瓜豆集
東京を懷ふ
私がこの題目を書いて、すぐに思ひ浮ぶのは谷崎潤一郞の『攝陽隨筆』〔昭和一〇年(一九三五)刊行〕中の『東京をおもふ』といふあの一篇である。すでに谷崎氏のあの文章がある以上、ほかの者は實際筆を擱くの外はない筈であつて、迂生〔小生。自分を卑下した語。〕など何もわざ〳〵魯班の門前で斧を弄ぶ(釋迦に説法)〔春秋時代の名匠魯班の家の前で職人が腕自慢した故事。班門弄斧。(柳宗元「王氏伯仲唱和詩序」他)〕やうな眞似をするがものはないのである。しかし、こゝでは少しく意味が異ふのだ。谷崎氏のおもふ所は故郷としての東京であつて、あたかも父師がその子弟に對して深い望みを囑してゐるために、反つてこれを叱責することが多いのに似てゐる、世には盲目的に溺愛して、その子の惡を知らぬ父兄も多いものだが。谷崎氏の文に云ふ、
「あの松之助〔尾上松之助〕の寫眞を見ては、日本人の劇、日本人の顏が悉く醜惡なものに思はれ、あれを面白がつて見物する日本人の頭腦や趣味が疑はれて、日本人でありながら日本といふ國がイヤになつた。」〔その前の部分を補う。「當時日本の活動寫眞では尾上松之助が大持てゞあつたが、あれが我が國の文化の程度を象徴してゐたと云つていゝ。舊き日本が捨てられて、まだ新しき日本が來たらず、その孰方よりも惡いケーオス(混沌—入力者注記)の狀態にある、さうしてそれが、亂脈を極めた東京市のあらゆる方面に歷然と現はれてゐたのであつた。」〕むかし堀口大學の詩にこんなのがあつた、
「生れし國にある時は
家なき人となりにけり。
人は知らじな、ふる里を
外國と見るわがうれひ。」
故鄕や故國に對して情があればこそ、かうした無情とも思はれるやうな譴責や怨嗟をなすに至るのであらう。かりに私が紹興を論ずる文章を書いたとすれば、恐らく郷里の友人が讀んだら眉をしかめるやうなことをいろ〳〵云ふに違ひない、その云ふことが誤つてゐるとは云へぬにしても、とにかく手嚴しい云ひ方をするであらう、だが實はこの一點こそ私の故郷に對して抱いてゐるまことの心情なのである。故郷に對して、祖國に對して、今日はお天氣がハハハ……といつた態度〔お座なりのご挨拶をするような軽い姿勢〕を持することは、どうも私には出來さうもない。もしこれが外國の場合だと、無論少し遠慮しなければならない、といつて何も無闇にお愛想ばかりならべることはいらぬが、又これに完璧を求めて叱責し、毛を吹いて疵を求める〔あら探しをする〕ことはしなくてもよいと思はれる。これは他家の子弟だと、その怜悧で眉目秀麗な點だけを取りあげて賞めれば、それで吾事は濟む〔自分の責務は果たした〕のと同じである。ところが一般世間ではそれ程のことさへむづかしく、子供の喧嘩に兩方の母親が出て、取組み合つてドブの中におつこちる話はよく小型新聞〔大新聞に対して、三面記事中心の小新聞をいう。〕に載つてゐることだし、又「白面の客」が中毒の發作を發した時に近所の子供を偸みこれを箕子の子孫〔朝鮮人〕の經營してゐる「白面の家」へ抵當に持ち込む話もよく聽く事である、(門口の電燈、電線、銅の把手、郵便箱、銅の表札をその白面の客に借りて行かれる〔盗まれる〕事は特に多い、拙宅でも曾てその經驗があり、今に至つて門口に電燈がない。)だから別國に對して斷乎遠慮しない人々もあるが、われわれは必ずしもそれを學ばずともよからうと思ふ。
