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瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

雷公に關して

市上で鄕里の人孫德祖〔淸代、号寄龕〕の著作十種(じつしゆ)を手に入れた、普通これを『寄龕(きがん)全集』と稱してゐるが、實はみな光緒(くわうしよ)年間に隨(したが)つて刻し隨つて印したもので〔随時印刷刊行したものであり〕、決して初めから總目(そうもく)や名稱などがあつたわけではない。三種は湖州で敎官をつとめてゐる時の文牘(ぶんとく)課藝、三種は詩文詞、その他は筆記(隨筆)、即ち『寄龕甲志(かふし)』から『丁志(ていし)』に至る各四卷、合(あは)せて十六卷であつて、これは私が最も興味を覺えてゐる部分である。寄龕の文章は「史漢及び六朝(りくてう)駢儷(べんれい)を規模(きぼ)せる〔模範とした〕作」が頗る多く、私にも實はよく了解できないのであるが、薛福成(せつふくせい)が彼のために序を作り、彼が桐城(とうじやう)諸老の義法を默究(もくきう)する能(あた)はざりしことはいかにも惜しい、さうでなかつたらきつともつと好く書けてゐたらうと云つてゐるのも、甚だ面白い事である。だが私は詩文よりも筆記の方をもつと重視する、といふのはこの中に見るべきものが稍〻(やや)多く、しかも私の蒐(あつ)めてゐる同郷人の著作中には筆記の類(たぐひ)が實に少いからでもある。淸朝のものでは私は兪蛟(ゆかう)の『夢厂雜著(むしやうざつちよ)』〔厂は廠の略字〕、汪鼎(わうてい)の『雨韭菴筆記(うきうあんひつき)』、汪瑔(わうせん)の『松烟小録(しやうえんせうろく)』と『旅譚(りよたん)』、施山(しざん)の『薑露菴(きやうろあん)筆記』等を有するのみで、この寄龕の甲乙丙丁志は分量から云つて最も多いものであらう。だが、私は筆記を請んだ後いつも食ひ足りなく思ふのであるが、こんども例外であり得なかつた。私は逆婦(ぎやくふ)〔夫舅に尽くさない妻〕が豚に變(へん)じたとか不孝の子が雷に打たれたとかいつた記事を最もいやに思ふが、これは決して私が忤逆(ごぎやく)〔長上や規律に忤(さか)らうこと〕に賛成するためではなくして、さういつた文章が惡劣無聊(ぶれう)〔退屈〕、意味は殊(こと)に卑陋(ひろう)で、取るに足りぬと思ふからである。冥報(めいほう)の説は大抵彼等(かれら)の云ふが如くそれによつて王法(わうほふ)の及ばざるを補(おぎな)ふもので、政治が腐敗し、淫人(いんじん)に福(さいはひ)し善者に禍(わざはひ)してゐるから、生前に惡事をなせば死後に罪を受けるとなして之を彌縫(びほう)する〔取り繕って穴埋めをする〕、これがその一である。而(しか)して文人の心地の褊狹(へんけう)〔偏狹〕なる〔度量の狭いことといったら〕、氣に入らぬ者を見ると兩觀(りやうくわん)の誅(ちゆう)を正(ただ)さんと欲(ほつ)して、或は法に問はれず、また力の及ばない場合には、之を陰譴(いんけん)〔天罰〕に處(しよ)し、聊(いささ)か快(くわい)を貪(むさぼ)る、これがその二である。讀書人に求むる所の者は直諒多聞(ちよくりやうたぶん)〔正直・誠実で博識洽聞なこと。益者三友の条件。〕である、かくてこそ説を立て書を著(あら)はし、後人を啓示(けいじ)することが出來るのである、しかるに今かくの如くではどうしてわれわれの益友(えきいう)たるを望み得(え)よう。私は前人の筆記を讀み、よくこんな事を記してあるのを見るのは、あまり嬉しくない。せい〴〵これを取上げて文章の資料とするのが關(せき)の山だ、いろ〳〵と不敬(ふけい)に亙(わた)るところがあるのも、實際やむを得ないのである。

