瓜豆集
家の上下四旁
『論語』〔林語堂等が一九三二年に発刊した小品文雑誌。一九四九年まで、途中八年間の空白を挟んで、一七七号まで継続した。〕がこんど出した課題は「家」である、私も受驗生の一人であるが、それを見て周章〔狼狽、慌てること〕を禁じえず、自分の肚のあまりにも空虚なことは怨まずに、たゞこんなむづかしい問題を出して人を困らせる試驗官の意地の惡さを恨む。確かにこれは前回の「鬼」〔幽鬼〕よりも遙かに作りにくい、といふのが鬼はわれわれと關係の無いものであるからだ、尤も人が死ねば鬼となると普通云はれてゐるものの、自分が鬼になるなんて全然信じてはゐないし、將來一朝にしてよし〔たとえ〕死んだとしても、鬼門關の中へはいつて行くなどとは決して考へも及ばないのだから、勝手に談る分には先づ差支へないのである。ところが家となると、これはあらゆる人々が有してゐる所のものである、尤も大法螺を吹かぬ出家人〔文字どおり「家を出た」人間である出家者。「法螺を吹く」は大嘘を吐く意。〕は別である、がさういつた人も今日では先づ絶無といつてよろしく、現代の坊さんは國大(國民大會)選擧〔蒋介石の率いる南京の国民政府が孫文の三民主義を受け継ぎ、同年一一月に国権の最高機関として開催する予定だったが、選挙の進展の遅れ等で延期になり、翌年の日中戦争で凍結になった。〕に御熱心なことで、われわれよりも反つて積極的なくらゐである、私の知つてゐる紹興の阿毛師父の自ら述ぶる所の如くんば、彼等の家はわれわれよりも多く、即ち父の家、妻の家、及び寺の家の三者を有してゐるのださうである。要するに、在家にせよ出家にせよ、兎に角家を離れることは出來ぬ、とすれば家のわれわれに於ける關係は極めて深いと云ふべく、かくも關係が深いのであるから、これについて談るのは甚だ容易でないわけである。與へられた家といふ問題は難題である、と私がこゝで斷乎としてさう宣するのは差支へあるまい。
とは云つたものの、この題目を貰つたからには、どうも白紙を出してごまかすわけにもいかず、何はともあれ作つてみねばならない。ふと張宗子(明末紹興の文人)〔明・張岱。「陶庵夢憶」等を著す。〕の一篇『岱志』を思ひ出した、その第一節にかうある、
「故に余の岱を志すは、岱を志すに非ざるなり。木華(晉の文人)〔西晋〕は『海賦』〔『文選』所収〕を作りて、胡ぞ海の上下四旁〔上下四方〕に於て之を言はざる〔海について語るのであれば、海の上下四方について語ればよい。主題を際立たせるには、その周囲から描けばよい、というアプローチの手法をいう。〕、と曰へり。余、また岱〔泰山(岱山)〕の上下四旁を云はんのみ。」しかし書き拔いた〔これを抜き書き(引用)した〕後、又考へた、待て暫し〔ちょっと待てよ? と自問する慣用句。〕、だが家の上下四旁に云ふべきことがあるだらうか? 私にも急には答へきれぬ。ふと又大道露店から買つて來たばかりの『醒閨編』〔清・廖免驕、号西園の著した女訓書。〕を取上げて見た、これは二十篇の女に訓ふる韻文で、每行三三七に分れ都合〔合わせて〕三句十三字、題して西園廖免驕〔廖の姓としての読みは古くは「りう」だったという。〕編といふ。首篇第三葉には次のやうな幾行があり云ふ、
犯小事,由你說,倘犯忤逆推不脫。
有碑文,你未見,湖北有個漢川縣。
鄧漢眞,是秀才,配妻黃氏惡如豺。
打婆婆,報了官,事出乾隆五十三。
將夫婦,問剮罪,拖累左鄰與右舍。
那鄰里,最慘傷,先打後充黑龍江。
那族長,伯叔兄,有問絞來有問充。
後家娘,留省城,當面刺字充四門。
那學官,革了職,流徙三千杖六十。
坐的土,掘三尺,永不准人再築室。
將夫婦,解廻城,凌遲碎剮曉諭人。
命總督,刻碑文,後有不孝照樣行。
(小さな過ちを犯したのなら、自分から申し出たればとて罪に問はれぬが、若しも親不孝の罪を犯した場合には逃げようたつて逃しはせぬ。
それについては碑文があるのを、汝等は見たことはあるまい、湖北省に漢川縣といふ處がある。
