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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

東京の本屋

東京の本屋といへば第一に思ひ出すのは何といつても丸善(まるぜん)(Maruzen)〔福澤諭吉門下の医師・早矢仕有的(はやしいうてき)が明治二年(一八六九)横浜で創業した輸入商社(丸屋商社)。本店を「丸屋善八」の名称を略して丸善と呼ばれた。〕である。その本名(ほんみやう)は丸善株式會社(かぶしきぐわいしや)で、中國語に飜譯(ほんやく)すれば「丸善有限公司(いうげんこうし)」といふことにならうが、われわれと關係のあるのは實はその一部分である書籍部だけである。最初は個人の開いた店舖(てんぽ)で、丸屋善七といふ名であつたが〔横浜本店に次いで日本橋に開店したのが「丸屋善七」、京都は「丸屋善吉」、大阪は「丸屋善蔵」だという。〕、それは私は見たことがない、一九〇六年〔明治三九年八月。漱石の「吾輩ハ猫デアル」上篇が前年秋に出たばかり、「ホトトギス」の「坊つちやん」連載がほぼ終わる頃だった。〕はじめて見たのは日本橋通(どほり)三丁目の丸善で、床板(ゆかいた)こそ敷(し)いてはあつたが、まだ舊式(きうしき)の二階建(だて)であつた、民國以後〔筆者が帰国した翌年が民国元年(一九一二)。〕火事で建て直され〔内田魯庵「灰燼十万巻(丸善炎上の記)」には、明治四三年(一九一〇)一月に社屋が火災で全焼したことを記述しているという。すでに前年から「最新鋭の鉄骨赤レンガビル」に建て直す工事が始まっていた最中の火災で、同年冬には再建が完了したという。〕、民國八年〔大正八年(一九一九)〕東京へ行つた時には既にビルディングになつてゐた、その後大地震で全燒(ぜんせふ)し、一昨年〔昭和九年(一九三四)〕また行つた時にはビルディングがやはり以前の場所に建つてゐた、たゞ地名は日本橋通二丁目と改められてゐた。私が丸善から本を買ふのは足掛け既(すで)に三十年にもなり、まづ老顧客(らうこきやく)といつてよからう、もつともその取引(とりひき)は極(きは)めて小さく、その後また和書と中國の古書とを買ふことになつて、財力がいよ〳〵分散した、しかしその僅(わづ)かばかりの洋書こそ私にとつて極めて大きな影響を與(あた)へたのである、だから丸善は一個の法人(ほふじん)ではあるが私にとつては實に師友(しいう)の誼(よし)みがあるといへるものである。

私が一九〇六年八月東京に來て、丸善で買つた最初の本はセインツベリー(G. Saintsbury)の『英文學小史(せうし)』一册とテーヌ〔Hippolyte A. Taine〕の英譯本四册であつた、書架(しよか)の上に現(げん)にその二部があるけれども、それはもうあのとき買つたものではない。私が江南水師學堂(すいしがくだう)で學んだ外國語は英語で、最初の專門は管輪(機關科)であつた。その後また督練公所(とくれんこうしよ)の命令によつて土木工學を學ぶことになつたが、しかし自分の興趣(きようしゆ)は文學方面にあつた、だからさうした英文學史などの本を求めて讀むのも極(ご)くあたり前の事であつたのである。だが實際は決してそればかりではなかつた、私の英語は終始(しゆうし)やはり敲門磚(かうもんせん)であつた、それは勿論(もちろん)私に英國十八世紀以後の散文の美を知らしめ、アヂスン〔 Joseph Addison〕、スイフト〔Jonathan Swift〕、ラム〔Charles Lamb〕、スティヴンスン〔Robert Louis Stevenson〕、ミルン〔Alan Alexander Milne〕、リンド〔Robert Lynd〕等の小品文(せうひんぶん)は私は今でも愛讀してゐる、しかし當時の私の志趣(ししゆ)〔志向〕は所謂(いはゆる)大陸文學、或は弱小民族文學に在り、たゞ英文を仲人婆(なかうどばば)にして用を取次(とりつ)いで貰(もら)ふだけであつた。