結縁豆
豆まき
秋風が立つて漸く涼しくなり、西王母の暴風が過ぎてしまふ頃には、私は毎年きまつて枯草熱〔アレルギー性鼻炎、花粉症〕を患ふのであるが、今年もまた例によつて熱が出て何一つ出來ない。せめて小咄の選本でも取上げて慰む外はない。日本の小咄は中國語に譯すと笑話と云ふべきであらう。笑話は無論暇潰しには持つて來いの材料であるが、實は皆が皆さうだとは限らない。特に外國のそれとなると、風俗人情の差異の爲に、合點が行くまでには往々にして相當の根氣を必要とするからである。しかし笑話のよさは取りも直さずそこに在るのであつて、何でそれしきの勞力を我々惜しんでよからうか。思ふに笑話の作用は固より人を笑はせることに在るが、しかし一笑した後なほ何等かの餘留がなければならぬ。とすればその風俗人情に對する理解或は反省こそ多分それではあるまいか。笑話、寓言及び俗諺は、同樣に好資料であつて、本國と外國とを問はず、その意味に異る所はないのである。
小咄集の一は宮崎三昧編の『落語選』〔袖珍名著文庫(冨山房)所収〕である。庚戌年(明治四十三年)の出版だから、今年でちやうど三十年になるわけだ。その卷中に『座笑土産』〔安永年間刊行の小咄集〕から引いた『年越』といふ一條がある。
近所では我がちに豆まきの聲。旦那どのはまだもどられず、丁稚にでもまかせようと云ひ付ける。此丁稚どもりにて、豆をつかみ、「おゝゝゝ」とばかりいへば、門口の鬼あくびしながら、「これ出るのか這入るのか。」
案ずるに、こゝに云つてあるのは立春前夜の豆をまいて鬼を打つ事である。村瀬栲亭著『藝苑日渉』卷七『民間歳節』下に云ふ。
立春の前一日、之を節分と謂ふ。夕に至れば家々燈を燃すこと除夜の如し。黃豆を炒りて神佛祖先に供へ、歲德の方位に向ひ豆を撒き以て福を迎へ、又歲德の方位に背き豆を撒き以て鬼を逐ふ。之を儺豆と謂ふ。老幼男女、豆を啖ふこと歳の數の如く、加ふるに一を以てす。之を年豆と謂ふ。街上に疫を驅ふ者あり、兒女は紙を以て年豆及び錢一文を包裹みて之に與ふれば、則ち祝壽驅邪の詞を唱ひて去る。之を疫除と謂ふ。(原漢文)
黄公度〔公度は黄遵憲の字〕著『日本國志』卷三十五『禮俗志』二の中の『歳時』といふ一篇は、栲亭の原書の全文をそつくり轉録したものであつて、こゝも同樣なのであるが、『日本雜事詩』〔清・黄遵憲〕の諸版本を査べてみるに、そのどれにもこの事には言及してない。恐らく黄君はこれにはさして興味を持たなかつたものらしい。蜀山人〔大田南畝〕の『半日閑話』の中に
節分之夜、白大豆を黒く成るほど煎り、弦掛升に入れ、夫れを箕に入れて持參し蒔く。福は内二聲、鬼は外と一聲、三度づゝまく。
とあるが、こゝの言ひ方はどうもあまりに儀式化されてゐる。だがそれは本來が儀式なのであるから、それも致し方はないわけである。森鷗外に『追儺』といふ小説があり、小説集『涓滴』の中に收められてゐるが、私の見た限りではこれが唯一の藝術的描寫であつたと云へる。前から幾度も飜譯しようと思ひながら、今以て手を着けずにゐる。この小說の書きぶりはまことに一風變つてゐる。追儺の話はせい〴〵全文の十分の一を占めるだけで、あとは全部別の議論を述べてあるところ、普通の小説の體裁とは丸きり似てゐない。ところが私はこれが非常に好きなのである。今はたゞ題目と關係のある部分だけを抄譯すれば、
此時僕のすわつてゐる處とdiagonalになつてゐる、西北の隅の襖がすうと開いて、一間にはひつて來るものがある。小さい萎びたお婆あさんの、白髮を一本竝べにして祖母子に結つたのである。〔「いった」は江戸下町方言を真似たという。〕しかもそれが赤いちやんちやんこを著てゐる。左の手に枡をわき挾んで、ずんずん座敷の眞中まで出る。すわらずに右の手の指尖を一寸疊に衝いて、僕に挨拶をする。僕はあつけに取られて見てゐる。
「福は内、鬼は外。」
お婆あさんは豆を蒔きはじめた。北がはの襖を開けて、女中が二三人ばらばらと出て、翻れた豆を拾ふ。
お婆あさんの態度は極めて活々としてゐて氣味が好い。僕は問はずして新喜樂のお上なることを曉つた。
それから十何行か隔てて結尾になるが、又元に戾つて追儺の話になる。その文に云ふ、
追儺は昔から有つたが、豆打は鎌倉より後の事であらう。面白いのは羅馬に似寄つた風俗のあつた事である。羅馬人は死靈をlemurと云つて、それを追ひ退ける祭を、五月頃眞夜なかにした。その式に黑豆を背後へ投げる事があつた。我國の豆打も初は背後へ打つたのだが、後に前へ打つことになつたさうだ。
