孟子 滕文公章句 上
 

孟子まうし

 

滕文公とうのぶんこう章句しやうく じやう


1)  滕文公とうのぶんこうリシトキ世子せいしまさカントよぎリテそう孟子まうし。孟子性善せいぜんヘバしよう堯舜げうしゆん
世子かへまた孟子。孟子曰、世子うたがフカ乎。いつナルノミ而已矣。成覵せいけんヒテ齊景公せいのけいこういはかれ丈夫ぢやうふナリ也、われ丈夫ナリ也。われなんおそレンヤ顏淵がんゑんしゆん何人なんびとゾヤ也、われ何人ゾヤ也。有スコトまたごとシトかく公明儀こうめいぎ文王ぶんわうナリ也。周公しうこうあざむカンヤ。今とうちやうおぎなハヾたんまさ五十里ごじふりナラント也。くにしよくすりレバ瞑眩めんげんやまひ
滕文公爲世子、將之楚、過宋而見孟子。孟子道性善、言必稱堯舜。
世子自楚反、復見孟子。孟子曰、世子疑吾言乎。夫道一而已矣。成覵謂齊景公曰、彼丈夫也、我丈夫也。吾何畏彼哉。顏淵曰、舜何人也、予何人也。有爲者亦若是。公明儀曰、文王我師也。周公豈欺我哉。今滕絶長補短、將五十里也。猶可以爲善國。書曰、若藥不瞑眩、厥疾不瘳。
滕文公世子たりしとき、將に楚に之かんとし、宋を過りて孟子に見ふ。孟子性善を道ひ、言へば必ず堯舜を稱す。
世子楚より反り、復孟子に見ふ。孟子曰く、世子吾が言を疑ふか。夫れ道は一なるのみ。成覵齊景公に謂ひて曰く、彼も丈夫なり、我も丈夫なり。吾何ぞ彼を畏れんやと。顏淵曰く、舜何人ぞや、予何人ぞや。爲すこと有る者は亦是のごとしと。公明儀曰く、文王は我が師なり。周公豈に我を欺かんやと。今滕は長を絶ち短を補はゞ、將に五十里ならんとす。猶ほ以て善き國と爲すべし。書に曰く、若し藥瞑眩せざれば、厥の疾瘳えずと。

2)  滕定公とうのていこうこう世子せいしツテ然友ぜんいういは昔者むかし孟子かつヒシコトそうおいつひわすいま不幸ふかうニシテいたレリ大故たいこわれほつスト使ヲシテ於孟子しかのちおこなハントこと
然友之すう、問於孟子。孟子曰、不またカラ乎。おやもとヨリナリみづかつく也。曾子そうしいはケルニハつかフルニテシれい、死セルニハはうぶルニテシまつルニテスルヲ、可かうゥ侯しよこうれいわれいまこれまな也。いへどしかリトかつケリこれ矣、三年さんねん齊疏しそふく飦粥せんじゆく天子てんしおよブマデ庶人しよじん三代さんだいともニストこれ
然友反命はんめいさだメテサントス三年さんねん父兄ふけい百官ひやつくわん皆不シテほつ宗國そうこく先君せんくんこれおこなフコト、吾先君せんくんまたフコト也。いたツテはんスルハこれ不可ふかナリいは喪祭さうさいしたがフト先祖せんぞ
われルナリクルツテ然友、吾他日たじついまかつ學問がくもんこのメリうまこゝろミルコトヲ一レけんいま也父兄・百官、不われレリトセ也。おそラクハランあたつくスコト大事だいじメニヘト孟子
然友キテすう孟子。孟子曰しか、不カラひともとことナリ也。孔子こうしのたまハクきみこうズレバ冢宰ちようさいすゝかゆおもて深墨しんぼくせきキテこく百官ひやつくわん有司いうしヘテルモノ一レかなシマさきンズレバナリこれ也。かみレバこのしもかならはなはダシキこれヨリ矣。君子くんしとくかぜニシテ也、小人せうじんとくくさナリ也。草くはフレバこれストリト世子
然友反命はんめい。世子曰しかまことリトわれ五月ごげついま命戒めいかい。百官・族人ぞくじんよしトシヒテレリトおよビテいたルニさう四方しはうきたツテ顏色がんしよくいたメル哭泣こくきふかなシメルてうスルものおほいよろこベリ
滕定公薨。世子謂然友曰、昔者孟子嘗與我言於宋、於心終不忘。今也不幸至於大故。吾欲使子問於孟子、然後行事。
然友之鄒、問於孟子。孟子曰、不亦善乎。親喪固所自盡也。曾子曰、生事之以禮、死葬之以禮、祭之以禮、可謂孝矣。ゥ侯之禮、吾未之學也。雖然吾嘗聞之矣、三年之喪、齊疏之服、飦粥之食、自天子達於庶人、三代共之。
然友反命。定爲三年之喪。父兄・百官皆不欲曰、吾宗國魯先君莫之行、吾先君亦莫之行也。至於子之身而反之不可。且志曰、喪祭從先祖。
曰、吾有所受之也。謂然友曰、吾他日未嘗學問、好馳馬試劍。今也父兄・百官、不我足也。恐其不能盡於大事。子爲我問孟子。
然友復之鄒問孟子。孟子曰、然、不可以他求者也。孔子曰、君薨聽於冢宰、歠粥面深墨、位即而哭。百官・有司莫敢不哀。先之也。上有好者、下必有甚焉者矣。君子之コ風也、小人之コ草也。草尚之風必偃。是在世子。
然友反命。世子曰、然、是誠在我。五月居廬、未有命戒。百官・族人可謂曰知。及至葬、四方來觀之。顏色之戚、哭泣之哀、弔者大悦。