鄧漢眞は秀才であつたが、その妻の黃氏といふのは豺〔豺狼という例えは残忍・冷酷の含意がある。〕のやうな惡い女であつた。
その黄氏は姑を打つたので、役所に訴へられた。事件は乾隆五十三年〔一七八八年〕に起つた。
夫婦を斬罪に處し、累はその左右の鄰人にまで及んだ。
その鄰人こそ、まことに悲慘なもので、先づ打たれて後兵隊にされて黑龍江へ送られた。
その族長や、伯叔兄は、或は絞罪に處せられ或は兵に充てられて邊境に送られた。
嫁の里の繼母は省城に留められ、額に入墨を入れられて四方の城門の門番に充てられた。
その學官は、免職になつて、三千里も離れた土地へ流島になり笞六十に處せられた。
その住んでゐた場所は、三尺掘り下げられて(便所にされ)、永遠に人がそこに再び家を建てることを許されなかつた。
夫婦の者を、城内隈なく引廻し、ずた〳〵に斬りきざんで人民に見せしめにし、
總督に命じて、碑文を刻ましめ、以後親不孝を働く者があればこの通りにやるとさとらせることにした。)
私が更に前後を翻つてみると、果して卷首に「謹んで湖北の碑文を錄す」とあるのを見つけた、その文に云ふ、
「乾隆五十三年正月に賜はりたる上諭に曰く、朕は孝を以て天下を治む、海澨山陬〔山海の最果ての僻地まで〕、一道として風を同じうせざるは無し。しかるに湖北總督の疏に據れば、漢川縣の生員(秀才と同意)鄧漢禎(鄭漢眞)の妻黄氏は母を辱かしめ姑を毆りしとの趣なり。朕思ふに不孝の罪は別に加ふべき無し、たゞ皮を剝ぎて衆に示すあるのみ。左右の鄰舍は隱匿して報ぜず、律により杖八十、烏龍江(黑龍江)に軍に充つ。族長伯叔兄等は子姪を敎訓せず、また絞罪に議す。敎官は幷に訓誨せず、杖六十、三千里に流徙す。知縣知府は究治〔追及して処罰すること〕を知らず、職を罷めて民と爲し、子孫は永へに入仕〔仕官〕するを許さず。黄氏の母は面に當つて字を刺し、省に留めて四門に軍に充つ。漢禎の家は土三尺を掘り、永へに居住を許さず。漢禎の母には湖北布政使司をして毎月米銀二兩を給せしめ、なほ漢禎夫婦を漢川縣に發還〔送還〕し、母に對し皮を剝ぎて示衆にせしむ。湖北總督をして嚴重碑文を刻し、今後不孝の徒あらば、漢禎夫婦に照らして罪に治することを天下に曉諭せしむ。」私はこの碑文を讀んで、すぐにいろ〳〵の感想を抱いた。第一には「朕は孝を以て天下を治む」といふ一句を見て、これは家の上下四旁ではないか、話すべき材料が見つかつたと思つた。第二にはこの碑は何處に在るのかしらん、まだ存在してゐるだらうか、拓本を手に入れて見ることの出來ないのは惜しいなあと思つた。第三には「ちよつびり」の懷疑をおこした。この碑文は本物だらうか? 私は官文書を調べて、この漢川縣の忤逆案〔親不孝の裁判〕の事實を證明する暇がなく、單に文字の上から云つても、幾多の破綻がある。十全老人(乾隆帝)の漢文には確かによく通らない處がある、しかし彼はかういつた諭旨をもう五十幾年から書いてゐるのであるから、型通りにうまく書けないなんて程でもあるまい。皇帝が人の皮を剝ぐやうなことは決してないとは保し難く、清初にも確かに有つたことである、しかし乾隆の時にそれがあつたらうか、いさゝか半信半疑である。文章を見たところは大分どうも老學究の手筆臭い、尤も老學究が上諭の僞造を敢へてするとは思はれぬ、——さういつた事の出來たのは光緖も末になつてから革命黨が初めてやつたことだ、それに文句もやはり穩當な出來映えではない。だが何はともあれ、乾隆五十三年に眞に此の事が有つたにせよ、或は士大夫の捏造に出でたものであつたにせよ、いづれにしても同樣に價値があり、要するに社會にかうした考へ、即ち親不孝者は皮を剝いでよいとする考へがあるといふことを證明するに足る。かつて阮雲臺(阮元)の『廣陵詩事』を翻閲せるに〔ページをはぐって見ていたら〕、卷九に逆婦が豚に變じたといふことを談つた一則があり云ふ、
