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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

談鬼論(だんきろん)

三年前、私は偶然打油(ターユ)詩二首を書いたが、その一聯(いちれん)に、「街頭に終日談鬼(だんき)を聽き、窗下(さうか)に通年畫蛇(ぐわだ)を學ぶ」といふのがあつた。ある眞面目(まじめ)な友人たちは之を見てやんやと騷(さは)ぎたて、今日只今(こんにちただいま)命令を奉(ほう)じてお先拂(さきばら)ひをやらずに鬼の故事(こじ)なんぞを談(かた)るとは、てつきり沒落(ぼつらく)の尤(いう)なるもの〔最たるもの〕ではないかと云つた。その言(げん)はなるほど幾分(いくぶん)の道理を含んでゐるやうでもある、しかし當(あた)つてゐるとも云へない。蓋(けだ)し詩といふものは口供書(こうきようしよ)〔供述書〕ではない、しかも私の詩は殊(こと)に打油詩なのだ、滑稽(こつけい)の言は、單純な頭腦(づなう)で解釋を求めることは出來ないのである。こゝに云ふ鬼(き)とは鬼話(きわ)(虚言(きよげん))でないと誰(たれ)が知らう、蛇とはことによれば蛇足(だそく)(餘計(よけい)なもの)であるかも知れず、さうも解(かい)すれば解せられる、若(も)しも一々文字の通りに云つたとすれば、一日十二時間十字街頭(じふじぐわいとう)に立つて『聊齋(れうさい)』を聽(き)き、一年三百六十五日南窗(なんさう)の下(もと)に坐(すわ)つて『十七帖(じふしちでふ)』を臨書(りんしよ)してゐるといふわけになり、さうした解釋は姚首源(えうしゆげん)〔清・姚際恒〕に評(ひやう)させたらてつきり癡叔(ちしゆく)と云はれるのは免(まぬか)れぬところであらう。『東坡事類(とうばじるゐ)』〔清・梁廷枬(りやうていなん)、号藤花亭主人〕卷十三神鬼類に『癸辛雜志(きしんざつし)』〔癸辛雑識とも。南宋・周密〕序(じよ)を引いて云ふ、

「坡翁(はおう)(蘇東坡(そとうば))は客(かく)の談を喜び、その能(あた)はざる者には之に强(し)ひて鬼を說(かた)らしめ、有ること無しと辭(じ)するものあるときは、姑(しばら)く妄(みだ)りに之を言へと云はれぬ。聞く者絶倒(ぜつたう)す。」説(と)く者はこれを以(もつ)て東坡が晩年に時事(じじ)を聞くを厭(いと)ひ、人に強ひて鬼の話をさせ、鬼を以て自(みづか)らを晦(くら)ましたのだといふ。東坡のこの逸話(いつわ)は甚だ面白いが、果して鬼を以て自らを晦ましたかどうかはちよつと斷定(だんてい)し難(がた)いと思ふ、しかし私に決してそんな氣持の無かつたことは自分に最もよくわかつてゐることだ。打油詩に云つてゐることは必ずしもそのまゝ東坡の客の云つてゐることではないけれども、また私は必ずしも東坡のやうに時事を聞くことを厭(いと)うてゐるわけでもないけれども、かりに鬼の話を人がやるのを聽くのは好きか嫌ひかと訊(たづ)ねられたら、私は好きだと答へるであらう。私の惡口(あつこう)をつきたい人は今からつくがよい、今こそ私はきつぱりと云つたのだから。以前に打油詩に關(くわん)してかれこれと云はれたことは本氣(ほんき)で云つたのか嘘(うそ)なのか詩の句の意味をよくわかつてゐなかつた筈(はづ)なのだから。

とは云つたものの、私も實は鬼と別段何等(なんら)かの情誼(じやうぎ)があるわけでもないのである。遼陽(りやうやう)の劉靑園(りゆうせいゑん)の著『常談(じやうだん)』卷一の中に次のやうな一則がある、

「鬼神の奇蹟(きせき)は匹夫匹婦(ひつぷひつぷ)が之を云ひて鑿鑿(さくさく)たるのみならず、士紳(ししん)も亦(また)常に之に及べり。たゞ余が風塵(ふうぢん)の斯世(このよ)に未(いま)だ一見すること能(あた)はざるは、殊(こと)に解すべからず。或は惡を爲(な)すの才(さい)足らざるが故に鬼物の侵陵(しんりよう)すること無きにや、善を爲すの徳(とく)足らざるが故に神靈の呵護(かご)〔愛護、加護〕無きにや。平庸坦率(へいようたんそつ)、短長する所無く、眼界固(もと)より宜(よろ)しく此の如(ごと)かる〔如くなる〕べし。」金谿(きんけい)〔地名〕の李登齋(りとうさい)〔清代〕の著『常談叢録(じやうだんそうろく)』卷六に「性(うまれつき)、鬼を見ず」なる一則あり、