寄龕の甲乙丙丁志中、陰譴(いんけん)について書いた個所(かしよ)は頗る多く、普通の筆記と大(たい)した區別(くべつ)はない、その最も特別なのは雷(かみなり)に關する記事と説明である。たとへば『甲志』卷二に次のごとき二則がある、

「庚午(かうご)六月、雷、岑墟(しんきよ)〔紹興の旧村名〕の魯氏(ろし)の婦(ふ)を擊(う)ちて斃(たふ)したり、何家漊(かかろう)〔同じく村名〕の何氏(かし)の女(ぢよ)なり、性柔順(じうじゆん)にして、舅姑(きうこ)は極めて之を憐(いと)しみけり、時に方(まさ)に〔ちょうど〕孕(はら)みて、小姑(せうこ)〔義妹〕と厨下(ちゆうか)に坐(ざ)せしが、小姑は屋(へや)の熱(あつ)さに耐(た)へかね、他室に涼(りやう)を取りに趨(はし)らんとて、いましも戶限(しきゐ)を踰(こ)えんとせしとき、霹靂(へきれき)下(くだ)りて婦は殛(し)にき。皆々宿業(しゆくごふ)なりと云ひあひたり。あるひとはその孕める所に異ありしならんと疑ひたり。既にしてその幼(えう)にして母を喪(うしな)ひ、その叔母(をば)之を撫(ぶ)して長(ちやう)ずるに至りしが、のち叔父母相繼(あひつ)ぎて歿(ぼつ)し、その遺(のこ)せし子女(しぢよ)各(おのおの)一ありしを、婦は嘗(かつ)てその父が叔(をぢ)の田産を收むるに贊(さん)してその子女を虐(しひた)げて死に至らしめし者とは知られたり。皆々、是(こ)れ宜(う)べなり殛(しぬる)やと云(い)ひぬ。」

「順天の李小亭(りせうてい)の言(げん)なり、城子峪(じやうしよく)〔万里長城の地名〕の某甲(なにがし)は後母〔継母〕に事(つか)へて孝を以(もつ)て聞(きこ)え、また好んで善事を行ひ、中年にして家益〻(ますます)裕(ゆた)かなりしが、子生るゝや忽(たちま)ちその身は雷に殛(つみ)せられぬ。皆々雷の撃ち誤(あやま)りしならんと云ひあひたり。一隣叟(りんそう)慨然(がいぜん)として曰く、雷に豈(あに)誤あらんや、此(こ)の事余を舍(お)きて之を知る者なし、今は復(また)祕するを須(もち)ひじ〔もはや隠す必要はあるまい〕。」とて叟(をきな)が述ぶる所に據(よ)れば、某甲が若い時に計(けい)を以て後母の生んだ幼弟を井戸の中に突き落したことがあり、故に雷が之を三十年の後に殛(ころ)したのであるとし、又その理由を申明(しんめい)して曰(いは)く、「今日に至りて之を殛する所以(ゆゑん)の者は、或はその祖父と父が嗣(あとつぎ)を絶つべからずとなし、その子の生るゝを俟(ま)ちしならんか、雷に豈誤あらんやと。是(ここ)に於(おい)て衆(しう)の疑ひ初めて釋(と)け、同聲に天道の爽(たが)はざるを稱(たゝ)へぬ。」又『乙志(をつし)』卷二にも類似(るゐじ)の話がある、もつともこれは雷に打たれたのではないが。