滕定公薨ず。世子然友に謂つて曰く、昔者孟子嘗て我と宋に言ひしこと、心に於て終に忘れず。今や不幸にして大故に至れり。吾子をして孟子に問はしめ、然る後に事を行はんと欲すと。
然友鄒に之き、孟子に問ふ。孟子曰く、亦善からずや。親の喪は固より自ら盡す所なり。曾子曰く、生けるには之に事ふるに禮を以てし、死せるには之を葬るに禮を以てし、之を祭るに禮を以てするを、孝と謂ふべしと。ゥ侯の禮は、吾未だ之を學ばず。然りと雖も吾嘗て之を聞けり、三年の喪、齊疏の服、飦粥の食は、天子より庶人に達ぶまで、三代も之を共にすと。
然友反命す。定めて三年の喪を爲さんとす。父兄・百官皆欲せずして曰く、吾が宗國魯の先君も之を行ふこと莫く、吾が先君も亦之を行ふこと莫し。子の身に至つて之に反するは不可なり。且つ志に曰く、喪祭は先祖に從ふと。
曰く、吾之を受くる所有るなりと。然友に謂つて曰く、吾他日未だ嘗て學問せず、馬を馳せ劍を試みることを好めり。今や父兄・百官、我を足れりとせず。恐らくは其れ大事を盡すこと能はざらん。子我が爲めに孟子に問へと。
然友復た鄒に之きて孟子に問ふ。孟子曰く、然り、以て他に求むべからざる者なり。孔子曰はく、君薨ずれば冢宰に聽き、粥を歠り面は深墨、位に即きて哭す。百官・有司敢へて哀しまざるもの莫し。之に先んずればなり。上に好む者有れば、下は必ず焉より甚だしき者有り。君子のコは風にして、小人のコは草なり。草之に風を尚ふれば必ず偃すと。是れ世子に在りと。
然友反命す。世子曰く、然り、是れ誠に我に在りと。五月廬に居り、未だ命戒有らず。百官・族人可とし謂ひて知れりと曰ふ。葬に至るに及びて、四方來つて之を觀る。顏色の戚める、哭泣の哀しめる、弔する者大に悦べり。

3)  滕文公とうのぶんこうをさムルコトヲくに。孟子曰たみことカラゆるクス也。いはひるすなはかやよるすなはなはすみやカニまさおほをくまさはじメテカント百穀ひやつこくたみルヤみち也、有恆産こうさんものレドモ恆心こうしん、無恆産恆心いやしクモクンバ恆心放辟邪侈はうへきじやしキノミ已。およンデおちいルニつみしかのちしたがツテけいスルハミスルナリ也。いづクンゾリテ仁人じんじん一レくらゐミシテたみ而可ケンヤをさ也。
ゆゑ賢君けんくん恭儉きようけんニシテれいアリしもルニたみヨリせい陽虎やうこセバとみじんナラ矣、爲セバ
夏后氏かこうし五十ごじふニシテこう殷人いんひと七十しちじふニシテじよ周人しうひと百畝ひやつぽニシテてつじつじふいつナリ也。てつトハならスコトニシテ也、じよトハルコトナリ也。龍子りようしをさムルハキハじよヨリモ、莫シトルハカラこうヨリモ。貢くらベテ數歳すうさいうちのり樂歳らくさいニハ粒米りふべい狼戻らうれいおほルモ而不ルニぎやくすなはすくな凶年きようねんニハつちかフモでん而不ルニ、則タスベキヲ焉。ルニ父母使ヲシテ盻盻然けい〳〵ぜんトシテもつ終歳しゆうさい勤動きんどうスレドモ、不一レやしなフコトヲ父母ふぼまた稱貸しようたいシテuこれ使老稚らうちヲシテころ溝壑こうがくいづクンゾランヤルニ父母也。
世祿せいろくとうもとヨリおこなヘリ矣。いはあめフリテ公田こうでんつひおよベトじよノミリト公田こうでんリテこれレバこれいへどしうまたじよセシナリ也。
まう-シテ庠序しようじよ學校がつかうをししようトハやしなフコト也、かうトハをしフルコト也、じよトハルコトナリ也。ニハかういんニハじよ、周ニハしようがくすなは三代さんだいともニス。皆ゆゑ-ナリあきラカニスル人倫じんりん也。人倫明ラカナレバかみ、小民しもシムしも。有ラバ王者わうじやツコト、必きたツテランほふルナリ王者也。詩ヘルハいへど舊邦きうはうナリトめいあらタナリト文王ぶんわうヒナリ也。つとメテおこなハヾまたタニセント之國
使畢戰ひつせんヲシテ井地せいち。孟子曰きみまさおこなハント仁政じんせい選擇せんたくシテ使つかヒセシム。子必つとメヨ仁政經界けいかいはじ。經界不レバたゞシカラ井地せいちひとシカラ穀祿こくろくたひラカナラゆゑ暴君ばうくん汙吏をりかならおこた經界。經界すでシケレバわかでんせいスルコト祿ろく、可キナリシテさだ也。