一九〇九年に刊した『域外(ゐきぐわい)小説集』二卷中に譯載(やくさい)した作品は波蘭(ポーランド)、露國(ろこく)、ボスニヤ、芬蘭(フィンランド)を以て主(しゆ)となし、佛蘭西(フランス)からは摩波商(即ち、莫泊三(モーパツサン))〔時代により表記が異なる。現代では「莫泊桑」が標準だという。〕の一篇、英米も各一篇しか取らず、それとて法を犯した淮爾特(即ち、王爾德(ワイルド))〔Oscar F. O. W. Wilde〕か、でなければ酒狂(しゆきやう)の亞倫坡(ア ランポー)〔Edgar Allan Poe〕でしかなつた。露西亞(ロシア)は弱小とは云へないが、當時は恰(あたか)も專制(せんせい)と革命との對抗(たいかう)の時代で、中國人は自然これを以て同病(どうべう)の友人と目(もく)してゐた。弱小(じやくせう)民族といふのはたしか後になつて出來た名稱(めいしよう)であつて、實際私達の喜んでゐたのは被壓迫(ひあつぱく)民族の文學に外(ほか)ならなかつた。そしてこれらの材料はみな丸善から得たものであつた。日本文壇では當時馬場孤蝶(ばばこてふ)等の人々が大陸文學を談(だん)じつゝあつたが、しかし英譯本は書店にまだ極(ご)く少く、蒐求(しうきう)は極めて容易でなく、幾種かの露佛(ろふつ)の小説が手にはいる外は、東歐(とうおう)北歐のものは一見(いつけん)することさへ困難で、英譯本にしてからが元來甚だ寥々(れうれう)たるものであつたのである。私はたゞ英國のベーカー(E.Baker)の『小說指南(しなん)』(A Guide to Best Fictions)をたよりに書名を書き出し、丸善に託(たく)して註文(ちゆうもん)し、多くの根氣(こんき)と時間とを費(つひや)してやつと波蘭(ポーランド)、ブルガリヤ、ボスニヤ、芬蘭(フィンランド)、匈加利(ハンガリー)、新希臘の作品を幾種か手に入れることが出來た。この中で特に云つておかねばならないのはヨーカイ・モル(Jokai Mor)の小說で、物がよく書けてゐて匈加利(ハンガリー)のスコット〔Sir Walter Scott〕の稱(しよう)があるばかりでなく、革命家(かくめいか)でもあり、英譯本の印刷裝幀(さうてい)もなか〳〵凝(こ)つたもので、今に至つて私の藏書(ざうしよ)中の佳品(かひん)である。たゞ惜しいことに紹興に四年置いてゐたとき、濕氣(しつけ)のために表紙に黴(かび)の斑點(はんてん)が出來てしまつた。この外になほ挿繪本(さしゑぼん)のトゥルゲーネフ(Turgenev)〔Ivan Sergeevich Turgenev〕小說集が十五册ある、ガーネツト夫人〔Constance Clara Garnett〕の譯(やく)で、値段は三ポンドであつた。これは極(ご)く有りふれた本で、値段も一册につき四シリングぐらゐで高いとは云へないが、當時普通の留學官費(くわんぴ)は毎月たつた三十三圓(ゑん)で、こんな大部の書物を買はうと考へるなんて、さうさう容易(ようい)なことではなかつた。幸ひにして蔡谷清(さいこくせい)君〔一九〇二年から翌年まで商務印書館所長を務めたことがあった。