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日本雜事(ざつじ)詩

今年の舊正月(きうしやうぐわつ)の琉璃廠(リウリーチヤン)〔北平(北京)の書画骨董の商店街〕の市(いち)に私はたうとう三度も行つたが、手に入れたのはどれもこれも取りとめもない端本(はほん)ばかりであつた。しかしその中には私の嬉(うれ)しく思つたのもあつた。『日本雜事詩』二種の如(ごと)きはその一である。黄公度(くわうこうど)〔黄遵憲〕の著作で最も有名なのは『人境廬(じんきやうろ)詩草(しさう)』十一卷である。辛亥(しんがい)の年(光緖(くわうしよ)末年)梁任公(りやうじんこう)〔梁啓超〕が日本に於(お)いて印刷に付した原本は今日稀覯(きこう)〔滅多に出合えないもの〕であるが、近年北平(ほくへい)から重校(ぢゆうかう)印本が出た。その次には『日本國志』四十卷で、浙江(せつかう)刻板(こくはん)が今なほ存(そん)してゐる。この二卷の『日本雜事詩』は今日では大して流行(はや)らぬけれども、當時に於いて甚だ人人に珍重(ちんちよう)されたことは、その板本(はんぽん)の多いことを見てもわからう。私が去年の琉璃廠の正月市で買つた一種は、光緒十一年十月の梧州(ごしう)刻本で、黄君の新序がある。今年手に入れた中の一つは天南遯窟(てんなんとんくつ)(王韜(わうたう)の印刷所)活字板本で、「光緒五年季冬(きとう)印行」と題してあるが、前にある王韜の序には「光緒六年二月朔日(さくじつ)」とある。これによつて翌年の春に始めて出版されたものなることを知り得(う)る。もう一つは光緒廿四年(にじふよねん)の長沙(ちやうさ)刻本で、十六年七月の自序(じじよ)があり、末尾に戊戍(ぼじゆつ)四月の跋(ばつ)が附(ふ)されてゐる。王韜の『扶桑遊記(ふさういうき)』中卷、光緒五年四月二十二日の條(でう)、余元眉(よげんび)中翰(ちゆうかん)〔中翰は文書官〕に宛(あ)てた書簡(又『弢園尺牘(たうゑんせきとく)』〔王韜の書簡集〕卷十二にも見える)の中に

此地(このち)の黃公度參賛(さんさん)〔参事官〕『日本雜事詩』を撰(せん)せられ、不日(ふじつ)〔まもなく〕これを手民(しゆみん)〔出版業者、剞劂氏〕に付する手筈(てはづ)と相成(あひな)り居(を)り候(さうらふ)。これまた游宦(いうくわん)中の一佳話(いちかわ)と存(ぞん)ぜられ候。

と云つてゐる。又『雜事詩序』に云ふ、

余が出發(しゆつぱつ)せんとする時に、この書を出して余に示された。余はしまひまで讀んでしまはぬうちに、一再(いつさい)ならず膝(ひざ)を叩(たた)いて、これは必ず後世(こうせい)に傳(つた)はる作である、是非(ぜひ)とも早速(さつそく)手民に付(ふ)して欲(ほ)しい、世人(せじん)は必ずや先を爭(あらそ)つて見んことを願ふであらうと激賞(げきしやう)し、そこで公度に向(むか)つて早速余の處の活字板で排印(はいいん)〔組版印刷〕させて貰(もら)ひたいと頼んだところ、公度は之(これ)を承知してくれたので、遂(つひ)に〔そのまま〕携(たづさ)へて歸つた。間(ま)もなくこの書がすでに京師(けいし)の譯館(やくくわん)で刻(こく)されたと聞いた。洵(まこと)に有用(いうよう)の書は衆目(しゆうもく)の共(とも)に覩(み)る所である。

案ずるに『雜事詩』は光緒五年孟冬(まうとう)〔陰暦十月〕、同文館(どうぶんくわん)より聚珍板(しふちんばん)〔活字版〕を以て印行された。さうすればこの王氏本は無論第二種板本となるわけである。黄君の戊戌年(ぼじゆつのとし)の跋(ばつ)に云ふ、

