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鴉片(アヘン)事略(じりやく)

古い日記の第二册(さつ)を査(しら)べたら、戊戌(ぼじゆつ)(一八九八)十二月十三日の條に次のやうな記事があつた。

試驗〔著者は会稽郡の童試(県試・府試)を受けていた。〕眞近(まぢか)になつて『思痛記(しつうき)』二卷を購(あがな)ふ。江寧(かうねい)の李圭小池(りけいせうち)〔清・小池は字。「思痛記」は回想録。〕撰(せん)。洋一角(やういつかく)(十錢)。〔洋銀で十分の一元の意。〕

李小池は咸豐(かんぽう)庚申(かうしん)(一八六〇)長髮賊(ちやうはつぞく)に捕(とら)へられ、賊中に在ること凡(およ)そ三十二個月(かげつ)、この書は即ちその時の事を記したもので、耳に聞き目に覩(み)たことを根據(こんきよ)にしたのであるから、甚だ信用してよく、我々は之を讀んで驚駭(おどろき)を禁じ得(え)ない。まことに世にも得難(えがた)き鮮血の書である。私はこの書を讀んでたしか非常に深い印象を受けたらしかつた。民國十九年〔一九三〇年〕八月に至つて再びこの本を取り出して見て、その卷頭(くわんたう)に次のやうな數行の字を題したのであつた。

中國民族にはどうやら嗜殺(しさつ)性といつたものが有るらしい。最近三百年間に於(お)ける張・李・洪・楊(明末の流寇及び清末の長髮賊)〔張献忠・李自成・洪秀全・楊秀清。前二者が流寇、後二者が長髪賊の領袖。〕、乃至(ないし)義和拳(ぎわけん)等の諸事は即ちその明徴(めいちよう)である。書册(しよさつ)に記錄されたのは百の一二にも達しないが、今日これを讀んでもなほ戰慄(せんりつ)を禁じ得ない。私は今日この書を讀み返して、益〻(ますます)その感を深くした。嗚呼(ああ)、後(のち)の人が今日の有樣を視(み)たならば、やはり今日の人が昔を視て感ずるのと同じ感じを抱くのではあるまいか。

李小池はその後外交官となつて西洋に赴(おもむ)き、遊記(いうき)その他の著書があるが、私はまだ見ることを得ない。孫彦清(そんげんせい)〔清・孫徳祖の号〕の『寄龕丙志(きがんへいし)』〔甲乙丙丁の四巻から成る随筆〕卷四に

最近李小池の『遊覽隨筆(いうらんずいひつ)』を讀むに、強水棉花の話が載つてゐる。強水でもつて煉つて作つたもので、乾濕(かんしつ)の二種があり、乾性の方は點火(てんくわ)するとすぐ爆發するが、濕性の方は火の中に置いても二刻(半時間)位は燃えない。電線を通じて之を爆發させるのである。方三寸、厚さ一寸餘、重さは二兩を越えぬものが、百歩も手前から大きな岩を震動せしめて之を粉々にすることが出來るのださうである。

と記してゐるが、これは恐らく棉花(めんくわ)火藥のことであらうか。李小池の著書に又『鴉片事略(アヘンじりやく)』といふのがある。最近北平の市上で一部を手に入れたが、その價(あたひ)は『思痛記』の三十倍にも騰貴(とうき)してゐた。書は凡そ二巻、光緖二十一年(一八九五)刻(こく)、『思痛記』に後(おく)るること十五年であるが、板式が同一である點、甚だ嬉(うれ)しいと思つた。卷首に著書の主旨を說明して曰く

鴉片(アヘン)が中國の底漏(も)る巵(さかづき)であり、人民の鴆毒(ちんどく)であることは、勿論(もちろん)すべての人々のよく知つてゐる所である。しかしながらそれが全國に流行した顛末(てんまつ)、禁令の緩嚴(くわんげん)互ひに用ひられたこと、及びかの英國人が鴉片を賣(う)る爲に戰爭を起し鎭撫(ちんぶ)を乞(こ)ひ、また鴉片を惡(にく)む爲に禁煙會を設け禁煙を勸告(くわんこく)したこと、この三百年來の事實に就いては、必ずしもすべての人々が知つてはゐないのである。そこで私の見聞の及ぶ限りに於いて、或は他の書物から採(と)り、或は新聞雜誌から拔萃(ばつすゐ)し、寄せ集めて此書(このしよ)を成し、附(ふ)するに外國との往來(わうらい)文書を以てして、『鴉片事略』と名づけたのである。

