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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

東京を懷(おも)ふ

私がこの題目(だいもく)を書いて、すぐに思ひ浮(うか)ぶのは谷崎潤一郞の『攝陽隨筆(せつやうずゐひつ)』〔昭和一〇年(一九三五)刊行〕中の『東京をおもふ』といふあの一篇である。すでに谷崎氏のあの文章がある以上、ほかの者は實際筆を擱(お)くの外(ほか)はない筈(はづ)であつて、迂生(うせい)〔小生。自分を卑下した語。〕など何もわざ〳〵魯班(ろはん)の門前で斧(おの)を弄(もてあそ)ぶ(釋迦(しやか)に説法(せつぽふ))〔春秋時代の名匠魯班の家の前で職人が腕自慢した故事。班門弄斧。(柳宗元「王氏伯仲唱和詩序」他)〕やうな眞似(まね)をするがものはないのである。しかし、こゝでは少しく意味が異(ちが)ふのだ。谷崎氏のおもふ所は故郷としての東京であつて、あたかも父師(ふし)がその子弟(してい)に對して深い望みを囑(しよく)してゐるために、反(かへ)つてこれを叱責(しつせき)することが多いのに似てゐる、世には盲目的(まうもくてき)に溺愛(できあい)して、その子の惡を知らぬ父兄(ふけい)も多いものだが。谷崎氏の文に云ふ、

「あの松之助〔尾上松之助〕の寫眞を見ては、日本人の劇、日本人の顏が悉(ことごと)く醜惡(しゆうあく)なものに思はれ、あれを面白(おもしろ)がつて見物(けんぶつ)する日本人の頭腦や趣味が疑はれて、日本人でありながら日本といふ國がイヤになつた。」〔その前の部分を補う。「當時日本の活動寫眞では尾上松之助が大持てゞあつたが、あれが我が國の文化の程度を象徴してゐたと云つていゝ。舊き日本が捨てられて、まだ新しき日本が來たらず、その孰方よりも惡いケーオス(混沌—入力者注記)の狀態にある、さうしてそれが、亂脈を極めた東京市のあらゆる方面に歷然と現はれてゐたのであつた。」〕むかし堀口大學の詩にこんなのがあつた、

「生(うま)れし國(くに)にある時は
家なき人となりにけり。
人は知らじな、ふる里を
外國(とつくに)と見るわがうれひ。」

故鄕や故國(ここく)に對して情があればこそ、かうした無情とも思はれるやうな譴責(けんせき)や怨嗟(ゑんさ)をなすに至(いた)るのであらう。かりに私が紹興(せうこう)を論ずる文章を書いたとすれば、恐らく郷里の友人が讀んだら眉(まゆ)をしかめるやうなことをいろ〳〵云ふに違ひない、その云ふことが誤つてゐるとは云へぬにしても、とにかく手嚴(てきび)しい云ひ方をするであらう、だが實はこの一點こそ私の故郷に對して抱(いだ)いてゐるまことの心情なのである。故郷に對して、祖國(そこく)に對して、今日(こんにち)はお天氣(てんき)がハハハ……といつた態度〔お座なりのご挨拶をするような軽い姿勢〕を持(ぢ)することは、どうも私には出來さうもない。もしこれが外國の場合だと、無論(むろん)少し遠慮しなければならない、といつて何も無闇(むやみ)にお愛想(あいそ)ばかりならべることはいらぬが、又これに完璧(くわんぺき)を求めて叱責(しつせき)し、毛を吹いて疵(きづ)を求める〔あら探しをする〕ことはしなくてもよいと思はれる。これは他家(たけ)の子弟(してい)だと、その怜悧(れいり)で眉目秀麗(びもくしうれい)な點(てん)だけを取りあげて賞めれば、それで吾事(わがこと)は濟(す)む〔自分の責務は果たした〕のと同じである。ところが一般世間ではそれ程(ほど)のことさへむづかしく、子供の喧嘩(けんくわ)に兩方の母親が出て、取組(とつく)み合つてドブの中におつこちる話はよく小型新聞〔大(おほ)新聞に対して、三面記事中心の小(こ)新聞をいう。〕に載(の)つてゐることだし、又「白面(はくめん)の客(かく)」が中毒の發作(ほつさ)を發(おこ)した時に近所の子供を偸(ぬす)みこれを箕子(きし)の子孫〔朝鮮人〕の經營(けいえい)してゐる「白面の家」へ抵當(ていたう)に持ち込む話もよく聽く事である、(門口(かどぐち)の電燈、電線、銅の把手(とつて)、郵便箱、銅の表札(へうさつ)をその白面の客に借りて行かれる〔盗まれる〕事は特に多い、拙宅(せつたく)でも曾(かつ)てその經驗があり、今に至つて門口に電燈がない。)だから別國に對して斷乎(だんこ)遠慮しない人々もあるが、われわれは必ずしもそれを學ばずともよからうと思ふ。

