瓜豆集
劉香女
故郷を離れてから、十八年間一度も歸つたことがない、一切はきつと既に大きに變つてゐることであらう。何でも石板路〔青石で敷き詰めた石畳の旧道。白壁の家と水路をめぐる黒い小舟(烏篷船)等、紹興の景観を代表するという。〕はすべて大通りに改裝され、店の門は後に引込まされたところが、裏門は河に臨んでゐて、退りやうがなく縮まるほかないため、ある店などは非常に淺い平べつたい恰好となり、帳場のうしろに手代が一人やつと立つてをれる餘地しか無いといふ話である。それこそどんなにかおもしろい一種の風景であらうと、ひとり想像して少々滑稽を感ずるが、ことによれば方々の軒下に片足の取れたラヂオ器械を備へつけて、ガー〳〵ガー〳〵この世のものとも思はれぬへんな聲を上げさせてゐるかもしれない。だが城郭は非なりと雖も、人民はなほ是で、十年二十年はおろか、その十倍から經つたればとて、そこの種々のさゝやかな悲劇や喜劇に變化を與へることは恐らくむづかしからう。木下杢太郎の詩集『食後の歌』に『石竹花』なる一篇があり、民國十年〔一九二一年〕に譯出して、『陀螺』〔一九二五年刊行の翻訳詩文集。標題は独楽の意味。〕の中に收めておいたが、その詞にいふ、
「夕暮れがたの濱へ出て
二上り〔三味線の調弦に、本調子・二上り・三下り等がある。〕節を唄へば
昔もかく〔このように〕人のうたひ候と
よぼよぼの盲人がいうた。
さても昔も今にかはらぬ
人の心のつらさ、懷しさ、悲しさ。
磯の石垣に
うす紅の石竹の花が咲いた。」
近日友人の好意で、『紹興新聞』を送つて貰つて讀ませていたゞいてゐる。六月十二日の一枚を開いて、思はずいさゝか一驚を吃した〔びっくりした〕、といふのは一少女が井戶に身を投げた悲劇が載つてゐたからである。大意はかうである。
「城東鎭魚化橋直街〔やはり青畳の「前街後河」の伝統的な大通り。「魚が化して龍に成る」という命名の魚化橋に住む周氏は、周作人や周恩来の遠祖に当たるという。〕の陳東海の女陳蓮香(現に十八歲)は、以前城南獅子林の南門小學に學んでゐたが、生れつき頭がよい上に非常な勉强家であつた、しかし間もなく學校をやめて家にぶら〳〵するやうになり、暇にまかせて『三國志』などといつた小説で無聊をまぎらし、特に『劉香女』〔明淸の演劇に登場する女性の物語。後出「劉香宝巻」を指す。〕の一書は何度繰返しても倦きず、したがつてその思想もそのために變つた。民國二十年〔一九三一年〕に家長の意見で、もと上海で外國銅匠たりし嚴某なる男と婚約をなした、蓮香はこの婚約に對して始めから不滿を表示してゐたが、嚴命に屈する外如何とも出來ず、そのために態度は益〻消極的となり、家では常に精進看經に餘念なく、さういふ風で今まで四年になる。ところで最近壻側では陰暦十月に式を擧げるに定めたと聞き、一層鬱々としてゐたが、遂に十一日の午前、潜かに遺書一通を書き、裏庭へ行つて井戸の蓋を開け、井戸の中へ躍り込んで自殺した。投水する前に自分の穿いてゐた黑セルの支那靴を脫ぎ、井戶の傍の木の枝に載せ、遺書は靴の中に入れてあつた。その遺書に、嫁に行きたくない、禍なしに濟ませるために、とあるところから見れば、婚姻反對がその自殺の主因であつたと思はれる。遺書の中には、今生では父母の辛勞に報ゆることが出來なかつたから、どうか來生では犬馬となつて御恩報じをしたいといふ言葉もあつたが、その遺書の原文は既にその母方の祖父任文海が東關〔街区の名〕へ持ち行き、どうしても全文を發表しようとしない云々。」