これによつてこの書が鴉片文獻(ぶんけん)の重要資料たるを知り得よう。北平圖書館(としよくわん)で之を飜印(ほんいん)〔翻刻〕したのもその證據(しやうこ)である。しかし私の注意するのはその事だけではなく、むしろ中國人の鴉片に對する態度を見ようと思つたのと、その次に民俗(みんぞく)の資料を少しく〔いささか〕漁(あさ)つてみたかつたまでである。さういつた材料は道光(だうくわう)十八年〔一八三八年〕に湖廣(こくわう)總督(そうとく)林則徐(りんそくじよ)〔字少穆〕が上(たてまつ)つた上奏文(じやうそうぶん)の中に少しばかり見出(みいだ)される。それは鴉片吸食(きふしよく)の道具に關するものである。

抑〻(そもそも)鴉片を吸ふ竹桿(きせる)を「槍(チヤン)」と名づける。その槍の先に鴉片を詰(つ)めて火を點(てん)ずる道具は、これ又粘土を燒(や)いて作らねばならぬ。これを「煙斗(エントウ)」と名づける。凡そ新しい槍や新しい煙斗は口あたりがよくなく、過癮(くわいん)〔十分堪能すること〕しにくい。(定量を吸つてよい氣持になることを過癒といふ)どうしても平生(へいぜい)使ひ慣れて、鴉片の脂(やに)が中にへばり附(つ)いてゐる者でないといけない。だから古いものほど珍重(ちんちよう)するのである。この外細々(こま〴〵)した器具は一として足らぬが、それらはまだ他のものでも代用が出來る。たゞ槍と煙斗だけは代用が利(き)かぬ。ことに斗は槍よりも手放(てばな)し難(がた)いものとされてゐる。

又曰(いは)く、

煙槍(チヤン)は無論竹製が多いが、中には間〻(まま)木を削(けづ)つて作つたのもある。大抵煙袋舗(きせるや)で製するのである。その槍の先を金・銀・銅・錫(すず)で包み、槍の口も金・玉(ぎよく)・角(かく)・象牙(ざうげ)で飾る。また福建や兩廣(りやうくわう)地方〔広東・広西〕には甘蔗(かんしよ)槍といふのがあつて、漆で飾り、この徒輩(やから)が別(べつ)して珍重(ちんちよう)する者であると聞いてゐる。煙斗(きせる)は、廣東(かんとん)製の者では洋磁(エナメル)が上等とされ、内地で製せられる者では宜興燒(ぎこうやき)〔茶器に使う炻器(せっき)〕が最も尊ばれる。幾度も火に當てるので裂(さ)け易(やす)いところから、金銀をかぶせたのもあり、これに七寳(しつぽう)や翡翠(ひすゐ)を配してそれぞれ精巧(せいかう)を極(きは)めてゐる。長く吸ふうちに中が塞(ふさ)がり易いところから、針金を通すのであるが、その道具が又種々樣々(しゆじゆさまざま)である。

大體(だいたい)上奏文の中に詳しい叙述をなすのはたやすくないものであるのに、かくも色々(いろいろ)と書いてあるのは、まことに珍らしい。甘蔗槍といふのは私も小さい時分に見たことがある。煙斗(きせる)や煙籤子(はり)〔阿片をつまみ出したりする針〕にも色々種類がある。これらはすべて實に中國の創造なのである。『鴉片事略』卷上に罌粟(けし)の花についてかう記してゐる。

トルコ及びペルシア産のものは花も子(み)も白いのが多い。インド産には二種あつて、一は花も子(み)も白く、一は花赤く子(み)が黒い。平原地方で栽培するのはみな花の白い方で、ヒマラヤ山から出るのは全部花の赤い方である。フランス人はその子(み)を搾(しぼ)つて油を取り、香りがよいとて頗(すこぶ)る之を愛好してゐる。イギリス人もその汁を藥材として用ひる。インド人はその乾いた塊を餅にして嚼(かぢ)つて食べ、客にも出す。南洋諸島には生(なま)のまま食べる者もある。ベルチスタン以(い)西(いせい)の土人(どじん)の酋長(しうちやう)はみな之を非常に愛好(あいかう)してゐる。やはり生で食ふのである。明末の頃、スマトラ人が生で食つてゐたのを變じて吸食(きふしよく)するやうになつた。その方法は先づ汁を搾つて十分に蒸し、滓(かす)を濾(こ)して再び煮、煙草の粉末と混じて丸め、竹管に詰めて火を點じ、吸つて食ふのである。

