結縁豆
四鳴蟬
近代日本の文學作品中、本國人の手で漢文に飜譯せられ、木刻で出版された者は、江戸時代の中期に於いては多分さう少くはなかつたらうと思はれる。私が北京で見たのだけでも三種からある。その一は『艶歌選』である。民國十四年〔一九二五〕の春に書いた『茶話』〔周作人『自分の畑(自己的園地)』に「茶話」23編を収録。〕の中の第六則は即ちこの書物を紹介したものである。その大略を抄録すれば、
『艶歌選』初編一卷、烏有子著、日本安永五年(一七七六)刻板〔狂詩集〕。現に東京上野圖書館に藏し、原書は未だ見ることを得ない。僅かにその一部分の拔萃が湯朝竹山人〔湯浅観明〕の編せる『小唄選』〔阿蘭陀書房(一九一六)、千山閣書店(一九二一)〕の中に收められてゐる。都合〔合計〕二十六首、その後に漢譯を加へてある。卷首の憑虚氏〔浅野憑虚。筆名は「憑虚御風」に基づく。〕の漢文の序にかう云つてゐる。
「烏有先生嘗て酒肆に游び、妓の歌を聞く每に、便ち筆を援りて之を詩にし、章を斷り句を別ち、縱橫變化し、翻し得て妙なり矣〔上手に翻案した。〕。」
又「例言」の二に云ふ、
「里巷の歌謠は、率ね流俗兒女の口に出づ、而して之を翻し以て詩と成せば、自ら渾雅なるを得ず矣、間〻亦た翻し難きを翻する者有り、殆ど牽强を免れず焉。總べて是れ杯酒の餘興、聊か自ら玩ぶ耳。而るに或る人世に刊行す、蓋し幼學の徒をして悦んで之を誦し、習熟通曉して、乃ち詩道に至らしめんと欲すれば也。固より近時狡兒の輩〔浅知恵の奴ら〕がごとく、侏離の言〔侏離鴃舌。舌足らずでわけのわからない文言。〕を、自ら以て詩と爲し文と爲して、これを梨棗に鍥みしもの〔出版物〕に非ず。但〻和俗の顧笑に供するのみ〔日本人のお慰みにものするにすぎない〕。假りに華人をして之を見しめば、則ち何の言もて比するやを知らざる也。世人幸ひに焉を詳かにせよ。」
彼の譯詩はこれによつてもあまり信用できぬことがわかる。だが中には幾首か實際惡くない譯もある。たゞ彼は絶句と子夜歌〔楽府の恋愛詩〕を學んだ人である爲、その好さも漢詩の好さたるにとゞまり、日本俗歌の味に至つては殆ど失はれてしまつてゐる。
あの時は例として九首ほど轉錄しておいたが、今その一を引用すれば、
郎が意、妾を迎へんと欲す、
妾が身、那ぞ行くことを得ん、
行程五百里、
風浪轉た相驚く。(原文「來いといふとて行かるる道かみちは五十里なみのうへ」)
その二は『海外奇談』〔文化15年(一八一八)〕である。この書は一名『日本忠臣庫』といひ、『假名手本忠臣藏』の譯本であつて、「清、鴻濛陳人重譯」と題してゐる。その序に云ふ、
鴻蒙子嘗て市を閲して奇書を獲たり、題して『忠臣庫』と曰ふ。之を披けば則ち稗史の筆蹟にして、海外報讎の事を錄せり。謂ふに好事家が異域の俳優の戲書を譯せるなり。惜しい哉、その文鄙俚錯誤、讀む可からざる者あり。是を以て卓老(李卓吾)の『水滸』の蹟を追ひて、潤色訂補し、以て游宴の談柄に備ふる焉耳。
後の方に乾隆五十九年と署してある。即ち一七九四年である。しかしその後翻刻本も出來たので、私の持つてゐるのは明治の印本なのでゐるのは明治の時の印本なのである。『假名手本忠臣藏』は竹田出雲等の作で、元祿十五年〔一七〇二〕赤穗四十七義士の仇討の話を仕組んだもの。鹽冶判官が無實の罪によつて死んだので、家臣大星由良之助等が共々に仇の高師直を討つという筋で、同類の義士劇中の代表作とされ、初めて上演せられて以來今に至るまで三百年に垂んとするのになほ絶えない。これは淨琉璃體で、語りつゝ演ずるものである。全て十一段から成つてゐるのを、譯本では改めて十回となし、しかも演義の體裁に作り換へてゐる。文氣は十分に通暢といふわけにはいかぬにしても、中々よく模倣してあり、明清小説から取つて使つた語の中にも非常にうまいのがある。大抵最も難しいのは適當に辻褄を合はせることであらう。『忠臣藏』は元來が音曲なのである。それを小説に改めるとすれば、單に話の筋を殘すだけとなり、原文の藻飾は失はれてしまふ。それはちやうど沙翁〔シェイクスピア〕の喜劇が一變して『吟邊燕語』となつてしまつたやうなもので、その得失も自ら見易いであらう。
