がこれまで自分の才力の及ばぬことも顧みずに日本文化を妄談したのは、實はこの意味に本づくものであつて、己を知り彼を知り以て勝を制せんことを求めようといふのでは決してなく、「吾も爾もなほ彼のごとし」といふ王陽明の言葉に感じたために外ならぬ。けだし彼を知らうと求めることは、とりもなほさず己を知らうと欲するためでもあるからである。
右のやうな意見を相當長い間抱いてゐたのであるが、しかしその後たうとう、これはどうもあまり當てにならぬと悟つた。單に異中に同を求めるのみで、同中に異を求めようとせ限り、單に主觀的にとゞまり客觀的な考察をなさぬ限り、一民族の文化を了解しようと考へるのは恐らく、少くとも徒勞の事であらう。私達が若し日本文化を見て、政治状態・家族制度・社會習俗・文字技術の傳統・儒釋思想の交流等のために、その大同の者を取つてその東亞性なりと認めるならば、こゝに一つの大きな誤謬が生れる。といふのは上に云々したのは實は單に東洋の公産であり、今ではもはや多くの民族の共有となつてゐるものであつて、西洋から見れば無論最も注目すべき事項ではあらうが、東亞人、特に日、華、朝鮮、安南〔ベトナム〕、緬甸〔ミャンマー〕の各國に於て相互に研究しようといふ場合には、最初まづこれらの諸事項を羅列してこれを高閣に束ね、更に大同の中にその小異を求め、或は大異を得るに至つたならば、こゝに始めてその幾分かを了解し得たといへるわけであり、その了解も始めて西洋人より更に一歩を進め得たわけであつて、それこそ貴いといへるのである。私達はこれまで日本文化を觀察する場合、往々にしてその自分と近似してゐるものを取つてこれに鑑賞を加へ、それが單に日本文化中の東洋共有の成分たるにとゞまり、本々その固有の精神の所在ではないといふことを知らなかつた。たゞ自分と近似してゐて理解し易いためにそのまゝこれを取り、これでもう日本文化の要點を了解したと思つてゐた。がこれこそまさしく極めて大きな幻覺であり、最も自らを誤り人を誤り易いものであつた。私は上に日本に對する觀察をいろ〳〵と述べたが、その目的は、實は今日に至つて全部これを抹殺し、私が今まで步いて來た路はすべて誤つてゐたことを説明するために外ならなかつたのである。私の知つてゐるところのものは單なる日本文化中の東亞性の一面にとゞまり、日本の本來の面目のごときは全然曾て知らなかつたといつてよいのである。一國の文化を知らうと欲して、單にこれを文學藝術に求めるのも誤りである、少くとも不充分である。一國の文化に對する解釋は必ず別のあらゆる方面にも當てはめられるべきである。假りにそれが文化の上に當てはまるだけで、その他の事情を説明するのには役に立たぬとすれば、その解釋はもはや確實妥當といふことは出來ぬ。私のこれまでの意見はみなさうした缺點を免れなかつた。そこで私は大いに改正の必要を感じてゐる。日本文化の中、その東洋民族に共有の「同」を忽略に付して〔等閑に付して、なおざりにして〕、その日本民族に特有の「異」——特に中國民族に無いもの、或は少ししかないもの、を求めることを以て標準としなければならぬと思つてゐる。それは何であらうか? 私は知らぬ。だから私には言へぬ。しかし私もいろ〳〵考慮し、それはことによれば宗敎ではあるまいか? と考へてゐる。十分に確定的なことは私にはまだ言へぬが、とにかく信仰上に關して日華兩民族には甚だ大きな差異があるやうに私は思ふ。無論、儒學と佛敎がどちらに於ても流行してゐるとはいへ。中國人にもその信仰はある。たとへば私の鄕里の張老相公〔北宋・張夏が錢塘江の治水に殉じて神格化されたもの〕の渡御だとか、北京の妙峯山の朝頂(山上のお廟に詣り燒香すること)〔道敎で泰山の神である東岳大帝の娘として崇められる碧霞元君(泰山娘娘)を祀る。