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婦人の笑(わらひ)

來集之(らいしふし)著『倘湖樵書(とうこせうしよ)』〔唐~明の文人の逸話を編集した書。〕卷十一に『婦人の笑』なる一篇がある。

唐人(たうじん)の詩に「西施(せいし)〔春秋・越の美女。本名施夷光と伝える。〕醉(ゑ)うて舞ひ嬌(けう)として力無く、笑つて東風〔春風〕白玉牀(はくぎよくしやう)に倚る。」〔李白「西施」〕とあるのは夷光(いくわう)(西施)が笑ひを好んだ爲(ため)に麋鹿(びろく)が姑蘇(こそ)に走つた(呉が滅びた意)ことを言つたのである〔越王句践から送られた傾国の美女西施に迷った呉王夫差が姑蘇台などに贅を凝らし、そのために呉は滅びて麋鹿の馳ける野となった。〕。又「頭(かうべ)を回(めぐ)らして一笑(いつせう)すれば百媚(ひやくび)生ず、六宮(りくきゆう)の粉黛(ふんたい)顏色(がんしよく)無し。」〔白楽天「長恨歌」〕とあるのは、楊妃(やうひ)が笑ひを好んだ爲に鼙鼓(へいこ)が漁陽(ぎよやう)に動いた(安祿山が叛亂を起した意)ことを言つたのである。〔長恨歌に反乱の起きたことを「漁陽の鼙鼓地を動(とよ)もして来(きた)り、驚破(きやうは)す霓裳羽衣(げいしやううい)の曲。」と歌う。〕ところが姐己(だつき)は笑ひを好まず、炮烙(ほうらく)の刑(けい)を見た後でなければどうしても笑はなかつた。褒娰(ほうじ)は笑ひを好まず、烽火(ほうくわ)の戲(たはむ)れを見た後でなければどうしても笑はなかつた。〔妲己・褒娰は『史記』殷本紀・周本紀に出る。〕とすれば笑ひを好まぬのがよいことやら、それとも笑ひを好むのがよくないことやら、どうも私にはわかりかねる。息嬀(そくき)は楚に捉はれて物を言はなかつた。〔春秋・陳の公女で初め息侯に嫁したが、蔡侯に強奪され、一旦は息に帰るが、後に楚文王が息を滅ぼして自分の妻とした。しかし三年も口を利かず、文王は機嫌を取るために蔡を滅ぼした。〕況(いは)んや笑ひをや。〔物を言わないくらいだから、もとより笑うはずがない。〕而(しか)して唐人の詩に「細腰宮(さいえうきゆう)〔楚の霊王が細腰の美女を好んだので、世人はその章華台を俗に細腰宮と呼んだ。裏は中の意。〕裏(り)露桃(ろたう)〔朝露を含んだ桃の花。涙の露を掛ける。〕新たなり、默々(もくもく)として言(げん)無く幾度の春ぞ、畢竟(ひつきやう)息(ソク)の亡びしは底事(なにごと)にか緣(よ)る、憐(あはれ)むべし金谷(きんこく)墮樓(だろう)の人。」〔杜牧「題桃花夫人廟」。桃花夫人は息嬀を指す。それと対比して「金谷堕楼人」は西晋の石崇の愛妾緑珠(りよくしゆ)が権臣孫秀の求愛を退けて金谷園の高楼から投身した故事を指す。「堕」は「墜」とも。杜牧に「金谷園」の詩がある。金谷園は石崇の富を象徴する邸宅で、李白「春夜宴桃李園序」でも知られる。〕とある。蓋し賢者を責むるの意である。私は思ふに詩經(しきやう)に「巧笑倩(せん)たり、美目盼(へん)たり」〔衛の莊姜(そうきょう)の美を頌えた「碩人(せきじん)」(詩経・衛風)に拠る。〕とあるのは、婦人の美は多く笑ひに在ることを言つたのである。『史記』に、「箕子(きし)の殷墟(いんきよ)を過ぎるや、哭(こく)せんと欲(ほつ)すれば則(すなは)ち敢(あへ)てせず、泣(なみだ)せんと欲すれば婦人に近し。」〔史記・宋微子世家〕とあるのは、これ婦人の性多く泣き上戸(じやうご)なるを言つたのである。諸美人は一笑を以て人の城を傾けたが〔傾国・傾城の美人〕、杞梁(きりやう)の妻は一哭を以て杞の城を崩した。〔秦の孟姜女が万里の長城の労役で死んだ夫の范杞梁を慕って慟哭すると城が崩れて夫の骸が出現したという伝説。〕つまり婦人は笑ふこともならぬ、哭(な)くこともならぬのである。笑つてはならぬ上に、笑はないのもいけないと云ふのである。諸婦人〔妲己・褒娰たち〕は長舌(おしやべり)を以て人の國を喪(ほろぼ)した。ところが息嬀は物を言はなかつた爲に兩國〔息と蔡〕を喪した。つまり婦人といふものは物を言つてもいけないが、物を言はないのもいけないのである。『左傳(さでん)』に「尤物(いうぶつ)は人を移す。」〔「夫れ尤物有れば、以て人を移すに足る。苟くも德義に非ざれば、則ち必ず禍有り。」(左伝・昭公)勝れた者(美人)には誰も動かされる意。〕とあり、又「深山大澤(だいたく)、實に龍蛇(りゆうだ)を生ず、かの美、予はその龍蛇を生じ以(もつ)て汝(なんぢ)に禍(わざは)ひせんことを懼(おそ)る。」〔左伝・襄公〕ともある。とすればたゞその尤物の如何(いかん)を問へばよいのであつて、必ずしもその笑ふか笑はないか、物を言ふか言はないかを問はなくてもよいのである。