又曰く、

康熙(かうき)二十三年〔一六八四年〕海禁弛(ゆる)むや、南洋の鴉片は藥材の中に入り、每斤(きん)稅銀三分(ぶ)を徵收された。當時沿海(えんかい)の居民は南洋の吸食法を得て益〻硏究を積んだ結果、土藥を煮て膏狀(こうじやう)となし、竹を象眼(ざうがん)して作つた煙管(きせる)に之を詰め、煙燈の火を點(てん)じてその煙を吸食するやうになつた。この方法は數年ならずして各省に流行し、煙館を開いて鴉片を賣るものさへ出づるに至つた。

私は曾て鴉片煙のさうした吸食法は中國で發明されたものだと聽いてゐたが、今すでに文獻(ぶんけん)的證明を得たわけである。煙具の美術工藝は附屬(ふぞく)的地位に在るとはいへ、その成績も大いに見るべきものがあつたのである。

中國人の鴉片煙に對する態度はどのやうであらうか? 人民はどうやら吸はなくてはいけないといつた風(ふう)であるし、これに對して官廳側(くわんちやうがわ)では、時には吸ふことを許さなかつたり、時には吸ふことを許したりしてゐる。即ち所謂(いはゆる)「禁令の緩嚴互ひに用ひられ」てゐるのである。雍正(ようぜい)年間の變法(へんぽふ)では、

鴉片煙を販賣(はんばい)したる者は、違禁貨物收買の法例に照(てら)し、枷(かせ)一個月(いつかげつ)、近邊(きんぺん)に追放(ついはう)して軍役(ぐんえき)に充當(じゆうたう)せしむ。私(ひそ)かに鴉片煙館を開きて良家(りやうけ)の子弟(してい)を引誘したる者は、邪教(じやけう)を以て民衆を惑はせる律例に照して、絞首罪(かうしゆざい)に擬し入牢(じゆらう)せしむ。

となつて居(を)り、吸食者には關係がない。それが嘉慶(かけい)年間には次のやうに改正された。

煙館を開きたる者は絞首に議(ぎ)す。販賣(はんばい)せる者は軍役(ぐんえき)に充當(じうたう)せしむ。吸食者は杖徒(ぢやうと)〔杖刑、徒刑〕に處(しよ)す。

道光年間に到つて嚴禁(げんきん)すべしとの議あり、十九年五月、三十九個條(かでう)の法規が定められた。その中に

とあるが、三年後南京(なんきん)條約締結(ていけつ)せられ、香港(ホンコン)を割讓(かつじやう)し、五港を開いて通商することになつたので、鴉片煙の禁は再び弛(ゆる)んで戊戌(ぼじゆつ)〔一八九八年〕に至つたのである。『事略』の卷末に禁煙の前途(ぜんと)を論じて曰く、

今日印度(インド)がたとへ禁を欲せぬとしても、風會(ふうくわい)〔時勢、時運〕の至る所、人力の能(よ)く强(し)ひるものではない。必ずや之を禁ずる日が來るであらう。之を禁ずるには又必ずや罌粟(けし)の代りに茶を栽培することから始まるであらう。中國產の鴉片に既に稅銀が徵收されてゐるのは、つまり罌粟栽培の禁令が大いに弛(ゆる)められたことを示すものであるから、民間に於ける罌粟の栽培は必ずやこの爲(ため)に漸次(ぜんじ)擴張(くわくちやう)せられ、或は茶の代りに全部罌粟を栽培するやうになつて、數十年後には中國に或は茶を作る場所が無くなつてしまふかも知れぬ。ところで印度では廣く茶を栽培してゐるのであるから、中國には外國へ輸出すべき茶が無く、印度亦中國へ輸出すべき鴉片が無いことになる。かくて底漏る巵(さかづき)は塞(ふさ)がれる。利源は涸(か)れてしまふ。しかも民間の嗜食者(ししよくしや)も亦必ずや、あたかも煙草(たばこ)が人々の習性となつて離せないのと同樣なのであるから、さうなればつまり禁ぜずして禁じ、弛めて弛めないのと結局同じことになる。

