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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

劉香女(りゆうかうぢよ)

故郷を離れてから、十八年間一度も歸つたことがない、一切はきつと既(すで)に大きに變(かは)つてゐることであらう。何でも石板路(せきばんろ)〔青石で敷き詰めた石畳の旧道。白壁の家と水路をめぐる黒い小舟(烏篷船)等、紹興の景観を代表するという。〕はすべて大通りに改裝され、店の門は後(うしろ)に引込(ひつこ)まされたところが、裏門は河に臨(のぞ)んでゐて、退(しざ)りやうがなく縮(ちぢ)まるほかないため、ある店などは非常に淺い平べつたい恰好(かつかう)となり、帳場(ちやうば)のうしろに手代(てだい)が一人やつと立つてをれる餘地(よち)しか無いといふ話である。それこそどんなにかおもしろい一種の風景であらうと、ひとり想像して少々滑稽(こつけい)を感ずるが、ことによれば方々(はうばう)の軒下(のきした)に片足の取れたラヂオ器械を備へつけて、ガー〳〵ガー〳〵この世のものとも思はれぬへんな聲(こゑ)を上げさせてゐるかもしれない。だが城郭(じやうくわく)は非(ひ)なりと雖(いへど)も、人民はなほ是(ぜ)で、十年二十年はおろか、その十倍から經(た)つたればとて、そこの種々のさゝやかな悲劇や喜劇に變化(へんくわ)を與(あた)へることは恐らくむづかしからう。木下杢太郎(もくたらう)の詩集『食後の歌』に『石竹花(せきちくくわ)』なる一篇があり、民國十年〔一九二一年〕に譯出(やくしゆつ)して、『陀螺(だら)』〔一九二五年刊行の翻訳詩文集。標題は独楽の意味。〕の中に收めておいたが、その詞(ことば)にいふ、

「夕暮れがたの濱(はま)へ出て
二上(にあが)り〔三味線の調弦に、本調子・二上り・三下り等がある。〕節(ぶし)を唄(うた)へば
昔もかく〔このように〕人のうたひ候(さうらふ)と
よぼよぼの盲人(まうじん)がいうた。
さても昔も今にかはらぬ
人の心のつらさ、懷(なつか)しさ、悲しさ。
磯(いそ)の石垣(いしがき)に
うす紅(くれなゐ)の石竹(せきちく)の花が咲いた。」

近日友人の好意で、『紹興(せうこう)新聞』を送つて貰(もら)つて讀ませていたゞいてゐる。六月十二日の一枚を開いて、思はずいさゝか一驚(いつきやう)を吃(きつ)した〔びっくりした〕、といふのは一少女が井戶に身を投げた悲劇が載(の)つてゐたからである。大意(たいい)はかうである。

「城東鎭魚化橋(ちんぎよくわけう)直街(ちよくがい)〔やはり青畳の「前街後河」の伝統的な大通り。「魚が化して龍に成る」という命名の魚化橋に住む周氏は、周作人や周恩来の遠祖に当たるという。〕の陳東海(ちんとうかい)の女(むすめ)陳蓮香(ちんれんかう)(現に十八歲)は、以前城南獅子林(ししりん)の南門小學に學んでゐたが、生れつき頭がよい上に非常な勉强家であつた、しかし間もなく學校をやめて家にぶら〳〵するやうになり、暇(ひま)にまかせて『三國志』などといつた小説で無聊(ぶれう)をまぎらし、特に『劉香女(りうかうぢよ)』〔明淸の演劇に登場する女性の物語。後出「劉香宝巻」を指す。〕の一書は何度繰返しても倦(あ)きず、したがつてその思想もそのために變(かは)つた。民國二十年〔一九三一年〕に家長の意見で、もと上海(シヤンハイ)で外國銅匠(きかいしよくにん)たりし嚴某(げんなにがし)なる男と婚約をなした、蓮香はこの婚約に對して始めから不滿を表示してゐたが、嚴命(げんめい)に屈(くつ)する外(ほか)如何(どう)とも出來ず、そのために態度は益〻(ますます)消極的となり、家では常に精進看經(しやうじんかんきん)に餘念(よねん)なく、さういふ風で今まで四年になる。ところで最近壻(むこ)側では陰暦(いんれき)十月に式を擧(あ)げるに定めたと聞き、一層鬱々(うつうつ)としてゐたが、遂に十一日の午前、潜(ひそ)かに遺書(ゐしよ)一通を書き、裏庭へ行つて井戸の蓋(ふた)を開け、井戸の中へ躍(をど)り込(こ)んで自殺した。投水(とうすい)する前に自分の穿(は)いてゐた黑セルの支那靴を脫ぎ、井戶の傍(かたはら)の木の枝に載せ、遺書は靴の中に入れてあつた。その遺書に、嫁に行きたくない、禍(わざはひ)なしに濟(す)ませるために、とあるところから見れば、婚姻反對がその自殺の主因(しゆいん)であつたと思はれる。遺書の中には、今生(こんじやう)では父母の辛勞(しんらう)に報(むく)ゆることが出來なかつたから、どうか來生(らいせい)では犬馬となつて御恩報(ほう)じをしたいといふ言葉もあつたが、その遺書の原文は既にその母方の祖父任文海(じんぶんかい)が東關(とうくわん)〔街区の名〕へ持ち行き、どうしても全文を發表しようとしない云々。」