この詩は光緒己卯(きばう)(五年)之を譯署(やくしよ)に上(たてまつ)り、譯署は同文館の聚珍板を以て之を刊行(かんかう)した。繼(つ)いで〔次いで〕香港(ホンコン)の循環(じゆんくわん)報館と日本の鳳文(ほうぶん)書坊が又々印行し、繼いで中華印務局(いんむきよく)・日本の東西京(とうざいきやう)の書肆(しよし)が又も爭つて翻刻(ほんこく)を行ひ、且(か)つ之(これ)にイロハや甲乙丙(かふおつへい)等の字を附(ふ)して、つまり訓點(くんてん)を施(ほどこ)し句讀(くとう)を分(わか)つたものさへ現(あら)はれた。乙酉(いついう)(光緖十一年)の秋、余は米國(べいこく)より歸つたが、當時父上は梧州の稅局に勤(つと)めてゐられ、その同僚中(どうりやうちゆう)にこの本を欲しがる人が多かつたので、又ここでも重刻(ちようこく)した。丁酉(ていいう)(光緖二十三年)八月、余が按察使(あんさつし)〔司法、治安、警察を司る官職〕代理として長沙に赴(おもむ)いたところ、看板(かんばん)をかけて私の詩集を賣(う)つてゐるのを見たので、詢(たづ)ねてみると又ちがつた刻本であつた。だから今回の本は第九回目の刊行といふことになる。これこそ定稿(ていかう)である。續(つづ)いて刻する者は必ずこれに據(よ)るべきであつて、これ以外のものはすべて之を拉雜摧燒(らつざつさいせう)して可(か)なりである。〔処分してよろしい。〕

これに據(よ)ると、梧州刻は第七種板本であり、長沙刻は第九種でまた定本(ていほん)でもあるといふことになる。『叢書擧要(そうしよきよえう)』〔清・楊守敬〕卷四十五所載(しよさい)「弢園老民(たうゑんらうみん)手校(しゆかう)刊本」中に「重訂(ぢゆうてい)『日本雜事詩』一本」といふのがある。重訂といふからには無論改定した本のことであらう。しかし弢園(たうゑん)(王韜のこと)は道光(だうくわう)戊子(ぼし)(一八二八)の生(うま)れであるから、戊戌(ぼじゆつ)(一八九八)の年にはもはや七十一歲で、彼がなほこの世に在(あ)つたかどうかわからない(王韜は戊戌の前年亡)。且(か)つこの書を重印する程の興味を彼があの年でなほ持ち續(つづ)けたかどうかも料(はか)られぬ。だから今日(こんにち)見たところ、この定稿(ていかう)は長沙の刻本だけで、その後は一度も複刻(ふつこく)〔復刻〕されなかつたらしい。私は無意の中(うち)にこれを手にれ、嬉しく思つたと云つたのはつまりこの爲(ため)である。

『雜事詩』原本(げんぽん)は上卷七十三首、下卷八十一首、合せて百五十四首であるが、いま定本を査(しら)べてみると、上卷では二首刪(けづ)つて八首增(ま)し、下卷では七首刪つて四十七首增し、都合(つがふ)〔全部合わせて〕凡(およ)そ詩二百首となつてゐる。その改訂(かいてい)の主旨(しゆし)については、十六年の自序の中に極(きは)めて明瞭(めいれう)に述(の)べられてゐる。