『樵書(せうしよ)』は元來『玉芝堂談薈(ぎよくしだうだんくわい)』〔明・徐応秋の随筆集〕とよく似た一種の類書(るゐしよ)〔既存の文献から重要語句や故事、詩文を分類・抜粋して編集した書物。〕であつて、事物(じぶつ)を類聚(るゐじう)しただけで、議論などはあまりやらないのであるが、この一條はなかなかよい文章であり、その云つてゐることも面白いのは、まことに有難(ありがた)い事であつた。昔から文人で女人(によにん)の薄命(はくめい)を説(と)いた者はいくらもあつたけれども、それはみな彩雲は散じ易し〔「好物好事、彩雲は散じ易く、琉璃は砕け易し。」(白居易「簡簡吟」)〕だとか、古今同じく悲しむなどと云つたお座(ざ)なりの言葉に過ぎなかつた。しかるに來君の言ふ所は更(さら)に一歩を進めて、女といふものは哭(な)くことも笑ふことも出來ぬといふ點を標出(へうしゆつ)して、進んで彼女達(たち)の爲に些(いささ)か不平を鳴らしてゐるのである。『癸巳類稿(きしるゐかう)』〔清・兪正燮の考証随筆〕卷十三『節婦說(せつぷのせつ)』の中に

男子の理義には涯涘(はて)がない。而(しか)も深刻な文章でもつて婦人を欺(あざむ)くのは、これ無恥(むち)の論である。

といひ、又同書の『舊唐書(くたうじよ)輿服志(よふくし)の後に書す』の中に

古(いにし)へは丁男(ていだん)・丁女といふものがあり、纒足(てんそく)をすると丁女(ていぢよ)たる資格を失つた。陰が弱くなると兩儀〔陰陽の二要素〕が完(まつた)からぬからである。又それは古への舞屣(ぶし)〔舞踏用の履〕から出たもので賤服(せんぷく)である。女が賤(いや)しくなると從(したが)つて男まで賤しくなる。

とある。『越縵(ゑつまん)堂日記補』〔清・李慈銘〕辛集(しんしふ)〔第八集〕上に『癸巳類稿』の記事を讀んで、

兪君(『癸巳類稿』の著者兪正燮(ゆせいせふ))は頗(すこぶ)る好んで婦人の爲に辯護(べんご)した。……その言ふことはみな偏譎(へんきつ)である。〔偏っており、根拠がない。〕謝(しや)夫人の所謂(いはゆる)周姥(しうぼ)に出(い)づる者を以(もつ)てしてゐるのは、一寸(ちよつと)滑稽(こつけい)である。