東京は私の第二の故鄕である、と私は曾て云つたことがある、しかし東京は結局よその國なのだから、私の態度は自然私の紹興に對する場合とはちがつて來る、また谷崎氏の東京に對する場合とも異ふ、したがつて私の文章もそれと種類のちがつたものとなるわけである。私の東京への懷念は殆ど日本の一切に對する觀察の基本といつてよい、それといふのが東京を除いて私は日本の生活を知らないし、文學美術中私の最も興味を感ずるのは東京の前身たる江戸時代の一部分であるからである。民族精神は全體的のものであるとはいへ、古へと今と時の異るにつれて變化のあるのは勢ひの免れがたきところである、われわれが如何に唐代文化的な平安時代を重んずればとて、室町江戸時代を經て來たところの現代生活の中に住んでゐる以上、專門の學者にあらざる限り、完全に平安時代を了解することは甚だ困難な事であらう、ちやうどそれは中國で文化といへば必ず漢唐を推すけれども、われわれの今日の生活は大抵宋以來の系統のものであり、時に李白とか韓愈などのやうな一二の模範的士大夫に對しては了解に難くないやうなものの、社會の背景を持つた文藝全般の空氣を了解しようとするとなると、そこに非常な困難が生ずるのと同じである。日本を語るのに、その空間的時間的なすべてを含めるといふやうな、さうした大手腕は、到底私は持ち合せぬ、私はたゞ自分の感じた東京に關する一二點を語つてみるまでである、これはもと〳〵身邊の瑣事、個々の偶感である、しかしそれは私の日本を知る範圍の狹さと程度の淺さとを表示するに足り、まんざら面白くない事でもあるまい。
私が東京につゞけて暮したのは僅か六年〔明治三九年(一九〇六)~明治四四年(一九一一)の足掛け六年〕である、しかし私はあそこを愛好し、第二の故郷の感を抱いてゐる。南京にも私はやはり同じ年數を暮したし〔一九〇一年~一九〇四年、江南水師学堂で「船乗り」になるために学んだ時期と、一九四六年~一九四九年に老虎橋監獄に収監されていた時期。〕、學校の内外でもいろ〳〵な事件があつて、思出も少くないのだが、南京に對しては杭州〔祖父周福清を定期的に見舞うために花牌楼の下宿に半年ほど暮らしていた。〕と同じ程度に、忘れられぬとか、いつも思ひ出すといつた事はない。北京は大へん好きで、今でも住んでゐる、だがこれは話が別であるからこゝでは觸れないことにしよう。辛亥(民國元年)〔一九一二年だが、旧暦で換算したものか。一九一一年七月に帰国、一〇月に辛亥革命が勃発、民国政府成立と新暦採用になった。〕の秋東京から歸國して、禹蹟寺〔「禹跡寺」のエッセイが『結縁豆』にある。〕、季彰山〔明・季本、号彰山。王陽明の弟子で紹興出身。〕の故里、沈園の遺址〔南宋時代の名園。陸游の故事は別の記事に出て来る。〕などからいづれも一箭の距離〔矢が届く程度の距離〕にある老屋に住み、非常な寂寞を覺えて、絶えず東京での學生生活を思ひやり、家居〔または「いへゐ」か。〕して食ひ慣れた米の飯を吃するに勝ると思つた。そして一篇の擬古文を作り、一年前に妻及び妻の弟と共に尾久川に魚釣りに行き、田端で雨に遇つて、乘合馬車(囚人車のやうな)に乘つて本郷に歸つた事を追記して、頗る感慨を催したことがある。これは何故であらうか? 東京の氣候は北京ほど好くない、また地震と火事はやはり大きな脅威であり、山水名勝を見物してまはる餘力もないし、官費生の懷具合は大抵察するに難くなく、無論娯樂などと云へた段ではなかつた。私が東京に於ける日本の生活を喜んだといふのは、つまり日本の舊式の衣食住であつた。