その三は『四鳴蝉』である。これこそ語らうと思つてゐる本題なわけだが、實はいくらも語ることはなく、ほんの梗槪〔あらすじ〕を話すだけなのである。この書は一册、明和八年(一七七一)刊「亭亭亭逸人譯、堂堂堂主人訓」〔都賀庭鐘〕と題す。その時は乾隆三十六年に當り、法梧門(式善)〔清・法式善〕が正に十九歲にして、第二名を以て入學した〔紫禁城内にある咸安宮官学に第二位の席次で入学した意。〕と云ふ年だ。堂堂堂の序文があつて、自ら白虎居士と稱してゐる。印文二つ、姓不唐といひ、似園芙蓉といふ。亭亭亭の書いた『塡詞引』〔作詞概説〕といふ解説は、日本の詞曲の種類を説明したものである。書中凡そ譯文四篇を收めてゐる。原書の目錄に依つて分記すれば左の通りである。
- 一、雅樂 惜花記〔能・熊野の翻案〕
- 二、同 扇芝記〔能・頼政の翻案〕
- 三、俗劇 移松記〔近松の世話浄瑠璃「山崎与次兵衛寿門松」の翻案〕
- 四、傀儡 㬢鎧記〔初代竹田出雲・文耕堂の人形浄瑠璃「大塔宮曦鎧」の翻案〕
首葉〔第一頁〕欄外に「才子刊書」と横に題し〔叢書名のように書いてある。〕、卷中各篇の起首欄外にはそれぞれ「才子刊書一百十七」乃至「一百二十」と題してある。〔リスト一がシリーズ第一一七冊目という風に読める。〕案ずるに序文の終りの方に
才子を標せるは、聊かその奇を取れる也。刊書にして刊せず、多言は無益なり、鳴蜩と何ぞ異らん。その篇を數ふれば四。題して『四鳴蟬』と曰ふ也。是れを之れ取れる爾。〔題意はこれだけのことにすぎない。〕
とあり、書名を説明して頗る面白い。唯〻いはゆる刊書は畢竟〔結局、とどのつまり〕どうなつたのであらうか。百二十のうち僅かにこの四つを刊するに止つたのであらうか。惜しむらく考究のしやうがない。
ここにいふ雅樂とは卽ち能樂のことであり、その詞は之を謠曲といふ。收めてある二篇はみな世阿彌元清の作、時は日本の吉野朝、西暦十四世紀に當る。『惜花記』の原名は『熊野』、また『湯屋』にも作る。譯文では音を寫して「瑜耶」としてある。これは劇中の女主人公の名である。熊野はもと遠江池田の宿の遊女の長であつたが、平宗盛に寵せられて京都に召し出される。母病むと聞き歸省を願ひ出たが許されず、無理やりに花見のお供を命ぜられ、觀音の力によつて、宗盛をして歌を讀んで〔歌を詠んで宗盛をして〕感悟せしめ、つひに東に歸ることが出來る。そのとき熊野が詠んだ歌は、譯本では
何棄錦城如繍春 又惜鄕里園花散
となつてゐる。(原歌は、「いかにせん都の春も惜しけれどなれし東の花や散るらん」)『惜花記』といふ改題は即ちここから出てゐるのである。
『扇芝記』は原名『頼政』、これも主人公の名である。これは二場に分れ、第一場では旅僧が宇治の里にやつて來たのを、老人に化した源頼政の幽靈が方々を案内して平等院に至り、靑草が扇の形に取り殘されてゐるのを見て、僧の爲に過去の因緣を語つて聞かせる。賴政合戰に打ち負け、この處の草の上に扇を敷き自害して果てた。さればその紀念の爲に、今に扇のなり〔形〕に草を取り殘してあると云ふのである。日本では芝をシバと讀む。即ち靑草のことである。第二場では賴政が僧の夢の中に姿を現はし、當年討死した時の有樣を語るのである。能樂は多くは二場から成り、シテが中入して衣裳を更へる間に、一二人に扮した狂言方が入替つて一寸したセリフをやりとりする。多くは打諢〔茶利。道化。〕に近く、舞臺を空虛にさせない爲である。この脚色を「間」と稱する。即ち中間の意である。普通の本では謠の詞だけを列ねてあるに止まるが、この本には間狂言まで併せ存してゐる。『熊野』は一場だけだけれども、破の前後場の間に、亦一段あるのである。これが亦頗る面白い。「引言」〔前置き〕の中に云ふ、
小收〔小劇〕は前後に分つ、詞曲なり。男優あり、女優あり、動もすれば淫態褻語あり、大いに申樂の嚴正且つ雅馴なるに似ず。
これは即ち間の曲を言つたのである。申樂といふのは卽ち猿樂のことで、謠曲の能樂を謂ふのである。『熊野』の間は使女〔侍女〕夕顏と僕人〔下僕〕劒持太郎、『頼政』のそれでは土民朽松である。演ずることは本文と多かれ少かれ關係がある。しかしその風趣は狂言と甚だよく似てゐる。
