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本色

(譯者(やくしや)曰く、本色(ほんしよく)とは、本來の色、持前(もちまへ)の地色(ぢいろ)、ひいては本領(ほんりやう)などといふ意味に使はれるが、適當(てきたう)な譯語(やくご)を考へつかぬので今はこの儘(まま)にしておく)。

郝蘭皋(かくらんこう)〔郝懿行〕の『曬書堂(さいしよだう)集』を閲(けみ)す。その中の『筆錄(ひつろく)』六卷を見るに、文章といひ意味といひ、まことに勝(すぐ)れてゐる。卷六の『本色』といふ一則の第三節に云ふ、

西京(せいけい)のさる僧院の裏手に中々立派な竹園があつて、士大夫(したいふ)がよくそこへ遊びに行く。文璐(ぶんろ)公〔名璐、字子路、号雲客。藏書家。郝懿行は尊敬の意味で公をつけた。〕もそこを訪(おとづ)れて、大いに之を愛(め)でられた。そこで僧が木の札を用意して園の命名を乞(こ)うたところ、公は欣(よろこ)んで承知された。ところが數月たつてもとんと音沙汰(おとさた)がない。僧が幾度も足を運んでお願ひすると、「わしは君達の爲に一ついい名を考へてやらうと思つてゐるのだが、まだ案じつかぬのだ。もう少し待つてくれ。」との仰(おほ)せ。それから半年もしてから、やつとその額(がく)を送り返されたのを見ると、何と「竹軒(ちくけん)」と書かれてあつた。何といふ心にくい名前の附(つ)け方ではないか。まさにこのやうにありたきものである。これを他の者にやらせたなら、それこそ「緑筠(りよくゐん)」だの「瀟碧(しようへき)」だのと、此君(たけ)〔緑筠・瀟碧は青竹の雅称。袁宏道に『瀟碧堂集』という著書がある。此君(しくん・このきみ)は東晋・王徽之が「何ぞ一日も此君無かるべけんや。」と言った故事から竹の異称となる。『枕草子』にも出てくる。〕の爲(ため)にいろんな尊號(そんがう)を上(たてまつ)る者が多いのである。(『艮齋(ごんさい)續說』八)余思へらく、公がいい名前を考へようとして中々案じつかれなかつた際、その胸中をおしはかるに、やはり「綠筠」「瀟碧」などといつた字に過ぎなかつたらうが、半年考へた揚句(あげく)、はじめて悟(さと)りを開かれたのである。千古(せんこ)の文章の事業はこれと同じ流儀(りうぎ)で行(ゆ)かねばならぬ。

郝君(かくくん)は常に王漁洋(わうぎよやう)〔清・王士禎〕・尤西堂(いうせいだう)〔清・尤侗〕二家の説を引き、ことに『艮齋雜説(ごんさいざつせつ)』(尤侗〔原文「尤洞」〕の著)が多く、亦(また)なかなか心にくい解釋が多い。最近私は清初の筆記を讀んでゐるが、佳作(かさく)が少くはないやうに思ふ。王漁洋と宋牧仲(そうぼくちゆう)〔清・宋犖(そうらく)〕、尤西堂と馮鈍吟(ふうどんぎん)〔清・馮班〕、劉繼莊(りうけいさう)〔清・劉獻廷〕と傅青主(ふせいしゆ)〔清・傅山〕、みな是(ぜ)である。私は『筆録』〔曬書堂筆録〕が縁となつて『雜説』〔艮斎雑説〕を讀んだが、そのすぐれた處はもう大抵郝君に引用されてしまつてゐた。だからここにはやはり『筆録』から鈔録(せうろく)することにした。しかも彼の案語(あんご)が亦なかなか面白く、文章を書く人にとつて甚だ參考になる。

文章を書くには別にこれといつた秘訣(ひけつ)があるわけのものではない。たゞ「𥳑單(かんたん)」の一字あるのみである。これは普通の英作文の教科書の中にさへちやんと書いてあり、文章を作るには第一に𥳑單でなければならぬ、さうしてこそ始めて要領(えうりやう)を得るのだと學生に教へてゐるのである。ところがこの事たる、どうして中々容易なものではない。いはゆる三歳の童子にも言へるが、八十の老翁にも實行出來ない者なのである。『鈍吟雜錄(どんぎんざつろく)』卷八にこんなことが書てある。

平常の談話にも、その中に文字(文學の意)がある。歐陽公(おうやうこう)〔宋・欧陽脩〕は「人の壁に題したものを見ても、その人の文字の程が知れる。」と云つてゐられる。してみれば文字の好(よ)さはたしかに華綺(はなやかさ)にはない。學者がこれを曉(さと)らぬのは、これ一病(いつぺい)である。〔学者は学習者、病は欠陥の意。〕