「予は生平(せいへい)未だ嘗(かつ)て鬼の形を見ず、また未だ嘗て鬼の聲(こゑ)を聞かず、殆ど氣稟(きひん)の陰(いん)に近からざるならんか。おもへば少(わか)き時族人(ぞくじん)某(なにがし)と偕(とも)に鵝塘(がたう)なる楊甥(ようせい)の家祠堂(かしだう)内に、兩室相對して宿(やど)りしが、晨(あさ)起きて某蹙然(しゆくぜん)として〔怯えて落ち着かない様子で〕、昨夜鬼が嗚嗚(うう)と叫(な)きて已(や)まず、聲長くして亮(あきら)かに、甚だ畏(おそろ)しかりしと云ふ。そは夜行(やぎやう)する者の戲(たはむ)れに呼嘯(こせう)せしならんと予が云へば、某は、少しく人の聲に似ず、寒夜深更(しんかう)に奔走(ほんそう)するは正に苦しからんにいかであのごとく歡娯(くわんご)する者あるべしや、必ず鬼なりと云ふ。予は終(つひ)に信ぜざりき。數日を越えて予が甥(おい)の楊集益(やうしふえき)秀才(しうさい)〔秀才(生員)は科挙の童試合格者〕夫婦は共に暴(にはか)病(やまひ)にて相繼(あひつ)いで歿(ぼつ)しぬ、是(これ)れ某(なにがし)が聞きしは果して世に傳(つた)ふる所の勾攝(こうせふ)〔拘束・連行すること〕の走無常(さうむじやう)なりしならんか。然(しか)れども予は某と室(へや)こそ隔てたれ〔部屋は離れていても〕同じ堂に宿り、ついぞ聞かざりしなり。郡城内の廣壽寺(くわうじゆじ)の前左に大宅あり、李玉漁(りぎよくぎよ)の庶子(しよし)傳熊(でんゆう)が故居(こきよ)なり、その中(うち)に鬼(き)多しと傳(つた)へしが、予嘗て此(ここ)に館寓(くわんぐう)せしに絶えて聞見(ぶんけん)する所無かりき。一日(いちじつ)、李拔生(りばつせい)太學(たいがく)〔国子監に学ぶ者を古称の太学をつけて呼んだ。〕、客と偕(とも)に來(きた)りて東房(とうばう)に同宿せられしが、晨(あさ)起きて、夜中鬼の叫(な)くこと鴨(かも)の如くなるを聞けり、聲は壁の後に在りて呀呻(ぎやあ〳〵)と云ひて已(や)まざりしと云ふ。客も、中夜(ちゆうや)拔生から足で蹴(け)られて目を醒(さ)まし、之を聽くに果(はた)して聲あり、被(ふとん)を擁(よう)して起坐(きざ)し、靜かに之を察(さつ)するに、蟲(むし)に非(あら)ず、鳥に非ず、確かに鬼の鳴きごゑなりしと合槌(あひづち)をうちぬ〔賛同した〕。然れども予もまた之と室(へや)こそ隔てたれ同じ堂に宿りながら、竟(つひ)に寂然(せきぜん)として聞かず、之を生徒六七人に詢(ただ)せるに、悉(ことごと)く聞きし者なし、是(ここ)をもつて亦(また)深くは信ぜず。拔生因(よ)りて往歲(わうさい)曾(かつ)て訟事(せふじ)〔訴訟、もめ事〕にて此(こゝ)に寓(ぐう)すること半年、常に交夜(かうや)に至れば〔一晩おきに。ただし後に「夕として有らざるは無く」とあるので、毎晩か。あるいは深更にの意か。〕後堂に啼叫(ていけう)の聲あり、或は人の行步(かうほ)の聲、器物門壁の震(ふる)へ響く聲の如く、夕(ゆふべ)として有らざるは無く、甚だしきは狂恣猖披(きやうししやうひ)〔気違いじみた荒れ狂いようで〕幾(ほとん)ど云ひ難き状(さま)さへありしよしを述べられたり。然れども予は此に居(を)ること兩載(りやうさい)〔二年〕なるに、遂に聞見すること無し、且(か)つ連年夏中は倶(とも)に病甚だしく、恆(つね)に安寐(やすい)せす、宵(よひ)深くなれば常に強(し)ひて臥堂(ぐわだう)中の炕座(かうざ)〔寝台〕の上を出で、廣庭(ひろには)の月色の將(まさ)に盡(ことごと)く簷際(のきぎは)に昇らんとするを視てやうやく復(また)室に歸りしが、その時旁(かたは)らに一人だに無く、亦竟(つひ)に毫(がう)も影響無かりき。諸小説家が稱(とな)ふる所の鬼物の同時同地と雖(いへど)も聞見各〻異(ことな)る者甚だ多きは、異る所以(ゆゑん)の者あるにあらざるか〔それぞれ見聞が異なる理由があってのことではなかろうか〕。予の強頑(きやうぐわん)なる、或は鬼も亦(また)耳目(じもく)に接するを欲(ほつ)せざるにや。陰に近からざるの説はなほ未だ必ずしも的然(てきぜん)〔明白〕ならざるべし。」李の書には道光二十八年〔一八四八年〕の序あり、劉の書は道光十八年〔一八三八年〕の事を記してゐるから、時代は蓋(けだ)し相同じく、書名が又いづれも常談と稱(しよう)してをり、その鬼を見ざる性格もよく似てゐるのは、巧合(かうがふ)〔偶然の一致〕と謂(い)ふべきである。私の生れ方は晩(おそ)く、劉・李二君に晩(おく)れること先(ま)づ百年ぐらゐであらうか、しかも天性愚拙(ぐせつ)であるにかゝはらず、わが眼で鬼を見ることが出來ないばかりに、驥尾(きび)に附(ふ)して鼎足(ていそく)と成ることが出來る〔三人合わせて(真実性を)支えるものとなりえた〕のは、まことに光榮(くわうえい)の至(いた)りである。小さい時分『聊齋志異(れうさいしい)』等の怪談本を讀み、特に『夜談隨録(やだんずゐろく)』の影響は最も大きく、その後あたまの中に永遠に一塊(いつくわい)の恐怖の黒影を殘したのであるが、私は神滅論(しんめつろん)を信ずるものであつて、鬼の尊容(そんよう)やその玉音(ぎよくおん)〔お姿やお声〕を伺(うかが)つたこともなく、そのため鬼は私にとつて全然縁(えん)がないと云つてよいのだ。——何でも十王殿(じふわうでん)には「你也來了!」(お前も來たか)と書いた匾額(へんがく)があるさうだが、これは思ふにかの惡を怙(たの)んで悛(あらた)めぬ人に對して云つたものであらう。紀曉嵐(きげうらん)の著『灤陽消夏錄(らんやうせうかろく)』〔閲微草堂筆記の内〕卷四に次のやうな一條がある、

