結縁豆
朱舜水に關して
朱舜水は私共の郷里の大先輩である。彼は王陽明と共に紹興府屬の餘姚縣の人で、民國成立の前後には特別に國人の崇敬を受けた。杭州清泰門内に祠が立てられ、遺書が重刊されたのは、たしか民國一二年〔大正12年(一九二三)〕頃の事であつた。私はかねがね郷里の先輩の著作を蒐集しようと考へてゐるが、願のみ大きくて力薄く、手に入れたのはせい〴〵同じ府城内に在る山陰と會稽の二縣を以て限りとし、その外では蕭山の毛西河〔清・毛奇齢〕と王南陔〔清・王紹蘭〕、餘姚の黄太沖〔明・黄宗羲〕と邵念魯〔清・邵廷采〕ぐらゐのものだ。目的は本を買ふことに在るので、必ずしも郷曲の見〔鄕土贔屓、おらが村自慢〕に由るわけではないのである。舛水の遺書も同樣な原因で一部買ひ入れはしたが、別段念を入れて讀んだこともなかつた。といふのが第一にそれは鉛字印本であつて、私の同郷人である馬一浮〔清・馬浮〕の編校したものであるとはいひながら、誤字がやたらに多く、讀んで不愉快だつたからである。第二に朱君の節義は勿論極めて尊敬すべきものではあるが、その學問となると私などにはとてもわからぬのである。つまり彼の宗とする〔第一とする〕所が王伯安〔明・王守仁、字伯安、号陽明〕であつたにせよ朱仲晦〔南宋・朱熹、字仲晦、号晦庵〕であつたにせよ、どうせ道學はどうもあまりよく解りかねるからである。最近偶〻新井白石の『東雅』を閱したところが、その中に常に舜水の說が引かれてゐるのを見た。果蓏樹竹、禽鳥鱗介の各門に關するものが多いのであるが、『朱子談綺』〔安積覚(澹泊)編『舜水朱氏談綺』〕に出づとちやんとことわつてゐるのが幾つもあつた。私はこに於て始めて舜水が名物〔物産、博物〕に對して大した知識を有し、一般の儒者と異ふといふことを知つた。そこで再び本を搜し出して讀んでみると、十年も讀まずに放つてゐたことはたしかに惜しかつたとはいへ、燭を炳して明るくする〔老学でも努めること〕のは、終身墻に面する〔何も学ばないこと〕よりは兎に角勝つてゐるわけでとすればこれ亦たしかに喜んでよいことであつた。
舜水の『朱氏談綺』四册は、名古屋のさる古書店の目録に出てゐるのをずつと前に見て知つてゐた。十年前に亡友馬隅卿君〔戯曲・民俗学研究者〕がよくこれに言及して、これはどういつた風の本だらうね、と云ひ云ひしてゐたものだが、つひに買つてみる氣にはならなかつた。最近注文してたうとう〔到頭〕買つたところ、寳永五年、即ち西暦一七〇八年の刻本であるのに、紙も墨つきも眞新しいやうで、とても二百三十年前のものとは思はれない。書は凡そ三卷〔三巻四冊〕、舜水の門人安積覺〔号澹泊〕の序文に據れば、卷中の二册〔中之本、中之末〕はもと舜水が水戸侯〔徳川光圀〕の爲に著はした『學宮圖説』〔孔子廟や学校について記したもの〕で、卷上懋齋野傳〔人見伝、字子伝、号懋齋。本姓藤田氏だが小野姓人見氏を継ぎ、光圀に仕え、大日本史編纂に携わり、初代彰考館総裁になった。〕の問によつて簡牘牋素〔木竹紙絹等の筆記具〕の式、深衣幅巾〔儒者の冠服〕の制、及び附帶的に喪祭の略に就いて、その聞く所を記したものであり、卷下は今井弘濟〔彰考館員〕が聞く所の事物名稱を概擧し、類を分つて羅列し、漢和並びに記したもので、間〻説明が加へられてゐる。『東雅』に引かれてゐるのは大抵これに出てゐる。文集〔朱舜水先生文集〕の中に答問三卷があるが、それからも數ケ條徴引されてゐる。安積氏の『澹泊齋文集』中の村篁溪〔中村篁渓〕泉竹軒〔酒泉竹軒〕に與ふる書に、舜水には自らその大學問大文章がある、この書は瑣屑にして殊に觀るに足らぬが、重ねて水戸侯の遺教に違ひたるを以て〔の〕、故に編刊したのであるといふ意味のことを云つてゐるが、その撰に成る序文にもそれと同じ意味のことを、もつと委曲を盡して述べてゐる。卽ちその末尾にかう書いてゐる。
