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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

家の上下四旁(じやうげしはう)

『論語』〔林語堂等が一九三二年に発刊した小品文雑誌。一九四九年まで、途中八年間の空白を挟んで、一七七号まで継続した。〕がこんど出した課題は「家」である、私も受驗生の一人であるが、それを見て周章(しうしやう)〔狼狽、慌てること〕を禁じえず、自分の肚(はら)のあまりにも空虚なことは怨(うら)まずに、たゞこんなむづかしい問題を出して人を困(こま)らせる試驗官の意地の惡さを恨(うら)む。確かにこれは前回の「鬼(き)」〔幽鬼〕よりも遙(はる)かに作りにくい、といふのが鬼はわれわれと關係の無いものであるからだ、尤(もつと)も人が死ねば鬼となると普通云(い)はれてゐるものの、自分が鬼になるなんて全然信じてはゐないし、將來(しやうらい)一朝(いつてう)にしてよし〔たとえ〕死んだとしても、鬼門關(きもんくわん)の中へはいつて行くなどとは決して考へも及ばないのだから、勝手に談(かた)る分には先(ま)づ差支(さしつか)へないのである。ところが家となると、これはあらゆる人々が有(いう)してゐる所のものである、尤も大法螺(おほぼら)を吹(ふ)かぬ出家人(しゆつけにん)〔文字どおり「家を出た」人間である出家者。「法螺を吹く」は大嘘を吐く意。〕は別である、がさういつた人も今日では先づ絶無(ぜつむ)といつてよろしく、現代の坊(ばう)さんは國大(國民大會(こくみんたいくわい))選擧〔蒋介石の率いる南京の国民政府が孫文の三民主義を受け継ぎ、同年一一月に国権の最高機関として開催する予定だったが、選挙の進展の遅れ等で延期になり、翌年の日中戦争で凍結になった。〕に御熱心なことで、われわれよりも反つて積極的なくらゐである、私の知つてゐる紹興(せうこう)の阿毛(あまう)師父(しふ)の自(みづか)ら述ぶる所の如(ごと)くんば、彼等(かれら)の家はわれわれよりも多く、即ち父の家、妻の家、及び寺の家の三者(さんしや)を有してゐるのださうである。要(えう)するに、在家(ざいけ)にせよ出家(しゆつけ)にせよ、兎(と)に角(かく)家を離れることは出來ぬ、とすれば家のわれわれに於(お)ける關係は極めて深いと云ふべく、かくも關係が深いのであるから、これについて談(かた)るのは甚だ容易でないわけである。與(あた)へられた家といふ問題は難題である、と私がこゝで斷乎(だんこ)としてさう宣(せん)するのは差支へあるまい。

とは云つたものの、この題目を貰(もら)つたからには、どうも白紙(はくし)を出してごまかすわけにもいかず、何はともあれ作つてみねばならない。ふと張宗子(ちやうそうし)(明末紹興の文人)〔明・張岱。「陶庵夢憶」等を著す。〕の一篇『岱志(たいし)』を思ひ出した、その第一節にかうある、

「故に余の岱を志(しる)すは、岱を志すに非(あら)ざるなり。木華(ぼくくわ)(晉(しん)の文人)〔西晋〕は『海賦(かいふ)』〔『文選』所収〕を作りて、胡(なん)ぞ海の上下四旁(じやうげしはう)〔上下四方〕に於て之を言はざる〔海について語るのであれば、海の上下四方について語ればよい。主題を際立たせるには、その周囲から描けばよい、というアプローチの手法をいう。〕、と曰(い)へり。余、また岱(たい)〔泰山(岱山)〕の上下四旁を云はんのみ。」しかし書き拔(ぬ)いた〔これを抜き書き(引用)した〕後、又考へた、待て暫(しば)し〔ちょっと待てよ? と自問する慣用句。〕、だが家の上下四旁に云ふべきことがあるだらうか? 私にも急には答へきれぬ。ふと又大道(だいだう)露店(ろてん)から買つて來たばかりの『醒閨編(せいけいへん)』〔清・廖免驕、号西園の著した女訓書。〕を取上(とりあ)げて見た、これは二十篇の女に訓(をし)ふる韻文(ゐんぶん)で、每行三三七に分(わか)れ都合(つがふ)〔合わせて〕三句十三字、題して西園(せいゑん)廖免驕(れうめんけう)〔廖の姓としての読みは古くは「りう」だったという。〕編といふ。首篇(しゆへん)第三葉(えふ)には次のやうな幾行があり云ふ、

犯小事,由你說,倘犯忤逆推不脫。
有碑文,你未見,湖北有個漢川縣。
鄧漢眞,是秀才,配妻黃氏惡如豺。
打婆婆,報了官,事出乾隆五十三。
將夫婦,問剮罪,拖累左鄰與右舍。
那鄰里,最慘傷,先打後充黑龍江。
那族長,伯叔兄,有問絞來有問充。
後家娘,留省城,當面刺字充四門。
那學官,革了職,流徙三千杖六十。
坐的土,掘三尺,永不准人再築室。
將夫婦,解廻城,凌遲碎剮曉諭人。
命總督,刻碑文,後有不孝照樣行。