「邊隨園(へんずゐゑん)徵君(ちようくん)(徵君は徵士(ちようし)の尊稱(そんしよう))〔清代に高官の推薦で科挙の博学宏詞科を受けた人士。仕官の有無は問わない。特に前半期に多かった。〕の云はれけるは、冥(めい)に入(い)りし者あり、ひとりの老儒(らうじゆ)が廡下(ぶか)に立てるを見るに、甚だ惶遽(あわて)たる樣子なり。その故人(とも)と覺(おぼ)しき一冥吏(めいり)が揖(いう)して〔お辞儀して〕之と寒溫(あいさつ)畢(をは)り、拱手(きようしゆ)して之に對して笑ひながら、先生は平日無鬼論(むきろん)を持(ぢ)せられしが、知らず先生は今日果(はた)して何物ぞと云ふ。諸鬼みな粲然(さゞめき)笑へば、老儒は蝟(はりねずみ)のごとく縮(ちぢ)まりをるのみなりき。」『閲微草堂(えつびさうだう)筆記』にはよく何かにつけては老儒や道學(だうがく)先生を嘲笑(てうせう)してゐて、甚だ愉快(ゆくわい)であるが、これもその一例である、たゞ程朱(ていしゆ)〔朱子学派〕を喜ばぬといふだけのために無鬼論をも併(あは)せ惡(にく)むのは筋(すぢ)の通(とほ)らぬ話であるが、迂生(うせい)にとつては別段關係もないことである、蓋し迂生は老儒の比(ひ)に非(あら)ず、たとへ死後も決して鬼に變(へん)ずることはあり得ない者なのだから。

かく云へば、私が鬼と何等の情誼(じやうぎ)もないことは甚だ明らかになつたわけで、そんならきつぱりと手を切つて鳧(けり)をつけてしまつてもよささうなものである。ところが情誼はないのだが、興味は大いにあるのである、だから鬼を信じないとしてもなほ鬼の話を好む分には差支(さしつか)へなからう、これは不合理な事ではあるまいと私は思つてゐる。私は鬼の故事に對して二つの立場の違つた愛好を有する。一つは文藝的、一つは歷史的である。前者について、私の要求するものは一篇の立派な故事であつて、筋は別段新奇でなくともかまはぬ、結構(けつこう)〔構成、筋立て〕もそれほど複雜でなくともよい、しかし文章だけは好(よ)くて、簡潔で力強い書き方でなければならぬ。その内容は實は決して鬼のみに限らず、宇宙から蠅(はへ)に至るまで何であつてもかまはぬ、そして鬼も自然その一つであるわけである。その體裁(ていさい)は、私は志怪(しくわい)の方が傳奇(でんき)よりも佳(よ)いと思ふ、例を擧(あ)げて云ふならば、『聊齋志異』の長篇(ちやうへん)を取るよりは『閱微草堂筆記』の小文(せうぶん)の方がまだよい、たゞ惜しいことにこの中にも入選(にふせん)できるやうな文章は絶えて〔極めて〕少い、といふのがその中に若(も)しも世道人心をどうかうといふ考へがあれば、私にとつて紅勒帛(こうろくはく)〔朱筆による添削・抹消。北宋の欧陽脩が受験生の悪文を士人の赤い帛帯のごとく朱筆で大きく塗抹した故事から。〕に値(あた)ひする一大瑕疵(かし)となるからである。四十年前に段柯古(だんかこ)〔唐・段成式〕の『酉陽雜爼(いうやうざつそ)』を讀み、心に甚だ之を喜び、今に至つて變らぬ、段君はまことに三十六の一たるに愧(は)ぢず、その手に成(な)つた散文は大抵讀める。『諾皐記(だくこうき)』〔段成式〕卷中に次のやうな一則がある、

