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幸田露伴
（岩波書店　1949.4.30）

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一顆の豆がこゝに在る、なるほど一顆の豆はこゝに在る。二顆の豆がこゝに在る、なるほど二顆の豆がこゝに在る。たゞし豆はこゝに在るが、一といふものは無い、又二といふものも無い。一、二、三、四、五、六、七、万至十、百、千、萬、億……といふものは、人がこれを數といふものであぁる。人類はじまつてから長い〳〵歳月を經來つて親子代〻染着いた觀念の習慣の堆積から、今では數といふものを、在るもののやうに思つてゐる。そして其數に囚はれてゐる。數といふものは實在から遊離した存在だとも云び難い、昇華した存在だとも云ひ難い、投影したものだと云つても、猶未だ言得て妥當ならずだ。此數から物さしが出來はじまつた、はかりが出來はじまつた、桝がはじまつた、曆がはじまつた。元來が無いものだつたから、物さしも、はかりも、桝も、曆も、銘〻それ〴〵勝手はうだいのものだ。

四は二が二ッなのだ、六は三が二ッなのだ。七は面倒な奴だから、一にしてしまへといへば、七進法がはじまつても無理は無い。十が調法だから、これを一にして、十進法が流行した。十二も三と四とを含んだ便利なものただから、十二進法も相當に行はれた。そして十進法と妥協させるために、九十六文を百文と定めて置くなんといふ變なことも行はれた。馬鹿げては居ないだらうが、時計は六十進法で、それから二進法で、一日といふことになる、隨分やゝこしいものだ。一^ト月は二十八日や三十日や三十一日や種〻の日數で一^ト月といふことになる。九十六文を百文と定めたのを笑ふ今の人が感心に不服も言はないのは、洒落たものだ。其十二ヶ月が濟むと、十二進法で、一年相かたづき申候で御正月。新年の御慶芽出度申納候。

（昭和十五年一月）

見渡す限りに眼に立つ山も無い。天はたゞ薄墨色、といふよりは何の色だか明らかでない色の薄ぼんやりした色に混沌としてゐて、横雲も無ければ走り雲も浮雲も無く、一樣にぼうつとしてゐるが、雪を持つてゐる空合でも無く、まして風の氣が有るでも無く、冷たい、凝然として動かない、靜かさに滿ちた、�ﾘれやうでは勿論無いが然ればとて陰慘でも無い、不可解其物のやうな相をもつて大地に臨んでゐる。廣〻として限り無いほどの平野の一體（＊ママ）には、莖ながらにおとなしく枯れた少し大きい雜草が立つてゐたり、又其莖が折れて折れきらないで垂れてゐたり、或は丈の矮い、葉の濶い草が、しもげた儘に薄紙を雨に打たせたやうに地に貼いてゐたり、萓薄の類が處〻にむら〳〵と丸くなつて一團〻〻を爲しながら、乾びて硬くなつた糟穗を角のやうに差出してゐたりする、其間には何か能く分らぬ蔓草の類が、古い針金の腐りかけたやうになつて、這ひ纒はつてゐたりする。

冬は今既に萬象を靜寂と死滅とに藏め盡す其の働きを十二分に爲盡して、今度は自分が九十日の生涯を終らんとするに當つてゐるのであり、そして沈默無言の恐ろしい威嚴を猶ほ此の人遠き荒野に幽けく保つてゐるのである。野草濕草蔓草の莖にも葉にも蔓にも、其の小やかな實の一〻にも及ぼした嚴しい力の淋しい結果を吾が功績として眺めながら、塊まった土をも寒氣ではらゝがせ、弱い土をば霜雪で愈〻弱く力無くさせた此の野中に、自分の身を横たへて僵れて、そして爛壞潰亡して行かうといふのである。

野中の淺い凹みに、ぉのづからなる沮洳の地といふほどでも無いが、ある。そこには「薄に交る蘆の一^トむら」といふ古い句の通りに、甚だ勢よく丈高くは育ち得なかつた貧弱の蘆が、 貧乏人のしよぼ〳〵髭のやうに枯れた莖を疎らに立列べて、猶ほ未練氣強く少しばかり残つて、白くしやれた（＊曝れた）葉を着けてゐる。然も大きい葉は寒い夜や曉の風の騷ぎに共擦れして落ちて仕舞つて、蘆の葉とも云へぬほどの小さなのばかりである。それが一厘一毫も戰がず動かずに、まるで金屬細工其物が主無き王宮の中に安置されてゞも居るやうに、シーンと靜かに、同じやうに白く曝れた莖にチョイ〳〵と��さまに着いたまゝ、無味無意義の空間に無味無意義に存在してゐる。