かういつた三面記事は恐らく甚だ平凡なものであらうが、なぜ私はこれを讀んで吃驚したらうか? 私がいさゝかと云つたのは、遠慮した云ひ方で、實は決していさゝかどころではなかつたのだ。といふのは私は四十年昔の古い事を思ひ出したからである、故郷の隣家でちやうどそのやうな少女が、結婚を拒絶し、精進看經をなし、抑鬱して夭逝〔夭折、早死に〕したのであつたが、彼女の信仰愛讀したといふのがやはりこの『劉香寳卷』であつた、小さい時分に宣卷〔宝巻を朗誦する舞楽〕を聽いたのは、大抵この屠家の門外で、彼女の老母がその集會の發起人であつた。この外にも幾人かの灰色の女性を見たことがあり、その悲劇の顯晦大小こそ一樣ではなかつたが、一樣に暗く陰鬱で、みな一種の小乘的佛教人生觀を抱き、寶卷を經史となし、尼菴〔尼寺〕を歸宿〔最後に身を寄せる場所〕となしてゐた。かうした灰色の印象は甚だ深く殘され、時光に掩はれてあまり露はに出ることはなかつたけれども、こんど突然また出合ひ、數十年の時間が恍として〔夢であるかのように〕一瞬の如く、おもはず愕然として、別の意味での今昔の感〔時世が変わったという感慨、隔世の感〕を抱いたのであつた。この數十年中には甲午( 日淸 戰役 )戊戌( 變法 政變 )庚子( 團匪 事件 )辛亥( 民國 革命 )の諸大事があつたし、民國以來は殊に目新しい事が次々に起り、信仰薄き者はまさか人の言葉尻に喰付いて、天國が近づいたの、明日にも大時代〔大事変か〕が來るのと云ふことはあるまいけれども、多少とも變つたと感じて、聊か心に慰める所があるのも、もと〳〵人情であらう、而してこの區々たる一小事こそはさうした樂觀の虚空〔楽天的な幻想〕を突き破る者であつたのだ。
北平〔北京〕に宣卷のある話は聞かないし、寶卷も遂に得易くない。幸ひ識りあひの或る舊書店で幾種かの寶卷を見、『劉香女』もその中にあつたので、早速持ち歸つた、値段頗る不廉であつた〔安くなかった〕のは、蓋し稀なるを以て貴しとす〔中身は関係なく稀覯書扱い〕といふわけであらうか。書は凡そ二卷、末葉に、同治九年〔一八七〇年〕十一月吉日曉菴氏等敬刊〔謹刻〕、上海城隍廟内翼化堂善書局藏板、とあり、首葉に蟠龍の位牌を刻して、上に「皇圖鞏固、帝道遐昌、佛日増輝、法輪常轉」〔皇国は堅固に、政道は弥栄に、仏の慈悲の栄光は弥増しに、仏法は永遠に、という嘉言麗句。〕の四句を書したところは普通の佛書とよく似てゐる。全部百二十五葉、每半葉九行十八字、都合三萬餘言、行があらく字が大きく、誦讀に便にしてある、たゞ流通甚だ多きため、稍〻後刷りだと字がぼやけてよく讀めない處がある、本も大きくなく、幼い時に見たものと同じくない、表紙に辛亥十月と題してあることによつて、購入の年月を知り得る。完全なる書名は「太華山紫金鎭兩世修行劉香寶卷」〔太華山と紫金鎭は物語の舞台となる場所〕といひ、湘州の李百倍の女が嫁に行くことを肯んぜず〔頑として拒絶し〕、家で修行し、名を善果と呼び、轉生して劉香となり、精進念佛して世人を勸化し、その父母劉光夫婦、夫状元馬玉、第二夫人金枝、婢玉梅と共にいづれも天壽を全うして終つた後、西方極樂世界に到り、上品に生れることが出來たといふ事を叙べてゐる。文體は唱と地の文とから成り、唱は七字句が多く、まゝ三・三・四句、俗にいふ攢十字( 三三四、集める と十字になる句 )〔攢は集める意。伝統的な歌唱の体裁。〕もある。體裁は大抵普通の彈詞と同じであるが、その性質は蓋し説經から出たものであつて、説く所の修行には下に列擧するやうな事柄を側重〔偏重〕してゐる、即ち佛法僧の三寶を敬重し、佛像を作つて金を貼り、橋や道路を補修し、僧に齋し〔食事を振る舞い〕布施をなし、弘く〔あるいは「あまねく」か。〕貧窮者を救濟し、殺生を戒め放生をなし〔捕獲した鳥獣魚類を解放し〕、精進を守り、看經念佛をなし、そして淨土の信仰に歸結する。これらは本々低級なる佛教思想であるが、正にそれ故にこそ却つて深く民間、特に一般中流以下の婦人に入りこみ、彼女達の一種憐れむべき「女人佛教人生觀」を作り上げたのである。十五年前曾て一篇の小論文の中で云つたことがある、中國の女人に對する輕視的な言辭は經驗を以て本としたものであるから、反證さへあれば容易に改正されるのであるが、佛教や基督教に於ける、女人を穢れた惡いものと看做す所の意見になると、宗教或は迷信を以て本としたものであるから、一層恐しいと。『劉香女』一卷は完全に女人を以て對象となし、彼女達が禮教乃至宗教の下に於て受くる所の一切の痛苦を最もよく説破してゐる、而してその解脱〔本文「解説」〕の方法は出家修行であるとなし、一筋に社會主義の道を下つてゐる。卷上に劉香の老師の眞空尼の福田菴に於ける說法を記してゐるが、その開卷第一に次のやうな說を立てゝ云ふ、