「潛說友(せんせついう)の『咸淳臨安志(かんじゆんりんあんし)』〔南宋代〕に云ふ、八月十八日錢塘江(せんたうかう)の高潮(たかしほ)を臨安(りんあん)(杭州(こうしう))の人々は大半出(い)でて觀(み)る慣(なら)はしなり。紹興十年の秋、……潮の至ること洶湧(きよういう)〔水が逆巻くこと〕異常、橋壓(お)し壞(こは)されて數百人溺(おぼ)れ死にけり、既(すで)にして死者の家より來(きた)りて號泣(がうきう)收斂(しうれん)するに、道路指(ゆびさ)してその人々は盡(ことごと)く平日不逞(ふてい)の輩(やから)なりと云ひあひぬ。同治中、甬江(ようかう)(寧波(ニンポー))の浮橋(うきはし)亦此(こ)の變(へん)に覯(あ)ひたり。橋は鐵索(てつさく)を以て巨舶(きよはく)を連(つら)ねて之を爲(つく)り、維繋(つな)ぐこと鞏固(きようこ)にして、往來するもの日に千萬人、視ること猶(なほ)莊逵(さうき)(大道(だいだう))のごとくなりき。その年の四月の望(もち)の日に、郡人五都神(ごとしん)〔土地の天候・農業を司る神〕の賽會(まつり)をもよほす、江東に赴(おもむ)くには必ず橋を過(わた)らざるべからず、行人(かうじん)及び橋の上に止まりて觀る者千餘も啻(ただ)ならざりしが、橋忽(たちま)ち眞中(まんなか)より斷(た)ち、巨舶或(あるい)は漂失(へうしつ)し或は傾覆(けいふく)して死者強半なりき。……徐柳泉(じよりうせん)師、余に向ひて云はく、是は夷粤燹後(ゐえつせんご)の一小劫(せうごふ)たり〔太平天国の乱で戦火に罹災して以後の災難だ〕、幸ひに刀兵を免れたるも卒(つひ)に此の厄(やく)に罹(かか)れり、それらの人を遍(あまね)く識るにあらねども、知る所のうち自ら好しと稱せられし者にて未だ之に與(あづか)りしものはあらざりしと。之を潛氏が記(き)する所に印するに、天道の爽(たが)はざること知るべし。」又『丙志』卷二に錢西箴(せんせいしん)〔淸代〕が廣州(くわうしう)の風災火災を述べたるを記してゐるが、その第二則にかう云つてゐる、

「學使署(がくししよ)〔敎育庁舎〕なる韓文公(かんぶんこう)(韓愈(かんゆ))の祠(ほこら)は、儀門(ぎもん)の外、大門(だいもん)の内にあり、毎歳六月に祠中(しちゆう)にて演劇を催(もよほ)す。道光(だうくわう)中、劇場に災ありて死者數千人、脱(のが)るゝを得たる者は僅(わづ)かに三人のみ。その一は優伶(いうれい)〔俳優〕なり、折(をり)から面具(めん)をかぶり魁罡(くわいごう)を跳(をど)らんとして、面具の眼孔中より滿場の坐客を窺(うかが)ひ見たるに、その足みな鐵索(てつさく)もて珠數(じゆず)つなぎにつながれ居(を)りければ、必ず大變(たいへん)のあるべきを知り、疾(やまひ)に託(たく)して出でぬ。一は妓女(ぎぢよ)なり、火の起る處の正面に坐したりしが、遙(はる)かに板の隙(ひま)に火の光の熒然(けいぜん)たる〔ほのかに光る、ちらちら光る〕を見、之を避けんと思ひしが最上層に坐したることなり、紆廻(うくわい)して下らばとても間に合はざるべし、座に近く捷徑(ちかみち)あれど欄干(らんかん)を隔(へだ)てゝ越ゆべくもあらず、たま〳〵瓜子(すゐくわのたね)を賣(う)る者の欄の外に在りしを、急ぎ呼びとめて、腹痛絶えなんばかりなれば、どうぞ背負ひて歸りくれよと頼む、能(あた)はざればと謝(ことわ)るに、金の腕闌(うでわ)を脱(はづ)して之を畀(あた)へ、これにて妾(せふ)が命を買ひねと云ひて、欄干越しにその肩に飛びのり、疾(と)く奔(はし)れよと促(うなが)して出でつ。瓜子賣りの男(をのこ)もこれに因(よ)りて脫(のが)るゝを得たりき。」孫君は又これを論じて曰く、

「三人脱するを得たるうち倡優(しやういう)その二を占(し)む、優人(いうじん)が見し鐵索にて珠數つなぎにされたるを以て、冥冥(めいめい)の中(うち)に必ず之を主(つかさ)どる者ありと知れば、豈(あに)數千人のもの悉(ことごと)く宿業(しゆくごふ)ありてそのため之を縶(つな)ぎて去ることを得ざらしめしならんや。優人既に此の數に在らずして、遂に之をして此の異を窺(うかが)ひ見(み)しめ、而して坐下の火光も亦獨(ひと)り此の數に在らざる一妓女これを見しのみ、又たま〳〵此の數に在らざる瓜子賣りの男まで縁を引きて同じく難を脱(のが)れたるは、異(い)なるかな。然(しか)れどもこの三人の者は必ず死せざるを得るの道のありしならん、瓜子賣りの男は孀母(さうぼ)〔寡婦である母〕に事(つか)へて孝なりしと之を知る人云へり、しからば餘(よ)の二人も賤(いや)しと雖(いへど)もその必ず大善ありしこと亦(また)類推して知るべし。」