「寶應〔地名〕の成安若(康保)〔清代〕の『皖游集』に載す、太平寺中の一豕、婦人の足を現はし、弓樣宛然たり〔弓なりの足型で、いかにも婦人の纒足のようだった〕、(案ずるに、此は實は婦人が豕足を現はせしのみ。)〔大黒の皮肉も含まれているかもしれないが、考証というよりは婦人をわざわざ豚足に仕立てる纒足の文化への憤りが草子地のようにやや唐突に噴出したものと見る。〕同游のもの詫りて異と爲す、余笑つて之を解いて曰く、此は必ずや妬婦の後身なり、人彘の寃、今平反〔冤罪を晴らして、名誉を回復すること〕を得たりと、因つて一律〔律詩〕を成し、『偶見』と題を命じぬ云々。憶へば余が幼時、林庾泉〔清・林道源〕より聞きしに云ふ、曾て某處の一婦その姑に不孝なりしため雷擊に遭ひ、身變じて彘と爲り、たゞ頭は人たり、後脚はなほ弓樣をなせしが、年餘を越えて復雷のために殛死されぬ。始めは不經の談〔非常識な話〕ならんとおもひしが、いま安若の此の詩を見て、天地の大事變の奇、眞に恒情を以て度り難きを覺えし也。惜しむらく安若が寺僧に向つて其の故を究めて之を書せざりしや。」阮君は元來俗物でなく考據詞章の學に於ても立派な成績を擧げてゐるのであるが、いま此等の箸にも棒にもかゝらぬ〔取り上げる価値もない〕故事を記録してゐるのは、甚だどうもをかしなことである、私がこれを寫し取つたのは、かゝる思想が、雅俗〔文化人と普通人〕の別無く普遍してゐることを證明するに確實な材料としようと思つたからである。裏返して云へばつまり孝を勸めることで、最も重要なのは誰しも知つてゐる所の『二十四孝圖說』である。この中には枕席を扇ぐといつた類のやうに比較的容易に出來るものもあるが、しかし大抵は蚊に食はれるといつたやうに非常にむづかしく、中にはさういふ機會が滅多に得られず、うまい具合に冬に病氣にかゝつたからこそ魚や筍を搜しに行けるのだが、さうでなかつた日にはこれは結局どうにもなるまい。最も問題になるのは郭巨が兒を埋めて黄金一釜を掘り出した話だが、この事については古へも今も疑ひを懷いてゐる人がある。偶〻尺牘をよみ、朱蔭培〔清代〕著『芸香閣尺一書』(道光年刊)卷二『顧仲懿に致すの書』にかう云つてゐるのを見た。
「岳武穆(岳飛)〔南宋代、字鵬挙、武穆は諡〕何ゆゑ直ちに黄龍(金の都城)を搗きたる上にて〔岳飛の言葉「直抵黄龍府、與諸君痛飮耳。」(宋書・岳飛伝)から「直搗黄龍」という成語ができ、それに基づく用字。〕旨に違ひし罪を請はざりしやといへるは、正論に非ざることを知れども、姑く快論となし置かん。足下は春秋の大義を引きて之を辨ぜられたり、所謂天王は明聖、臣罪あらば當に誅すべし、純臣の心はたゞ君あるを知るのみと。前に嵆春原丈は弟の『郭巨埋兒の辨』を評して、たゞ其れ愚の至、是を以て孝の至、と云はれ候。事は異るも論は同じ、みな芸香が一時の妄論の失を補ふべく候。」私に云はすれば、顧・嵆二公のは同じく妄論であつて、純ら道學家の、情理をわきまへぬ體裁のよい言葉にすぎぬ、しかし社會的には極めて勢力を有してゐるのであるから、これはそのまゝ中國の輿論と云つて差支へなく、その主張は朕は孝を以て天下を治むといふのと蓋し全く一致してゐる。この勸と戒との二方面から見て、孝は百行の先なりとの敎條〔ドグマ〕はまことに確實疑ひなきものである。
現在の問題は、これを近代の家庭に於て如何に實行するか? といふことである。實際の話が、模造の二十四孝がもはや有らうとは思はれぬ、近來は資本主義の時代であつて、神道はもう力を借しては下さるまいし、奇蹟の出現は望み難く、紙幣無しに筍や魚が手にはいるとは思ひもよらぬことで、世間の一切は今やすべて平凡現實化されてしまつた。太史公(史記の著者司馬遷)曰く、傷ましい哉貧や、生きては以て養を爲す無く、死しては以て葬を爲す無しと。〔礼記・檀弓下の語という〕これこそ明白に孝を盡すことの難しさを説明してゐる。孝といふことに對して何か閑談をしようと思ふのは、實際容易でない。