〕の紹介で、ハツガード〔H. Rider Haggard〕及びアンドルー・ラング〔Andrew Lang〕合著(がつちよ)の『紅星佚史(こうせいいつし)』の譯稿(やくかう)を商務印書館(しやうむいんしよくわん)に賣(う)り、凡(およ)そ十萬餘字(よじ)で銀二百元(げん)を得た、そのおかげで思ひがけずも買ふことが出來たのである、その際同時に註文して購(あがな)つたのにブランデス(Georg Brandes)の『波蘭印象記(ポーランドいんしやうき)』〔Poland: A Study of the Land, People and Literature〕一册があつたが、これも私に深い印象を與(あた)へ、私をして波蘭(ポーランド)とブランデス博士とに對して同樣に忘るゝ能(あた)はざらしめた。その後私の文學店(だな)もだん〳〵と店(みせ)じまひをして、『水滸傳(すいこでん)』と『ドン・キホーテ』のほか、もはや中外(ちゆうぐわい)の小説は讀まなくなつた。しかしデンマークのアンデルセンの童話や英國のアンドルー・ラング〔Andrew Lang. 詩・小説・評論の著作と民話・童話収集等の活動をした文人。〕の雜文(ざつぶん)などといつた閑書(かんしよ)を雜覽(ざつらん)し、又一方面(いちはうめん)〔一方で〕ウェスターマーク〔Edward Westermarck[芬蘭]〕の『道德觀念發達史』〔The Origin and Development of the Moral Ideas, 1906-08〕やブチヤー〔Samuel Henry Butcher〕の希臘(ギリシヤ)に關する諸講義〔Harvard Lectures on Greek Subjects(Harvard Lectures on the Originality of Greece), 1904〕等が、私に極めて愉快な消遣(せうけん)〔暇潰し、気晴らし〕と切實(せつじつ)な教導とを與(あた)へたが、それらも殆(ほとん)どみな丸善から手に入れたものであつた。最後に最も重要なのはエリス〔Havelock Ellis〕の『性心理の硏究』〔Studies in the Psychology of Sex〕七册〔1897-1910に六冊まで刊行。七冊めは1928刊行という。〕である、これは私の啓蒙(けいまう)の書であつて、私はこれを讀了後(どくれうご)眼の上の鱗(うろこ)が忽(たちま)ち落下し、人生と社會に對する一種の見解(けんかい)が出來上(できあが)つたのであつた。古人の藝を學ぶや、道をさとる時と同株に、往々ある事物に因つて忽然省悟した、たとへば字を學ぶ人が路傍の蛇や雨中の柳の枝に飛びつく蛙を見て悟つた如きは、是である。迂生には本來悟るべき道とてないのであるが、「お化の喧嘩」に因つて自然と人生とに對し少しく了解するところがあつたといへば、さう云へないこともないやうに思ふ、もつとも卍字派の同胞がこれを聽かれたら罵倒せねばなんとお思ひになるかも知れぬが。『資本論』は讀んでも解らなかつた、(その後北京大學經濟糸の元學生の杜君に送つたが、惜しむらく今や亡く、墓の木すでに拱せり矣!)しかし婦人問題を考慮することによつても結局社會制度の改革に歸結すべきことは『愛の成年』の著者が既に云つてゐるとほりである。エリスの意見は大體に於てラッセルに似てをり、社會主義に賛成し、「共産フアシスチ」に反對するものであらう。エリスの著作は『新精神』から『羽代の諸問題』まで全部丸善から購つた、今日西班牙の反革命運動の消息からの聯想で又彼の『西班牙の靈魂』一册を取出して一讀し、特に『ドン・キホーテ』と『西班牙の女』の二音に改めて感歎をしなほし、西班牙とエリスと丸善とに對してそれ〴〵一種の好意を抱くを林じ得なかつた。

