瓜豆集
談鬼論
三年前、私は偶然打油詩二首を書いたが、その一聯に、「街頭に終日談鬼を聽き、窗下に通年畫蛇を學ぶ」といふのがあつた。ある眞面目な友人たちは之を見てやんやと騷ぎたて、今日只今命令を奉じてお先拂ひをやらずに鬼の故事なんぞを談るとは、てつきり沒落の尤なるもの〔最たるもの〕ではないかと云つた。その言はなるほど幾分の道理を含んでゐるやうでもある、しかし當つてゐるとも云へない。蓋し詩といふものは口供書〔供述書〕ではない、しかも私の詩は殊に打油詩なのだ、滑稽の言は、單純な頭腦で解釋を求めることは出來ないのである。こゝに云ふ鬼とは鬼話(虚言)でないと誰が知らう、蛇とはことによれば蛇足(餘計なもの)であるかも知れず、さうも解すれば解せられる、若しも一々文字の通りに云つたとすれば、一日十二時間十字街頭に立つて『聊齋』を聽き、一年三百六十五日南窗の下に坐つて『十七帖』を臨書してゐるといふわけになり、さうした解釋は姚首源〔清・姚際恒〕に評させたらてつきり癡叔と云はれるのは免れぬところであらう。『東坡事類』〔清・梁廷枬、号藤花亭主人〕卷十三神鬼類に『癸辛雜志』〔癸辛雑識とも。南宋・周密〕序を引いて云ふ、
「坡翁(蘇東坡)は客の談を喜び、その能はざる者には之に强ひて鬼を說らしめ、有ること無しと辭するものあるときは、姑く妄りに之を言へと云はれぬ。聞く者絶倒す。」説く者はこれを以て東坡が晩年に時事を聞くを厭ひ、人に強ひて鬼の話をさせ、鬼を以て自らを晦ましたのだといふ。東坡のこの逸話は甚だ面白いが、果して鬼を以て自らを晦ましたかどうかはちよつと斷定し難いと思ふ、しかし私に決してそんな氣持の無かつたことは自分に最もよくわかつてゐることだ。打油詩に云つてゐることは必ずしもそのまゝ東坡の客の云つてゐることではないけれども、また私は必ずしも東坡のやうに時事を聞くことを厭うてゐるわけでもないけれども、かりに鬼の話を人がやるのを聽くのは好きか嫌ひかと訊ねられたら、私は好きだと答へるであらう。私の惡口をつきたい人は今からつくがよい、今こそ私はきつぱりと云つたのだから。以前に打油詩に關してかれこれと云はれたことは本氣で云つたのか嘘なのか詩の句の意味をよくわかつてゐなかつた筈なのだから。
とは云つたものの、私も實は鬼と別段何等かの情誼があるわけでもないのである。遼陽の劉靑園の著『常談』卷一の中に次のやうな一則がある、
「鬼神の奇蹟は匹夫匹婦が之を云ひて鑿鑿たるのみならず、士紳も亦常に之に及べり。たゞ余が風塵の斯世に未だ一見すること能はざるは、殊に解すべからず。或は惡を爲すの才足らざるが故に鬼物の侵陵すること無きにや、善を爲すの徳足らざるが故に神靈の呵護〔愛護、加護〕無きにや。平庸坦率、短長する所無く、眼界固より宜しく此の如かる〔如くなる〕べし。」金谿〔地名〕の李登齋〔清代〕の著『常談叢録』卷六に「性、鬼を見ず」なる一則あり、