「臨川(りんせん)郡南城縣令(けんれい)戴詧(たいさつ)は初め宅(やしき)を館娃坊(くわんあいばう)に買ひ、暇日(かじつ)〔非番の日〕弟と廳中(ちやうちゆう)に閒坐(かんざ)せしに、忽(たちま)ち婦人の聚(あつま)り笑ふ聲の或は近く或は遠きを聽きて、こは頗る異(あや)しとおもふうち、笑聲は漸(やうや)く近くなりて、忽(たちま)ち婦人數十、廳の前に散在せるを見しが、倏忽(たちまち)にして見えずなりぬ。是(かく)の如(ごと)きこと累日(るいじつ)、詧は爲(な)す所を知らず。廳の階前(かいぜん)なる梨(なし)の枯樹(こじゆ)は合抱(がふほう)の大木(たいぼく)なりければ、祥(いたづら)をなすはこれならんと意(おも)ひて之を伐(き)りたるに、根の下に塊(つちくれ)の如き石露(あら)はれたり、之を掘るに轉(かへ)つて闊(ひろ)く、その勢𨫼(なべ)のごとき形なり、乃(すなは)ち〔そこで〕火の上に醘(す)(醋)を沃(そそ)ぎ、深さ五六尺(しやく)まで鑿(ほ)りしも透(とほ)らず。忽(たちま)ち婦人の坑(あな)を繞(めぐ)りて掌(てのひら)を抵(う)つて大いに笑へるを見、頃(しばらく)ありて共に詧を牽(ひ)きて坑に入り、石の上に投げたり、一家驚懼(きやうく)せる際(さい)婦人はなほまた大いに笑ひ、詧もまた隨(したが)つて出(い)でぬ。詧の出づるや、同時に又その弟が見えずなりければ、家人慟哭(どうこく)せしに、詧は獨(ひと)り哭(な)かず、彼も亦甚だ快活(たのし)からん、何ゆゑに哭(な)かんやと云ひて、死に至るまで肯(あへ)てその情狀(こと)を云(い)はざりき。」このほか擧人(きよじん)〔科挙の鄕試の合格者〕孟不疑(まうふぎ)、獨狐叔牙(どつこしゆくが)、虞侯景乙(ぐこうけいいつ)、宣平坊(せんへいばう)の油賣(う)り等の各條(かくでう)も、それ〴〵みな意趣(いしゆ)饒(ゆた)かである。蓋(けだ)し古人の志怪(しくわい)はたゞこれを以て目的となせるに反し、後人(こうじん)はこれを以て手段としてをり、優劣の分(わか)れ目はつまりそこにあるのであつて、いかに文詞(ぶんし)が美しく、叙述は曲折(きよくせつ)に富み、勉(つと)めて時世好(じせいごの)みの小説の面目(めんもく)は裝(よそほ)つたとしても、無益(むえき)である。とはいへ、宗旨(しうし)や信仰(しんかう)も實(じつ)は古人にとつては別に邪魔(じやま)にはならないと見えて、たとへば佛典(ぶつてん)の中には好もしい故事の短文に乏(とぼ)しくない、最近梁(りやう)の寶唱(ほうしやう)和尙(くわしやう)の編(へん)した『經律異相(きやうりついさう)』五十卷を讀み、常にさう思つたのであるが、後世の作者は氣度淺陋(せんろう)にして、とても追(お)つつかぬ〔とうてい及ばない〕、たゞ面目の憎むべきにより、その云ふ言葉まで味はひが無くなつてしまふのであらう、さもなければ單に文字だけから云へば、これら士大夫(したいふ)にしても綽々(しやくしやく)として餘裕(よゆう)があるのではなからうか。

第二の歴史的といふのは、更に明瞭(めいりやう)に云へばつまり民俗學(みんぞくがく)上の興味である。この點(てん)に關しては私は曾(かつ)て幾度か觸(ふ)れたことがあり、『河水鬼(かすいき)』『鬼の生長』『說鬼』等の諸文(しよぶん)の中で、それぞれ多少それに觸(ふ)れたことがある。『鬼の生長』の中にかう云つてゐる、

「私は鬼を信じない、しかるに鬼の事を知るのを喜ぶ、これは一大矛盾である。とはいへ、私は人が死んで鬼になることは信ぜぬが、鬼の後(うしろ)に人のあることは信じてゐる。二氣(にき)の良能(りやうなう)〔鬼神は陰陽の二気の離合集散の本来機能の現れであるという朱熹の議論を指す。〕とはどんなものであるか私にはわからぬが、鬼は生きてゐる人の喜懼(きく)願望の投影(とうえい)であることは必ずや謬(あやま)りでなからう。陶公(たうこう)(淵明(えんめい))は千古曠達(せんこくわうたつ)の人〔古今未曾有の闊達炯眼の人士〕である。その『歸園田居(ゑんでんのきよにかへる)』に「人生は幻化(げんくわ)に似たり、終(つひ)に當(まさ)に空無に歸(き)すべし、」と云ひ、『神釋(しんしやく)』に「應(まさ)に盡(つ)くべくんば便(すなは)ち須(すべから)く盡くべし、復(また)更に多慮(たりよ)する無かれ、」と云つてゐるが、『擬輓歌辭(ばんかにぎするじ)』の中には、『語らんと欲(ほつ)するに口に音無く、視(み)んと欲するに眼に光無し、昔は高堂(かうだう)に寢(い)ね、今は荒草(くわうさう)の郷(きやう)に宿(しゆく)す、」と云つてゐる。陶公が生死に對してなほ未練(みれん)を懷(いだ)いてゐたであらうか、彼がこのやうに云つてゐるのは文辭上(ぶんじじやう)から見てもまことに情致(じやうち)があるが、生前の感覺を以て死後の況味(きやうみ)〔境地、趣〕を推想(すいさう)するのも、まさしく人情の常(つね)であり、自然に出づる者なのである。〔前出「二気の良能」を承ける。〕常人(じやうじん)〔(別段曠逹でもない)普通の人間〕は更に生存に執着(しふちやく)し、自己及び自分に親しい人が翳然(えいぜん)として〔ひっそりと姿を消す貌〕滅ぶことに對して信ずることが出來ず、またその滅ぶことを信ずるを願はぬ、そのため種々の幻想(げんさう)をつくりあげて、必ず存在を續(つづ)けてゐるのだと考へる。その存在の狀況は人民地方乃至(ないし)各自の好惡(かうお)に因(よ)つて多少異(ことな)るも、作爲(さくい)する所なくして自然に流露(りうろ)してゐるから、われわれが鬼の話を人がするのを聽くのは實はとりもなほさずその心をぶちまけて談(かた)るのを聽くに等しい。」(廿三年〔一九三四年〕四月)これは『望杏樓志痛編補(ばうきやうろうしつうへんぽ)』を讀んで書いたため、親しい人に就(つ)いて論じたのであり、原始的な鬼の思想の起原は勿論全部が全部さうなのではない、蓋し恐怖に由(よ)る者が多く情意(じやうい)に由る者は少いのである。又『説鬼(せつき)』(廿四年〔一九三五年〕十一月)の中にかう云つておいた、