〕だとか、私はみなよく了解できるやうに思ふ。自分は神滅論者であるにも拘らず、菩薩を拜む善男善女達の氣持はよく理解できるのである。私達の信仰はどうやらすべて功利的であつて、基督敎徒のやうに食事のたびに忘れず感謝することもなければ、巫師の降神の歌舞などもない。けだし中國の民間信仰は大抵低級なものでも、決して熱烈な若しくは神秘的なものではないからである。ところが日本ではさうでないらしい。彼等の崇拜や儀式の中には往々にして神憑り、或は柳田國男氏のいはゆる神人融和の状態が見られる。これは中國では絶えて見られぬものであり、また了解し易くない事でもある。鄙近な例は、たとへば鄕村の神社の渡御である。神輿の中に神體——といつてもそれは決して神樣の像ではなく、石とか木といつた不可思議な代表物、或は見てならぬし又見ることの出來ぬところの別のもの——を入れ、それを十六人以上の若い衆が舁いで行くのであるが、今まで輕かつたものが俄かに重くなつたり、西へ行つてゐたのが急に東に行つたりして、人家の門や塀を突きこはし、或は途中で停つて動かなくなる等、まるで自由意志を有してゐるかのやうである。輿丁〔担ぎ手〕はたゞ蟹の一脚のやうに、無意識に動くだけである。事情にくらい人は或は若い衆連中の自由行動ではないかと疑ひを挾むかも知れぬが、この事柄はどうも說明がしにくく、實際決してそんな簡單なものではないらしい。柳田氏の著『祭禮と世間』の第七節にうまく云つた一段がある。
自分は幸ひにして、もと村童であつた爲に、祭の日に渡御を待ち佗びると云ふ、古風な心持に經驗がある。今年はどういふものか、神輿樣がひどく荒いなどと云ふ時がある。そんな場合には路の辻まで行列は來て居りながら、何時になつても神輿が見えず、見えたと思つてからも、右へ左へ傾きかゝり、之を舁ぐ若い衆の素足がYになり、Xになり、又Wの字に成り、「さす」と稱して屢々手の擧がる限り高く輿を突き揚げることがある。
かういつた類の事柄は中國の神像渡御の場合には絶對にない、少くとも私個人の狹い見聞を以ていへば、みなさうであつた。若しも書物から得た知識をふりまはすことを私達に許されるならば、ことによつたら希臘古代のいはゆる酒神の祭の時の儀式の中に似たやうな處があるかも知れぬ。しかしあの祭典は希臘に於ても末世になつて外部から移入されたものであり、日本の狀態は又これと同じくないのである。日本の上層思想界は中國の儒敎及び印度の佛敎を受け容れ、近くは又西洋の科學を加へた。しかしその民族の根本信仰はやはり本來の神道であつて、知識階級には無論神輿を舁ぐ人々に於ける如き神憑り狀態は見られない。しかし普通の文章の中にも神國とか惟神之道とかいつた文句があつて、私達はいつも見慣れてゐるからこそあたり前のやうに思つてゐるけれども、しかし實は、日本人の了解してゐるやうなその眞意義は私達には到底わからない。この事はどうしてもこれを感情に訴へなければならぬ。論理的解釋のやうなものでは恐らく仕樣あるまい、少くとも役には立たぬだらうと私は考へる。日本を了解するには、どうしても日本人の感情を理解しなければならぬ、そしてその方法は宗敎信仰から入るべきであると私は考へる。惜しいことに私自身信仰うすき者であることを知つてゐるので、宗敎の重要性はよく知つてゐるが、どうも自分には解りかねる。だから入口は認識しながらも、入つて行く希望はないわけである。私はいつもさう考へ、時々日本の友人に向つて言ひもするのであるが、中國人の日本了解を助けるために、日本の神社の祭禮や渡御、各地の廟會即ち縁日の有樣、田舍に於ける中國とちがつたいろ〳〵の宗敎的行事や傳説などに就いて、字と繪を巧みに配列して書いた小册子を澤山編纂印刷したならば、甚だ有意義な事であらう。