この一節の文章を私は幾度か繰り返し讀んだけれども、その意味を十分に了解(れうかい)することが出來なかつた。諷刺に似、慨歎に似、要するに少からぬユーモア味を含み、しかも亦實によく事實にも合してをり、又先見(せんけん)の明(めい)ありと謂ふべきである。今日鴉片はもはや「洋藥」(舶來の藥)とは呼ばれずに、「土藥」(國産の藥)といはれてをり、店で吸食する場合には「試藥」といふ。もはや煙草と同じく國貨(こくくわ)と成つたわけである。中國で自ら罌粟を作り、印度でも自ら茶を出すやうになつたのは、正に彼の言つた通りである。とすれば鴉片煙の中國に於ける、恐らく「今日只今(こんにちただいま)」を以て理想の極致(きよくち)に在ると申してよいのではなからうか。

一八七五年ロンドンの鴉片禁止勸告會(くわんこくくわい)が議院に對して、印度をして罌粟の栽培を漸減(ぜんげん)せしむるやう要請(えうせい)した時、議院は四個條の批覆(ひふく)〔批准〕をなした。その初の二個條といふのは、

鴉片は東方人の性情の好む所のものであり、日常の必需品(ひつじゆひん)である。これが一である。華人(くわじん)自ら甘(あま)んじて〔満足して〕吸食してゐるのである。英國として何の咎(とが)があらうか。これが二である。

といふのであつた。道光十六年〔一八三六年〕、太常寺(たいじやうじ)少卿(せうけい)許乃濟(きよだいせい)は鴉片の禁を弛めんことを獻議(けんぎ)して、その中にかう云つてゐる。

要するに鴉片を吸食する者は、大率(おほむね)浮惰にして志無く、輕重するに足らざる輩(やから)である。

かうした言葉はどれも多少片寄(かたよ)つた無茶(むちや)な云ひ方のやうであるが、實は確かに眞情を穿(うが)つてゐると思はれる。少くも私個人から見ればさうである。去年の四月、私は『運命に關して』といふ文章を書いたが、その最後にこの問題に就いて語つた一節があつた。私は云つた。

第一に、中國人はたしか〔に〕特別に一種の麻醉(ますい)享受(きやうじゆ)性といつたものを有する。即ち俗(ぞく)に云ふ嗜好(しかう)である。第二に、中國人は金持は暇(ひま)で退屈してゐるし、貧乏人は苦しくて堪(たま)らぬものだから、麻醉によつて暇潰(ひまつぶ)しをするのである。友達がすすめて呉(く)れるし、ごく簡單に買ふことが出來るものだから、麻醉によつて遊ぶのである。衞生設備は良くなく、病氣になつても醫藥は備(そなは)つて居(を)らぬし、治療の方法が無いから、麻醉によつて一時凌(しの)ぎをやるのである。かくして中毒患者になる。法律が寛大であれば蔓延(まんえん)し、法律が嚴重だと悉(ことごと)く誅罰(ちゆうばつ)を受ける。かういふ事が外國或は他の殖民地(しよくみんち)に見られぬのは、正にかうした性癖(せいへき)と環境とが他處(よそ)には無いものであるからだ。私が麻醉享受性と云つたのは、たしかに杜撰(ずさん)で、造語として熟してをらぬ嫌ひがあると云はれても、それは仕方ないが、全く根據(こんきよ)の無いことでもないのであつて、昔からある所の、呪(まじな)ひを念(とな)へること、符(ふ)を畫(ゑが)くこと、經を讀むこと、字を書いた紙屑(かみくづ)を大事にすること、皮黄(しばゐ)の文句を唱(うた)ふこと、八股文(はつこぶん)を作ること、口號(スローガン)を叫ぶこと、標語(ポスター)を貼ること、等々は悉(ことごと)くさうである。或は意を以てし、或は書畫(しよぐわ)を以てし、或は音聲(おんせい)を以てする相異(さうい)はあるにしても、均(ひと)しく自己麻醉なのである。さうして藥劑を以てする時はつまり他力麻醉といふわけである。