ヒイッ。何の禽だか知れなかつた。何の禽だらうと想像の出やうほどにも分明でなかつた。ピイッといふまでに力強いものでも無かつた、姿は更に見えなかつた。が、如何にも小さい優しい禽で有らうことだけは、聲調の弱〻しいのに思遣られた。

一分、二分、三分。注意して居ても、禽は復びは鳴かなかつた、姿も影も見えなかつた。禽の啄みさうな物も有りはしなかつた。

野は前の加く靜寂であつた。然し、ヒィッ。胸の中に其聲は遺つた。怡然として所以（ゆゑ）知らぬ 喜びは湧いた。春は生れたのであらう。

（昭和三年三月）

�ｂﾍ日本支那共に其語を同じうし、其義を同じうする。�ｂﾌ原意は字に據りて徴知される。�ｂﾍ示に从ひ、畐に从ふのであり、示は�~祇の象であり、畐は罌（＊音「オウ」。もたい・水甕）の象である。古代の人、新穀の收穫を喜び、これを罌に盛りて�~に獻じたそれが即ち�ｂﾅあつた。肉を獻じて�~を祀るのは、祭の字が、即ち肉に从ひ、即ち手に从ひ、示即ち�~に从ふによつて知らるゝが如く、�ｂﾍ�~に獻ずるの物であつた。

そこで�ｂﾌ義は開展して、何にもあれ、�~に供するもののこととなり、肉でも酒でも餅でも、以て�~に獻ずるものは皆�ｂﾆされた。周禮の致�ａA晋語の歸�ｂﾈどの語は祭肉を云ひ、後の�ｎ�といふは祭餘の酒である。我邦にても此語此義を全く傳へて、�~に供へた餅を�ｂﾆ云ひ、餅を矢の的として射しより幸�ｂ�失ひし談あり、�ｈ�といふ語も�~に供へし餅を取下して之を引きあひて多く得たるを吉とするより出で、�ｕｪけといふも�~饌を分ちしより出で、正月の�ｂ�かしは�~饌の餅を煑たるより出で、古今著聞集には鞍馬の毘沙門に供へたる竹筍を�ｂﾆ云ひ、狂言�ｓnしには、ありの實（＊梨）を�ｂﾆ云ひ、中古には御�ｂﾆいふ語普通に用ゐられ、今の大�ｖﾝといふ語も所以無く生じたるのでは無いことを思はしめる。

古人純樸、吾が生を遂ぐるを得るを以て�~の�ｺに歸して祭る、すべて�~に獻じたる物は、祭祀終りて後、人〻これを頒ち享けて之を飮み之を食ふ、心意暢然として欣幸怡�ｽの情あり、是れ�~の賚はるところのものなりとして喜べるより、こゝに於て�~の寵惠を意味して抽象的展開的に用ゐられた�ｂﾌ義は、蓋し原意と殆ど同時に生じたことであらう。それで孔子以前の古い詩に景�ｂｾの、遐�ｂｾの、介�ｂｾのとある其�ｂﾌ義は皆幸�ｂﾌことであり、易の受�ｂｾの、有�ｂｾの、書に多�ｂｾの、錫�ｂｾのとあり、禮に祈�ｂｾの、大�ｂｾのとあるも亦皆幸�ｂﾌことである。

我邦にさいはひといふ語ありて、�ｂﾆ同じきに似たれども、さいはひは先延（は）ふ、又は前延ふの意にして、人生の前途の延へ廣がり行くべき榮幸を望むの義なれば、少し異なつて居り、�ｂﾍ至大至善の�~の賚はるところの平安康樂そのものなれば、測る可からざる�~の靈�ｺより出づるものとする微妙の氣味の差ありて、�ｂﾍ�ｂﾆして、さいはひとは並行して其儘に邦人の思想の中に存在してゐる。

