← 次の章 目次 前の章 →
|

瓜豆集

周作人(松枝茂夫譯)

日本文化を談(かた)るの書

實秋(じつしう)先生、

一昨日、景山(けいざん)の裏通り〔紫禁城の北側にある景山公園周辺の胡同(路地)〕で王(わう)君に遇ひましたら、何か日本に關するものを書いてくれるやうにとの貴意を轉達(でんたつ)されました。その事たる私が心から努力したいと願つてゐるものなのですが、それは原則上から云つたので、事實上となるとなか〳〵容易ではないのです。去年の五月に私は『國聞周報(こくぶんしうほう)』のために『日本管窺(くわんき)』〔日本小見というほどの意。〕と題する小文を書きましたが、その末節(まつせつ)にかう申して置きました、

「私は舊暦(きうれき)の正月からこの小文(せうぶん)を書かうと思ひ立つたのだが、今までずつと書く暇(ひま)が無かつた、それに一面どうも書きにくいと思つた、それはつまりどう書いたらよいかわからぬといふ意味だ。私は流行文章は書きたくない、そのうへ云はんとする所はみなあまりにも中庸(ちゆうよう)的だし、だから恐らく書いたところで人々のお氣に召(め)すまい、抗日(かうにち)の時代にはどうやら親日(しんにち)的だと見られるかも知れぬし、抗日でない時分(じぶん)には又少々遠慮が足りなすぎるやうに思はれるだらう。」この考へは今日(こんにち)でも變(かは)りはなく、決して人から罵(ののし)られたり告發(こくはつ)されたりすることが恐(おそろ)しいからではありません。國事(こくじ)は私は談(だん)じないことにしてゐます、その原因は政治外交乃至(ないし)軍事に對して全然無知だからです。譬(たと)へば抗日を云々(うんぬん)しようと思へば、結局戰爭の準備をとゝのへた上(うへ)でなくてはなりますまい、しかし私は戰爭についての專門知識とてはまるつきり持ち合(あは)せてゐないのですから、おつき合ひにも贊成の言葉を述べるわけには行かないのです。もしも「敗(やぶ)るゝと雖(いへど)もなほ光榮(くわうえい)ならん」などといつた鹽梅(あんばい)の、策論(さくろん)式な紋切型(もんきりがた)の文章〔科挙の論文答案のような型にはまった文章〕ならば、何(なん)の事はない〔たいして難しくない〕筆をちよいとくねらせれば誰にだつて出來ることであつて、今更(いまさら)そんなのを寫(うつ)しとつて來るにも及びますまい。私が平常談(かた)りたいと思ふのはたゞ文化の一方面だけなのです、がさてこれがなか〳〵うまく談(かた)れません。十二三年前に私はかう云つたことがあります、

