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朱舜水(しゆしゆんすい)に關(くわん)して

朱舜水は私共(わたくしども)の郷里の大先輩(だいせんぱい)である。彼は王陽明(わうやうめい)と共に紹興府屬(ぞく)の餘姚縣(よえうけん)の人で、民國(みんこく)成立の前後には特別に國人(こくじん)の崇敬(すうけい)を受けた。杭州(こうしう)清泰門(せいたいもん)内に祠(ほこら)が立てられ、遺書が重刊(ぢゆうかん)されたのは、たしか民國一二年〔大正12年(一九二三)〕頃(ごろ)の事であつた。私はかねがね郷里の先輩の著作を蒐集(しうしふ)しようと考へてゐるが、願(ねがひ)のみ大きくて力薄く、手に入(い)れたのはせい〴〵同じ府城内に在る山陰と會稽(くわいけい)の二縣を以て限りとし、その外(ほか)では蕭山(せうざん)の毛西河(まうせいが)〔清・毛奇齢〕と王南陔(わうなんがい)〔清・王紹蘭〕、餘姚の黄太沖(くわうたいちゆう)〔明・黄宗羲〕と邵念魯(せうねんろ)〔清・邵廷采〕ぐらゐのものだ。目的は本を買ふことに在るので、必ずしも郷曲(きやうきよく)の見(けん)〔鄕土贔屓、おらが村自慢〕に由(よ)るわけではないのである。舛水の遺書も同樣な原因で一部買ひ入れはしたが、別段念を入れて讀んだこともなかつた。といふのが第一にそれは鉛字印本(えんじいんぽん)であつて、私の同郷人である馬一浮(ばいつぷ)〔清・馬浮〕の編校(へんかう)したものであるとはいひながら、誤字がやたらに多く、讀んで不愉快だつたからである。第二に朱君の節義(せつぎ)は勿論(もちろん)極めて尊敬すべきものではあるが、その學問となると私などにはとてもわからぬのである。つまり彼の宗(そう)とする〔第一とする〕所が王伯安(わうはくあん)〔明・王守仁、字伯安、号陽明〕であつたにせよ朱仲晦(しゆちゆうくわい)〔南宋・朱熹、字仲晦、号晦庵〕であつたにせよ、どうせ道學はどうもあまりよく解(わか)りかねるからである。最近偶〻(たまたま)新井白石(あらいはくせき)の『東雅(とうが)』を閱(けみ)したところが、その中に常に舜水の說が引かれてゐるのを見た。果蓏(くわら)樹竹(じゆちく)、禽鳥(きんてう)鱗介(りんかい)の各門に關するものが多いのであるが、『朱子談綺』〔安積覚(澹泊)編『舜水朱氏談綺』〕に出(い)づとちやんとことわつてゐるのが幾(いく)つもあつた。私はこに於(おい)て始めて舜水が名物(めいぶつ)〔物産、博物〕に對して大した知識を有し、一般の儒者と異(ちが)ふといふことを知つた。そこで再び本を搜し出して讀んでみると、十年も讀まずに放(ほう)つてゐたことはたしかに惜しかつたとはいへ、燭(しよく)を炳(てら)して明るくする〔老学でも努めること〕のは、終身墻(かき)に面する〔何も学ばないこと〕よりは兎に角勝(まさ)つてゐるわけでとすればこれ亦(また)たしかに喜んでよいことであつた。

