結縁豆
模糊
(譯者曰く、模糊は物事にこせ〳〵しない意味で、「大まか」「ぼんやり」などとも譯されるが、恰好な〔ちょうどよい〕譯語が思ひつかぬので、この儘にしておいた。馬々虎々などとも云つて、物事をいゝ加減にごまかす意味に使はれることが多いが、ここでは極めて好い意味に使はれてゐる。なほ、後の「作者附記」を參照せられたい。)
郭蘭皋〔蘭皋は清・郝懿行の字。郭は誤植。〕の『曬書堂詩鈔』卷下に七律一首あり、これに題して
私はまだ部屋住の時分、模糊といふ名を貰つた。年は將に壯ならんとするのに、科擧に志して未だ及第せず、自らを嘲りまた自らを勵ます。
とある。詩は佳くないけれども、題はまことに面白い。その『筆錄』〔曬書堂筆録〕卷六に『模糊』といふ一則があり、その第一節に云ふ、
私の小さい時分には、族中の各房に奴僕がやたらに澤山ゐた。その後、家が左前になつた〔家産が傾いた〕ので段々と暇を取らせてそれぞれ生計を營ませたが、仕事嫌ひの連中は大抵役所の小使などになつた。私が壯年の頃までには大體殘らず暇を取つてしまひ、これまでの主人と召使との區別さへあまりはつきりせぬ位にまでなつてゐた。私はそれでも構はずに放つておいた。私は牟默人〔清・牟庭〕と住居が接近してゐて、彼を訪ねる毎に縣署の門前を通りすぎる。ところが奴僕の連中、人々と一緒に屯ろしてゐて、私がその前を通つても、てんで起ち上つて挨拶する氣ぶりさへ見せぬ。で私は强ひて素知らぬ顏をした。後ではいつも廻り道して之を避けるか、或は遙かに縣署の門が見えると下を向いて走り過ぎるのを夢とし、よくこの話を今は亡き父上に話しては歡笑したものであつた。私の邑(山東省棲霞)の濱都宮〔道観の名〕は丘長春先生〔清・丘処機。道士。〕の故里であるが、正月十九日はその生誕の日とて、參詣人が雲集する。私は朋輩と共に歩きながら、宮の手前半里餘の處まで來たとき、向ふから驢馬に鞭打つて來る者がある。見れば奴僕某の子の喜兒といふ者であつた。彼等は父子ともに縣署の屬官書記となり、邑の人々から爪彈きされてゐる人物である。相去ること數歩といふ處で、彼は急に驢馬に鞭をくれて一散に駛り出し、のけぞつた儘とつとと行つてしまつた。そのとき同行の李・趙の諸君が私に向つて、「今通り過ぎた男を識らないのかね?」と聞いた。「識つてゐます」と答へると、「なぜ下りて挨拶しなかつたんです?」といふ。「僕はあの男を識つてゐるが、あの男は年がまだ行かぬうちに住込を換へたのだから、僕を知らないのも有りさうなことです。」と私は答へた。その後、族中の長輩がこの話を聞かれ、私を呼びよせて詰じられたが、私はいゝ加減にお茶を濁しておいた。〔その場を取り繕った。〕また王某といふのも元私の家の奴僕の子供であつたが、嘗て酒を喰つて私の門へやつて來て、喧ましく呼び立てたことがあつた。しかし私は相手にならずに放つておいた。その爲に家人から模糊といふ渾名を頂戴に及んだわけである。しかし私は笑つて受けた。
清朝の乾隆嘉慶間の經學者中、郝蘭皋〔郝懿行〕は私の好きな一人である。彼の幾多の著書がすべて私の愛讀書であるからでもあるが、その文章が亦頗る風致に富んでゐるのである。その人と爲り〔人物、性質〕を想見するのに、傅青主や顏習齋〔明・顔元〕などとは行き方がちがふけれども、各人それぞれその愛すべき處があると思ふ。上の文章を讀んで、私は彼のこの模糊といふ點に對してある一種の親しみを覺えた。私の家は貧乏で、奴婢など勿論ある筈もなかつたから、彼等から侮られたためしもないので、彼と比べ合せることは出來ぬし、それに私は決してわざわざ模糊を奬勵しようと思つてゐるわけでもないのである。模糊は精明(物事に細かくピシ〳〵やること)と相對する。しかし糊塗とは又ちがつたものだ。多分、糊塗といふのは精明なること能はぬことであり、模糊とは精明を爲さぬことであらう。一は泰山を挾みて北海を超ゆること能はざる方であり〔やろうとしても人力ではとうてい及ばないこと〕、一は長者の爲に枝を折らざる〔やれるのにやろうとしないこと。どちらの比喩も「孟子」に拠る。〕の類である。模糊にも亦よいのとよくないのと二種ある。己れの爲には大いに模糊であつても宜しいが、人の爲にはそれでは絕對に宜しくない。といふのが、前者の場合模糊であればそれは「恕」〔寛容〕であるといふことが出來るが、後者の場合は模糊でないことが「義」〔正しい筋道〕なのである。傅青主著『霜紅龕賦』の中に『麧䴾小賦』〔麥のふすまを碾いて食べる(貧しい生活の)歌〕といふ一篇があつて、その最後に云ふ、
子弟の我を遇するは、亦奇緣と云はん。人間の細事は、略して謱謰いはず。還つて老夫に問ふも、また言ふこと無し。倀々として〔こせこせとこだわらず〕運に任せ、已に四十年。
その後に王晉榮がこんな案語〔按語。詩文の批評文。〕を書いてゐる。
先生の家訓に曰く、「世間の事にあまり精細くやり過ぐれば、せい〴〵好き俗人と成るが關の山なり。我家には要らぬ事なり。」則ち信なるかな、賢なる父兄の樂しみや。小傅これ有り。(この父にしてこの子あり、傳靑主の子弟みな立派な人ばかりであつたことを云ふ)
これに依つてこの酒肉道人(傅靑主)も家庭や鄕里に於いては甚だ模糊的な人であつたことがわかる。しかしながら二十餘年前、彼が山西督學袁繼咸の爲に無實の罪を鳴らして奔走したことは、いかばかり熱烈であつたか。外の秀才たちがコソ〳〵逃げ隱れしたのとはわけが違ふのである。〔比較にならない。〕とすれば彼はやはり大事には決して模糊でなかつたのである。普通の人は大抵他人の細かい事に對してはなかなか精明である。そのうちの上等の部は、心力を生計に注ぎまづ〳〵一個の好き俗人となることも出來ようが、下々の者に至つては全く箸にも棒にもかからぬのである。〔なんらの取るべき長所が見当たらない。〕現下の文人諸君は、專ら小同業者〔零細企業〕に對して何かとアラ搜しをやり、それこそ些かも模糊に濟まさうとせぬ。そのやうな雅人諸君に用はない、と傅公〔傅靑主〕ならば恐らくさう仰りはしないだらうか?
