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支那と漱石

編輯部から依頼されてわたしは古い記憶を蘇(よみがへ)らせた。古雜誌をひきだしてみると、六七年前に「漱石の小說の中國譯」といふ題目で執筆したことがある。これは「草枕」についての支那譯の紹介である。いまこの機會に再び漱石の支那における反映を追求してみよう。既にこの草稿を認(したた)めようとするとき、つい最近到着した新刊書目には、「吾輩は猫である」の支那譯が公刊されるのを廣告してゐる。昭和十一年十二月頃には刊行されるだらうと思ふが、これは林雪淸(りんせつせい)の飜譯である。文化生活出版社刊の「現代日本文學叢刊」の一卷である。主として陸少懿(りくせうい)と呉朗西(ごらうせい)との共同で選擇されたのであるが、漱石の小説の支那譯は、漸次(ぜんじ)に支那文壇に出現しつつある。これについては公刊を待つて紹介するとして、暫(しばら)く漱石の動きを眺めてみよう。

一體(いつたい)漱石の作品中どんなものが支那で譯されてゐるか。周作人の飜譯した「日本小説集」中には當然漱石の小説譯はあらうと思ふ。既に十二、三年程前に發刊されたものであるので、わたしは現在手もとにそれを所藏してゐないために、思ひだせないが、恐らくこの書物が夏目生生を支那に紹介した第一歩ではあるまいか。とまれ、漱石の小説の全譯はあるかないかは兎(と)も角(かく)として、過去において周作人は漱石の文學全般にわたる紹介に關與(くわんよ)しては、充分に、氏隨筆その他において書かれて來てゐる。かかる文學上の雰圍氣(ふんゐき)は、やがてその後の人々によつて全譯をみるに至つてゐる。雜誌「小說月報」の第十九卷第一號には、謝六逸(しやろくいつ)が「永日(えいじつ)小品」のうち「猫の墓」と「火鉢」とを飜譯してゐる。後に、他の日本作家の小品をも譯出して編輯し「近代日本小品文選」なる單行本になつた。上海の大江書舗(しよほ)である。後にこれは五版ぐらゐまで版を重ねて昨年頃迄(まで)も一般に愛讀されてゐた。謝六逸は「日本文學史」の著書があり、現代日本文學にはかなり通曉(つうげう)した點を見出しうる學者である。次に現代の一流の作家である郁達夫(いくたつぷ)が、漱石の「文學論」を飜譯してゐる。

しかし長篇にはいまだ全譯がなく、みな短篇ばかりであつたが、「草枕」の全譯出版をまつて始めて、漱石の面影(おもかげ)は支那に進出した。曾(かつ)てわたしは「草枕」の支那譯を紹介して書いてゐる。

「此(この)書(草枕の支那譯)は裝幀(さうてい)を漱石全集のそれに模(も)した朱地に縁の文字模樣のある裝飾で、内容はその第一頁に書棚を背に漱石が椅子に安坐してゐる例の尊敬すべき風貌(ふうばう)の寫眞や、漱石の菊花の眞蹟畫(しんせきぐわ)の寫眞を附けてあり、かつこの文豪についての簡單ながらかなり正確な來歷や漱石の藝術についての譯者の小論文をもつたものである。譯者は崔萬秋(さいばんしう)で、眞美善書店の發行になつてゐる。私の想像では多分譯者は三十前後の年齡の人でもあるらしく思ふが、混亂した古那文壇に確然として、かゝる傑作的な古典を譯して他山の石を築かんとしてゐる功績には滿腔(まんかう)の尊敬を懷(いだ)かずにはゐられない。もつとも肝心な處(ところ)になると誤譯もかなり摘出することもできるが、然(しか)し何より見るべきは原作をよくマスタァしたらしい筆色(ひつしよく)が全面に漂(ただよ)つてをり、尠(すくな)くとも英譯なり或はその種の轉譯〔重訳〕とは思はれぬ處を見出す部分が多く、かつは譯者は日本文學に通曉した反映が充分(じゆうぶん)うかゞはれるので、まづこのくらゐの飜譯は外國文學の飜譯としては尊敬に値する。一々の日本語の理解に至つてはやゝ不充分であるが、とまれこの飜譯は漱石紹介上、支那文壇の一エポック〔画期的事業〕である。」