舜水の『朱氏談綺』四册は、名古屋のさる古書店の目録に出てゐるのをずつと前に見て知つてゐた。十年前に亡友馬隅卿(ばぐうけい)君〔戯曲・民俗学研究者〕がよくこれに言及(げんきふ)して、これはどういつた風の本だらうね、と云ひ云ひしてゐたものだが、つひに買つてみる氣にはならなかつた。最近注文してたうとう〔到頭〕買つたところ、寳永(ほうえい)五年、即ち西暦一七〇八年の刻本(こくほん)であるのに、紙も墨つきも眞新しいやうで、とても二百三十年前のものとは思はれない。書は凡(およ)そ三卷〔三巻四冊〕、舜水の門人安積覺(あさかかく)〔号澹泊〕の序文に據(よ)れば、卷中の二册〔中之本、中之末〕はもと舜水が水戸侯(みとこう)〔徳川光圀〕の爲(ため)に著(あら)はした『學宮圖説(がくきうづせつ)』〔孔子廟や学校について記したもの〕で、卷上懋齋野傳(ぼうさいやでん)〔人見伝、字子伝、号懋齋。本姓藤田氏だが小野姓人見氏を継ぎ、光圀に仕え、大日本史編纂に携わり、初代彰考館総裁になった。〕の問によつて簡牘(かんとく)牋素(せんそ)〔木竹紙絹等の筆記具〕の式、深衣(しんい)幅巾(ふくきん)〔儒者の冠服〕の制、及び附帶(ふたい)的に喪祭(さうさい)の略に就いて、その聞く所を記したものであり、卷下は今井弘濟(いまいこうさい)〔彰考館員〕が聞く所の事物名稱を概擧(がいきよ)し、類(るゐ)を分(わか)つて羅列(られつ)し、漢和並びに記したもので、間〻(まま)説明が加へられてゐる。『東雅』に引かれてゐるのは大抵(たいてい)これに出てゐる。文集〔朱舜水先生文集〕の中に答問(たふもん)三卷があるが、それからも數ケ條(すうかでう)徴引(ちよういん)されてゐる。安積氏の『澹泊齋(たんぱくさい)文集』中の村篁溪(そんくわうけい)〔中村篁渓〕泉竹軒(せんちくけん)〔酒泉竹軒〕に與(あた)ふる書に、舜水には自らその大學問大文章がある、この書は瑣屑(させつ)にして殊(こと)に觀(み)るに足らぬが、重ねて水戸侯の遺教(ゐけう)に違(たが)ひたるを以(もつ)て〔の〕、故(ゆゑ)に編刊したのであるといふ意味のことを云つてゐるが、その撰(せん)に成る序文にもそれと同じ意味のことを、もつと委曲(ゐきよく)を盡(つく)して述べてゐる。卽(すなは)ちその末尾にかう書いてゐる。

昔は魚朝恩(ぎよてうおん)、那廷玉(なていぎよく)〔それぞれ唐・安史の乱当時の宦官・将帥〕の布陣(ふぢん)を觀て、その訓練の法あるを歎(たん)じたるに、廷玉は惻然(そくぜん)として、これ臨淮王(りんわゐわう)〔李光弼〕の遺法(ゐほふ)なり、臨淮沒(ぼつ)してより後校旗(かうき)〔布陣のための装備〕の事無し、これ安(いづく)んぞ賞(しやう)するに足らんやと云ひしとぞ。覽(み)る者斯(こ)の言(げん)を味(あぢは)ふあらば、得たりと爲(な)すに庶(ちか)からん。〔かつての伝承が失われたことの慨嘆が著述の動機となったこと。〕

これは正統(せいとう)的な見方であつて、無論それにも道理はある。だが政事や理學〔性理学=朱子学〕を離れて、一個の人間の性情を知らうといふ場合、もう少し微小(びせう)な事柄の上から見て行つた方が、反(かへ)つてその眞相(しんさう)を明らかにし得ることも、確かによくある事である。原公道(こうだう)〔原念斎〕著『先哲叢談(せんてつそうだん)』卷二に朱舜水の事十三條を記してゐるが、その十一に云ふ、

舜水歸化(きくわ)して年所(ねんしよ)を歷(へ)、倭語(わご)を能(よ)くす。然(しか)れどもその病革(あらた)まるに及びては、遂に鄕語(きやうご)に復(かへ)り、侍人(じじん)了解すること能(あた)はず。

又、同卷中の陳元贇(ちんげんゐん)に就(つ)いて記した一條に、

元贇能(よ)く此邦(このくに)の語に嫺(な)る、故に常に唐語(たうご)を用ひず、元政〔深草元政上人〕の詩に「人は世事(せいじ)無くして常談(じやうだん)を交(まじ)へ、客(かく)は方言(かく)に慣れて談毎(つね)に諧(かい)なり。」といひ、又「君能く和語を言ひ、郷音舌尚(な)ほ在り、久しく狎(な)れて十に九(きう)を知る、旁人(ばうじん)猶(な)ほ未(いま)だ解せず。」の句あり。