「われわれが鬼の樣子や生活について知るのを喜び、文獻(ぶんけん)から風俗(ふうぞく)上の各方面から蒐集(しうしふ)してゐるのは、平常知り易(やす)からぬ人情がそれによつて多少とも了解(れうかい)されるためである、換言(くわんげん)すればつまり鬼の中にゐる人を知るためである。ひるがへつて云ふならば、人の間にゐる鬼怪の伎倆(ぎりやう)も注意に値(あた)ひするのは、人の中にゐる鬼を認識(にんしき)することが出來るためであらう。私の打油詩に、「街頭に終日談鬼を聽く」とあつたので、志士(しし)からさん〴〵お叱(しか)りを蒙(かうむ)つたが、私は全然かまはなかつた、あの鬼はひどく面白いものに思はれて、どうしても談(かた)らずには居(ゐ)られないからだ、尤(もつと)も詩中に談るといつたのはどの一種であるか、今こゝで云ふにも及ぶまい。しかし上に云つたのは明らかに古暖簾(ふるのれん)の鬼〔伝統的な幽鬼〕であつて、その研究は民俗學の範圍(はんゐ)に屬(ぞく)する、冗談(じやうだん)に云ふわけではないが、かりに『死後の生活』の研究をやらうと決心する人があつたとすれば、實に學術界破天荒(はてんくわう)〔前代未聞、前人未到〕の事業であつて、甚だ賞讚(しやうさん)に値(あた)ひすることだと思ふ。英國のフレーザー博士(J. G. Frazer)に專(もつぱ)ら各民族の死者に對する恐怖を述べた大部の著〔不死の信仰と死者崇拝〕があるが、いま若(も)し中國のみに範圍を限り、鬼の生活について詳細に描寫(べうしや)したならば、極めて浩繁(こうはん)な困難な什事で、博士の學位(がくゐ)論文に相當(さうたう)するであらうが、また極めて趣味と實益(じつえき)をも兼(か)ね有するであらう、蓋(けだ)しかゝる處(ところ)にこそ反つて中國民族の眞心實意(まごころじつい)が見られるのであつて、固有(こいう)道徳が如何(いか)に好(よ)いものかなどと徒(いたづ)らに口で叫(さけ)ぶよりもずつと憑信(ひようしん)できるからである。」かういふ風に見るならば、凡(およ)そ一切(いつさい)の鬼に關するものは好(よ)き資料でないものはなく、さきに面目憎むべく云ふ言葉まで味がないと云つて罵(ののし)られた連中さへも悉(ことごと)くその内に含まれるのであつて、別に優れた取るべき處がなくても、その話をする人の心思(しんし)は畢(ことごと)くそこに露(あら)はれ、いはゆるその肺肝(はいかん)を見るが如(ごと)しであるのだ。この事は當然專門的な整理を必要とするわけであるが、われわれわ素人(しろうと)が好事(すき)にまかせて渉獵(せうれふ)し、何か小さな事項少い材料について參證(さんしやう)を加へ、多少の異同(いどう)を見るのも、また興味のある事である。眼にて能(よ)く鬼を見る人の云ふところによれば、愈少軒(ゆせうけん)〔清・俞鳳翰〕の『高辛硯齋雜著(かうしんけんさいざつちよ)』第五則に云ふ、

「黃鐵如(くわうてつじよ)〔清・黃楷〕は名は楷(かい)、文を能(よ)くし、善く鬼を視(み)、並びに鬼の事を知る。その云ふ所に據れば、人の家に至る每(ごと)に、その鬼を見るに、もし香灰色(はいいろ)ならば平安無事なり、もし將(まさ)に落ちぶれんとする家なるときは、鬼は多く淡黄色(たんくわうしよく)なりとぞ。又云ふ、鬼の長(たけ)は二尺餘(よ)に過ぎず、もし鬼能く善を修(おさ)むるときは、日に長くなり、人と等しかるべきも、淫厲(たゝり)を爲すことあれば、漸(やうや)く短く漸く滅(き)え、僅(わづ)かに二眼を存して地上に旋轉(せんてん)する者あるに至ると。また奇なり。」王小穀(わうせうこく)〔清・王端履〕の『重論文齋(ぢゆうろんぶんさい)筆錄』卷二中に次のやうな數則(すうそく)がある、

「曾(かつ)て族兄(ぞくけい)樸存(ぼくそん)(淳(じゆん))の云ひけるが、(兄は眼に能(よ)く鬼を見、凡そ黑夜(やみよ)の往來にも倶(つね)に燈(あかり)を用(もち)ひざりし。)凡そ鬼はみな牆壁(しやうへき)に依附(いふ)して行き〔壁づたいに進み〕、空(くう)を破ること能(あた)はず、疫鬼(えきき)も亦然り、常に牆壁に遇(あ)へば必ず蚓(みゝず)の如く却行(きやくかう)して後能(よ)く入(い)る。常鬼(じやうき)は一團(いちだん)の黑氣(こくき)の如(ごと)く、面目を辨(べん)ぜず〔顔立ちが分からない〕、その面目ありて能く空を破る者は厲鬼(れいき)〔祟り神、怨霊〕なれば、須(すべから)く急ぎ之を避くべし。」

「兄は又云ふ、鬼は最も風を畏(おそ)る、風に遇へば牢(かた)く草木を握り蹲伏(うつぶ)して敢(あ)へて動かず。」

「兄は又云ふ、『左傳』に故鬼は小さく新鬼は大なりと云へり、その説確かに易(か)ふべからず、溺死(できし)の鬼に至つては新鬼小さく故鬼大なり、その鬼はまた能(よ)く岸(をか)に登る、逼(ちかよ)りて之を視れげ煙雲の如く消滅する者は、これ新鬼なり。故鬼の形は槁木(かれき)の如く、人を見るときは水中に躍(をど)り入り、水は聲あるのみにて散ぜず、故に圓暈(ゑんうん)〔波紋〕なし。」紀曉嵐(きげうらん)の「灤陽消夏錄(らんやうせうかろく)」卷二に云ふ、

