藝苑一夕話
市島春城
(市島謙吉『藝苑一夕話』上下 早稻田大學出版部 1922.4.11)
はしがき
上卷 目次
上卷
下卷
はしがき
曩に拙著『蟹の泡』に於て、西洋藝苑に於けるツムジ曲りの逸話を集めて公にしたところが、江湖讀者のうちにはそれを多少の興味を以て一讀された人も相應にあつたらしい。で、今度は、日本藝苑に於けるツムジ曲りの人たちの逸話を集めて出してはどうかと友人から勸められた。幸ひ自分が曾て病中、極心安い知己を集めて、夜毎に退屈を紛らす爲め、輕い興に乘じて話したものを或人が筆録したのや、地方新聞其の他に折々の感興に任せて寄稿した斷篇などが、可なりに相應の分量に達して居るのがある。それは江戸文化が頂點に達して幾多の文人詩客を輩出した文化文政時代に於ける日本藝苑のツムジ曲りの逸話を中心としたもので、前著『蟹の泡』と均しく、人々が讀むに從つて直ぐに泡沫のやうに消え去る底の無邪氣な味のある短章、短文だが、車上、枕上、消閑のため、卒讀さるゝ料には適して居よう。要するに自分は茲に拙い乍らも、深い同感を以て、先賢の俤の一部を傳へ得たことを、聊か會心なりとする次第である。
大正十一年三月
東京牛込小精廬に於て
市島春城識
藝苑一夕話 上卷 目次
(卷上目次了)
藝苑一夕話 上卷
市島春城著
一 伊藤仁齋
系譜
伊藤仁齋は、一代の儒宗である。京都に住して古學を唱へ、天下を風靡した。仁齋は學深く德高く、古今學界の範たるべき者、此人の右に出る者は無い。荻生徂徠の如き、傲岸不屈で、天下恐るべきものは無いと、傲語を發した學者すら、仁齋には一目を置き、京都より江戸へ來るものがある毎に、必ず仁齋の評判を聽いたものだ。徂徠の門人太宰春臺の謂つた言葉に、徂徠の、仁齋に及ばざることが三つある。第一は、仁齋の學は、師傳に依らぬ獨學である。第二は、終生何れにも仕へない。第三は、東涯の如き偉い子がある。徂徠は、此の三つの中の一つもないと云うた。洵によく當つて居る。仁齋の居は、今も京都に儼然と存して居るが、仁齋を知らんと欲するものは、一たび其の舊居を訪ふべきである。自分も久しく心掛けたが、漸く機會を得て此頃訪ねた。今、大略訪問の模樣を語らう。
仁齋の舊宅は、京都の東堀河出水南と云ふ所にある。家の前には、一帶の淸流がある。淺いながら小氣味のよい淸潔の水で、川底の小石が一々見えて居る。これが、即ち堀河である。こゝに來て見ると、仁齋の長子に東涯の號のあることが直ちに頷かれた。東涯は、即ち「東堀河端」と云ふを漢譯したに過ぎぬ。家前には「伊藤仁齋舊址」と刻した石標が建つて居る。之は近年京都の敎育會が建てた者で、仁齋の家と同じ側で、數町隔つた所に、松永尺五(昌三)の石標のあるのを認めたが、これもやはり敎育會の建てたもので、有名な學者の遺跡には、斯樣な標榜があつて、甚だ便利である。例の京都式の潜り戸を入つて刺を通ずると、直ちに二階の客間に通された。
當家の主人はまだ廿歳位な靑年で、家務萬端は、親戚伊藤顧也と云ふ人が後見して居るさうで、此人が出て應接された。年の頃六十に近き素朴の人で、どことなく伊藤家特有の人格を具へて居る樣に見受けた。二階の客間は手狹ではあるが、床には、今時博物館にでも行かねば見られぬ古風の時計が置かれ、柱にも、目盛のある柱隱し樣の時計があつて、これには分銅がぶら下がつて居る。流石に古風の趣きがあつて、おもしろく感じた。軈て座定まつて、自分より先づ一覽を請うたのは伊藤家の系圖である。近年作られたと覺しい系圖一卷を示されたが、之を見ると、卷首に伊藤道慶と云ふ名が載つて居る。これが乃ち伊藤家の祖先で、天正四年四月廿八日歿とあるから、伊藤家の祖先は織豊時代の人であることがわかる。