(小さな過(あやま)ちを犯(をか)したのなら、自分から申し出たればとて罪に問はれぬが、若(も)しも親不孝の罪を犯した場合には逃げようたつて逃しはせぬ。
それについては碑文(ひぶん)があるのを、汝等(なんぢら)は見たことはあるまい、湖北省に漢川(かんせん)縣といふ處(ところ)がある。
鄧漢眞(とうかんしん)は秀才であつたが、その妻の黃氏(くわうし)といふのは豺(やまいぬ)〔豺狼という例えは残忍・冷酷の含意がある。〕のやうな惡い女であつた。
その黄氏は姑(しうとめ)を打つたので、役所に訴(うつた)へられた。事件は乾隆(けんりう)五十三年〔一七八八年〕に起(おこ)つた。
夫婦を斬罪(ざんざい)に處(しよ)し、累(るゐ)はその左右の鄰人(りんじん)にまで及んだ。
その鄰人こそ、まことに悲慘なもので、先(ま)づ打たれて後(のち)兵隊にされて黑龍江(こくりうかう)へ送られた。
その族長や、伯叔兄(おじたち)は、或は絞罪(かうざい)に處せられ或は兵に充(あ)てられて邊境(へんきやう)に送られた。
嫁(よめ)の里の繼母(ままはは)は省城(しやうじやう)に留(とど)められ、額(ぬか)に入墨(いれずみ)を入れられて四方(しはう)の城門の門番に充てられた。
その學官(がくくわん)は、免職(めんしよく)になつて、三千里も離れた土地へ流島(るたう)になり笞(むち)六十に處せられた。
その住んでゐた場所は、三尺(さんじやく)掘り下げられて(便所にされ)、永遠に人がそこに再び家を建てることを許されなかつた。
夫婦の者を、城内隈(くま)なく引廻(ひきまは)し、ずた〳〵に斬(き)りきざんで人民に見せしめにし、
總督(そうとく)に命じて、碑文を刻(きざ)ましめ、以後親不孝を働く者があればこの通りにやるとさとらせることにした。)

私が更に前後を翻(めく)つてみると、果(はた)して卷首(くわんしゆ)に「謹(つつし)んで湖北の碑文を錄(ろく)す」とあるのを見つけた、その文に云ふ、

「乾隆五十三年正月に賜(たま)はりたる上諭(じやうゆ)に曰く、朕(ちん)は孝(かう)を以て天下を治(をさ)む、海澨山陬(かいせいさんすう)〔山海の最果ての僻地まで〕、一道として風(ふう)を同じうせざるは無し。しかるに湖北總督(そうとく)の疏(そ)に據れば、漢川縣の生員(せいゐん)(秀才と同意)鄧漢禎(鄭漢眞)の妻黄氏は母を辱(はづ)かしめ姑を毆(なぐ)りしとの趣(おもむき)なり。朕思ふに不孝(ふかう)の罪は別に加ふべき無し、たゞ皮を剝(は)ぎて衆(しう)に示すあるのみ。左右の鄰舍(りんしや)は隱匿(いんとく)して報ぜず、律(りつ)により杖(ぢやう)八十、烏龍江(うりうかう)(黑龍江)に軍に充つ。族長伯叔兄(はくしゆくけい)等(ら)は子姪(してつ)を敎訓せず、また絞罪(かうざい)に議す。敎官は幷(ならび)に訓誨(くんくわい)せず、杖六十、三千里に流徙(りうし)す。知縣知府は究治(きうぢ)〔追及して処罰すること〕を知らず、職を罷(や)めて民と爲(な)し、子孫は永(とこし)へに入仕(にふし)〔仕官〕するを許さず。黄氏の母は面に當つて字(いれずみ)を刺し、省に留めて四門に軍に充つ。漢禎の家は土三尺を掘り、永へに居住を許さず。漢禎の母には湖北布政使司(ふせいしし)をして毎月米銀二兩(りやう)を給(きふ)せしめ、なほ漢禎夫婦を漢川縣に發還(はつかん)〔送還〕し、母に對し皮を剝(は)ぎて示衆(みせしめ)にせしむ。湖北總督をして嚴重(げんぢゆう)碑文を刻(こく)し、今後不孝の徒(と)あらば、漢禎夫婦に照らして罪に治(ぢ)することを天下に曉諭(げうゆ)せしむ。」私はこの碑文を讀んで、すぐにいろ〳〵の感想を抱(いだ)いた。第一には「朕は孝を以て天下を治む」といふ一句を見て、これは家の上下四旁ではないか、話すべき材料が見つかつたと思つた。第二にはこの碑は何處(どこ)に在るのかしらん、まだ存在してゐるだらうか、拓本(たくほん)を手に入れて見ることの出來ないのは惜しいなあと思つた。第三には「ちよつびり」の懷疑(くわいぎ)をおこした。この碑文は本物だらうか? 私は官文書を調べて、この漢川縣の忤逆(ごぎやく)案〔親不孝の裁判〕の事實を證明する暇(いとま)がなく、單に文字の上から云つても、幾多の破綻(はたん)がある。十全(じふぜん)老人(乾隆帝)の漢文には確かによく通らない處がある、しかし彼はかういつた諭旨(ゆし)をもう五十幾年から書いてゐるのであるから、型通りにうまく書けないなんて程でもあるまい。皇帝が人の皮を剝ぐやうなことは決してないとは保(ほ)し難(がた)く、清初(しんしよ)にも確かに有つたことである、しかし乾隆の時にそれがあつたらうか、いさゝか半信半疑である。文章を見たところは大分(だいぶ)どうも老學究(らうがつきう)の手筆臭(しゆひつくさ)い、尤(もつと)も老學究が上諭の僞造(ぎざう)を敢(あ)へてするとは思はれぬ、——さういつた事の出來たのは光緖も末(すゑ)になつてから革命黨(かくめいたう)が初めてやつたことだ、それに文句もやはり穩當(おんたう)な出來映(できば)えではない。だが何はともあれ、乾隆五十三年に眞に此(こ)の事が有つたにせよ、或(あるい)は士大夫の捏造(ねつざう)に出(い)でたものであつたにせよ、いづれにしても同樣に價値があり、要するに社會にかうした考へ、即ち親不孝者は皮を剝いでよいとする考へがあるといふことを證明するに足(た)る。かつて阮雲臺(げんうんだい)(阮元(げんげん))の『廣陵詩事(くわうれうしじ)』を翻閲(ほんえつ)せるに〔ページをはぐって見ていたら〕、卷九に逆婦(ぎやくふ)が豚に變(へん)じたといふことを談(かた)つた一則があり云(い)ふ、