「揚州(やうしう)の羅兩峯(らりやうほう)は目に能く鬼を視る人なるが、その人の曰く、凡そ人ある處にはみな鬼あり。その横亡(わうばう)〔横死〕の厲鬼にして多年沈滯(ちんたい)せる者は率(おほむ)ね幽房空宅(いうばうくうたく)の中(うち)に在り、是(これ)は近づくべからず、近づくときは害を爲す。その憧憧(ふらふら)として往來せる鬼は、陽(やう)の盛んなる午前には多く牆陰(しやういん)に在り、陰(いん)の盛んなる午後には四散游行(しさんゆぎやう)し、壁を穿(うが)つて過(とほ)るべし、門戸(もんこ)に由(よ)らず〔家柄に関係なく〕、人に遇ふときは路を避く、陽氣を畏(おそ)るればなり、是(これ)は隨處(ずゐしよ)に之ありて、害を爲さず。又曰く、鬼の聚集(しうしふ)する所は恆(つね)に人烟(じんえん)の密簇(みつそう)せる處に在り、僻地曠野(へきちくわうや)に見ることは殊(はなは)だ希(まれ)なり。喜んで厨灶(ちゆうさう)〔灶は竃〕を圍繞(ゐねう)するは、食氣(しよくき)に近づかんと欲(ほつ)するに似たり、又溷厠(かはや)〔便所、トイレ〕に入るを喜ぶは、その故(ゆゑ)を明らかにせず、或は人跡(じんせき)の到ること罕(まれ)なるを取れるにや。」羅兩峯は袁子才(ゑんしさい)(袁枚(ゑんばい)、隨園(ずゐゑん)と號(がう)す、清の文人)の門人であるから、隨園の著作中にはその能く鬼を見たといふ話に渉(わた)つたものが必ずあることと思はれるが、今それを檢(けん)する暇はない、しかし上文(じやうぶん)に引いたものによつても一斑(いつぱん)を窺(うかが)ふ〔片鱗を知る、おおよそを推測する〕ことは出來るであらう。その云ふところに異同のある處が最も面白いのである、蓋し説者は大抵(たいてい)讀書人であり、依據(いきよ)する所は見た所と云はんよりは寧(むし)ろその信ずる所であり、これはつまり一種の理(り)である。鬼は要するに陰氣であるからして、王樸存の如き甲派(かふは)が鬼は常に牆壁に遇へば必ず蚓の如く却行して後能く入ると説くのは、蓋しその陰なるがためであり、羅兩峯の如き乙派(おつは)が鬼は壁を穿つて過ぎることが出來ると云ふのは、恐らくその氣なるがためであるゝ思はれる。その一致した點には反(かへ)つて何の面白味も感ぜられず、恐らくは說理の一致に因(よ)るか、或は因襲(いんしふ)に出でた〔頑固な伝統に拘束された〕ためかも知れぬ。紀曉嵐の『如是我聞(によぜがもん)』〔閲微草堂筆記の内〕卷三に柯禺峯(かぐうほう)が鬼に遇ひたる事を記して、かう云つてゐる、

「睡(ねむ)りて夜半(やはん)に至り、東の室(へや)に鴨(かも)の鳴くが如(ごと)き聲あるを聞き、怪しみて諦視(ていし)す〔凝視した〕。時に明月は窗(まど)に滿ち、一道(ひとすぢ)の黑烟(こくえん)の東の室の門の隙(ひま)より出(い)づるを見しが、地に著(つ)いて行き、長さ丈餘(ぢやうよ)、蜿蜒(えんえん)として巨蟒(うはばみ)の如し、その首は即ち一女子にて、鬟(まげ)も鬢(びん)も儼然(さながら)あり、首を昂(あ)げて仰視(ぎやうし)し、地上に盤旋(ばんせん)し〔這い回り〕、鴨の鳴きごゑをなして止(や)まず。」又『槐西雜志(くわいせいざつし)』〔閲微草堂筆記の内〕卷四に或る奴子(やつこ)の婦(よめ)が狐に媚(み)せられた事を記してあるが、その狐は來る度毎(たびごと)に必ず前と姿を換へて來、一年の餘(よ)一度も重複(ちようふく)したことが無かつたといふのであるが、その最後に云ふ、