其祖先の時代は泉州に住したが、尼ヶ崎に長澤と云ふ豪族があつて、その家から伊藤家に養子に來た人がある。系譜によると、其の人の名は長之、通稱七郞右衞門、諱は了慶と云うて、その人の十八歳の時、初めて京都に來り住した。泉州堺の方面は兵亂があつて、それを避けたのである。そして京都に家を定めた所は、乃ち現在の地であるが、その頃は勘解由小路北と云うたと、系圖に載つて居る。此の長之と云ふ人に、慶長四年、一子が生れた。それは、名を長勝、通稱を七右衞門と云うた。これが乃ち仁齋の父である。乃ち京都に住居を定めた仁齋の祖父を假に祖先として見ても、此堀河の家は、天正十四年から連綿として續いてゐる。まことに珍らしい家である。現在の伊藤家は八代目であるさうだが、天正以來、よくも同じ所に家格を崩さず儼然と保つて來たものである。これ仁齋、東涯の餘德の然らしむる所、誰か敬虔の念無きを得よう。
三味線匣
自分は主人に向ひ、伊藤家の、初め泉州を去つて京都へ來られし時に、家を經營する費用にと、抹茶々碗に黄金を盛つて携へて來られたと云ふ話があるが、如何と問うたら、家にも斯る傳説がある。今も靑磁の茶碗一個を藏し居るが、それが黄金を入れたものとなつて居るとの答へを得た。自分は又、貴宅は囘祿の災に罹られた事があるかと尋ねると、度々罹つて居る。仁齋在世の時も一たびかゝり、其後も一兩度罹つて居ると答へ、こゝにそれに關する紀念の文書があると云うて、二階の上り段の一方を指ざさるゝを見ると、家族の心得にと、東涯の書いた和文の一書が額になつて居る。その文意は、近隣に火災があつても、家を空しうして見物に行くはよろしからずと戒めてある。前年の火災に苦い實驗を嘗め、斯く戒めたものであらう。仁齋の家は昔から京都の一名物であつたので、之を燒かすまじと、或る大火の折など、官邉で特に警護したことなどもあると語られた。仁齋の存命中にも既に火災があつたに拘らず、其の稿本始め、東涯、蘭嵎の遺著などが、澤山立派に保存されてゐるのは、幸ひに庫が火災を免れたからであると云ふ。斯く言ひつゝ、主人は、何か取り出しに座を起つて庫へと行かれた。自分は目送しながら起つて見廻すと、成る程庭の一隅に一宇の庫が見えた。これが即ち仁齋時代から燒けずに遺つて居る唯一の建物かと心に頷いた。主人は、多くの幅類や二三の箱を土藏より運ばれたが、先づ示されたのは、東涯が一佳話を留めた三味線匣であつた。主人は笑ひながら、世間で彼れ是れ云ふ箱はこれであると云うて示された。見れば、古色蒼然たる長方形の杉箱で、外部に鐵製の錠があり、極めて質朴のものである。東涯が古道具屋から書類箱にと購ひ來り、後に誰かゞ、これは藝妓の三絃匣で、士君子の手にすべきものでないと云ふを聞き、東涯眞面目に、三味線の樣な尺の長いものが、どうしてこれに收まるものかと云うて、三味線にツギ竿のあることを知らなかつた迂闊が、爾來文苑の談柄となつたのであるが、今實物を見ると、近世誰の目にも熟して居る三味線匣とは、自ら異なる所がある。今は胴を下にして斜に匣に入れるから、匣の體裁は、幅細く且つ深いのが通例である。然るに、此時分には、三絃の、皮のある面を伏せて入れたと見えて、匣の幅が廣く且つ淺く出來て居るから、東涯が書類箱に見立てたのも強ち無理は無い。古製の三絃匣は皆此式である樣子で、元祿頃の畫に、ともすると見える匣は、皆幅が割合に廣くなつて居る。
さて、此玉手箱から珍物が現れ出るであらうと期待すると、果して期待に背かず、いろ〳〵仁齋手澤の品があらはれた。筆硯や枕や肱衝や扇子などが、累々として入れてある中に、尤も珍と感じたものは、仁齋の着古した羽織であつた。此の羽織は黒絽三つ紋で、紋は木瓜の中に巴が潛んで居る、頗る大形のもので、丈が甚だ短く、殊に襟幅が圖外れに廣く、仕立方が今日と大分變つて居る。あちらこちら破れた所を補綴した所もあつて、仁齋先生儉素のおもかげを留めて居る。これが、先生講義の時などに着用されたものかと、當時を偲ぶと、無量の感に打たれざるを得なかつた。伊藤家に尚他に茶色の絽の羽織が殘つて居ると聞いたが、此方は如何にもぼろ〳〵して居るので、手を觸れかねると語られた。
