結縁豆
縁日
夏になると、いつも東京の夜店を思ひ出す。己酉・庚戌の際(明治四十二・三年)、本郷の西片町に住んでゐて、夕方よく大學前一帶を散歩した。あそこでは每日夜店が出たが、縁日の日は特に賑はつた。今から思ふとあれはたしか每月八日の本鄕四丁目の藥師如來樣であつたらう。緣日とは有緣の日といふ意で、諸神佛の誕生日或は成道示現の日なのである。每月この日になると寺院でお祭が行はれ、澤山の人がお參りするが、同時に色々の商人が集つて來て露店をひらく。飮食物、日用品、草花、玩具は固より、手品見世物に至るまで、無いものはなく、北京の廟會とよく似てゐる。たゞ廟會は寺院の中であるとは云つても、もはや全く市的な性質を有してゐるやうであるし、それに晝間だけに限るのであるが、縁日は夜の方が一層賑かである。それになほ宗敎的行事と云へるのであつて、根本上いさゝか異つてゐる。若月紫蘭著『東京年中行事』〔春陽堂(明44。東洋文庫所収。)〕卷上に『縁日』といふ一條があるが、その前半にかう書いてある。
東京市中には、必ず毎日何處かに毘沙門だとか藥師だとか稻荷樣だとか云ふもののお祭が有る。それが卽ち緣日で、其晩には天氣でさへあれば色んな食物店だとか、駄菓子屋だとか古道具店だとか、玩弄物屋だとか、乃至は色んな所帶道具店だとか云ふものがずらりと其宮やお寺の境內や附近に幾つとなく打ちならんで、所謂露店を開くので有るが、中にも最も面白いものは植木店で有らう。色んな季節の花や植木を持つて出て、法外な値段を吹きかけて椋鳥〔ポツと出の田舎者〕の引かゝるのを待つて居る。彼等が云ふ所は勿論法外な値段で有る所から、買ふ方でも亦五分の一十分の一と云ふ樣な無茶苦茶な値段をつけて見る。それがひやかしでないと見ると、植木屋の方も大抵はいゝ頃〔頃合い〕の値段でパンと手を打つ。〔商談が成立する。〕
寺門靜軒著『江戶繁昌記』初編の中にも『賽日』〔盆と正月の十六日〕といふ一篇があるが、やはり緣日の有樣を描いたもので、もと漢文を用ひてゐる。今その一部分を次に抄錄すれば、
古俚曲〔昔の俗謡〕〔の詞〕に云ふ、月の八日の茅場町、大師賽詣や不動樣、是れ以て都俗の賽を好み風を爲すの古きを證す可し。……賽は最も晩夏に盛んなり。各場門前街、賈人爭つて露肆を張る。器物を賣る物は皆な蒲席〔蓆、茣蓙〕を鋪き、並に薩摩蝋燭を燒く。食物を賈る者は必ず牀閣を安〔按配〕し、咸な魚油燈火を吊るす。菓と蓏を陳し、團粉と明鮝を燒く。軋々魚鮓を爲り、沸々油𩝐を煎す。或は百物を列ね、價ひ皆十九錢、人の擇び取るに隨ふ。或は鬮を拈つて印を合せ、一貨を賭けて之を數人に賣る。〔一つの景品でたくさんの籤を売る。〕茶を賣る娘は必ず美艶、水を鬻る聲は自ら清涼。西瓜を衒る者は紅箋燈を照し、餳を沽る者は大油傘を張る。燈籠兒〔酸漿〕は十頭一串、大通豆〔白い米粉をまぶした豆菓子と思われる。〕は一囊四錢。硝子罎を以て金魚を盛り、黑紗嚢を以て丹螢を貯ふ。〔黒い紗の袋に光る蛍を入れている。〕近年麥湯〔麦茶〕の行はるゝ、茶店大抵湯を供す。麥湯に縁つて葛湯を出だし、葛湯より卵湯を出す。並に和するに砂糖を以てす。其の他殊雪・紫蘇、色々味を異にす。〔麦茶に味付け・香り付けの粉を加えた。〕其の際だ槖駝師羅列す。盆卉の種類は、皆之を架上に陳す。閙花閑草〔真っ盛りの花々や地味な草〕、奇を鬪はし異を競ふ。