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燕京歳時記(えんけいさいじき)

『燕京歲時記』〔『北京年中行事記』岩波文庫〕一卷、富察(ふさつ)氏敦崇(とんすう)〔清〕著。跋文(ばつぶん)に據(よ)れば恐らく光緖庚子(かうし)(二十六年)〔一九〇〇年〕に完成し、丙午(へいご)(一九〇六)に至つて始めて刊行されたものである。板木(はんぎ)は今なほ保存されてゐると見えて、市上に於いて常に新しい印本を求めることが出來る。最初私が友人の常(チアン)君の處(ところ)で見たのは宣紙本〔宣紙は高級画仙紙〕であつたが、それが確か初印〔初版〕であつたのであらう。しかし私が手に入れたのはもう新本であつた。が、それでもそれは普通の粉連紙(ふんれんし)〔竹製の手漉き紙〕であつて、今日世を擧(あ)げて珍重(ちんちよう)してゐるところのあの機械製の連史紙〔竹製の用紙〕を用ひてゐないことは、まことに嬉しい限りである。

潤芳(じゆんはう)〔清・字澍田〕の序の中に敦(とん)君の生涯を略述してゐるが、その著作に關してはかう云つてゐる。

私が一日(いちじつ)君が家を訪(おとな)うたところ、君の机上に『燕京歲時記』一卷がのつてゐるのを見た。一通り讀ませて頂(いただ)いたところ、まことによく君の見識が示されてゐた。無論これは鉅大(きよだい)なる製作、鴻然(こうぜん)たる文章ではないが、たしかに將來の攷證(かうしやう)に資(し)するに足りるものである。これ『帝京景物略(ていけいけいぶつりやく)』〔清・劉侗・于奕正編。明代の北京の地誌。〕『北京歳華記』〔明・陸啓浤。一六四四年刊。〕の成書の主旨と同一である。しかしながら禮臣(れいしん)君〔禮臣は富察敦崇の字〕の學問は本當は決して〳〵こんなものではないのである。なほ望むらくはこれを引伸(いんしん)發展せしめて別に著作をなし、以て同學の光榮とせられたいものである。これこそ私の切に期望(きばう)する所である。

だが實は、私に云はせるとこの『歲時記』でも十分結構なのである。ところが私は更に彼の他の著作を見ることが出來て、一層面白く思つた。これとて決して「鉅大なる製作、鴻然たる文章」ではなく、ほんの薄つぺらな一册の文集に過ぎない。題して『畫虎集文鈔(ぐわこしふぶんせう)』とひ、それに私の二月十四日附の題記がある。曰く、

前に敦禮臣著『燕京歲時記』を得て、私(ひそ)かに之を愛好してゐたのであつたが、昨日琉璃廠(リウリーチアン)の舊正月の市(いち)に遊んでこの文集を見つけ、早速購つて歸つた。寥々(れうれう)十三葉(えふ)に過ぎぬけれども、文章頗(すこぶ)る質樸(しつぼく)で、中々わるくない。

