結縁豆
浮世風呂
偶〻馬時芳〔清・馬時芳、字誠方、号平泉〕の著はした『樸麗子』卷下にこんな一條のあるのを見た。
樸麗子、友人と共に茶園の中に飮む。時に日すでに暮れ、飮む者百を以て數ふ。〔数百人もいた。〕ろくろく席も定らぬに、友人は匆々に歸つてしまつた。後で茶園を出てから、樸麗子が「君はどうして匆々に歸つてしまつたのかね。」と聞くと、「人々が目をやたらに瞬き、口をやたらに開けたり閉ぢたりしてゐるのを見て、僕は我慢が出來なかつたのだ。」と云ふ。樸麗子曰く、僕だつたらむしろ大勢の人々を呼んで來て、自腹を切つてでもみんなと一緒に飮みたいところだがね。だが僕の力ではそんなことは出來もしないし、それに應酬の煩に耐へまいから、今この坐に在る者がそれ〴〵數文づゝ出し合せ、全部ここに聚つて飮むことにするのだ。貴賤の別なく、貧富も等しなみにし、老いたるも幼きも、強きも弱きも、木樵も羊飼も役所の小使も、さては遠方異國の人でも、入墨を入れられ鼻を切り取られた罪人や流人奴隷でも、それぞれ一杯の淸茗〔さわやかなお茶〕を啜りつゝ、何等のわけへだてなく、さうして喉の渇きを醫し、疲れを休めて、高々と笑ひさゞめき、殆ど我を忘れてしまふ。僕はそれでこそその樂しみに勝へない。〔楽しくてたまらない。〕いな〔否〕、それでもなほそこで飮む人があまりに少いと云つて不足をいふだらう。君は何だつて匆々に歸つてしまつたのだね。」さう云ふと友人は默然として何物かを失つたやうな樣子であつた。友人はそれまで俗流に超然として獨り行く底の人であつたが、それ以後性格が一變した。
この篇の意味は甚だよい。私はこれを讀んですぐに戸川秋骨の言葉を聯想した。それは讀書について論じた小文で、彼の隨筆選集『樂天地獄』(一九二九)に收めてある。その中に曰く
さういへばハリソンは、往來を行く人、酒場で出會つた何處の男とも分らない人といきなり我々は親しく話をするか、誰もそんな事はしまい。然るに書物に於ては我々は全然無名な何處の誰とも知らぬ人と語り合つて、喜んでゐると云つて亂讀者を戒めてゐるが、私は往來で偶然出會つた人、酒場で同席した人と語るのが一番面白く、又利益からいつても少くないと思ふ。行き當りばつたりに誰とでも話が出來れば、これ程面白い事はなからうと思ふ。只書物ではそれが出來るが、實際の世間では容易に出來ないのみのことである。これが『浮世床』『浮世風呂』〔どちらも式亭三馬作の滑稽本〕の名作たる所以ではなからうか。
『浮世床』等二部の書物は日本の有名な滑稽小説であつて、亦私の愛讀してゐる本である。去年〔民国二〇年(一九三一)〕の七月私は『友人に與へて日本文化を談るの書』の一を書き、連帶的にこれにも言及したことがあつた。今それを次に略抄すれば、
江戸時代の平民文學はちやうど明清の俗文學に相當し、私達は必ずしもヒケ目を感じなくともよいやうに思はれます。しかし私は日本の「滑稽本」を讀むと、やはりこれは中國に無いものだと認めぬわけには參りません。滑稽——日本音ではkokkeiと讀みます。明らかに太史公〔『史記』の作者司馬遷〕の『滑稽列傳』から來たものです。ところが中國では近來多く「泥滑滑」(ツル〳〵滑る)の滑と同じく滑稽と好んで讀まれてゐます——は、何でもこれは東方民族には缺乏してゐるものださうで、日本人自身も常に英國人に及ばぬと慨歎慚愧してゐます。この滑稽本は文化文政(十九世紀初頭)年間に起り、西洋の影響は全然受けてゐません。又中國にも絶えてこの種のものは有りません。だからこれは日本人が自身で創作したあそびであると云つて差支へないのです。英國の小說家のユーモアと比べてどうといふことは私達には云へませんけれども、兎に角日本人には中國人よりも多くのユーモア趣味があるといふことをこれは證明してゐます。私は十返舍一九の『東海道中膝栗毛』(膝栗毛とは足を馬と看做すこと、即ち徒歩旅行の意)や式亭三馬の『浮世風呂』と『浮世床』(風呂とは浴場、床とは今の言葉で理髮處の意。