この外には新刊書や古書を買ふ快樂で、日本橋、神田、本郷一帶の洋書和書の新本屋、古本屋、雜誌屋、夜店などを日夜ひやかし廻つて疲れることを知らなかつたものである、だがこれは多くの人の誰しも好むところであらうし、何も私がことさら説明を加へるまでもあるまい。故郷に歸るとかうした快樂はなくなつてしまつた、北京には市場の中に古本屋があるが、情趣はまるで異ふ、多くの友人が新しい方面を完全に放棄し、轉じて瑠璃廠の古書の山にもぐり込んでしまつたのは、轉變の仕方が急激のやうでもあるし、又どうも金がかゝるのだが、それも無理からぬことと思はれる、といふのが、北京では實際古書しか買へないのだから、——かりに買書癖〔購書癖〕の人が歸國後もなほきれいにその癖をなほすことが出來ないとして。
去年の六月、私は『日本管窺の二』を書いて、日本の衣食住に關して少しく説明した。私は一部分の日本の生活に對して愛著を感じてゐるが、その原因は個人的性分と習慣とに在る、右の文中に私はかう云つておいた、
「私は東南の水鄕に生長した人間である、そこの生活の寒苦なことといへば、冬は屋內に火の氣がなく、冷たい風は蒲團の中にまでどん〳〵吹き込んで來る、食物といへば年がら年ぢゆう恐しく鹽辛い醃菜か、それでなければ恐しく鹽辛い醃魚きりである、そんな訓練を受けて行つたのだから、東京の下宿生活が甚だ適合しないわけはなかつた。」更に第二の原因は、懷古的幽情とでもいつたところであらう。文中に云ふ、
「私は當時又民族革命の一信徒であつた、凡そ民族主義には必ず復古思想を含んでゐるものである、われわれは清朝に反對してゐたから、清以前或は元以前のものなら何でも好いと思はれた、ましてそれよりもつと以前のものは尚の事であつた。」その理由から私達は和服をも大いに着てよいと思つてゐた、そして袍子や馬褂のごときは民國以前にはみな胡の服と看做し、東京でそんな衣服を着るのはつまり奴隷の表示だとしてゐた、弘文書院の寫眞中(その中には黃軫〔黄興〕や胡衍鴻〔胡漢民〕もゐる)前列の端に揚晢子〔楊度(木扁)、字晢子〕の袍子馬褂姿がある、當時これには流石のわれわれも度膽を拔かれた事であつた。私達は「清國留學生」と云はれることを好まなかつた、手紙を出す時には必ず「支那」と書いた、といふのは、この「摩訶脂那」「至那」乃至「支那」は、みな印度の中國に對する美稱だと認めてゐたからである、又『佛爾雅』八、釋木第十二にも「桃を至那你といふ、漢より持來したればなり。」とあり、甚だ面白いと思ひ、そのため「支那」といふ名稱に對して少しも反感を抱かなかつたのである、現時に至つてかの三上老人〔三上参次。当時貴族院議員(帝国学士院会員議員)。〕は中國のために名を正して支那と云はんとしてゐる、これはフアスシチ〔Fascisti, ファシスト〕の睡り線香にあてられて意識朦朧となつたもので、又一つの笑話である。食物に關して私は曾てかう云つた、