余(よ)は丁丑(ていちう)(光緒三年)〔一八七七年〕の冬、任(にん)を奉(ほう)じて海を渡り、日本に在住(ざいぢゆう)すること二年、多少その國の士大夫(したいふ)と游び、その國の書を讀み、その國の事を習つた。『日本國志』といふ一書を草(さう)しようと思ひ、舊聞(きうぶん)を網羅(まうら)し、新政を參考(さんかう)し、また旁〻(かたがた)その雜事(ざつじ)を取り敷衍(ふえん)して小註(せうちゆう)をつくり、詩を以てこれを貫(つらぬ)いた。今行(おこな)はれてゐる『雜事詩』が即(すなは)ちそれである。時恰(あたか)も明治維新(ゐしん)の始(はじめ)に當(あた)り、庶政(しよせい)草創(さうそう)の際(さい)で、國家(こくか)の規模(きぼ)〔仕組み、範型。「規模とする」で「手本(模範)」の意味にもなる。〕はまだ十分定まつてゐず、紛々(ふんぷん)として定論(ていろん)が無かつた。余が交際(かうさい)した人々には舊學家(きうがくか)〔漢学、儒学等東洋の学問・制度に学ぶ者。「新学」(洋学)の対語。〕が多く、新政をそれとなく非難諷刺(ふうし)し、時勢を慨歎(がいたん)する聲(こゑ)はわが耳に溢(あふ)れる有樣であつた。隱退(いんたい)しても他國に行かず自分の道を守るのが大夫(たいふ)の義といふものではあるが、新舊異同の意見は往々(わうわう)詩の中に露(あら)はれてゐる。自分は閱歷(えつれき)日に深く、聞見(ぶんけん)日に拓(ひら)けるにつれて、多少とも窮變通久(きゆうへんつうきう)の理(ことわり)をさとるやうになり〔「易は窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通じ、通ずれば則ち久し。」(易・繋辞下伝)。極限まで行き詰まれば必ず変化が生じ、新しい突破口が開け、それは次に長く続いていくものだという「窮すれば通ず」の道理。〕、かくて日本が改めて西洋の法度(ほふど)〔「はっと」は日本での訓み。〕に從(したが)ひ、故(ふる)きを革(あらた)め新しきを取つたればこそ、卓然(たくぜん)として自(みづか)ら樹立(じゆりつ)することが出來たのだと信ずるやうになつた。故(ゆゑ)に『日本國志』の序論は往々にして『雜事詩』の内容と矛盾(むじゆん)してゐる。それから間もなく米國(べいこく)に遊び、歐米人(おうべいじん)を見るに、その政治學術は結局日本と大差(たいさ)はない。今年日本ではすでに議院(ぎゐん)が開かれた。その進歩の速いことは古今(ここん)萬國(ばんこく)にも見られなかつた所である。時たま、かの國(アメリカ)の大官(たいかん)碩學(せきがく)と日本の事を語ることがあるが、彼等(かれら)も手を拱(こまぬ)いて感嘆し、一言(いちごん)も加へる餘地(よち)はない樣子に見受けられた〔「手を拱く」は漢文の「拱手」であり、深く尊敬して礼を尽くすニュアンスで用いられていると見る。〕。公使館(こうしくわん)の仕事が暇(ひま)なまゝに、偶〻(たまたま)以前に書いた本を繙(ひもと)いて、作品の少いのを頗(すこぶ)る後悔し、訂正增損(ぞうそん)〔加除〕を行ひ、時には全體に亘(わた)つて書き直したりした結果、詩數十首(すうじつしゆ)を得(え)た。そのうち改めるに至らなかつたのは姑(しばら)くその儘(まま)にしておいた。あゝ、中國の士大夫(したいふ)は聞見(ぶんけん)狹陋(けふろう)にして〔視野が狭く、依怙地であり〕、外國の事情に對(たい)しては在來(ざいらい)少しも注意を向けようとしなかつた。今や既(すで)に之を見、既に之を聞いたのにも拘(かかは)らず〔現実を目の当たりにしているにもかかわらず〕、なほ古義を飾(かざ)つて、自尊自大(じそんじだい)、且(か)つ疑ひ且つ信じてゐる〔半信半疑で決しない〕始末である。余は長い年月を累(かさ)ねて深く廣(ひろ)く考へに考へた後、始めて是非得失の宜(よろしき)と長短取舍(しゆしや)〔採長補短〕の要(えう)とを曉(さと)つたのである。余はいよいよ愧(はづ)かしく思つてゐる。