枝の屈蟠を爲す者、氣條を爲す者、葉の間道有る者。〔枝をうねらせた盆栽や斑入りに改良したものなど。「気條」は未詳だが、玉造にしたものなどを指すか。〕錢蒲〔石菖〕の細葉なる者は之を栽るに石を以てし、石長生の穿眼〔軒忍〕を作る者は索を以て之を垂る。若くは托葉を作りて花に衣せ、若くは蘆幹を樹ゑて枝を挾す。〔寒牡丹・冬牡丹のように花や枝を葦簀のようなもので覆って守ったもの。〕覇王樹は虞美人草を擁し、鳳尾蕉は麒麟角 漢名龍 牙木 〔アガペという多肉植物〕に雜はる。百兩金・萬年青、珊瑚〔千両か。〕・翠蘭、種々趣を殊にす。大夫の松、君子の竹〔松に「五大夫」の称号が授けられ、竹に「此君」の別名があり梅蘭菊と共に四君子に入れられるなどの故事を踏まえる。〕、雜木駢植、蕭森〔鬱蒼として〕林を成す。林下一面、野花點綴。杜榮客を招く、自ら鬻らんことを求むるが如く、女郞花 漢名 敗醬 は媚びて老少年に伴ふ。露涙を滴らす斷膓花、風芳を飄へす燕尾香。鷄冠草は皆な拱立し〔手を組み合わせて長上に会釈するように立つ〕、鳳仙花は自ら凡ならず。幽光を領ぶる牽牛花、閙色を粧ふ洛陽花。卷丹は偏たり、黄芹は萋たり。〔姫百合は片隅にそっと咲き、葛花は一面に葉をはびこらせている。〕桔梗草は紫色を簇して〔集めて〕、他家の紅を奪はんことを欲す。〔「紫の朱を奪ふを悪む。」(論語)を踏まえる。〕米嚢花は碎けて、散落して泥に委し、夜落金錢〔午時花。夜花が散るので名ける。金盞花とは別物。〕は往々拾ふ可し。新羅菊は扶桑花の邊に接し、佛頭菊を曼陀羅花・天竺花の間に見る。〔新羅と扶桑(日本)、中国・朝鮮・天竺(インド)など、言葉遊びで並べたもの。古典植物で、新羅菊や扶桑花の詳細は未詳。〕此の紅碧錦綺叢間に向ひて〔於いて〕、挾むに蟲商を以てす。〔五彩の花草の間に虫の行商がいる。〕宮商繳如〔皦如〕、徴羽繹如〔たり〕。〔各々の虫がそれと分かる声で高低さまざまに鳴き声を競っている。宮商角徴羽は音階の名。「皦如・繹如」は「論語」の語。〕狗蠅黃唱いて紡線娘和し、金鐘兒の聲は金琵琶に應ず。惡む可し聒々兒之が倫を奪ふこと。〔これだけが虫たちの諧音を崩しているのがよろしくない。〕兩擔籠內、幾種の蟲聲、喞々韻を送る。〔天秤棒の両端にぶら下げられた虫籠では、幾種類もの虫が盛んに鳴き交わしている。〕武野當年の荒涼色、繍出して之を閙熱市中の今日に見る、眞に奇觀〔なり〕矣。
『江戸繁昌記』は全て六篇あり、悉く漢文を用ひて書かれてゐるが、しかも一種特別な風趣がある。間〻中國の用字造句と全然異る個所もあるが、ほんの一二を改めただけで、あとは元通りにしておいた。初篇は天保辛卯(一八三一)に作られたのであるから、今を去ることすでに百十年である。若月氏の著書の上卷は明治辛亥(一九一一)の刊行で、これ亦今から三十年前であつて、二書相隔つこと蓋し亦すでに八十年にもなるわけである。比較してみると、八十年の前後なほこれといふ程の大きな變化もないやうである。本鄕藥師の草花や植木もまづそんなところで、たゞヂエラニウムなどといつた西洋種が多少加はつたぐらゐのものであらう。最近三十年の變化の方が或はもつと大きいかも知れない。これは決して直接に見聞したわけではないけれども、定めしさうだらうと察せられる。兎に角西洋草花が大きな勢力を占めたに相違あるまい。