「予は生平未だ嘗て鬼の形を見ず、また未だ嘗て鬼の聲を聞かず、殆ど氣稟の陰に近からざるならんか。おもへば少き時族人某と偕に鵝塘なる楊甥の家祠堂内に、兩室相對して宿りしが、晨起きて某蹙然として〔怯えて落ち着かない様子で〕、昨夜鬼が嗚嗚と叫きて已まず、聲長くして亮かに、甚だ畏しかりしと云ふ。そは夜行する者の戲れに呼嘯せしならんと予が云へば、某は、少しく人の聲に似ず、寒夜深更に奔走するは正に苦しからんにいかであのごとく歡娯する者あるべしや、必ず鬼なりと云ふ。予は終に信ぜざりき。數日を越えて予が甥の楊集益秀才〔秀才(生員)は科挙の童試合格者〕夫婦は共に暴病にて相繼いで歿しぬ、是れ某が聞きしは果して世に傳ふる所の勾攝〔拘束・連行すること〕の走無常なりしならんか。然れども予は某と室こそ隔てたれ〔部屋は離れていても〕同じ堂に宿り、ついぞ聞かざりしなり。郡城内の廣壽寺の前左に大宅あり、李玉漁の庶子傳熊が故居なり、その中に鬼多しと傳へしが、予嘗て此に館寓せしに絶えて聞見する所無かりき。一日、李拔生太學〔国子監に学ぶ者を古称の太学をつけて呼んだ。〕、客と偕に來りて東房に同宿せられしが、晨起きて、夜中鬼の叫くこと鴨の如くなるを聞けり、聲は壁の後に在りて呀呻と云ひて已まざりしと云ふ。客も、中夜拔生から足で蹴られて目を醒まし、之を聽くに果して聲あり、被を擁して起坐し、靜かに之を察するに、蟲に非ず、鳥に非ず、確かに鬼の鳴きごゑなりしと合槌をうちぬ〔賛同した〕。然れども予もまた之と室こそ隔てたれ同じ堂に宿りながら、竟に寂然として聞かず、之を生徒六七人に詢せるに、悉く聞きし者なし、是をもつて亦深くは信ぜず。拔生因りて往歲曾て訟事〔訴訟、もめ事〕にて此に寓すること半年、常に交夜に至れば〔一晩おきに。ただし後に「夕として有らざるは無く」とあるので、毎晩か。あるいは深更にの意か。〕後堂に啼叫の聲あり、或は人の行步の聲、器物門壁の震へ響く聲の如く、夕として有らざるは無く、甚だしきは狂恣猖披〔気違いじみた荒れ狂いようで〕幾ど云ひ難き状さへありしよしを述べられたり。然れども予は此に居ること兩載〔二年〕なるに、遂に聞見すること無し、且つ連年夏中は倶に病甚だしく、恆に安寐せす、宵深くなれば常に強ひて臥堂中の炕座〔寝台〕の上を出で、廣庭の月色の將に盡く簷際に昇らんとするを視てやうやく復室に歸りしが、その時旁らに一人だに無く、亦竟に毫も影響無かりき。諸小説家が稱ふる所の鬼物の同時同地と雖も聞見各〻異る者甚だ多きは、異る所以の者あるにあらざるか〔それぞれ見聞が異なる理由があってのことではなかろうか〕。予の強頑なる、或は鬼も亦耳目に接するを欲せざるにや。陰に近からざるの説はなほ未だ必ずしも的然〔明白〕ならざるべし。」李の書には道光二十八年〔一八四八年〕の序あり、劉の書は道光十八年〔一八三八年〕の事を記してゐるから、時代は蓋し相同じく、書名が又いづれも常談と稱してをり、その鬼を見ざる性格もよく似てゐるのは、巧合〔偶然の一致〕と謂ふべきである。私の生れ方は晩く、劉・李二君に晩れること先づ百年ぐらゐであらうか、しかも天性愚拙であるにかゝはらず、わが眼で鬼を見ることが出來ないばかりに、驥尾に附して鼎足と成ることが出來る〔三人合わせて(真実性を)支えるものとなりえた〕のは、まことに光榮の至りである。小さい時分『聊齋志異』等の怪談本を讀み、特に『夜談隨録』の影響は最も大きく、その後あたまの中に永遠に一塊の恐怖の黒影を殘したのであるが、私は神滅論を信ずるものであつて、鬼の尊容やその玉音〔お姿やお声〕を伺つたこともなく、そのため鬼は私にとつて全然縁がないと云つてよいのだ。——何でも十王殿には「你也來了!」(お前も來たか)と書いた匾額があるさうだが、これは思ふにかの惡を怙んで悛めぬ人に對して云つたものであらう。紀曉嵐の著『灤陽消夏錄』〔閲微草堂筆記の内〕卷四に次のやうな一條がある、