だが、平常の談話と云つても實はなかなかさう容易ではない。といふのが、その中につまり文字があるからである。大抵談話を華綺(はなやか)にするだけのことならば、むしろどつちかと云へば容易である。それはちよつと脂粉(おしろい)を施(ほどこ)す暇(ひま)さへ都合(つがふ)すれば出來ることで、正(まさ)に文字に於けると同じ理窟(りくつ)である。ところが本色(ほんしよく)となると反(かへ)つてむつかしい。なぜか? 本色が持ち出せるには、本來の地質(ぢしつ)と形と色とがしかと足を踏みしめて獨(ひと)り立(だ)ち出來るといふことが必要である。その次に人情として兎角(とかく)自信がないので、修飾(しうしよく)に賴(たよ)らうと考へがちなものであるが、是非(ぜひ)ともこの前から塗られてある脂粉を洗ひ去つてしまはなければ、本色は露(あら)はれて來ない。これがそのむつかしい所以(ゆゑん)である。半年も考へた揚句(あげく)、やつと「綠筠」「瀟碧」といつた語を捨て去り、一個の平凡で地味な「竹軒」を尋ねあてたこと、これこそ正に文人にとつて極めて大きな經驗であり、それは亦後世の人にとつても極めて好(よ)き敎訓(けうくん)なのである。

大分(だいぶ)幾年(いくねん)も前のことであるが、偶々(たまたま)宋の唐子西(たうしせい)〔北宋・唐庚〕の『文錄』〔唐子西文録。清・何文煥『歴代詩話』所収〕を讀み、次のやうな一條があつたのを見て非常に嬉しく思つた。それはかういふのである。

關子東(くわんしとう)〔宋・関子東〕が一日辟雍(へきよう)(國子監(こくしかん))〔最高学府〕に寓(ぐう)し、折からひどい朔風(さくふう)〔北風、木枯し〕が吹いたので、「夜長うして何時か旦(あ)けん、寒きに苦しんで寐(しん)を成さず。」といふ句が出來た。これを持つて先生の處(ところ)へ行き、「夜長(よるながし)と苦寒(さむきにくるしむ)とを對(つゐ)にしたのでは、詩の規則に剉對(しやくたい)〔文字を少し変えて同意の表現を避ける対偶法〕といふのもありますにしても、どうもしつくり据(す)はらぬやうに思ひますが。」と聞いた。すると先生は「いや、それでよいのだ。ちやうど藥の中に性を存(そん)せねばならぬのと同じことだ。」と云はれた。

ここの剉對(さつたい)だとか蹉對(さたい)〔語句を少しずらす対偶法〕だとか句中對(くちゆうつゐ)〔同じ語句の中で文字を交錯させる対偶法〕といつた問題は結局どんなのか、今はまあ措(お)くとして、私が面白いと思つたのは藥の中に性を存するといふこの譬喩(ひゆ)であつた。さうして當時(たうじ)私は「煆藥廬(かやくろ)」といふ別號さへ附けたのであつた。〔藥を煎じる庵の意。著者が書斎に銘じ、煆薬廬制箋という専用の便箋を作らせたりした。〕それも初めはおとなしく「存性廬(そんせいろ)」と附けようと思つたが、その道學臭(だうがくしう)が氣にかかつたし、また何だか藥酒店(やくしゆてん)のやうでもある。それなら「藥性廬」としようか。それでは人から國醫(こくい)(漢法醫)と思はれるかも知れぬ。と、さういふわけで前のやうに改めた次第であつた。藥を煆(ね)る方法は私も實はよく知らぬ。多分酒の燗(かん)をつけたり茶を焙(はう)じたりするのと似たやうなものであらう。その火加減が一番大切で、それよつて藥材から不要の分子を除きしかもその本性を失はないやうにするのである。このコツさへ會得(ゑとく)したなら、たしかにそれは文章の事業にも通用出來ようといふものだ。性を存することと本色を存することとは必ずしも一つの事ではない。しかし私はどちらも非常によい言葉で、我々文章を書かうと思つてゐる者にとつて非常に役に立つと思つたから、それも一緒に寫(うつ)し取つたわけである。

『鈍吟雜錄』卷八『遺言』のおしまひの三則は、みな謝疊山(しやでふざん)〔宋・謝枋得〕の選(せん)した『文章軌範』〔原文「文章規範」〕を批評したものであるが、その第一則の云ひ方が最(もつと)も好(よ)い。曰く、