北京の廟會にも花屋は多い。だが惜しいことにこれに注意して記錄をした人はあまりないのである。『北京風俗類徴』十三卷は徴引繁富ならぬわけではない。けれども一通りざつと目を通してみたが、花屋に就いて書いた文章は一向に見當らなかつた。結局やはり敦禮臣の著した『燕京歲時記』しか無い。その「東西廟」を記した一條に
西廟は護國寺といひ、皇城の西北、定府大街の眞西に在る。東廟は隆福寺といひ、東四牌樓の西、馬市の眞北に在る。正月から始つて、七と八の日は西廟が開き、九と十の日は東廟が開く。廟會の日には百貨が雲集し、凡そ珠玉・綾羅・衣服・飮食物・骨董・書畫・花鳥・蟲魚、さては普通の日用品、易斷、見世物の類に至るまで、無いものはない。いはば都城内に於ける一大定期市である。兩廟の花屋は特に風雅な觀物で、春は果實の樹木が勝れ、夏は茉莉の花〔ジャスミン〕が勝れ、秋は木犀と菊花が勝れ、冬は水仙が勝れてゐる。春の花の中では牡丹・海棠・丁香〔丁字、クローブ〕・碧桃〔八重咲きの花桃〕などがあるが、みな嚴冬のさなかにもよく開花して甚だ鮮麗を極める。洵に巧みに天工を奪ひ〔巧奪天工は自然の美に紛うほど素晴らしい制作であること〕、時節の前借をなし得たものと云つてよい。
とある。こゝに語りて詳かでないとは云へ、情を慰むるはなほ無きに勝るで、珍重してよい。かゝる事はある人々から見ればまことにつまらぬと思はれるであらう。或は例の玩物喪志といふわけで、道學先生からお叱りを蒙るは必定である。それは私も知つてゐる。これまで誰一人進んで筆を取つて記録する者がなかつたのは、正しくこの爲ではなかつたらうか。けれども私はなほさう信じてゐる、〔倒置表現〕これはみな心を傾けてなすに値ひし、その上甚だ役に立つといふことを。一國民の文化、特に外國のそれを了解しようといふ場合、若し單に表面から見て行くだけならば、それは無益の業である。須らくその感情生活に着眼して、幾分にても彼等の自然と人生に對する態度を了解し得なければならぬ。さうしてこそ始めて多少の得る所がある、と私には思はれる。これまで私はいつも文學美術によつて一國の文化の大略を窺はうと思つてゐたが、結局は徒勞であり何の甲斐もなかつた。その後やつとそこに氣がついて、自ら馬鹿々々と叱りつゞけ、大いに悔んだけれども追ひつかなかつた。若しも捲土重來せんとならば、民俗學から入らなければ駄目だ。古今の文學美術の精華は、すべて一時期の少數者の表現であつて、これをもつて現實と對照するときは、往々にして疏通證明することが出來ないばかりでなく、反つて牴牾〔矛盾、背馳〕することさへ有るかも知れない。若しも禮儀風俗を以て中心となし、その自然觀と人生觀とを求め、更に進んでその宗教情緒を了解することが出來たならば、こゝに六七分通りの成功が得られたわけで、その國の事情に對して理解の見込がついたものである。私は生憎と信仰薄き人間であつて、宗教方面には入門のてだてを持たないのであるが、この外の民俗に關してはなほ知りたく思つてをり、燭を炳して書を讀んではゐるものの、何しろ老學であるばかりでなく困學でもある。それでも〔読書は〕ありのすさび〔心の赴くに信せて残余の生を送ること〕の一法たるを失はないわけで、緣日に對する興趣もつまりそれから起り、さうしてこの小文を書いたのだが、その目的は文藝とは大して關係もない。これでは到底人樣に見ていたゞけさうに思はれないのも、正に當然である。廿九年六月、夏至節。