とう壤地じやうち褊小へんせうナレドモ君子くんし焉、野人やじん焉。クンバ君子をさムルコト野人、無クンバ野人やしなフコト君子きういつトシテじよ國中こくちゆうじふトシテ使メヨみづかけい以下いか圭田けいでん。圭田五十畝ごじつぽ餘夫よふニハ二十五畝にじふごほナリスルモノモうつルモノモカレデシムルコトきやう郷田きやうでんともニシせい出入しゆつにふニモ相友あひともナヒ守望しゆばうニモ相助あひたす疾病しつぺいニモ相扶持あひふぢセシメバすなは百姓ひやくせい親睦しんぼくセンはうニシテせいトシ、井九百畝きうひやつぽトシうち公田こうでん八家はつかわたくし百畝ひやつぽともやしなハシム公田こうでん公事こうじをはツテしかのちヘテをさメシム私事シジゆゑ-ナリわか野人也。大略たいりやくナリ也。ごとキハじゆん-たくスルガこれ、則きみ一レ
滕文公問爲國。孟子曰、民事不可緩也。詩云、晝爾于茅、宵爾索綯。亟其乘屋、其始播百穀。民之爲道也、有恆産者有恆心、無恆産者無恆心。苟無恆心、放辟邪侈、無不爲已。及陷乎罪、然後從而刑之、是罔民也。焉有仁人在位、罔民而可爲也。
是故賢君必恭儉、禮下、取於民有制。陽虎曰、爲富不仁矣、爲仁不富矣。
夏后氏五十而貢、殷人七十而助、周人百畝而徹。其實皆什一也。徹者徹也、助者藉也。龍子曰、治地莫善於助、莫不善於貢。貢者校數歳之中以爲常。樂歳粒米狼戻、多取之而不爲虐、則寡取之。凶年糞其田而不足、則必取盈焉。爲民父母、使民盻盻然將終歳勤動、不得以養其父母。又稱貸而u之、使老稚轉乎溝壑。惡在其爲民父母也。
夫世祿滕固行之矣。詩云、雨我公田、遂及我私。惟助爲有公田。由此觀之、雖周亦助也。
設爲庠序・學校以ヘ之。庠者養也、校者ヘ也、序者射也。夏曰校、殷曰序、周曰庠。學則三代共之。皆所以明人倫也。人倫明於上、小民親於下。有王者起、必來取法。是爲王者師也。詩云周雖舊邦、其命惟新、文王之謂也。子力行、亦以新子之國。
使畢戰問井地。孟子曰、子之君將行仁政、選擇而使子。子必勉之。夫仁政必自經界始。經界不正、井地不鈞、穀祿不平。是故暴君・汙吏、必慢其經界。經界既正、分田制祿、可坐而定也。
夫滕壤地褊小、將爲君子焉、將爲野人焉。無君子莫治野人、無野人莫養君子。請、野九一而助、國中什一使自賦。卿以下必有圭田。圭田五十畝。餘夫二十五畝。死徙無出郷。郷田同井、出入相友、守望相助、疾病相扶持、則百姓親睦。方里而井、井九百畝、其中爲公田。八家皆私百畝、同養公田。公事畢、然後敢治私事。所以別野人也。此其大略也。若夫潤澤之、則在君與子矣。
滕文公國を爲むることを問ふ。孟子曰く、民の事は緩くすべからず。詩に云く、晝は爾ち茅を于り、宵は爾ち綯を索ふ。亟かに其に屋を乘ひ、其に始めて百穀を播かんとす。民の道たるや、恆産有る者は恆心有れども、恆産無き者は恆心無し。苟くも恆心無くんば、放辟邪侈、爲さざる無きのみ。罪に陷るに及んで、然る後に從つて之を刑するは、是れ民を罔みするなり。焉くんぞ仁人の位に在る有りて、民を罔みして爲むべけんや。
是の故に賢君は必ず恭儉にして、下に禮あり、民より取るに制有り。陽虎曰く、富を爲せば仁ならず、仁を爲せば富まずと。
夏后氏は五十にして貢し、殷人は七十にして助し、周人は百畝にして徹す。其の實は皆什に一なり。徹とは徹すことにして、助とは藉ることなり。龍子曰く、地を治むるは助よりも善きは莫く、貢よりも善からざるは莫しと。貢は數歳の中を校べて以て常と爲す。樂歳には粒米狼戻し、多く之を取るも虐と爲さざるに、則ち寡く之を取る。凶年には其の田を糞ふも足らざるに、則ち必ず盈たすべきを取る。民の父母たるに、民をして盻盻然として將て終歳勤動すれども、以て其の父母を養ふことを得ざらしむ。又稱貸して之をuし、老稚をして溝壑に轉ばしむ。惡くんぞ其の民の父母たるに在らんや。
夫れ世祿は滕固より之を行へり。詩に云く、我が公田に雨ふりて、遂に我が私に及べと。惟だ助のみ公田有りと爲す。此によりて之を觀れば、周と雖も亦助せしなり。
庠序・學校を設け爲して以て之をヘふ。庠とは養ふこと、校とはヘふること、序とは射ることなり。夏には校と曰ひ、殷には序と曰ひ、周には庠と曰ふ。學は則ち三代之を共にす。皆人倫を明らかにする所以なり。人倫上に明らかなれば、小民下に親しむ。王者の起つこと有らば、必ず來つて法を取らん。是れ王者の師たるなり。詩に周は舊邦なりと雖も、其の命は惟れ新たなりと云へるは、文王の謂ひなり。子力めて行はゞ、亦以て子の國を新たにせんと。
畢戰をして井地を問はしむ。孟子曰く、子の君將に仁政を行はんとし、選擇して子を使ひせしむ。子必ず之を勉めよ。夫れ仁政は必ず經界より始む。經界正しからざれば、井地鈞しからず、穀祿平らかならず。是の故に暴君・汙吏は、必ず其の經界を慢る。經界既に正しければ、田を分ち祿を制すること、坐して定むべきなり。