かゝる漢字の日本式使用法は、甚だをかしいやうであるが、世間にはよくあることで、たとへば希臘語の天幕〔skene〕を今では劇場の背景〔scene〕の意に用ひ、舞踏場〔orchesis〕を今では樂隊〔orchestra〕の意に用ひてゐるが如き皆それです)を傍らに置いて、さて今まで讀んだことのある中國の小說を一つ一つ思ひ浮べ、これに類似した作品を搜し出さうとしてみますと、一つは私の孤陋寡聞の故でもありませうが、どうもおいそれと思ひ當らないのであります。二人の旅人を借り來つて彼等が道中で遭遇した事を描いたり、風呂屋や理髮店に出入りする客の言動を描くなどといふことは、元來「氣質物」の流派であつて、アリストテレス門下のテオフラストス(Theophrastos)の書いた一册の書物〔「人さまざま」(Charakteres)〕が、まづ最も早いと云へませう。そして結構の上から云つて近代的な立派な小說に變ずることは出來ないでせう。しかしそれにしても平凡な述說の中に會心の微笑を藏してをり、特に三馬の書は殆ど全部が對話であつて、一層の面白さを覺えます。中國の滑稽小說に何があるか私には考へ出せません。『西遊記』や『儒林外史』乃至は『何典』〔清・張南荘の白話小説〕とか『常言道』〔清・落魄道人の白話小説〕などにしましても、どれ一つピツタリこれに當るものはないやうに思ひます。氣質を描寫したものと云へばまあ『儒林外史』の中に幾ケ所かあることはあります。たとへば高翰林のあゝいつた風貌口吻は確かに惡くないと思ひます。たゞ惜しむらくそれが多くないのです。
だがその實、高翰林はよく書けてゐるとはいへ、あれはやはり特殊部類に屬するもので、作者側の誇張も固より有りうることながら、もともとがちと風變りな御仁で、人々の嗤笑乃至譴責を受くるに十分な型なのである。『浮世床』の中の孔糞先生の如き、當時の陳糞漢糞〔周作人の原文にこの用字があったともいう。〕の漢學者を嘲笑してまことに痛快であるが、決してそれほど書きにくいものではない。思ふに諷刺は滑稽よりも容易であり、また同じ滑稽の中にも區別があつて、特殊のものは平凡なものよりも容易である。『浮世風呂』前編に出て來る例のよい〳〵やなま醉はつまりこの特殊なものの例であるが、これは笑話の中の盲人や坊主或は女房をこはがる男の類と同じく、いはば鼻の上に白粉を塗つた小丑のやうなもので、人々の彼に對して與へるところの笑ひは大半は一種の期待性を有してをり、上乘の創作とは云へない。たゞ普通の人の平凡な事柄を書いて、しかもそれを一場の小喜劇に變じたものこそ、更に面白く、亦更にむつかしくもあるのである。雙木園主人(堀捨二郎)は『江戸時代戲曲小説通志』の中でうまく云つてゐる。
殊に文化六年(一八〇九)の筆に成れる『浮世風呂』の如きは三馬の作として最も有名なる滑稽本なり。此書故に奇を設け、人の笑を求むるものにあらず、然れども諧詼百出、妙想橫生、一たび之を繙くときは、髯丈夫も頤を解き、腹を抱へざるはなし。而して野鄙に流れず、猥褻に陷ざるは、三馬が特絕の手腕たる所以にして、斯道の岱斗〔泰斗〕と稱せられしも、此を以てなり。
式亭三馬、本名は菊地太輔、安永五年(一七七六)に生れ、著書極めて多きが中にも、『浮世風呂』と『浮世床』とを以てその傑作とする。樸麗子は茶園中の人々が高々と笑ひさゞめくのを聽くのを喜び、我を忘れると爲したのは、まごとに解つた人〔もの(道理の)の分かった人、訳知り〕と謂つてよく、若しも三馬と出會つたならばきつと腕を取つて仲間に入れたことであらう。『浮世風呂』出版の時は清の嘉慶の前半に當り、當時中國に在つてもちやうど遊戯文章が勃興してゐた。しかし『常言道』等の書物はせいぜい日本の「黄表紙」の類に相當するもので、滑稽本の流は惜しむらく終に出現しなかつた。馬君〔馬時芳〕も亦嘉慶道光の時の人で、このやうに勝れた理解を持ちながら著述する所のなかつたのは、特に惜しむべきことであつた。