私が煩(はん)をいとはず〔長々と面倒な引用を敢てして〕これらの話を抄錄(せうろく)したのは、甚だ理由のあることで、即ちこれこそ代表的な陰譴説(いんけんせつ)と云へるからである。こゝに云つてあるのは、冥冥の中(うち)必ず之を主どる者があるばかりでなく、天道は爽(たが)ふことなく、雷や火や風はみな決して誤ることのないものであつて、故(ゆゑ)に死ぬ者は必ず死ぬべきであつたのであり、たとへ初め人は彼を好(よ)い人間だと見てゐたとしても、死後必ず隱れた惡事などが發見され、殛(つみ)せられたのは當然なことが證明される、ひるがへつて云ふならば、死なない者にも必ず死せざるを得るの道あり、必ず大善ありしは疑ひなしと云ふわけである。かゝる歪曲(わいきよく)的論法には全く是非(ぜひ)の見境(みさか)ひがない、少し迂遠(うえん)な云(い)ひ方をすれば、これは世道人心(せだうじんしん)にとつて實に大きな妨害(ばうがい)になる、私が低級な報應(ほうおう)説を甚だ喜ばぬ理由の一部分は即(すなは)ちこゝにあるのだ。王應圭(わうおうけい)〔淸代〕の『柳南(りうなn)隨筆』卷三にこんな一則がある、

「人良からぬ心を懷(いだ)くときは俗諺(ぞくげん)に黑心(こくしん)は必ず雷に擊たるべしといへり。而して蠶豆(そらまめ)の花開く時に雷を聞けば實(みの)らずと、また花心(くわしん)の黒くなるを以(もつ)てなり。こは固(まこと)に天地間(かん)の解(かい)すべからざる理(ことわり)、されど物を以て人に例(たと)ふれば、はじめて諺語(げんご)の妄(まう)に非(あら)ざるを知る、人は懼(おそ)るゝ所を知らざるべけんや。」これなどは特に途轍(とてつ)もない云ひ方であつて、民俗學(みんぞくがく)上でなら勿論最も珍奇(ちんき)なる資料たるを失はないが、若(も)しも讀書人が書を著(あら)はし說を立てて、今に信ぜられ後(のち)に傳(つた)へんとする場合に、このやうなことを云ふのでは、何と長太息(ちやうたいそく)せざるべけんや〔つくづくあきれてため息をついてしまうことだ〕である。

陰譴說(いんけんせつ)——われわれは暫(しばら)く雷が惡人を殛(つみ)することを以て代表とするが、何故に筆記書中かくも猖獗(しやうけつ)してゐる〔暴威を逞しくしている〕のであらうか、これは容易に解決は出來ぬが、極めて重要なまた極めて興味ある問題である。中國文人は勿論儒家(じゆか)であるが、いつのまにか殆(ほとん)ど全然沙門敎(シヤマニズム)(佛敎でない)化してをり、方士(はうし)〔仙術使い〕思想の侵入(しんにふ)も早くからあつた、しかし今日(こんにち)のかゝる狀態は思ふにやはり近(きん)五百年の事であらう、即ち『陰隲文(いんしつぶん)』『感應篇(かんのうへん)』の發達(はつたつ)の如(ごと)き正(まさ)に明朝(みんてう)に於(おい)て見られたのであり、筆記の中でも明淸(みんしん)が最もひどく報應(ほうおう)をやかましく云(い)つてをり、それ以前はまだしもいゝ方だから。『太平御覽(たいへいぎよらん)』卷十三雷と霹靂(へきれき)のところを檢(けん)するに、『列女後傳(れつぢよこうでん)』〔前漢・劉向の列女伝には、注記その他後補が多く、北宋の王回が古列女伝に増補してまとめた後、同題書に続編等の称呼を加えて特に明以後類似書が多く編集された。〕の李叔卿(りしゆくけい)の事の後に『異苑(いゑん)』〔南朝宋・劉敬叔〕等の數條(すうでう)あり、雷が惡人を撃つた事を述べてある、『太平廣記』卷三九三以下の三卷はいづれも雷の話で、その第一條はやはり李叔卿の事で、『列女傳』と題してある、故にこの類(たぐひ)の記事は晉代(しんだい)から既(すで)に有つたことがわかる、しかし後代ほど多く而も詳細ではなかつたやうである。又『論衡(ろんかう)』〔後漢・王充〕卷六『雷虚篇』に云ふ、

