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支那傳説集 南山の雛

 
一戸 務

序

わたくしは支那(シナ)文化を對象(たいしやう)とする學問をしてゐる學徒(がくと)ですが、そのうちでも特に支那の文學を專(もっぱ)ら硏鑽(けんさん)してゐるので、支那の民俗學や神話學について深く考究(かうきう)したことがありません。しかし、支那の文藝(ぶんげい)を研究するには、これらを調べておく必要(ひつえう)はありませう。現在の學界(がくかい)では、神話、傳說(でんせつ)、民間說話、口碑(こうひ)などといふ語のあひだの意義が、漠然(ばくぜん)と取扱(とりあつか)はれてゐ(い)て、はつきりしてゐません。研究者が各自の考へによつて、それぞれに思ひのまゝに取扱つてゐるやうです。語り繼(つ)がれ、聞き承(う)けられた昔ばなしの發生(はっせい)起原とか、流布(るふ)してゐる地域別の研究とか、話の内容の移りかはりとか、いろいろ研究の面白い分野がありますが、わたくしは、まだそれを試みてゐません。さうするには、まづ支那(シナ)の昔ばなしの蒐集(しゆうしふ)から始めねばなりますまい。わたくしは、たゞ、一話(いちわ)一話を讀(よ)んだりして、興味を感じてゐました。それは幼(をさな)いとき、祖母の膝下(しつか)で日本の昔ばなしを語り聞いたあの興味です。その興味が嵩(かう)ぢれば、それぞれの昔ばなしの整理となり研究となるのでせうが、わたくしは、いまはまだ、一つ一つの話に面白がつてゐます。この本には、その興味を日本の方々(かたがた)に傳(つた)へたいために、素朴(そぼく)な支那の民間說話をそのまゝの形で二十餘(よ)篇(へん)纂(あつ)めました。

ことの始めは、光風館(くわうふうくわん)から、東亞(とうあ)共榮圈(きようえいけん)内の傳説(でんせつ)叢書(そうしよ)のひとつとして、支那の説話を起草(きさう)することを依賴(いらい)されましたので、ふと十二、三年ほど前に、北京(ペキン)に滯在(たいざい)してゐた、たのしい想(おも)ひ出の日を浮びだして、草稿(さうこう)に筆を染(そ)める糸口がひらけてきました。

支那事變(じへん)の勃發(ぼつぱつ)せぬ前のことです。北京の旅宿(りよしゆく)に淋(さび)しい休み場(ば)を求め、支那學の研究をしてゐましたころ、つれづれになりますと、古跡(こせき)巡(めぐ)りをしたり、古書漁(あさ)りなどをしたりしましたが、それも重苦(おもくる)しくなると、古都(こと)北京の風物(ふうぶつ)を味(あぢ)はひながら、旅宿に胡弓(こきゆう)彈(ひ)きを呼んで胡弓の調べをたのしんだり、支那芝居(しばゐ)の唱(うた)を學(まな)んだりしました。しかし、からりと大陸の大空(おほぞら)が晴れた日は、宿に落ちついてゐられません。

手輕(てがる)な書物をもつて街路(がいろ)にでます。行(ゆ)く手は、公園や廟(べう)です。北京にある北海(ペイハイ)公園は、かつての清廷(しんてい)離宮(りきゆう)です。俗塵(ぞくぢん)を離れた靜寂(せいじやく)な庭園です。湖(みづうみ)のまはりには槐樹(くわいじゆ)が茂(しげ)り、大理石(だいりせき)の石橋が、湖水(こすい)に影を宿(やど)してゐます。湖水の枯蓮(かれはす)の間を分けて、畫舫(ぐわはう)〔屋形船〕を浮(うか)べながら、舟のうへで書物を讀(よ)むのです。書物はよく詞(ツウ)(口語の支那詩)であつたり、説話集であつたりしました。もの淋しい鄕愁(きやうしう)にかられながら、そのころ讀んだ書物を、いまでも、ふと想(おも)ひ浮べるときがあります。支那の說話は、そのころ讀みました。支那の傳說、說話は、十數(すう)年來(らい)、支那の學界(がくかい)で盛(さか)んに研究され、玄珠(げんしゆ)〔茅盾〕の「中國神話研究ABC」(民國十八年、上海(シヤンハイ)世界書局)をはじめ、たくさんの硏究書が刊行(かんかう)されてゐますし、ジェー・シィ・フェルグソン、姉崎(あねさき)正治(まさはる)共著「支那日本神話學」やイー・シィ・ウェルナー著「支那の神話・口碑(こうひ)」(J. C. Ferguson and M. Anesaki, Chinese Japanese Mythology; E. T. C. Werner, Myths and Legends of China)など西洋人の書いたものもあり、わたくしも讀んだことがありますが、しかし、それらの研究的なものよりも、支那の一般子供たちに讀みものとして書かれた通俗的(つうぞくてき)な説話集の方(はう)が、はるかに、わたくしには興味(きようみ)をそゝりました。屈原(くつげん)の著(あら)はした楚辭(そじ)のなかにある天問篇(てんもんへん)や、淮南子(ゑなんじ)などは、古い支那の神話的な要素をふくんでゐて、面白いものですが、しかし、さうした漢籍(かんせき)のなかに現(あらは)れてゐる素材(そざい)よりも、どこから傳(つた)へられ、だれにうけ繼(つ)がれたかも分(わか)らぬ昔ばなしの生きた姿に一層(いつそう)興味が湧(わ)いてきます。わたくしは、湖上(こじやう)でしばしば讀んだ通俗的な子供讀みものゝ說話を、いま想ひ出して本書をつくりました。支那は廣大無邊(くわうだいむへん)な土地です。この小著(せうちよ)のなかに、支那各地の説話をすべて纂(あつ)めるわけにはいきません。そこで、北支那——特に山東省(さんとうしやう)に流布(るふ)してゐる昔ばなしばかりを書いてみました。それぞれの説話には、流布されてゐる適當(てきたう)な題名がないので、假(かり)に思ひつきで題をつけました。「南山(なんざん)の雛(ひな)」もそのひとつです。