この書も粉連紙(ふんれんし)に印刷され、しかも刻板は極めて惡く、湖北崇文(すうぶん)書局本よりもまだ見にくい位である。誰かの手で幾個所(いくかしよ)にも紙を貼つて誤字を訂正してゐるのだが、誤字はまだまだ少くない。たとへば「庶吉士(しよきつし)」〔進士の優秀な者〕とあるべきところが殘らず「庶吉主」と刻してあるなど、よほどその校刻(かうこく)ぶりのぞんざいさが窺(うかが)はれる。文集には文十一篇が收められてゐるきりである。冐頭(ばうとう)の一篇はその妻の弟への返事の手紙で、庚子(かうし)の變(へん)(義和團(ぎわだん)事件)を敍(じよ)し、自(みづか)ら年四十六と稱してゐる。最後のは周毓之(しういくし)〔宮崎孝政の筆名〕の詩集の序文であつて、甲子(民國十三年)〔一九二四年〕の春に作られ「七十老人某、病中に拜(はい)し序す」と署(しよ)してある。以てその年齡や刻書の時代の大槪(たいがい)を知ることが出來る。十一篇のうち六篇まではみな庚子の變に言及し、深い慨歎(がいたん)の意を洩(もら)してをり頗る見識に富んでゐる。辛亥(しんがい)(民國元年)以後の作は意氣銷沈(せうちん)してゐるが、それにしてもあの遺老〔前代の臣下だった古老〕にはつきものの醜語(しうご)が少しも見當(みあた)らぬのは、まことに奧床(おくゆか)しい鷹揚(おうやう)な態度である。かつて『渉江文鈔(せふかうぶんせう)』を讀んだ時にも同じやうな感じを持つたのであつたが、たゞ惜しいことに唐氏(たう)(震鉤(しんこう)のこと)〔清・唐震。字震鉤。〕にはまだ朱子學臭(しゆしがくしう)が附(つ)き纒(まと)つてゐた。

辛丑(しんちう)(光緒二十七年)〔一九〇一年〕に作られた『增舊園記(ぞうきうゑんのき)』〔敦崇。「旧園」は北京の名園(天春園)。〕にかうある。

この園は彈丸の如く小さな地を以て、兵燹(へいせん)の中に居り、瓦全(ぐわぜん)〔玉砕の対語〕を得たとはいへ、又いかで永久に在り經(ふ)るを得んや。今後、或は他人の物となるか、或は八重葎(やえむぐら)に覆(おほ)はれてしまふか、或は踏み固められて道路となるか、或は耕されて田畑となるか、どうなることやら知れたものではない。まして況(いは)んや昔のやうな歌舞管絃(かぶくわんげん)の日が又と再び望まるべきことかは。〔とても期待できない。〕

この増舊園は鐵獅子胡同(てつししこどう)〔北京の歴史的街区〕に在る、即ち鐵の獅子のある處なのである。今日では果してどうなつてゐることであらうか。以前、東北城へ本を教へに行つてゐた時分、私はいつもこの街を通り、巍々(ぎぎ)として聳(そび)え立つた高い塀を見たものだが、それこそ義威(ぎゐ)將軍張宗昌(ちやうそうしやう)〔民国将軍〕の別宅なのであつた。疑ふらくはそれがつまり增舊園であつたらう。記のおしまひには又、「古來の宮殿は盡(ことごと)く毀滅(きめつ)に歸(き)してしまつた。何ぞ況んや蕞爾(さいじ)たる〔ちっぽけな〕一園をや。」と云ひ、更に又かう云つてる。

その後世に流傳(るでん)する所以(ゆゑん)の者〔媒体〕は亦たゞ紙上の文章あるのみ。文章だに若(も)し在らば、この園は不朽(ふきう)となるわけである。この記の作られた所以〔理由〕である。

いま園はもはや存(そん)しない。この十三葉の文集も天壤(てんじやう)の間に尚(なほ)幾册存してゐることやらわからない。とすれば記の存してゐるのもどうやら極々(ごくごく)僅(わづ)かなものらしい。『碣石逋叟(けつせきほそう)周毓之の詩の序』〔東海辺の隠居老人〕に云ふ、

癸亥(きがい)嘉平(かへい)(民國十二年十二月)〔嘉平は十二月の異称〕詩一卷を寄せられ、且つ序文を書くやうにとのことであつた。繰り返して精讀するのに、極めてよく君の見識が窺(うかが)はれ、中には間〻私の詩と似てゐる者もあつた。蓋しいづれもあまり讀書せずに、もつぱら天籟(てんらい)に任せてゐる〔自然の勢いに任せている〕からであらう。ちやうど鳥が春に鳴き、蟲(むし)が秋に鳴くやうなもので、嘈々喞々(そうそうしよくしよく)〔鳥や虫がすだく音〕、耳に話しいほど鳴いて止まぬが、その究竟(くきやう)の處まで煎(せん)じ詰めるに、鳥や蟲自身にしてからが、その鳴きごゑがどのやうな律呂(りつりよ)を成してゐるかも知らず、たゞその性に率(したが)つてゐるだけのことである。われら二人の詩もちやうどそんなものである。