大凡(おほよそ)文を學ぶには初(はじめ)は小心(せうしん)でなければならぬ。後に段々と學問博(ひろ)く、識見高く、筆端(ひつたん)が老いたならば、はじめて放膽(はうたん)にやるべし。能(よ)く細(さい)にして而(しか)る後(のち)能く粗(そ)、能く簡(かん)にして而る後能く繁(はん)、能く純粹(じゆんすゐ)にして而る後に能く豪放(がうはう)なるを得(う)るのだ。ところが疊山(でふざん)はそれを全部さかさまに云(い)うてをる。ことに俗氣(ぞくけ)などといふものは、文字の中にはこればかしも〔ほんの少しも〕混(まじ)へてならぬものなのだ。しかるに彼は俗より雅(が)に入れなどと云うてゐる。まことにたはけた論である。東坡(とうば)先生は、「嘗(かつ)て『孔子世家(かうしせいか)』〔史記〕を讀むに、その言語文章の循々然(じゆんじゆんぜん)として規矩(きく)あらざるはなく〔折目正しく自然な流れでありながら、文の結構がきちんと準則に適っている〕、敢(あへ)て放言(はうげん)高論(かうろん)せざるを觀(み)た。」と云うてをられる。してみると放言高論は夫子(ふうし)〔孔子先生〕の爲(な)し給(たま)はざりし所であり、東坡の取らざる所である。謝枋得(しやはうとく)が放膽文(はうたんぶん)を敍(じよ)して、開口一番(かいこういちばん)まづ、初學者これを讀めば必ずや放言高論が上手(じやうず)になるであらう、と云うてをるが、そんなことをやつて何でよいものか。初學者を誤らすばかりではないか。

鈍吟(どんぎん)の意見に私は全部が全部贊成(さんせい)は出來ぬが、その宋儒と宋文とを非難してゐる處は大抵(たいてい)正しいと思ふ。ここの、小心でなければならぬとして放言高論に反對(はんたい)してゐるのは、甚だ道理があると私も思ふ。卷一『家戒(かかい)』上に曰く、

士人(しじん)は書を讀み古(いにし)へを學ぶのだから、文字を作ることはどうしても免(まぬか)れまいが、論だけは絕對(ぜつたい)に作らぬやうにせよ。

これは言ひ得(え)て極めて妙(めう)である。〔実にうまいことを言ったものだ。〕彼はつまり人々が「漢高祖論」などといつたものを作つて、勝手放題(かつてはうだい)なデタラメを吐(は)きちらし、惡い氣風に染(かぶ)れて、救(すく)ひやうがなくなつてしまふのを切(せつ)に心配したのである。卷四『讀古淺說(どくこせんせつ)』の中に曰く、

余は生れて僅(わづ)かに六十年、上は朝廷より、下は閭里(りより)に至るまで、その間の風習是非(ぜひ)は、若い時分(じぶん)に見たのと今日(こんにち)のそれとでも遙(はる)かに異(ことな)つてゐる。況(いは)んや古人(こじん)の事は遠きは數千年、近い者でもなほ百年もたつてゐるのであるから、一(いつ)に〔一概に〕今日見る所を標準にしてその是非を定めるなどといふことは、馬鹿でなければ僞(いつは)りである。宋人(そうひと)の作つた論の俗な(つまらぬ)のが多いのは、實(じつ)にこの病弊(びやうへい)を犯(をか)してゐるからだ。

論を作ることの弊害(へいがい)を知る人はこれまで一向(いつかう)無く、その禍(わざはひ)は文壇(ぶんだん)に及んで、今日に至つてゐる。馮(ふう)君の言葉は眞(まこと)に大獅子吼(だいししく)〔勇ましい議論〕であるが、惜(を)しいかな耳を傾けて聽(き)かうといふ人は稀(まれ)なのである。小心の説はたしかに中學や小學の國文教師の注意に値(あたひ)するものであり、文人の爲(ため)の存性といふのと、言ひ方はちがふにしても、その應用(おうよう)はたしかに更に廣(ひろ)く、利益(りえき)も更に大きいのである。私は論を作ること三十年、この頃(ごろ)になつて始めて小心といふことを知り、他に進歩とてありはしないが、放言高論だけはまあどうやら卒業した。若(も)し夫(そ)れ〔そこでさて、ひるがえって〕本色に至つては、なほ道を望んで未だ之を見ないのである。〔己の真面目(しんめんもく)を発揮する文を作ることに至っては、まだ遠く及ばない道程である。〕廿四年〔一九三五年〕十二月廿五日。