この稿(かう)を書いたのは、昭和四年秋である。民國十八年である。この春に、この支那譯は公刊されたのである。そしてわたしは、この年には北京に旅行をした。で、その拙稿は續けて、

「この夏わたしは支那へ遊んだが、その際日本文學の輸入には多大の貢獻(こうけん)者であり最も日本文學に理解のある北平大學の敎授でもあり、文學運動の第一線の人でもある——氏は小説は書いてゐない、ほとんど隨筆と外國文學の紹介とを主として經歷してきた——周作人(しうさくじん)(魯迅の弟)を北京に訪れたが、氏は言下(げんか)にこの『草枕』の支那譯が、若い人の手になされたのを喜んでゐられるのをわたしは熱心に語り聞かされた。」

考へやうによつては、漱石は民國十八年(昭和四年)以來から、支那に明確な姿を反映し始めたともいへる。これ以前における漱石は、漠然とその全貌を、支那文壇に投寫してゐた形である。周作人は子規、漱石を愛讀する機會が多いらしく、いはば氏には日本の俳句の妙諦(みやうてい)〔妙処〕に理解があるらしく、俳諧、寫生文等に同感する點を深い過去にもつてゐるせゐか一層この書の發行を喜んでゐたらしい。わたしも歸國に際して「草枕」の支那譯を北京の書店で購(あがな)つた。そして日本の雜誌に紹介した。この拙稿は支那にあつて譯述者也崔萬秋の眼に留(とま)つた。崔君はわたしに好意ある書翰(しよかん)を送つてきた。越えて二、三年して、わたしは崔君と松岡讓(ゆづる)さんの邸宅で面接した。わたしの想像した如く、まだ若い青年であつた。今年あたり三十ぐらゐではあるまいか。その後上海に歸り小説を雜誌や新聞に發表してゐるとも聞いた。しかし小説家崔萬秋は支那文壇には未來を待たねばならぬ。廣島(ひろしま)の高等師範の出身で、漱石には早くから尊敬の念を懐(いだ)いてゐたらしい。「草枕」は廣島にあつたとき昭和二年から三年春に掛けて譯了したものである。

崔君は「草枕」の内容を、「春の山路」「山嶺の茶店」「旅宿の一夜」「朝の旅宿」「理髮店」「春の夕」「温泉の煙」「茶席」「小説讀誦」「鏡池」「觀海寺」「春の丘」「川舟」——と、各章に小題を附してゐる。勿論、日本國有の風俗とか名稱とかには注釋を附記したりしてゐる。

崔萬秋の「草枕」が公刊されてから一二年ほどして、柿色の表紙をした支那譯の「草枕」が刊行された。これは郭沫若(くわくまつじやく)の譯である。郭氏は左翼作家として現代一流の作家であり、過去においても數多(あまた)の飜譯をなしてゐる(主として獨逸(ドイツ)文學が多い)ため、大名(たいめい)を借りて多利を得(う)るのに最もめざとい支那の商人は、若い新人の崔萬秋よりは郭沫若の方が賣(う)れ行(ゆ)きがよいためにかかる方法をとつたのであらうか。勿論知るべき方法もないのであるから他に理由があるかも知れぬが、とまれ郭沫若譯の「草枕」が、その後横行(わうかう)した。發行所が異(ことな)り、裝幀、譯者名が相違してゐるが、崔萬秋の譯と同一であり、その序文まで一字の相違を見出し難い。書店の細工(さいく)によつてなされた變則のものであらう。

民國二十年(昭和六年)になつて「小説月報」の七月號から連載して、章克標(しやうこくへう)が、「哥兒(グール)」(坊(ぼ)つちやん)の全譯をなし始めた。章克標は小說も書く人である。漱石については崔萬秋よりも更に詳細にその藝術觀、作品、來歴等について述べてゐる。かつ、この「坊つちやん」の支那譯は毛利(まうり)八十太郎(やそたらう)の英譯「坊つちやん」をも參考にしたといつてゐる。これを讀むとあまりひどい誤譯はないが、「草枕」の支那譯より一段飜譯苦心の點(てん)において見おとりのするところがある。翌年の七月に「坊つちやん」は單行本になつた。「坊つちやん」「倫敦(ロンドン)塔」「雞頭(けいたう)の序」の三つを編輯して「夏目漱石集」として上海の開明書店から發行された。