「寶應(ほうおう)〔地名〕の成安若(せいあんじやく)(康保(かうほう))〔清代〕の『皖游集(くわんいうしふ)』に載(の)す、太平寺(たいへいじ)中の一豕(いつとん)、婦人の足を現はし、弓樣(きうやう)宛然(ゑんぜん)たり〔弓なりの足型で、いかにも婦人の纒足のようだった〕、(案ずるに、此(これ)は實は婦人が豕足(とんそく)を現はせしのみ。)〔大黒の皮肉も含まれているかもしれないが、考証というよりは婦人をわざわざ豚足に仕立てる纒足の文化への憤りが草子地のようにやや唐突に噴出したものと見る。〕同游のもの詫(いぶか)りて異(い)と爲す、余笑つて之を解(と)いて曰く、此は必ずや妬婦(とふ)の後身(こうしん)なり、人彘(じんてい)の寃(ゑん)、今平反(へいはん)〔冤罪を晴らして、名誉を回復すること〕を得たりと、因(よ)つて一律〔律詩〕を成し、『偶見(ぐうけん)』と題を命じぬ云々(うんぬん)。憶(おも)へば余が幼時、林庾泉(りんゆせん)〔清・林道源〕より聞きしに云ふ、曾て某處(ばうしよ)の一婦その姑(しうとめ)に不孝なりしため雷擊に遭(あ)ひ、身變じて彘(ぶた)と爲り、たゞ頭は人たり、後脚(あとあし)はなほ弓樣をなせしが、年餘(ねんよ)を越えて復(また)雷のために殛死(ころ)されぬ。始めは不經(ふけい)の談(だん)〔非常識な話〕ならんとおもひしが、いま安若の此の詩を見て、天地の大事變の奇、眞に恒情(こうじやう)を以て度(はか)り難きを覺えし也(なり)。惜しむらく安若が寺僧に向つて其の故を究(きは)めて之を書せざりしや。」阮君は元來(ぐわんらい)俗物でなく考據(かうきよ)詞章(ししやう)の學に於ても立派な成績を擧げてゐるのであるが、いま此等の箸(はし)にも棒にもかゝらぬ〔取り上げる価値もない〕故事を記録してゐるのは、甚だどうもをかしなことである、私がこれを寫し取つたのは、かゝる思想が、雅俗(がぞく)〔文化人と普通人〕の別無く普遍(ふへん)してゐることを證明するに確實な材料としようと思つたからである。裏返して云へばつまり孝を勸(すす)めることで、最も重要なのは誰しも知つてゐる所の『二十四孝圖說(にじふしかうづせつ)』である。この中には枕席(ちんせき)を扇(あふ)ぐといつた類(たぐひ)のやうに比較的容易に出來るものもあるが、しかし大抵は蚊(か)に食はれるといつたやうに非常にむづかしく、中にはさういふ機會が滅多(めつた)に得られず、うまい具合に冬に病氣にかゝつたからこそ魚(うを)や筍(たけのこ)を搜(さが)しに行けるのだが、さうでなかつた日にはこれは結局どうにもなるまい。最も問題になるのは郭巨(くわくきよ)が兒(こ)を埋(う)めて黄金一釜(ひとかま)を掘り出した話だが、この事については古(いにし)へも今も疑ひを懷(いだ)いてゐる人がある。偶〻尺牘(せきとく)をよみ、朱蔭培(しゆいんばい)〔清代〕著『芸香閣尺一書(うんかうかくせきいつしよ)』(道光年刊)卷二『顧仲懿(こちゆうい)に致すの書』にかう云つてゐるのを見た。