黄君のかうした見識(けんしき)と態度(たいど)とは實に敬服(けいふく)すべきものである。梁任公(りやうじんこう)の『嘉應(かおう)黃先生墓誌銘(ぼしめい)』にいみじくも云つてゐる。

吾國(わがくに)では二十年前にはまだ日本の畏(おそ)るべきことを知らなかつた。しかるに先生は此書(このしよ)(案(あん)ずるに『日本國志』を指(さ)す)に於(お)いてすでに、「日本の維新の功(こう)にして成(な)らんか、彼はやがて一方の覇者(はしや)となり、最先にその衝擊(しようげき)を受ける者はわが中國であらう。」と豫言(よげん)してゐる。その後に至つて先生の言は盡(ことごと)く事實となつて現はれ、かくて人は大いに彼の先見(せんけん)の明(めい)に服(ふく)したのであつた。

しかしそれだけではなかつたのである。黄君は日本に對しその畏(おそ)るべきことを知つてゐたと同時に、又方々にその敬(けい)すべき處乃至(ないし)愛すべき處のあるのを表示してゐる。これは一層難しいことであつた。それは『雜事詩』の中にも見られ、改正後のものにはそれが更に明瞭になつてゐるのである。原本の卷上第五十の新聞紙を詠(えい)じた詩には

一紙(まい)の新聞、帝城(ていじやう)に出(い)で、
令甲(はふりつ)を傳(つた)へ來(きた)つて更に文明、
簷(のきば)に曝(ひなたぼこ)する父老(ふらう)、私(ひそ)かに相(あひ)語り、
未(いま)だ敢(あへ)て雌黄(しくわう)口に信(まか)せて評(ひやう)せず。〔根拠もなく出任せにいい加減な評論をすることはない。「雌黄」は漢籍の訂正に使った具材。訂正・改竄の意。〕

とあつたのが、定本では

古事を知らんと欲(ほつ)せば舊史(きうし)を讀め、
今事(きんじ)を知らんと欲せば新聞を看(み)よ、
九流(きうりう)百家(ひやくか)、有らざるは無く、
六合(りくがふ)の内、此(こ)の文を同じくせん。〔全世界共通の文字(文化)を共有しよう。〕

となつてゐる。さうしてその註には

新聞紙は時事(じじ)問題を講求(かうきう)し、以て四方(しはう)に周(あま)ねく知らせるもので、何一つ登載(とうさい)せざるはない。五大洲(ごだいじう)萬國(ばんこく)に何か新しい事件が起ると、朝のうちに電報(でんぽう)を打つたのが、夕方にはもう印刷(いんさつ)されるといふ鹽梅(あんばい)で、家から一歩も出ずして能(よ)く天下の事を知ると申(まう)してよい。その源(みなもと)は邸報(ていほう)(古(いにし)への官報(かんぽう)に類(るゐ)せるもの)から出たもので、その體裁(ていさい)は叢書(そうしよ)に似てゐるが、體裁が大きくて用途(ようと)の廣(ひろ)いことは遙(はる)かにこれを凌(しの)ぐのである。

となつてゐる。この註も原本とは全(まつた)く異(ことな)つてゐる。詩として云へば、勿論(もちろん)原本の方がよく多少諷諫(ふうかん)の風味を含(ふく)んでゐて、言論不自由の時代に在つては一層讀者の共鳴(きようめい)を引起(ひきおこ)したか知れない。しかし黄君にとつては之を賛歎(さんたん)する方に自(おのづか)ら深い意味があつたのである。その舊(ふる)きを去つて新しきを布(し)くといふ方へ一層の精進(しやうじん)をなさうとしてゐるばかりでなく、實際以前の新聞はずつと啓蒙(けいまう)的に偏(へん)してゐて宣傳(せんでん)的運動はあまりやらなかつた。だから彼がこれを叢書(そうしよ)(Encyclopaidia)に比(ひ)してゐるのは決して間違ひとは云へないのである。又、原本上卷(じやうくわん)第七十二に詩を論じて