夫れ滕は壤地褊小なれども、將た君子爲り、將た野人爲り。君子無くんば野人を治むること莫く、野人無くんば君子を養ふこと莫し。請ふ、野は九に一として助し、國中は什に一として自ら賦せしめよ。卿以下は必ず圭田有り。圭田は五十畝。餘夫には二十五畝なり。死するものも徙るものも郷を出でしむること無かれ。郷田は井を同にし、出入にも相友なひ、守望にも相助け、疾病にも相扶持せしめば、則ち百姓親睦せん。方里にして井とし、井を九百畝とし、其の中を公田と爲す。八家皆百畝を私し、同に公田を養はしむ。公事畢つて、然る後に敢へて私事を治めしむ。野人を別つ所以なり。此れ其の大略なり。夫の之を潤澤するがごときは、則ち君と子とに在りと。

4)  有~農しんのうげんもの許行きよこうナルモノとういたリテもんゲテ文公ぶんこういは遠方ゑんぱうひと、聞きみおこなフト仁政じんせいねがハクハケテ一廛いつてんラントたみ文公ぶんこうあたいへ數十人すうじふにんみなかつくつリテむしろもつしよく
陳良ちんりやう陳相ちんしやうナルモノおとうとしんウテ耒耜らいしそうキテとういは、聞おこなフト聖人せいじんまつりごとまた聖人ナリ也。願ハクハラント聖人たみ
陳相ヒテ許行きよこうおほいよろここと〴〵テヽがくまなこれ
陳相ちんしやう孟子ヒテ許行げんいは滕君とうくんすなはまこと賢君けんくんナリ也。いへどしかリトいまみち也。賢者けんじやたみならたがやシテしよく饔飧ようそんシテをさいまとうニハ倉廩そうりん府庫ふこすなはしひたゲテたみもつみづかやしなフナリ也。いづクンゾントけんナルヲ
孟子曰許子きよしかならヱテぞくしかのちしよくスルカ。曰しかリト。許子リテぬのルカ。曰いな、許子ルトかつ。許子くわんスルカ。曰、冠スト。曰なにヲカスルト。曰、冠ストしろぎぬ。曰みづかルカ。曰、否、以フトこれ。曰、許子奚爲なんすレゾルトみづか。曰がいアレバナリトたがやスニ。曰、許子もつ釜甑ふそうかし、以てつたがやスカ。曰しかリトみづかつくルカこれ。曰、否、以フト
ぞくフルハ械器かいき者、不しひたグト陶冶たうや。陶冶また械器フルハ者、サンヤしひたグト農夫のうふ哉。許子きよしなん陶冶キテ皆取リテこれいへうちもちヰルヲ何爲なんすレゾ紛紛然ふんぷんぜんトシテ百工ひやつこう交易かうえきセンヤなん許子きよし之不ルヤトはゞかはん。曰、百工之事もとヨリルナリカラたがやしかラバすなはをさムルコトノミ天下てんかひとケンヤ與。有大人たいじん之事、有小人せうじん之事一人ひとりニシテ而百工ところそなハランヤみづかシテしかのちもちヰントセバひきヰテ天下つかレシムルナリ也。ゆゑいはらうスルモノこゝろスルモノちから。勞スルをさ、勞スルメラル於人。治メラルヽ於人やしな、治ムルやしなハルト於人。天下通義つうぎナリ也。
あたツテげうとき、天下いまたひらカナラ洪水こうずゐ横流わうりうシテはん-らん天下てんか草木さうもく暢茂ちやうも禽獸きんじう繁殖はんしよくシテ五穀ごこくみの。禽獸せま獸蹄じうてい鳥跡てうせきみちまじハル中國ちゆうごくげうひとうれこれゲテしゆんベシム焉。しゆん使ムルニuえきヲシテつかさど一レuえきもやシテ山澤さんたくこれ、禽獸のがかくレタリとほ九河きうかをさメテせいたふそゝこれうみけつぢよかんはいシテわいそゝこれかうしかのち中國ちゆうごくクナリヌしよく也。あたツテヤとき也、はち-ねんそとタビギテかど而不リキいへどほつストたがやサントンヤ乎。
后稷こうしよくをしたみ稼穡かしよくじゆ-げい五穀ごこく。五穀じゆくシテ民人みんじんはぐゝマルひとたもツヤみち也、飽食煖衣はうしよくだんいエ居いつきよシテケレバをしすなはちかヅク禽獸きんじう聖人せいじんリテうれフルコトこれ使せつヲシテ司徒しとをしフルニもつテス人倫じんりん父子ふししん君臣くんしん夫婦ふうふべつ長幼ちやうえうじよ朋友ほういうラシムしん放勳はうくんいはいたハリこれねぎらたゞなほクシたすかば使-とくまたしたがツテすく-めぐムト聖人せいじんうれフルコトたみごとクノしかルヲいとまアランヤたがやスニ乎。
げうもつランコトヲしゆんおのうれヒト、舜ランコトヲ皐陶かうえうトヲヒト百畝ひやつぽ之不ルヲ一レをさマラスハおのうれヒト農夫のうふナリ也。わかツニテスルざいこれけいをしフルニテスルぜん、謂ちゆうメニ天下ルハ者、謂じんゆゑ天下あたフルハやすケレドモメニ天下ルハかた孔子こうしのたまハクおほいナルカナげうルヤきみおほいナリトのつとルノミ蕩蕩乎たう〳〵こトシテたみなづくルモノ焉。きみナルカナしゆん也。巍巍乎ぎゞこトシテたもツテ天下しかあづか堯舜げうしゆんをさムルモ天下カランヤもちヰルこゝろ哉。またルノミもちたがやスコトニ耳。