東京は私の第二の故鄕である、と私は曾て云つたことがある、しかし東京は結局よその國なのだから、私の態度は自然私の紹興に對する場合とはちがつて來る、また谷崎氏の東京に對する場合とも異(ちが)ふ、したがつて私の文章もそれと種類のちがつたものとなるわけである。私の東京への懷念(おもひ)は殆(ほとん)ど日本の一切に對する觀察の基本といつてよい、それといふのが東京を除いて私は日本の生活を知らないし、文學美術中私の最も興味を感ずるのは東京の前身(ぜんしん)たる江戸時代の一部分であるからである。民族精神は全體的のものであるとはいへ、古(いにし)へと今と時の異(ことな)るにつれて變化(へんくわ)のあるのは勢(いきほ)ひの免(まぬか)れがたきところである、われわれが如何に唐代文化的な平安時代を重(おも)んずればとて、室町江戸時代を經(へ)て來たところの現代生活の中に住んでゐる以上、專門の學者にあらざる限り、完全に平安時代を了解することは甚だ困難な事であらう、ちやうどそれは中國で文化といへば必ず漢唐を推(を)すけれども、われわれの今日の生活は大抵宋(そう)以來の系統のものであり、時に李白(りはく)とか韓愈(かんゆ)などのやうな一二の模範的士大夫(したいふ)に對しては了解に難(かた)くないやうなものの、社會の背景を持つた文藝全般の空氣を了解しようとするとなると、そこに非常な困難が生ずるのと同じである。日本を語るのに、その空間的時間的なすべてを含(ふく)めるといふやうな、さうした大手腕(だいしゆわん)は、到底(たうてい)私は持ち合(あは)せぬ、私はたゞ自分の感じた東京に關する一二點を語つてみるまでである、これはもと〳〵身邊(しんぺん)の瑣事(さじ)、個々の偶感(ぐうかん)である、しかしそれは私の日本を知る範圍(はんゐ)の狹(せま)さと程度の淺(あさ)さとを表示するに足(た)り、まんざら面白くない事でもあるまい。

私が東京につゞけて暮(くら)したのは僅(わづ)か六年〔明治三九年(一九〇六)~明治四四年(一九一一)の足掛け六年〕である、しかし私はあそこを愛好(あいかう)し、第二の故郷の感を抱(いだ)いてゐる。南京(なんきん)にも私はやはり同じ年數を暮したし〔一九〇一年~一九〇四年、江南水師学堂で「船乗り」になるために学んだ時期と、一九四六年~一九四九年に老虎橋監獄に収監されていた時期。〕、學校の内外でもいろ〳〵な事件があつて、思出も少くないのだが、南京に對しては杭州(こうしう)〔祖父周福清を定期的に見舞うために花牌楼の下宿に半年ほど暮らしていた。〕と同じ程度に、忘れられぬとか、いつも思ひ出すといつた事はない。北京(ペキン)は大へん好きで、今でも住んでゐる、だがこれは話が別であるからこゝでは觸(ふ)れないことにしよう。辛亥(しんがい)(民國元年)〔一九一二年だが、旧暦で換算したものか。一九一一年七月に帰国、一〇月に辛亥革命が勃発、民国政府成立と新暦採用になった。〕の秋東京から歸國して、禹蹟寺(うせきじ)〔「禹跡寺」のエッセイが『結縁豆』にある。〕、季彰山(きしやうざん)〔明・季本、号彰山。王陽明の弟子で紹興出身。〕の故里、沈園(しんゑん)の遺址(ゐし)〔南宋時代の名園。陸游の故事は別の記事に出て来る。〕などからいづれも一箭(いつせん)の距離〔矢が届く程度の距離〕にある老屋(らうをく)に住み、非常な寂寞(せきばく)を覺(おぼ)えて、絶えず東京での學生生活を思ひやり、家居(かきよ)〔または「いへゐ」か。〕して食ひ慣れた米の飯を吃(きつ)するに勝(まさ)ると思つた。そして一篇の擬古文(ぎこぶん)を作り、一年前に妻及び妻の弟と共に尾久川(をぐがは)に魚釣(さかなつ)りに行き、田端(たばた)で雨に遇(あ)つて、乘合馬車(のりあひばしや)(囚人車(しうじんぐるま)のやうな)に乘つて本郷(ほんがう)に歸つた事を追記(つゐき)して、頗る感慨(かんがい)を催(もよほ)したことがある。これは何故であらうか? 東京の氣候は北京ほど好くない、また地震と火事はやはり大きな脅威(けふゐ)であり、山水名勝(さんすいめいしやう)を見物してまはる餘力(よりよく)もないし、官費生(くわんぴせい)の懷具合(ふところぐあひ)は大抵察(さつ)するに難(かた)くなく、無論娯樂(ごらく)などと云へた段(だん)ではなかつた。私が東京に於(お)ける日本の生活を喜んだといふのは、つまり日本の舊式(きうしき)の衣食住(いしよくぢゆう)であつた。この外には新刊書や古書を買ふ快樂で、日本橋(にほんばし)、神田(かんだ)、本郷一帶(いつたい)の洋書和書の新本屋、古本屋、雜誌屋、夜店(よみせ)などを日夜(にちや)ひやかし廻(まは)つて疲れることを知らなかつたものである、だがこれは多くの人の誰しも好むところであらうし、何も私がことさら説明を加へるまでもあるまい。故郷に歸るとかうした快樂はなくなつてしまつた、北京には市場の中に古本屋があるが、情趣(じやうしゆ)はまるで異(ちが)ふ、多くの友人が新しい方面を完全に放棄(はうき)し、轉(てん)じて瑠璃廠(るりしやう)の古書の山にもぐり込(こ)んでしまつたのは、轉變(てんぺん)の仕方が急激(きふげき)のやうでもあるし、又どうも金がかゝるのだが、それも無理からぬことと思はれる、といふのが、北京では實際古書しか買へないのだから、——かりに買書癖(へき)〔購書癖〕の人が歸國後もなほきれいにその癖(くせ)をなほすことが出來ないとして。