幾人(いくにん)か漢魏の根源に溯(さかのぼ)れる、
唐宋よりこのかた格尙(な)ほ存(そん)す、
怪しみ難(がた)し雞林(けいりん)〔朝鮮半島の国々〕の賈(あきうど)の爭(あらそ)つて市(か)ふを、
白香山(はくかうざん)の外(ほか)に隨園(ずゐゑん)を數(かぞ)ふ。

とあり、その註に

詩は初めに唐人を學び、明に於いては李・王〔李于鱗(李攀竜)・王元美(王世貞)〕を學び、宋に於いては蘇・陸〔蘇東坡(蘇軾)・陸放翁(陸游)〕を學び、後に晩唐(ばんたう)を學び、變(へん)じて四靈(しれい)〔南宋・永嘉四霊(趙師秀〔字霊秀〕・徐照〔字霊暉〕・徐璣〔字霊淵〕・翁巻〔字霊舒〕。江湖詩派の先駆。〕を學んだ。我朝(わがてう)(淸)に及んでは王・袁・趙・張船山の四家〔王文治・袁枚・趙翼・張船山。性霊派の四大家。〕が最も著名(ちよめい)である。右は大抵みな我國の流行に隨(したが)つて轉移(てんい)したものである。白香山(はくかうざん)〔白居易〕と袁隨園(ゑんずゐゑん)〔袁枚〕とが特に熱心に慕(した)はれてゐて、之を學ぶのが十の八九である。『小倉山房(せうさうさんばう)隨筆』(袁隨園の著)に「雞林(てうせん)の商人が爭つて自分〔袁枚〕の詩稿(しかう)を市(か)ふが、これは多分日本に賣り販(さば)く爲であるらしい。」とあるのも、まんざらの法螺(ほら)〔出鱈目・大風呂敷〕ではないことがわかる。七絶(しちぜつ)は彼等の最も得意とする所であつて、最近では市河子靜(しせい)〔一河寛斎の字〕・大窪(おほくぼ)天民〔大窪詩仏の字〕・柏木昶(ちやう)〔柏木如亭の名〕・菊池五山(ござん)はみな絶句(ぜつく)の名家(めいか)と稱(しよう)せられてゐる。文酒(ぶんしゆ)の會合(くわいがふ)では、筆を揮(ふる)つて長吟高唱(ちやうぎんかうしやう)し、往々にして唐宋に迫(せま)るものがある。余は素々(もともと)絕句は下手(へた)であつて、本書の主意は日本の故事(こじ)をよみこむことに在るのである。そこで『南宋(なんそう)雜事詩』〔清・沈嘉轍、他撰。南宋の遺事や故事を詠んだもの。〕『漢陽(かんやい)雜詠』〔李氏朝鮮・洪義浩、他撰。首都漢陽(京城)の風物を詠んだもの。〕の例に仿(なら)ひ、強(し)ひて字を排(なら)べて見はしたものの、日本人がこれを見たら反(かへ)つて東施(とうし)顰(ひそみ)に效(なら)ふ〔表面だけ模倣して物笑いになる意。東施が西施の真似をしたという伝承から「東施效顰」という語ができたという。〕といつて笑はぬ者は少からう。

日本人が漢詩を作り、中國人と唱和(しやうわ)が出來るといふことは、中國の文人にとつて最も愉快(ゆくわい)な事であり、たしかに「吾道東(ひがし)す」の嘆(たん)がある〔後漢書・鄭玄伝に馬融の語とする。〕。王之春(わうししゆん)(王韜(わうたう)のこと)の『東遊日記』〔癸卯東遊日記、扶桑遊記〕卷上、光緒五年〔一八七九年〕十一月三日の條に黃公度參賛(さんさん)と會見(くわいけん)せる事を記し、その翌日『日本雜事詩』の後に題せる四絕句が載(の)つてゐるが、その四に

長慶(『白氏長慶集』のこと)が雞林に購(あがな)はれてより、
隨園に香爇(かうぜつ)して〔香を焚くことから、崇敬する意。〕直(ただ)ちに今に到る、
他日(たじつ)新詩、譜(ふ)を重ねて出(い)でなば、〔重版公刊されたなら〕
應(まさ)に看(み)るべし紙價(しか)の貴(たか)きこと金(きん)を兼(しの)ぐを。〔「洛陽の紙価を高める」。ベストセラーになる。〕