『曬書堂文集』卷五に『亡書失硯』なる一則がある。曰く、
昔私は『顏氏家訓』〔顔之推〕を所藏してゐた。坊間にありふれた俗本で別に愛惜するに足るものではなかつたが、その上方の空白の紙に、私は讀む毎に箋注〔注釈〕を書き入れ、積り積つて百數十條にも達してゐた。それをその後誰かに持つて行かれてしまひ、今以つてあの本のことを思ひ、忘れんとして忘れ得ない。又、仿宋本『説文』〔説文解字の体裁・字面が宋朝風である本〕は、旗人織造の額勒布公〔旗人は清朝の階級、織造は職掌〕が自費で刊行されたもので、極めて精緻であつた。これは以前私の『山海經箋疏』と交換して手に入れ、頗る愛藏してゐたのに、近頃搜してみるにどうしても見つからぬ。多分これも他人に持ち去られたものらしい。司空圖〔唐代の詩人〕の詩に「劍を得るは乍ち健僕を添へしが如く、書を失ふは久しく良朋を憶ふに似たり。」とあるが、まことによく云つたものではないか。借りた本を還すのは癡の一つだといふ言葉に私はいつも反感を覺えるのであるが、私の交遊してゐる人にさうした癡人の絶えて少いのは、どうしたものであらうか。又私は芭蕉の葉の形をした白い端溪石を一つ持つてゐた。仿宋式で、下は空洞を爲し、鴝鵒眼〔八哥鳥の眼に似た斑紋〕が澤山あつた。私はこれを彫つて柱懸けにしてゐたが、或は高く或は低く、鐘乳〔鍾乳〕の垂れたやうで、まことに愛玩するに足りた。これは十年前に膠西の劉大木(椽)が千餘里を遠しとせずしてわざわざ持つて來て贈られたもので、私は匣を作つてその中に入れ、事務室の机の間に置いてゐたのである。しかるに何者かの爲に攫め去られ、その後轉居の際に匣を開けて視たら、中味は空であつた。良友の贈物が忘れられず、聊かこれを記しておく次第である。又、私の名前のはいつた印章二つ、それは靑田石で、やはり劉大木が鐫つてくれたものであつたが、あるとき市に鬻がれてゐた〔売られていた〕のを牟若洲(惇儒)が知らせてくれたので、たうとう取り戾して歸つた。それから葉仲寅(志詵)が曾て小市で「郝氏頓首」の銘のある銅印を拾つた。それは玉筋の文樣をなし、篆法も淸勁なら、色澤も古雅だつた。金石に精しい彼は、これは多分元の時代の舊物であらうと云ひ、書翰の用に供するやうにとて私に贈つてくれ、私は非常に愛藏してゐたのであつた。そこで前に失つた物を念ひ、或はこの銅印も數十年の後には、これをば人に贈つて又誰かに喜ばれることになるかも知れぬと思ふのである。
ここにも彼の模糊の一斑を見ることが出來る。しかも文章亦甚だ好ましく、措辭は質樸であつてしかも實によく意を達してゐる〔達意は意味がよく通ること。名文の基準。〕。さりげない言ひ方をして、少しも氣にかけない風でありながら、反つてそこに深いしみじみとした愛惜惆悵の情を顯はしてゐる。かうした文字こそ、正に私の想望しながら、しかも書き得ない所のものである。表面は一見同じくないやうであるが、これは『顏氏家訓』と同じ傾向の筆調であるやうに私には思はれる。いつの日かこのやうな材料を澤山集めて一部を成し、自分も娯しみ、また人をも娯しませたいものである。一つ一つ詳述せねばならないから、茲には贅せぬこととする。〔余分なことは差し控える。〕
附記
模糊は今日俗語で麻糊と云つてゐる。或は馬虎とも書く。これは必ずしも動物をとつて名づけたわけではあるまい。やはり麻糊と書いた方が、南北いづれにも通行してよいと私は思ふ。二十四年十一月四日。
(譯者附記。譯者はこの一篇に刺激され郝懿行の隨筆凡そ百章を飜譯し、その書名も『模糊集』と題して、近く生活社より刊行の豫定である。)