「盛夏(せいか)の時、雷電迅疾(じんしつ)、樹木を擊ち折り、屋室を壞敗(くわいはい)し、時に殺人を犯す。世俗、樹木を擊ち折り屋室を壞敗するは天が龍(りゆう)を取るなりとなし、その殺人を犯すは之を陰過(いんくわ)なりと謂(おも)へり。人に不潔淨なるものを飮食せしむれば、天怒り擊ちて之を殺す、隆隆(りうりう)の聲〔爆発的な音の形容〕は天の怒(いか)れる音、人の呴吁(くう)〔古代では雷鳴や人の威嚇する声の意という。〕のごとし。世の愚智と無く然らずと謂はざるはなし〔知恵の有無に関わらず、そんなはずはないと思わない者はいない〕、人の道を推(を)して之を論ずるに虚妄(きよまう)の言(げん)なり〔根拠のない作り話である〕。」又云ふ、

「圖畫(づぐわ)の工は雷の状(さま)を圖(ゑが)くに纍纍(るゐるゐ)として連鼓(れんこ)の形の如し、また力士(りきし)の容(すがた)せる一人を圖(づ)し、之を雷公(らいこう)と謂(い)ひ、之をして左手に連鼓を引き、右手に椎(つち)を推して撃つがごとき状をせしむ。その意、雷聲の隆隆たるは連鼓の相扣撃(こうげき)する音なり、その魄然(はくぜん)として敝裂(へいれつ)するがごときは〔激しくものを引き裂くような音は〕椎の撃つ聲なり、その人を殺すや連鼓を引き椎を推して幷(ならび)に之を撃つなりと爲す。世又これを信じ、然らずと謂ふものなし、もし復(また)之を原(たづ)ぬるに〔ここで改めてもう一歩踏み込んで考えてみれば〕、虚妄の象(かたち)なり。」これによつて人に陰過があれば雷に撃たれて死ぬといふ説が後漢の時すでに甚だ通行(つうかう)してゐたことがわかる、しかしこの陰過(いんくわ)といふのは一體何であるかあまりよくわからない、まさか單に不潔なものを人に食べさせるといふ一項(いつこう)ではあるまい。こゝにわれわれが注意すべきは王仲任(わうちゆうじん)老先生(『論衡』の著者王充(わうじゆう))自身はてんから〔まるっきり、頭から〕これらを信じてゐないといふことである。彼は云ふ、

「建武四年〔西暦二八年〕夏六月、雷、會稽(くわいけい)の斬專曰食(案ずるにこの四字解(かい)すべからず、『太平御覽』に引くところでは鄞縣の二字に作つてある)を擊ち殺し羊五頭みな死す、夫(そ)れ羊に何の陰過ありて天これを殺せる。」『御覽』に引いてある桓譚(かんたん)(後漢の人)の『新論』にかうある、

「天下に鸛鳥(コウノトリ)あり、郡國みな之を食ふも、三輔(さんぽ)〔長安周辺。三輔は京兆尹・左馮翊・右扶風の三つの行政区画。〕の俗獨(ひと)り敢(あ)へて之を取らず、取れば雷霹靂起ることありとなす。原(おも)ふに夫(か)の天は獨り彼を左にして此(これ)を右にすることをせじ〔天は平等で、差別することをしないはずだ〕、その殺し取る時たま〳〵雷に遇(あ)ひしのみ。」意見もよく似てゐる。王・桓二君は今を去ること千九百年に近いに拘(かかは)らず、かくのごとき卓識(たくしき)を有してゐる、われらいかで今人(こんじん)を愛して古人を薄(うと)んずることを得(う)べき〔現代人を厚遇し、古人を冷遇するなどということがどうしてできようか〕、王仲任は更に雷公のさうした状形をも信じない、彼は云ふ、