去年の六月、私は『日本管窺(くわんき)の二』を書いて、日本の衣食住に關して少しく説明した。私は一部分の日本の生活に對して愛著(あいちやく)を感じてゐるが、その原因は個人的性分(しやうぶん)と習慣とに在る、右の文中に私はかう云つておいた、

「私は東南の水鄕(すいがう)に生長した人間である、そこの生活の寒苦(かんく)なことといへば、冬は屋內(をくない)に火の氣(け)がなく、冷たい風は蒲團(ふとん)の中にまでどん〳〵吹(ふ)き込んで來る、食物といへば年(ねん)がら年ぢゆう恐(おそろ)しく鹽辛(しほから)い醃菜(つけもの)か、それでなければ恐しく鹽辛い醃魚(しほざかな)きりである、そんな訓練を受けて行つたのだから、東京の下宿生活が甚だ適合(てきがふ)しないわけはなかつた。」更に第二の原因は、懷古(くわいこ)的幽情(いうじやう)とでもいつたところであらう。文中に云ふ、

「私は當時又民族革命の一信徒(いちしんと)であつた、凡(およ)そ民族主義には必ず復古(ふつこ)思想を含んでゐるものである、われわれは清朝(しんてう)に反對してゐたから、清以前或は元(げん)以前のものなら何でも好(よ)いと思はれた、ましてそれよりもつと以前のものは尚(なほ)の事であつた。」その理由から私達は和服をも大(おほ)いに着てよいと思つてゐた、そして袍子(パオツ)や馬褂(マーコア)のごときは民國以前にはみな胡(ゑびす)の服と看做(みな)し、東京でそんな衣服を着るのはつまり奴隷(どれい)の表示だとしてゐた、弘文書院(こうぶんしよゐん)の寫眞(しやしん)中(その中には黃軫(くわうしん)〔黄興〕や胡衍鴻(こえんこう)〔胡漢民〕もゐる)前列(ぜんれつ)の端(はし)に揚晢子(やうせつし)〔楊度(木扁)、字晢子〕の袍子(パオツ)馬褂(マーコア)姿がある、當時これには流石(さすが)のわれわれも度膽(どぎも)を拔(ぬ)かれた事であつた。私達は「清國(しんこく)留學生」と云はれることを好まなかつた、手紙を出す時には必ず「支那(シナ)」と書いた、といふのは、この「摩訶(まか)脂那」「至那」乃至(ないし)「支那」は、みな印度(インド)の中國に對する美稱(びしよう)だと認めてゐたからである、又『佛爾雅(ふつじが)』八、釋木(しやくぼく)第十二にも「桃を至那你(しなに)といふ、漢より持來(もた)したればなり。」とあり、甚だ面白いと思ひ、そのため「支那」といふ名稱に對して少しも反感を抱かなかつたのである、現時に至つてかの三上(みかみ)老人〔三上参次。当時貴族院議員(帝国学士院会員議員)。〕は中國のために名を正して支那と云はんとしてゐる、これはフアスシチ〔Fascisti, ファシスト〕の睡(ねむ)り線香(せんかう)にあてられて意識朦朧(まうろう)となつたもので、又一つの笑話(せうわ)である。食物(しよくもつ)に關して私は曾てかう云つた、