「中國はその獨特(どくとく)の地位上、特別に日本を了解(れうかい)する必要と可能とを有する、しかるに事實上では全然その事がなされてゐない、人々は皆日本文化を輕蔑(けいべつ)し、日本は古代に於ては中國を模倣(もはう)し、現代に於ては西洋を模倣してゐるのだから、一瞥(いちべつ)にも値(あた)ひしないと考へてゐる。日本の古今(ここん)の文化はいかにも材料を中國と西洋から取つた、しかし一番の調劑(てうざい)を經(へ)て、これを彼自身の物と成(な)した點(てん)は、羅馬(ローマ)文明が希臘(ギリシヤ)より出(い)でて自(みづか)ら一家(いつか)を成したのと正(まさ)に同一である、故にわれわれは、日本には自ら日本の文明があり、哲學思想といつたものこそ無けれ〔といったものは無いが〕、藝術と生活との方面に於てそれ〔模倣文化を摂取して自家薬籠中のものとした工夫〕は最も顯著(けんちよ)である、と斷言(だんげん)することが出來るのである。」この古臭(ふるくさ)い言葉は當時(たうじ)これを信じてくれた人があつたらうとも思へませんし、今日では尙更(なほさら)時宜(じぎ)に適しないでせう〔時流にあてはまらないだろう〕、しかし私にとつてこの意見はなほ變(かは)つてゐないのです、何と頑固(ぐわんこ)も極(きは)まれりではありませんか。日本は中國から漢字を學び取つて、こゝに初めて彼の文學と文字とを有(いう)するに至つたのでした。しかし奈良時代(西暦(せいれき)八世紀)に漢字を用ひて書かれた二部の書物は既に彼の特殊な價値(かち)を有してゐます、『萬葉集(まんえふしふ)』は或は中國の『詩經(しきやう)』に比(ひ)せられませうし、『古事記(こじき)』は先(ま)づ『史記(しき)』といつたところでせうか、しかしその上卷にある優美な神話は太史公(たいしこう)(史記の著者司馬遷(しばせん))の書かなかつたものであつて、淺陋(せんろう)な知識を以て妄説(まうせつ)しますならば、これと同類のものとてはたゞ希臘の神話があるのみです。平安時代の小説も又一例です、紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語(げんじものがたり)』五十四帖(でふ)は十世紀の時に出來上(できあが)つたのですから、中國で云ひますとちやうど宋(そう)の太宗(たいそう)の時分で、中國に於ける長篇小説の發達までにはなほ五百年の隔(へだた)りがあるのであります、しかるにこの大作(たいさく)が既(すで)に世に現はれてゐたといふことは、まことに一つの奇蹟(きせき)と云はざるを得ません。近年英國(えいこく)のウエーレー(A. Waley)の譯本(やくほん)が六冊刊行(かんかう)されたので、中國の讀者で見た人もあるでせうが、これは實際一部の唐朝(たうてう)の『紅樓夢(こうろうむ)』と云へるのでありまして、唐朝文化の豐富(ほうふ)さを以(もつ)てしたならば當然かゝる種類の大作を産(う)み出せた筈(はづ)だといふやうな氣が何だか致(いた)しますけれども、どうしたわけかこの光榮を藤原〔紫式部は藤式部。父は藤原為時。〕の女士(ぢよし)のために奪(うば)ひ去られてしまひました。江戸時代の平民文學はちやうど明清(みんしん)の俗文學(ぞくぶんがく)に相當し、われわれは必ずしもヒケ目(め)〔劣等意識〕を感じなくともよいやうに思はれます、でも日本の「滑稽本(こつけいぼん)」を讀みますと、これまたやはり中國に無かつたものなることを承認(しやうにん)しないわけには參(まゐ)りません。滑稽、——日本音ではkokkeiと讀(よ)み、明らかに太史公の『滑稽(クーチー)列傳(れつでん)』から來たものです、ところが中國では近來(きんらい)多く「泥滑滑」(ツル〳〵すべる)の滑(ホワ)と同じく滑稽(ホワチー)と好(この)んで讀まれてゐます——は何でもこれは東方民族には缺乏(けつぼふ)してゐるものださうで、日本人自身も常に英國人に及ばないと慨歎(がいたん)慚愧(ざんき)してゐます。この説は或(あるい)は誤つてゐないかも知れません、といふのは聽くところによれば英國人は「幽默(ユーモア)」に富み、その文學もまた多く「幽默」趣味を含(ふく)んでゐるのださうで、そしてこのユーモアの一語は日本ではよく滑稽と譯(やく)されるからです、もつとも中國ではこのユーモアの譯音として、別義(べつぎ)を含む「幽默」なる二字を宛(あ)てたことについては、ずゐぶん人々の顰蹙(ひんしゆく)を買ひ〔嫌われ〕、ある人は「西靺(せいばつ)」〔靺は革の靴下や靺鞨(女真)の呼称等の意で、おそらく音のつながりか。