昔は魚朝恩、那廷玉〔それぞれ唐・安史の乱当時の宦官・将帥〕の布陣を觀て、その訓練の法あるを歎じたるに、廷玉は惻然として、これ臨淮王〔李光弼〕の遺法なり、臨淮沒してより後校旗〔布陣のための装備〕の事無し、これ安んぞ賞するに足らんやと云ひしとぞ。覽る者斯の言を味ふあらば、得たりと爲すに庶からん。〔かつての伝承が失われたことの慨嘆が著述の動機となったこと。〕
これは正統的な見方であつて、無論それにも道理はある。だが政事や理學〔性理学=朱子学〕を離れて、一個の人間の性情を知らうといふ場合、もう少し微小な事柄の上から見て行つた方が、反つてその眞相を明らかにし得ることも、確かによくある事である。原公道〔原念斎〕著『先哲叢談』卷二に朱舜水の事十三條を記してゐるが、その十一に云ふ、
舜水歸化して年所を歷、倭語を能くす。然れどもその病革まるに及びては、遂に鄕語に復り、侍人了解すること能はず。
又、同卷中の陳元贇に就いて記した一條に、
元贇能く此邦の語に嫺る、故に常に唐語を用ひず、元政〔深草元政上人〕の詩に「人は世事無くして常談を交へ、客は方言に慣れて談毎に諧なり。」といひ、又「君能く和語を言ひ、郷音舌尚ほ在り、久しく狎れて十に九を知る、旁人猶ほ未だ解せず。」の句あり。
とある。この二條は共に言語の瑣小な事に關して記したものであるが、しかし讀んで何か得る所がある。いはば小像の顏に點じた黒子のやうなもので、中味の空つぽな長篇の碑傳に勝つてゐる。文集中の疏掲論議〔解析や評論〕といつた正面切つた文章や、それから『陽九述略』『安南供役紀事』〔朱舜水の著述〕といつたものは、固よりその學問氣節を見るに足るのではあるが、それよりも集中の書牘九卷、答問三卷、『談綺』三種は、反つてその瑣屑細微の處に一層よく作者の人と爲り〔人柄・性情〕を見ることが出來て、まことに面白い資料である。『談綺』卷上は信函箋疏〔書翰の作法〕の樣式や神主棺木〔位牌や棺桶〕の圖法に關したもので、いづれにも詳細な圖解が加へてある。卷中は孔子廟の構造を說いたもので、頗る『營造法式』〔北宋・李誡による最古の建築技術書〕といつた風があり、つくづく敬服させられざるを得ない。安積氏著『朱文恭遺事』の中に
藏書甚だ少く、その崎港より帶來せし者は兩簏〔本箱二つ〕に過ぎず、しかも闕失多かりき。好んで『陸宣公奏議』〔唐・陸贄が徳宗に上奏した文〕『資治通鑑』を看る。武江に來るに及び、方めて京師にて鐫る所の『通鑑綱目』を購得し給ふ。文字を作るに及んでは、經史に出入し、上下古今、娓々〔澱みなく〕數千言、みなその腹中蓄ふる所なり。
と云つてゐる。別の方面に於いても、彼の常識は甚だ豐富であつた。卷下に名物を辨別し雅俗に通徹してゐるのは、多くは耳食者〔耳学問〕の能く知る所でない。小宅生順〔水戸藩士〕に答ふる書の一にこんなのがある。
急性子に就いてお質ね有之候へども、僕寡聞にして知る所これ無く候。藥材草木鳥獸については更に知る所これ無く候。然れども急性子は乃ち鳳仙花の子なりと聞き及び候。但しその是非は辨へず候。手を觸るれば卽ち暴噪を肆にす〔勢いよく弾け飛ぶ〕といふも、未だ是否を知らず候。
これが果して知る所無き者に書けることだらうか。小宅の質問に答へて沈香速香などの香に就いて歴説してゐるのに至つては、特に易々たるわざではない。今關天彭〔明治の漢詩人〕の文中、舜水が安南〔ベトナム〕に滯在してゐたのは商賣をしてゐたのではあるまいか、それだから香料に詳しかつたのであらうと疑つてゐるが、まことに無理のないことである。野節〔竹洞人見節。本姓の小野氏を修して呼ぶ。懋齋とは従兄弟ともいう。竹堂の父必大に『本朝食鑑』の著がある。〕に答ふる書の中に、