「邊隨園徵君(徵君は徵士の尊稱)〔清代に高官の推薦で科挙の博学宏詞科を受けた人士。仕官の有無は問わない。特に前半期に多かった。〕の云はれけるは、冥に入りし者あり、ひとりの老儒が廡下に立てるを見るに、甚だ惶遽たる樣子なり。その故人と覺しき一冥吏が揖して〔お辞儀して〕之と寒溫畢り、拱手して之に對して笑ひながら、先生は平日無鬼論を持せられしが、知らず先生は今日果して何物ぞと云ふ。諸鬼みな粲然笑へば、老儒は蝟のごとく縮まりをるのみなりき。」『閲微草堂筆記』にはよく何かにつけては老儒や道學先生を嘲笑してゐて、甚だ愉快であるが、これもその一例である、たゞ程朱〔朱子学派〕を喜ばぬといふだけのために無鬼論をも併せ惡むのは筋の通らぬ話であるが、迂生にとつては別段關係もないことである、蓋し迂生は老儒の比に非ず、たとへ死後も決して鬼に變ずることはあり得ない者なのだから。
かく云へば、私が鬼と何等の情誼もないことは甚だ明らかになつたわけで、そんならきつぱりと手を切つて鳧をつけてしまつてもよささうなものである。ところが情誼はないのだが、興味は大いにあるのである、だから鬼を信じないとしてもなほ鬼の話を好む分には差支へなからう、これは不合理な事ではあるまいと私は思つてゐる。私は鬼の故事に對して二つの立場の違つた愛好を有する。一つは文藝的、一つは歷史的である。前者について、私の要求するものは一篇の立派な故事であつて、筋は別段新奇でなくともかまはぬ、結構〔構成、筋立て〕もそれほど複雜でなくともよい、しかし文章だけは好くて、簡潔で力強い書き方でなければならぬ。その内容は實は決して鬼のみに限らず、宇宙から蠅に至るまで何であつてもかまはぬ、そして鬼も自然その一つであるわけである。その體裁は、私は志怪の方が傳奇よりも佳いと思ふ、例を擧げて云ふならば、『聊齋志異』の長篇を取るよりは『閱微草堂筆記』の小文の方がまだよい、たゞ惜しいことにこの中にも入選できるやうな文章は絶えて〔極めて〕少い、といふのがその中に若しも世道人心をどうかうといふ考へがあれば、私にとつて紅勒帛〔朱筆による添削・抹消。北宋の欧陽脩が受験生の悪文を士人の赤い帛帯のごとく朱筆で大きく塗抹した故事から。〕に値ひする一大瑕疵となるからである。四十年前に段柯古〔唐・段成式〕の『酉陽雜爼』を讀み、心に甚だ之を喜び、今に至つて變らぬ、段君はまことに三十六の一たるに愧ぢず、その手に成つた散文は大抵讀める。『諾皐記』〔段成式〕卷中に次のやうな一則がある、
「臨川郡南城縣令戴詧は初め宅を館娃坊に買ひ、暇日〔非番の日〕弟と廳中に閒坐せしに、忽ち婦人の聚り笑ふ聲の或は近く或は遠きを聽きて、こは頗る異しとおもふうち、笑聲は漸く近くなりて、忽ち婦人數十、廳の前に散在せるを見しが、倏忽にして見えずなりぬ。是の如きこと累日、詧は爲す所を知らず。廳の階前なる梨の枯樹は合抱の大木なりければ、祥をなすはこれならんと意ひて之を伐りたるに、根の下に塊の如き石露はれたり、之を掘るに轉つて闊く、その勢𨫼のごとき形なり、乃ち〔そこで〕火の上に醘(醋)を沃ぎ、深さ五六尺まで鑿りしも透らず。忽ち婦人の坑を繞りて掌を抵つて大いに笑へるを見、頃ありて共に詧を牽きて坑に入り、石の上に投げたり、一家驚懼せる際婦人はなほまた大いに笑ひ、詧もまた隨つて出でぬ。