「岳武穆(がくぶぼく)(岳飛(がくひ))〔南宋代、字鵬挙、武穆は諡〕何ゆゑ直(ただ)ちに黄龍(くわうりゆう)(金の都城)を搗(つ)きたる上にて〔岳飛の言葉「直抵黄龍府、與諸君痛飮耳。」(宋書・岳飛伝)から「直搗黄龍(ちよくたうくわうりゆう)」という成語ができ、それに基づく用字。〕旨(むね)に違(たが)ひし罪を請(こ)はざりしやといへるは、正論に非(あら)ざることを知れども、姑(しばら)く快論となし置かん。足下(そつか)は春秋の大義を引きて之を辨(べん)ぜられたり、所謂(いはゆる)天王は明聖、臣罪あらば當(まさ)に誅(ちゆう)すべし、純臣の心はたゞ君あるを知るのみと。前に嵆春(けいしゆん)原丈(げんぢやう)は弟(てい)の『郭巨埋兒(まいじ)の辨(べん)』を評して、たゞ其(そ)れ愚(ぐ)の至(いたり)、是(ここ)を以(もつ)て孝(かう)の至、と云はれ候(さうらふ)。事は異(ことな)るも論は同じ、みな芸香(うんかう)が一時の妄論(まうろん)の失(しつ)を補(おぎな)ふべく候。」私に云はすれば、顧・嵆二公のは同じく妄論であつて、純(もつぱ)ら道學家の、情理をわきまへぬ體裁(ていさい)のよい言葉にすぎぬ、しかし社會的には極めて勢力を有してゐるのであるから、これはそのまゝ中國の輿論(よろん)と云つて差支へなく、その主張は朕は孝を以て天下を治むといふのと蓋し全(まつた)く一致してゐる。この勸(くわん)と戒(かい)との二方面から見て、孝は百行の先(せん)なりとの敎條(けうでう)〔ドグマ〕はまことに確實疑ひなきものである。

