結縁豆
老年
偶〻『風俗文選』〔森川許六編〕を讀み、松尾芭蕉作『閉關の説』〔風俗文選、他〕一篇を見て、非常に面白いと思つた。その大意を譯せば、
色は君子の惡む所にして、佛も五戒〔殺生・偸盜・邪淫・妄語・飲酒の戒〕のはじめに置くといへども、さすがに捨てがたき情のあやにくに、哀なるかた〴〵も多かるべし。人しれぬくらぶの山〔闇部山。鞍馬山という。「我が来つるかたもしられずくらぶ山木々の木の葉の散るとまがふに」(古今集、藤原敏行)〕の梅の下ぶしに、思ひの外の匂ひにしみて〔「梅の花匂ふ春べはくらぶ山闇に越ゆれどしるくぞありける」(古今集、紀貫之)〕、忍ぶの岡〔元来、「信夫の里」として「陸奧の信夫もぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに」(古今集、源融)など「忍ぶ恋」に関係したが、藤堂家屋敷のあった上野の古名が忍が岡であり、そこから「岡」とつながった。〕の人目の關ももる人なくば〔守る人がいなかったら〕、如何なるあやまちをか仕出でむ。あまの子の浪の枕に袖しをれて〔「白波の寄する渚に世を過ぐす蜑の子なれば宿も定めず」(和漢朗詠集、詠み人不祥)から、名を隠す遊女などの恋につながる。〕、家を賣り身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり〔むさぼり〕、米錢の中に魂を苦しめて、物の情を辨へざるには、はるかにまして罪ゆるしぬべく〔四十を過ぎて老境に入ると人目も憚らず醜態を恥じなくなる、という「徒然草」の美学を踏まえる。〕、人生七十を稀なりとして〔古稀の称は、「人生七十古来稀なり。」(杜甫「曲江」に由来する。)〕、身の盛なる事は、わづかに二十餘年也。初めの老〔初老。四十歳。〕の來れる事、一夜の夢の如し。五十年六十年の齡かたぶくより、あさましうくづをれて〔「くづほれて」=老い衰えて〕、宵寢がちに朝起きしたる寢覺めの分別、何事をかむさぶる。愚かなる者は思ふ事多し。煩惱增長して一藝すぐるゝものは、是非の勝るゝもの也。〔是非得失の俗念もまた強いものだ。〕是をもて世の營みに當てて〔生計の手段として〕、貪慾の魔界に心を怒らし、溝洫〔溝〕に溺れて生かすこと能はず〔救いようがない〕と、南華老仙〔荘子。道教では南華真人として尊崇された。「南華老仙」は「三国志演義」の語。〕の唯利害を破却し、老若を忘れて閑にならむこそ老の樂とは云ふべけれ。人來れば無用の辯有り〔「人と向ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も閑ならず。」(徒然草)〕、出でては他の家業を妨ぐるも憂し。孫敬〔晋代。閉戸先生の称あり。(『蒙求』)また「懸頭指股」の語あり。〕が戶を閉ぢて、杜五郞〔名は伝わらない。『宋史』隠逸伝中の人物。世のために益するところなしと言って三十年家から出なかった。〕が門を鎖さむには〔如かじ〕。友なきを友とし、貧しきを富めりとして〔「心足れば即ち富めりと為し、身閑なれば乃ち貴に当たる。」(白楽天「閑居」)〕、五十年の頑夫〔かたくなに道理を覚らず、貪欲な凡夫。「伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉に、懦夫も志を立つることあり。」(孟子)〕自書し、自ら禁戒となす。
あさがほや晝は鎖おろす門の垣
(朝顏花呀,白晝還是下鎖的門的圍牆。)
最後の行は十七字の小詩〔著者は字数まで揃えて訳した。〕であつて、今では俳句と稱する。意味は朝のうち初めて咲いた牽牛花を見にちよつと出て歩くこともあるが、普段はいつも門を閉めてゐるといふのである。芭蕉は日本の俳諧の大師であつて、詩文の世に傳はること甚だ多い。この俳文は元祿五年(一六九三)、芭蕉が年四十九の時の作で〔元禄六年七月に一と月閉戸したことの記事という。とすれば芭蕉五十歳。〕、二年後に彼は世を去つてゐるのである。文中には典故〔典拠〕或は掛詞を多く用ひてゐるので、移譯し難く、今はたゞその意味を存するだけである。といふのが、私が面白いと思ふ個所はつまり芭蕉の意見、特に色欲と老年の二つに對するそれであるからである。芭蕉は元來武士として生れ後に出家したのであるが〔芭蕉は深川臨川庵の仏頂禅師に参禅し、後に鹿島紀行で仏頂を訪ねているが、出家得度はしていない。〕、しかし畢竟〔とどのつまりは〕彼はやはり詩人なのであつた。だから彼の態度は極めて温厚であり、彼は老年の純淨を尊重しながら、しかもなほ戀愛のあやまちをも許し、老いて身の程を知らぬものに比ぶれば遙かにまさつてゐるとしてゐるのは、まことに有難い高見達識であつた。ここで我々は、これも元は武士で〔兼好が滝口武士や諸大夫であったとする記事があることからの俗説という。〕後に出家した兼好法師を思ひ出す。兼好の著『徒然草』は凡そ二百四十三段、私は曾てその中の十四篇を譯出したことがある。彼は女色を論じてかう云つてゐる。