『畫虎集(ぐわこしふ)』には詩は入つてゐない。僅かに『歳時記』の中にその所作(しよさく)六首だけ附録してある。『潭柘山(たんしやさん)に遊ぶ』三首及び『釣魚臺(てうぎよだい)』一首はいづれも普通の遊覽の作であるが、『京師夏日閨詞(けいしかじつけいし)』二首は稍〻すぐれてゐて、自(みづか)ら敍(の)べてゐる言葉と大方(おほかた)符合(ふがふ)してゐる。これは詩の中では別段事(こと)かはつたものでは決してないが、口を開けば杜工部(とこうぶ)〔杜甫〕、口を閉ぢては黃山谷(くわうざんこく)を持ち出すことをやらぬ點(てん)、兎(と)に角(かく)目障(めざは)りがなくて氣持がよい。それが散文の中では一層の長所となつて發揮されてゐるのである。『歲時記』跋(ばつ)の二に、

此(この)記はみな實際に基(もとづ)いて記録したものであるが、多くは細々(こま〴〵)した事柄(ことがら)ばかりで、冗雜蕪穢(じやうざつぶわい)〔洗練されていず、文脈が乱れていること。〕の譏(そし)りを免(まぬか)れ難(がた)い。その大旨(たいし)を究(きは)めたならば、風俗・遊覽・物產・技藝の四門(しもん)に非(あら)ざるはない。これ亦『日下舊聞考(につかきうぶんかう)』の大略(たいりやく)なのである。

この實際に基いて記録したといふことと、多くは細々(こま〴〵)した事柄ばかりといふことの二つは、私に云はすれば決して譏(そし)るべきものでないばかりでなく、それどころか最も取るべき點であらう。一體かういつた仕事をやる場合、これを組織立てて敍録(じよろく)するには、どうして、豐富な知識、明達(めいたつ)な見解、一際(ひときは)人に勝れた文章が必要であつて、かくて始めて適當な取捨を施(ほどこ)すことが出來、布置(ふち)その宜(よろ)しきを得(え)、適材適所(てきざいてきしよ)といへるのである。若(も)しこれが平凡な人の手にかかると、徒(いたづ)らに史例や義法に拘泥(こうでい)し、巧(たく)みならんことを求めて反つて拙(つたな)いものになり易い。いつそ大人(おとな)しく自分の知つてゐることを有りつたけ、そのまゝ飾らず率直(そつちよく)に記した方がまだましなのだ。細々(こま〴〵)した樸實(ぼくじつ)な處にこそおのづからその價値(かち)と生命とが存するのである。記中に録されてゐる遊覽・技藝はいづれも平凡であるが、その風俗と物産の二門には出色(しゆつしよく)の記述が頗る多い。そしてそのすぐれた點は大抵不用意(ふようい)のところに在る。つまりあまり愼重(しんちよう)を期(き)すると兎角(とかく)古人の窼臼(かきう)に落ち易(やす)いからであらう。たとへば正月のうちの「鼠使ひ・猿廻し・傀儡(くぐつ)・陸船(りくせん)」の記事、九月の「糟蟹(そうかい)〔調味料に蟹を漬け込んだ料理〕・良郷酒(らうきようしゆ)・鴨兒廣(あうじくわう)〔梨の菓子〕・柿子(しし)・山裏紅(さんりこう)〔山査子の菓子〕」、十月の「風箏(ふうさう)〔凧〕・𮧨兒(けんじ)〔毽兒。羽根蹴り。〕・琉璃喇叭(るりラツパ)〔玩具の喇叭〕・咘咘噔(ぷぷてん)〔ビイドロ〕・太平鼓(たいへいこ)〔でんでん太鼓〕・空鐘(くうしよう)〔鳴り独楽〕」、「蚰蚰兒(うまおい)・聒聒兒(くつわむし)・油壺盧(こおろぎ)」〔虫籠や瓢箪(葫蘆)・竹筒等に虫を入れて運び、音を楽しむ。〕、「梧桐(いかる)・交嘴(いすか)・祝頂紅(べにひわ)・老西兒(しめ)・燕巧兒(しょうどうつばめ)」〔空中で物をつかませたりする鳥芸に使う鳥〕、「栗子(りつし)〔甘栗〕・白薯(はくしよ)〔焼き芋〕・中果(ちゆうか)〔揚げ菓子〕・南糖(なんとう)〔おこし〕・薩齊瑪(さちま)〔おこし〕・芙蓉糕(ふようこう)〔白い粉菓子〕・冰糖壺盧(ひようとうころ)〔山査子飴〕・温朴(おんぼく)〔山査子グミ〕」、「赤包兒(せきほうじ)・鬥姑娘(ほおずき)・海棠木瓜(かいどうもくくわ)・漚朴(おうぼく)」〔玩具や香りづけに使う草の実や木の実〕などの條々は、みな實に面白く書けてゐる。又、五月の「下榴(ざくろ)と夾竹桃(けふちくたう)」の條(でう)に