現在の問題は、これを近代の家庭に於て如何(いか)に實行するか? といふことである。實際の話が、模造(もざう)の二十四孝がもはや有らうとは思はれぬ、近來(きんらい)は資本主義の時代であつて、神道(しんたう)はもう力を借しては下さるまいし、奇蹟(きせき)の出現は望み難く、紙幣無しに筍や魚が手にはいるとは思ひもよらぬことで、世間の一切は今やすべて平凡現實化されてしまつた。太史公(たいしこう)(史記の著者司馬遷(しばせん))曰く、傷(いた)ましい哉(かな)貧や、生きては以て養(やしなひ)を爲す無く、死しては以て葬(とむらひ)を爲す無しと。〔礼記・檀弓下の語という〕これこそ明白に孝を盡(つく)すことの難しさを説明してゐる。孝といふことに對して何か閑談(かんだん)をしようと思ふのは、實際容易でない。中國では普通、忠孝節義(ちゆうかうせつぎ)と通稱してゐるが、四者のうち義だけはまだしも吟味(ぎんみ)できるが、その他の三徳は分れて三綱(さんかう)〔儒教道徳の三綱領。君臣・父子・夫婦の間の徳義とされる。〕に屬し、みな既に權利を得てゐて、妄(みだ)りなことを云つてこれを侵犯(しんぱん)するのは許されないことになつてゐる。曾て、施存統(せそんとう)〔中国共産党の活動家〕が『非孝』を著はし、而して陳仲甫(ちんちゆうほ)(陳獨秀(どくしう))がその片棒を舁(かつ)いだ〔左袒した〕ことを、今に至つて讀經尊孔(どくけいそんかう)の朋友(ほういう)はなほ津々(しんしん)として道(い)ふを樂しみ、彼は曾て萬惡(ばんあく)は孝を首(はじめ)と爲すとの格言を發表したと謂(い)ひ、而(しか)して林琴南(りんきんなん)孝廉(かうれん)は又孔北海(かうほつかい)(建安時代の文士孔融(かうゆう))〔後漢。孔子二〇世の孫。〕の言葉を引張つて來てへんにからんだものである、だが現に『獨秀文存(どくしうぶんそん)』を調べてみればわかる、その中には實際その言(げん)はありはしないのである。私はこゝまで書いてまことに戒心(かいしん)無き能(あた)はぬ〔強く警戒しないわけにはいかない〕、しかし展側(てんそく)して一考するに〔見方を変えて考えてみると〕、余は行年(かうねん)五十幾つにもなつてゐる、もしも中國早婚の習慣に依(よ)つてゐたならば、すでに曾孫(そうそん)があるべきところであるのに、余の不敏(ふびん)なる〔私は愚かなことに〕今僅(わづ)かに父親としての資格を以(もつ)て孝を論じてゐる、固(もと)より曾祖の豪勢さには及ぶべくもないにせよ、資格は既に出來てゐるわけである。余を以て觀(み)るならば、現代の息子はわれわれに對して必ずしも別段この上(うへ)孝を盡(つく)さずともよいのである、なぜか、蓋し生活が艱難(かんなん)で、息子達は學校を出た後は第一にその生活を維持しなければならず、上(かみ)には國家に對する義務があり、下(しも)には子女(しぢよ)に對する責任がある。衣食に不自由のない、一個の賢き父、良き夫、好(よ)き公民に成らうとするだけでも、すでに非常な努力を必要とし、或は力(つと)めても及ばないといふことさへあるに、その上若(も)しも綵衣(さいい)を着て雛(ひな)を弄んだり、鼎(かなえ)で烹(に)て食を進めたりしてゐたのでは、勢ひ〔どうしても〕公務を怠(おこた)り公金を費消(ひせう)することにならなければならず、一朝(いつてう)にして捉(つか)まつて牢屋(らうや)に入れられるならば、何とそれこそ鴆毒(ちんどく)〔猛毒〕を飮んで渇(かは)きを止めようといふ奴ではないか〔目先の苦労を避けるために破滅的な手段をとること。(『後漢書』霍諝伝)〕、さうなつては老太爺(ラオタイエー)、老太太(ラオタイタイ)たる者〔一家の長老〕また何の快樂(くわいらく)あらんやである。鄙見(ひけん)によれば父母が子女を養育するのは實はたゞ自然の負債(ふさい)を還(かへ)すに止(とど)まる。この意味は英語にあるのと同じでない、『笑林(せふりん)』を引いて疏通(そつう)證明せねばなるまい。ある人、友達がさも忙(せは)しげに奔走(ほんさう)してゐるのを見て、何の用で忙しくしてゐなさるとたづねると、二十年前の負債(おひめ)を今日中に還(かへ)さねばならぬゆゑと答へた。何の負債(おひめ)でござると重ねて訊(たづ)ねると、實は明日が娘の嫁入(よめいり)ぢやと答へた。これは笑話であるが、しかし戲語(ぎご)ではない。男子は生れながらにして之がために室(しつ)〔妻〕あらんことを願ひ、女子は生れながらにして之がために家〔婚家〕あらんことを願ふ〔孟子〕、といふのはつまりこの意味である。自然は物を云はぬ、生物の行爲こそその代言者(だいげんしや)なのである、人は靈長(れいちやう)なりと雖(いへど)もまた自らこの民法の外に出づることは出來ぬのである。債務(さいむ)は旣に了(をは)つても情誼(じやうぎ)は長(とこしな)へに存(そん)する、これは生物にも有ることであるが、人に於(おい)ては特に顯著(けんちよ)であつて、これこそその靈長たる所以(ゆゑん)であらう歟(か)。私は思ふのに五倫(ごりん)〔儒教の教える五種の人間関係とその守るべき徳目。君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信。〕のうち朋友の義が最も高く、母子・男女の關係が本能より倫理に進んだ所以のものは、實に此の故によるのではあるまいか。父子仲の惡い金持があつた、ところが息子は甚だ屈強(くつきやう)な〔強情・頑固な〕男であつたので、父はこれに向ひ、他の事は云はぬとして、お前とわしとは二十餘年も一緒に暮したのだから、兎に角老朋友の間柄なわけだ、何もこのうへ意地を張合(はりあ)はなくともよいぢやないかと云つたといふ話がある。これは滑稽(こつけい)な話ではあるが、この言葉は確かに面白い。私はだから息子(むすこ)達にも、父母に對してせい〴〵最も古い老朋友として處(しよ)するやうに希望する、何も長跪(ちやうき)して〔跪(ひざまづ)いて深く拝礼して〕老太太(ラオタイタイ)に加餐(かさん)を請(こ)うたり〔養生を願ったり〕訓戒(くんかい)を受けたりする必要はなく、たゞ顏を合はせた時には怡々(いい)として〔にこやかな顔で〕、言葉を荒(あ)らげ顏色を險(けは)しくするに至らなければ、それで十分(じふぶん)結構である。これは本々決して破天荒(はてんくわう)な新發明でも何でもない、世にはさういふ風にやつてゐる國もあるのであつて、たゞ中國では何しろ高調(理想論)を唱(とな)へることが喜ばれるものだから、それを承認しないだけのことである。凡そ高調を唱へるものには低調を行(おこな)ふことが出來ぬのも、これ亦(また)きまりきつた道理である。〔徒らに大言壮語して行動が伴わないことを皮肉る。〕私の郷里の民間に目連戲(もくれんぎ)といふのがある、元來(ぐわんらい)は宗教劇だが滑稽な挿話(さうわ)に富み、遂に純然たる平民喜劇と成つてゐる、その中に『張蠻(ちやうばん)が爹(おやぢ)を打つ』一段があり、蠻の爹(おやぢ)が見物衆(けんぶつしう)に向つて云ふ臺詞(せりふ)にこんなのがある、