「その最も怪(あや)しきは、婦の小姑(こじうと)が偶〻(たまたま)その室に入らんとして、突(いきな)り狐の出(い)づるに遇ひしに、一躍(いちやく)して忽(たちま)ち逝(ゆ)きぬ。婦の見しは白鬚鬖鬖(はくしゆさんさん)たる方巾道袍(はうきんだうほう)〔明代に学者・士大夫の略礼装だった黒い方形頭巾と長い上着〕の人なりしに、婦の見し所は黯黑(どすぐろ)く垢膩(あかじ)みたる一賣煤人(すみうり)なりき。時を同じくして状(さま)を異(こと)にするは、更に不可思議なり。」この二節と『常談叢錄』にいふ李拔生が夜に鬼の叫くこと鴨の如くなるを聞いたことと、それから鬼物の同時同地にして聞見各〻異るといふ語といづれもよく符合(ふがふ)するのは、恐らく雷同(らいどう)なのであつて、説鬼の傳統の一點滴(てんてき)に相違(さうゐ)ないと思はれるが、研究者にとつては格別の價値(かち)があるのである。羅兩峯が描く所の『鬼趣圖(きしゆづ)』は甚だ有名で、近年有正書局から複製本が出たから、一見することが出來たが、見ると聞くとは大違(おほちが)ひでつまらなかつた。圖はたつた八枚きりなのに、名人の題詠(だいえい)が八十通からあり、巨觀(きよくわん)と謂(い)ひつべし〔壮観であるのはまちがいない〕である、しかしその圖も實は普通の文人畫(ぶんじんぐわ)にすぎず『玉歴鈔傳(ぎよくれきせうでん)』に較(くら)べると多少匠氣(しやうき)〔型通りの出来栄えの感じ〕は少いにしても、その鬼味(きみ)と諧趣(かいしゆ)〔面白み〕は蓋しなほ私の鄕里の大戲(たいぎ)や目連戲(もくれんぎ)にさへ及ばぬ、もしこれをしも目擊者の描寫だといふならば、鬼世界の繁華(はんくわ)は遙(はる)かに人間世界に及ばぬわけである。——こんど論語社(ろんごしや)で「鬼の故事」專號(せんがう)〔特集号〕を發刊するとのことで、千里を遠しとせずして迂生(うせい)に文を徴(ちよう)せられたので〔求められたので〕、尊命(そんめい)に違(たが)ふまじと勉(つと)めて小文を書き、談鬼についての淺見(せんけん)を略述したのであるが、讀みかへしてみると、鬼味諧趣を缺(か)けることは、羅君に比して最も甚だしく、鬼學に補(おぎな)ふところ無きのみか、鬼話に充(あ)てるにも足らぬ、しかもなほ昔賢(せきけん)を妄評(まうひやう)したので、きつと九泉(きうせん)の下(した)にて掌(て)を抵(う)つて大笑(たいせう)されてゐるのではなからうか。