「鐘鼓(しやうこ)は懸着する所なく、雷公の足は蹈履(たうり)する所なし〔太鼓は肩に引っ掛けていないし、履(くつ)もはいていない。〕、いかで雷たるを得ん。……雷公の頭(かしら)は天に懸らず、足は地に蹈まず、いかで雷公たるを得ん。飛ぶ者にはみな翼あり、翼無くして飛ぶ物は之を仙人と謂(い)ふ、仙人の形を畫(ゑが)くときには之がために翼を作る、もし雷公にして仙人と同じとせば、宜(よろ)しく復(また)翼を着くべきなり。もし雷公は飛ばずとせば、雷を圖(ゑが)く家(ひと)の之を飛ぶと云ふは非(ひ)なり、もしまことに飛ぶならば、爲(ため)に〔そのために〕翼を着けざるは又非なり。」唯理(ゆいり)論者のこの反駁(はんばく)論はどうやら御採納(ごさいなふ)を蒙(かうむ)つたらしく、その後雷公を畫(ゑが)く人は大抵彼のために二枚の大きな肉翅(にくし)を加へてゐる、明の謝在杭(しやざいかう)は『五雜組(ござつそ)』卷一の中に云ふ、

「雷の形として人の常に見る所の者は、大約(たいやく)〔おおよそ〕雌鷄(めんどり)に似て肉翅あり、その響くは兩翅の奮(ふる)ひ撲(う)つ聲なり。」謝は王より少くとも一千五百年後(おく)れて生れてゐるが、しかも雷公の形は牝鷄(ひんけい)のやうだと確信してをり、『封神傳(ほうしんでん)』に畫いてある雷震子(らいしんし)を思ひ出させる。『鄕言解頤(きやうげんかいい)』五卷、瓮齋(おうさい)老人〔清・李樸園〕著、道光己酉(きいう)〔道光二一年(一八四九)〕の序なり、卷一天部第九篇を雷といひ、その文頗(すこぶ)る佳(か)である、

「『易說卦(せつか)』に、震は雷なり長子(ちやうし)なりと。鄕人が雷公爺(らいこうや)の稱は或(あるい)は此(これ)に原(もと)づくか。然(しか)れども雷公の名はその來(いはれ)久し。『素問(そもん)』〔唐・王冰編纂〕に、黄帝(くわうてい)、明堂(めいだう)〔大殿〕に坐し雷公を召(め)して問はれけるは、子は醫道(いだう)を知るや。對(こた)へて曰く、誦(しよう)すれども未(いま)だ解する能(あた)はず、解すれども未だ別(わか)つ能はず、別てども未だ明(めい)なる能はず、明なれども未だ彰(あきら)かなる能はずと。又藥の中に雷丸(らいぐわん)・雷矢(らいし)あり。梨園(りゑん)中の演劇にては雷公の状(さま)は力士のごとく、左手に連鼓を引き、右手に椎(つち)を推して撃つがごとき狀をなせり。『國史補(こくしほ)』〔唐・李肇〕に、雷州(らいしう)〔広東省の地名〕は春夏雷多し、雷公は秋冬には地中に伏(ふ)し、人取りて之を食ふ、その状彘(ぶた)に類(るゐ)すと。その雷聞百里(らいぶんひやくり)〔周易「震驚百里」に基づき、名声が遠方に鳴り響く意。「震」は上文の如く「雷」の意。〕といふは、百里を震驚(しんきやう)せしむるに本(もと)づくなり。雷撃三世といふは、諸〻(もろもろ)の說部(しやうせつ)〔小説〕に見えたる者甚だ多し。『左傳(さでん)』〔春秋左氏伝〕に、震電馮怒(しんでんひようど)〔烈火のごとく怒る意〕と云ひ、之を畏(おそ)るゝこと雷霆(らいてい)の如しとも云へり、故に怒りを發(はつ)して人を申飭(いまし)むる者を雷(かみなり)〔雷親爺の類〕といひ、之を受くる者は遂に、被他雷了一頓(彼に雷(かみなり)された)といふ。晉の顧愷之(こがいし)は桓温(かんおん)に憑重(ひようちやう)せられしが〔頼りにされ重んじられていたが〕、温の死するや、人その哭(な)く状(さま)を問ふに、曰く、聲は震雷の山を破るが如く、涙は河を傾けて海に注(そそ)ぐが如しと。故に小孩子(こども)が號哭(がうこく)して涙無き者を見て、乾打雷不下雨(雷ばかりで雨は降らぬ)といふ。打頭雷(初雷がなる)といふは、仲春(ちゆうしゆん)の月に雷の初めて聲を發するなり。收雷了といふは、仲秋の月に雷の初めて聲を收むるなり。宴會中に雷令〔雷遊び〕あり、手の中に錢を握り、第一に猜著(あ)てたる者を劈雷(へきらい)〔威勢のいい雷様〕といひ、おのれ獨り落實(おちつ)きたる者を悶雷(もんらい)〔地鳴りのようにくすぶる雷様〕といふ。鄕人が小考(せうかう)(府縣の試驗)の信(しらせ)を聞けば、又要雷同了〔また墜ちてしまいそうだ、の意らしい。〕といふに至つては、何と解(かい)すべきかを知らず。」私の見た中國の書物のうち雷について書いたものでは、この小文が最も風趣(ふうしゆ)に富んでゐると云へる。

