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藥堂語錄

習苦齋畫絮(しふくさいぐわじょ)

戴醇士(たいじゆんし)〔清・戴熙。画家。〕の著作としては、ずつとその以前に『習苦齋(しふくさい)文』〔習苦斎文集〕四卷『詩』八卷(同治(どうぢ)五年〔一八六六年〕刊)『筆記』一卷(十年〔一八七一年〕刊)・『畫絮(ぐわじよ)』十卷(光緒十九年〔一八九三年〕刊、以上みな木板(もくはん))を手に入れてゐたが、その後又『畫架』の別本四冊を手に入れ、その端(はし)にかう書きつけておいた。

普通に見られる『畫絮』はみな惠年〔清・恵年、号菱舫〕の編刊(へんかん)せる十卷本であるが、今この書は四卷のみであり、字も畫(ゑ)も精好(せいかう)にして、惠刻本に勝(まさ)つてゐる。而(しか)して前後に題序がない、或はこれがつまり戴兆春(たいてうしゆん)〔戴醇士の孫〕の「先君(せんくん)が呉門(蘇州)に役人をつとめ給ひし頃(ころ)、曾て裒集(ほうしふ)して數卷を刻に付せられしことあり」といふのに當るものではあるまいか。これは吳仲懌(ごちゆうえき)〔清・吳重熹〕の舊藏(きうざう)に係(かか)り、卷首(くわんしゆ)に「海豐(かいほう)呉氏石蓮盦(せきれんあん)」〔盦は庵の意〕といふ印がある。

最近『春在堂雜文(しゆんざいだうざつぶん)』(兪曲園の著)を讀むに、その五編卷七に『習苦齋畫記類編序(しふくさいぐわきるゐへんじよ)』があり、惠菱舫(けいりやうはう)(惠年)が『習苦齋畫絮』を得て之を讀むに及び畫學(ぐわがく)大いに進んだことを叙(の)べ、更に

然れども『畫絮』の一書はたゞ四卷を刻せるのみ。なほ『習苦齋畫記』十卷あるも、未刻である。

と云つてゐる。惠氏は『畫記』を取つて排列(はいれつ)分類して之を剞劂(きけつ)〔原文「欹劂」〕に付(ふ)し〔出版し〕、題して『習苦齋畫記類編』といつた。今、惠年の刊本を檢(しら)べてみるに、ちやんとこの序はあるし、しかも曲園の手書(しゆしよ)であるが、たゞ上に引いた數語はすでに「然其書十卷未刻也」の八字に改められ、その上その後「畫記類編」の「記」も「絮」の字に改作されてしまひ、僅(わづ)かに題葉(だいえふ)の篆書(てんしよ)になほ「戴文節畫記(たいぶんせつぐわき)」〔戴熙は兵部右侍郎等退官後、太平天国の乱に際して殉国し、清朝政府から文節公と追諡された。〕とあるのを殘してゐるだけである。これに由(よ)つて四卷本は確かに戴氏初刻の『畫絮』であつたことがわかる。蓋(けだ)し十卷の一部分で、曲園が『畫記』には別に一書ありと言つてゐるのは、傳聞の訛(あやま)りに相違(さうゐ)ない。それにしても惠菱紡の刻本が體例(たいれい)を變改(へんかい)したにしても、「畫絮」の原名を襲(おそ)ふ〔踏襲する〕べきではなく、序(じよ)の中に稱してゐるやうに「類編」の二字を加へてこそ、名實(めいじつ)共に副(そ)ふといふものであつたらうに。今は十卷本のみ通行(つうかう)し〔流布し〕、原刻の四卷本はすでに知る人はないやうである。私は幸にして石蓮菴舊藏本を手に入れ、また曲園の集の中に未刪改(みさんかい)の序文を見出(みいだ)し、この事の顛末(てんまつ)を明らかにすることが出來た。これ亦正(まさ)しく一幸事(いちかうじ)であつた。