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結縁豆

譯者(やくしや)のことば

この集は二部に分(わか)れる。前半『結縁豆(けちえんまめ)』以下の二十篇(ぺん)は、先生の比較的新しい隨筆集五種の中から、譯者に於(お)いて適宜(てきぎ)に選び來(きた)つたものであり、後半は昨年出版の隨筆集『藥堂語錄(やくだうごろく)』の全譯(ぜんやく)である。

右の原著(げんちよ)六種を出版年月順に列(なら)べて簡單に說明すれば——

一、『苦竹雜記(くちくざつき)』

一九三六年二月初版(しよはん)、上海(シヤンハイ)良友圖書(としよ)印刷公司(こうし)印行。隨筆凡(およ)そ五十餘篇(よへん)を收(おさ)む。『王韜に關して』『子供の時の思出』『模糊』の三篇はこの書から採(と)つた。なほこの中の『冬の蠅(はへ)』『入廁(にふし)讀書』『市河(いちかは)先生』の三篇は以前私の譯(やく)した『周作人隨筆集(しうさくじんずゐひつしふ)』(昭和十三年改造社(かいぞうしや)發行(はつかう))の中に、又『焚書坑儒(ふんしよかうじゆ)に關(くわん)して』『笠翁(りふおう)と隨園(ずゐゑん)』『文章の放蕩(はうたう)』『油炸鬼(ユーティアオ)を談(かた)る』『畏天憫人(ゐてんびんじん)』の五篇は『周作人文藝(ぶんげい)隨筆抄(せう)』(昭和十五年冨山房(ふざんばう)發行)に拙譯(せつやく)が收められてゐる。

二、『風雨談』

一九三六年十月初版、上海北新書局(ほくしんしよきよく)印行。隨筆凡そ三十五篇を收む。この譯書の『老年』『本色』『日本の落語』『日本雜事詩』『鴉片事略』『燕京歳時記』の六篇はこれから採つた。なほこの中の『傅青主(ふせいしゆ)に關して』『游山(ゆさん)日記』『梅花草堂(ばいくわさうだう)筆記など』の三篇は『周作人文藝隨筆抄』の中に拙譯がある。

三、『瓜豆集(くわとうしふ)』

一九三七年三月初版、上海宇宙風社印行。隨筆凡そ三十五篇を收む。これは私の全譯(昭和十五年創元社(さうげんしや)發行)がある。但(ただ)しそのうち四篇だけは都合(つがふ)によつて省略(しやうりやく)した。『結緣豆』の一篇はこの中に入つてゐる。こんどの本と私の他の譯書と重複(ちようふく)してゐるのは唯(ただ)この一篇でる。

四、『秉燭談(へいしよくだん)』

一九四〇年二月初版、上海北新書局印行。隨筆凡そ二十九篇を收む。『浮世風呂』『婦人の笑』の二篇はこれから採つた。

五、『藥堂語錄』

一九四一年五月初版、天津(テンシン)庸報社印行。

六、『藥味集(やくみしふ)』

一九四二年三月初版、北京新民印書館(いんしよくわん)印行。隨筆凡そ二十三篇を收む。この譯本の『縁日』『豆まき』『飴賣』『朱舜水に關して』『四鳴蟬』『禹跡寺』『日本の再認識』の七篇はこれから選譯(せんやく)したもの。

『中國の思想問題』といふ一篇は、先生から送つて戴(いただ)いた雜誌の拔刷(ぬきずり)から譯出(やくしゆつ)した。近々(きんきん)やはり北京の新民印書館から先生の新しい隨筆集『藥堂雜文(ざつぶん)』といふのが出版(しゆつぱん)されるさうだから、これは多分その中に收められるのだらうと思ふ。なほ『讀書襍記(ざつき)』といふ本も同じ出版社から出ることになつてゐるさうで、この方(はう)は大體『藥堂語錄』と同じやうな性質の短章(たんしやう)百八十餘則(よそく)を纏(まと)めたものとのこと、先生からのお消息(てがみ)によつて知つた。