以上二篇は全文を譯したものであるが、後の二篇はたゞその中の一段だけの譯である。『移松記』の原名は『山崎與次兵衞壽の門松』、近松巣林子〔近松門左衛門〕作の淨琉璃人形劇本の一であり、後に宮古路半中によつて歌舞伎に作り直して用ひられ、『山崎與次兵衞半中節』と稱した。漢譯は即ちその本を以て依據としたから、「俗劇」と標題を打つたわけである。劇の筋は與次兵衞、名妓吾妻と深くなり、中ごろ患難を經て、吾妻はこれと駈落する。而して與次兵衞は發狂して各地を流浪し、その後侠氣〔男伊達〕ある友人の援助によつて晴れて夫婦となることが出來、病氣恢復する。譯本に收められてゐるのは「物狂道行」の一段であつて、即ち二人連れ立つて旅をする事を敍べたものである。
『曦鎧記』は原名『大塔宮曦鎧』、竹田出雲作の淨琉璃〔ママ〕劇本で、人形芝居に用ひられる者、もと五卷あるが、今ここに收められてゐるのは卷三の中の「身代り音頭」の一段で、最も有名な部分である。劇の筋は北條氏が廢立を欲して齋藤太郎左衞門に言ひふくめ王子を襲ひ殺させようとするので、永井宣明は王子が子供達と歌をうたつて舞つてゐる時を見はからつて斬つたがよいと建言し、密かに妻と謀つてその子の鶴千代を身替りに立てる。ところが齋藤が斬つたのを視ると別の子供であつた。そこで宣明が訝んでたづねると、それこそ土岐賴員の子で、齋藤の孫に當るものであつたことがわかる。「身代り音頭」はつまりそれを指す。譯本では「替身踊場」となつてゐるが、どうもぴつたりとは中々行きかねる。齋藤は王室に對して忠義を盡すが、身は北條氏の家來である爲、合戰に敗れるや亦自害して殉ずる云々。戲曲の筋といふものは簡單に書けば要領を得にくいし、詳しく陳べたてると煩雜になり易い。今はなるべく簡略にしたが、それでも言葉數の多い割に意味はなほよく屆かぬやうに思はれる。やれやれである。
以上四篇の内容を統觀するに、譯本の選擇は甚だ道理に合ひ、また甚だ適當でもあると云はざるを得ない。『熊野』は謠曲中の鬘物(女劇)で艶麗の中に悲哀の氣味を含んでゐる。『賴政』は修羅物(戰鬪劇)であつて、行脚僧が幽靈の化身に遇ひ、後に又その幽靈が元の姿を現はして身の上を語り、佛法に結縁得度するといふ、最も型通りの結構〔構成〕である。しかも頼政は忠勇風雅の武將であつて、普通の幽靈と異ふ。劇中に表はされてゐる者は志士の遺恨は有るも修羅の煩惱は無い。そこに自らその特色があるわけである。『壽の門松』はもと淨瑠璃の世話物(社會劇)で、大抵は戀愛によつて葛藤となり、死を以て終るのであるが、この劇は團圓である。これは極めて稀な例である。「道行」の一段は劇中でも一番の見場で、即ち道を行く時の歌である。『蟻鎧』は時代物(歷史劇)であつて、齋藤は忠義の士、而も鐵石心腸人情はすでに燒き鍛へられて殆ど盡きんとし、剛毅なる武士の代表である。身替りの場はやはり劇中の代表であつて、その簡要にして力ある點は、或は一部の『忠臣藏』にも匹敵し得るかと思はれる。ところで選擇は好かつたが、飜譯となるとこれは又容易でない。我々傍觀者に勝手な熱を吹く〔気焔を上げる〕ことが許されるならば、『曦鎧記』は絶對に飜譯不可能である。古人はすでに「虎を畫いて成らず反つて狗に類す」と云つてゐるのである。『移松』と『扇芝』とは之に次ぐ。さうして『惜花』は割に何とかやり易い。といふのが他に較べて情趣を傳へることが出來るからである。最後の熊野が首途に臨んで唱ふ數語は譯文では
明日回頭京山遠、北雁背花向越返、俺便指東去、長袖翻東無餘言。
(原文、「明け行く跡の山見えて、花を見すつる雁のそれは越路、我はまた東に歸る名殘かな〳〵。」)
となつてゐる。これは一例とすることが出來る。だがこのうち最も好く譯されてゐるのは、やはり二篇の謠曲の「間」の部分である。恐らくこれは散文である爲に割に譯し易いのとそれに人を動がし易い所の詼諧的な詞であるからではあるまいか。嘗て人からシエイクスピアの戲曲は極めて佳いものだと聞かされて、一二の漢譯本を讀んだところが、どうも一向に佳くはなかつた。これによつてもこの仕事の並々ならぬ難しさがわかる。自分は手を出してやらうとしないでゐて、勝手放題な批評を下してよからうか。まして況んやこれは日本人が外國文を用ひて書いた者なのである。私のこの文章は、もと〳〵この書を紹介するのを目的としたもので、偶〻批評めいたことを言つたとしても、それはたゞ筆鋒のついでに及んだまでであつて、私の本意ではないのである。讀者之を諒せよ。廿九年〔一九四〇年〕十一月七日。
譯註