私はこの文章を書いた時、性急(せいきふ)な友人(左翼の人々を指していふ)からひどく罵倒(ばたう)されたのであつた。しかし仔細(しさい)に考察しても、やはり私の説に易(か)へるものはない。面倒(めんだう)を避け人の氣を安(やす)める爲に、口號と標語の二項(かう)だけは刪除(さんぢよ)したとしても、鴉片に關しての云ひ方は依然(いぜん)として殘るわけである。許君(きよくん)の所説に至つては、自分も同樣な意見を抱(いだ)いてゐる。〔著者が何度か考えたとした「禁煙の前途」に関する文章を指す。〕たゞ以前は友人に語つただけで、一度も發表(はつぺう)はしたことがなかつた。尤(もつと)も、ここにも同じくない點がある。「鴉片吸食者はみな浮惰(ふだ)にして志無く、輕重するに足らざる輩であるからして、彼等(かれら)がいくらどろ〳〵になつて麻醉の果(はて)、死んでしまつても大いに結構(けつかう)だ。社會の仕事は、鴉片を吸はぬ人々でもつて全部引受けてやる。一寸(ちよつと)ばかり各自の分擔(ぶんたん)を增しさへすれば、十分やつて行ける。」と、許君はたゞさう云ふだけである。しかし私の見方によれば、麻醉の範圍(はんゐ)がもつと廣(ひろ)いのである。「准(じゆん)」鴉片吸食者の數がちと多すぎる嫌ひはあるが、これは全(まつた)く仕方がない。「眞正」鴉片吸食者に對してだけでも從來(じゆうらい)始末がつかなかつたのであるから、況(いは)んやこの上に准吸食者が加はつたのでは尙更(なほさら)の事であらう。やはり彼等の好きなだけ「過癮(くわいん)」させるの外(ほか)は多分あるまいと私には思はれる。ここまで書いて始めて私は李小池が眞に見識(けんしき)を有してゐたことを知つた。〔著者一流のイロニー〕私は彼の『思痛記』を讀んで四十年にもならうといふのに、なほ曾(かつ)て忘れ得(え)なかつた。こんど又『鴉片事略』を讀んだが、ことによれば私は更にこのさき四十年間これを記憶させられることになるかも知れぬのである。廿五年四月九日、北平にて。

附記

右の文章を書いて間もなく、『實報(じつぽふ)』〔一九二八年、北京創刊の新聞〕紙上に王柱宇(わうちゆうう)先生の文章二篇(へん)を見たが、それはいづれも價値(かち)のあるものであつた。十一日の一篇は鴉片の道具に就いて語つたもので、私の知らぬことが澤山(たくさん)あつた。十日の文章は『土藥店一瞥(いちべつ)』と題し、北平櫻桃斜街(おうたうしやがい)〔路地の名〕の鴉片煙店の有樣を記したもので、一層貴重な資料であつた。今その一部分を左(さ)に抄録(せふろく)すれば、

私が帳場(ちやうば)の方へ向(むか)つて、「番頭(ばんたう)さん今日は。」と聲(こゑ)を掛(か)けると、番頭は「何をお買ひになります?」と聞いたので、「一寸(ちよつと)お訊(たづ)ねしたいんだがね。僕は鴉片を買ひたいんだ。登記した證明書も持たないんだけれど、いいかね?」と云ふと、「お金さへお出し下さればお賣(う)りします。證明書はいりません。私ところで〔弊店で〕お買ひになつた鴉片は、包紙(つつみがみ)にお役所で發行された印紙が貼つてございます。その印紙には蛇と虎の印刷がありまして、包紙の四隅(しぐう)に毒蛇猛虎の四字(よじ)が印刷してあります。これは官貨(くわんくわ)であつて密賣品(みつばいひん)でないといふ意味を表はしたものです。」と云つた。その後で番頭は又つけ加へた。「若(も)しここでお吸(す)ひになりたければ、奥にお部屋がございます。お一人前二十錢(せん)でございます。」

これが同紙に記された「試藥(しやく)」なのである。私の郷里の俗語で「開煙盤」といふのがこれである。王先生はその有樣を記して曰く、

階上(かいじやう)階下(かいか)に部屋(へや)がかれこれ五六間(ま)あつて、旅館とよく似てゐた。私は方々の部屋を一通(ひととほ)り見てまはつたが、部屋によつて炕(カン)が二つあるのと三つあるのとあつた。一つの炕に枕が二つ並べてあつた。枕一つについて一人前の勘定(かんぢやう)になるのだ。かういふ所は澡堂(ふろや)〔銭湯〕の雅座(がざ)(特別室)と同樣(どうやう)である。たゞ枕は白いが、蒲團(ふとん)は藍色(あゐいろ)だつた。