われケドモもつへんズルこといまへんゼラルヽこと也。陳良ちんりやうさんナリ也。よろこ周公しうこう仲尼ちゆうぢみちきたノカタまな中國ちゆうごく北方ほつぱう學者がくしやいまルナリ あたルコトこれさきンズルモノ也。かれ豪傑がうけつナリ也。兄弟けいていつかフルコトこれ數十年すうじふねんナルニシテつひそむケリ
昔者むかし孔子こうしぼつスルヤ三年さんねんのち門人もんじんをさメテにんまさかへラントリテいふ子貢しこう相嚮あひむかヒテこく、皆うしなこゑしかのちかへ。子貢かへリテきづしつにはひとルコト三年ニシテ他日たじつ子夏しか子張しちやう子有しいうもつ有若いうじやくタルヲ聖人せいじんほつシテもつつかフル孔子つかヘント曾子そうし。曾子いは、不カラ江漢こうかんもつあらこれ秋陽しうやうさらストモqq乎こう〳〵こトシテルノミカラくはいま南蠻鴃舌なんばんげきぜつひとトシ先王せんわうみちそむキテまなこれまたことナレリ曾子そうし矣。われケドモデヽ幽谷いうこくうつ喬木けうぼくものいまくだツテ喬木於幽谷魯頌ろしよういは戎狄じゆうてき荊舒けいじよラスト。周公まさレヲこれまなまたへん
したがヘバ許子きよしみちすなはあたひナラ國中こくちゆういつはいへど使ムト五尺ごせきわらはヲシテ一レこれルコト一レあざむクモノ布帛ふはく長短ちやうたんひとシケレバすなはあたひ相若あひしあさいときいとわた輕重けいちようシケレバ、則賈相若五穀ごこく多寡たくわシケレバ、則賈相若くつ大小だいせうシケレバ、則賈相若クト
いはもの之不ルハひとシカラ、物じやうナリ也。あるい相倍蓰あひばいしあるい相什伯あひじふはくあるい相千萬あひせんばんベテひとシウスこれみだルナリ天下也。巨屨きよく小屨せうくひとシウセバあたひひとつくランヤこれ哉。したがハヾ許子之道相率あひひきヰテいつはリヲものナリ也。いづクンゾをさメント國家こつか
有爲~農之言者許行。自楚之滕、踵門而告文公曰、遠方之人、聞君行仁政。願受一廛而爲氓。文公與之處。其徒數十人、皆衣褐、捆屨織席以爲食。
陳良之徒陳相、與其弟辛、負耒耜而自宋之滕、曰、聞君行聖人之政。是亦聖人也。願爲聖人氓。
陳相見許行而大悦、盡棄其學而學焉。
陳相見孟子、道許行之言曰、滕君則誠賢君也。雖然未聞道也。賢者與民竝耕而食、饔飧而治。今也滕有倉廩・府庫。則是事ッ而以自養也。惡得賢。
孟子曰、許子必種粟而後食乎。曰、然。許子必織布而後衣乎。曰、否、許子衣褐。許子冠乎。曰、冠。曰、奚冠。曰、冠素。曰、自織之與。曰、否、以粟易之。曰、許子奚爲不自織。曰、害於耕。曰、許子以釜甑爨、以鐵耕乎。曰、然。自爲之與。曰、否、以粟易之。
以粟易械器者、不爲雌ゥ冶。陶冶亦以其械器易粟者、豈爲飼_夫哉。且許子何不爲陶冶。舍皆取ゥ其宮中而用之、何爲紛紛然與百工交易。何許子之不憚煩。曰、百工之事、固不可耕且爲也。
然則治天下、獨可耕且爲與。有大人之事、有小人之事。且一人之身而百工之所爲備。如必自爲而後用之、是率天下而路也。故曰、或勞心、或勞力。勞心者治人、勞力者治於人。治於人者食人、治人者食於人。天下之通義也。
當堯之時、天下猶未平。洪水横流氾濫天下、草木暢茂禽獸繁殖、五穀不登。禽獸偪人、獸蹄鳥跡之道、交於中國。堯獨憂之、擧舜而敷治焉。舜使u掌火、u烈山澤而焚之、禽獸逃匿。禹疏九河、瀹濟・漯而注ゥ海、決汝・漢排淮・泗而注之江。然後中國可得而食也。當是時也、禹八年於外、三過其門而不入。雖欲耕得乎。
后稷ヘ民稼穡、樹藝五穀。五穀熟而民人育。人之有道也、飽食煖衣、エ居而無ヘ、則近於禽獸。聖人有憂之、使契爲司徒、ヘ以人倫。父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信。放勳曰、勞之來之、匡之直之、輔之翼之、使自得之、又從而振コ之。聖人之憂民如此。而暇耕乎。
堯以不舜爲己憂、舜以不禹皐陶爲己憂。夫以百畝之不易爲己憂者農夫也。分人以財、謂之惠、ヘ人以善、謂之忠、爲天下得人者、謂之仁。是故以天下與人易、爲天下得人難。孔子曰、大哉堯之爲君。惟天爲大、惟堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。君哉舜也。巍巍乎、有天下而不與焉。堯舜之治天下、豈無所用其心哉。亦不用於耕耳。