「私の郷里は貧苦(ひんく)甚だしく、人民は努力して三度の飯を食ひ、たゞ醃菜(つけもの)と臭豆腐(しうどうふ)と螺螄(たにし)とを以(もつ)ておかずとする、故に鹽辛(しほから)いのや臭(くさ)いのは平氣(へいき)である、また油を命のごとくに嗜(たしな)むこともない、だから日本に行つて何を食べても大した問題でなかつた。その多くは故鄕の何かに比(たぐ)へられたし〔比較参照することができたし〕、多くのものは又中國の何處(どこ)かのものとそのまゝで、そんな事を考へるのも非常に興味が深かつた。味噌汁と干菜湯(かんさいとう)、金山寺味噌(きんざんじみそ)と豆板醤(とうばんじゃん)、福神漬(ふくじんづけ)と醬咯達(じやんぐーだ)〔高菜漬〕(咯達〔根塊〕は骨朶(こつだ)で醤大頭菜(じやんだいとうさい)〔蕪の漬物〕のことである)、牛蒡(ごばう)・獨活(うど)と蘆笋(ろじゆん)〔アスパラガス〕、鹽鮭(しほざけ)と勒鮝(ろくしよう)〔干魚〕、これらは皆よく似た食物である。また大徳寺納豆(だいとくじなつとう)は即ち鹹豆豉(かんとうち)であり、澤庵漬(たくあんづけ)は即ち福建(ふくけん)の黄土蘿蔔(くわうどらふ)であり、蒟蒻(こんにやく)は即ち四川(しせん)の黒豆腐であり、刺身(さしみ)は即ち廣東(かんとん)の魚生(ユーサーン)であり、壽司(すし)は即ち古への魚鮓(ぎよさ)で、その製法は『齊民要術(せいみんえうじゆつ)』〔北魏・賈思勰〕に見えてゐる、これらはその間に文化交通の歴史を含んでをり、食べてうまいばかりか、更にいろ〳〵と考へさせられる。家庭での宴會(えんくわい)には勿論割(わり)に御馳走(ごちさう)が出るが、それでもアツサリしたものたるに變(かは)りはなく、やはり菜蔬魚介(さいそぎよかい)を以て主(しゆ)とする。鷄(とり)や豚は食べないわけではないが、それもなるべく脂(あぶら)の少いのを用ひる、故にやはり油濃く〔ママ〕ないのである。」谷崎氏の文章中にはよく東京の食物を批評(ひひやう)してゐるが、彼は鮒(ふな)の雀燒(すずめやき)(鮒の身を開いて、甘辛(あまから)い下地(したぢ)〔タレ〕をつけて燒いて串に刺した、佃煮(つくだに)のやうに眞黒(まつくろ)な色をしたもので、その恰好(かつかう)がふくら雀(すずめ)〔寒さで丸くちぢこまった雀〕のやうな圓(まる)い形をしてゐるところからこの名がある)とタタミイワシ(鰯(いわし)の晒干(さらしぼし)、實は沙丁魚(いわし)ではない)〔カタクチイワシのシラスを干した食品〕とを擧(あ)げて代表となし、薄(うす)つぺらで貧弱で、見るからに寒氣(さむけ)がするほどあぢきなくて、少しも景氣(けいき)のいゝ豐かさ潤(うるほ)ひといふものがない。これは東京人の缺點(けつてん)で、その現今(げんこん)の東京を以て中心とせる文學美術の誕生に影響せるものは甚大(じんだい)であると云つてゐる。彼の云ふところにも勿論一理(いちり)ある、しかしこれらの食物の面白さはとりもなほさずこゝにあると私には思はれる、換言(くわんげん)すれば清淡質素(せいたんしつそ)と云へる、それは富家(ふけ)の厨房(ちゆうばう)のやうに油濃くて團粉(だんふん)〔片栗粉〕の多いといふことはない、その鹽(しほ)と淸湯(すまし)を用(もち)ひる點は私の鄕里の普通の民家と近く、私個人にとつて甚だいゝと思はれる。かりに私に御馳走を振舞(ふるま)つてくれる人があるとすれば、魚翅(ふかのひれ)や燕窩(つばめのす)は勿論のこと熊掌(くまのて)でも、みな私は食べきれる、それはちやうど大葱(にら)や卵蒜(にんにく)を私が食べきれるのと同樣である。しかしそれらは食べる機會(きくわい)がなくても決して食べたいとは思ふまいし、人が食べてゐるのを見て食氣(くひけ)を起(おこ)すこともあるまい、私が食べたいと思ふのは少し贅澤(ぜいたく)なところで、まづ白鮝(いしもち)湯〔湯はスープ(吸い物)〕である、その次に鰵(にべ)(郷里では俗に米(ミー)と同音に讀む)魚と鮝(ひもの)湯である、もう一つ、搗(つ)きこねた蝦(えび)の殼(から)と突き碎(くだ)いた鞭笋(たけのこ)の食べられない「老頭」(老頭とは根に近い硬い部分のこと、たとへば甘蔗老頭〔甘庶はサトウキビ〕などといふ如く)に更に干菜を加へて蒸し上げた、名前は知らぬが何とか湯(タン)(吸物)といふのがあるが、これは實際寒氣がするほどあぢきない極みである、しかし越人(ゑつひと)はこれをおいしがつて食べる、そしてそのおいしい點はやはりこのあぢきなきなさ即(すなは)ち淸淡質素の中にあるので、まあ强(し)ひてこれを俳味(はいみ)といふことも出來よう。