字面は漢民族にとって良くなかった筈。〕と改譯(かいやく)せよなどとと主張しましたが、駄目(だめ)でした。さてこの「滑稽本」は文化文政(一八〇四—二九)年間に起り、全然西洋の影響を受けてゐません、又中國にも絶(た)えて〔まったくもって〕此(こ)の種のものは有りません、だからこれは日本人が自身で創作したあそび(丶丶丶)と云つて差支(さしつか)へないのです、英國の小説家のユーモアと比べてどうといふことはわれわれには云へませんけれども、兎(と)に角(かく)日本人には中國人よりも多くのユーモア趣味があるといふことをこれは證明(しやうめい)してゐます。私は十返舍一九(じつぺんしやいつく)の『東海道膝栗毛(ひざくりげ)』〔ママ〕(膝栗毛とは脚(あし)を馬〔栗毛の馬〕と看做(みな)すこと、即ち徒歩旅行の意)や式亭三馬(しきていさんば)の『浮世風呂(うきよぶろ)』と『浮世床(うきよどこ)』(風呂とは浴場(よくぢやう)、床とは今の言葉で理髮處(りはつしよ)の意。かゝる漢字の日本式使用法は、ちよつとをかしなやうですけれども、世間(よのなか)にはよくあることで、たとへば希臘語の天幕(てんまく)〔σκηνή(skēnē)〕を今では劇場の背景(はいけい)〔scene, scenery〕の意に用ひ、舞踏場(ぶたうぢやう)〔ορχηστρα(Orchestra)。古代ギリシャの劇場において、舞台と客席の間にある、合唱隊(コロス)が歌ったり踊ったりした半円形の広場を指すという。〕を今では樂隊(がくたい)の意に用(もち)ひてゐるが如(ごと)き皆それです)を傍(かたは)らに置いて、さて今までに讀んだことのある中國の小説を一つ一つ思ひ浮べ、これに類似(るゐじ)した作品を搜し出さうとしてみますと、〔理由の〕一半(いつぱん)は弧陋寡聞(ころうくわぶん)の故(ゆゑ)かも知れませんけれども、どうもおいそれと〔すぐさま〕思ひ當(あた)ることは出來ないのです。二人の旅人(たびびと)を借り來(きた)つて彼等が道中(だうちゆう)で遭遇(さうぐう)した事を描いたり、風呂屋(ふろや)や理髮店(りはつてん)に出入りする客の言動を描くなどいふことは、元來「氣質物(かたぎもの)」〔言葉としては江島其碩の創始した浮世草子の一類型。地域・職業・年代等で多様な性格類型を活写するところに特徴がある。本文では、世界文学の規模で使用している。〕の流派であつて、アリストテレス門下のテオフラストス(Theophrastos)の書いた一册の書物が、まづ最初だと云へませう、そして結構(けつかう)〔作品構成〕の上から云つて近代的な立派な小説に變(へん)ずることは出來ないでせう、しかしそれにしても平凡な述説(じゆつせつ)の中に會心(くわいしん)の微笑(びせう)を藏(ざう)してをり〔ユーモアを自在に展開しており〕、殊(こと)に三馬の書は殆ど全部が對話(たいわ)であつて、一層の面白さを覺えます。中國の滑稽小説に何があるか私には考へ出せません、『西遊記(さいいうき)』や『儒林外史(じゆりんぐわいし)』乃至(ないし)は『何典(かてん)』〔清・張南荘。別名「十一才子書鬼話連篇録」。題名には、本当にこれがまっとうな典籍か、というような寓意があるという。〕とか『常言道(じやうげんだう)』〔清・落魄道人。ありがちな話というような命名らしい。〕などにしましても、どれ一つピツタリこれに當(あた)るものはないやうに思ひます、氣質(かたぎ)を描寫したものと云へばまあ『儒林外史』の中に幾個處(いくかしよ)かあることはあります、たとへば高翰林(かうかんりん)のあゝいつた風貌口吻(ふうばうこうふん)〔風采や口調〕は確かに惡くないと思ひます、たゞ惜しむらくそれが多くないのです。兎に角、滑稽といふ點で日本の小説は自ら獨自(どくじ)の境致(きやうち)〔境地〕に到達してゐます。この外(ほか)詩文方面に在(あ)つては「俳諧(はいかい)」と「俳文(はいぶん)」の發展(はつてん)がありますが、これについても同樣の事が云へるのであつて、注意に値(あた)ひするものです。美術に關して私は全然の素人(しろうと)でありまして、滅多(めつた)なことは云へないのですけれども、しかし私は浮世繪(うきよゑ)(Ukiyo-ë.