とある。この二條は共に言語の瑣小(させう)な事に關して記したものであるが、しかし讀んで何か得(う)る所がある。いはば小像の顏に點(てん)じた黒子(ほくろ)のやうなもので、中味の空つぽな長篇の碑傳(ひでん)に勝(まさ)つてゐる。文集中の疏掲(そけい)論議〔解析や評論〕といつた正面切つた文章や、それから『陽九述略(やうきうじゆつりやく)』『安南供役紀事(あんなんきようえききじ)』〔朱舜水の著述〕といつたものは、固(もと)よりその學問氣節(きせつ)を見るに足るのではあるが、それよりも集中の書牘(しよとく)九卷、答問三卷、『談綺』三種は、反つてその瑣屑(させつ)細微(さいび)の處(ところ)に一層よく作者の人と爲(な)り〔人柄・性情〕を見ることが出來て、まことに面白い資料である。『談綺』卷上は信函(しんくわん)箋疏(せんそ)〔書翰の作法〕の樣式や神主(しんしゆ)棺木(くわんぼく)〔位牌や棺桶〕の圖法(づほふ)に關したもので、いづれにも詳細(しやうさい)な圖解(づかい)が加へてある。卷中は孔子廟(べう)の構造を說いたもので、頗(すこぶ)る『營造法式(えいざうほふしき)』〔北宋・李誡による最古の建築技術書〕といつた風があり、つくづく敬服(けいふく)させられざるを得ない。安積氏著『朱文恭遺事(しゆぶんきようゐじ)』の中に

藏書甚(はなは)だ少く、その崎港(ナガサキ)より帶來(たいらい)せし者は兩簏(りやうろく)〔本箱二つ〕に過ぎず、しかも闕失(けつしつ)多かりき。好んで『陸宣公(りくせんこう)奏議(そうぎ)』〔唐・陸贄(りくち)が徳宗に上奏した文〕『資治通鑑(しぢつがん)』を看(み)る。武江(ムサシ)に來るに及び、方(はじ)めて京師(けいし)にて鐫(ほ)る所の『通鑑綱目(つがんかうもく)』を購得(こうとく)し給ふ。文字を作るに及んでは、經史(けいし)に出入(しゆつにふ)し、上下古今、娓々(びび)〔澱みなく〕數千言、みなその腹中蓄(たくは)ふる所なり。

と云つてゐる。別の方面に於(お)いても、彼の常識は甚だ豐富であつた。卷下に名物を辨別(べんべつ)し雅俗(がぞく)に通徹してゐるのは、多くは耳食(じしよく)者〔耳学問〕の能(よ)く知る所でない。小宅生順(をやけせいじゆん)〔水戸藩士〕に答ふる書の一にこんなのがある。

急性子(きふせいし)に就(つ)いてお質(たづ)ね有之候(これありさうら)へども、僕寡聞(くわぶん)にして知る所これ無く候(さうらふ)。藥材草木鳥獸については更に知る所これ無く候。然(しか)れども急性子は乃(すなは)ち鳳仙花の子(たね)なりと聞き及び候。但(ただ)しその是非(ぜひ「)は辨(わきま)へず候。手を觸(ふ)るれば卽ち暴噪(ばうさう)を肆(ほしいまゝ)にす〔勢いよく弾け飛ぶ〕といふも、未だ是否を知らず候。

これが果(はた)して知る所無き者に書けることだらうか。小宅(をやけ)の質問に答へて沈香(ぢんかう)速香などの香(かう)に就いて歴説してゐるのに至つては、特に易々(いい)たるわざではない。今關天彭(いまぜきてんぽう)〔明治の漢詩人〕の文中、舜水が安南(あんなん)〔ベトナム〕に滯在してゐたのは商賣(しやうばい)をしてゐたのではあるまいか、それだから香料に詳しかつたのであらうと疑つてゐるが、まことに無理のないことである。野節(やせつ)〔竹洞人見節。本姓の小野氏を修して呼ぶ。懋齋とは従兄弟ともいう。竹堂の父必大に『本朝食鑑』の著がある。〕に答ふる書の中に、

敝邑(へいいふ)〔私の故郷の村〕の靑魚に二種有り、これは池沼(ちせう)に養ふものにて、江海(かうかい)の物にてはこれ無く候。其(その)一は螺螄靑(あをうを)〔螺螄(たにし)を殻ごと食う淡水魚。〕といひて、全身赤黒色(せきこくしよく)、鱗(うろこ)大きくして味佳(よろ)しく、大なる者は長さ四五尺も有るべく候。其一は尋常(じんじやう)の靑魚に候。背黑くして腹は稍(やや)白く、味は之に次(つ)ぎ候。之を養ふこと二年にして三四尺(さんししやく)なるを得(う)べきも、その大なる者は見しことこれ無く候。これは小魚を食つてしまふ故、長く生かしておかぬ爲(ため)に候。