こゝで私が連帶的(れんたいてき)に〔関連して〕思ひ出すのは日本の雷公に關する事である。民間に地震雷鳴火事親父(ぢしんかみなりくわじおやじ)といふ俗諺(ぞくげん)がある。意味は一番恐しいものを四つ擧げたのである、これによつて彼等(かれら)も非常に雷を恐れてゐることがわかる、しかしどうしたわけか雷公に對して少しも尊敬しない、ちやうど決して火神を祀(まつ)ることのないと同樣に。私は日本の類書(るゐしよ)を調べてみたが、雷が不孝の子を撃つたなどといふ類の紀事を見つけることは出來なかつた、もつとも史上には雷に震死(しんし)した人に乏(とぼ)しくないが、それはみな單に一種の天災と目(もく)され、今日の感電のやうな具合で、それに道德的意義を附會(ふくわい)する〔こじつける〕ことがない。ところで文學や美術の上には雷公はよく出現するのであるが、どうもあまり嚴(いか)めしくなく、反(かへ)つて喜劇的色彩が多いくらゐである。十四世紀の「狂言(きやうげん)」の中に『雷神(らいじん)』といふ一篇があり、雷公が天からすべり落ち、腰を折つて動けないので、通りがかりの藪醫者(やぶいしや)に頼んで針(はり)を打つて〔鍼灸療治して〕もらひ、痛い〳〵としきりに泣き、とにかく治(なを)つて天に飛びかへるといふのである。民間畫(ぐわ)の「大津繪(おほつゑ)」の中にも雷公の繪があり、眼がまるく、牙(きば)をむき出し、角(つの)を二つ生(は)やし、腰に虎の皮を纏(まと)ひ、ちやうど鬼(オニ、惡鬼(あつき)である、鬼魂(いうれい)に非(あら)ず)のやうな恰好(かつかう)をして、雲の上に身を伏(ふ)せ、鐵(てつ)の錨(いかり)のやうな鉤(かぎ)をつけた一本の長い繩(なは)を下(おろ)して、海の上に浮んでゐる雷鼓(らいこ)をすくひ上げようとしてゐるところである。有名な滑稽(こつけい)小説『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』(膝栗毛とは徒歩旅行の意)の後編下に年寄の順禮(じゆんれい)の身の上ばなしが出てゐる、雷どのがおつこちてその男の家で養生(やうじやう)してゐるうち、遂にその家の女婿(むこ)となつたが、そのあと家を出たなりけりで〔出たなりで、出たままで〕歸(かへ)つて來ない、するうち友達の雷どのが來ての話では、婿(むこ)どのは海の中へおつこちて、鯨(くじら)にがらら〔すっかり〕呑(の)まれたと。これは多分贋物(にせもの)の雷どのだとわれわれは推察(すいさつ)するが、兎(と)に角(かく)これによつて民間に雷公に關する笑話(せうわ)は隨分(ずゐぶん)多かつたことがわかる、そして女婿になつた話はその中でも最も面白い資料の一である、それに此(こ)の種の春畫(しゆんぐわ)もあるとのこと、そこへ來ては實に不敬(ふけい)も甚だしいと云つてよい。かゝる洒脱(しやだつ)の趣(おもむき)〔真面目ぶらない、垢抜けた興趣〕を私は最も喜ぶ、そこに活力と生意〔生気、生彩〕があるからである。惜しむらく中國にはかゝる精神を缺(か)いてゐる、たゞ『太平廣記』に狄仁傑(てきじんけつ)(唐朝の宰相(さいしやう))の事を載せ(『五雜組』にも轉録(てんろく)してある)、雷公が樹に夾(はさ)まれた話が出てゐる、しかしこれを救つてやつたため德〔得と同じ。〕をしてゐて、やはり報應の故事になつてしまつてゐる。日本國民は一層宗敎的情緖に富んでゐるのに拘らず、雷公を馬鹿にしたやうなところが多く、實はしかし一層親しい氣持を抱いてゐる。中國人は實際的功利(かうり)を重んじ、宗敎心は甚だ淡薄(たんぱく)である、それとて本來一種の特色ではあるが、しかし水火風雷に關して飽(あ)くまで恐怖に充(み)ち滿(み)ち、あらゆる記載(きさい)や說明にしてもみなかくも慘酷刻薄(ざんこくこくはく)であるのは、正に一種の病態(びやうたい)心理であつて、即ち精神の不健全なることが見られるのである。ハリソン女史〔Jane Ellen Harrioson〕は希臘(ギリシヤ)神話を論じてかう云つてゐる、