と云つてゐる。李君(『越縵堂日記』の著者李慈銘(りじめい))は無論周公の禮を恪守(かくしゆ)してゐる人で、何(なに)しろ士大夫(したいふ)が侍妾(じせふ)を持たないでは體面(たいめん)をきずづけると思つてゐる位であるから、兪理初〔兪正燮の字(あざな)〕の言葉が了解(れうかい)出來ないのも當然である。だが兪君の價値(かち)は固(もと)より自(おのづか)ら存在するのであつて、近代中國思想家中けだし能(よ)く之に比肩(ひけん)するものは無いであらう。皇帝が澤山の嬪妃(ひんひ)を持ち、公主(こうしゆ)も面首(めんしゆ)(男妾(だんせふ))を欲(ほ)しがり給(たま)ふのこそ、ちと偏譎(へんきつ)だと云へよう。若(も)しも他人の氣持を思ひやり、平等に持て扱(あつか)うたならば、それこそ正しく不偏(ふへん)なのである。「己(おの)れの欲(ほつ)せざる所を人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ」と孔子は云はれたが、これこそ恕(じよ)といふものではないか。兪君は頗る好んで婦人の爲に辯護してやつた。これこそ取りも直さず〔すなわち〕彼の及ぶべからざる處(ところ)なのである。試問(しもん)す〔試みに聞いてみたい〕、この一二百年間に彼を外(ほか)にして誰か一人でもこのやうに言ふことの出來た者があつたか。私の孤陋(ころう)寡聞(くわぶん)を以てしては全然その姓名を擧(あ)げることは出來ないのである。來元成(らいげんせい)(來集之)のこの一篇の小文(せうぶん)は些(いささ)かその氣持を持つてゐる。だがその時は清初(しんしよ)であるから、今からもう二百五十年以上になるわけである。もつと溯(さかのぼ)つて搜(さが)して行けばもう一人搜し當てられる。それは卽(すなは)ち大名(たいめい)赫々(かくかく)たる李卓吾(りたくご)〔明・李贄、号卓吾〕である。〔私の〕友人容元胎(ようげんたい)(肇祖(てうそ))の近著『李卓吾評傳(ひやうでん)』の第二章『李贄(りし)の思想』の中にかう云つてゐる。

彼の平等的見解(けんかい)は男女問題の上に當(あ)て嵌(は)められ、彼は男女の見識は平等であると考へてゐた。彼は云つた、「人に男女(なんによ)の別があるといふのは可。しかし見識に男女の別があるといふのは可であらうか? 見識に短長ありといふのは可。しかし男子の見識は盡(ことごと)く長(すぐ)れてをり、女人(によにん)の見識は盡く短いといふのは、果(はた)して可であらうか?」(女人の學道を以て見短(つたな)しと爲(な)せるに答ふる書、『焚書(ふんしよ)』卷二)これは平等見解の最も好き表現である。中國十六世紀の後半紀に於(お)いて、かゝる見解は確(たし)かに素晴(すば)らしいものであつた。

李卓吾の學は王陽明(わうやうめい)から出てゐるが、更に自由解放的である。『道古錄(だうころく)』〔李贄〕卷上の格物(かくぶつ)を論じた處(ところ)に

聖人は天下の人の身は卽(すなは)ち吾(われ)一人の身なることを知り給ふ。我も亦(また)人である。是(こ)れ上(かみ)は天子より、下(しも)は庶人に至るまで、通じて一個の人である。

と云つてゐるが、この云ひ方はまことに面白い。「我も亦人なり」といふのと墨子(ぼくし)の「己れも亦人の中に在り」とは頗るよく似てゐる。思想の上では勿論平等であり、行爲の上では亦まり兼愛なのである。しかし彼は當時に在つては世を惑はし民を誣(あざむ)くものとの判決を下されて、嚴重な處罰を受け、行年(かうねん)八十にして獄中に死んだ。それは姑(しばら)くおくとして、後世(こうせい)の人の批評はどうであつたらうか? 我々は先(ま)づ顧亭林(こていりん)〔明・顧炎武〕に問うて見よう。彼は『日知録(につちろく)』卷十八の『李贄(りし)』といふ一條に、張問達(ちやうもんたつ)の劾疏(がいそ)及び諭旨(ゆし)を抄録(せうろく)した後(あと)に次のやうな意見を發表してゐる。