かういつた三面記事は恐らく甚だ平凡なものであらうが、なぜ私はこれを讀んで吃驚(びつくり)したらうか? 私がいさゝかと云つたのは、遠慮した云ひ方で、實は決していさゝかどころではなかつたのだ。といふのは私は四十年昔の古い事を思ひ出したからである、故郷の隣家でちやうどそのやうな少女が、結婚を拒絶し、精進看經をなし、抑鬱(よくうつ)して夭逝(えうせい)〔夭折、早死に〕したのであつたが、彼女の信仰愛讀したといふのがやはりこの『劉香寳卷(りゆうかうほうくわん)』であつた、小さい時分に宣卷(せんくわん)〔宝巻を朗誦する舞楽〕を聽いたのは、大抵この屠家(とけ)の門外で、彼女の老母がその集會の發起人(ほつきにん)であつた。この外(ほか)にも幾人かの灰色の女性を見たことがあり、その悲劇の顯晦(けんくわい)大小こそ一樣(いちやう)ではなかつたが、一樣に暗く陰鬱(いんうつ)で、みな一種の小乘(せうじやう)的佛教人生觀を抱(いだ)き、寶卷(ほうくわん)を經史(けいし)となし、尼菴(じあん)〔尼寺〕を歸宿(きしゆく)〔最後に身を寄せる場所〕となしてゐた。かうした灰色の印象は甚だ深く殘され、時光(じくわう)に掩(おほ)はれてあまり露(あら)はに出ることはなかつたけれども、こんど突然また出合(であ)ひ、數十年の時間が恍(くわう)として〔夢であるかのように〕一瞬の如く、おもはず愕然(がくぜん)として、別の意味での今昔(こんじやく)の感〔時世が変わったという感慨、隔世の感〕を抱(いだ)いたのであつた。この數十年中には甲午(かふご)( 日淸 戰役(せんえき) )戊戌(ぼじゆつ)( 變法(へんぽふ) 政變 )庚子(かうし)( 團匪(だんぴ) 事件 )辛亥(しんがい)( 民國 革命 )の諸大事(しよだいじ)があつたし、民國以來は殊(こと)に目新しい事が次々に起(おこ)り、信仰薄き者はまさか人の言葉尻(ことばじり)に喰付(くひつ)いて、天國が近づいたの、明日にも大時代〔大事変か〕が來るのと云ふことはあるまいけれども、多少とも變(かは)つたと感じて、聊(いささ)か心に慰める所があるのも、もと〳〵人情であらう、而(しか)してこの區々(くく)たる一小事(せうじ)こそはさうした樂觀(らつくわん)の虚空(こくう)〔楽天的な幻想〕を突き破る者であつたのだ。