『結縁豆』以下二十篇の選擇(せんたく)に就(つ)いては別段の標準(へうじゆん)があつたわけではない。なるべく我邦人(わがはうじん)にとつて讀み易(やす)いものを、といふのが標準であつたと云へば云へよう。ところで先生の文章は一體(いつたい)にさう讀み易いものではない。先生は柳田國男氏の學問文章を非常に尊敬してゐられる。「柳田氏の文章といふのが本當は中々(なかなか)易しいものではなく、中國ではまづ魯迅(ろじん)の文章が柳田氏の文章に似てゐる」と周(しう)先生が云(い)はれたさうだが(尤炳圻(いうへいき)さん〔周作人の教え子〕から聞いた、)實は周作人(しうさくじん)の文章こそ最も柳田氏に近いのではないか。で、割合に日本に關するものが多く選(せん)に入(い)つたのは、その方が多少(たせう)とも我邦人にとつて興味も深からうし、解(わか)り易いと思つたからである。だがその實(っじつ)、これらは先生の書かれたものの中でも、やはり最も重要な一部分であらうと思はれる。中國の知識人のうち、特に日本文化の愛好者理解者として、先生が類稀(たぐひまれ)なる存在であることは周知(しうち)の如(ごと)くであるが、私達はこれらの文章を讀むと、それはもう單なる愛好とか理解とかいつた言葉では片附(かたづ)かないものを感ずる。もつと〳〵切實(せつじつ)な、もつと〳〵身につまされた〔我が身の上のこととして感じられる〕、一種の悲願(ひぐわん)といつてもよいやうな氣持がここに託(たく)されてゐるやうに思ふ。趣味や敎養(けうやう)の問題ではない。同じ東洋人(とうやうじん)としての運命(うんめい)の問題だ。支那(シナ)の事を語れば自(おの)づと連帶的に日本の事が思ひ出され、日本の事を話し出すと又どうしても支那の方(はう)をふり返らざるを得ない。やむにやまれぬ力が彼をさうさせてゐるのである。我國文化人の中にも、支那文化を深く愛し、その趣味と敎養を身につけた人はいくらも見出(みいだ)される。たとへば幸田露伴(かうだろはん)氏、佐藤春夫氏等々(とうとう)。しかし周先生が日本文化に對して採(と)つてゐるやうな態度で、支那文化に對(たい)してゐる人が我國(わがくに)に居(ゐ)るだらうか。私は多少の疑ひ無きを得ない。〔いくばくの疑問を感じないわけにはいかない。〕

日本と支那との間に今度の不幸な事件が起(おこ)つて以來、かなり長い間先生は沈默(ちんもく)を守つてゐられたが、ある一つの事が契機(けいき)となつて又健筆(けんぴつ)を振(ふる)はれることになつた。さうしてその書かれるものが著(いちじる)しく積極的になつたやうに感ずるのは私一人だらうか。反語(はんご)的な言ひまはしが見られなくなつた。あゝでもないかうでもないと云つた空(そら)とぼけた態度、エラスムス的態度が見られなくなつて、ハツキリと物を言はれるやうになつた。これは必ずしも先生の本懷(ほんくわい)〔素志〕ではないかも知れぬ。先生にとつて幸福かどうか、それは問題ではない。差迫(さしせま)つた時世(じせい)が、先生をしてそのやうな態度を採らざるを得(え)なくさせてゐるのだ。危機一髮(ききいつぱつ)の下(もと)に在る中國及(およ)び中國民族を思ふ時、彼の筆端(ひつたん)は自(おのづか)ら熱(ねつ)を呼(よ)ばぬわけには行(ゆ)かぬのだ。反語や幽默(いうもく)〔ユーモア〕ではもう間(ま)に合(あ)はぬ。悲しいけれども仕方(しかた)のないことなのだ。文章は相變(あひかは)らずあくまで温雅(おんが)で謙虚(けんきよ)なるを失(うしな)はぬが、しかしその控(ひか)へ目(め)な物腰(ものごし)〔姿勢〕のうしろに、ギリ〳〵の一點(いつてん)では挺子(てこ)でも讓(ゆづ)らぬものがある。どつしりと据(すわ)つた作者の土性骨(どしやうぼね)を、今こそ讀者(どくしや)は我(われ)と我(わ)が眼(め)で見たであらう。しかしこの土性骨は生來的(せいらいてき)のもので、今に始(はじま)つたものではない。二十年來一貫(いつくわん)して、見る人は見て來(き)たところのものだ。