「私の郷里は貧苦甚だしく、人民は努力して三度の飯を食ひ、たゞ醃菜と臭豆腐と螺螄とを以ておかずとする、故に鹽辛いのや臭いのは平氣である、また油を命のごとくに嗜むこともない、だから日本に行つて何を食べても大した問題でなかつた。その多くは故鄕の何かに比へられたし〔比較参照することができたし〕、多くのものは又中國の何處かのものとそのまゝで、そんな事を考へるのも非常に興味が深かつた。味噌汁と干菜湯、金山寺味噌と豆板醤、福神漬と醬咯達〔高菜漬〕(咯達〔根塊〕は骨朶で醤大頭菜〔蕪の漬物〕のことである)、牛蒡・獨活と蘆笋〔アスパラガス〕、鹽鮭と勒鮝〔干魚〕、これらは皆よく似た食物である。また大徳寺納豆は即ち鹹豆豉であり、澤庵漬は即ち福建の黄土蘿蔔であり、蒟蒻は即ち四川の黒豆腐であり、刺身は即ち廣東の魚生であり、壽司は即ち古への魚鮓で、その製法は『齊民要術』〔北魏・賈思勰〕に見えてゐる、これらはその間に文化交通の歴史を含んでをり、食べてうまいばかりか、更にいろ〳〵と考へさせられる。家庭での宴會には勿論割に御馳走が出るが、それでもアツサリしたものたるに變りはなく、やはり菜蔬魚介を以て主とする。鷄や豚は食べないわけではないが、それもなるべく脂の少いのを用ひる、故にやはり油濃く〔ママ〕ないのである。」谷崎氏の文章中にはよく東京の食物を批評してゐるが、彼は鮒の雀燒(鮒の身を開いて、甘辛い下地〔タレ〕をつけて燒いて串に刺した、佃煮のやうに眞黒な色をしたもので、その恰好がふくら雀〔寒さで丸くちぢこまった雀〕のやうな圓い形をしてゐるところからこの名がある)とタタミイワシ(鰯の晒干、實は沙丁魚ではない)〔カタクチイワシのシラスを干した食品〕とを擧げて代表となし、薄つぺらで貧弱で、見るからに寒氣がするほどあぢきなくて、少しも景氣のいゝ豐かさ潤ひといふものがない。これは東京人の缺點で、その現今の東京を以て中心とせる文學美術の誕生に影響せるものは甚大であると云つてゐる。彼の云ふところにも勿論一理ある、しかしこれらの食物の面白さはとりもなほさずこゝにあると私には思はれる、換言すれば清淡質素と云へる、それは富家の厨房のやうに油濃くて團粉〔片栗粉〕の多いといふことはない、その鹽と淸湯を用ひる點は私の鄕里の普通の民家と近く、私個人にとつて甚だいゝと思はれる。かりに私に御馳走を振舞つてくれる人があるとすれば、魚翅や燕窩は勿論のこと熊掌でも、みな私は食べきれる、それはちやうど大葱や卵蒜を私が食べきれるのと同樣である。しかしそれらは食べる機會がなくても決して食べたいとは思ふまいし、人が食べてゐるのを見て食氣を起すこともあるまい、私が食べたいと思ふのは少し贅澤なところで、まづ白鮝湯〔湯はスープ(吸い物)〕である、その次に鰵(郷里では俗に米と同音に讀む)魚と鮝湯である、もう一つ、搗きこねた蝦の殼と突き碎いた鞭笋の食べられない「老頭」(老頭とは根に近い硬い部分のこと、たとへば甘蔗老頭〔甘庶はサトウキビ〕などといふ如く)に更に干菜を加へて蒸し上げた、名前は知らぬが何とか湯(吸物)といふのがあるが、これは實際寒氣がするほどあぢきない極みである、しかし越人はこれをおいしがつて食べる、そしてそのおいしい點はやはりこのあぢきなきなさ即ち淸淡質素の中にあるので、まあ强ひてこれを俳味といふことも出來よう。
日本の家屋も私は大へん好きである、その原因は食物と同樣、その質素なるに在る。私は『管窺の二』の中にかう云つておいた、
「私の喜ぶのはやはりその部屋の手頃なこと、特に簡易生活に便利なことである。」その下に又かうも云つておいた、