敝邑〔私の故郷の村〕の靑魚に二種有り、これは池沼に養ふものにて、江海の物にてはこれ無く候。其一は螺螄靑〔螺螄を殻ごと食う淡水魚。〕といひて、全身赤黒色、鱗大きくして味佳しく、大なる者は長さ四五尺も有るべく候。其一は尋常の靑魚に候。背黑くして腹は稍白く、味は之に次ぎ候。之を養ふこと二年にして三四尺なるを得べきも、その大なる者は見しことこれ無く候。これは小魚を食つてしまふ故、長く生かしておかぬ爲に候。
案ずるに范嘯風著『越諺』卷中、水族部下に、
鯖魚、また螺鰤青とも名づく。專ら螺螄を食す。その身は渾圓、その色は青く、その膽は大涼〔並外れて大きい〕。
とある。この螺鰤靑は紛れもない越中の俗語なのであるが、范氏の前にすでに舜水の文集に見えてゐたことは思ひがけもないことで、まことに面白い。『談綺』卷下、天時部〔天地部〕の首に「零糖」を列し、その下に和語で、蓋し氷柱のことならんと註してゐる。『越諺』には「零蕩の如く呼ぶ」〔零糖と同じ発音で氷柱の意。〕とある。この俗名は呉越を通じて行はれてゐるが、著録〔書き物〕に見えるのでは、恐らくやはりこれが最も早いと思はれる。聖廟の建築を記してはあのやうに細緻嚴密であつたのが名物を說く段になるとこんどは多く俗語を引用してゐるのは、一見矛盾せるかに思はれるけれども、實はこれこそ誠篤切實に出でたものであつて、二者は反つて互ひに相證することが出來るのである。『遺事』中に云ふ、
文恭〔光圀が舜水に贈った私号〕は自ら持すること嚴毅、人に接しては和、客と談論しては間〻俚諺嘲笑の事に及ぶ。
飮酒すること能はざりしかど、客の飮むを喜びたり。時に或は棋に對することありしが、棋は甚だしくは高からざりし。
こゝに書かれてあることは皆面白く、頬上に毫を添へし妙がある。〔僅かの修正で妙味を添えること〕『遺事』中には舜水が述べる所の「祇好州蘇作判通」〔祇だ州蘇に判通と作るに好し。〕の一詩を記し、又一條に云ふ、
媒人あり口を極めて女子の姣きを言ふ。しかるに之を娶りたるに醜くかりしかば、夫家大いに怒りて媒人を毆らんと欲す。その人罵りて曰く、「花は花に對し、柳は柳に對し、破糞箕は玍苕帚に對す。」と。〔最後は、「壊れ塵とりは破れ菷に似合いだ。」=「破れ鍋に閉じ蓋」の類〕玍は音芝、俗字なり、猶ほ敝茗帚と言ふがごとし。
案ずるにこゝに舜水の風趣を想見することが出來る。異邦の學子にこの諧味〔ユーモアの趣〕をわからせようと思つても、勿論甚だむつかしかつたことであらう。とすればその寂寞の情亦想ふべきである。〔その寂しさもまた想像できる。〕生が音芝で敝と訓ずることは、今考へるすべがない。〔現在の発音と異なることを知る徴証がないから。〕『易餘籥録』〔清・焦循の考証随筆。「籥」は書き消しのできる竹や木の板。〕卷十に顧黄公〔明・顧景星〕の『白茅堂文集』を引いて徐文長〔明・徐渭〕の遺事を書して云ふ、
文長が繼妻を毆殺した次第はかうである。雪の日に一人の子供が竈の下にうづくまつてゐたので、妻が憐れに思ひ普段着を着せてやつた。文長はその事で妻を大いに罵り、妻の方でも罵り返した。文長はそのとき欋を持つて氷を取つてゐたが、怒つた餘りにそれを妻に向つて擲げつけたところが、誤つて中つて妻は死んでしまつたのである。縣尉(縣廳の副官)が驗屍にやつて來て、聲を荒らげて欋といふ字はどう書くんだと聞いた。文長は笑ひながら「若不知書生未出頭地耳」〔若知らずや、書生の未だ頭地を出ださざるのみ。〕と答へた。蓋し俗に欋の字は玍と書くからである。尉は怒つて、玍を用ひて殺しましたと報告した。かくて文長は遂に獄に投ぜられた。