その意味は現世(げんせ)の事物を描寫した繪といふことで、西洋で日本彩色(さいしき)木板畫(もくはんぐわ)と稱(しよう)してゐるものがこれです、眞物(ほんもの)は公(おほや)けの陳列場(ちんれつぢやう)で幾枚(いくまい)か見たことがあるだけで、自分に持つてゐるのはみな複刻(ふつこく)か寫眞版(しやしんばん)に過ぎませんが)を見れば、これこそ一種特別の民衆畫(みんしうぐわ)で、近時(きんじ)の「大厨(だいちゆう)の美女」なんと云ふのは愚(おろ)か〔などは無論〕乾隆(けんりゆう)時代の所謂(いはゆる)「姑蘇板(こそばん)」〔蘇州の版画〕さへもこれと比べものにならぬと思ひます、それ〔浮世絵〕はすべて飽(あ)くまでも現世的で、專(もつぱ)ら市井(しせい)の風俗(ふうぞく)や男女の姿態(したい)を寫(うつ)してゐるのであつて、吉祥(きつしやう)とか頌禱(しようたう)の意を寓(ぐう)することはないのです。中國では後に文人畫(ぶんじんぐわ)が勢力を占(し)めて、仕女(しぢよ)〔仕女画(しぢよぐわ)と呼ばれる伝統的な美人画〕を描く方法はなくなりました、近代では任渭長(じんゐちやう)の晝などかなり特色があると云へませうが、實は彼もまた陳老蓮(ちんらうれん)〔明・陳洪綬〕の大頭短身(だいとうたんしん)の怪相(くわいさう)の遺傳(ゐでん)を承(う)け、氣韻(きゐん)の點では兎も角として𧰟美(えんび)さがありません、普通の挿繪(さしゑ)をかく畫工(ぐわこう)の作は又いづれも平板(へいばん)〔単調〕で、文人畫よりずつと劣(おと)ります、なぜといつてそれには氣韻(きゐん)すらもなくなつてゐるからです。日本の浮世繪師は本來が畫工であつて、彼等は少くとも𧰟美さをつかむことが出來ました、それは鈴木春信(はるのぶ)、喜多川(きたがは)歌麻呂(最後の二字は實は一字に合(がつ)して書いてゐますが)〔「麿」は国字。〕或は磯田湖龍齋(いそだこりゆうさい)〔浮世絵師。柱絵等を得意としたという。〕の畫(ゑ)を任意(にんい)にひらいて見さへすれば直(ただ)ちにうなづけることです、刻工や印工の精緻(せいち)なことに至つては又格別(かくべつ)です。古い昔の事は何とも云へませんが、今日北平(ほくへい)の紙屋の書簡箋(しよかんせん)は如何(いか)にそれを賞(ほ)めたてる人があらうとも、到底(たうてい)彼等に追付(おひつ)けようとはお世辭(せじ)にも云へないのであります。私は實際不思議でなりません、線畫(せんぐわ)にしろ木刻(もつこく)にしろ皆もとは中國のものなのですのに、どうして自分には〔自前では〕上手(じやうず)に出來ないのでありませう、『十竹齋箋譜(じつちくさいせんぷ)』〔明・胡正言〕中の蠡湖(れいこ)〔范蠡と西施が隠棲・逍遥したという伝説のある湖水〕や洙泗(しゆし)〔曲阜にある洙水と泗水〕などの畫にしても、勿論(もちろん)なか〳〵いゝことはいゝのですけれども、これを一立齋廣重(いちりふさいひろしげ)の木板風景畫(もくはんふうけいぐわ)と比較しますと、どうも後の雁が先になつた感〔後人が先人を追い抜いた感じ〕が致すのをどうすることも出來ないのです。私は繪畫(くわいぐわ)には門外漢(もんぐわいかん)〔素人〕で、自分の云ふことに完全な自信は持てませんが、それにしても、日本畫の形は中國から出たけれども自ら獨自の境致に到つてゐること、そして浮世繪には更に獨自の特色があり、よし中國に勝(まさ)つてをらぬとするも、確かに中國のそれと同類の作品でない、特殊の日本美術の一であると云へることは、斷言しても差支へないと私は信じてゐます。以上ゴタゴタと申し上げましたが、つまり私の云はんとするところは、日本には研究に値(あた)ひする日本自身の文化があるといふことに外(ほか)ならぬのです、中國の古代文化と密切(みつせつ)な關係があるが故に、かゝる研究も甚だ我が國國學者(こくがくしや)の參考と爲(な)すに足(た)るといふことは、又これとは別問題で、それについては今差當(さしあた)つて言及(げんきふ)しようとは考へてゐません。こゝでついでにちよつと申しておきたいことは、かゝる文化を談(かた)ることが何の役に立つかといふことです。有體(ありてい)に云つて〔正直に言って〕、これは何の役にも立ちはしないのです。好(よ)い方面で必ずしもこれでもつて救國(きうこく)できるといふわけにも參(まゐ)りますまいし、惡い方面で賣國(ばいこく)といふほどにも至(いた)りますまい。近時(きんじ)、文化侵略(しんりやく)だの文化漢奸(かんかん)だのと、いろんなモダンな呼聲(よびごゑ)があるやうですが、しかし私に云はせますと、文化は此(こ)の種の關係の上では大した力は持たないものなのです。去年の年末に『日本管窺の三』を書きました時、その最後の一節にかう申しておきました、