�ｂﾌ實際の解釋は、古く箕子が武王に陳べた古傳の�ﾍの中の五�ｂﾌ條目（＊寿・富・康寧・攸好徳・考終命〔書経・洪範〕）が最も正しきを得てゐると思はれる。それは一に壽である。言ふまでもなく生命の存續の永きことである。二には富である。生命を保つに要する庶物の充ち足りることである。三には康寧である。鬪爭、憤怒、怨恨、憊苦等無く、平和安寧なるを得ることである。四には好むところ�ｺである。不�ｺを惡み得ないやうな状境に置かれず、何處までも�ｺを好み善良であり得ることで、此一條は如何にも立派な�ｂﾅある。五には考終命である。これは古解一ならぬが、命を終る時、安穩平正（＊ママ）で、劇苦悶亂など無く、易らかに（＊ママ）澌盡するを得るを云ふのである。考は成である。以上の�ｂﾍ天より之を受くるもので、天はもとより帝であり、帝は即ち�~であり、自然の廣大な理法の主宰である。此の古の�ｂﾌ思想は、蓋し今も猶日本支那に保有されてゐる。

（昭和十六年十月）

震（しん）は亨（とほ）る。何をか惡（にく）まむやである。彖傳（たんでん）には、震來つて虩〻（げき〳〵）たりとは、恐るれば�ｂ�致すなりとある。恐るれば�ｂ�致し、或は侮り、或は亢（たかぶ）れば災いを致すのは、何事に於ても必ず然樣有る可き道理である。古人は決して我等に虚言（うそ）を語つて居らぬ。恐るれば此心はおのづから誠に返る、誠なれば亨り、誠なれば�ｂﾍ至るべきである。そこで震の大象傳（たいしやうでん）にも、君子以て恐懼修省すとある。恐懼修省の工夫が有れば、以て宗廟社稷を守り、以て祭主と爲るべきである。震前の一般社會の一切の事象を觀るに、實に缺けてゐたものは、恐懼修省の工夫であつた。人〻は甚だしく亢（たかぶ）り甚しく侮り、自ら智なりとし、自ら大なりとし、貴重なる經驗を輕視し、所謂好んで自ら小智を用ゐて、而も揚〻として誇る、高慢増長慢（＊ママ）等、慢心熾盛の外道そのまゝであつた。今に於て大震災の爲に、自ら智なりとした其智が風に飛ぶ塵砂より力無きことを示された、自ら大なりとした其大なることが、猛火の前の紙片よりもつまらぬ小なるものであることを悟らされた。こゝに於て恐懼修省することを爲せば、實に幸である。今に當つて猶且修省することを知らずして、舊態依然たるものが有らば、それは先（さき）に笑ひ、後に號咷（がうてう）（＊「がうとう」。読みママ）する者であらねばならぬ。笑ひ娯み、笑ひ怠るものは、泣き號び泣きくるしむ者となるべきが自然の道理である。鳥（とり）其巣（す）を焚かれたるが如くなつて、大なる凶を得べきである。其（その）屋（やね）を豐（おほい）にし、其家に蔀（しとみ）し、よさゝうにすれば、日中に斗だの沫（ばい）だのといふ星を見て、大なる光は遮られ、小さなる（＊ママ）光はあらはれ、然るべき人は世にかくれ、つまらぬ者は時めき、そして、其戸を闚（うかゞ）へば闃（げき）として其（そ）れ人旡（な）し、三歳覿（み）えず、凶なりといふやうになつてしまふ。震前の社會のさまは、このやうでは無かつたか。今はもう言つて甲斐なきことだ。たゞ恐懼修省の工夫を爲すべきである。懼れて愼み、愼みて誠ならば、修省の道はおのづから目前に在り足下に現はるべきである、修省すれば�ｘﾒり幸（さいはひ）至るは自然の理である。慢心や笑容を去つて、肅然たる氣合（きあひ）になれば、惡いことは生ずべきで無い。

地震學はまだ幼い學問である。然るに、あれだけの大災に豫知が出來無かつたの、測震器なんぞは玩器同樣な物であつたのと難ずるのは、餘りに沒分曉漢（わからずや）の言である。強震大震の多い我邦の如き國に於てこそ地震學は發達すべきである、�ｩ外國より其智識も其器械も歩を進めて、世界學界に貢獻すべきである。科學に對して理解を缺き、科學の功の大ならざるを見る時は、忽ちに輕侮漫罵の念を生ずるのは、口惜しい惡風である。科學は吾人の盛り上げ育て上げて、そして立派なものにせねばならぬものである。喩へば吾人の子供を吾人が哀〻劬勞して育て上げねばならぬのと同じことである。まして地震學の如きは、まだ幼い學科である、そして黴菌學なんぞの如くに研究者も研究の保護促進をする者も多く無いのである。これに對つて徒らに其功無きを責むるのは、所謂雞卵に對つて其（その）曉を報ぜざるを責むるの癡である。科學一點張りの崇拜も自分は厭ふが、科學慢侮も實に厭はしい。科學は十分に尊敬し、十分に愛護し、そして其の生長して偉才卓能をあらはすのを衷心より歡迎せねばならぬ。