北平(ほくへい)〔北京〕に宣卷のある話は聞かないし、寶卷も遂に得易(えやす)くない。幸(さいは)ひ識(し)りあひの或る舊(きう)書店で幾種かの寶卷を見、『劉香女』もその中にあつたので、早速(さつそく)持ち歸つた、値段(ねだん)頗る不廉(ふれん)であつた〔安くなかった〕のは、蓋(けだ)し稀(まれ)なるを以て貴(たつと)しとす〔中身は関係なく稀覯書扱い〕といふわけであらうか。書は凡そ二卷、末葉(まつえふ)に、同治(どうぢ)九年〔一八七〇年〕十一月吉日曉菴氏等(げふあんしら)敬刊(けいかん)〔謹刻〕、上海城隍廟(じやうくわうべう)内翼化堂(よくくわだう)善書(ぜんしよ)局藏板(ざうはん)、とあり、首葉(しゆえふ)に蟠龍(ばんりゆう)の位牌(ゐはい)を刻(こく)して、上に「皇圖鞏固(くわうときやうこ)、帝道遐昌(ていだうかしやう)、佛日増輝(ぶつじつぞうき)、法輪常轉(ほふりんじやうてん)」〔皇国は堅固に、政道は弥栄に、仏の慈悲の栄光は弥増しに、仏法は永遠に、という嘉言麗句。〕の四句(しく)を書(しよ)したところは普通の佛書(ぶつしよ)とよく似てゐる。全部百二十五葉(えふ)、每半葉九行十八字、都合(つがふ)三萬餘言(よげん)、行があらく字が大きく、誦讀(しようどく)に便(べん)にしてある、たゞ流通甚だ多きため、稍〻(やや)後刷(あとず)りだと字がぼやけてよく讀めない處(ところ)がある、本も大きくなく、幼い時に見たものと同じくない、表紙に辛亥(しんがい)十月と題してあることによつて、購入の年月を知り得(う)る。完全なる書名は「太華山(たいくわざん)紫金鎭(しきんちん)兩世修行(りやうせいしゆぎやう)劉香寶卷」〔太華山と紫金鎭は物語の舞台となる場所〕といひ、湘州(しやうしう)の李百倍(りひやくばい)の女(むすめ)が嫁に行くことを肯(がへ)んぜず〔頑として拒絶し〕、家で修行し、名を善果(ぜんくわ)と呼び、轉生(てんしやう)して劉香となり、精進念佛して世人を勸化(くわんげ)し、その父母劉光夫婦、夫状元(じやうげん)馬玉(ばぎよく)、第二夫人金枝(きんし)、婢(ひ)玉梅(ぎよくばい)と共にいづれも天壽(てんじゆ)を全(まつた)うして終つた後、西方(さいはう)極樂(ごくらく)世界に到り、上品(じやうほん)に生れることが出來たといふ事を叙(の)べてゐる。文體は唱(うた)と地(ぢ)の文とから成り、唱は七字句が多く、まゝ三・三・四句、俗にいふ攢十字(さんじふじ)( 三三四、集める と十字になる句 )〔攢は集める意。伝統的な歌唱の体裁。〕もある。體裁(ていさい)は大抵普通の彈詞(たんし)と同じであるが、その性質は蓋し説經(せつきやう)から出たものであつて、説く所の修行には下に列擧(れつきよ)するやうな事柄を側重(そくちよう)〔偏重〕してゐる、即ち佛法僧(ぶつぽふそう)の三寶(さんぽう)を敬重(けいちよう)し、佛像を作つて金を貼(は)り、橋や道路を補修し、僧に齋(とき)し〔食事を振る舞い〕布施(ふせ)をなし、弘(ひろ)く〔あるいは「あまねく」か。〕貧窮者(ひんきゆうしや)を救濟(きうさい)し、殺生(せつしやう)を戒(いまし)め放生(はうじやう)をなし〔捕獲した鳥獣魚類を解放し〕、精進(しやうじん)を守り、看經念佛(かんきんねんぶつ)をなし、そして淨土(じやうど)の信仰に歸結(きけつ)する。これらは本々低級なる佛教思想であるが、正にそれ故にこそ却(かへ)つて深く民間、特に一般中流以下の婦人に入(い)りこみ、彼女達の一種憐(あは)れむべき「女人(によにん)佛教人生觀」を作り上げたのである。十五年前曾(かつ)て一篇の小論文の中で云つたことがある、中國の女人に對する輕視(けいし)的な言辭は經驗を以て本(もと)としたものであるから、反證(はんしやう)さへあれば容易に改正されるのであるが、佛教や基督(キリスト)教に於(お)ける、女人を穢(けが)れた惡いものと看做(みな)す所の意見になると、宗教或は迷信を以て本としたものであるから、一層(いつそう)恐しいと。『劉香女』一卷は完全に女人を以(もつ)て對象となし、彼女達が禮教(れいけう)乃至(ないし)宗教の下(もと)に於(おい)て受くる所の一切(いつさい)の痛苦(つうく)を最もよく説破(せつぱ)してゐる、而してその解脱(げだつ)〔本文「解説」〕の方法は出家修行であるとなし、一筋(ひとすぢ)に社會主義の道を下(くだ)つてゐる。卷上に劉香の老師(らうし)の眞空尼(しんくうに)の福田菴(ふくでんあん)に於ける說法(せつぽふ)を記(しる)してゐるが、その開卷第一に次のやうな說を立てゝ云ふ、