吾聞用夏變夷者、未聞變於夷者也。陳良楚産也。悦周公・仲尼之道、北學於中國。北方之學者未能或之先也。彼所謂豪傑之士也。子之兄弟事之數十年、師死而遂倍之。
昔者孔子沒、三年之外、門人治任將歸。入揖於子貢、相嚮而哭、皆失聲然後歸。子貢反築室於場、獨居三年然後歸。他日、子夏・子張・子有、以有若似聖人、欲以所事孔子事之、彊曾子。曾子曰、不可。江漢以濯之、秋陽以暴之、qq乎不可尚已。今也南蠻鴃舌之人、非先王之道、子倍子之師而學之。亦異於曾子矣。吾聞出於幽谷遷于喬木者、未聞下喬木而入於幽谷者。魯頌曰、戎狄是膺、荊舒是懲。周公方且膺之。子是之學。亦爲不善變矣。
從許子之道、則市賈不貳、國中無僞。雖使五尺之童適市、莫之或欺。布帛長短同、則賈相若。麻・縷・絲・絮輕重同、則賈相若。五穀多寡同、則賈相若。屨大小同、則賈相若。
曰、夫物之不齊、物之情也。或相倍蓰、或相什伯、或相千萬。子比而同之。是亂天下也。巨屨・小屨同賈、人豈爲之哉。從許子之道、相率而爲僞者也。惡能治國家。
~農の言を爲す者に許行なるもの有り。楚より滕に之き、門に踵りて文公に告げて曰く、遠方の人、君仁政を行ふと聞く。願はくは一廛を受けて氓と爲らんと。文公之に處を與ふ。其の徒數十人、皆褐を衣て、屨を捆ち席を織りて以て食を爲す。
陳良の徒に陳相なるもの、其の弟の辛と、耒耜を負うて宋より滕に之きて、曰く、君聖人の政を行ふと聞く。是れ亦聖人なり。願はくは聖人の氓と爲らんと。
陳相許行に見ひて大に悦び、盡く其の學を棄てゝ焉を學ぶ。
陳相孟子に見ひ、許行の言を道ひて曰く、滕君は則ち誠に賢君なり。然りと雖も未だ道を聞かず。賢者は民と竝び耕して食し、饔飧して治む。今や滕には倉廩・府庫有り。則ち是れ民を獅ーて以て自ら養ふなり。惡くんぞ賢なるを得んと。
孟子曰く、許子は必ず粟を種ゑて而る後に食するかと。曰く、然りと。許子は必ず布を織りて而る後に衣るかと。曰く、否、許子は褐を衣ると。許子は冠するかと。曰く、冠すと。曰く、奚をか冠すると。曰く、素を冠すと。曰く、自ら之を織るかと。曰く、否、粟を以て之に易ふと。曰く、許子は奚爲れぞ自ら織らざると。曰く、耕すに害あればなりと。曰く、許子は釜甑を以て爨ぎ、鐵を以て耕すかと。曰く、然りと。自ら之を爲るかと。曰く、否、粟を以て之に易ふと。
粟を以て械器に易ふるは、陶冶を獅ョと爲さず。陶冶も亦其の械器を以て粟に易ふるは、豈に農夫を獅ョと爲さんや。且つ許子は何ぞ陶冶を爲さざる。皆ゥを其の宮の中に取りて之を用ゐるを舍きて、何爲れぞ紛紛然として百工と交易せんや。何ぞ許子の煩を憚らざるやと。曰く、百工の事は、固より耕し且つ爲すべからざるなりと。
然らば則ち天下を治むることのみ、獨り耕し且つ爲すべけんや。大人の事有り、小人の事有り。且つ一人の身にして百工の爲す所備はらんや。如し必ず自ら爲して而る後に之を用ゐんとせば、是れ天下を率ゐて路れしむるなり。故に曰く、心を勞するもの或り、力を勞するもの或り。心を勞する者は人を治め、力を勞する者は人に治めらる。人に治めらるゝ者は人を食ひ、人を治むる者は人に食はると。天下の通義なり。
堯の時に當つて、天下猶ほ未だ平かならず。洪水横流して天下に氾濫し、草木暢茂し禽獸繁殖して、五穀登らず。禽獸人に偪り、獸蹄鳥跡の道、中國に交はる。堯獨り之を憂へ、舜を擧げて治を敷べしむ。舜uをして火を掌らしむるに、u山澤を烈して之を焚き、禽獸は逃れ匿れたり。禹九河を疏し、濟・漯を瀹めてゥを海に注ぎ、汝・漢を決し淮・泗を排して之を江に注ぐ。然る後に中國得て食すべくなりぬ。是の時に當つてや、禹外に八年、三たび其の門を過ぎて入らざりき。耕さんと欲すと雖も得んや。
后稷は民に稼穡をヘへ、五穀を樹藝す。五穀熟して民人育まる。人の道を有つや、飽食煖衣、エ居してヘへ無ければ、則ち禽獸に近づく。聖人は之を憂ふること有りて、契をして司徒爲らしめ、ヘふるに人倫を以てす。父子に親有り、君臣に義有り、夫婦に別有り、長幼に序有り、朋友に信有らしむ。放勳曰く、之を勞はり之を來ひ、之を匡し之を直くし、之を輔け之を翼ひ、之を自得せしめ、又從つて之を振ひコむと。聖人の民を憂ふること此くのごとし。而るを耕すに暇あらんや。
堯は舜を得ざらんことを以て己が憂ひと爲し、舜は禹と皐陶とを得ざらんことを以て己が憂ひと爲す。夫れ百畝の易まらざるを以て己が憂ひと爲すは農夫なり。人に分つに財を以てする、之を惠と謂ひ、人にヘふるに善を以てする、之を忠と謂ひ、天下の爲めに人を得るは、之を仁と謂ふ。是の故に天下を以て人に與ふるは易けれども、天下の爲めに人を得るは難し。孔子曰はく、大なるかな堯の君たるや。惟だ天を大なりと爲し、惟だ堯之に則るのみ。蕩蕩乎として、民の能く名るもの無し。君なるかな舜や。巍巍乎として、天下を有つて而も與らずと。堯舜の天下を治むるも、豈に其の心を用ゐる所無からんや。亦耕すことに用ゐざるのみ。