鴎外は博識の文人であるから、彼の言ふ所は信用してよいと思はれる。鎌倉時代は大凡西暦十三世紀である。とすればこの豆蒔きの風俗は少くとも六百年の歴史を有してゐるわけである。
もう大分昔私は『狂言十番』一册を譯したことがあり、その中にも豆蒔きの事を言及した一篇があつた。原名は『節分』といふのであるが、通俗の爲に『立春』と改めておいた。その筋は蓬萊の島の鬼が節分の前夜日本の地にやつて來て、人家にはいりこんで女房を嬲りかかつたが、女房隙を見て豆で打ち出したので、たうとう隱れ笠、隱れ簑、打出の小槌をみんな家の中に置いて逃げ出す。その中に
女 やあ、よい時分でござる。豆をはやしませう。福は内〳〵、鬼は外〳〵。(鬼へ打ちつける)
鬼 これはならぬぞ。
女 鬼は外〳〵。
鬼 これは何とする。
女 鬼は外〳〵。
鬼 あゝ許せ〳〵。
女 鬼は外〳〵〳〵。
一體狂言の盛行したのは室町時代、則ち十四世紀である。嵩山禪師居中(1277—1345)〔崇山居中〕は曾て法を求めて二度まで入唐した、當時の五山の名僧であり、『少林一曲』一卷(今傳はらず)の著がある。ト幽軒〔人見卜幽軒〕著『東見記』卷上にその作る所の詩一首を載せてゐるが、題して『節分の夜に炒豆を吃す』といふ。
粒々冷灰爆く〔弾ける意か。〕こと一聲、
年々今夜威靈を發す、
暗中手に信せて輕く抛散すれば、
諸方の鬼の眼睛を打着す。
江戸時代初期の儒者林羅山著『庖丁書録』の中にもこの詩が引かれてゐるが、解説には多少不同の處がある。多分傳聞の詞が異つたのであらう。
古人の詩に、除夜の豆を詠じて、「暗中手に信せて頻りに抛擲すれば、諸方の鬼の眼睛を打着す。」と云ふ也。大豆をまいて鬼の眼をうちつぶす也。
『類聚名物考』〔山岡浚明〕卷五には『萬物故事要決』を引いて、或古記の中に云く、節分の夜大豆を打つ事は宇多天皇より始まれりとある。それだと正に九世紀の末である。さらに又、
三石三斛の大豆を熬りて鬼の目を打てば、十六目を打ち盲して抱へて歸るべし。
ともある。これは毘沙門天王の教へ給うたものと云ふけれども、恐らくは未だ典據とするに足るまい。だから寧ろ嵩山の詩を信じて豆まきの證としたい。「福は内、鬼は外」といふ祝語の方はすでに狂言に見えてゐるとはいへ、その年代も確かにいつとは定め難い。若月紫蘭著『東京年中行事』卷上に據れば、この語は『臥雲日件錄』に見えるといふ。案ずるにこの書は五山の僧瑞溪周鳳の作である。彼は十五世紀上半の生れであるから、嵩山よりは百年遲いわけだが、それにしても今を去ること五百年も昔のことである。
儺は中國にも「古へより已に之あり」である。『論語』の中の「鄕人儺す」といふのは我々が最もよく記憶してゐる一例であらう。時日は一定しないが、多分季節の移り目であつたらう。『後漢書禮儀志』に「臘に先だつ一日に大儺す、之を逐疫と謂ふ。」とあり、『呂氏春秋季冬紀』の高氏注に「今人は臘歳の前一日に鼓を擊ちて疫を驅ふ、之を逐除と謂ふ。」とある。『南部新書』〔北宋・銭易〕及び『東京夢華録』〔南宋・孟元老〕に據れば、唐宋の大儺はみな除夕に行はれた。日本ではそれが立春の前夜に行はれる點、中國と大いに異ふ。たゞその主意には何等の相異もないわけである。民間では甚だ節分を重んじてをり、俗に立春を以て歲の始となし、春夜の意義は除夕に等しい。小咄に『年越』と題されてゐるのは、つまりこの意味なのである。二者は均しく年歳の交界で、たゞ一は太陽暦に依り、一は太陰暦に依つたまでである。中國でも八字を推算する場合には立春を以て基準にする。たとへば正月の生れでもそれが立春節の前であつた時には、やはり前年の干支で以て論ずるのが通例である。凶を避けて吉に趨るのは人情の常である。平常はどうにも仕方がないと我慢してゐるが、年末になつて一段落がつくと、この機會に乘じていさゝか法術を使つて、新しい局面に轉換しようと考へる。これが即ちさうした儀式の縁起なのである。最初のうちは或は何等かの效用を期待してゐたらうが、後になるとそれも段々に淡くなつて行つて、單なる一種の行事と成つてしまつたのである。譚復堂〔清・譚献〕の日記〔『復堂日記』〕の中に七夕に天孫〔ママ〕を祀る事を記して、その結論に「千古よりかかる傳聞舊説があるが、これ亦なか〳〵佳いものである。」とある。追儺に對しても、これと同じ樣な見方をしたならば、甚だ適當ではあるまいかと私は思ふ。廿九年九月七日。
譯註