「一部屋四疊半の面積は僅か八十一平方尺で、維摩の斗室よりなほ十分の二も狹い、四方の壁はガランとしてゐて、下宿から茶道具だけ貸してもらひ、自分で小机一つ買つて來て窓に据ゑ、あと座布團の二三枚もあれば、結構樂に住める。机に向つて坐り本を讀み字を書けば、前後左右はすべて空地で、自由に書物や紙を置くことが出來、宛ら一大書卓に等しい、來客があれば何處にでも坐れるし、六七人ぐらゐ容れても餘裕綽々である、倦めばそのまゝごろりと横になつて、別にソファーを備へつけることもいらぬ、深夜押入から蒲團を出して敷けば、それで正式に睡ることになる。昔は日本の書生の引越しといへば、車に積んだ荷物は僅か蒲團と柳行李と小机、それに本箱が加はるくらゐのもので、自分は硝子のランプを下げて車の後からついて行く圖をよく見たものである。中國の公寓(下宿屋)の住室はみな方丈以上であるが、板の寢臺と卓椅子と、トランクを載せる臺を据ゑると、もういくらも餘地がなく、窮屈な感じを抱かせ、少しも安閑の趣がない。大體中國の家屋は西洋のそれと同樣、みな華麗なるに宜しく、簡陋なるに宜しくない、一間の家屋を造り上げても、百里を行く者は九十里を半ばとすといふ具合で、相當の器具を備へつけなければ完成したとは云へないのである。ところが日本では土木工事が畢つて、疊を敷き障子を張れば、そのまゝ住むことが出來、それで別に何一つ不足はなく、反つて清楚にも奧床しく覺えるのである。むかし日本にゐたとき旅行して、吉松高鍋等の山村( 宮崎 縣 )に泊り、宿屋の粗末な一室の窓に憑つて山を眺め、或は浴衣を着て疊の上に寢そべり、急須に茶を入れて來させて飮んだことがあるが、それはこれまで泊つたことのある洋式や中國式のどの旅館よりも氣持がよく、簡單で費用もかゝらなかつた。」別の方面から云へば、それには濶大さを缺いてゐる。たとへば谷崎潤一郎はかゝる紙の部屋の中には偉大なる思想は發生すること能はずと云ひ、萩原朔太郎は圓滿なる戀愛生活は得られないと云ひ、永井荷風は木と紙で造られた家屋に適應する美術はその形は小ならざるべからず〔本文「べかず」〕、その質は輕からざるべからず、ピアノ油繪大理石彫刻といつたものと相容れないと云つてゐる。これらはみな恐らく尤もの言である、だがそれも仕方はない。事實がこの通りなのであるから。日本人がよしや田口卯吉の云つた如く日々シルクハットをかぶつてみたところで、どうせ白人に變ずることは出來ないのだ、セメントで文化住宅を造つてみたところで、その趣味は遂に四疊半に勝ると限るまい、迂生のごときは不幸にして極東に生れ、環境も似てゐる處があるので、どうしてもこれに對して同感を抱かせられるのだ、これは元來單なる個人的愛好であつて、その價値の是非のごときは自ら種々の云ひ方があらうし、決して一言で以て斷定を敢へてするわけではないのである。
日本の生活のうち多くの習俗、即ち清潔なること、禮儀正しいこと、洒脱なることの如きも私の喜ぶところである。洒脱なることと禮儀正しいこととは一見衝突するかに思はれるけれども、實は決してさうでない。洒脱は粗暴無禮ではない、それはたゞ宗教的及び道學的僞善を有せず、淫逸から生ずるところのエセ〔似而非〕眞面目を有しないことである。最も顯著な例は裸體に對する態度である。エリス〔ハヴェロック・エリス〕は『聖フランシスその他』(St. Francis and Others)の中でかう云つてゐる、