その注に「櫂は音瞿、『釋名』〔後漢・劉熙〕に四齒の杷なりとある」とある。案ずるに今日越中に瞿と名づくる鐵器のあることは知らぬ。四齒の杷は農夫が地を掘るのによく之を用ふるが、それは鐵勺と名づけてゐる。別にもう一種、鋤に似て尖り、もつと短くもつと堅くて厚いのがあつて、石工が使ひ、山支と通稱してゐるが、ことによればそれが芝の音で玍といふ字を書けるのかも知れぬ。だが普通の家にこの道具は備へつけないし、氷を取るのに必ずしもこんなものは要らない。また竈部屋の中で氷を取るやうなこともない筈である。二百餘年の間に或は言語の變遷が無いでもなかつたのであらうが、惜しいことにこの玍の字の現物を査べあてない。たゞ朱黄二公の遺文〔朱舜水遺文と顧黄公遺文〕中にこの俗語奇字を見ることを得たのは、亦甚だ面白い事であつた。
舜水の著作を語る以上、どうしてもあの『陽九述略』に觸れないわけにはいかぬ。これは辛丑六月門人安東守約〔安東省菴〕に書き與へた文章であつて、明朝滅亡の原因を說明して、士夫が罪業を作つたことと、人民の困苦離叛とに歸結してゐるのは、自ら深い見識を具へたものである。又、清兵が北京を陷れた際、流言を放つて均田均役の說を唱へた爲に、人民が多く之に惑はされたのだと謂つてゐるのは、これ亦異聞に屬し、清兵の害を記した諸條と共にみなや考に備へてよい。たゞ文章が長いから今は多く引用することが出來ぬ。上文に安東守約に言及したが、これに就いても一寸言つておかねばなるまい。舜水は日本に居ること久しく、知人は甚だ多かつた。それは書牘九卷の中、東邦の人士に與へたものがその八卷を占めてゐることによつても知られよう。門人も少くなかつた。しかし自ら安東一人のみ知己と稱すべしと謂つてゐる處を見ると、その交誼の深密なることは蓋し安積と雖も及ばなかつたのである。書牘第一卷にある、孫の毓仁に與へた書に、詳しくその事を記してゐる。今それを次に錄すれば、日本では唐人の逗留を禁ずること已に四十年、先年南京の船七隻同じく長崎に泊するや、十九人の富商連名上申して滯在を懇願せしかど、みな許されず。予は當初よりその意志なし。しかるを安東省菴切に予に留らんことを乞ひ、轉展傳を求めて人に頼みくれし故、此地に駐ることとなりぬ。これ特に予一人の爲にこの大禁を開きしなり。既に留ることとなりて後は、俸祿の半を分ちて予に與ふ。省菴は薄俸二百石といふも、實は米八十石のみ、その半を去れば僅かに四十石にすぎず。毎年二度予に會ふために長崎に到る。一回の費用が銀五十兩、二回で都合百兩なれば、苜蓿先生〔薄給・清貧の教師。「苜蓿」はウマゴヤシ。〕の俸はこれで盡くるわけなり。又土産や時節の物など絡繹として〔絶え間なく〕人に持たせて送り屆け、己れは敝衣糲飯〔玄米〕菜羹にて我慢して、時たまの馳走といふが鰯數枚のみなり。家には唐鍋一つを止むれど、時を經ても煮る物無く、塵積り鐵銹びることあり。その宗親〔一族〕朋友みな之を誹り笑ひ之を諫め沮むれども、省菴恬然として顧みず、唯〻日夜書を讀み道を樂しむのみ。予今こゝに來りて十五年、稍〻物を寄せて志を表はせども、前後みな受けず。矯激に過ぎて、予は甚だ樂しまず。然れども改むること能はざる也。かゝる人は中原にも滅多にあるまじ。汝は名義を知らぬにしても、必ず心に銘し骨に刻して、世々決してこの事をば忘れぬやうにせよ。奈何せん此地の法度嚴しくて、境を出でて伺候〔挨拶〕することはかなふまじ。如何とも仕方なし。せめて手紙なりと書いて懇ろに禮を陳べてくれたら好いと思へど、恐らくそれも又不可能ならんか。
文集は鉛字本で誤りが多い。今『先哲叢談』卷三所載に據つて錄し入れた。この書簡は蓋し延寳六年〔一六七八年〕に書かれ、そのとき毓仁は長崎に至つたのである。〔天和元年(一六八一)暮に来朝。〕今に於いて二百六十二年、遂に古人の高誼清風の復た見るべからざるを覺える。廿九年七月。
譯註