結縁豆
飴賣
崔曉林〔清・崔旭〕著『念堂詩話』卷二の中に次のやうな一條がある。
『日知錄』〔清・顧炎武〕に、「古への飴賣は蕭を吹いたが、今では金を鳴らす。」と謂つてゐる。しかし予は考へるに、徐靑長〔ママ。清・徐渭(字文長、号青藤)〕の詩に「鑼を敲いて夜糖を賣る」とあり、これ明の時に飴賣が金を鳴らしてゐた明證である。
案ずるにこの五字の詩は『徐文長集』卷四に見え、「靑長」とあるのは無論「靑藤」或は「文長」の誤であらう。原詩は『曇陽』と題して凡そ十首、その五に
何事ぞ天竺を移し、
居然として〔思いがけず〕太倉に在る。
善哉、 白佛に聽き、
夢已に黄梁熟す。
托鉢して朝飯を求め、
鑼を敲きて夜糖を賣る。
とある。これは確か王錫爵の女〔明・王燾貞(号曇陽)。万暦年間、衆人の前で羽化飛昇したと伝える。王世貞や徐文長に「曇陽大師」の伝記の著述があるという。〕の事を詠じたものと思はれるが、いさゝか解りにくい語があつて、私としてもやはりたゞその末句を取つて、夜糖の一左證〔証左に同じ。〕とする外ない。范嘯風著『越諺』〔清・范寅。紹興地方の民俗誌をまとめる。魯迅・周作人は親しく知っていた。(知堂回想録)〕卷中、飮食類を檢してみても夜糖の一語は見當らない。梨膏糖〔梨の果汁をもとにしたのど飴。〕さへも無かつたのには全く少からぬ失望を禁じ得なかつた。紹興に若しも夜糖がなかつたとしたら、小さい人達は一層どんなにか寂しい思ひをせねばならないだらう。といふのが、これと炙糕の二つは實際子供にとつて此上もなく有難いものであつて、野放しの鼻垂れ小僧にとつても大家のお坊つちやんにとつても、同じやうに無くてはならぬ者だからだ。夜糖の名義は不可解である。だが實は圓くて硬い飴にすぎない。普通「圓眼糖」ともいふのは、その形が龍眼〔ライチに似た果実〕に似てゐるからである。角の尖つたのもあるが、それは「粽子糖」と稱してゐる。赤白黄の三通りあつて、一粒が一錢である。それも大通りの菓子屋へ行つて買ふと、十粒七八文くらゐで濟む。もつともこれは三十年も前の値段である。今日ではもうすつかり變つてゐることと思はれる。梨膏糖は一つ四文も取られたから、普通の子供にはちよつと手が出せなかつた。この外になほ一錢で買へる者としては茄脯〔茄子を甘い醤に漬け込んだ菓子〕と梅餅〔甘い干し梅〕がある。砂糖で茄子を煮て、ざつと乾干にしたもので、大體斤目賣り〔量り売り。一斤は約500g。〕だが、飴賣は適當な長さの棒に切つて賣る。さうするとどうしても大きいのと小さいのと出來るので、子供は大抵よく吟味をして大きいのから擇び取る。これが茄脯である。梅餅といふのは、黄梅〔完熟の梅〕を甘草と一緒に煮て核まですつかり搗きこね、型に入れて新鑄錢銅貨大の餅にしたものである。これをしやぶると一種の風味があつて、鹽漬の靑梅とよい勝負である。飴賣は大抵擔荷を用ひはするが、それは肩にかつぐのでなく、實は俗に「橋籃」と名づくる筐が一つきりなのである。それは上の方に、格子に仕切つて飴を入れた木の箱を列べ、ガラスで蓋をしてある。木の臺を交椅〔仏具の「曲彔」と形が類似するのでその読み方を宛てたもの。〕のやうな具合に交叉させ、籃をその上に置いて、客を待つのである。道を行く時には臺を折疊んで脇の下に挾み、左の臂で筐を引掛けて持つ。このことを俗語で「橋」といふわけである。留守になつてゐる左手に小さい銅鑼を持ち、右手に持つた笏の形をした木片でもつて之を撃つと鏜々といふ音がする。これがつまり飴賣の信號なので、子供はそれを聞くと心は躍り魂は飛んでしまふ。小間物屋の驚閨や喚嬌娘〔女性向けの物売りが使う小さな鉦や銅鑼〕にもをさ〳〵劣らぬ程である。ところでその鑼が又ほかの鑼とちがひ、直徑一尺にも達せぬ。縁が狹く、紐にも繋がない。撃つ時には一本の指を縁の内側にあてるので、紐で下げて槌で打つ銅鑼とは遙かに異ふ。民間ではこれを鏜鑼といつてゐる。鏜の字は國音の湯の去聲に讀む。蓋しその音を形容したものであらう。これとて無論金屬であることに疑ひは無いが、小説の中によく出る「金を鳴らして軍を收む」といふのは、これと又まるで似てゐない。顧亭林(『日知錄』の著者)〔顧炎武の号〕が「飴賣は今では金を鳴らす」と云つてゐるのは、無論間違ひとは云はれぬにしても、大雜把と云へばさう云はれても仕方のないところであらう。これは古文を用ひた爲なのであつて、ことによれば獨り顧君のみに難癖をつけては惡いかも知れぬ。