「今時(いまどき)はまるで成(な)つちよらん〔よろしくない〕世の中となりました。以前(せん)にわしが爹(ちやん)を打つてゐた時分(じぶん)には、爹が逃げるとそれまででごはした〔そこまででお終いでございました〕、今時はハア、わしが逃げても彼奴(きやつ)はまだ追つかけて來て打(ぶ)ちますわい。」これこそ老百姓の「犯話(はんわ)」である。所謂(いはゆる)犯話とは蓋(けだ)し即ち經驗の談(だん)であつて、事實の中から「犯」して〔既成の空中楼閣を経験的事実から打ち壊している。「犯」は反抗・抵触すること。「事親有隠而無犯。(親に事ふるには隠ありて犯すこと無かれ。)」(礼記・檀弓)などの「面と向かって忤らうこと」を指す。〕出て來た格言(かくげん)であり、その精鋭にして人に嫌はれる處(ところ)は李耳(りじ)(老子)やイソツプに劣らぬ、といふのは、彼は往々にして遠慮會釋(ゑしやく)もなく政敎道德の覗(のぞ)きカラクリを突き破つて見せるからである。〔政教道徳の西洋鏡を戳穿するという原文の訳。虚飾を穿つ、化けの皮を剥ぎ取るという意味で「犯」を使っている。〕士大夫の家中(かちゆう)では、案頭(あんとう)〔机の上〕に『二十四孝(にじふしかう)』と『太上感應篇(たいじやうかんのうへん)』とを置いてあつて、父親が暴君(ばうくん)の段から降りて老朋友たらんことを求めようと欲(ほつ)しても到底(たうてい)できぬ相談である、かゝる事はよくあることで珍しくなく、今さら諱(い)みもせぬし、また諱むべくも無い、恰(あたか)も〔ちょうど〕理論と事實の如(ごと)く元來二重の眞理として並び存(そん)すべきものである、迂生(うせい)が讀經尊孔(どきやうそんかう)を非(ひ)とするのを聞いて駭然(がいぜん)とする〔びっくりする〕人もあらうが、しかしまた得(う)る所無きにしもあらずで、現代の父子關係は老朋友を以て極則とするてふ〔という〕この發明は、實にその時得られたものなのである。

上に述べたことは、何でもないやうだけれども、實は私として老人のためにも大いに考へてやつてゐるのである。父母は少壯(せうさう)の時には自分自身の世話をすることが出來るし、そのうへ彼等(かれら)はその時なほ子供の世話も見ねばならぬのだから、何も問題にならぬ。問題になるのは老年になつてからで、これは衣食等の事だけでなく、むしろ重要なのは老年の孤獨(こどく)である。息子が偉くなり有名になると、往々にして書卓の上に一部の『百孝圖説(ひやくかうづせつ)』を殘しておいて、年寄に慰(なぐさ)ませ、自分は愛妾(あいせふ)を引連(ひきつ)れて洋場(やうじやう)(租界(そかい))〔治外法権の外国人居留地域〕や官場(くわんじやう)へ國民のために幸福を謀(はか)りに行く。かりにそのおやぢさんが稀(まれ)に見る明達(めいたつ)の人であつたとすれば、別段(べつだん)何といふこともない、たとへば曹庭棟(そうていとう)〔清代〕が『老老恆言(らうらうこうげん)』卷二に云つてゐるやうに。

「世情世態(せいたい)は、閱歷(えつれき)久しく看(み)て應(まさ)に煉熟(れんじゆく)すべし、心衰(おとろ)へ面(おもて)改まらば、老いて更に奚(いづこ)にか求めん。諺(ことわざ)に、人に求むるは己(おのれ)に求むるに如(し)かずと云へり。牛と呼ばれ馬と呼ばるゝとも、人の云ふにまかせ、少しも意に介(かい)することなかれ。少しにても意に介するときは忿(いかり)を生じ、忿(いか)るときは肝を傷(いた)む、人に於て損(そん)なく、徒(いたづ)らに己を損するのみ。
 少年熱閙(ねつとう)の場にてはその類に非(あら)ざれば親しむなかれ、苟(いやしく)も機を見て退(しりぞ)くことを知らざれば、憎しみを取るのみ。二三の老友(らういう)と相對して閒談(かんだん)するとき、偶〻世事(せいじ)〔俗世間の出来事や話題〕を聞けば、必ずしも是非(ぜひ)を論ぜず、必ずしも長短(ちやうたん)を較(はか)らず、爾(なんぢ)の話を出(いだ)すを愼(つつし)め、また心氣(しんき)を定むる所以(ゆゑん)ぞかし〔良策である〕。」又、沈赤然(しんせきぜん)〔清代〕著『寒夜叢談(かんやそうだん)』卷一に次のやうな一則がある。