と云へるは、つまり上のあの詩を承(う)けてゐるのであり、正(まさ)にそのやうな意味なのである。ところが定本では全く改められて

豈(あ)に獨(ひと)り斯文(しぶん)に盛衰(せいすい)あるのみならんや、〔漢学・漢文の内に盛衰があるだけではない。〕
旁行字(よこもじ)は正(まさ)に橫馳(わうち)に力(つと)む、
知らず近日の雞林(けいりん)の賈(こ)、
誰(たれ)か黄金(わうごん)を費(つひや)して更に詩を購(あがな)はん。

となつてゐる。その註は舊(きう)の儘(まま)であるが、たゞ末尾(まつび)の「往々にして唐宋に迫る」の後に改めて

近世の文人は今や一變(いつぺん)して米人(べいじん)の詩稿を購(あがな)ひ、英士の文集を譯(やく)すやうになつた。

と書いてゐるのである。上に擧げた二つの例によつて、作者の思想の變換(へんくわん)を見ることが出來(でき)よう。蓋(けだ)し最初のうちはなほ古義を飾り、且(か)つ信じ且つ疑ふを免れなかつたのであるが、後(のち)に至つて彼等(かれら)が改めて西洋の法(ほふ)に從(したが)ひ、故(ふる)きを革(あらた)め新しきを取つた爲(ため)、つひに卓然として自ら樹立することが出來たといふことを承認(しやうにん)するやうになつたのである。胡適之(こせきし)先生〔胡適(こせき)こてきの字(あざな)〕は『五十年來(らい)の中國の文學』の中で黄君の事を敍(の)べて、

戊戌(ぼじゆつ)の變法(へんぽふ)の際には、彼も亦(また)この運動中の人物の一人であつた。彼の詩界に對する革命の動機も非常に早くから起(おこ)つてゐたかと思はれる。

と云つて居(を)られる。彼は早年(さうねん)の詩の中ですでに「我手(わがて)、我口(わがくち)を寫(うつ)す」〔「我が手我が口を寫す、古(いにしへ)豈に能く拘牽せんや。」(黄遵憲『人境廬詩草』)言文一致の思想を表現したもの。〕といふ主張をなしてるが、『日本國志』卷三十三『學術志』の文字を論じた處(ところ)に、中國にも將來(しやうらい)新字體(しんじたい)新字の生(うま)るべきを云ひ、その最後に、

周秦(しうしん)以來、文體(ぶんたい)は屢〻(しばしば)變(かは)つてゐる。かの近世に及んで、章疏(しやうそ)・移檄(いげき)・批判(ひはん)の文章〔上奏・檄文・断案の文章〕は明白でわかりやすく、務(つと)めて達意(たつい)を期(き)してゐる。〔平明達意の文章。〕その文體は絶對(ぜつたい)に古人の有(いう)しなかつたものである。殊(こと)に小説家の文章の如(ごと)きは、方言(はうげん)をそのまゝ筆に上(のぼ)せて書いてゐるが、ここに至つて言語と文字とが幾(ほとん)ど復(ふたた)び合致(がつち)したのである。余固(もと)より將來を豫知(よち)する者ではないが、今日に適用し俗人にも通行するやうな一つの文體に他日(たじつ)變化(へんくわ)しないものでもないのではあるまいか。あゝ、天下の農工商賈(しやうこ)、女子供(こども)をして悉(ことごと)く文字の使用に通ぜしめようと欲(ほつ)するならば、ここに一つの簡單なる方法を求めざるを得ないのではなからうか。

