瓜豆集
譯者のことば
周先生の隨筆集は一九二三年に出た最初の一册『自己的園地』以來、今日までに凡そ十六七册に達してゐる、もつともそのうち四册ほどは選集であつて、内容的に多少他と重複した部分もあるが。こゝに譯出した『瓜豆集』は民國二十六年っ(一九三七)三月の初版で、譯者が飜譯に着手した時まではそのうちの最も新しい一册であつた。ところが飜譯に從事してゐ間に又一册『秉燭談』が新刊された(その奧附には一九三九年十二月付排〔(主に中国の印刷物で)印刷組版に渡すこと〕、一九四〇年二月初版とあるが、實際市場に出たのは五月に入つてからであるかと思はれる)ので、『瓜豆集』は今や最後から二番目の隨筆集となつたわけである。
周先生に就いてはもう大分知られてゐるやうだし、私自身も淺學不文をかへりみずして既に幾册かの譯書を出し、周作人小傳みたやうなものも試みてゐるので、今改まつてどこからどう云つたらよいか迷つてしまふ。本書の『題記』を讀み、本文を讀んでいたゞけば、讀者は自ら知ることが出來る筈である。その思想の飽くまで自由寛博であること、社會の一切の事物に對する見解の極めて犀利明確なること、またその無雙の博識、饒かな趣味、溢るゝ諧謔、謙虚温雅な風度〔風貌態度〕、高く靜かに澄みきつた心境、凡ての損はれ虐げらるゝもの、即ち、婦人、子供、或は飼鳥のやうなもの、別しては中華民族に對する大きな慈愛、——それらはこの一卷を讀めば十分に感得していたゞけることゝ思ふ。更に又彼の文章に至つては、婉轉曲折、舒徐〔悠揚〕自在、情意の趣くところ筆これに隨ひ、しかもその間一字一句の無駄もない、眞に天衣無縫とも云ふべきものである。そして後年になるほど文は愈〻恬淡さを加へ、益〻簡錬されて古雅遒勁〔雄勁〕の一路を辿つてゐる、勿論私のまづい譯筆では到底それはわかりやうもないわけであるが。
周作人は民國における小品散文の最初の提唱者である。文學革命後、詩戯曲小説等他のジヤンルの文學がいづれもまだろくに物になつてゐなかつた時、逸早く成功を收めたものは魯迅や周作人等、所謂「語絲派」の雜感小品文であつた。そして周作人は今日まで二十年に亙つて殆ど隨筆のみを專門にして通して來た唯一の作家である。蓋し彼は文學を載道派(道のための手段としての文學)と言志派(自由意志的即興文學)の二つに分けて見、小品文——個人的文學の尖端、言志的散文——こそは文學發達の極致であると確信してゐるのである。
一九三四年正月、彼は滿五十歳に達したのを自ら壽ぐユーモア詩二首を發表して、左派の青年たちから趣味的幽默的有閑的文人といふ烙印を押され、猛烈な漫罵酷評を受けたことがある。そのとき林語堂が彼を辯護して、周作人の詩は冷中熱あり、沈痛を幽閒に寄せたものであると云つた。この評語は甚だよい。以て彼の作品全體の評語とすることが出來ると思ふ。周作人は反語の名人である。空とぼけたやうな相貌の下に激しい情熱の閃めきを濳め、全體が冗談とも見れば見られる言説が、ちよつと角度を換へてみると意外にも鋭く問題の核心を衝いてゐることを見る人は見る筈である。それにしても、ユーモアを解せぬ「人生に對して眞面目な若い友人たち」が、彼の巧みな反語の係蹄にかゝつたとは知らずに、自ら得意になつて勝ち誇つてゐる有樣こそいかにもおもしろい圖であつた。たとへば彼は口癖のやうに自分は中庸の人間だと云つて、急進派の靑年にやんやと喜ばれるが、實はこの中庸、なか〳〵一筋繩の中庸でないことを知らねばならぬ。彼の云ひ方に從へば、われわれの心には「二匹の鬼」〔两个鬼〕が住んでゐる、即ち紳士鬼とゴロツキ鬼〔流氓鬼〕がこれで、われわれの言行はすべてこの二匹の鬼の兩頭政治下に支配されてゐるのださうである。そして周作人は、紳士的態度もゴロツキ的精神もどちらも好きだと云ひ、この二匹の鬼を調和させ、あはよくば結婚させることを以て理想としてゐるらしい。ある人がエリス(周作人の最も私淑してゐる所の)〔Henry Havelock Ellis〕を評して「彼のなかには叛徒と隱士とが同居してゐる」と云つた言葉を、彼は曾て引用したことがあるがこれも正に同樣な意味に解してよからうと思はれる。所謂中庸とはその意味である。周作人の思想にも文章にも明らかにさうした兩面がある。人は多くその一面のみを見て他の一面を知らぬ。或は知らうと願はないのかも知れぬ。