京師(けいし)では五月に石榴(ざくろ)の花が滿開する。鮮明なること眼を照らすばかりである。大概(たいがい)土地の人々は常に夾竹桃と一緒に中庭に羅列(られつ)して清玩(せいぐわん)する。兩者の間には必ず金魚鉢を配置し、金魚が數匹その中に游泳(いうえい)してゐる。幾(ほとん)どどこの家でもそんな風である。だから京師の諺(ことわざ)に「天篷(ひおほひ)と金魚鉢と石榴(ざくろ)の木」といふ。これは家々みな同じことをするのをくさした〔けなした〕ものである。

七月の「荷葉燈・蒿子燈・蓮花燈」に、

中元(ちゆうげん)の日〔旧暦七月十五日の中元節〕、黄昏(たそがれ)以後、街巷(がいかう)の子供達(こどもたち)は荷葉(はすのは)で作つた提燈(ちやうちん)を點(とも)し、街々(まちまち)で「荷葉燈(かえふとう)、荷葉燈、今日は火をともし、明日(あした)は投げすてる。」と唱(うた)ふのが聞かれる。また青蒿(あをよもぎ)にお線香(せんかう)を結びつけて火をともすと、宛(さなが)ら無數の螢(ほたる)が飛び交(か)つてゐるかの樣(やう)である。これを蒿子燈(かうしとう)といふ。又器用(きよう)な商人は各種の色紙(いろがみ)で蓮花(れんげ)・蓮葉(はすのは)・花籃(はなかご)・鶴(つる)・鷺(さぎ)などの形の提燈を作る。これを蓮花燈(れんくわとう)といふ。謹(つつし)んで『日下舊聞考』を案ずるに〔同書は康熈帝の時に朱彝尊(号竹垞)が著した北京の地誌「日下旧聞」を、乾隆帝の勅命で于敏中等が編纂したもの。〕、荷葉燈の製作は元明の頃以來行はれて居り、今日もなほその舊習に沿(そ)うてゐるのである。