民國二十四年(昭和十年)になつて、崔萬秋は再び漱石の長篇「三四郎」を飜譯し公刊した。從つて今年末までにおいて、支那に現はれた漱石の主要な作品は、「吾輩は猫である」「坊つちやん」「草枕」「三四郎」の四つである。みな漱石の初期の作品ばかりである。

崔萬秋は「三四郎」譯の序文で次の如くいつてゐる。「私は曾て『草枕』を飜譯した關係で漱石の長女筆子の婿(むこ)松岡讓氏と交際を結ぶやうになつた。今年(昭和七年)の夏は、東京に假住(かりずまひ)してゐたが、その間、しばしば氏の邸(やしき)に招かれ、又松岡氏に同伴されて九日會(ここのかくわい)〔漱石歿後の月命日の集い〕にも行き、未亡人鏡子夫人にも面接して、紙面に公開されてゐない漱石の逸話(いつわ)などを聞くことができた。(中略)私が訪れた晩に、東京朝日新聞の請(こひ)に應(おう)じて、未亡人は『漱石と女性』について語つた。過石の初戀は外務省の某局長の娘で、彼女が井上病院に眼を煩(わづら)つてゐたとき、片眼不自由なため老いた看護人につれそはれてゐた。漱石はその慈祥(じしやう)な〔慈愛に満ちて優しい〕姿を愛したが、美しさについてはいふべき機會もなく、その儘(まま)に過ぎた。一體、漱石は長身の細腰(さいよう)な舊式の美人が好きで、帝大敎授大塚氏の夫人をひどくほめてゐた云々(うんぬん)。」

「三四郎」の譯は民國二十年の夏から杭州にあつて譯し始められ、二十一年の九月一日に譯了されたと崔萬秋はいつてゐる。この一年は支那にあつては多難の年である。滿洲事變につゞいて上海事變である。崔萬秋は生活的不安との間にあつて、或は杭州に、或は上海に、或は東京にあつて譯された。不安焦慮の波上に漂つて「三四郞」は支那に送られた。本書は中華書局の刊行である「現代文學叢刊の一冊である。

一面登着山路、一面這樣想。

過重理智則碰釘子、過重感情則易同流合汚、過重意志則不自由、總之人世不易住。

不易住的程度一高、便想移到易住的地方去、悟到住何處都不易住的時候、便有了詩有了畫。

創造人世的既不是神也不是鬼、乃是散居對面三軒兩隣的平常人、平常人創造的人生固不易住、別處也不見得、有可以遷移的地方若有只有到非人的國度裏去、非人的國度比較人世恐怕更不易住罷。

これが「草枕」の支那譯の第一頁である。いま原文を對比してその妙諦を知るために敢て拔萃(ばつすい)すれば、

「山路を登りながら、かう考へた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。

住みにくさが高(かう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟つた時、詩が生れて、畫(ゑ)が出來る。

人の世を作つたものは神でもなければ鬼でもない。矢張(やは)り向(むか)ふ三軒兩隣(さんげんりやうどなり)にちら〳〵する唯(ただ)の人である。唯の人が作つた人の世が住みにくいからとて、越す國はあるまい。あれば人でなしの國へ行く計(ばか)りだ。人でなしの國は人の世よりも猶(なほ)住みにくからう。」

更に二三、俳句など詩歌の飜譯を摘出してみる。

 春風や惟然(ゐぜん)が耳に馬の鈴

春風呀惟然耳中馬之鈴

 あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわはおもほゆるかも

秋來了芒草花上結露珠

露珠無情自消失儂命薄似露

 春の夜の雲に濡らすや洗ひ髮

春夜的雲兒濡濕了沐髮

 思ひ切つて更(ふ)け行(ゆ)く春の獨(ひと)りかな

深更的春只有我一個哪

最後の句の支那譯の「春の深更に我一人あり!」といつた譯と、思ひ切つて更け行く春との妙味(めうみ)は遙かに意味の隔(へだた)りがある。「思ひ切つて」といふ表現は「深」の一字では現はし切れない。俳句の飜譯については既に各國で問題にされてゐようが、支那でも一時論議されたことがある。その表現の意味を理解する人は僅(わづ)かながらあつたとしても、それを譯出(やくしゆつ)する人はない。出來(でき)えない〔ママ〕のが當然である。この俳句支那譯については成仿吾(せいはうご)が「詩の防禦(ばうぎよ)戰」といふ面白い論文を書いてゐる。(單行本「使命」中所載)