愚案(あん)ずるに、古(いにし)へより以來(このかた)、小人(せうじん)の忌憚(きたん)する所無く聖人に叛(そむ)くことを敢(あへ)てせる者、李贄より甚(はなはだ)しきは無い。然(しか)るに嚴重な諭旨(ゆし)の下されたるにも拘(かかは)らず、彼の著書は平然(へいぜん)として世間に行はれてゐる。

さても奇妙なことである。亭林先生ともあらう人が思想文字獄(もじごく)に賛成し、焚書(ふんしよ)を以て道を衞(まも)る唯一(ゆいいつ)の手段と爲(な)してゐるのであらうか。まだ流行してゐると云つて口惜(くや)しがつておいでだが、その事は蓋し乾隆年間大いに明末の遺書(ゐしよ)を禁毀(きんき)するに至つて亭林の願望は始めて滿たされたわけであつた。この外、王山史(わうさんし)〔明・王弘撰〕・馮鈍吟(ふうどんぎん)〔明・馮班〕・尤西堂(いうせいだう)〔明・尤侗〕等(ら)の意見はいづれも一つ鼻の孔(あな)から息を出してゐるもので、多く擧げる必要はあるまい。私は顧君の學問を輕蔑しようなぞとは假初(かりそめ)にも思つて居(を)らぬ。たゞ彼にはこれといつた思想などは無かつたと云ふまでである。それにあゝいつた正統派的な態度はとても堪(たま)らぬもので、せいぜい聖王の爲に道拂(みちばら)ひ〔露払い、塵払い〕の役目をつとめるのが關(せき)の山である。私は『日知錄』を好まぬ者ではない。しかも之を讀むといつも不愉快(ふゆくわい)になつて中途(ちゆうと)でよしてしまふのは、つまりさうした惡い濁(にご)つた空氣がその中に混(まざ)つてゐる爲(ため)である。

來君の著作としては私はたゞこの『樵書(せうしよ)』を見たきりである。宋長白(そうちやうはく)〔清・宋俊〕著『柳亭詩話(りうていしわ)』卷十五に『姑惡(こあく)』といふ一條があつて云ふ、

姑惡(こあく)は鳥の名である。傳說(でんせつ)に據(よ)れば上世(じやうせい)ある婦人がその姑(しうとめ)に虐(しいた)げられ、氣結(むす)ぼれて〔憂鬱になって〕死に、化(くわ)してこの鳥となつたと云はれ、詩人はよくこれを禽言(とりことば)の中に取入(とりい)れてゐる。來元成(らいげんせい)に「その尊稱(そんしよう)を改めずして姑といひ、一字の貶(へん)もて名づけて惡といふ。」といふ句がある。來氏は『春秋』の名家を以てして、書法の妙即(すなは)ち此(ここ)に之を見る。〔一字褒貶は「春秋の筆法」であるから。〕

この一聯(いちれん)は必ずしも佳(よ)くはないが、恰(あたか)も女性の生活に關するものであるから、旁々(かたがた)こゝに抄錄することにした。亦(また)〔これも〕上文とも相(あひ)發明する〔互いに参照して文意を明らかにする〕ことが出來よう。二十五年〔一九三六年〕十二月。

譯註

*謝夫人の所謂云々——『妬記(とき)』〔南宋・虞通之。「妬婦記」とも。〕に出(い)づ。晉(しん)の大傅(たいふ)謝安(しやあん)が妓妾(ぎせふ)を納(い)れようと思つて甥(おい)たちの口からそれとなくその夫人劉氏(りゆうし)に向(むか)つて、『詩經』の『關雎(くわんしよ)』〔「窈窕たる淑女は君子の好逑」などを指す。〕等の詩には后妃(こうひ)が姫妾(きせふ)を忌(い)まなかつた德をたゝへてあるといはせた。すると夫人は、「その詩は誰が作つたか。」ときいたので、「周公(しうこう)です。」と答へると、夫人いはく、「周公は男だからそんなことを云はれたのでせう。もしも周姥(しうぼ)さん(周公の夫人)が詩をお作りになつたなら、よもやそんな事は云はれなかつた筈(はづ)だ。」