休道男女都一樣(いうをやめよなんによはすべていちやうなりと) 誰知貴賤有差分(たれかしらんきせんにさぶんありと)

(男も女も同じものとそなたは思つてゐるでせうが、實はその間に貴賤の區別があるのです。)

先(ま)づ男子が如何(いか)に貴(たつと)いかを説(と)き、次に女子の有樣(ありさま)を説いて云ふ、

女在娘胎〔母胎〕十個月(ぢよはじやうたいにあることじつかげつなるも) 背娘〔娘はお母さんの意〕朝外〔そっぽを向く〕不相親(じやうにそむきそとにてうしてあひしたしまず)
娘若行走胎先動(じやうもしかうそうすればたいまづうごき) 娘胎落地盡嫌憎(じやうたいよりちにおつればことごとくきらひにくまる)
在娘肚裏娘受獄(じやうのとりにあればじやうごくをうけ) 出娘肚外受嫌憎(じやうのとがいにいづればけんぞうをうく)
合家老小都不喜(がふけのらうせうはすべてよろこばず) 嫌我女子累娘身(わがぢよしをきらふじやうがみをわづらはすと)
爺娘無奈將身養(やじやういかんとするなくみをもつてやしなひ) 長大之時嫁與人(ちやうだいのときにかせしめてひとにあたふ)

(女は母の胎中に十ケ月ゐるが、母親と反對に外向きになつて親しまうとせぬ。
母親が步かうとすれば胎兒(たいじ)が先づ動くし、母胎から生れ落ちるとみんなから嫌(きら)はれ憎(にく)まれる。
母胎の中にゐる時には母親に地獄の苦しみを受けさせ、母胎を出ると憎しみを受ける。
家中の者は老いも若きも皆これを好まず、われら女をば母親の身を累(わづら)はしたものと云つて嫌ふ。
父母は仕方なしに育てゝやつて、大きくなつた時には人に嫁(よめ)にくれてやるのである。)

人の許(もと)へ嫁に行つてからの生活がまた全(まつた)く辛(つら)い。甚だ簡明に一括(いつくわつ)して云ふ、

公婆發怒忙陪笑(こうばどをはつすればばいせふにいそしめ) 丈夫怒罵不回聲(ぢやうふどばせばくわいせいせざれ)
剪碎綾羅成罪孼(りやうらをせんさいせばざいげつとなり) 淘羅〔米を研ぐ笊〕落米罪非輕(たうらよりこめをおとせばつみかろきにあらず)
生男育女穢天地(せいだんいくぢよにてんちをけがし) 血裙穢洗犯河神(けつくんわいせんすればかしんををかす)
點脂搽粉(てんしたふん)〔搽は塗る意〕招人眼(じんがんをまねき) 遭刑犯法(そうけいはんぽふ)爲佳人(かじんのためにす)
若還堂上公婆好(もしまただうじやうのこうばひとよくば) 週年半載見娘親(しうねんはんさいじやうしんにまみえん)
如若不中公婆意(もしもこうばのいにあたらずんば) 娘家不得轉回程(じやうかにはうたたかいていするをえざらん)〔回程は(道を引き返すことから)里帰りの意。〕