糕を賣る人は大抵午後になつてから、竹籠の中に火を起し、その上に熬盤を置き、赤砂糖と米粉をこねて糕となし、薄く切つて炙る。一片が一文である。また麻𩝐〔麻糍=きな粉・胡麻をまぶした米菓〕といふのもあつて、大きな聲で「麻𩝐荷炙糕」と呼ぶ。〔麻糍(餅)だよー! 焼き立ての炙り糕(餅)だよー!〕荷といふのは語助詞で、蕭老老公の荷荷と同じであるが、たゞ越の方言では更に喉音を帶びてゐるのは、他地に無いことである。朝のうちに別に印糕を賣る者がゐる。この上に赤で吉祥の文句を印してある。この外にも蔡糖糕、茯苓糕、桂花年糕などといつたものを色々揃へて持つてゐるのだが、觸れ呼ぶ聲はたゞ「賣糕荷」(糕や糕オー)と云ふだけだ。これらはどうやら大人たちの朝の點心として食べるのに提供するもので、炙糕などのやうな子供の食物とは異つたものらしい。かうした菓子には北京に來て後は全くお目にかゝることが出來ない。といふのが、南方では米食が主で、糕類は米粉で作るのに對し、北方では殆ど何一つとして麵でないのはなく、すつかり樣子がちがつてゐるからである。
小さい時に食べた物は、味はさうよいとは限るまいが、後になつてから思ひ浮べると、いろいろ云ふに云はれぬ趣があつて、往々にして忘れることの出來ないものがある。私が飴と糕とをおぼえてゐるのも、亦正にその爲なのである。いつであつたか日本の原公道〔原念斎〕著『先哲叢談』を讀んだら、卷三に朱舜水に就いて記した幾節かが載つてゐて、 その一に
舜水歸化して年所を歷、 和語を能くす。然れどもその病革まるに及びては、遂に鄕語に復り、侍人了解すること能はず。(原漢文)
とあつたのを讀んで、私は頗る愴然たる感じに打たれたのであつた。舜水の語つた言葉は現らく餘姚の方言であつたらう。私は同縣でこそないけれども、私にはよく聞きとれたことと思ふし、その言はんとする意味もたゞ私にだけは了解出來たであらう。餘姚にも夜糖と炙糕はあつた筈であるが、惜しいことに舜水がこれに觸れてゐないのは、言つても解つてくれる人が無かつたからではなからうか。それにしても私は又『陶菴夢憶』を思ひ起すのだが、あの中にもやはり語つてなかつた。これは更に惜しいことである。廿七年二月廿五日北平の知堂に於て漫記。
附記
『越諺』には飴類に就いての記載は無いが、糕類に就いては多少叙述してある。たとへば印糕の下に「米粉を方形につくり、その上に彩粉の文字を印し、饅頭と配して喜壽の禮として送る。」と註してゐる。また麻𩝐の下には「糯米の粉に、烏豆をつぶしたのを餡にし、餅の如く、炙つて食ふ。擔いで賣り步く。澤山食ふと死ぬ。」とある。しかし最後の一句はちと餘計物のやうだ。これは蓋し昔ある人が麻𩝐を賭け食ひして、たうとうその爲に死んだことがあつたので、范君はそれをそのまゝ書いて戒めとしたわけであつて、實は何も麻𩝐だけに限らず、鷄骨頭糕乾だつて澤山食べるとやはり害になるのである。一地方の生活の特色を見るには、食物は甚だ重要である。日常の飯や粥のみでなく、點心や間食物にしても、みな意義がある。ところが惜しいことにはこゝに注意を致す人は極めて少く、その土地の文人は言ふに足らぬつまらぬことだと考へてゐるし、他地から來た人は又多くは飮食を輕んじて男女に着眼し、往々にして『揚州無駄ばなし』のやうな騷ぎをおこす。けれどもその實、男女の事は大同小異であつて、それほど心を使ふ値打はない。それよりは各種の食物の方がいくらでも滋味はあるし、大いに語るに足ると思ふ。廿八日又記す。
譯註