世の人の心惑はすこと色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。にほひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物すと知りながら、えならぬ〔なんともいえない〕匂には、かならず心ときめきするものなり。久米の仙人〔または「せんにん」〕の、物洗ふ女のはぎの白きを見て、通〔神通力〕を失ひけんは、まことに手足膚などのきよらに、肥え膏づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。〔いかにももっともなことだ。〕
大體欲を訶つた文章は好色から出るものであり、勸戒の物語が淫書に近いといふことも、よくある事である。しかしこのやうにはつきりと、色は憎むべきものではあるが實に愛すべきものでもあると言ひ切つてゐるのは、別して趣ふかく、この老僧の嘘つかぬこと正に見るべきである。この外にも同じやうな言葉はなほ澤山あるが、最も面白いのはやはりあの一番有名な老年に關する一篇であらう。
あだし野〔化野。愛宕の墓所。〕の露消ゆる時なく、鳥部山の烟〔火葬場の煙〕立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世は定なきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべを待ち〔待たず。対偶中止法の例としてよく引かれる。〕、夏の蟬の春秋を知らぬもあるぞかし。つれ〴〵と一年をくらす程だにも、こよなうのどけしや。飽かずをしとおもはゞ、千年を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ〔束の間の夢のような気持ちがするにちがいない〕。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて何かはせん〔老醜の身になり果てどうするというのか〕。命長ければ恥おほし。長くとも四十にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ〔ちょうどよいのだ〕。そのほど過ぎぬれば、かたちを愧づる心もなく、人にいでまじらはんことを思ひ、夕の日に子孫を愛し、さかゆく末を見んまでの命をあらまし〔長生きしようなどと思い〕、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなんあさましき〔実に呆れたことだ〕。
兼好法師は日本の吉野朝(1332―1392)〔戦前の南朝正閏論に基づく南北朝時代の呼称。〕の前半に生れ、亂世に逢つた〔遭逢した〕爲、その思想は多少悲觀に傾いてゐる。芭蕉の元祿時代は恰も〔ちょうど〕徳川幕府の盛時であつたが、その詩文はこれ亦枯寂(さびしをり)〔蕉風の理念語を宛てた注記。〕を以て主と爲してゐる。してみれば二人の基調は蓋し趣味性の相似に由つたのであり、儒釋を匯合〔合流〕し、或は更に一點の老莊を加へてゐるのも、亦一種類似の點である。中國文人の中からこのやうな人を搜さうと思つても中々たやすくは得られない。六朝の顏之推〔顔介。梁・北斉・北周・隋の四朝に出仕。『顔氏家訓』を著す。子孫に顔師古、顔真卿がいる。〕はまづその一人と數へられよう。彼の『家訓』も甚だ喜ばしい。しかも〔それでも〕このやうな一段の文章を拔き出してみよと云はれても一寸急には出來かねるのである。いつそのことずつと降つて之を明末清初に求めるならばここに一人見つかる。それは即ち陽曲(太原)の傅靑主〔明・傅山〕である。山陽の丁氏によつて刻された『霜紅龕集』〔傅山の全集〕卷三十六『雜記』の中に次のやうな一條がある。
老人といふものは若い時とは氣持が全くちがふものぢや。讀書と靜坐とより外に日の過しやう〔の〕あるものでない。さてこそこれが暮氣〔「朝気は鋭く、昼気は惰り、暮気は帰る。」(孫子)精神の気力が脱けた状態。〕といふものと知つたぞ。然らば縁に隨ひ盡に隨うて〔脚韻を踏んだ表現。仏語のようだが典拠不明。〕、その自然にまかすべきぢや。若しもこの上無理算段をして世味の上に一番の濃さを加へよう〔面白おかしく生きよう〕などと思うたら、恐らく一層の罪過を添へるが關の山ぢや〔せいぜいそれで終わる〕。