(舅姑(きうこ)が怒(いか)れば急いで會釋(ゑしやく)笑ひをし、夫が怒つて罵(ののし)つても口答(くちごた)へして〔は〕ならない。
反物(たんもの)を剪(き)りそこなへば罪業(ざいごふ)となるし、米を淘(と)いで米籠(こめかご)から米粒を落(おと)せば輕(かろ)からぬ罪を犯したことになる。
子を生めば天地の神を穢(けが)したことになるし、經血(けいけつ)のついた裙(もすそ)を洗へば河の神の怒りに觸(ふ)れる。
胭脂(べに)をさし白粉(おしろい)をつけると人からへんな眼を向けられるし、男子が法を犯(をか)し刑に遭(あ)ふのもひとへに佳人(かじん)のせゐであるとされる。
若(も)し堂上(だうじやう)の舅姑がよい人であれば、まだしも一年か半年目に里歸(さとがへ)りして兩親に會(あ)へるが、
若しも舅姑の氣に入られないと、實家へ歸ることすら許されぬ。)

これらはみな直截(ちよくせつ)に心坎(しんかん)〔みぞおち、内心・胸底〕に突き刺す、又急に棒喝(ぼうかつ)を下(くだ)して〔喝を入れて〕云ふ、

任你千方並百計(まかすなんぢがせんぽうならびにひやつけいに)〔任你は「どんなに~しようとも」の譲歩表現という。〕  女體原來服侍人(によたいはげんらいひとにふくじす)
 這是前生罪孽〔罪業〕重(これはぜんしやうざいげつおもければ) 今生又結孽寃〔悪因縁〕深(こんじやうまたげつゑんのふかきをむすぶものなり)

(たとへ如何に手段方法を盡(つく)してみたればとて、女體はもと〳〵人に仕へ侍(かづ)くものである、これは前生(ぜんしやう)での罪業(ざいごふ)が重かつたために、今生(こんじやう)で又深い罪業を結んだのである。)

又説明して云ふ、「男女の別は、つひに五百劫(ごふ)の差を生じ、男は七寶(しつぽう)の金身(こんじん)となり、女は五漏(ごろう)〔五つの欠損。身・家・人・物・聖の主となれない障害。〕の體(たい)となりぬ。夫に嫁(か)せば一生その拘管(とりしまり)を受け、百般(ひやつぱん)の苦樂は夫の考へ次第(しだい)なり。既に夫婦と成れば、必ず生育の苦しみあり、血水の三光(日月星)を觸犯(しよくはん)するの罪免れ難(がた)し。」これから逃れる路(みち)は一つしかない。

若是聰明智慧女(もしこれそうめいちゑあるをんなの) 持齋念佛早修行(じさいねんぶつしてつとにしゆぎやうせば)
女轉男身多富貴(をんなもをとこのみにてんじてふうきおほく) 下世重修淨土門(かせいかさねてをさめんじやうどのもん)

(若しも聰明(そうめい)にして智慧(ちゑ)ある女で、精進念佛して早くから修行をなしたならば、
女も來世では男の身に轉生(てんしやう)して富貴となり、淨土に入ることが出來るであらう。)

私がこゝに詳細(しやうさい)に摘録(てきろく)したのは、それが甚だ簡要(かんえう)にさうした人生觀を説破(せつぱ)し得てをり、私が卷上(くわんじやう)に題記した如く、その凄慘(せいさん)抑鬱(よくうつ)なること、聽(き)いてゐて思はず不愉快(ふゆくわい)になる程(ほど)であるからである。一體女子の社會上(しやくわいじやう)に於ける地位の低いことは人皆の知る所であり、俗諺(ぞくげん)にも人と做(な)りて女人の身と做る莫(なか)れ、百年の苦樂他人に由(よ)る〔白楽天「太行路」〕の語がある。汪悔翁(わうくわいおう)〔汪士鐸〕は淸末の奇士(きし)であって甚だ識見あり、その二人の娘は嫁(よめ)に行つて何(いづ)れも不幸で、長毛(ちやうまう)(長髮賊(ちやうはつぞく))〔太平天国の乱軍〕の時に死んだ、そのため婦女に對して特に創見(さうけん)を有してゐる。『乙丙(いつへい)日記』卷三にその「女を生むの害」一條を錄(ろく)して云ふ、