中國では普通、忠孝節義と通稱してゐるが、四者のうち義だけはまだしも吟味できるが、その他の三徳は分れて三綱〔儒教道徳の三綱領。君臣・父子・夫婦の間の徳義とされる。〕に屬し、みな既に權利を得てゐて、妄りなことを云つてこれを侵犯するのは許されないことになつてゐる。曾て、施存統〔中国共産党の活動家〕が『非孝』を著はし、而して陳仲甫(陳獨秀)がその片棒を舁いだ〔左袒した〕ことを、今に至つて讀經尊孔の朋友はなほ津々として道ふを樂しみ、彼は曾て萬惡は孝を首と爲すとの格言を發表したと謂ひ、而して林琴南孝廉は又孔北海(建安時代の文士孔融)〔後漢。孔子二〇世の孫。〕の言葉を引張つて來てへんにからんだものである、だが現に『獨秀文存』を調べてみればわかる、その中には實際その言はありはしないのである。私はこゝまで書いてまことに戒心無き能はぬ〔強く警戒しないわけにはいかない〕、しかし展側して一考するに〔見方を変えて考えてみると〕、余は行年五十幾つにもなつてゐる、もしも中國早婚の習慣に依つてゐたならば、すでに曾孫があるべきところであるのに、余の不敏なる〔私は愚かなことに〕今僅かに父親としての資格を以て孝を論じてゐる、固より曾祖の豪勢さには及ぶべくもないにせよ、資格は既に出來てゐるわけである。余を以て觀るならば、現代の息子はわれわれに對して必ずしも別段この上孝を盡さずともよいのである、なぜか、蓋し生活が艱難で、息子達は學校を出た後は第一にその生活を維持しなければならず、上には國家に對する義務があり、下には子女に對する責任がある。衣食に不自由のない、一個の賢き父、良き夫、好き公民に成らうとするだけでも、すでに非常な努力を必要とし、或は力めても及ばないといふことさへあるに、その上若しも綵衣を着て雛を弄んだり、鼎で烹て食を進めたりしてゐたのでは、勢ひ〔どうしても〕公務を怠り公金を費消することにならなければならず、一朝にして捉まつて牢屋に入れられるならば、何とそれこそ鴆毒〔猛毒〕を飮んで渇きを止めようといふ奴ではないか〔目先の苦労を避けるために破滅的な手段をとること。(『後漢書』霍諝伝)〕、さうなつては老太爺、老太太たる者〔一家の長老〕また何の快樂あらんやである。鄙見によれば父母が子女を養育するのは實はたゞ自然の負債を還すに止まる。この意味は英語にあるのと同じでない、『笑林』を引いて疏通證明せねばなるまい。ある人、友達がさも忙しげに奔走してゐるのを見て、何の用で忙しくしてゐなさるとたづねると、二十年前の負債を今日中に還さねばならぬゆゑと答へた。何の負債でござると重ねて訊ねると、實は明日が娘の嫁入ぢやと答へた。これは笑話であるが、しかし戲語ではない。男子は生れながらにして之がために室〔妻〕あらんことを願ひ、女子は生れながらにして之がために家〔婚家〕あらんことを願ふ〔孟子〕、といふのはつまりこの意味である。自然は物を云はぬ、生物の行爲こそその代言者なのである、人は靈長なりと雖もまた自らこの民法の外に出づることは出來ぬのである。債務は旣に了つても情誼は長へに存する、これは生物にも有ることであるが、人に於ては特に顯著であつて、これこそその靈長たる所以であらう歟。私は思ふのに五倫〔儒教の教える五種の人間関係とその守るべき徳目。君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。〕のうち朋友の義が最も高く、母子・男女の關係が本能より倫理に進んだ所以のものは、實に此の故によるのではあるまいか。父子仲の惡い金持があつた、ところが息子は甚だ屈強な〔強情・頑固な〕男であつたので、父はこれに向ひ、他の事は云はぬとして、お前とわしとは二十餘年も一緒に暮したのだから、兎に角老朋友の間柄なわけだ、何もこのうへ意地を張合はなくともよいぢやないかと云つたといふ話がある。これは滑稽な話ではあるが、この言葉は確かに面白い。