靑主も儒釋〔儒教と仏教〕に兼ね通じた人であるが、彼は又自分でも莊列〔荘子と列子。道家思想。〕を治むる者であると稱してゐる。それゆゑ彼の意見は甚だ通達〔通暁達観〕である。だが實を云ふと、一家の皮毛をほんのちよつぴりしか得てをらぬ人こそ本當は固陋不通なのである。若しも深く入つたならば大抵は通達に近い境地に達することが出來るものである。たとへば陶淵明の思想は要するに儒家的なのであるが、しかし彼は『神の釋』〔連作詩「形影神」の三首目。形と影の対話を神が総括する。〕の末〔末尾。全体の結語。〕に
〔善行によって身後の名を残そうとすることは、〕甚だ念ふ吾が生を傷ましむることを、
正に宜しく運に委せて去るべし。
大化の中に縱浪して、
喜ばず亦た懼れず。
應に盡くべくんば便ち須く盡くべし。
復た獨り多慮すること無れ。
と云つてをり、頗る二氏(佛老)に近く、毫も〔いささかも〕道學家臭いところが無い。青主のいはゆる「暮氣」も實はつまりこの中から出て來るのである。
專ら老年の生活を語つた書物としては、私は乾隆の時の慈山居士〔清・曹庭棟〕の著はした『老老恆言』五卷(望雲仙館重刊本)を見たことがあるきりである。曹庭棟の著書はこの外にも澤山あるが、私は『逸語』一部しか持たぬ。この方は原刻本で非常に立派である。意味は『論語』の逸文といふのである。『老老恆言』は、その中に言つてあることも文章も甚だすぐれてゐる。たゞ惜しいことに多くは實用を講じたもので議論を發することが少い爲、抄録すべき個所はあまりない。しかし次に擧げる諸節の如きも亦なかなか佳妙である。卷二省心の項に云ふ
凡そ人は心に欲する所があれば、往々にしてこれを夢寐にあらはす。これ妄想惑亂の確證である。老年の人は多般渉獵して來たのであるから、昔は面白い樂しいと思うた事も今では滋味はそんなものに過ぎぬとわかつてゐる筈で、追憶したとてまるで夢境に在るのと同じである。それであるからして妄想などは抱いてはならぬ、いや抱くことは要らぬのである。心のどかならば日に休まるものである。
又卷一飮食の項に云ふ、
應璩が『三叟の詩』〔魏の応璩が三人の老人に長寿の秘訣を尋ね、老人たちがそれぞれに答えた歌。〕に、『三叟前みて辭を致す、腹を量りて受くる所を節すと。」とある。この「量腹」の二字最も妙である。多いか少いかといふことは他人にはわからぬ。どうしても自分でよく吟味して量らねばならぬ。節とは、今日これだけであるから、明日もこれだけといふ具合に、多いよりも寧ろ少な目にして行くことである。又古詩に「努力して餐飯を加へよ。」〔『文選』古詩十九首「行行重行行」で、妻が旅先の夫を案じてしっかり食事を摂って養生するようにと願う句。「胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くふ。」「遊子顧反せず。」等の句も知られる。〕とあるが、老年の人はせいぜい減らさぬ程度で滿足すべきであつて、加へたら必ず胃をこわすのである。況んや〔まして〕努力してといふのでは、定めし〔きっと〕無理を感ずることであらう。たとへ一餐は加へられたにしても、その後は續かぬにきまつてをり、何の益もありはしまい。
私は嘗て李笠翁〔明・李漁〕の『間情偶寄』〔李漁の随筆〕の中に老年について語つてないのを惜しく思ひ、彼ならばきつとうまい言ひ方をしたに相違なく、或は袁隨園〔袁枚〕などよりはずつと理解に富んでゐたかも知れぬと云つたことがあつたが、『老老恆言』を見るに及んで、この遺憾を補ふことが出來るやうに思つた。曹君のこの書は、前二卷に朝夕動靜の宜を詳かにし、次の二卷に居處備用の要を列し、最後に粥譜〔数十種の粥のレシピを列挙したものという。〕一卷を附したものであるが、娓々として〔延々縷々〕陳說するところ、極めてすぐれた見解に富み、『間情偶寄』と殆ど異曲にして同工〔どちらも優れていて、それぞれに違った趣がある。同工異曲は古くは肯定的な意味合いで使われたという。〕と謂つてよい。老年に關しては、ここに拔萃する程の理論は無いにしても、實に一の奇書たるに愧ぢぬ。凡そ人に生老病死の苦しみありといふことを口にするのを忌まぬ人は兎に角一讀なさつても差支へあるまい。無論これを消閑〔暇潰し。老年の慰みとして、という含み。〕の書として御覽になつても宜しいのである。廿四年十二月十一日、北平にて。