「人は女を生むを憂(うれ)へず、偏(ひと)へに女を生むの害を受けざるに、余は女を生むを憂ひ、しかも女を生むの害を受けたり。自己(おのれ)は人に求むるもの、自己(おのれ)は人の教の下に在るものたり。女(むすめ)は人に依靠(たよ)るもの、女は人を怕(おそ)るゝものたり。」その後に又その害を説明して、

「平日婿(むこ)の家にて若(も)し女(むすめ)を凌虐(れうぎやく)する〔苛酷に取り扱う、窘める〕ときは、己(おのれ)は敢(あ)へて校(あらが)はず、畢竟(ひつきやう)するに〔それは結局〕女(むすめ)がその家にて日を度(わた)れるを以てなり、無限の煩惱(ぼんなう)を添(そ)ふ。塔の家より言(げん)有るも敢へて校はず、女が舅姑(きうこ)大伯小叔(たいはくせうしゆく)妯娌(ちくり)〔夫の兄弟の妻たち、嫁たち〕小姑(しじうと)等から怒(おこ)られても、己(おのれ)は敢へて校はず、遂に衆人の下と爲れり。」とも云つてゐる。これはたゞ「私情」に就(つ)いて云つたのであるが、若(も)しも更に「公義(こうぎ)」〔社会的道徳、人道〕から云ふならば、別に又害がある。

「大局(たいきよく)を通じて籌(はか)るに、女多き故に人を生むこと多く而(しか)して禍亂(くわらん)を生ず。」故にその擧(あ)ぐる所の長治久安(ちやうぢきうあん)の策(さく)〔国家が長く安定するための方策〕中に次の諸項がある。

「溺女(できぢよ)の禁を弛(ゆる)め、溺女の法を推(お)し廣(ひろ)め、斷胎(だんたい)の冷藥を施(ほどこ)し送ること。家に女(むすめ)二人ある者には其の賦(ふ)〔課税〕を倍にすること。再嫁(さいか)の律(りつ)を嚴(げん)にすること。淸節堂(せいせつだう)を廣(ひろ)くすること。女尼寺を廣くし、童貞女(だうていぢよ)院を立つること。僧道寺觀(そうだうじくわん)〔仏教・道教の施設〕を廣くすること、但し像は立てぬこと。三十にして娶(めと)り、二十五にして嫁(か)すること。婦人は冷藥を服すること、一子を生んだ後之を服(の)む。」又かうも云つてゐる、