「しかし一國の文化を了解しようとする仕事は、固(もと)より甚だ艱難(かんなん)な、且(か)つ又實に寂寞(せきばく)なことである。平常たゞ往昔(わうせき)の文化のみを注意してゐる時には、思はず魂(たましひ)を奪(うば)はれるほど傾倒(けいたう)しなから、現實の上では往々それと同じくないばかりか、時には全然相反することさへあり、この時われわれは矛盾(むじゆん)と失望を感ずるのである。だがその實(じつ)これは怪しむに足りぬことだ。古(いにし)へと今と時代が異つてゐるといふことがその一である。多と寡(くわ)と數に於(おい)て異(ことな)るといふことがその二である。天下の貴(たつと)ぶべき事物は本々常に有るものとはきまらぬ、山陰の道士ならば必ず『黃庭(くわうてい)』が書けるときまつたわけでないし、曲阜(きよくふ)の童生(だうせい)なら『論語』の講議〔講義〕が上手に出來るときまつてゐるわけでもない、文化硏究者がその國のどこを見ても悉(ことごと)く文化だと考へようとしたとて、それは到底出來ない相談である〔まったく不可能なことだ〕。日本の文化の場合だとてさうだ、故に寂寞(せきばく)に耐(た)へる者でなければ從事(じゆうじ)できることではない、もしもあまりに熱心がすぎて、わが心の中(うち)なる文化を目の前の事實と是(ぜ)が非(ひ)でも〔なにがなんでも、むりやり〕一致せしめようと欲(ほつ)したとすれば、結局矛盾失望に陷(おちい)り中止してしまふのがおち(丶丶)であらう。迂生(うせい)は嘗(かつ)て學生のために『日本文學と其(その)背景』といふ語で講義をしたことがあるが、常に此の種の質問に對して解答できないのに閉口(へいこう)し〔困り切り〕、遂に、多くの高級の文化は過去の少數のものであつて、現今(げんこん)の多數に對しては何等(なんら)の勢力を有(も)たないといふことを承認するより外なかつた、かゝる結論は頗(すこぶ)る暗淡(あんたん)〔暗澹〕として絶望的のやうだけれども、實に自分の經驗から得來(えきた)つたもので、故に確かに僞(いつは)りのない本當(ほんたう)のことである。」こゝの云ひ方はあまりハツキリしませんが、大體(だいたい)云はんとするところはかうなのです、つまり文化は民族の最高努力の表現であり、往々にして一時的であつて永在(えいざい)的ではない、少數的であつて全體的ではない、故に文化のすぐれてゐることと現實の粗惡(そあく)なこととは常に一致しない。文化の研究者はかゝる事に對して如何(いかん)ともすべからず〔どうしようもない〕と諦(あきら)めることはあり得(う)るとしても、反(かへ)つてそれを愉快(ゆくわい)だと感ずるやうなことは決してあり得(え)ないでせう、譬(たと)へば『源氏物語』や浮世繪を鑑賞(かんしやう)できる者でも、(削除)〔訳文が検閲を受けて削除されたところを明示する。原文では「譬如能鑑賞源氏物語或浮世繪者見了柳條溝、滿洲國、藏本失踪、華北自治與走私等等、一定只覺得醜惡愚劣、」(例えば、『源氏物語』や浮世絵を鑑賞できる人であれば、柳条溝事件、満州国擁立、蔵本領事館員失踪事件、華北自治運動の扇動、密輸といったものを見れば、絶対に醜悪で愚劣なものだとしか思わないだろう、)とあり、この部分の訳文が当局から抹消命令を受けたものと思われる。