黄君は文字言語に對して極めて新しい意見に富(と)んでゐる。文化や政治その他の事に對してもみな同樣(どうやう)であつて、これは甚だ敬服すべきことであつた。『雜事詩』一編は、詩として見るのはは二の次(つぎ)で〔第二義的なもので〕、私が最も重要だと思ふのはむしろ作者の思想を見ること、その次には日本の事物の記録としてである。この最後の一點(いつてん)に就(つ)いては以前にも夙(つと)に〔早く〕注意する人があつた。たとへば『小方壺齋(せうはうこさい)輿地叢鈔(よちそうせう)』〔清・王錫祺〕の中には詩註の部分だけを抄出(せうしゆつ)して『日本雜事』一卷として收めてあるし、また王之春(わうししゆん)著『談瀛錄(だんえいろく)』〔東方海上伝説の島を瀛州といい、日本は古く「東瀛」と呼ばれていた。〕の卷三と卷四、即ち『東洋瑣記(とうやうさき)』は、殆(ほとん)ど全部が詩註をそのまま寫(うつ)し取つたものである。『雜事詩』は畫法(ぐわほふ)に就いて言及(げんきふ)して、

邊華山(へんくわざん)・椿椿山(ちんちんざん)あり、惲(うん)氏(惲南田(うんなんでん))〔清の南画家〕の眞本(しんぽん)を得(え)、是(ここ)に於(お)いて又沒骨(もつこつ)の法〔輪廓線を使わない描法〕を傳(つた)ふ。

と書いてゐる。ところが『東洋瑣記』卷下に之を引用し、之を改めて

邊華山椿家あり。山椿(さんちん)は惲氏の眞本を得、是に於いて沒骨の法を傳ふ。

とやつてゐる。邊華山と椿椿山とは實は二人であることを知らなかつたのである。椿山の姓は椿(つばき)であり、華山の姓は本當(ほんたう)は渡邊(わたなべ)といふのだが、中國風に倣(なら)つて〔あえて単姓にする。修姓。〕邊華山と稱してゐるのである。現代文人佐藤春夫も亦尚(なほ)「藤春(とうしゆん)」といふ印文(いんもん)〔印章の文字〕を有してゐる。王君が彼等を一緒(いつしよ)に丸(まる)めて一人にしてしまつたのは、無理もないとは云へ、亦頗(すこぶ)る滑稽である。定稿の編成(な)つてから今に至るまですでに四十六年、日本の雜事を記す人は未だ第二人(だいににん)を出してゐないやうに思けれる。これこそ黄君の及ぶべからざる處である。〔黄遵憲氏が古今独歩たるゆえんである。〕今人(きんじん)は古人に及ばずといふのは本當なのであらうか。民國廿五年三月三日、北平にて。

補記

『雜事詩』の第一版である同文館聚珍本を今日(けふ)海王村(ハイワンツン)の書店で購(あがな)つた。本としては必ずしも佳(よ)くはないが、たゞその掌故(しやうこ)に備(そな)ふるに足(た)る〔故実を参照するのに十分便利だ。〕のを喜ぶ次第である。五月廿六日記す。

(譯者(やくしや)曰く、黄遵憲の『日本雜事詩』は最近實藤(さねとう)惠秀・豐田穰(みのる)の兩氏(りやうし)によつて邦譯(はうやく)成り、生活社から出版された。綿密(めんみつ)な譯註が附(ふ)されて一層興味深い書物となつてゐる。兩氏の努力は大いに感謝されてよいと思ふ。なほ『日本國志』に關しては後章參照。)

入力者追補

「日本雑事詩」自序は名文と思われたので、取り急ぎ原文をWEBから引用する。(中国哲学書電子化計画〔http://ctext.org〕より)