「膝前(しつぜん)に(子孫が)林立(りんりつ)するは、喜ぶ可(べ)きなり、必ずしも其の皆賢(けん)なること能(あた)はずと雖(いへど)も、必ず皆壽(じゆ)なればなり。金錢の山積(さんせき)するは、喜ぶ可きなり、然れども田宅(でんたく)を營(いとな)みて〔不動産のことに携わって〕我心を勞(らう)し、婚嫁(こんか)を籌(はか)りて我心を勞し、盜賊水火(すいくわ)〔水難火難〕を防ぎて又我心を勞す。黄髮鮐背(くわうはつたいはい)〔長寿。白髪を過ぎて髪も色褪せ、背中がフグやサバのように老人斑で一杯になるまでの意。〕は、喜ぶ可きなり、然(しか)れども心は健忘(けんばう)〔物忘れしやすく〕、耳は重聽(ぢゆうちやう)、擧動(ふるまひ)は扶持(ふち)を須(ま)つ〔日常の動作に介助を必要とする〕、子孫に厭(いと)はれ、奴婢(ぬひ)〔召使い〕に欺(あざむ)かれ、外人に侮(あなど)られざる者ありや。故(ゆゑ)に曰(いは)く、男子多ければ懼(おそ)れ多く、富めば事多く、壽(いのちなが)ければ辱(はぢ)多しと。〔荘子・天地篇〕」二君のやうに達觀(たつくわん)することが出來たならば、一切の事は都合(つがふ)よく行くであらうが、惜しむらく千百人中に一人を得(う)ることは難(かた)いのだからこれが問題になるのである。人各〻能(あた)ふ所を盡(つく)し各〻需(もと)むる所を取るといふ原則に本(もと)づき、已(すで)に社會(しやくわい)のために相當の工作を果(はた)した老人を收容(しうよう)保護し、衣食住藥(やく)から娯樂(ごらく)まで十分に供給(きようきふ)するやうな國立養老院が社會にはまだ無いのであるから、自然老朋友(らうほういう)に委託(ゐたく)せざるを得ない、——こゝで子孫と云はずに特に老朋友と戲稱(ぎしよう)したのは、戲(たはむれ)ではないのである、子孫と云へば專(もつぱ)ら義務を重んずるかに思はれるに反(はん)し、朋友と云へば情感(じやうかん)に重きをおくからであり、且(か)つ養老といふものはその老年の孤獨を消すことが大切で、それはたゞ老朋友を用(もち)ひる法によつてのみ得られるからである、古(いにし)への養老とは即(すなは)ちこれであつたのだ。とはいふものの、迂生は『二十四孝』の續編(ぞくへん)を作るつもりはなく、しかも實際上この老朋友の孝も中々(なかなか)容易でなく、恐らく遂(つひ)に一種の理想たるを免(まぬか)れまい、人情物理に違反(ゐはん)せず、青年を壓迫(あつぱく)せず、また老年を困らせず、頗(すこぶ)る中庸(ちゆうよう)の道に合(がつ)し、皇帝や道學家の意見よりも遙(はる)かに良いに拘(かかは)らず、實現の困難は或は二十四孝にをさ〳〵〔ほとんど〕劣らぬかも知れぬ。なぜか? 蓋し中國の家族關係はたゞ名分(めいぶん)を以てし、利害(りがい)を以てしてゐるので、情義を以て互(たが)ひに繋(つな)がつてゐるのでなく、それも已(すで)に久(ひさ)しいこと〔長い伝統〕であるからである。聞けば昔龔橙(きようとう)〔清・龔自珍の長子。〕といふ人は自(みづか)ら半倫(はんりん)と號(がう)したが、そのわけは妾(せふ)をたゞ一人持つてゐるだけであつたからだといふ〔「自分には君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の情誼(道徳)は一切ない。ただ、寵愛する一人の側室への情愛だけはある。だから五倫のうち、わずかに半倫だけを持ち合わせているのだ。」と嘯(うそぶ)いたためという。〕、中國家庭の状態如何(いかん)〔どのような状態であるかということ〕は勿論(もちろん)一言(いちごん)を以て盡(つく)し難いが、龔君から笑はれない者は殆(ほとん)ど稀(まれ)であらう。家の上下四旁(じやうげしはう)が若(も)したゞ半倫あるのみであるならば、朋友を父子の間に求めんと欲(ほつ)するも又豈(あに)得(う)べけんやである。〔どうして得られようか。〕

附記(ふき)

漢川縣の一案に關し、私は乾隆皇帝(かりに彼であつたとして)の最も面白い處分(しよぶん)の仕方はかの鄧老太太( 鄧漢禎 の老母 )であると思ふ。このおばあさんの目の前で息子夫婦が皮を剝がれ、彼女だけ年寄の身を一人ぼつちとなつて取殘(とりのこ)され、每月藩臺衙門(はんだいがもん)から銀子(ぎんす)二兩を受けるにしても、住むべき家とてなく、——それは掘り返されて便所になつたからである、——街(まち)へ行けば、嫁の里の黄家の母が額に二行の金印を入墨(いれずみ)されて、城門の番人になつてゐるのに出合はぬわけに行かず、さぞお互ひにばつがわるかつたらう。敎官や族長がみな訓誨(くんくわい)をなし得なかつたために重罪に問はれたのであるならば、鄧老太太だつて同じ罪名であると思はれる、そのやうな處分は或(あるい)はつまりその意味であつたのであらうか。甚だしいかな皇帝や道學家の測(はか)り難きや。吾人(ごじん)が常情(じやうじやう)を以て推測(すいそく)してゐたのでは、到底その萬(まん)の一を知ることも出來ないであらう。廿五年〔一九三六年〕十月十八日記(しる)す。