日本の家屋(かをく)も私は大へん好きである、その原因は食物と同樣、その質素なるに在る。私は『管窺の二』の中にかう云つておいた、

「私の喜ぶのはやはりその部屋の手頃(てごろ)なこと、特に簡易(かんい)生活に便利なことである。」その下に又かうも云つておいた、

「一部屋四疊半(よじやうはん)の面積は僅(わづ)か八十一平方尺(へいはうじやく)で、維摩(ゆいま)の斗室(としつ)よりなほ十分の二も狹い、四方の壁はガランとしてゐて、下宿から茶道具だけ貸してもらひ、自分で小机(こづくゑ)一つ買つて來て窓に据(す)ゑ、あと座布團(ざぶとん)の二三枚もあれば、結構(けつかう)樂に住める。机に向つて坐(すわ)り本を讀み字を書けば、前後左右はすべて空地(あきち)で、自由に書物や紙を置くことが出來、宛(さなが)ら一大書卓(しよたく)に等しい、來客があれば何處(どこ)にでも坐れるし、六七人ぐらゐ容(い)れても餘裕綽々(よゆうしやくしやく)である、倦(う)めばそのまゝごろりと横になつて、別にソファーを備(そな)へつけることもいらぬ、深夜押入(おしいれ)から蒲團(ふとん)を出して敷(し)けば、それで正式に睡(ねむ)ることになる。昔は日本の書生(しよせい)の引越(ひつこ)しといへば、車に積んだ荷物は僅(わづ)か蒲團と柳行李(やなぎがうり)と小机、それに本箱が加はるくらゐのもので、自分は硝子(ガラス)のランプを下げて車の後からついて行く圖(づ)をよく見たものである。中國の公寓(コングー)(下宿屋(げしゆくや))の住室はみな方丈(はうぢやう)以上であるが、板の寢臺(しんだい)と卓(テーブル)椅子(いす)と、トランクを載(の)せる臺(だい)を据(す)ゑると、もういくらも餘地(よち)がなく、窮屈(きゆうくつ)な感じを抱(いだ)かせ、少しも安閑(あんかん)の趣(おもむき)がない。大體中國の家屋は西洋のそれと同樣、みな華麗(くわれい)なるに宜(よろ)しく、簡陋(かんろう)なるに宜しくない、一間の家屋を造り上げても、百里を行く者は九十里を半ばとすといふ具合で、相當の器具を備(そな)へつけなければ完成したとは云へないのである。ところが日本では土木(どぼく)工事が畢(をは)つて、疊(たたみ)を敷(し)き障子(しやうじ)を張れば、そのまゝ住むことが出來(でき)、それで別に何一つ不足はなく、反(かへ)つて清楚(せいそ)にも奧床(おくゆか)しく覺えるのである。むかし日本にゐたとき旅行して、吉松高鍋(たかなべ)等の山村(さんそん)( 宮崎 縣  )に泊(とま)り、宿屋(やどや)の粗末(そまつ)な一室の窓に憑(よ)つて山を眺(なが)め、或は浴衣(ゆかた)を着て疊(たたみ)の上に寢そべり、急須(きふす)に茶を入れて來(こ)させて飮んだことがあるが、それはこれまで泊つたことのある洋式や中國式のどの旅館よりも氣持がよく、簡單で費用もかゝらなかつた。」別の方面から云へば、それには濶大(くわつだい)さを缺(か)いてゐる。たとへば谷崎潤一郎はかゝる紙の部屋の中には偉大なる思想は發生すること能(あた)はずと云ひ、萩原(はぎはら)朔太郎(さくたらう)は圓滿(ゑんまん)なる戀愛(れんあい)生活は得られないと云ひ、永井荷風(かふう)は木と紙で造られた家屋に適應(てきおう)する美術はその形は小(せう)ならざるべからず〔本文「べかず」〕、その質は輕(かろ)からざるべからず、ピアノ油繪(あぶらゑ)大理石彫刻といつたものと相容(あひい)れないと云つてゐる。これらはみな恐らく尤(もつと)もの言(げん)である、だがそれも仕方はない。事實がこの通りなのであるから。日本人がよしや田口卯吉(うきち)の云つた如く日々シルクハットをかぶつてみたところで、どうせ白人(はくじん)に變(へん)ずることは出來ないのだ、セメントで文化住宅を造(つく)つてみたところで、その趣味は遂(つひ)に四疊半に勝(まさ)ると限るまい、迂生(うせい)のごときは不幸にして極東(きよくとう)に生れ、環境も似てゐる處(ところ)があるので、どうしてもこれに對して同感を抱(いだ)かせられるのだ、これは元來(ぐわんらい)單なる個人的愛好であつて、その價値(かち)の是非(ぜひ)のごときは自(おのづか)ら種々(しゆじゆ)の云ひ方があらうし、決して一言(いちごん)で以て斷定を敢(あ)へてするわけではないのである。

日本の生活のうち多くの習俗(しふぞく)、即ち清潔なること、禮儀正しいこと、洒脱(しやだつ)なることの如きも私の喜ぶところである。洒脱なることと禮儀正しいこととは一見衝突(しようとつ)するかに思はれるけれども、實(じつ)は決してさうでない。洒脱は粗暴無禮(そぼうぶれい)ではない、それはたゞ宗教的及び道學的僞善(ぎぜん)を有せず、淫逸(いんいつ)から生ずるところのエセ〔似而非〕眞面目(まじめ)を有しないことである。最も顯著(けんちよ)な例は裸體(らたい)に對する態度である。エリス〔ハヴェロック・エリス〕は『聖フランシスその他』(St. Francis and Others)の中でかう云つてゐる、