人は戀愛經驗上特に初戀は忘れがたく思ふものであるが、ほかの事でも恐らく同樣であらう、だから第一印象といふものは甚だ重要である。丸善の賣場も幾度かの改變を經たが、私の記憶してゐるのはやはりあの最初の古い二階建の家である。二階はさう大きくなく、四方の壁が書架で、眞中にある澤山の長い卓の上に新着の書籍が列べてあり、客は自由に立見してよかつた。ある時なぞ隅つこの書架のうしろに立つて小半日書物を調べても誰ひとり注意する者もなく、一二册の本を選んで勘定して貰はうとする時にも人が見あたらぬので、大きな聲で丁稚を呼ばねばならなかつた。またあの歩行の不自由な下田君にわざ〳〵來て貰はたければならないこともあつた。かうしたあまり客を監視しない態度は一種愉快な事であつた。その後改築されてからも勿論同樣であつたが、私が回想する時にはいつも舊店の背景ばかりである。今に憶えてゐるがやはりその事で或る新聞記者が、こんなふうでは書物が失くなるやうなことはないかと聞いたら、失くなりはするが、それは大抵小型本で、一年に合せてせいぜい四百圓ぐらゐのものだから、餘計に人を雇つて監視するのは反つて不經濟ですと答へたといふ話がある。當時神田に洋書を賣る店で中西屋といふのがあり、下宿からは丸善よりもずつと近かつたが、どうもあまり行く氣になれなかつたのは、小僧があまりしつこく附いてまはるためだつた。なんでも一度或る知名の文人が店にはいつて本を見てゐて、監視されるのに憤慨し、貴樣等はお客をみんなコソ泥と思つてゐるのか!と大喝したといふ話を馳いた。こゝに他の一種の不經濟を見ることが出來る。しかし間もなく中西屋は丸善に讓渡され、神田支店と改められたから、もうさうした樣子は多分改められてゐることであらう。民國以來東京に二三べん行つたが、そこへはたうとう一度も行かなかつたやうに思ふ、だかゝ果してどんなものかは知る由もないのである。

丸善から聯想するのは本鄕眞砂町の相模屋古書店である、こゝと私の購書とも甚だ關係が深い。一九〇六年の秋、私は初めてこの店にはいつて一册の舊小説を買つた。それは匈加利のヨーカイ・モル原作、米國のパークス譯で、書名は『髑髏は語る』(Toldbyth's卷頭に羅馬字でK.Tokutomi,,Juneあつた。一見して『不如歸』の著者徳富健次郎の書であると知り、大變珍貴なものと思つたが、辛亥の年に歸國の際、ふとそれを他の古本と一緒に賣り拂つてしまつた。何故だつたか知らない。ヨーカイのこの長篇傳奇小説の飜譯の可能が無いためだつたか、又は徳富氏晩年の篤舊な傾向に對して多少不滿であつたからであらうか。しかし後になつて追思して時に何だか惜しい氣もするのだつた。ところが民國八年の春と秋とに二度東京に行つたとき、大學前の南陽堂の棚の上でふと又この本と巡り會つた。どうやらそれはそこに八九年もの間直立してゐたらしかつた。さつそく又買つてかへつて、今日に至つて寒齋に藏し、ヨーカイの別の小説『黄薔薇』等と一緒に列んでゐる。相模屋の主人は小澤民三郎といつて、以前丸善で手代をやつたことがあり、代りに行つて本を取つて來てあげてもよいと云ふので、これに超んでゲーリーの『英文學上の古典神話』と、サカム、ニコル合編の『英文學史』繪入本第一分册を取寄せて貰つた。後者は十二册まで出て完結し、今なほ存してゐる。たゞ『古典神話の背皮が破れてしまつたので、ずつと前に賣つて鼠色の布裝本に換へた。これ以後相模屋としよつちゆう往來するやうになり、辛亥の年に故郷に歸つて後も一切の和洋書及び雜誌の臨入は皆この人に取次いで貰ひ、民國五年小澤君が死んで、翌年店がしまるに及んで初めて關係が絶えたが、思ひ出すだに惜しいことであつた。その外にはこんなに話のわかる古本商人に會つたことはない。本郷にもう一軒郁文堂といふ古本屋があり、洋書を賣る店では有名である。私は店の人とつい識合ひにならなかつたけれども、よく見に行つて、今に愛してゐる本をいろ〳〵買つたので憶えてゐる。