「希臘人は曾て裸體を喜ばぬといふ事を波斯人及びその他の夷人の一特性と看做した、日本人——時代と風土とを異にした希臘人——も、かの西方の夷人の淫逸な羞恥の眼が彼等に敎へるまでは、裸體を忌避することに全然考へ及ばなかつた。われわれの間では今なほ、單に足を露出するだけでも嫌惡すべきことだと考へられてゐる。」彼は小註の中に、大英博物館の閱覽室にはくりぬいた靴を穿いてはいることは許されないとか、又女優が靴下を穿かずに出演して發覺した場合には、公衆に謝罪したうへ巨額の罰金を科せられるとかいつた時事を引いて之を證明してゐる。日本でも今日では極力文明を模倣し、時には小説の中に接吻があまり多すぎてはいけないと云つたり、或は石像に袴を穿かせたりして、官吏の眼が次第に淫逸にして羞恥的になつた事を表はしてゐる、しかし民間ではなほ盡くは然らず、浴場の裸體群像は依然「司空見慣」〔唐・劉禹錫が司空の李紳に歓待されたとき、歌姫たちに感激したことを詩に詠んだ。その中に「司空見慣渾閑事」という句があったことからの故事成語。(唐・孟棨「本事詩」)〕であり、婦人の素足はなほのこと奇とするに足りぬ、それといふのがこれは元來當然の風俗だからである。中國は萬事英國に及ばぬけれども、衣履整はざる者は圖書館に入る權なきこと、女子の素足は法を犯せるものなること、この二つだけは同じであるのも、甚だ面白いことである。〔筆者の皮肉。〕いな、中國にはなほ纒足がある、男女ともに纒するが、たゞ女の方がより多く裹み、より小さく縛るだけのことである、これは英國にもないことである、不幸にして迂生はかゝる途轍もないやり方は大嫌ひである、そのため反動的に素足を讃美するのである、「兩足白きこと霜の如く、鴉頭襪を著けず」の句〔「屐上足如霜、不著鴉頭襪」(李白「越女詞」)「鴉頭襪」は元来「丫頭襪」の書き換え。親指と他の指との間を分けた靴下で、足袋の元になった。〕を思ひ出して、さすがに青蓮居士(李白)はうれしい人だと思ふ、彼がどこの人であらうと、われらの同志でさへあればそれでよいのだ。私はいつも思ふのであるが、世界中の履物のうち最も善美なるは希臘古代のサンダラ(Sandala)であり、間適〔閑適〕なる〔心安らぐこと〕は日本の下駄であり、經濟的なるは中國南方の草鞋である、そして拖鞋(つつぱき靴)〔つっかけサンダル〕の類はこの數に入らぬのである。凡そこれらは皆その隱さず飾らず、ひたすらその自然にまかせながら、それでゐて穿き具合もよく見苦しくもないところがよいのだ。迂生は傳説中の辜湯生〔清代〕のやうな拜脚狂でもなければ、また履物の蒐集をやつたこともないので、斯道〔この道、この分野〕について與に語る資格はないけれども、脚その他の身體の一部分に對しては、之を解放する方が之を束縛し忌み隱すよりも必ず勝つてゐると愚考する、從つて希臘や日本の良風美俗に對して讃美の意を表示し、中華の如かざる所となさざるを得ないのである。希臘の古國は恨むらく〔悲しいことに〕未だ見るを得ないが、日本ならば幸ひに曾て身ら歴〔経歴し〕、外出するごとに、別に何の得る所は無くとも、往くさ來るさ〔「あふさきるさ 」に同じ。こちらは多義語だが、行ったり来たりする意もある。〕の人々のみな平常の人なるに、足を裹みたる者の一人だに見當らぬを見て、〔翻って故国の現状を思うと〕思はず愀然として樂しまなかつたものである、しかし今日北平の街を步いて每日經驗するところの如くんば、此の事また旣に大いに喜ぶべきである。〔文意がいささか曖昧。原文「希臘古國恨未及見,日本則幸曾身歴,毎一出門去,即使別無所得,只見憧憧往來的都是平常人,無一裹足者在内,令人見之愀然不樂,如現今在北平行路毎日所經驗者,則此事亦已大可喜矣。」