「希臘(ギリシヤ)人は曾(かつて)て裸體を喜ばぬといふ事を波斯(ペルシヤ)人及(およ)びその他の夷人(いじん)の一特性と看做(みな)した、日本人——時代と風土とを異(こと)にした希臘人——も、かの西方(せいはう)の夷人の淫逸(いんいつ)な羞恥(しうち)の眼が彼等に敎(をし)へるまでは、裸體を忌避(きひ)することに全然考へ及ばなかつた。われわれの間では今なほ、單に足を露出(ろしゆつ)するだけでも嫌惡(けんお)すべきことだと考へられてゐる。」彼は小註(せうちゆう)の中に、大英(だいえい)博物館の閱覽(えつらん)室にはくりぬいた靴(くつ)を穿(は)いてはいることは許(ゆる)されないとか、又女優(ぢよいう)が靴下を穿(は)かずに出演して發覺(はつかく)した場合には、公衆に謝罪したうへ巨額の罰金(ばつきん)を科(くわ)せられるとかいつた時事(じじ)を引いて之を證明(しやうめい)してゐる。日本でも今日では極力(きよくりよく)文明を模倣(もはう)し、時には小説の中に接吻(せつぷん)があまり多すぎてはいけないと云つたり、或は石像に袴(はかま)を穿(は)かせたりして、官吏(くわんり)の眼が次第に淫逸にして羞恥的になつた事を表はしてゐる、しかし民間ではなほ盡(ことごと)くは然(しか)らず、浴場(よくぢやう)の裸體群像(ぐんざう)は依然(いぜん)「司空見慣(ありふれたこと)」〔唐・劉禹錫が司空の李紳に歓待されたとき、歌姫たちに感激したことを詩に詠んだ。その中に「司空見慣渾閑事(しくうはみなるすべてかんじたり)」という句があったことからの故事成語。(唐・孟棨「本事詩」)〕であり、婦人の素足(すあし)はなほのこと奇(き)とするに足りぬ、それといふのがこれは元來當然の風俗だからである。中國は萬事(ばんじ)英國に及ばぬけれども、衣履(いり)整はざる者は圖書館に入る權(けん)なきこと、女子の素足は法を犯せるものなること、この二つだけは同じであるのも、甚だ面白いことである。〔筆者の皮肉。〕いな、中國にはなほ纒足(てんそく)がある、男女ともに纒(てん)するが、たゞ女の方がより多く裹(つゝ)み、より小さく縛(しば)るだけのことである、これは英國にもないことである、不幸にして迂生はかゝる途轍(とてつ)もないやり方は大嫌ひである、そのため反動的に素足を讃美(さんび)するのである、「兩足白きこと霜(しも)の如く、鴉頭襪(あとうべつ)を著(つ)けず」の句〔「屐上足如霜(げきじやうのあしはしものごとく)、不著鴉頭襪(あとうべつをつけず)」(李白「越女詞」)「鴉頭襪」は元来「丫頭襪」の書き換え。親指と他の指との間を分けた靴下で、足袋(たび)の元になった。〕を思ひ出して、さすがに青蓮居士(せいれんこじ)(李白)はうれしい人だと思ふ、彼がどこの人であらうと、われらの同志でさへあればそれでよいのだ。私はいつも思ふのであるが、世界中の履物(はきもの)のうち最も善美なるは希臘古代のサンダラ(Sandala)であり、間適(かんてき)〔閑適〕なる〔心安らぐこと〕は日本の下駄(げた)であり、經濟的なるは中國南方の草鞋(わらじ)である、そして拖鞋(トゥオシエ)(つつぱき靴)〔つっかけサンダル〕の類(たぐひ)はこの數に入らぬのである。凡そこれらは皆その隱さず飾らず、ひたすらその自然にまかせながら、それでゐて穿き具合もよく見苦しくもないところがよいのだ。迂生は傳説中の辜湯生(こたうせい)〔清代〕のやうな拜脚狂(はいきやくきやう)でもなければ、また履物の蒐集(しうしふ)をやつたこともないので、斯道(しだう)〔この道、この分野〕について與(とも)に語る資格はないけれども、脚その他の身體(しんたい)の一部分に對しては、之を解放する方が之を束縛(そくばく)し忌(い)み隱すよりも必ず勝(まさ)つてゐると愚考(ぐかう)する、從(したが)つて希臘や日本の良風美俗(りやうふうびぞく)に對して讃美の意を表示し、中華の如(し)かざる所となさざるを得ないのである。希臘の古國は恨(うら)むらく〔悲しいことに〕未(いま)だ見るを得ないが、日本ならば幸ひに曾て身(みづか)ら歴(へ)〔経歴し〕、外出するごとに、別に何の得(う)る所は無くとも、往(ゆ)くさ來るさ〔「あふさきるさ 」に同じ。こちらは多義語だが、行ったり来たりする意もある。〕の人々のみな平常の人なるに、足を裹(つつ)みたる者の一人だに見當らぬを見て、〔翻って故国の現状を思うと〕思はず愀然(しうぜん)として樂しまなかつたものである、しかし今日北平の街を步いて每日經驗するところの如(ごと)くんば、此(こ)の事また旣(すで)に大いに喜ぶべきである。〔文意がいささか曖昧。原文「希臘古國恨未及見,日本則幸曾身歴,毎一出門去,即使別無所得,只見憧憧往來的都是平常人,無一裹足者在内,令人見之愀然不樂,如現今在北平行路毎日所經驗者,則此事亦已大可喜矣。」(古代ギリシャの国々を目にする機会がなかったことを残念に思うが、一方、日本には幸いにも実際に足を運んだことがあるが、外に出るたびに、たとえ他に得るものがなくとも、ただ往来する普通の人々ばかりが目に入り、その中に躊躇して足を止める者が一人もいない様子は、見る者に憂鬱な気分を抱かせる。しかし、現在北京を歩く際に毎日経験しているような状況に比べれば、このことだけでも大いに喜ばしいことである。)「此事」とは現時の日本でともかくも纒足をしていない現状を指し、翻思すれば憂愁の種だが、日本が少なくともその点解放されていることだけでも慶賀すべきことである、というのだろう。〕私が『天足(てんそく)』なる小文(せうぶん)を書いたのは、もう今日では十五年の昔の事になるが、意見は依然として變(かは)つてゐない、これらの事に對して一つの新しい見方、新しい解釋を發見し得ないことはまことにわれながら愧(はづ)かしい次第である。