吾夏を用て夷を變ずる者を聞けども、未だ夷に變ぜらるゝ者を聞かず。陳良は楚の産なり。周公・仲尼の道を悦び、北のかた中國に學ぶ。北方の學者は未だ之に先んずるもの或ること能はざるなり。彼は謂はゆる豪傑の士なり。子の兄弟之に事ふること數十年なるに、師死して遂に之に倍けり。
昔者孔子沒するや、三年の外、門人任を治めて將に歸らんとす。入りて子貢に揖し、相嚮ひて哭し、皆聲を失ひ然る後に歸る。子貢反りて室を場に築き、獨り居ること三年にして然る後に歸る。他日、子夏・子張・子有、有若の聖人に似たるを以て、孔子に事ふる所を以て之に事へんと欲して、曾子に彊ふ。曾子曰く、可からず。江漢以て之を濯ひ、秋陽以て之を暴すとも、qq乎として尚ふべからざるのみと。今や南蠻鴃舌の人、先王の道を非とし、子は子の師に倍きて之を學ぶ。亦曾子に異なれり。吾幽谷を出でゝ喬木に遷る者を聞けども、未だ喬木を下つて幽谷に入る者を聞かず。魯頌に曰く、戎狄は是れ膺ち、荊舒は是れ懲らすと。周公も方に且つ之を膺つ。子は是れを之學ぶ。亦善く變ぜずと爲すと。
許子の道に從へば、則ち市の賈貳ならず、國中僞り無し。五尺の童をして市に適かしむと雖も、之を欺くもの或ること莫し。布帛の長短同しければ、則ち賈相若く。麻・縷・絲・絮の輕重同しければ、則ち賈相若く。五穀の多寡同しければ、則ち賈相若く。屨の大小同しければ、則ち賈相若くと。
曰く、夫れ物の齊しからざるは、物の情なり。或は相倍蓰し、或は相什伯し、或は相千萬す。子比べて之を同しうす。是れ天下を亂るなり。巨屨・小屨賈を同しうせば、人豈に之を爲らんや。許子の道に從はゞ、相率ゐて僞りを爲す者なり。惡くんぞ能く國家を治めんと。

5)  墨者ぼくしや夷之いしリテ徐辟じよへきもとハンコトヲ孟子まうし。孟子曰われもとヨリねがヘドモハンコトヲ、今われメリ。病エナバわれまさキテハント。夷之不レトきた
他日たじつまたハンコトヲ孟子。孟子曰、吾今すなはもつ矣。不レバたゞすなはみちあらハレ。我まさサント。吾聞、夷之墨者ナリぼくをさムルヤさう也、以うすキヲみち也、夷之おもヘリトあらたメント天下てんか-ハンヤあらズシテ而不一レたつと也。しかしこうシテ夷之はうむルコトおやあつキハ、則ところいやシムつかヘシナリおや
徐子じよしもつ夷之いし。夷之曰儒者じゆしやヘルいにしへひとごとクスト一レやすンズルガ赤子せきしげんなんヒゾヤ也。すなは-フトあい差等さとうほどこスコトはじムト
徐子じよしもつ孟子。孟子曰夷之まこと-ヘルカしたシムコトあにストごとしたシムガとなり赤子せきし乎。かれリテルコトしかルナリ也。赤子せきし匍匐ほふくシテまさルハ ラントせいあら赤子つみ也。てんしやうズルヤもの也、使これヲシテいつニセ一レもとしかルニ夷之トスルガもとゆゑナリけだ上世じやうせいかつはうむおやもの。其スレバすなはゲテたに他日たじつグレバ狐狸こりラヒ蠅蚋蛄ようぜいこくら。其ひたひリテあせしたゝよこにらみスレドモ而不あせしたゝルハ也、あらメニルニ中心ちゆうしんヨリおよブナリ面目めんもくおほツテかへかへシテ{艸/纍}るゐりおほおほおほフコトまことナラバ也、すなは孝子かうし仁人じんじんおほフモまたランみち
徐子じよし夷子いし。夷子憮然ぶぜんトシテしばらくありてさづケタリ
墨者夷之因徐辟而求見孟子。孟子曰、吾固願見、今吾尚病。病愈、我且往見。夷之不來。
他日、又求見孟子。孟子曰、吾今則可以見矣。不直則道不見。我且直之。吾聞、夷之墨者。墨之治喪也、以薄爲其道也、夷之思以易天下。豈以爲非是而不貴也。然而夷之葬其親厚、則是以所賤事親也。
徐子以告夷之。夷之曰、儒者之道古之人若保赤子、此言何謂也。之則以爲愛無差等、施由親始。
徐子以告孟子。孟子曰、夫夷之誠以爲人之親其兄子、爲若親其鄰之赤子乎。彼有取爾也。赤子匍匐將入井、非赤子之罪也。且天之生物也、使之一本。而夷之二本故也。蓋上世嘗有不葬其親者。其親死、則擧而委之於壑。他日過之、狐狸食之、蠅蚋蛄嘬之。其顙有、睨而不視。夫也、非爲人、中心達於面目。蓋歸、反〓{艸/纍}梩而掩之。掩之誠是也、則孝子・仁人之掩其親亦必有道矣。
徐子以告夷子。夷子憮然爲陞H、命之矣。