案ずるに范嘯風(はんせうふう)著『越諺(ゑつげん)』卷中、水族部下(げ)に、

鯖魚、また螺鰤青とも名づく。專ら螺螄(たにし)を食す。その身は渾圓(こんゑん)、その色は青く、その膽(きも)は大涼(たいりやう)〔並外れて大きい〕。

とある。この螺鰤靑は紛(まぎ)れもない越中の俗語なのであるが、范氏の前にすでに舜水の文集に見えてゐたことは思ひがけもないことで、まことに面白い。『談綺』卷下、天時部〔天地部〕の首(はじめ)に「零糖」を列し、その下に和語で、蓋(けだ)し氷柱(ツララ)のことならんと註(ちゆう)してゐる。『越諺』には「零蕩(リンタン)の如(ごと)く呼ぶ」〔零糖と同じ発音で氷柱の意。〕とある。この俗名(ぞくめい)は呉越を通じて行はれてゐるが、著録(ちよろく)〔書き物〕に見えるのでは、恐らくやはりこれが最も早いと思はれる。聖廟の建築を記してはあのやうに細緻(さいち)嚴密であつたのが名物を說く段(だん)になるとこんどは多く俗語を引用してゐるのは、一見矛盾(むじゆん)せるかに思はれるけれども、實はこれこそ誠篤(せいとく)切實に出(い)でたものであつて、二者は反つて互ひに相證(あひしやう)することが出來るのである。『遺事(ゐじ)』中に云ふ、

文恭(ぶんきよう)〔光圀が舜水に贈った私号〕は自(みづか)ら持(ぢ)すること嚴毅(げんき)、人に接しては和、客(かく)と談論しては間〻(まま)俚諺(りげん)嘲笑の事に及ぶ。
 飮酒すること能(あた)はざりしかど、客の飮むを喜びたり。時に或は棋(き)に對することありしが、棋は甚(はなは)だしくは高からざりし。

こゝに書かれてあることは皆面白く、頬上(けふじやう)に毫(がう)を添へし妙(めう)がある。〔僅かの修正で妙味を添えること〕『遺事』中には舜水が述べる所の「祇好州蘇作判通」〔祇(た)だ州蘇に判通と作(な)るに好(よ)し。〕の一詩を記し、又一條に云ふ、

媒人(なかうど)あり口を極(きは)めて女子の姣(かほよ)きを言ふ。しかるに之を娶(めと)りたるに醜(みに)くかりしかば、夫家(ふか)大いに怒(いか)りて媒人を毆(なぐ)らんと欲(ほつ)す。その人罵(ののし)りて曰(いは)く、「花は花に對し、柳は柳に對し、破糞箕(はふんき)は玍苕帚(してうしふ)に對す。」と。〔最後は、「壊れ塵とりは破れ菷に似合いだ。」=「破れ鍋に閉じ蓋」の類〕玍は音芝(シ)、俗字なり、猶(な)ほ敝茗帚(へいてうしふ)と言ふがごとし。

案(あん)ずるにこゝに舜水の風趣(ふうしゆ)を想見(さうけん)することが出來る。異邦(いはう)の學子にこの諧味(かいみ)〔ユーモアの趣〕をわからせようと思つても、勿論(もちろん)甚だむつかしかつたことであらう。とすればその寂寞(せきばく)の情亦(また)想(おも)ふべきである。〔その寂しさもまた想像できる。〕生が音芝(シ)で敝(ヤブレル)と訓(くん)ずることは、今考へるすべがない。〔現在の発音と異なることを知る徴証がないから。〕『易餘籥録(えきよやくろく)』〔清・焦循の考証随筆。「籥」は書き消しのできる竹や木の板。〕卷十に顧黄公(こくわうこう)〔明・顧景星〕の『白茅堂(はくばうだう)文集』を引いて徐文長(ぢよぶんちやう)〔明・徐渭〕の遺事を書して云ふ、