上に述べた所はすべて個人の主觀的見解である、けだし私はたゞ日本の生活の中から自分の性情によく合つた物を引出(ひきだ)して來るだけであつて、その一部分は經驗上直接親しみを感ずるもので、その近似(きんじ)して更に味の深いのをうれしく思ふのであり、一部分はそれと反對に、上の纒足の如く、嫌惡(けんお)を覺えるためにそれに相反せるものを取つて之を補はんとするのである、だから殘らず數へあげるとこれらのものは非常に多く、反つて十分明確な客觀的解説はなし難い。しかし私がこれらを愛好するのは兎に角事實である。そしてこれらはすべて東京で出合つたものであるため、東京に對して懷(なつ)かしさを感じ、この生活を以て背景とするところの近代の藝文(げいぶん)に對しても興趣(きようしゆ)を覺えるのである。永井荷風は『江戸藝術論』の第一篇『浮世繪の鑑賞』の中でこんなことを云つてゐる、

「而(しか)して余は今自己の何たるかを反省すれば、予はヴェルハアレン(Verhaeren)の如く白耳義人(ベルジツク)にあらずして日本人なりき。生れながらにして其(そ)の運命と境遇とを異(こと)にする東洋人なり。戀愛の至情(しじやう)はいふも更(さら)なり〔いうまでもなく、もちろん〕、異性に對する凡ての性欲的感覺を以て社會的最大の罪惡(ざいあく)とされたる法律を戴(いただ)くものたり。泣く兒(こ)と地頭(ぢとう)には勝つ可(べ)からざる事〔「泣く子と地頭には勝てぬ」(道理の通らない相手はどうすることもできない)という諺。〕を教へられたる人間たり。物云へば脣(くちびる)寒き〔「ものいへば唇寒し秋の風」(芭蕉、「猿蓑」所収)〕を知る國民たり。ヴエルハアレンを感奮(かんぷん)せしめたる生血(なまち)滴(したた)る羊(ひつじ)の美肉(びにく)と芳醇(はうじゆん)の葡萄酒(ぶどうしゆ)と逞(たくま)しき婦女の畫(ゑ)も何かはせん〔何にもならない〕。嗚呼(ああ)余は浮世繪(うきよゑ)を愛す。苦界(くがい)十年親の爲(ため)に身を賣りたる遊女(いうぢよ)が繪姿(ゑすがた)はわれを泣かしむ〔泣かせる〕。竹格子(たけがうし)の窓によりてたゞ茫然(ばうぜん)と流るゝ水を眺むる藝者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麥賣(そばうり)の行燈(あんだう)淋しげに殘る川端(かはばた)〔大川端。隅田川沿い。〕の夜景(やけい)はわれを醉(ゑ)はしむ。雨夜(あまよ)の月に啼(な)く時鳥(ほととぎす)、時雨(しぐれ)に散る秋の木の葉、落花(らつくわ)の風にかすれ行(ゆ)く鐘(かね)の音(ね)、およそ果敢(はか)なく賴(たよ)りなく望みなく、この世はたゞ夢とのみ譯(わけ)もなく嗟嘆(さたん)せしむるもの悉(ことごと)くわれには親し。われには懷(なつ)かし。」永井氏は自國の事を云つてゐるため非常に悲憤(ひふん)してゐるのたが、われわれが外國の藝術として見る時には同樣な態度は取らなくともよいかと思はれる——いかにも彼の云ふところには賛成だが。然(しか)り、しかし又、否(いな)。〔なるほどその通り、だがまた、やはり違う。〕生活背景にかくも近似(きんぢ)せる處(ところ)が多いので、そこから出た藝術的表示を見ても、常に人をして『旅(たびびと)を瘞(うづ)むる文』の「吾(われ)も爾(なんぢ)もなほ彼のごとし」の感を抱(いだ)かしめる。大きな藝術の中には吾と爾と彼とが悉(ことごと)く合一(がふいつ)してゐる、思ふにこれは決して老トルストイ一個人の新發明ではあるまい、御用的江湖(うらんかな)文學〔「売らんかな」は「さあどんどん売ろう」という意。営利本位の文学。〕が何と宣傳(せんでん)しようと勝手であるが、どうせ江湖訣(Journalism)は季節向きの小料理にすぎないのだ。〔一時の嗜好に投ずるに過ぎず、長続きする価値を持たない。〕もう一つある、中國と日本とは今日でこそ敵國(てきこく)の地位(ちゐ)に立つてゐるけれども、もし現時(げんじ)の關係を離れて永久的性質を論ずるときは、兩者は共に生れながらにして西洋と遙(はる)かにその運命と境遇とを異(こと)にするところの東洋人である、(削除)〔前章(10章)と同じく検閲削除の痕跡を残す。原文「日本有些法西斯中毒患者以爲自己國民的幸福勝過至少也等於西洋了,就只差未能呑併亞洲,稍有愧色,」(日本には、自国民の幸福が西洋に少なくとも匹敵する、あるいはそれ以上だと信じ込んでいるファシズム中毒者がいる。アジアを併合できなかったことだけが唯一の悔いであり、わずかに恥じ入っているが、)〕しかし日本の藝術家は物云(い)へば脣寒き悲哀(ひあい)を感じてゐる、これこそ正(まさ)に東洋人の悲哀なのだ、われわれも之を聞いてまた惘然(まうぜん)たらざるを得ない〔茫然としてなすすべのないことを悲しむ貌〕。木下杢太郎(もくたらう)はその『食後の歌』〔「食後の唄」(一九一九)〕の序に云つてゐる、