こゝにブランデスの『十九世紀名家論』一册があり、上に一つは橢圓の小印朱文で勝彌、一つは方形の白文で孤蝶と捺印してあつたので、即ち馬場氏の舊藏なることを知つた、又一册『スカンヂナヴヰア文學論集』は丁抹のボエセン(HH.Boyesen)が英文で著はしたもの、卷頭に羅馬字でNovember8th.08.M.Abe.としてあるのは、どの阿部君の物であるかしらん。兩書中には共にアンデルセン論一篇あり、私がいくらかにてもアンデルセンを了解し得るやうになつたのは、殆ど全くこの二篇の文音の啓示に由る、一面アンドルーラング(AndrewLang)の人類學派神話硏究も甚だ大きな助けを與へたが、私は以前はたゞグリム兄弟の輯録した童話の價値を知つてゐるだけで、アンデルセンの創作的童話も別に價値を有することは此に至つて初めて知つたのである。論文集の中には又ブランデス論が一篇あり、著者の意見は右傾らしかつたが、こゝには正に論ぜらるゝものの眞相が表示せられてゐて、大のブランデス贔屓の私個人にとつて、甚だよい參考になると思つた。一昨年東京に行つて、酷熱匈忙の中に徐君と一緒に一度行つたが、小型の英詩人『クラブ傳』(Crabde)を一册買つた、また丸善にしても匆々に見て、ソグナー著の『倫敦の旅館と酒場』一册を買ひ入れたきりである。近年來洋書があまり高くなつて、實際買へないのだ、以前は六シリングか一ドル半の本も相當立派で、日本の金で三圓しかかゝらなかつたものであるが、今ではどうしてもその三倍でなければ多少とも見られる本は買へぬ、これ新書の買ひ易からぬ所以である。

本鄕神田一帶の古本屋はまだ澤山あり、一軒一軒見て行けば往々にして半日以上も潰すことが出來るが、これまた消遣の一妙法である。庚戌・辛亥の交、麻布區に住んでゐて、夕飯後散步に出て、幾軒かの古本屋をあさり步き、ふと往來がすつかり跡絕えてしまつたのに氣がついて、乘換へなしの電車に乘り迂回して赤羽橋に着くのは、大抵もう十一時か十二時であつた。さういつた事を思ひ起すのも面白い、しかし本屋の小僧が帳場の奥から山に蹲つた虎もどきに兩眼を爛々と光らせて睨み、お客を半分はコソ泥、半分は肥えた豚ぐらゐに見てゐる恰好も、甚だもつて恐しいことである、だから平常はたゞ見るだけで、よほど氣に入つた本を見つけた時でないと値段を訊いてみる決心がつかぬ、そしてさうした事もさう多くはないのである。

廿五年八月廿七日、北平にて

*敲門磚——門を叩(たた)く瓦(かはら)。瓦を拾(ひろ)ひ門を叩いて案内を請(こ)ひ〔主人への取り次ぎを頼み〕、門に入(い)れば瓦を棄(す)てゝしまふ。即ち入る時には無くてならぬが、一旦(いつたん)はいつてしまへば不要(ふえう)となるもの。試驗に及第(きふだい)〔合格〕するための學問等の如(ごと)く、手段としてダシに使はれるものを云ふ。
*域外(ゐきぐわい)小説集——『魯迅(ろじん)に關(くわん)しての二』〔本書〕に詳(くは)しい。
*蔡谷淸——即ち蔡元培(さいげんばい)、周作人の同鄕の先輩で、曾(かつ)て北京大學校長・國民政府敎育部長として令名(れいめい)があつた。本年三月歿。
*紅星佚史——原書の名はThe World Desire(世界の欲望)。ホーマーに本(もと)づくものといふ。
*眼の上の鱗云々——一朝(いつてう)にして眼が明くことを云ふ。周作人『夜讀抄(やどくせう)』中の『希臘(ギリシヤ)神話』に見ゆ(拙譯(せつやく)『周作人文藝隨筆抄』一一二頁)。
*愛の成年——英國の社會思想家カーペンターの著、Love's Coming-of-Age. 周作人の『談龍集(だんりゆうしふ)』中に『愛の成年』の一文あり。
*徐君——徐祖正(じよそせい)、文學者。小説『蘭生弟(らんせいてい)の日記』の外に島崎藤村の『新生(しんせい)』の飜譯がある。北京大學で日本文學を講じてゐた。