文長が繼妻(けいさい)を毆殺(おうさつ)した次第(しだい)はかうである。雪の日に一人の子供が竈(かまど)の下にうづくまつてゐたので、妻が憐れに思ひ普段着(ふだんぎ)を着せてやつた。文長はその事で妻を大いに罵(ののし)り、妻の方でも罵り返した。文長はそのとき欋(く)を持つて氷を取つてゐたが、怒つた餘(あま)りにそれを妻に向つて擲(な)げつけたところが、誤つて中(あた)つて妻は死んでしまつたのである。縣尉(けんゐ)(縣廳(けんちやう)の副官)が驗屍(けんし)にやつて來て、聲(こゑ)を荒らげて欋といふ字はどう書くんだと聞いた。文長は笑ひながら「若不知書生未出頭地耳」〔若(なんぢ)知らずや、書生の未だ頭地を出ださざるのみ。〕と答へた。蓋(けだ)し俗(ぞく)に欋の字は玍と書くからである。尉は怒つて、玍を用ひて殺しましたと報告した。かくて文長は遂に獄に投(とう)ぜられた。

その注に「櫂は音瞿(ク)、『釋名(しやくみやう)』〔後漢・劉熙〕に四齒(よつば)の杷(くまで)なりとある」とある。案ずるに今日越中に瞿と名づくる鐵器(てつき)のあることは知らぬ。四齒の杷は農夫が地を掘るのによく之を用ふるが、それは鐵勺(てつしやく)と名づけてゐる。別にもう一種、鋤(すき)に似て尖(とが)り、もつと短くもつと堅くて厚いのがあつて、石工(いしく)が使ひ、山支(サンシ)と通稱(つうしやう)してゐるが、ことによればそれが芝(シ)の音で玍といふ字を書けるのかも知れぬ。だが普通の家にこの道具は備へつけないし、氷を取るのに必ずしもこんなものは要(い)らない。また竈部屋の中で氷を取るやうなこともない筈である。二百餘年の間に或(あるい)は言語の變遷(へんせん)が無いでもなかつたのであらうが、惜しいことにこの玍の字の現物を査(しら)べあてない。たゞ朱黄二公の遺文〔朱舜水遺文と顧黄公遺文〕中にこの俗語奇字を見ることを得たのは、亦(また)甚だ面白い事であつた。