詧の出づるや、同時に又その弟が見えずなりければ、家人慟哭せしに、詧は獨り哭かず、彼も亦甚だ快活からん、何ゆゑに哭かんやと云ひて、死に至るまで肯てその情狀を云はざりき。」このほか擧人〔科挙の鄕試の合格者〕孟不疑、獨狐叔牙、虞侯景乙、宣平坊の油賣り等の各條も、それ〴〵みな意趣饒かである。蓋し古人の志怪はたゞこれを以て目的となせるに反し、後人はこれを以て手段としてをり、優劣の分れ目はつまりそこにあるのであつて、いかに文詞が美しく、叙述は曲折に富み、勉めて時世好みの小説の面目は裝つたとしても、無益である。とはいへ、宗旨や信仰も實は古人にとつては別に邪魔にはならないと見えて、たとへば佛典の中には好もしい故事の短文に乏しくない、最近梁の寶唱和尙の編した『經律異相』五十卷を讀み、常にさう思つたのであるが、後世の作者は氣度淺陋にして、とても追つつかぬ〔とうてい及ばない〕、たゞ面目の憎むべきにより、その云ふ言葉まで味はひが無くなつてしまふのであらう、さもなければ單に文字だけから云へば、これら士大夫にしても綽々として餘裕があるのではなからうか。
第二の歴史的といふのは、更に明瞭に云へばつまり民俗學上の興味である。この點に關しては私は曾て幾度か觸れたことがあり、『河水鬼』『鬼の生長』『說鬼』等の諸文の中で、それぞれ多少それに觸れたことがある。『鬼の生長』の中にかう云つてゐる、
「私は鬼を信じない、しかるに鬼の事を知るのを喜ぶ、これは一大矛盾である。とはいへ、私は人が死んで鬼になることは信ぜぬが、鬼の後に人のあることは信じてゐる。二氣の良能〔鬼神は陰陽の二気の離合集散の本来機能の現れであるという朱熹の議論を指す。〕とはどんなものであるか私にはわからぬが、鬼は生きてゐる人の喜懼願望の投影であることは必ずや謬りでなからう。陶公(淵明)は千古曠達の人〔古今未曾有の闊達炯眼の人士〕である。その『歸園田居』に「人生は幻化に似たり、終に當に空無に歸すべし、」と云ひ、『神釋』に「應に盡くべくんば便ち須く盡くべし、復更に多慮する無かれ、」と云つてゐるが、『擬輓歌辭』の中には、『語らんと欲するに口に音無く、視んと欲するに眼に光無し、昔は高堂に寢ね、今は荒草の郷に宿す、」と云つてゐる。陶公が生死に對してなほ未練を懷いてゐたであらうか、彼がこのやうに云つてゐるのは文辭上から見てもまことに情致があるが、生前の感覺を以て死後の況味〔境地、趣〕を推想するのも、まさしく人情の常であり、自然に出づる者なのである。〔前出「二気の良能」を承ける。〕常人〔(別段曠逹でもない)普通の人間〕は更に生存に執着し、自己及び自分に親しい人が翳然として〔ひっそりと姿を消す貌〕滅ぶことに對して信ずることが出來ず、またその滅ぶことを信ずるを願はぬ、そのため種々の幻想をつくりあげて、必ず存在を續けてゐるのだと考へる。その存在の狀況は人民地方乃至各自の好惡に因つて多少異るも、作爲する所なくして自然に流露してゐるから、われわれが鬼の話を人がするのを聽くのは實はとりもなほさずその心をぶちまけて談るのを聽くに等しい。」(廿三年〔一九三四年〕四月)これは『望杏樓志痛編補』を讀んで書いたため、親しい人に就いて論じたのであり、原始的な鬼の思想の起原は勿論全部が全部さうなのではない、蓋し恐怖に由る者が多く情意に由る者は少いのである。又『説鬼』(廿四年〔一九三五年〕十一月)の中にかう云つておいた、