墨者夷之徐辟に因りて孟子に見はんことを求む。孟子曰く、吾固より見はんことを願へども、今吾尚ほ病めり。病愈えなば、我且に往きて見はんとす。夷之來らざれと。
他日、又孟子に見はんことを求む。孟子曰く、吾今則ち以て見ふべし。直さざれば則ち道見はれず。我且に之を直さんとす。吾聞く、夷之は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と爲し、夷之は以て天下を易めんと思へりと。豈に是に非ずして貴ばずと以爲はんや。然り而して夷之の其の親を葬ること厚きは、則ち是れ賤しむ所を以て親に事へしなりと。
徐子以て夷之に告ぐ。夷之曰く、儒者の古の人赤子を保んずるがごとくすと道へる、此の言は何の謂ひぞや。之は則ち愛に差等無く、施すこと親より始むと以爲ふと。
徐子以て孟子に告ぐ。孟子曰く、夫れ夷之は誠に其の兄の子を人の親しむこと、其の鄰の赤子を親しむがごとく爲すと以爲へるか。彼は取ること有りて爾るなり。赤子の匍匐して將に井に入らんとするは、赤子の罪に非ず。且つ天の物を生ずるや、之をして本を一にせしむ。而るに夷之は本を二とするが故なりと。
蓋し上世嘗て其の親を葬らざる者有り。其の親死すれば、則ち擧げて之を壑に委つ。他日之を過ぐれば、狐狸之を食らひ、蠅蚋蛄之を嘬ふ。其の顙る有りて、睨すれども視ず。夫のるは、人の爲めにるに非ず、中心より面目に達ぶなり。蓋つて歸り、〓梩を反して之を掩ふ。之を掩ふこと誠に是ならば、則ち孝子・仁人の其の親を掩ふも亦必ず道有らんと。
徐子以て夷子に告ぐ。夷子憮然として爲陞Hく、之に命けたりと。

1)〓{艸/纍}
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○ 滕文公−前三二七〜?。定公の嫡子。滕城は孔子の生地曲阜から南へ微山湖へ向かって約七〇キロメートルの地。孟子の生地鄒は曲阜の南約二〇キロメートルの位置にあった。春秋時代以来の古い国だが、本文にあるように方五〇里(約一三キロメートル四方)の小国で、千葉県船橋市の面積の約二倍、東京都の面積の四分の一ほどの規模である。文公の次の元公の代に宋に滅ぼされた。文公は孟子に従って井田法を実施したという。
○ 世子−太子。諸侯の世継ぎ。天子の場合の後継者は太子、諸侯の場合は世子と言った。王侯のその他の子女は公子という。
○ 之楚−人質のような意味合いだったか。梁恵王下にも、滕は斉と楚に挟まれ、どちらに臣属したらよいかを文公は孟子に尋ねる話が載る。
○ 過る−立ち寄る。『孟子』の初めの章句を時系列にたどると、孟子は斉を去った後、宋にいたことになる。孟子は斉の卿待遇だった時、滕に弔問使と訪れていたので、その挨拶のためもあったか。
○ 性善−『孟子』での初見。
○ 稱す−例に挙げる、称賛する。
○ 復−もう一度、再び。
○ 疑−斉楚に挟まれた弱小国の世継ぎとしては、大国の政略に絶えず脅かされ、王道の理屈だけでは得心の行かないところがあったのだろう。
○ 成覵−斉の勇者という。伝未詳。聖賢もしくは他の尊貴な者を景公が誉めるのを聞いて発言したと解される。
○ 丈夫−「じやうふ(じょうふ)」と読む。一箇の男子、ますらお。立派な成年男子や勇者をも「(大)丈夫」と呼ぶが、賤丈夫や小丈夫の用例も見られた。
○ 顏淵−顔回。孔子の弟子。
○ 何人−どんな人、なにほどの人物。「何人ぞや」という反語形は、なんら特別な人間ではない、という意。及び難い聖人としてただ祭り上げるのでなく、可能な努力目標として据え直す意図からの言葉である。
○ 有爲者−偉大な事業を成し遂げようと志す者。
○ 亦若是−いったいこのくらいには(なろうとすれば)なれるはずのものだ、の意。
○ 公明儀−魯の賢者。
○ 文王・・・−短いので文意がとれないが、前の引用と照らし合わせれば、文王・周公を崇めるのでなく、これに学ぶ志を説いたものか。
○ 書曰−「若藥弗瞑眩、厥疾弗瘳。」(『書経』尚書・説命上)
○ 瞑眩−「めんげん」と読む。眩暈(めまい)を覚えること。良薬口に苦しで、実践に困難を覚えるほど高い理想を敢て追い求めよ、という含意。

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(本文はtaiju生作「漢文エディタ」原文よりHTMLに変換したものである。原文は後日利用の便を考えて、このファイルに含めてある。又、上下のコラムを連動させるスクリプトも入っている。)