私はだから息子達にも、父母に對してせい〴〵最も古い老朋友として處するやうに希望する、何も長跪して〔跪いて深く拝礼して〕老太太に加餐を請うたり〔養生を願ったり〕訓戒を受けたりする必要はなく、たゞ顏を合はせた時には怡々として〔にこやかな顔で〕、言葉を荒らげ顏色を險しくするに至らなければ、それで十分結構である。これは本々決して破天荒な新發明でも何でもない、世にはさういふ風にやつてゐる國もあるのであつて、たゞ中國では何しろ高調(理想論)を唱へることが喜ばれるものだから、それを承認しないだけのことである。凡そ高調を唱へるものには低調を行ふことが出來ぬのも、これ亦きまりきつた道理である。〔徒らに大言壮語して行動が伴わないことを皮肉る。〕私の郷里の民間に目連戲といふのがある、元來は宗教劇だが滑稽な挿話に富み、遂に純然たる平民喜劇と成つてゐる、その中に『張蠻が爹を打つ』一段があり、蠻の爹が見物衆に向つて云ふ臺詞にこんなのがある、
「今時はまるで成つちよらん〔よろしくない〕世の中となりました。以前にわしが爹を打つてゐた時分には、爹が逃げるとそれまででごはした〔そこまででお終いでございました〕、今時はハア、わしが逃げても彼奴はまだ追つかけて來て打ちますわい。」これこそ老百姓の「犯話」である。所謂犯話とは蓋し即ち經驗の談であつて、事實の中から「犯」して〔既成の空中楼閣を経験的事実から打ち壊している。「犯」は反抗・抵触すること。「事親有隠而無犯。(親に事ふるには隠ありて犯すこと無かれ。)」(礼記・檀弓)などの「面と向かって忤らうこと」を指す。〕出て來た格言であり、その精鋭にして人に嫌はれる處は李耳(老子)やイソツプに劣らぬ、といふのは、彼は往々にして遠慮會釋もなく政敎道德の覗きカラクリを突き破つて見せるからである。〔政教道徳の西洋鏡を戳穿するという原文の訳。虚飾を穿つ、化けの皮を剥ぎ取るという意味で「犯」を使っている。〕士大夫の家中では、案頭〔机の上〕に『二十四孝』と『太上感應篇』とを置いてあつて、父親が暴君の段から降りて老朋友たらんことを求めようと欲しても到底できぬ相談である、かゝる事はよくあることで珍しくなく、今さら諱みもせぬし、また諱むべくも無い、恰も〔ちょうど〕理論と事實の如く元來二重の眞理として並び存すべきものである、迂生が讀經尊孔を非とするのを聞いて駭然とする〔びっくりする〕人もあらうが、しかしまた得る所無きにしもあらずで、現代の父子關係は老朋友を以て極則とするてふ〔という〕この發明は、實にその時得られたものなのである。
上に述べたことは、何でもないやうだけれども、實は私として老人のためにも大いに考へてやつてゐるのである。父母は少壯の時には自分自身の世話をすることが出來るし、そのうへ彼等はその時なほ子供の世話も見ねばならぬのだから、何も問題にならぬ。問題になるのは老年になつてからで、これは衣食等の事だけでなく、むしろ重要なのは老年の孤獨である。息子が偉くなり有名になると、往々にして書卓の上に一部の『百孝圖説』を殘しておいて、年寄に慰ませ、自分は愛妾を引連れて洋場(租界)〔治外法権の外国人居留地域〕や官場へ國民のために幸福を謀りに行く。かりにそのおやぢさんが稀に見る明達の人であつたとすれば、別段何といふこともない、たとへば曹庭棟〔清代〕が『老老恆言』卷二に云つてゐるやうに。
「世情世態は、閱歷久しく看て應に煉熟すべし、心衰へ面改まらば、老いて更に奚にか求めん。諺に、人に求むるは己に求むるに如かずと云へり。牛と呼ばれ馬と呼ばるゝとも、人の云ふにまかせ、少しも意に介することなかれ。少しにても意に介するときは忿を生じ、忿るときは肝を傷む、人に於て損なく、徒らに己を損するのみ。
少年熱閙の場にてはその類に非ざれば親しむなかれ、苟も機を見て退くことを知らざれば、憎しみを取るのみ。二三の老友と相對して閒談するとき、偶〻世事〔俗世間の出来事や話題〕を聞けば、必ずしも是非を論ぜず、必ずしも長短を較らず、爾の話を出すを愼め、また心氣を定むる所以ぞかし〔良策である〕。」又、沈赤然〔清代〕著『寒夜叢談』卷一に次のやうな一則がある。