「われわれが鬼の樣子や生活について知るのを喜び、文獻から風俗上の各方面から蒐集してゐるのは、平常知り易からぬ人情がそれによつて多少とも了解されるためである、換言すればつまり鬼の中にゐる人を知るためである。ひるがへつて云ふならば、人の間にゐる鬼怪の伎倆も注意に値ひするのは、人の中にゐる鬼を認識することが出來るためであらう。私の打油詩に、「街頭に終日談鬼を聽く」とあつたので、志士からさん〴〵お叱りを蒙つたが、私は全然かまはなかつた、あの鬼はひどく面白いものに思はれて、どうしても談らずには居られないからだ、尤も詩中に談るといつたのはどの一種であるか、今こゝで云ふにも及ぶまい。しかし上に云つたのは明らかに古暖簾の鬼〔伝統的な幽鬼〕であつて、その研究は民俗學の範圍に屬する、冗談に云ふわけではないが、かりに『死後の生活』の研究をやらうと決心する人があつたとすれば、實に學術界破天荒〔前代未聞、前人未到〕の事業であつて、甚だ賞讚に値ひすることだと思ふ。英國のフレーザー博士(J. G. Frazer)に專ら各民族の死者に對する恐怖を述べた大部の著〔不死の信仰と死者崇拝〕があるが、いま若し中國のみに範圍を限り、鬼の生活について詳細に描寫したならば、極めて浩繁な困難な什事で、博士の學位論文に相當するであらうが、また極めて趣味と實益をも兼ね有するであらう、蓋しかゝる處にこそ反つて中國民族の眞心實意が見られるのであつて、固有道徳が如何に好いものかなどと徒らに口で叫ぶよりもずつと憑信できるからである。」かういふ風に見るならば、凡そ一切の鬼に關するものは好き資料でないものはなく、さきに面目憎むべく云ふ言葉まで味がないと云つて罵られた連中さへも悉くその内に含まれるのであつて、別に優れた取るべき處がなくても、その話をする人の心思は畢くそこに露はれ、いはゆるその肺肝を見るが如しであるのだ。この事は當然專門的な整理を必要とするわけであるが、われわれわ素人が好事にまかせて渉獵し、何か小さな事項少い材料について參證を加へ、多少の異同を見るのも、また興味のある事である。眼にて能く鬼を見る人の云ふところによれば、愈少軒〔清・俞鳳翰〕の『高辛硯齋雜著』第五則に云ふ、
「黃鐵如〔清・黃楷〕は名は楷、文を能くし、善く鬼を視、並びに鬼の事を知る。その云ふ所に據れば、人の家に至る每に、その鬼を見るに、もし香灰色ならば平安無事なり、もし將に落ちぶれんとする家なるときは、鬼は多く淡黄色なりとぞ。又云ふ、鬼の長は二尺餘に過ぎず、もし鬼能く善を修むるときは、日に長くなり、人と等しかるべきも、淫厲を爲すことあれば、漸く短く漸く滅え、僅かに二眼を存して地上に旋轉する者あるに至ると。また奇なり。」王小穀〔清・王端履〕の『重論文齋筆錄』卷二中に次のやうな數則がある、
「曾て族兄樸存(淳)の云ひけるが、(兄は眼に能く鬼を見、凡そ黑夜の往來にも倶に燈を用ひざりし。)凡そ鬼はみな牆壁に依附して行き〔壁づたいに進み〕、空を破ること能はず、疫鬼も亦然り、常に牆壁に遇へば必ず蚓の如く却行して後能く入る。常鬼は一團の黑氣の如く、面目を辨ぜず〔顔立ちが分からない〕、その面目ありて能く空を破る者は厲鬼〔祟り神、怨霊〕なれば、須く急ぎ之を避くべし。」
「兄は又云ふ、鬼は最も風を畏る、風に遇へば牢く草木を握り蹲伏して敢へて動かず。」