このごろ柳田國男(やなぎたくにお)さんの「昔話と文學」といふ創元(さうげん)選書を讀みました。それによると、日本の昔ばなし「花咲爺(はなさかじじい)」でも、その筋(すぢ)の大骨は大體(だいたい)おなじですが、それを些細〔仔細〕にいふと、いろいろ異(ことな)る型があるさうです。昔、爺(じじ)と婆(ばば)が一匹の犬を飼(か)つてゐたといふのが、この話の話はじめかと思つてゐると、いや、日本の何縣(なにけん)の何村の「花咲爺」は、その前にその犬を松原で拾(ひろ)ふ段(だん)があるとか、いや、何縣の何村にはそれと變(かは)つた話があるとか、一つの「花咲爺」でも、容易(ようい)でないほど話の筋はさまざまです。わたくしは、この書物をよんでゐて、實(じつ)はじれつたくなりました。民俗學(みんぞくがく)的に昔ばなしを硏究すると、かうまで、やゝこしくなるのかと、驚いたほどです。支那の説話にも、かうした筋の大同小異(だいどうせうい)がありませう。山東省のうちでも、柳田國男さんふうに、何村ではかういふ、何村ではこゝのところはこんな筋だといふところがあらうと思ひます。幸(さいは)ひにわたくしは、支那傳説・説話に關(くわん)する民俗學者でないので、平凡な一般的な筋を採(と)つて書きました。その道の學者でない幸福です。わたくしが讀んだいろいろの書物で、いろいろと異(ことな)つてゐる筋は、一ばん多くいはれてゐる筋を採りました。支那の説話に興味のある方は、今後、支那の各地を調べ歩いて、支那の説話を多く蒐集(しゆうしふ)してください。そして、研究されることを望みます。いままでのところでは、支那學界には、そんな昔ばなしの研究をされた學者はないやうです。わたくしは、前にもいつたやうに、説話學には興味以上の研究をしてゐませんので、素直(すなほ)なところを本書に書きました。ところどころ讀みものとしての面白味(おもしろみ)をつゞけるために、話の素朴味(み)を壞(こは)さぬ範圍(はんゐ)で形容(けいよう)を附(つ)けたところがあります。