明治の末年の大洪水に先だつて、忌はしい謠が行はれた。それは今でも明記して（＊ママ）居る人が有らうが、「たんたん、たん〳〵、田の中で･･････」といふ謠で、「おッかあも･･････田螺（たにし）も呆れて蓋をする」といふのであつた。謠の意は婦人もまた裳裾を褰（かゝ）げて水を渉（わた）るに至つて其影惡（にく）むべく、田螺も呆れて蓋をするといふのである。其謠は何人が作つたか知らぬが、童幼皆これを口にするに及んで、俄然として江東大水、家流れ家洗はれ、婦女も裳裾をかゝげて右往左往するに至つたのである。此度の大震大火、男女多く死するの前には、「おれは河原（かはら）の枯芒（かれすゝき）、おなしおまへも枯芒、どうせ二人が此世では花の咲かないかれすゝき」といふ謠が行はれて、童幼これを唱へ、特に江東には多く唱はれ、或は其曲を口笛などに吹く者もあつた。其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭惡の感を懷かしめた。これは活動寫眞の挿曲から行はれたので、原意は必ずしも此度の慘事を豫言したのでも何でも無いが、大震大火が起つて、本所や小梅、到るところ河原の枯芒となつた人の多いに及んで、唱ふ（＊ママ）者はパッタリと無くなつたが、囘顧すると厭（いや）な感じがする。菩薩蠻（ぼさつばん）行はれて安祿山（あんろくざん）の亂の起つた昔話や、泣面（なきつら）化粧（げしよう）が行はれて國の運の傾いた類を、支那史上から取出して談ずるまでも無い事だし、又「まひらくつのくれつれ･･････」の童謠が行はれて、齋明天皇の御代に我軍が大陸で敗績したり、好（よ）い方（はう）では「かつらぎ寺の前なるや豐浦（とよら）（＊ママ）の寺の西なるや、おしとど、としとど、櫻井に白璧（しらたま）しづく･･････」の童謠が行はれて後、光仁天皇が御登極あつて、前代の弊政を改められた事などを引出して語るまでも無いことであるが、忌はしい謠、或は妙な謠などが行はれたり變な風俗が行はれたりなんどした後に大きな事變があると、各人の記臆の中から、忌はしく感じたり異樣に思つてゐた事などが頭を擡げて來て、さも〳〵其事變の前表豫告でゝも有つたかの如く復現して來るものである。古の史家などは多くは此を前兆であらうかと取扱つて、そして正史にも野乘にも採記したのであるが、これも亦たしかに幾分か有理なる社會事相解釋の一面である。厭（いや）な歌詞や音樂や風俗化粧などは兎に角に無くて欲しいものであらねばならぬ。郷（きやう）に入つて其謠（うた）を聞けば其郷知る可しである。そこで民を牧（やしな）ふ者は古から意をかゝる事にも用ゐたのである。邵子が橋上に杜鵑の聲を聞いて天下の形勢を悟つたといふのも、豈直に杜鵑の聲を聞いて而る後に悟るところ有りしならんやである。

市中をあるいて見ると、まだ東京は大震災の痕が消えぬ。到るところにトタン葺の家の胴腹も背中も寒げなのも有り、焚けた樹が冬の天に�Kぼけた骨を聳えさせて居るのもあり、瓦石が埓無く散ばつて居るのもある。それに付けて思ひ出すのは、此の大震災のあつた後に、むかし�ｺ川時代に江戸で大火事が有つた時、紀伊國屋文左衞門といふ男が、火事の最中に江戸を出立して木曾路へ赴いて、そして材木の買占をして大金を儲けたといふ、其昔話をそのまゝに行かうとして、多くの人が大震災から其の紀文の爲た通りに材木を買取りに骨を折つたところ、さ う思ふやうにはな造物者がさせないで、あちらにもこちらにも出來た紀文の模倣者は、まんまと失敗をして仕舞つたといふ談である。そんな事もほんとに有りさうな事で、そして又ほんとに有つた事であらう、災後の新聞紙や雜誌で、さういふ記事を見たことは一二度では無かつた。紀文の模倣者は笑話の種子になつて、いゝ面の皮な、損をした上、嘲笑を蒙つたのである。それを思ひ出すと、をかしくも無いわけにはいかぬ、少しはをかしい。が、同時にまた氣の毒でないこともなく思へる。大きに御世話の事には違ひないが、然樣した感じの起る事も實際である。昨日も墓參のため市中の大部分を貫いてあるいたので、省線電車の中から市街を見下して、同じ感じをおのづからに起した。