「兄は又云ふ、『左傳』に故鬼は小さく新鬼は大なりと云へり、その説確かに易ふべからず、溺死の鬼に至つては新鬼小さく故鬼大なり、その鬼はまた能く岸に登る、逼りて之を視れげ煙雲の如く消滅する者は、これ新鬼なり。故鬼の形は槁木の如く、人を見るときは水中に躍り入り、水は聲あるのみにて散ぜず、故に圓暈〔波紋〕なし。」紀曉嵐の「灤陽消夏錄」卷二に云ふ、
「揚州の羅兩峯は目に能く鬼を視る人なるが、その人の曰く、凡そ人ある處にはみな鬼あり。その横亡〔横死〕の厲鬼にして多年沈滯せる者は率ね幽房空宅の中に在り、是は近づくべからず、近づくときは害を爲す。その憧憧として往來せる鬼は、陽の盛んなる午前には多く牆陰に在り、陰の盛んなる午後には四散游行し、壁を穿つて過るべし、門戸に由らず〔家柄に関係なく〕、人に遇ふときは路を避く、陽氣を畏るればなり、是は隨處に之ありて、害を爲さず。又曰く、鬼の聚集する所は恆に人烟の密簇せる處に在り、僻地曠野に見ることは殊だ希なり。喜んで厨灶〔灶は竃〕を圍繞するは、食氣に近づかんと欲するに似たり、又溷厠〔便所、トイレ〕に入るを喜ぶは、その故を明らかにせず、或は人跡の到ること罕なるを取れるにや。」羅兩峯は袁子才(袁枚、隨園と號す、清の文人)の門人であるから、隨園の著作中にはその能く鬼を見たといふ話に渉つたものが必ずあることと思はれるが、今それを檢する暇はない、しかし上文に引いたものによつても一斑を窺ふ〔片鱗を知る、おおよそを推測する〕ことは出來るであらう。その云ふところに異同のある處が最も面白いのである、蓋し説者は大抵讀書人であり、依據する所は見た所と云はんよりは寧ろその信ずる所であり、これはつまり一種の理である。鬼は要するに陰氣であるからして、王樸存の如き甲派が鬼は常に牆壁に遇へば必ず蚓の如く却行して後能く入ると説くのは、蓋しその陰なるがためであり、羅兩峯の如き乙派が鬼は壁を穿つて過ぎることが出來ると云ふのは、恐らくその氣なるがためであるゝ思はれる。その一致した點には反つて何の面白味も感ぜられず、恐らくは說理の一致に因るか、或は因襲に出でた〔頑固な伝統に拘束された〕ためかも知れぬ。紀曉嵐の『如是我聞』〔閲微草堂筆記の内〕卷三に柯禺峯が鬼に遇ひたる事を記して、かう云つてゐる、
「睡りて夜半に至り、東の室に鴨の鳴くが如き聲あるを聞き、怪しみて諦視す〔凝視した〕。時に明月は窗に滿ち、一道の黑烟の東の室の門の隙より出づるを見しが、地に著いて行き、長さ丈餘、蜿蜒として巨蟒の如し、その首は即ち一女子にて、鬟も鬢も儼然あり、首を昂げて仰視し、地上に盤旋し〔這い回り〕、鴨の鳴きごゑをなして止まず。」又『槐西雜志』〔閲微草堂筆記の内〕卷四に或る奴子の婦が狐に媚せられた事を記してあるが、その狐は來る度毎に必ず前と姿を換へて來、一年の餘一度も重複したことが無かつたといふのであるが、その最後に云ふ、