 雨が降つたら濡れるだろ

 霜が下りたら冷たかろ

 土のしたでは暗からう

 浮かば波の上

 沈まば波の底

下起雨來要淋濕罷

降起霜來要覺得冷罷

鑚到土底下要覺得暗罷

浮浮在波上

沈沈在波底

漱石の初期の小説に對しては特に表現上にも俳句の世界の理解を必要とするのであるが、これは支那文壇に對して困難な課題である。周作人は北平大學で日本文學を講義してゐるし、近來では日本文學硏究も支那各省でぽつぽつ見出しかけてはゐるが、漱石の小說の妙味を理解するまでには遙かに遠い。周作人は一時、寫生文を主張し、小品文を提唱したり、これに關係した論文など起稿はしてゐるが、いまだ漱石の小説に影響されたやうな作品は支那文壇に現はれて來ない。崔萬秋、方光燾(はうくわうたう)、章克標、謝六逸、徐祖正(じよそせい)、それぞれに漱石の藝術觀に理解をもつてゐるらしいが、その雰圍氣はいまだ現代作家の心に刻み込まれてきてゐない。小説研究者を通じて漱石は支那に進出してゐるが、藝術家の心をひゞかせて海を渡つて行つてはゐない。從つて漱石の小説は支那人に理解されながら、影響を文壇に與へないでゐる。現在支那文壇に流動してゐる外國文學は何といつてもソヴィエト文學である。ゴリキイである。現代支那の文學は日本文學を通じて幾多の運動の近い反映を與へて來たのであるが、しかしこれを個々の個人作家から影響された結果はどうであるかと見ると、それは全く影を消してゐる。支那文壇に對しては、現代日本文學は總括的には反響したが、個々のきはだつた反映がない。漱石の小説も恐らくはユーモア性とか小品的な面白さとかが僅(わづ)かに拾ひだされるかは知れぬが、その主意、餘裕(よゆう)派——則天去私(そくてんきよし)の境地などは、支那文壇に思ひもよらぬものであらう。「三四郎」「猫」「坊つちやん」まではよい。今後の漱石の小説の飜譯が問題である。

長篇の飜譯である以上、幾分の誤謬(ごびゆう)は免(まぬか)れない。章克標の「坊つちやん」の飜譯が諸書中最も譯が傑れてゐる。崔萬秋は「山の手」を「靠山的地方」(山寄りの處)と譯してゐる。「山の手」とか「下町」とかは外國人に理解し難い日本語である。たゞ支那譯で問題なのは、日本と支那とでは文字語彙(漢字)がおなじで意味の異(ことな)るものがある。よし〔たとえ〕或(あるい)はおなじ漢字ではあるにせよ支那では通用してゐない單語がある。飜譯者は、まづ日本で通用の熱語をその儘支那へ輸入しようとする。暫くでも日本に留學した經歷のある人々の飜譯には特にそれが甚(はなは)だしい。「草枕」といつても日本人にはその意味は充分諒解(りやうかい)できるが、現代語(白話)として草枕はなにを意味するか解らない。現代の支那は日本その他から流れこむ新熱語に苦しんでゐる。從つて日本文の飜譯された支那語文は必ずしも飜譯になつてゐない場合が多い。崔萬秋の飜譯に特にこれが多く、章克標の「坊つちやん」がいちばん支那語文的に譯されてゐる。

文學革命以來、口語の使用によつて飜譯の仕事はかなり容易になつた。俳句でも、どうやら譯(やく)しうるといふに至つたのは口語の使用によるからである。漱石の後期の作品の支那文壇に現はれるのも近い日のことであらう。 (岩波「文學」所載)

*その後、今日に至るまで、漱石の四篇は、この四篇以外には、一つも支那譯されてゐない。
**日支間の言語上の問題で、これは今後益々(ますます)重大な課題となる。