それで、ふと思ひ出したのは、紀文の談が何樣して人〻の頭腦の中にあつたかといふことである。それから又はかない傳説、ふだんは何でも無いたゞの消閑の話材に過ぎなかつたものが、或時になると小さなこぼれ種子が土に遇ひ水に遇ひ太陽熱に遇つて俄然として萌え出すやうに、或る非常の場合に人〻の頭腦の中から萌え出して、そして人〻に大活動を促したり、あげ句の果には大損失を受けさせたりするといふ現實になるといふことである。

傳説が扨はかないものであるに關らず、或時は大した事を起し出すといふことに就いては、隨分複雜した面白い研究が成立つに足るのであるが、それは先づ姑らく擱いて、何樣して人〻が紀文の事を聞知つて居たらうかといふ事に就いて考へて見ると、先づ思ひ起されるのは紀文の傳記である。

紀文の傳記といふやうなものは、燕石十種の中に、奈良茂の傳記などと共に含まれてゐる。紀文といふ人は實在した人間に相違無い。晋其角の弟子で千山といふのは即ち其人で、其角の後援者で有つたらうことは推察される。其角が死んで後、冠里公（＊安藤対馬守信友）を發句の人に、追悼の百韵に、かうかまへたる筆�奄ﾓなり、といふ��流の第六句に、行く月にこの松傘をさしかけて、といふ月の句を出して居る千山は即ち紀文であつて、然樣いふ時の然樣いふ座の百韵に月の座をあてがつてゐるところを見ても、他の人〻が如何に千山をあつかつてゐたかといふことが猜破せられるのである。勿論ホントに千山の句だつたか、それとも名のみ千山であるか何樣かは知らぬ。が、世間の大多數の人は何も燕石十種中の紀文傳を讀んで、紀文を知つてゐるのでもなく、また千山が紀文で有らうか、萬山が紀文であらうかを知ってゐるのでもあるまい。して見れば紀文傳や類柑子は世人と縁の薄いものである。

世人と紀文との交渉はそれから（＊ママ。「それなら」カ）何樣して成立つてゐただらう。紀文の事蹟をおもしろく作つたものに、黄金水大盡盃といふ續きものの繪草紙がある。何卷あつたものか記臆しても居らぬが、何でも相應に長いものである。其中には紀文が大火事に際して材木買占で大儲けをするところなどが面白く綴られてゐ、畫かれて居た。幼い時に自分が眼にしたほどだから、無論それを眼にした人も居らう。然し今日黄金水といふ繪册子を�ｺ川文學、幕末文學など好きな人に尋ねて見たところで、實際それを眼にして居る人が何人有らう。はかない「くさざうし」であるから、それを知らぬとて知らぬのが何も羞かしいほどのものでも何でも無い、もしろ知らぬのが當然なくらゐのものである。まして普通の人が知らぬとて當然すぎる位である。して見れば、これも今の世人とは線の薄いものである。

黄金水の如きものが出た位であるから、所謂江戸の芝居には紀文が顏を出した事も有らうし、沖の暗いのに白帆が見ゆるの歌が今猶殘り存して居るほどだから、紀文が世俗音樂に顏を出してゐることも有るのは有らうが、それでも誰も紀文を演劇でおぼえて居る人も今無いやうだし、別にこれといふ際立つた印象を與へてゐるところの何物をも記して居らぬのである。して見れば此の方も世人に縁が深いのでは無い。