「民間の婦女にも丁錢(ていせん)(人頭税(じんとうぜい))があるならば、貧しき者は女(むすめ)を養はずして女を溺(おぼ)らし、富める者にして始めて女を養ひ女を嫁(か)せしむるならん、而して天下の貧しき者、暴力を恃(たの)む者、不才の者は皆取(めと)ることを得ず、而して人は少くなり、天下の平(たひら)かなること卜(ぼく)すべし。〔期待できるかもしれない。〕」悔翁が人口の多いことを以て禍亂の源(みなもと)としてゐるのは、卓識(たくしき)たるに愧(は)ぢぬ。たゞその方法は女子の少くなることを偏重(へんちやう)し、溺女の法を廣くせよと主張せるに至つては、偏激(へんげき)〔偏頗で矯激〕に過ぎる、蓋し二女の事に感ずる所が有つたからであらう、女子の行くべき最良の路(みち)として二つだけ、即ち死と出家とを指摘してゐて、無意の中に女人佛教觀とピツタリ符合(ふがふ)してゐるのは、正(まさ)に極めて意義の有る事である。悔翁は又壻(むこ)を擇(えら)ぶことの難(むつか)しさを絮々(じょじょ)と〔綿々と〕説(と)いてゐるが、これは單に兒女を愛するためであるばかりでなく、彼が深く女子の心理を知つてゐたことを表はしてをり、之を愛すること切(せつ)に、之を知ること深きに因(よ)つて徹底的(てつていてき)解決を求めんと欲(ほつ)し、僅(わづ)かにこの心に忍(しの)び理を害する所の〔自分一己の気持ちを鎮静させるが道理には悖る〕一二の下策(げさく)を案出(あんしゆつ)したのである。『劉香女』は佛教を以て基調となし、その點(てん)悔翁と同じくないが、その婦女に對する同情は自(おのづか)ら深厚(しんこう)である、たゞ愛するも助けやうはなく、彼女達を下へ〳〵と導くことしか出來ぬ、その態度にしても女を溺らせる父母のやうに、之を害(そこな)ふは之を愛するが故(ゆゑ)に外ならぬ。吾人(ごじん)は前を思ひ後を想ひ、とつおいつ〔あれこれ迷いながら〕考へた後、たゞ感慨(かんがい)有る〔深く感情を揺り動かされること〕を覺えるのみで、未だ賛同は出來ぬが、さればとて責難(せきなん)することも出來ない、私の賛成できないのはたゞ寶卷中の女人穢惡(によにんわいあく)の觀念だけで、これは排除(はいぢよ)せねばならぬと考へるが、この外には實際別に何等(なんら)云ふべき適當(てきたう)な言葉もないやうに思ふ。〔容易に悟性で判断できる問題ではないから。〕

しからば上へ行くべき路(みち)が果(はた)してあるものであるか? 英詩人カーペンターは曰く、婦人問題は勞働者問題と同時に解決するであらうと。もし然(しか)りとせば中國で云ふ民生(みんせい)主義に外(ほか)ならぬ。とはいへ、中國現時の「民生」はたゞ「勤(つと)むるに在り」( 勤勞 第一 )と解釋するだけであるから、まづ〳〵黄河(くわうが)が淸(す)んでからの相談であらう〔この流れでは永遠に解決しないであろう〕、で私はこゝでは翼化堂〔劉香宝巻の出版元〕のために頼まれもせぬ提燈(ちやうちん)持ちをつとめ〔阿諛便佞するのと同じ結果になり〕、人々に一部の『劉香寶卷』と『乙丙日記』を買つて御覽になることをおすゝめするにとゞめる、ところでまた兩性(りやうせい)問題中には危險(きけん)思想が藏(ざう)されてゐるといふのであるならば、迂生(うせい)は敢(あ)へてそれには觸(ふ)れないことにする。

廿五年〔一九三六年〕六月廿五日、北平にて

*城郭は非なりと雖も云々——丁令威(ていれいゐ)〔伝説中の人物〕は漢の遼東(りやうとう)の人、靈虚(れいきよ)山に道を學び、のち鶴に化(くわ)して郷里に歸り、城の鳥居(とりゐ)〔華表。街の入口の門標。〕にとまつてゐると、町の若者が弓で射ようとしたので、「有鳥有鳥丁令威(とりありとりありていれいゐ)、去家千年今始歸(いへをさることせんねんいまはじめてかへる)、城郭如故人民非(じやうくわくはもとのごときもじんみんはひなり)、何不學仙塚纍纍(なんぞせんをまなばざらんつかるゐるゐ)。」と咏(えい)じて飛び去つた。〔捜神後記〕
*宣卷——説經(せつきやう)祭文(さいもん)〔祭文語り〕の類(たぐひ)である。それを冊子(さつし)にしたのが「寶卷(ほうくわん)」である。
*状元——科擧(かきよ)時代の最高の名譽(めいよ)たる殿試(でんし)一等で及第(きふだい)して進士(しんし)になつた人をいふ。
*彈詞——琵琶歌(びわうた)の類である。專(もつぱ)ら南方に行はれてゐる。〔講談様の弾き語りで、書場(寄席)・茶館・邸宅等で上演された。〕
*溺女——女の嬰兒(えいじ)を溺殺する一種の間引(まびき)。多く南方に見られる習俗で、從來法律は之を禁じてゐる。
*淸節堂——夫死して再嫁(さいか)せず、生活に困つてゐる節婦(せつぷ)を保護收容する施設。