三味線匣に入れてある仁齋の遺物を、一々説明するのも煩はしいから、こゝには略するが、要するに、質素一點張りの者ばかり。枕の如きは、木片に多少の刀を入れた迄のもので、頭の觸るゝ所に裂地すら張つてなく、且つ半材が朽ちて居る。硯と云うても、日本石の鹿材で造つたもので、風流趣味などは露ほども無い。併し、斯る素朴の所に古學先生の面目がほのめき、敬虔の念が却つて斯樣な所から生ずるを覺えた。
質置申候覺
此の遺什を見終つて後、示されたものは、二册の門人録であつた。一册の方は、糊入の反故を裏返にして、帳面風に横に綴ぢたもので、仁齋の自筆で、表紙に「諸生初見帳」と大書し、其側に、延寶九年正月某日と分書してあつた。中には、無數の人名や生國などが録されてあつたが、匆卒の際一々讀むの遑がなかつた。傳ふる所によれば、當時仁齋の大名に、あらゆる學者を堀河に引付け、日本國中で、門人の無かつた所は、僻陬の飛驒山中、佐渡、壹岐の二島に止まり、他は、如何なる國よりも來り學んだと云はれてゐる。此門人録を仔細に調べて見たならば、少からず大家を發見するであらう。或る説に、赤穗の老臣大石良雄も、若い頃、仁齋の門に入つたことがある。講義の時に坐睡をしたので、他の門人共は私に嘲弄したが、仁齋ひとり之を制して、此人、庸器にあらず。他日を見よと云うたとあるが、此の門人録を見るにつけて、此逸事を思ひ出さずには居られなかつた。此の門人録を仔細に調べたなら、大石の名なども出て來るであらう。
さて此門人録と共に示された書類に、表紙もなく書名もない一册の記録があつた。これは仁齋自筆で、一家の内事を書き留めたもので、今こそ、史料として人にも示すが、昔は門人と雖も見ることの出來なかつたものである。此中には、「質置申候覺」と云ふ表題があつて、いろ〳〵衣類などの典物にした品名や、利子の計算などが細に載つて居つて、仁齋の不如意時代を赤裸々に語つて居る。仁齋は終生仕へなかつたから、幾ら父祖から殘された産があつたにしても、決して裕福で無かつたことが、此の質入の書類でも窺はれる。後世迄傳はつて居る話に、仁齋、赤貧自ら安じ、年を迎へるに、餅を調へることすら出來なかつた。仁齋は平氣で、讀書に耽つてゐたが、こゝに堪へかねたのは夫人で、靜かに良人の机邊に跪づき、妾は貧に安じて居ますが、子供の原藏(東涯)が頑是なく、貧の何たるを解しませんのには困ります。どこの家にも餅を搗くのに、内ばかりなぜ搗かぬとむづかりまして、叱つても承知しません。まことに膓を斷たるゝ樣でと、涙ながらに訴へるのには、流石の仁齋も、心を動かさゞるを得無かつた。併し、何の答へもせず、そつと着して居つた羽織を脱いで、細君に與へたとある。其記録に「質置申候覺」とあるは、斯る悲劇を語るものであると思へば、誰か潸然たらざるを得よう。
仁齋は、貧に居つても、決して、當時の漢學者が概ね爲した樣に、怪僻矯激の行ひをして、時習に戻ることを喜ぶものでは無かつた。立春の前夜、豆を撒く習慣のごときは、兒戲に齊しい樣なものだが、仁齋は古禮であるからと云うて、必ず禮服を着けて此式を行ひ、家人の「福内鬼外」と叫ぶのを謹聽したと云ふ。