私達は東洋の藝文を渉獵して、常に禪と關係の深いことを感じ、何とかして少しわかり參考にしたいと考へるのであるが、實はもと〳〵これは思想ではない。禪はたゞ行であつて、論理的に理解し得られるものではない。私達は禪學史を讀み、語錄を讀んでも、結局みな理障に落ちて、禪から遠く離れてしまふ。のみならず普通、文學や藝術の上に表現されてゐるものも、思ふに大抵は老莊思想の一路にとゞまつてゐる。若しも禪といふことになると必ずしも表出し得られない。たとへ表出し得られたとしても、語錄みたやうな具合に、到底わかるものではないのである。かういふ風に云ふならば、圖說も無用になつてしまふ。けだし一民族の宗敎感情を了解しようと欲する場合には、眼學問も耳學問も同樣にあてにならず、どうも經歴と體驗とがない限り駄目らしいからである。私は自分の言ふ所のあまりにも否定的なことを甚だ遺憾に思ふ。だが私は私の日本に對する感想を略述して、また完全にこれを否定し去つたに拘らず、なほ一言、肯定的な言葉を殘してゐる。それは即ち日本を了解するにはその宗敎から手を染めるべきであるといふことである。この言葉は甚だ簡短であるが、しかし極めて誠實な、極めて重要なものである。孔子は曾ていつた、「知れるを知るとなし、知らざるを知らずとせよ、これ知るなり。」〔論語・為政篇〕私は敢て自ら儒家の仲間に阿附加入〔阿諛加担〕するつもりはないけども、こゝでは出來る限り奮發してこれを勉めぬわけには行かぬのである。廿九年〔一九四〇年〕十二月十七日。
附記
去年は恰も日本の紀元二千六百年祭に當つてゐたので、國際文化振興會では紀念論文集の發刊を計畫せられ、地域別に論文を募集した外、更にそれぞれの人々にも文章を書くやうに依頼せられた。同會の北京代理人が私を訪ねて來たのは三月中のことで、原稿の締切は年末といふのであつた。私は後まだ十個月もあるのだし、それに錢稻孫先生も原稿を書くことを承諾せられ、私が若しも書けなかつたら錢先生の一篇でも間に合ふだらうと思つたので、うかうかと承知したのであつた。ところが時といふものは全くあてにならぬ。忽ちいつしか〔早くも〕十二月となつてしまひ、錢先生は紀念祭參加のため東京へ赴かれることになつて、論文は書けぬと云はれ、私はすつかり周章ててしまつた。だが仕方はない。老秀才が歳考〔官立学校の定期試験〕を受ける時のやうな具合に、面の皮を厚くして〔鉄面皮に、臆面もなく〕受けに行く外はない。四等(最下等)になるのはもとより覺悟の前であつた。幸ひにして私は國際文化振興會と約束をきめた際に一つの伏線を張つておいた。即ち如何なる報酬も受けないといふことを條件としておいたのである。その意味はつまり、文章が好く書けなかつたとしても惡く思はないで欲しいといふのである。その上なほ私は、文章が若しもお役に立たぬやうだつたら紙屑籠に投げ入れ下さつてもよい、と確かにことわつておいたつもりである。ところが振興會では快く御採用下さつたばかりでなく、某雜誌に渡してその本年十二月號に譯文を發表されたのであつた。大體私の條件の中にはもう一箇條あつた。それは飜譯せられる際には必ず譯文の原稿を私に見せて欲しいといふのであつた。ところがこんどは一向それが履行せられず、多分振興會か、それでなければ雜誌社で譯されたものであらうか、その爲に不幸にして些か誤譯があつたのである。最も重要なのは最後の一節中、私が、知識階識階級中には無論神馮り狀態は見られないと云つてゐるのが、譯文では見られるとなつてゐて、否定を肯定に譯してゐることである。この間違ひは如何にも滑稽で且つ奇怪である。私はそこでここに原文を發表して、私の言つてゐることが正しいか正しくないかはすべて此を以て標準とし、訛を以て訛を傳へることなきやうに〔間違いをさらに広めることのないように〕希望する次第である。三十年十二月十五日。
譯註