〕必ずやたゞ醜惡愚劣(しうあくぐれつ)を感ずるだけでせう、否(いな)、そのうへ日本の敎養ある藝術家までもみんなそんなものに異(ちが)ひないと感ずるでせう、けれどもかゝる事は蓋(けだ)し旣(すで)に眞と善とを具(そな)へたものでなく、亦(また)併(あは)せて美を得たものではなからうと思ひます。古今の專制(せんせい)政治の利(り)は民を愚(ぐ)にするに在(あ)ります、或は禁錮(きんこ)を用ひ、或は宣傳(せんでん)〔プロパガンダ〕を用ひて、人民の心も眼も盲(めくら)にしようと務め、それでもつて有利なりと考へてゐます、しかるにいま人に高等文化の美を味得(みとく)するの自由を許(ゆる)してゐるのは、とりもなほさず人をして醜惡愚劣なる施設に對して嫌惡(けんお)を感ぜしめる結果に歸(き)するわけでせう、だから眞(しん)の文化傳播(でんぱ)を以て專制或は侵略の先鋒(せんぽう)となすが如(ごと)きは、恰(あたか)も轅(ながゑ)を南にしてその轍(わだち)を北にせんとするやうなものです〔目的と実行結果が矛盾すること。南轅北轍。(「戦国策」)〕、外國に對する「文化事業」は、だから實は爲すべくして爲す可(べ)からざるものであつて〔できそうでいて実はできないものであり〕、かゝる事業が往々にして有名無實(いうめいむじつ)なものとなつてしまふのも亦(また)確かに故(ゆゑ)なきに非(あら)ずであります〔まことに当然の理由がある〕。無闇(むやみ)に長々と書きましたが、結局要領(えうりやう)を得ませんから、このへんで止(や)めることに致(いた)します。私はこゝで日本文化の談るに足る所以(ゆゑん)を申しましたが、かんじんの談る本文が何年何月から始まるものかまだ今のところ見當(けんたう)がつきません、といふのはこれはたゞ原則上談りたいといふまでであつて、事實上では更になほ理會(りくわい)を待たねばならぬからであります。つまらぬ事ばかり申し上げて、貴下(きか)の折角(せつかく)のお時間をつぶし、まことに相濟(あひす)みませんでした、何卒(なにとぞ)御海恕(ごかいじよ)下さい。匆々(そうそう)〔手紙の後付けの語〕。併(あは)せて貴下の御健康を祈(いの)ります。

民國廿五年〔一九三六年〕七月五日

知堂(ちだう)白〔「白」は申し上げる意。〕

*實秋先生——『國聞週報(こくぶんしうほう)』〔一九二四年、天津で発行された総合週刊誌。〕の編輯(へんしふ)者梁實秋(りやうじつしう)。
*黄庭——黄庭經(くわうていけい)は道教の經典の名。晉の書家王羲之(わうぎし)は山陰〔会稽(紹興)〕の道士(だうし)に頼まれて黄庭經を書き白鵝(はくが)に換(か)へた〔交換した〕と云はれる。〔李白「送賀賓客帰越」〕
*童生——州考(しうかう)又は縣孝〔原文「縣孝」〕に應じて合格した者をいふ。年齡の老少(らうせう)に關係はない。曲阜(きよくふ)は孔子の故里(ふるさと)である。