廿五年〔一九三六年〕六月十一日、北平の智堂(ちだう)に於(おい)て

*打油詩二首——打油詩といふのは和歌俳句に對(たい)する狂歌(きやうか)川柳(せんりう)の類(たぐひ)の俚俗(りぞく)の詩の謂(いひ)。周作人は一九三四年の元旦に『五十自壽詩(じじゆし)』二首(しゆ)を作つた、曰(いは)く、
「前世出家今在家、不將袍子換袈裟。街頭終日聽談鬼、窓下通年學畫蛇。老去無端玩骨董、閒來隨分種胡麻。旁人若問其中意、且到寒齋喫苦茶。〔」を補う。「前世は出家たりしが今は在家(ざいけ)なり。袍子(ほうし)(長着、パオズ)を將(もつ)て袈裟(けさ)には換(か)へじ。街頭(ぐわいとう)に終日鬼(き)を談(だん)ずるを聽き〔本文によれば、十字街頭で志怪書を読む意という。〕、窓下(さうか)に通年蛇(だ)を畫(ゑが)くを學ぶ。(無駄な文章を飽かず書き続けている意ととったが、本文によれば王羲之の臨書をしているということになるらしい。)老い去りて端無(はし)く骨董(こつとう)を玩(もてあそ)び、閒(かん)來(きた)れば分(ぶん)に隨(したが)ひ胡麻(ごま)を種(う)う。旁人(ばうじん)若(も)し其の中(うち)の意を問はば、且(しばら)く寒齋(かんさい)に到りて苦茶(くちや)を喫(きつ)せん。〕
「半是儒家半釋家、光頭更不善袈裟。中年意趣窗前艸、外道生涯洞裏蛇。徒羨低頭咬大蒜、未妨拍梟拾芝麻。談狐說鬼尋常事、祗欠工夫喫講茶。〔「半(なか)ばは是(こ)れ(即ち)儒家半ばは釋家(しやくか)、光頭(くわうとう)なれども更に袈裟を善くせず。中年の意趣は窗前の艸(読書の楽しみは窗前の草の「生意」をそのまま楽しむ心の豊かさを得ることにあるとした宋人に倣って道を楽しむことにある、というような意。)、外道(げだう)の生涯は洞裏(どうり)の蛇(碧巌録等に拠り、どの宗派・党派にも属せず、何等の社会的活動をしていないことを自嘲的に表現したという)。徒(いたづ)らに羨む低頭して大蒜を咬むを(咬大蒜は庶民の生活を表すという。)、未だ妨けず梟を拍ちて芝麻を拾ふ(梟を叩いて胡麻を拾わせるとは、得るものよりも失うものの方が多いという越諺だという。「未妨」とは、前者の生き方は「徒羡」するばかりなので、後者の行き方を飽くことなく続けている意。)を。狐を談じ鬼を說くは尋常(よのつね)の事(どうということもない、本来当たり前であるべきことだ、の意。胡適(こせき)はこれに和して「誰人(たれびと)か會得(ゑとく)せん尋常(じんじやう)の意を」と詠んだ。)、祗(た)だ工夫を欠く講茶を喫するに。(江南の俗習に紛争の調停を裁判に持ち込む代わりに茶館で互いの言い分を述べ合い、言い負かされたほうが茶代をすべて支払う由。あいにくその種の闘争のための話術に工夫が自分には欠けていることを自覚しているという意。)」〕」
*眞面目な友人たち——左翼(さよく)の人々を指して云ふ。周作人が打油詩を小品文(せうひんぶん)雜誌『人間世(じんかんせい)』〔荘子からとる。〕に發表するや、ユーモアを解(かい)せぬ左派(さは)の人々からの猛烈な漫罵酷評が彼の上に蝟集(ゐしふ)した〔集中攻撃の標的となった〕。即ち埜容(やよう)〔廖沫沙〕の歩韻詩(ほゐんし)〔同じ韻を使って和した詩。熱閙場裡に入らないで娓々たる清談に耽ると批判した。〕、胡風(こふう)の『過去の幽靈』、許傑(きよけつ)の『周作人論』等々。
*今日只今——原文「現在此刻」。國民黨(こくみんたう)の長老で饒舌家(ぜうぜつか)として知られた吳稚暉(ごちき)〔呉敬恒〕の口ぐせに云ふ言葉。
*聊齋——淸の蒲松齡(ほしやうれい)作の志怪(しくわい)書、凡そ四百三十一篇の短篇集。
*十七帖——晉の王羲之(わうぎし)の草書。冒頭が「十七日」とあるからかく名づく。その書は筆勢飄(へう)として遊雲(いううん)のごとく、矯(けう)として驚蛇(きやうだ)のごとしと云はれた。打油詩に云ふ「畫蛇」とはこれを指す。
*姚首源——淸の學者姚際恆(えうさいこう)、『詩經通論』を作つて舊說に對し多く訂正する所があつたが、常に人を笑つて「癡叔(ちしゆく)」とか「笨伯(ほんぱく)」〔笨は粗野で愚かなこと〕とか云つた。一八二頁參照。
*劉靑園の常談——周作人の隨筆集『苦竹雜記(くちくざつき)』に詳しい。
*李登齋の常談叢錄——後章に詳し。
*勾攝の走無常——人の現世に於(お)ける命數(めいすう)が盡(つ)きた時、冥間からその人を捕(とら)へに來る閻羅王(えんらわう)の使者を走無常(さうむじやう)といふ。首に紙錢(しせん)を掛け、芭蕉の團扇(うちわ)と鐵の鎖(くさり)と算盤(そろばん)を持つて、白い喪服を着(つ)け、高い烏帽子(えぼし)を冠(かぶ)つてゐる。
*夜談隨録——『聊齋志異(れうさいしい)』を模倣(もはう)した怪談本。十二卷、清の和邦額(わほうがく)の作。
*十王殿——冥間(めいかん)の閻羅(えんら)大王のゐるところ。
*紀曉嵐——即(すなは)ち淸の紀昀(きゐん)。彼が四庫全書(しこぜんしよ)を總纂(そうさん)する餘暇(よか)に作つた志怪の書を『閲微草堂筆記(えつびさうだうひつき)』といふ。『灤陽消夏錄(らんやうせうかろく)』六卷、『如是我聞(によぜがもん)』四卷、『槐西雜志(くわいせいざつし)』四卷、『姑妄聽之(こまうてうし)』四卷、『灤陽續録(らんやうぞくろく)』六卷より成る。大學者だけに雋思妙語(しゆんしめうご)に富み、その悠容淡雅(いうようたんが)な趣(おもむき)ある叙述は『聊齋』も一籌(いつちう)を輸(ゆ)する〔わずかに及ばない〕。
*紅勒帛——試驗官が答案の文章の拙(まづ)いのを見ると、朱筆でもつて之を抹消(まつせう)したところから後にこの戲稱(ぎしよう)が出來た。
*段柯古——唐の詩人段成式(だんせいしき)。
*三十六の一——晩唐の詩人李商隱(りしやういん)・温庭筠(おんていゐん)・段成式の三人を當時の文壇で號(がう)して三十六體と云つた。三人とも行排(かうはい)〔排行。同じ宗族内で出生順に振った番号。男女は通常区別する。〕が十六であつたからである。
*河水鬼——即ち『草木蟲魚(さうもくちゆうぎょ)』のうちの『水の中のもの』を指す。『看雲集(かんうんしふ)』中に收む。
*望杏樓志痛編補——無錫(むしやく)の錢鶴岑(せんかくしん)著、光緒己亥(きがい)(一八九九)年刊。その夭折(えうせつ)せる子杏寶(あんぽう)の記念のために作りしもの。その中の『乩談(けいだん)日記』には、すでに死んだ子女との筆談を記し、鬼(幽靈)の婚喪生死等に就きて知ることが出來る。乩は降靈(こうれい)である。『夜讀抄(やどくせう)』に詳しい。
*玉歴鈔傳——因果應報を教へる通俗的な繪解(ゑと)きの勸善(くわんぜん)書。陰間(いんかん)(地獄)の繪(ゑ)がたくさんはいつてゐる。
*大戲——職業的な俳優によつて演ぜられる本式の芝居(しばゐ)をいふ。
*目連戲——一に「目連救母(もくれんきうぼ)」とも云ふ。佛の十六弟子の一たる大目健連(だいもくけんれん)の母劉氏(りゆうし)は佛法を信ぜず、僧への齋(とき)に犬肉饅頭を與(あた)へたため地獄に墮(お)ちる。目連はあらゆる法力(ほふりき)を盡(つく)してこれを救ひ出すといふ筋(すぢ)。紹興ではこれを水村のヅプの素人(しろうと)〔まったくの素人〕のみによつて、純粹の土語(どご)を用ひ、極めて粗末(そまつ)な服裝のまゝ演ぜられてゐる。詳しくは周作人の隨筆集『談龍集(だんりゆうしふ)』中の一篇『目連戲を談(かた)る』に見える。
*論語社——『論語』は一九三二年九月に創刊された半月刊雜誌で、支那文壇に一時流行した幽默(ユーモア)小品文雜誌の魁(さきがけ)をなしたもの。編輯者(へんしふしや)は林語堂(りんごだう)、その後陶亢德(とうかうとく)、郁達夫(いくたつぷ)、邵洵美(せうじゆんび)と代(かは)つた。