北京(ペキン)は暗い都邑(といふ)です。戰事下(せんじか)の東京より暗かつたと記憶に殘(のこ)つてゐます。古都(こと)のもの淋しい夜は、しみじみと、闇(やみ)の恐しさが身に沁(し)みます。その闇が、今夜もまたくるのだなと思ふと、夕陽(ゆふひ)の沈(しづ)むまへのあわたゞしいひとときは、わたくしには、なんともいへぬものわびしさでした。その時刻ごろです。黄昏(たそがれ)の力弱い日のなかで、路(みち)に茣蓙(ござ)をしき、わづかばかりの書物(しよもつ)を並べて、大衆(たいしゆう)相手の露店(ろてん)本屋が、土塀(どべい)に沿(そ)つてとか、商店の店わきとかに、淋しく店を開いてゐます。上海版の薄(うす)つぺらな本ばかりです。「西遊記(さいいうき)」「三國志(さんごくし)」「水滸傳(すいこでん)」「兒女(じぢよ)英雄傳」など古典小説を、一般讀者むきに書きなほした書物だの、支那の傳說や物語を書き流したやうな、著者もわからぬ書物ばかりです。「水滸傳」の明版(みんばん)の版木(はんぎ)がどうだの、「三國志」の原刻(げんこく)は流布本(るふぼん)と内容がどう違ふとか違はぬとか、そんな書誌學(しよしがく)趣味のうるさいことばかりいつて得意(とくい)がつてゐたわたくしですが、反(かへ)つて、心をたのしませた點(てん)では、かうした露店の赤本が、なつかしい半日の閑(かん)を偸(ぬす)むよき讀みものであつたのを中年(ちゆうねん)になつて、感じてゐます。それらは、口語(こうご)と文語と交(まじ)りあつたやうな文體(ぶんたい)で書(かか)れたもので、その文體は、へんにわたくしに、支那漢字の面白味を敎(をし)へたやうな記憶をもつてゐます。このごろ日本でも國語國字問題が盛んに行(おこな)はれてゐますが、一部には、ハナシコトバの研究を行(ゆ)きすぎて、口語ばかりが日本語のやうに取扱(とりあつか)ひ、文語のよさは日(ひ)に日に力を弱めつゝあるやうですが、文語と口語とは、その強弱の用(もち)ひかたはあるにせよ、どちらも捨て去るわけにはいかぬ日本の文化財です。支那でも民國(みんこく)になつてから、口語運動が益〻(ますます)盛んになつて、口語文でなくては、夜(よ)も日(ひ)も明けぬ狀態ですが、さういふ口語文が、知識階級によろこばれるほどには、一般の學識の低い人にはよろこばれないやうな實状(じつじやう)らしいです。支那は地方的な土語(どご)や方言(はうげん)があまりに多いので、日本の實状とは異(ことな)りますが、それにしても大衆讀みものが口語交(まじ)りの文語であることは、四千年の文化を長くもち續(つづ)けた支那の美しさを知る上に、ここにもなにか、ひとつの暗示を敎へられて、他山(たざん)の石として、日本の國語問題をうるさく論じてゐる方々に報告いたしませう。すこし、むづかしい論議をして話がそれましたが、本書の説話も多くこの大衆讀みものである口語交りの文語で書れた説話集から採りました。

わたくしも、もう昔ばなしを每夜(まいよ)聞きたがる子供を三人ももつやうな初老(しよらう)の波を加(くは)へる年齡(ねんれい)になりました。かつては、わたくしがたのしんだ支那の昔ばなしを、語(かた)るやうせがまれる子供ができるにつれて、支那の昔ばなしを、ひろく日本の少(せう)國民〔子どもたち〕に語るのも決(けつ)して有閑(いうかん)の物語ではないと、心から思ふやうになりました。日本の昔ばなしと支那の昔ばなしと、どんなところが異(ことな)るか、どんなところが似てゐるか、兩國(りやうこく)の昔ばなしは、どんなふうに影響(えいきやう)しあつたものか、せぬものか、色々と今後益々(ますます)、支那大陸の檜舞臺(ひのきぶたい)に立つて活躍(くわつやく)する少國民の心に、はやくから、興味の眼(め)で大陸に親しまさせておかねばならないでせう。それにこのごろ、わが國(くに)で刊行されてゐる支那の神話傳説集を二三册(さつ)讀んでみましたが、いづれもたゞ古い漢籍を假名(かな)交(まじ)り文に書き改めて配列されたのにすぎないもので、傳承(でんしよう)された支那の傳説説話とはいへないものばかりでした。こんなものが支那の傳説説話として取扱はれては、支那の眞(しん)の民俗のためにも氣(き)の毒だとも思ひました。支那文化は、東亞(とうあ)の指導者である日本人にはどうしても知つておかねばならぬ常識(じやうしき)ものなのでせうが、わづかに支那の傳説説話などでも、まだあまり紹介(せうかい)されてゐないのに驚きました。幸(さいは)ひ光風館出版部のすゝめがあつて、若い日に讀んだものが、はからず芽(め)をだしました。わたくしは、これらを、日本の青年少女(せうぢよ)に捧(ささ)げます。そしてまた國民學校(がくかう)生をおもちのお父(とう)さんやお母(か)あさんに紹介いたします。一般の方々に讀んでいたゞいても、幼(をさな)いころのたのしい夢を、再(ふたた)び大陸色(しよく)で味(あぢ)はれると信じます。

昭和十七年十月

一戸(いちのへ)務(つとむ)