『浮世風呂』は前後四篇、凡そ九卷から成り、各卷それぞれ幾つかの場面を描いてみな頗る面白い。私は前編卷之下、男湯の中の手習からさがつて來た大勢の子供を描いたのと、三編卷之上、女中湯でとしのころ十か十一ばかりの小娘二人きもの著ながら話すところを寫したのが最もすきである。今からすでに百三十年も隔てた昔のことであるに拘らず、讀んでみると樣子は殆ど變つてゐないやうに思はれる。私はそこで一部分を摘譯しようと考へたことがあつたが、いまだに出來ないでゐる。摘取するのがむつかしいばかりでなく、譯述も甚だ以て易いことではないからである。私がここでつひに空言を以て紹介するより外はないのも、誠にやむを得ないのである。私は芝居といふものを見ないのであるが、『春香閙學』『三娘教子』〔京劇の演目〕等の中にはことによれば兒童の描寫がちよつぴりとでも含まれてゐるのではなからうかと推察してゐる。しかるに一體なぜ小説や散文の中にはかくまでも缺乏してゐるのだらう。中國文人の見識は反つて河原者〔演劇人の貶称〕にも劣るのだらうか? 學童の滑稽を描いたものならばまだしも少しはある。郭堯臣〔清朝の文人〕著『捧腹集詩鈔』の中に『蒙師歎』〔童蒙の師=村塾の先生の嘆き〕七律十四首があるが、その九と十の二首はいづれもなかなか佳い。その詞に云ふ、
一陣の烏鴉晩風に噪ぎ、
諸徒齊しく好喉嚨を逞くす。
「趙錢孫李周吳鄭、」(百家姓〔三字経・百家姓・千字文は「三百千」と総称され、宋代以来村塾の教科書だった。〕の冐頭の句)
「天地玄黄宇宙洪。」(千字文の冐頭の句)〔「宇宙洪荒」の略。〕
『千字文』完りて『鑑略』〔十七史略や古今綱鑑のダイジェスト本〕を翻き、
『百家姓』畢りて『神童』〔神童詩〕を理む。
公然、個の羣に超ゆる者あり、
一日三行『大中』(大學中庸)を讀む。
*
書を學んでは勉强めて泥拳を捏ね、〔泥人形を捏ねるような危なげな手つきをいう。〕
筆は是れ麻の皮、硯は是れ磚。
墨は「太平」と號して黑土の如く、
紙は尺八〔一尺八寸〕に裁ちて黄阡〔紙銭〕に擬す。
「大人巳化三千士、」〔有徳の大人が三千の人士を教化善導し、〕
「王子丹成十九天。」(これは共に習字手本の文句である)〔公子が霊丹を完成して天界に達する。〕
手に隨つて鴉を塗り渾て辨ずる莫く、〔書き殴って真っ黒な紙は字の区別もつかず、〕
也甲乙を評して亂りに批圏す。〔そこへさらに師匠が評価の圏点をむやみに加える。〕
士人が文章報國を信仰せる時代に在つて、かうした打油詩〔俗語・流行語を取り入れた狂歌。夷曲のもじり。〕はたゞ罵倒される外はないものである。だが我々外道から見れば亦彼獨自の好さもあるのであつて、いろんな事物の有樣を別體の文學作品では書けもしないし又書かうとも思はぬのに、これは獨り見事に書いてゐる。それこそその生命の在る所なのである。『捧腹集』の中には又『青氈生隨口曲』〔青氈生は貧乏書生の意。〕十四首があり、その十一に
一歳に金を修むること十二千、
節儀は內に在り從前より訂す。〔以前からの取り決めどおり。〕
適來、件の開心の事あり、
代筆、光を叨むる夾百錢。
とあり、原註に「市語にて二百を以て夾百と爲す」とある。我々つくづく考へるに、かうした内容にはたゞこのやうな書き方こそ最も打つてつけである。〔恰好の表現だ。〕でなければ『書經』とか『左傳』の眞似事をやることであるが、それは『文章遊戯』〔清・繆艮撰〕常用の手法で、それでは又々窠臼〔旧套〕に落ちてしまふわけだ。滑稽小説と散文には恰好なのが無いので、姑く詩を以て解嘲しようといふのは、まことに以て情ないことではあるが、それでも兎に角まるで無いよりはましであらう。これ私が嘉慶道光以後の打油詩に對して敢て輕視の心を挾まざる所以である。二十一年二月二十五日、舊元宵〔春節から十五日後の元宵節。灯籠・花灯・爆竹・湯円等で祝う。〕爆竹の音の中にて書き訖る。