「膝前に(子孫が)林立するは、喜ぶ可きなり、必ずしも其の皆賢なること能はずと雖も、必ず皆壽なればなり。金錢の山積するは、喜ぶ可きなり、然れども田宅を營みて〔不動産のことに携わって〕我心を勞し、婚嫁を籌りて我心を勞し、盜賊水火〔水難火難〕を防ぎて又我心を勞す。黄髮鮐背〔長寿。白髪を過ぎて髪も色褪せ、背中がフグやサバのように老人斑で一杯になるまでの意。〕は、喜ぶ可きなり、然れども心は健忘〔物忘れしやすく〕、耳は重聽、擧動は扶持を須つ〔日常の動作に介助を必要とする〕、子孫に厭はれ、奴婢〔召使い〕に欺かれ、外人に侮られざる者ありや。故に曰く、男子多ければ懼れ多く、富めば事多く、壽ければ辱多しと。〔荘子・天地篇〕」二君のやうに達觀することが出來たならば、一切の事は都合よく行くであらうが、惜しむらく千百人中に一人を得ることは難いのだからこれが問題になるのである。人各〻能ふ所を盡し各〻需むる所を取るといふ原則に本づき、已に社會のために相當の工作を果した老人を收容保護し、衣食住藥から娯樂まで十分に供給するやうな國立養老院が社會にはまだ無いのであるから、自然老朋友に委託せざるを得ない、——こゝで子孫と云はずに特に老朋友と戲稱したのは、戲ではないのである、子孫と云へば專ら義務を重んずるかに思はれるに反し、朋友と云へば情感に重きをおくからであり、且つ養老といふものはその老年の孤獨を消すことが大切で、それはたゞ老朋友を用ひる法によつてのみ得られるからである、古への養老とは即ちこれであつたのだ。とはいふものの、迂生は『二十四孝』の續編を作るつもりはなく、しかも實際上この老朋友の孝も中々容易でなく、恐らく遂に一種の理想たるを免れまい、人情物理に違反せず、青年を壓迫せず、また老年を困らせず、頗る中庸の道に合し、皇帝や道學家の意見よりも遙かに良いに拘らず、實現の困難は或は二十四孝にをさ〳〵〔ほとんど〕劣らぬかも知れぬ。なぜか? 蓋し中國の家族關係はたゞ名分を以てし、利害を以てしてゐるので、情義を以て互ひに繋がつてゐるのでなく、それも已に久しいこと〔長い伝統〕であるからである。聞けば昔龔橙〔清・龔自珍の長子。〕といふ人は自ら半倫と號したが、そのわけは妾をたゞ一人持つてゐるだけであつたからだといふ〔「自分には君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の情誼(道徳)は一切ない。ただ、寵愛する一人の側室への情愛だけはある。だから五倫のうち、わずかに半倫だけを持ち合わせているのだ。」と嘯いたためという。〕、中國家庭の状態如何〔どのような状態であるかということ〕は勿論一言を以て盡し難いが、龔君から笑はれない者は殆ど稀であらう。家の上下四旁が若したゞ半倫あるのみであるならば、朋友を父子の間に求めんと欲するも又豈得べけんやである。〔どうして得られようか。〕
附記
漢川縣の一案に關し、私は乾隆皇帝(かりに彼であつたとして)の最も面白い處分の仕方はかの鄧老太太( 鄧漢禎 の老母 )であると思ふ。このおばあさんの目の前で息子夫婦が皮を剝がれ、彼女だけ年寄の身を一人ぼつちとなつて取殘され、每月藩臺衙門から銀子二兩を受けるにしても、住むべき家とてなく、——それは掘り返されて便所になつたからである、——街へ行けば、嫁の里の黄家の母が額に二行の金印を入墨されて、城門の番人になつてゐるのに出合はぬわけに行かず、さぞお互ひにばつがわるかつたらう。敎官や族長がみな訓誨をなし得なかつたために重罪に問はれたのであるならば、鄧老太太だつて同じ罪名であると思はれる、そのやうな處分は或はつまりその意味であつたのであらうか。甚だしいかな皇帝や道學家の測り難きや。吾人が常情を以て推測してゐたのでは、到底その萬の一を知ることも出來ないであらう。廿五年〔一九三六年〕十月十八日記す。