(古代ギリシャの国々を目にする機会がなかったことを残念に思うが、一方、日本には幸いにも実際に足を運んだことがあるが、外に出るたびに、たとえ他に得るものがなくとも、ただ往来する普通の人々ばかりが目に入り、その中に躊躇して足を止める者が一人もいない様子は、見る者に憂鬱な気分を抱かせる。しかし、現在北京を歩く際に毎日経験しているような状況に比べれば、このことだけでも大いに喜ばしいことである。)「此事」とは現時の日本でともかくも纒足をしていない現状を指し、翻思すれば憂愁の種だが、日本が少なくともその点解放されていることだけでも慶賀すべきことである、というのだろう。〕私が『天足』なる小文を書いたのは、もう今日では十五年の昔の事になるが、意見は依然として變つてゐない、これらの事に對して一つの新しい見方、新しい解釋を發見し得ないことはまことにわれながら愧かしい次第である。
上に述べた所はすべて個人の主觀的見解である、けだし私はたゞ日本の生活の中から自分の性情によく合つた物を引出して來るだけであつて、その一部分は經驗上直接親しみを感ずるもので、その近似して更に味の深いのをうれしく思ふのであり、一部分はそれと反對に、上の纒足の如く、嫌惡を覺えるためにそれに相反せるものを取つて之を補はんとするのである、だから殘らず數へあげるとこれらのものは非常に多く、反つて十分明確な客觀的解説はなし難い。しかし私がこれらを愛好するのは兎に角事實である。そしてこれらはすべて東京で出合つたものであるため、東京に對して懷かしさを感じ、この生活を以て背景とするところの近代の藝文に對しても興趣を覺えるのである。永井荷風は『江戸藝術論』の第一篇『浮世繪の鑑賞』の中でこんなことを云つてゐる、
「而して余は今自己の何たるかを反省すれば、予はヴェルハアレン(Verhaeren)の如く白耳義人にあらずして日本人なりき。生れながらにして其の運命と境遇とを異にする東洋人なり。戀愛の至情はいふも更なり〔いうまでもなく、もちろん〕、異性に對する凡ての性欲的感覺を以て社會的最大の罪惡とされたる法律を戴くものたり。泣く兒と地頭には勝つ可からざる事〔「泣く子と地頭には勝てぬ」(道理の通らない相手はどうすることもできない)という諺。〕を教へられたる人間たり。物云へば脣寒き〔「ものいへば唇寒し秋の風」(芭蕉、「猿蓑」所収)〕を知る國民たり。ヴエルハアレンを感奮せしめたる生血滴る羊の美肉と芳醇の葡萄酒と逞しき婦女の畫も何かはせん〔何にもならない〕。嗚呼余は浮世繪を愛す。苦界十年親の爲に身を賣りたる遊女が繪姿はわれを泣かしむ〔泣かせる〕。竹格子の窓によりてたゞ茫然と流るゝ水を眺むる藝者の姿はわれを喜ばしむ。夜蕎麥賣の行燈淋しげに殘る川端〔大川端。隅田川沿い。〕の夜景はわれを醉はしむ。雨夜の月に啼く時鳥、時雨に散る秋の木の葉、落花の風にかすれ行く鐘の音、およそ果敢なく賴りなく望みなく、この世はたゞ夢とのみ譯もなく嗟嘆せしむるもの悉くわれには親し。われには懷かし。」永井氏は自國の事を云つてゐるため非常に悲憤してゐるのたが、われわれが外國の藝術として見る時には同樣な態度は取らなくともよいかと思はれる——いかにも彼の云ふところには賛成だが。然り、しかし又、否。〔なるほどその通り、だがまた、やはり違う。〕生活背景にかくも近似せる處が多いので、そこから出た藝術的表示を見ても、常に人をして『旅を瘞むる文』の「吾も爾もなほ彼のごとし」の感を抱かしめる。