休道男女都一樣 誰知貴賤有差分
(男も女も同じものとそなたは思つてゐるでせうが、實はその間に貴賤の區別があるのです。)
先づ男子が如何に貴いかを説き、次に女子の有樣を説いて云ふ、
女在娘胎〔母胎〕十個月 背娘〔娘はお母さんの意〕朝外〔そっぽを向く〕不相親
娘若行走胎先動 娘胎落地盡嫌憎
在娘肚裏娘受獄 出娘肚外受嫌憎
合家老小都不喜 嫌我女子累娘身
爺娘無奈將身養 長大之時嫁與人
(女は母の胎中に十ケ月ゐるが、母親と反對に外向きになつて親しまうとせぬ。
母親が步かうとすれば胎兒が先づ動くし、母胎から生れ落ちるとみんなから嫌はれ憎まれる。
母胎の中にゐる時には母親に地獄の苦しみを受けさせ、母胎を出ると憎しみを受ける。
家中の者は老いも若きも皆これを好まず、われら女をば母親の身を累はしたものと云つて嫌ふ。
父母は仕方なしに育てゝやつて、大きくなつた時には人に嫁にくれてやるのである。)
人の許へ嫁に行つてからの生活がまた全く辛い。甚だ簡明に一括して云ふ、
公婆發怒忙陪笑 丈夫怒罵不回聲
剪碎綾羅成罪孼 淘羅〔米を研ぐ笊〕落米罪非輕
生男育女穢天地 血裙穢洗犯河神
點脂搽粉〔搽は塗る意〕招人眼 遭刑犯法爲佳人
若還堂上公婆好 週年半載見娘親
如若不中公婆意 娘家不得轉回程〔回程は(道を引き返すことから)里帰りの意。〕
(舅姑が怒れば急いで會釋笑ひをし、夫が怒つて罵つても口答へして〔は〕ならない。
反物を剪りそこなへば罪業となるし、米を淘いで米籠から米粒を落せば輕からぬ罪を犯したことになる。
子を生めば天地の神を穢したことになるし、經血のついた裙を洗へば河の神の怒りに觸れる。
胭脂をさし白粉をつけると人からへんな眼を向けられるし、男子が法を犯し刑に遭ふのもひとへに佳人のせゐであるとされる。
若し堂上の舅姑がよい人であれば、まだしも一年か半年目に里歸りして兩親に會へるが、
若しも舅姑の氣に入られないと、實家へ歸ることすら許されぬ。)
これらはみな直截に心坎〔みぞおち、内心・胸底〕に突き刺す、又急に棒喝を下して〔喝を入れて〕云ふ、
任你千方並百計〔任你は「どんなに~しようとも」の譲歩表現という。〕 女體原來服侍人
這是前生罪孽〔罪業〕重 今生又結孽寃〔悪因縁〕深
(たとへ如何に手段方法を盡してみたればとて、女體はもと〳〵人に仕へ侍くものである、これは前生での罪業が重かつたために、今生で又深い罪業を結んだのである。)
又説明して云ふ、「男女の別は、つひに五百劫の差を生じ、男は七寶の金身となり、女は五漏〔五つの欠損。身・家・人・物・聖の主となれない障害。〕の體となりぬ。夫に嫁せば一生その拘管を受け、百般の苦樂は夫の考へ次第なり。既に夫婦と成れば、必ず生育の苦しみあり、血水の三光(日月星)を觸犯するの罪免れ難し。」これから逃れる路は一つしかない。
若是聰明智慧女 持齋念佛早修行
女轉男身多富貴 下世重修淨土門
(若しも聰明にして智慧ある女で、精進念佛して早くから修行をなしたならば、
女も來世では男の身に轉生して富貴となり、淨土に入ることが出來るであらう。)
私がこゝに詳細に摘録したのは、それが甚だ簡要にさうした人生觀を説破し得てをり、私が卷上に題記した如く、その凄慘抑鬱なること、聽いてゐて思はず不愉快になる程であるからである。一體女子の社會上に於ける地位の低いことは人皆の知る所であり、俗諺にも人と做りて女人の身と做る莫れ、百年の苦樂他人に由る〔白楽天「太行路」〕の語がある。汪悔翁〔汪士鐸〕は淸末の奇士であって甚だ識見あり、その二人の娘は嫁に行つて何れも不幸で、長毛(長髮賊)〔太平天国の乱軍〕の時に死んだ、そのため婦女に對して特に創見を有してゐる。『乙丙日記』卷三にその「女を生むの害」一條を錄して云ふ、