又、薩齊瑪等を記して云ふ、

薩齊瑪(サチマー)は滿洲(まんしう)の餑餑(くわし)である。氷砂糖と奶油(バタ)とを饂飩粉(うどんこ)〔小麦粉〕に合(あは)せて作る。形は糯米(もちごめ)のやうであるが、石綿(いしわた)製焜爐(こんろ)で焙(あぶ)ると遂(つひ)に方塊(はうくわい)となる。甜(あま)くて而(しか)も脂氣(あぶらけ)があつて中々(なかなか)食べられる。芙蓉糕(ふようこう)は薩齊瑪と同じものである。たゞこの方は表面に赤砂糖をつけ、その色が艶(つや)として芙蓉のやうに見えるのである。冰糖壺虛といふのは竹の串(くし)に葡萄(ぶだう)・山藥豆(さんやくとう)〔ヤムイモの零余子(むかご)〕・海棠(かいだう)の果(み)・山裏紅(さんざし)といつたものを貫(つらぬ)いて氷砂糖をつけたもので、甜(あま)くサク〳〵して冷(ひ)やつこい。

赤包兒等に就いてはかう記してゐる。

每年十月になると、市肆(いちみせ)の間に赤包兒や鬥姑娘といつた類(たぐひ)が賣(う)り出される。赤包兒は蔓生(つるせい)で、形は甜瓜(まくは)〔真桑瓜〕に似てもつと小さい。初冬になると柔(やはらか)く紅色(くれなゐ)になり、子供のいゝ玩具(おもちや)になる。鬥姑娘は形は小さな茄(なす)のやうで、珊瑚(さんご)のやうに赤く、圓(まる)くてスペ〳〵〔ママ〕光(ひか)つてゐる。子供達は甚だこれを好む。だから鬥姑娘といふのである。

赤包兒といふ名は、よく子供が呼んでゐるのを耳にする。つまり栝樓(きからすうり)(黄烏瓜)のことである。鬥姑娘といふ植物は植木市(うゑきいち)でざらにお目にかかるものではあるが、舊(ふる)い名前があるかどうかは知らぬ。或(あるい)は近來(きんらい)輸入されたものかも知れぬ。日本ではこれを「姫(ひめ)だい〳〵」といふ。姫とは細小の意を表はす接頭語(せつたうご)、だいだいとは橙である。だが實はこれは茄(ナス)科に屬(ぞく)するものである。つまりその實が小さな橙のやうだと云つてゐるのであらう。漢名もわからぬ。鬥(トウ)の字はどうもよく解釋(かいしやく)できぬ。ひよつとしたら「逗(トウ)」の字(女の子を引寄せるものの意)〔方言らしいが「気を引く」意味があるという。〕であらうか。北京では音(おん)が同じなのだから。だがそれとて斷定(だんてい)は出來ぬ。

唐涉江(たうせふかう)(原名は震鈞(しんきん)〔清・号渉江道人。〕)著『天咫偶聞(てんしぐうぶん)』も、北京の地理や故實(こじつ)を記したもので中々立派であり、『歳時記』と比肩(ひけん)するに足る。しかし唐氏の書は『藤陰雜記(とういんざつき)』(清の戴璐(たいろ)の作、やはり北京の事を記した書)の類(たぐひ)であつて、しかも出來る限り雅馴(がじゆん)な書き方をしようとつとめてゐる爲(ため)、かうした細々(こま〴〵)した質樸な長所が缺(か)けてゐる。二者比較すれば、『偶聞』の方は或は著作の部類に入ることが出來(でき)、しかも自らその門戸(もんこ)を張(は)る〔自立する〕ことが出來るかも知れぬが、やはり『歳時記』の能(よ)く性(せい)に率(したが)つて行く行き方には及ばぬと私は思ふ。民國二十四年除夕(ぢよせき)〔旧暦の大晦日〕、北平にて。

(譯者曰く、『燕京歳時記』は最近小野勝年氏によつて邦文(はうぶん)に移された。『北京年中行事記』と改題し、岩波文庫にはいつてゐる。原書にない詳しい註や挿繪(さしゑ)まで加へられて、懇切(こんせつ)を極めた勞作(らうさく)である。この譯文は同氏の譯に負(お)ふ所が多い。)