大きな藝術の中には吾と爾と彼とが悉く合一してゐる、思ふにこれは決して老トルストイ一個人の新發明ではあるまい、御用的江湖文學〔「売らんかな」は「さあどんどん売ろう」という意。営利本位の文学。〕が何と宣傳しようと勝手であるが、どうせ江湖訣(Journalism)は季節向きの小料理にすぎないのだ。〔一時の嗜好に投ずるに過ぎず、長続きする価値を持たない。〕もう一つある、中國と日本とは今日でこそ敵國の地位に立つてゐるけれども、もし現時の關係を離れて永久的性質を論ずるときは、兩者は共に生れながらにして西洋と遙かにその運命と境遇とを異にするところの東洋人である、(削除)〔前章(10章)と同じく検閲削除の痕跡を残す。原文「日本有些法西斯中毒患者以爲自己國民的幸福勝過至少也等於西洋了,就只差未能呑併亞洲,稍有愧色,」(日本には、自国民の幸福が西洋に少なくとも匹敵する、あるいはそれ以上だと信じ込んでいるファシズム中毒者がいる。アジアを併合できなかったことだけが唯一の悔いであり、わずかに恥じ入っているが、)〕しかし日本の藝術家は物云へば脣寒き悲哀を感じてゐる、これこそ正に東洋人の悲哀なのだ、われわれも之を聞いてまた惘然たらざるを得ない〔茫然としてなすすべのないことを悲しむ貌〕。木下杢太郎はその『食後の歌』〔「食後の唄」(一九一九)〕の序に云つてゐる、
「寄席のかへり、芝居のかへり、また常盤木倶樂部〔明治大正に日本橋の料亭を改造してできた催事場。古書展・絵画展や落語・かるた会等の催しが行われた。〕、植木店のかへりみちに、この種の異香の酒を嘗めて、かの卑しい、然し涙に滿ちた、江戸平民藝術の聯想に耽ることを樂しみにした。」私は音樂美術には素人であつて、江戸時代の音曲や版畫の精妙を了解し得ないけれども、永井・木下兩氏の指摘してゐるやうな、その間に隱されてゐる哀愁は、かすかながらも之を感得することが出來るのである。これは中國人の哀愁を代表してはゐないとするも、少くもその一部分を包括してゐると云へなくもない、といふのは、これは上に云つたやうにその表示するところのものが要するに東洋人の悲哀であるからである。永井氏は木版畫の色彩を論じて、これはかゝる暗黑時代の恐怖と悲哀と疲勞とを暗示してゐると云ふ。俗曲の中には戀愛と死とを禮讃し、隨處に義理と人情との衝突を顯はしてゐる、偶〻義太夫〔三味線の伴奏による語り物。竹本義太夫の名をとった呼称。〕を聽いても、紙治〔紙屋治兵衛。近松門左衛門作「心中天の網島」の主人公。〕に遇ふことが出來るのは、即ちこれらの作品である。日本の平民藝術は優美なる形式の中にしみ〴〵とした悲苦を盛り込んでゐる、これは中國と甚だ同じくないやうに思はれる。しかし私は前にもことわつたやうに、これらの事情にはあまり通じてゐないのだし、中國の芝居はなほさら解しない、だからこれはたゞ口から出まかせに云つたまでである、玄人諸君がこれを見て御立腹なさらなければ幸ひである。
私はこの小文を書いたが、東京の眞相にはまるで觸れ得なかつた、讀者に對してまことに相濟まぬ次第である、しかし私はこれを借りて自由に思ひついた事を云ふことが出來て、自分では寧ろ愉快を感ずる、文章からいへばあまり好く書けたわけではないが。この外にも本屋のことなど、まだいろ〳〵書きたい事はあるが、今日はもう語るひまがない、いづれ又改めて書くことにしたい。
廿五年〔一九三六年〕八月八日、北平にて