「その最も怪しきは、婦の小姑が偶〻その室に入らんとして、突り狐の出づるに遇ひしに、一躍して忽ち逝きぬ。婦の見しは白鬚鬖鬖たる方巾道袍〔明代に学者・士大夫の略礼装だった黒い方形頭巾と長い上着〕の人なりしに、婦の見し所は黯黑く垢膩みたる一賣煤人なりき。時を同じくして状を異にするは、更に不可思議なり。」この二節と『常談叢錄』にいふ李拔生が夜に鬼の叫くこと鴨の如くなるを聞いたことと、それから鬼物の同時同地にして聞見各〻異るといふ語といづれもよく符合するのは、恐らく雷同なのであつて、説鬼の傳統の一點滴に相違ないと思はれるが、研究者にとつては格別の價値があるのである。羅兩峯が描く所の『鬼趣圖』は甚だ有名で、近年有正書局から複製本が出たから、一見することが出來たが、見ると聞くとは大違ひでつまらなかつた。圖はたつた八枚きりなのに、名人の題詠が八十通からあり、巨觀と謂ひつべし〔壮観であるのはまちがいない〕である、しかしその圖も實は普通の文人畫にすぎず『玉歴鈔傳』に較べると多少匠氣〔型通りの出来栄えの感じ〕は少いにしても、その鬼味と諧趣〔面白み〕は蓋しなほ私の鄕里の大戲や目連戲にさへ及ばぬ、もしこれをしも目擊者の描寫だといふならば、鬼世界の繁華は遙かに人間世界に及ばぬわけである。——こんど論語社で「鬼の故事」專號〔特集号〕を發刊するとのことで、千里を遠しとせずして迂生に文を徴せられたので〔求められたので〕、尊命に違ふまじと勉めて小文を書き、談鬼についての淺見を略述したのであるが、讀みかへしてみると、鬼味諧趣を缺けることは、羅君に比して最も甚だしく、鬼學に補ふところ無きのみか、鬼話に充てるにも足らぬ、しかもなほ昔賢を妄評したので、きつと九泉の下にて掌を抵つて大笑されてゐるのではなからうか。
廿五年〔一九三六年〕六月十一日、北平の智堂に於て
「前世出家今在家、不將袍子換袈裟。街頭終日聽談鬼、窓下通年學畫蛇。老去無端玩骨董、閒來隨分種胡麻。旁人若問其中意、且到寒齋喫苦茶。〔」を補う。「前世は出家たりしが今は在家なり。袍子(長着、パオズ)を將て袈裟には換へじ。街頭に終日鬼を談ずるを聽き〔本文によれば、十字街頭で志怪書を読む意という。〕、窓下に通年蛇を畫くを學ぶ。(無駄な文章を飽かず書き続けている意ととったが、本文によれば王羲之の臨書をしているということになるらしい。)老い去りて端無く骨董を玩び、閒來れば分に隨ひ胡麻を種う。旁人若し其の中の意を問はば、且く寒齋に到りて苦茶を喫せん。〕
「半是儒家半釋家、光頭更不善袈裟。中年意趣窗前艸、外道生涯洞裏蛇。徒羨低頭咬大蒜、未妨拍梟拾芝麻。談狐說鬼尋常事、祗欠工夫喫講茶。〔「半ばは是れ(即ち)儒家半ばは釋家、光頭なれども更に袈裟を善くせず。中年の意趣は窗前の艸(読書の楽しみは窗前の草の「生意」をそのまま楽しむ心の豊かさを得ることにあるとした宋人に倣って道を楽しむことにある、というような意。)、外道の生涯は洞裏の蛇(碧巌録等に拠り、どの宗派・党派にも属せず、何等の社会的活動をしていないことを自嘲的に表現したという)。徒らに羨む低頭して大蒜を咬むを(咬大蒜は庶民の生活を表すという。)、未だ妨けず梟を拍ちて芝麻を拾ふ(梟を叩いて胡麻を拾わせるとは、得るものよりも失うものの方が多いという越諺だという。「未妨」とは、前者の生き方は「徒羡」するばかりなので、後者の行き方を飽くことなく続けている意。)を。狐を談じ鬼を說くは尋常の事(どうということもない、本来当たり前であるべきことだ、の意。胡適はこれに和して「誰人か會得せん尋常の意を」と詠んだ。)、祗だ工夫を欠く講茶を喫するに。(江南の俗習に紛争の調停を裁判に持ち込む代わりに茶館で互いの言い分を述べ合い、言い負かされたほうが茶代をすべて支払う由。あいにくその種の闘争のための話術に工夫が自分には欠けていることを自覚しているという意。)」〕」