余於丁丑之冬,奉使隨槎。既居東二年,稍與其士大夫游,讀其書,習其事,擬草《日本國志》一書,網羅舊聞,參考新政,輒取其雜事,衍為小註,串之以詩,即今所行《雜事詩》是也。時值明治維新之始,百度草創,規模尚未大定。論者或謂日本外強中乾,張脈僨興,如鄭之駟;又或謂以小生巨,遂霸天下,如宋之𪄟,紛紜無定論。餘所交多舊學家,微言刺譏,咨嗟太息,充溢於吾耳。雖自守居國不非大夫之義,而新舊同異之見,時露於詩中。及閱歷日深,聞見日拓,頗悉窮變通久之理,乃信其改從西法,革故取新,卓然能自樹立,故所作《日本國志》序論,往往與詩意相乖背。久而游美洲,見歐人,其政治學術,竟與日本無大異。今年日本已開議院矣,進步之速,為古今萬國所未有。時與彼國穹官碩學,言及東事,輒斂手推服無異辭。使事多暇,偶翻舊編,頗悔少作,點竄增損,時有改正,共得詩數十首;其不及改者,亦姑仍之。嗟夫! 中國士夫,聞見狹陋,於外事向不措意。今既聞之矣,既見之矣,猶復緣飾古義,足己自封,且疑且信;逮窮年累月,深稽博考,然後乃曉然於是非得失之宜,長短取舍之要,余滋愧矣! 況於鼓掌談瀛,虛無縹緲,望之如海上三山,可望而不可即者乎! 又況於排斥談天,詆為不經,屏諸六合之外,謂當存而不論,論而不議者乎! 覘國豈易言耶,稿既編定,附識數語,以志吾過。光緒十六年七月,黃遵憲自序於英倫使館。

(私は丁丑の冬、使者として船に乗り込んだ。東方に住んで二年が経ち、当地の士大夫たちと多少交流を深め、その書物を読み、その事柄を学んだ後、『日本国志』という一冊を執筆しようと企てた。旧来の伝承を網羅し、新政を参考にしつつ、その雑多な事柄を随筆として取り上げ、小注として展開し、詩でつなぎ合わせたものが、すなわち現在流通している『雑事詩』である。当時は明治維新の始まりに当たり、万事草創の段階にあり、その規模はまだ定まっていなかった。論者の中には、日本は外強中乾であり、勢いは盛んに見えても実力は衰え、鄭の駟の如しと論じる者もいれば、また、小を以て巨を制し、遂に天下を覇する、宋の𪄟の如しと論じる者もおり、議論は紛紜として定説はなかった。私が交わる旧学派の多くは、微言をもって譏り、嘆息し、その声が私の耳に満ちていた。国に留まり大夫の義を貫くことを自ら守ってはいたものの、新旧の同異に関する見解は、時折詩の中に表れていた。経験を重ね、見聞を広めるにつれ、物事の変遷と長期的変化の理をかなり理解するようになった。そこで、西洋の法に改め、旧きを捨て新しきを取り入れ、卓然と独自の立場を確立できることを信じるようになった。そのため、私が著した『日本国志』の序論は、しばしば詩の趣旨と相違するものである。その後、アメリカ大陸を旅し、欧米の人々と接する中で、その政治や学問は、結局のところ日本と大差ないことを知った。今年、日本はすでに議院を開いた。その進歩の速さは、古今東西の万国において前例のないものである。時折、同国の高官や博学な人々と東洋の事柄について語り合うと、彼らは常に手を合わせ、異論なくその素晴らしさを称賛した。公使としての務めに余暇が多く、ふと古い書物をめくってみると、若き日の作品を悔やみ、修正や増補を加え、時折訂正を行い、計して数十首の詩を得た。修正に至らなかったものも、ひとまずそのままにしておく。ああ! 中国の士夫たちは、見聞が狭く、外事にはこれまで全く関心を寄せてこなかった。今やそれを聞き、また見たというのに、なおも古義に固執し、自らを閉ざし、半信半疑のままである。歳月を重ね、深く究め広く考証して初めて、是非得失の当否や、長短の取捨の要点をはっきりと理解するのだ。私はますます恥じ入るばかりである! ましてや、拍手して瀛海を論じるような、虚無縹緲で、まるで海上の三山のように、望むことはできても届かないようなことについては、なおさらである! さらに、天を論じることを排斥し、荒唐無稽だと誹謗し、六合の外に追いやり、「存しては論じず、論じては議さない」と主張するようなことについては、なおさらである! 国情を探ることは、決して容易なことではありません。原稿が編定されたに際し、数語を付記して、我が過ちを記すことにします。光緒十六年七月、黄遵憲、英国公使館にて自序。)