「寄席(よせ)のかへり、芝居(しばゐ)のかへり、また常盤木(ときはぎ)倶樂部(クラブ)〔明治大正に日本橋の料亭を改造してできた催事場。古書展・絵画展や落語・かるた会等の催しが行われた。〕、植木店(うゑきだな)のかへりみちに、この種の異香(いかう)の酒を嘗(な)めて、かの卑(いや)しい、然し涙に滿(み)ちた、江戸平民藝術の聯想(れんさう)に耽(ふけ)ることを樂しみにした。」私は音樂美術には素人(しろうと)であつて、江戸時代の音曲(おんぎよく)や版畫(はんぐわ)の精妙(せいめう)を了解し得ないけれども、永井・木下兩氏(りやうし)の指摘してゐるやうな、その間(かん)に隱されてゐる哀愁(あいしう)は、かすかながらも之を感得(かんとく)することが出來るのである。これは中國人の哀愁を代表してはゐないとするも、少くもその一部分を包括(はうくわつ)してゐると云へなくもない、といふのは、これは上に云つたやうにその表示するところのものが要するに東洋人の悲哀であるからである。永井氏は木版畫の色彩を論じて、これはかゝる暗黑(あんこく)時代の恐怖と悲哀と疲勞(ひらう)とを暗示してゐると云ふ。俗曲(ぞつきよく)の中には戀愛と死とを禮讃(らいさん)し、隨處(ずゐしよ)に義理と人情との衝突を顯(あら)はしてゐる、偶〻(たまたま)義太夫(ぎだゆう)〔三味線の伴奏による語り物。竹本義太夫の名をとった呼称。〕を聽いても、紙治(かみぢ)〔紙屋治兵衛。近松門左衛門作「心中天の網島」の主人公。〕に遇(あ)ふことが出來るのは、即ちこれらの作品である。日本の平民藝術は優美なる形式の中にしみ〴〵とした悲苦を盛(も)り込んでゐる、これは中國と甚だ同じくないやうに思はれる。しかし私は前にもことわつたやうに、これらの事情にはあまり通じてゐないのだし、中國の芝居はなほさら解(かい)しない、だからこれはたゞ口から出まかせに云つたまでである、玄人(くろうと)諸君がこれを見て御立腹(ごりつぷく)なさらなければ幸ひである。

私はこの小文を書いたが、東京の眞相(しんさう)にはまるで觸(ふ)れ得なかつた、讀者に對してまことに相濟(あひす)まぬ次第である、しかし私はこれを借りて自由に思ひついた事を云ふことが出來て、自分では寧(むし)ろ愉快を感ずる、文章からいへばあまり好(よ)く書けたわけではないが。この外(ほか)にも本屋のことなど、まだいろ〳〵書きたい事はあるが、今日はもう語(かた)るひまがない、いづれ又改めて書くことにしたい。

廿五年〔一九三六年〕八月八日、北平にて

*白面——白麺(しろめん)〔白い粉末状の覚醒剤などに使う隠語という。〕、即ちヘロインの意味を反面に含んでゐる。
*瑠璃廠——北京の街の名。本屋、骨董屋(こつとうや)、文房具屋等が多い。
*弘文書院——もと小石川(こいしかは)の江戸川橋畔〔江戸川橋の袂〕に在り、嘉納治五郎(かなふぢごらう)等の經營(けいえい)してゐた清國(しんこく)留學生の豫備校(よびかう)。
*辜湯生——即ち辜鴻銘(ここうめい)。東西洋の學に通じた碩學(せきがく)で、奇行(きかう)を以て鳴(な)つた〔知られた〕。女の纒足の臭(にほ)ひを嗅(か)ぐのが好きであつたと傳(つた)へる。
*天足——纒足を施(ほどこ)さぬ天然の足。周作人の小文は民國十年〔一九二一年〕八月作。『談虎集(だんこしふ)』に收む。
*旅を瘞むる文——明の王陽明(わうやうめい)の文集に見える。陽明が流謫(るたく)せられて龍場(りゆうぢやう)の丞(じよう)となり、道中死人を見て下僕(げぼく)と共に之を葬(はうむ)つた事を記す。文中「吾と爾(なんぢ)となほ彼のごとし」とはこれを指す。