舜水の著作を語る以上、どうしてもあの『陽九述略(やうきうじゆつりやく)』に觸(ふ)れないわけにはいかぬ。これは辛丑(しんちう)六月門人安東守約(しゆやく)〔安東省菴(せいあん)〕に書き與(あた)へた文章であつて、明朝(みんてう)滅亡の原因を說明して、士夫が罪業(ざいごふ)を作つたことと、人民の困苦(こんく)離叛(りはん)とに歸結(きけつ)してゐるのは、自(おのづか)ら深い見識(けんしき)を具(そな)へたものである。又、清兵(しんぺい)が北京を陷(おとしい)れた際、流言(りうげん)を放つて均田均役(きんえき)の說を唱(とな)へた爲に、人民が多く之に惑(まど)はされたのだと謂(い)つてゐるのは、これ亦(また)異聞に屬(ぞく)し、清兵の害を記した諸條と共にみなや考(かう)に備(そな)へてよい。たゞ文章が長いから今は多く引用することが出來ぬ。上文に安東守約に言及(げんきふ)したが、これに就いても一寸(ちよつと)言つておかねばなるまい。舜水は日本に居(を)ること久しく、知人は甚(はなは)だ多かつた。それは書牘(しよとく)九卷の中(うち)、東邦(とうはう)の人士(じんし)に與へたものがその八卷を占(し)めてゐることによつても知られよう。門人も少くなかつた。しかし自(みづか)ら安東一人のみ知己(ちき)と稱すべしと謂つてゐる處(ところ)を見ると、その交誼(かうぎ)の深密なることは蓋(けだ)し安積と雖(いへど)も及ばなかつたのである。書牘第一卷にある、孫の毓仁(いくじん)に與へた書に、詳しくその事を記してゐる。今それを次に錄すれば、日本では唐人の逗留(とうりう)を禁ずること已(すで)に四十年、先年南京(なんきん)の船七隻同じく長崎に泊(はく)するや、十九人の富商連名上申(じやうしん)して滯在を懇願(こんぐわん)せしかど、みな許されず。予は當初よりその意志なし。しかるを安東省菴切(せつ)に予に留(とどま)らんことを乞(こ)ひ、轉展(てんてん)傳(つて)を求めて人に頼みくれし故(ゆゑ)、此(この)地に駐(とどま)ることとなりぬ。これ特に予一人の爲にこの大禁(たいきん)を開きしなり。既(すで)に留ることとなりて後は、俸祿(ほうろく)の半(なかば)を分(わか)ちて予に與(あた)ふ。省菴は薄俸(はくほう)二百石(こく)といふも、實は米八十石のみ、その半を去れば僅(わづ)かに四十石にすぎず。毎年二度予に會(あ)ふために長崎に到る。一回の費用が銀五十兩(りやう)、二回で都合(つがふ)百兩なれば、苜蓿(もくしゆく)先生〔薄給・清貧の教師。「苜蓿」はウマゴヤシ。〕の俸はこれで盡(つ)くるわけなり。又土産(みやげ)や時節の物など絡繹(らくえき)として〔絶え間なく〕人に持たせて送り屆(とど)け、己(おの)れは敝衣(へいい)糲飯(れいはん)〔玄米〕菜羹(さいかう)にて我慢して、時たまの馳走といふが鰯(いわし)數枚のみなり。家には唐鍋(たうなべ)一つを止(とど)むれど、時を經(へ)ても煮る物無く、塵(ちり)積り鐵銹(さ)びることあり。その宗親(そうしん)〔一族〕朋友(ほういう)みな之を誹(そし)り笑ひ之を諫(いさ)め沮(はば)むれども、省菴恬然(てんぜん)として顧(かへり)みず、唯〻(ただただ)日夜(にちや)書を讀み道を樂しむのみ。予今こゝに來りて十五年、稍〻(やや)物を寄せて志(こころざし)を表はせども、前後みな受けず。矯激(けうげき)に過ぎて、予は甚だ樂しまず。然れども改むること能(あた)はざる也(なり)。かゝる人は中原(ちゆうげん)にも滅多(めつた)にあるまじ。汝(なんぢ)は名義を知らぬにしても、必ず心に銘(めい)し骨に刻(こく)して、世々決してこの事をば忘れぬやうにせよ。奈何(いかん)せん此(この)地の法度(はつと)嚴しくて、境(さかひ)を出でて伺候(しこう)〔挨拶〕することはかなふまじ。如何(いかん)とも仕方なし。せめて手紙なりと書いて懇(ねんご)ろに禮(れい)を陳(の)べてくれたら好(い)いと思へど、恐らくそれも又不可能ならんか。

文集は鉛字(えんじ)本で誤りが多い。今『先哲叢談』卷三所載に據(よ)つて錄(ろく)し入れた。この書簡は蓋(けだ)し延寳(えんぱう)六年〔一六七八年〕に書かれ、そのとき毓仁(いくじん)は長崎に至つたのである。〔天和(てんな)元年(一六八一)暮に来朝。〕今に於(お)いて二百六十二年、遂に古人の高誼(かうぎ)清風の復(ま)た見るべからざるを覺える。廿九年七月。

譯註(やくちゆう)

*祇好州蘇作判通——間違つて翁仲(おうちゆう)〔秦代の猛将阮翁仲に因んだ石人。宮門や墓所の入口に置く。〕を仲翁と云つた人を嘲(あざ)ける狂詩の一句。蘇州をわざと州蘇といひ、通判〔副知事〕を判通といつたのである。〔小役人を嘲笑う打油(ターユ)詩(戯謔詩)。「翁仲如何作仲翁、読書全未有夫工、想来難入林翰院、只好州蘇作判通。」(翁仲如何(いかん)ぞ「仲翁」と作(な)る。読書全く未だ「夫工」有らず。想ひ来れば「林翰」院に入り難く、只だ「州蘇」に「判通」と作るに好し。)間違いをそのまま使う(将錯就錯—錯を将て錯に就く)。〕
*若不知書生未出頭地耳——「生の字の頭の出てゐない奴(やつ)(即ち玍(カ)の字)さへお前さんは知らぬのか」といふ意味と、「お前さんのやうなそんな字も知らぬ書生さんは、とても出世は覺束(おぼつか)ないね」といふ意味と兩方に掛けてゐる。