『藥堂語錄』は讀後感(どくごかん)風の短章(たんしやう)五十篇より成(な)り、この方(はう)は全譯であるから、初めての讀者には多少とも調子(てうし)のわからぬ處(ところ)もあり得(う)るかと思はれる。しかし淡々(たんたん)としていささかも巧(たく)まぬ文章の中に、自(おのづか)らに人の頤(おとがひ)を解(と)く〔思わず笑わせる〕ユーモアがあり、又短いものだけに、それぞれ胡椒(こせう)のピリツとした辛(から)さも具(そな)はつてゐて、中々好(この)もしいのが少くない。私個人としては『朱詹』とか『夜光の珠』とか『中秋の月』といつたのを好む。『許敬宗の語』『宋瑣語』『郢人』或は『藥酒』『落花生』といつたものも甚だ嬉(うれ)しく讀んだ。それぞれ讀む人によつてちがつた讀み方は可能であり、好尙(かうしやう)〔好み〕も分(わか)れるであらう。この五十篇、種々雜多(しゆじゆざつた)なものが包含(ほうがん)されてゐるから讀者はその中から思はぬ拾(ひろ)ひ物(もの)をして會心(くわいしん)の笑(えみ)を洩(も)らされる〔にっこりと微笑まれる〕ことがあるに相違(さうゐ)ないと信(しん)ずる。

周先生のものの飜譯(ほんやく)は、私としてはこれが第六册目(さつめ)である。はじめて『北京(ペキン)の菓子(くわし)』といふ小さな譯書を出したのが昭和十一年のことだから、あれからもう七年(しちねん)にもなるわけである。しかも私の譯文は御覽(ごらん)の通(とほ)り、一向(いつかう)に進歩した樣子(やうす)も見られず、顧(かへり)みて忸怩(じくじ)たるものがある〔いささか恥じ入る次第だ〕。原作者に對しては勿論(もちろん)、讀者に對しても甚(はなは)だ申譯(まうしわけ)のないことと思つてゐる。

『結縁豆(けちえんまめ)』といふ書名は、數年前にやはりこのやうな隨筆選集(せんしふ)を計畫(けいくわく)したとき周先生に附(つ)けて戴(いただ)いたのであつたが、あの時は都合(つがふ)で果さなかつたので、今それを用(もち)ひたまでである。

題簽(だいせん)は周先生にお願ひして書いて戴(いただ)いた。それから扉(とびら)の豆の繪(ゑ)は私の竹馬(ちくば)の友(とも)〔原文「反」〕、肥前(ひぜん)有田(ありた)の陶畫家(たうぐわか)織田(おだ)鶴松君が書いてくれたものである。又實業之日本社(じつげふのにつぽんしや)の倉崎嘉一氏が本書の爲(ため)に色色(いろいろ)と奔走(ほんさう)して下さつた勞(らう)を思はぬわけにはいかぬ。しかもいつかお會(あ)ひして話し合つたら、偶然(ぐうぜん)にも私達は同じ中學の同窓(どうさう)であつたことが解(わか)つて、我々は知らぬ間(ま)に淺(あさ)からぬ緣(えにし)で結(むす)ばれてゐたことを今更(いまさら)ながら感じ入(い)つたのであつた。どうかこの譯書が人と人との、また國と國との緣(えん)を結(むす)ぶ豆となつてくれるやうに、私は作者の驥尾(きび)に附(ふ)してせめてその一事(いちじ)を庶幾(こひねが)ふものである。


昭和十八年十二月卅日(さんじふにち)福岡にて

松枝茂夫

(附記(ふき))なほ、この譯本では、引用(いんよう)の古文を殆(ほとん)どみな口語文(こうごぶん)で譯(やく)すことにした。これは私の友人吉田敏幸君の勸告(くわんこく)に從(したが)つたものである。成功(せいこう)したかどうかは譯者の言ふべき筋合(すぢあひ)ではないが、目下(もつか)南海の地に勇戰(いうせん)中の同君に對しては、やはり感謝の意を捧(ささ)げないわけには行かぬ。


[奥付抜粋]

昭和十九年四月五日印刷

昭和十九年四月十五日發行(二、〇〇〇部)