「この宗敎中の恐怖分子を洗除(せんぢよ)することは希臘の美術家と詩人の職務であつたのである。これこそわれわれが希臘の神話作者に對する最大の負債(ふさい)である。」〔ハリソン『神話学』〕日本が希臘の流風(りうふう)餘韻(よゐん)を有するに近いに反し、中國文人が專(もつぱ)ら野蠻(やばん)なる新しい戰慄(せんりつ)を創造するに努め、人心をして愈〻(いよいよ)痿縮(ゐしゆく)不仁(ふじん)ならしめてゐるのは、何と哀(かな)しいことではないか。

廿五年〔一九三六年〕五月

*兩觀の誅——孔子は魯(ろ)の司寇(しこう)となり、宰相(さいしやう)の事を攝行(せつかう)するや、先(ま)づ大夫(たいふ)の少正卯(せうせいばう)を誅(ちゆう)し、これを兩觀(りやうくわん)の下に戮(りく)した〔晒し者にした〕、と『孔子家語(かうしけご)』に見える。兩觀は宮闕(きうけつ)〔宮殿〕の名。少正卯は魯の聞人(ぶんじん)〔知名人〕、孔子のいはゆる五大惡(たいあく)を兼有(けんいう)してゐる男であつたため、孔子によつて誅(ちゆう)せられた。
*陰隲文——詳しく云へば『文昌帝君(ぶんしやうていくん)陰隲文(いんしつぶん)』〔陰隲は隠れた善行の意。〕、因果應報(いんぐわおうほう)の理を説(と)き、世俗の人に善を勸むる文。凡そ五百二十字。〔道敎の善書(勧善書、敎化文書)〕
*感應篇——即ち『太上感應篇(たいじやうかんのうへん)』。前者と同樣最も廣く行はれてゐる勸善書の一つで、多くの註釋(ちゆうしやく)書や圖說(づせつ)がある。
*封神傳——明(みん)の許仲琳(きよちゆうりん)の作と云はれる百回の長篇小説。周の武王が殷(いん)の紂王(ちうわう)を伐(う)つた故事に幾多の神魔仙佛を配(はい)し、戰勝後、武王が功臣功神を封(ほう)じたことを記す。