*阿毛師父——師父は(しふ)僧侶に對する尊稱(そんしよう)、阿毛はその俗名(ぞくみやう)である。この坊さん、生活的には俗人(ぞくじん)と何等(なんら)異(ことな)る所がないので、人はその法號(ほふがう)を忘れて俗名で呼んでゐる。實在(じつざい)の人物。
*秀才——また生員(せいゐん)とも云ふ。府考(ふかう)に及第(きふだい)した童生(だうせい)〔童試の受験生〕が、三年毎(ごと)に學臺(がくだい)〔中央から派遣される学政責任者〕によつて府城で施行(しかう)される院考(ゐんかう)〔童試の最終試験〕に合格したものを秀才と云ひ、はじめて州學(しうがく)縣學等の學校に入ることを許される。
*人彘——漢の高祖(かうそ)〔劉邦〕の后(きさき)の呂后(りよこう)が、高祖の愛妾(あいせふ)戚(せき)夫人の手足を斷(た)ち、眼をくり拔き、耳を燒き、物の云へなくなる藥を飮ませて、之を厠(かはや)の中に居(を)らしめ、名づけて人彘(じんてい)と云つたといふ故事。
*枕席を扇ぐ——二十四孝の一。東漢〔後漢〕の黄香(くわうかう)は性至孝(しかう)にして、暑い時には親の枕を扇(あふ)ぎ、寒い時には自(みづか)らその枕席(ちんせき)〔寝床〕を溫(あたた)めた。
*蚊に食はれる——二十四孝の一。晉朝の呉猛(ごまう)は子供の時から孝行で、夏自分の身體(からだ)を蚊が食つても決して驅(お)はなかつた、蚊が逃げて行つて父母を噬(か)まんことを恐れて。
*魚や筍を搜しに行く——二十四孝の一。晉の王祥(わうしやう)は、繼母(ままはは)が冬に生魚を欲(ほ)しがつたので、裸になつて氷を割り魚を取らうとしたところが氷が忽(たちま)ち解(と)けて鯉(こひ)が二匹躍(をど)り出た。また呉の孟宗(まうそう)は母が冬に筍(たけのこ)を欲しがつたので、竹林に入つて哀歎(あいたん)したところが筍が忽(たちま)ち生えた。いづれもその至孝が天を感ぜしめたためとされてゐる。
*郭巨が兒を埋め——二十四孝の一。郭巨は漢〔後漢〕の人。家が貧乏で母に滿足に食事もさせきれぬので、妻と相談の上、食扶持(くひぶち)を減らすために三歲の子供を地に埋(う)めることにし、二尺ばかり穴を掘つたとき中から黄金一釜が現はれ、天郭巨に賜ふ、官(くわん)取るを得ず〔取り上げることはできない〕、民奪(うば)ふを得ず、とそれに書いてあつた。
*林琴南老廉——林紓(りんじよ)、字(あざな)は琴南(きんなん)、清末の擧人(きよじん)(孝廉と同意)、海外名著の飜譯『林譯小説叢書』百數十種あり、淸末民初の文壇に新しい空氣を吹込(ふきこ)んだ功績は沒(ぼつ)すべくもない〔誰もが認めるところである〕。しかし彼の頭は依然(いぜん)古く、飜譯の目的主旨は全然間違つてゐたため、遂に時代に取殘(とりのこ)された。陳獨秀主宰(しゆさい)の『新靑年雜誌』に施存統が『非孝』を載(の)せて、舊(きう)道德を攻撃し、林氏がこれを攻撃したに對して、陳氏が反駁(はんばく)したことを指して云ふ。
*綵衣を着て雛を弄ぶ——二十四孝の一。老萊子(らうらいし)〔春秋時代の楚の隠士〕は年七十になりながら、兩親の前では五色斑斕(ごしきはんらん)の衣(きぬ)を著(つ)け、雛を弄(もてあそ)び、嬰兒(えいじ)の眞似(まね)をして親を娯(たの)しましめた。
*鼎で烹て食を進める——二十四孝の一。孔子の弟子の子路(しろ)は、兩親に事(つか)へてゐた時には、藜藿(れいくわく)〔アカザと豆の葉〕の食(し)を食ひ、親のために米を百里の外の負(お)うたが、親歿(ぼつ)して楚國の宰相(さいしやう)となるや、車百乘(じやう)を從へ、粟(ぞく)萬鐘(しよう)〔一鐘は数十斗から百斗という。〕を積み、絪(しとね)を累(かさ)ねて坐し、鼎(かなへ)を列(つら)ねて食ふに至り、もはや藜藿を食ひ、親のために米を負はんとしても能(あた)はぬことを歎(たん)じた。