この筆者が私達に澤山の事を知らせてくれたことを私は心から感謝したい。特に私として忘れられぬのは、あの毒蛇と猛虎の印紙である。本當(ほんたう)に一枚手に入れたいものだと思ふ。多分これは二元四角(にげんしかく)(二圓四十錢)出して一兩の綏遠(すいゑん)鴉片〔内蒙古綏遠地区で栽培される阿片〕を買ひに行かぬ限り駄目だらう。それだけの代價(だいか)を出しただけの値打(ねうち)はたしかにある。尤(もつと)もその一兩の煙土は始末(しまつ)がつくまいから、一寸困(こま)りものだらうが。四月十二日記す。

補記

來薫閣(らいくんかく)書店〔北京琉璃廠の古書店〕から李小池著『環游地球新録(くわんいうちきゆうしんろく)』四卷〔李圭の紀行文。一八七八年刊。〕を購(あがな)つた。蓋し光緒丙子(へいし)(一八七六)米國フィラデルフィア市の博覽會(はくらんくわい)を視察(しさつ)に行つた時の記錄で、『美會略記(びくわいりやくき)』一卷、『游覽隨筆』二卷、『東行日記』一卷から成る。自序(じじよ)によれば嘗(かつ)て浙海關〔浙江海関。清朝の四大税関の一つ。〕の書記を勤むること十有餘年、德君(案ずるに稅務司德璀琳(デツトリング))〔Gustav von Detring〕と並々ならぬ知己となり、かくて赫公(かくこう)(案ずるに總稅務司赫德(ハート))〔Robert Hart〕の推薦によつて博覽會に派遣(はけん)されたのである。『思痛記』を見ると、長髮賊の軍中に陷(おちい)ること凡そ三十二個月、壬戌(じんじゆつ)(一八六二)の秋に至つて始めて脫することが出來てゐる。多分その後すぐ海關に勤務するやうになつたのであらう。『思痛記』は光緒六年の刊行であるから、『新錄』の出版よりも尙(なほ)二年後のわけである。上文に引いた强水棉花は『游覽隨筆』下、英國倫敦(ロンドン)市の篇中に見え、蓋し塢里治(ウールウイツチ)軍器局〔Woolwich Arsenal。王立造兵廠〕に於ける所見を記したものである。篇史又タイムス新聞社に行つた時の非常に詳しい記事があるが、その結論に曰く、

西洋人が新聞社を設(まう)けてゐるのを見て、私は竊(ひそ)かにさう考へた。彼等は天下の事を悉(ことごと)く知らうと思つてゐる。たしかに人は天下の事を知つて而(しか)る後(のち)始めて天下の事を處(しよ)することが出來るのだ。この新聞社は誠(まこと)に無益のわざとは云へぬ、否々(いやいや)、その益(えき)たるや實に少くない。

李君は思想通達(つうたつ)、その新聞紙を推重(すいちよう)したのは蓋し黄公度〔黄遵憲〕より更に早かつたのである。もつとも、その後世間では專(もつぱ)ら宣傳(せんでん)を尙(たつと)び、その結果、新聞を讀めば讀むほど反つて天下の事情がわからないやうになつてしまつた。そんな事はこれら先哲(せんてつ)の思ひ及ぶ所ではなかつたのである。又『東行日記』五月一日横濱(よこはま)に於(お)ける記事に曰く、

洋行(やうかう)〔外国の商社〕が大小數十軒(すうじつけん)あつて、色々の商品が山積(さんせき)してゐた。輸入は洋品が多く、輸出は銅・漆器(しつき)・茶・骨董品(こつとうひん)が多い。しがし中華に於ける沙遜(サツスーン)洋行(原註、サッスーンは英國の巨商、專ら洋藥(アヘン)を販(さば)く)〔David Sassoon & Co.〕のやうな洋藥輸出入商はゐないのである。蓋し日本では鴉片の禁令極めて嚴しく、吸食者は直ちに重刑に處せられる爲、國人はみな禁を犯さうとせぬのである。之を齊(ととの)ふるに刑を以てしてゐるとはいへ、法一(いつ)にして民從(したが)へること見るべきである。惜しいかなわが中華、そも何時(いつ)になればこの毒焔(どくえん)は消えるのであらうか。

これ亦(また)慨歎(がいたん)の言である。五月四日補記。

(譯者曰く、李小池に就いては後章『入都日記』參照(さんせう)。なほ譯者は嘗て『思痛記』の邦譯(はうやく)を『中國文學』誌上に四號(がう)に亙(わた)つて發表した。『鴉片事略』の邦譯も企(くはだ)ててゐるが、この方は未(いま)だ果(はた)してゐない。)