一番多くの人〻に紀文といふものゝ記臆せられてゐるのは、扇で景�Cをたゝき出した講釋師先生の口業によるのであらう。講釋師の本來の上からは、紀文などの上を口演するのは餘り感心したものではあるまいが、變り種として取扱はれて、そして時には陽氣な面白いものとして演技の材料となる。その筆記などが新聞や雜誌の材になり、又所謂赤本になつて流布されて居る。前に又赤本には講釋師の別途に何人かが仕立てゝ多分世に散布されて居るだらうと思はれるが、赤本の研究は「物食ひのわるい」自分には齒が立たぬからそれを試みた事も無いので、確としことは申せぬ。けれども赤本には屹度紀文が顏を出して居るだらうとおもふ、其想像は蓋し中つて居よう。

して見ると紀文と世人との縁は講釋、講釋本、及び赤本によつて、つながつて居て、そして大震災の時に及んでそれが芽を噴き出して、そして山氣のある人〻に大小の影響を與へたのである。

が、此等のものが紀文の眞事實としてどれほど信ずべきかは本より疑問である。又此等のものが紀文傳に本づいたらうことは察せられるのであるが、紀文傳其物が何れ程眞事實を含んでゐるだらうといふことは勿論一寸考へさせられる。それは何も紀文傳が紀文と近い時代に出來たものでも何でも無く、又昵近者の談といふでも無く、�凹獅ﾈ研究者の手から出來たといふでも何でも無く思はれるからである。雜駁にいろ〳〵の傳説を紀文といふ一點によせ集めて、そして幾分か紀文にかゝる少しの事實調査を附合せたに止まる觀があるからである。善い事も惡い事も、風の木の葉のやうに吹寄せるものである。義士銘〻傳や荒木又右衞門傳は子供の雪達磨のやうなもので、轉がしてゐる中に段〻と雪だの泥だのいろ〳〵のものが附いて素�ﾘらしく大きくなつたものである。老子が史記に出て居るだけでは別にこれといふ事も無い人であるが、晋から唐になると大層にいろ〳〵の事蹟がある人になつて仕舞つて、猶龍傳（＊賈善翔）になると、もう其事蹟が素敵滅法なものになるやうなものである。老子が仙術だか魔法だか、イヤ道術をもつて或國の國王及び臣下人民等無數のものどもを大御馳走する譚などはまことに面白いが、それは維摩經が化けて出てくつゝいたものであるらしい。其如くに雪の丸けられた（＊ママ）ものが轉がつて居ると大きな雪達磨が出來上る如く、荒木又右衞門や赤穗義士や�恁ｴ卜傳が時代の流れをころがされてゐると、段〻と大きく素ばらしくなる。紀文も矢張りさうらしい。

眞實の紀文の存生よりは後、紀文傳の成立よりはたしかに前であらうとおもはれる元文頃のもので、渡世傳授車（＊都塵舎）といふものがある。江戸出來のものでは無い。其書の中には紀文が大火事で儲けたと同じ談が出てゐる。それは或る材木屋の蕩樂者が蕩樂の果に零落して、三州の岡崎にごろ〳〵してゐる。其男が大火の事を聞いて木曾へ飛込み、小判でがら〳〵いふ玩具をつくつて山主の子供へ與へ、そして山主の氣を取つて材木買占の約束を爲し、そしてあとから材木を買に來る者共の首根ッ子を押へて大利を得る談を書いてゐる。此方が餘程うまく、有るべき事情に適合してゐる。小判で玩具を造る談は紀文の譚にもそのまゝ出てゐる。どちらがほんとか。勿論傳授車は實録體のものでは無く、渡世の道を雜記的におもしろく書いたものである。其書中の材木屋の果の杉右衞門といふ者が即ち紀文であるのかも知れぬが、又紀文の談が此書 中の談によつて添出されたものかも知れぬ。そのやうな事は穿鑿する要も無いが、兎に角に一寸おもしろい小説樣の書である。そして其記載の其一條は何れが本で何れが末であるにしても、全く吻合してゐるのが一寸心を惹く。ひよつとしたらば、いろ〳〵の斯樣いふ事が紀文にくつついたのかも知れぬ。もつとも紀文が材木商賣で大利を博した事は事實で、それは天龍川沿岸の材木産地たる山林を大に買つた現存の或人が、紀文の其昔所有して居た山林地は皆搬出便宜の好い地であるのに感服した、といふ談を十年前ばかりに自分に直話したことが有るのでも想像されるのである。

いづれにしても紀文になりそこねた人〻は氣の毒であり、そしてそれが不確實な物語から縁に引かれてゐることを思ふと、猶更人間の事は所謂「ヤマ」に引かされてゐるものであるといふことをつく〴〵思はせられる。

（大正十五年一月）

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