「人は女を生むを憂へず、偏へに女を生むの害を受けざるに、余は女を生むを憂ひ、しかも女を生むの害を受けたり。自己は人に求むるもの、自己は人の教の下に在るものたり。女は人に依靠るもの、女は人を怕るゝものたり。」その後に又その害を説明して、
「平日婿の家にて若し女を凌虐する〔苛酷に取り扱う、窘める〕ときは、己は敢へて校はず、畢竟するに〔それは結局〕女がその家にて日を度れるを以てなり、無限の煩惱を添ふ。塔の家より言有るも敢へて校はず、女が舅姑大伯小叔妯娌〔夫の兄弟の妻たち、嫁たち〕小姑等から怒られても、己は敢へて校はず、遂に衆人の下と爲れり。」とも云つてゐる。これはたゞ「私情」に就いて云つたのであるが、若しも更に「公義」〔社会的道徳、人道〕から云ふならば、別に又害がある。
「大局を通じて籌るに、女多き故に人を生むこと多く而して禍亂を生ず。」故にその擧ぐる所の長治久安の策〔国家が長く安定するための方策〕中に次の諸項がある。
「溺女の禁を弛め、溺女の法を推し廣め、斷胎の冷藥を施し送ること。家に女二人ある者には其の賦〔課税〕を倍にすること。再嫁の律を嚴にすること。淸節堂を廣くすること。女尼寺を廣くし、童貞女院を立つること。僧道寺觀〔仏教・道教の施設〕を廣くすること、但し像は立てぬこと。三十にして娶り、二十五にして嫁すること。婦人は冷藥を服すること、一子を生んだ後之を服む。」又かうも云つてゐる、
「民間の婦女にも丁錢(人頭税)があるならば、貧しき者は女を養はずして女を溺らし、富める者にして始めて女を養ひ女を嫁せしむるならん、而して天下の貧しき者、暴力を恃む者、不才の者は皆取ることを得ず、而して人は少くなり、天下の平かなること卜すべし。〔期待できるかもしれない。〕」悔翁が人口の多いことを以て禍亂の源としてゐるのは、卓識たるに愧ぢぬ。たゞその方法は女子の少くなることを偏重し、溺女の法を廣くせよと主張せるに至つては、偏激〔偏頗で矯激〕に過ぎる、蓋し二女の事に感ずる所が有つたからであらう、女子の行くべき最良の路として二つだけ、即ち死と出家とを指摘してゐて、無意の中に女人佛教觀とピツタリ符合してゐるのは、正に極めて意義の有る事である。悔翁は又壻を擇ぶことの難しさを絮々と〔綿々と〕説いてゐるが、これは單に兒女を愛するためであるばかりでなく、彼が深く女子の心理を知つてゐたことを表はしてをり、之を愛すること切に、之を知ること深きに因つて徹底的解決を求めんと欲し、僅かにこの心に忍び理を害する所の〔自分一己の気持ちを鎮静させるが道理には悖る〕一二の下策を案出したのである。『劉香女』は佛教を以て基調となし、その點悔翁と同じくないが、その婦女に對する同情は自ら深厚である、たゞ愛するも助けやうはなく、彼女達を下へ〳〵と導くことしか出來ぬ、その態度にしても女を溺らせる父母のやうに、之を害ふは之を愛するが故に外ならぬ。吾人は前を思ひ後を想ひ、とつおいつ〔あれこれ迷いながら〕考へた後、たゞ感慨有る〔深く感情を揺り動かされること〕を覺えるのみで、未だ賛同は出來ぬが、さればとて責難することも出來ない、私の賛成できないのはたゞ寶卷中の女人穢惡の觀念だけで、これは排除せねばならぬと考へるが、この外には實際別に何等云ふべき適當な言葉もないやうに思ふ。〔容易に悟性で判断できる問題ではないから。〕
しからば上へ行くべき路が果してあるものであるか? 英詩人カーペンターは曰く、婦人問題は勞働者問題と同時に解決するであらうと。もし然りとせば中國で云ふ民生主義に外ならぬ。とはいへ、中國現時の「民生」はたゞ「勤むるに在り」( 勤勞 第一 )と解釋するだけであるから、まづ〳〵黄河が淸んでからの相談であらう〔この流れでは永遠に解決しないであろう〕、で私はこゝでは翼化堂〔劉香宝巻の出版元〕のために頼まれもせぬ提燈持ちをつとめ〔阿諛便佞するのと同じ結果になり〕、人々に一部の『劉香寶卷』と『乙丙日記』を買つて御覽になることをおすゝめするにとゞめる、ところでまた兩性問題中には危險思想が藏されてゐるといふのであるならば、迂生は敢へてそれには觸れないことにする。
廿五年〔一九三六年〕六月廿五日、北平にて