周作人は畢竟〔突き詰めれば〕愛國者である。中國及び中國人を酷愛するが故に、中華民族の劣根性を痛罵し、その病患を剔抉〔えぐり出す〕せずにはゐられない。その點さすがに血筋は爭はれぬもので、兄の魯迅と少しも異るところはない。たゞ魯迅の語の多く刻薄にして、辛辣乾脆〔ずばりと物を言う貌〕、全く諷刺に近かつたに對し、周作人は湛然和靄〔静かに沈潜して〕、之を反語に出したのである。
彼は『題記』の中にも、自分は平生文章を書くのにその詞を簡略にし或は隱約〔含蓄を持たせること〕にするのを喜ぶと云つてゐる。本國の讀者すらその意を讀み誤ることが全く無しとしないと察せられるのだから、わが國の讀者にとつては尙更の事であらう。殊に近年の彼の隨筆は多く古今東西の書籍の讀後感といつたやうな形式を採り、それらの書の精要の處を引用しつつ、その合間合間にちよつ〳〵と自分の意見を挾んで行くのである。「文抄公」〔他人の文章を抜き書きする人。引用の多い著者のスタイルを友人の銭玄同が調戯った語。〕とか「滕文公」(註に曰く、滕は謄なり)〔孟子が滕文公篇において盛んに堯舜を引いて語ったことからの揶揄。文章を敷き写しにする、という罵詈。〕とかいふ言葉は、元來はよい意味の言葉ではないと思ふが、文抄公もこゝに至つては創作以上と云はねばならね。周文の妙は實にこゝに在る。讀者がそのおもしろさを味得せられることが最も望ましい。
とは云ふものの、事實このつたない譯文ではさうした註文をする方が無理に違ひない。曾て『周作人隨筆集』(改造社版)を出した時に、竹内好君が拙譯文を評して、説明に墮してゐると云ひ、俳句の所謂間が欲しいと云つたが、こんどこの本の校正をしながら、今にしてつくづくその批評の當つてゐることを思つた。後の祭り〔手遅れ〕である。殊に漢文の引用文には譯者もこれで相當苦勞して出來るだけ和文に柔げようと試み、自分では『風俗文選』あたりを目標においてゐたつもりであつたけれども、力が足りぬために結果に於ては從來の讀み下し式の譯文といくらもちがはぬ甚だ讀みにくい文章になつてしまつた。いつそ全部口語に譯してしまはうかとは一應も再應も考へたことである。さうした方が實はもつと氣樂に出來たかも知れぬ。しかし又一方には口語にしてしまつては面白くないといふ氣持も強くあつて、それは必ずしも中途半端な氣持から出たものとのみ云ひ切れなかつた。要するにこれは今後の譯界〔翻訳界〕の課題であらう。多くの人々によつて色々に試みられた上、自然にきまるものと思ふ。私自身こんど採つたこの方法を以て最善と考へてゐるわけではなく、それどころか、自分でも大いに不滿足不安心を覺えてゐればこそ斯くは絮々と〔くどくどと〕愚痴をこぼしてゐる次第である。
譯註といふものは、實は讀者にとつても譯者にとつてもたゞ煩はしいだけのものであるが、それと知りつゝ又々杜撰なものを捏ち上げてしまつた。衒學にしてはあまりに尻尾が見えすぎよう。困つた老婆心〔余計なおせっかい〕として讀者の一笑を得れば幸甚である。簡單な註は本文の下に六號活字で註し、やゝ多行に亙るものは後に一括しておいた。譯文にせよ註解にせよ、よく〳〵わからん過所は北京の周先生に手紙で質問し、その他の方々にも出來るだけ敎はつて作つた。また前譯書『周作人隨筆集』や『周作人文藝隨筆抄』(富山房版)に既に選譯してある分で、後で氣付いた誤譯や面白くない云ひまはしなどは及ぶだけ訂正したが、譯者の思はぬ誤謬は尚多々あることゝ思ふ。大方の君子の叱正を得て、將來いくらかにても完全に近いものにしたいと願つてゐる。
譯者は初め本書の全譯をなすつもりであつたが、途中又考へがかはり、都合により四篇だけ省略することにした。『日本文化を談ずるの書の二』『童二樹に關して』『邵無恙に關して』『年寄の冷水』がこれである。無くとも大旨はきずつけぬと信じてゐる。
この譯本は吉川幸次郞氏の切なるおすゝめによつて出來た。この『瓜豆集』を皮切りに〔手始めとして〕漸次〔だんだん〕周先生の他の隨筆集に及ぼし、出來るならば全譯したいといふ希望を私の心に植ゑ付けたのも吉川氏であつた。それから校正や假名遣の統一その他の事に熱誠なる助力を惜しまれなかつた創元社の方々がある。たゞこれだけの本でも多くの人々の好意なしには出來なかつたのである。厚く謝意を表しておく。
昭和十五年〔一九四〇年〕八月八日福岡にて