仁齋は、好んで和歌を詠じた。現に伊藤家に於て見た書册の内に「和歌愚艸」と表題のある、自筆の歌集があつた。まことに流麗典雅の書であるのに敬服した。全體、伊藤家は能筆系である。東涯、蘭嵎の首尾藏は勿論、他の三藏も皆能書である。同じ著名の學者でも、林家は惡筆系とも云ふべく、歴代能書は無い。仁齋が半切に書いた歌切れに、棠隱、櫻隱の別號を命じた由來が、はしがきに認めてあつて、末に一首の和歌がある。此のはしがきを見ると、仁齋は櫻を愛し、庭園に植ゑて樂んだ。支那では棠の字が、日本の櫻に當ると云うて、棠隱とも櫻隱とも云ふよしを云ひ、さて歌は、
世中をいとふとなしに自らさくらが本の隱れ家の庵
とある。序に云ふが、仁齋の名は維楨であるが、もとは維貞であつた。伊藤家に見た遺墨の内に、維貞と落款したものが數點あるのでもわかる。伊藤家で聞いた話に、堂上公家で仁齋の門に入つた人に、同名の人があつた。そこで「貞」を「楨」の字にかへたとある。即ち五十歳以後の落款は、皆楨字となつて居るといふ。仁齋の門人に公家も多くあつた中に、富小路なども其一人で、自分の藏して居る仁齋の書簡に、此の富小路の手を經て、得意の文章が天覽に入り、叡感に預かつたことを光榮として喜んだのがある。
墳塋、家廟
仁齋が最も深く眷顧を受けた貴人は輪王寺宮一品法親王で、此親王は後に江戸の東叡山に移られたが、京都に居らるゝ間は、仁齋常に伺候して進講したり、御話相手になつたりしたもので、伊藤家で見た仁齋の遺墨の内に、此法親王が天子より賜はつた桐壺の牡丹を詠じた詩の副本が傳はつて居る。親王も仁齋を尊敬し、特別に扱はれた一證とも見るべきは、嵯峨の二尊院に、仁齋の父母の墓を建てることを許されたことである。なぜ特別と云ふかと云ふに、仁齋は儒禮を以て墓を樹てるが家例である。然るに、寺では當時之を嫌つた。幸ひに二尊院は、此の法親王所轄の寺院であつた爲に、親王のお聲がかりで、儒禮の墓を置くことになつたと云ふ。佛法の隆盛期に、儒禮の墓を樹てるは面倒であつたに相違なく、當時許された家が五軒しか無い。仁齋家も其の一であると、伊藤家では語つて居る。儒家の墓の形式は、上頭が三角形になつて居るだけで、格別佛式の墓と大相違は無いが、佛式でも家に佛壇を置く代りに、儒家では家廟が嚴格に支那式に作られてゐる。今度伊藤家を訪ひ、特に請うて拜することを得たが、廟は、屋敷の一隅に特列に一宇建つて居り、本屋より渡り廊下を傳つて、それに通ずる樣になつてゐる。廊下は、板縁ではなく、支那風に方形の瓦が敷きつめてあつて、廟には一段高い壇が設けられ、それに十數臺の靈位が駢列されてある。これが佛家の位牌壇と同じいものであるが、各靈牌は支那式の厨子に入れてあり、其内七基は同型式で、他の五七基は甚だ略なものであつた。仁齋の靈牌は左端に置かれ、其隣に夫人、東涯と順次に置かれてあつた。之は仁齋の玄孫が置いたものであるさうだ。此の靈牌の外に、一基やゝ形式の異つた厨子が、仁齋の厨子と隣つて左極端に樹つて居た。これも扉を排して一拜したが、中には、陶製の古色蒼然たる孔子の像が入つて在つた。これは輪王寺宮より拜領のものだと云うて居る。
仁齋は謹厚寛容竝備はつた人で、苟くも人を詈ることなく、己れを持すること嚴で、人を待つに寛であつた。ある時、塾生に遊冶のものがあつて、父に病ありと佯り、半日の暇を乞うた。仁齋が許したのをよい事にして、直ちに靑樓に登り、深夜、沈醉して塾に歸つた。深更の事故、先生放擲し置かるゝことゝ期したに、案に相違して、先生、袴を穿き、自ら手燭を持つて出迎へ、尊父の病氣はどうかと問はれたので、流石の遊冶郞も赧然として愧ぢ、幾ど謝する所を知らなかつた。このことあつてから、塾中遊冶の書生は全く無くなつたと云ふ。
嗣東涯
仁齋の嗣子東涯も又德行を以て聞こえた。ある時、外に出でて財布の落ちてあるのを拾うた。中には少からぬ金は入つてあるので、東涯閉口し、定めて落したものは引返して尋ねに來るだらうと、待つこと一時間餘に及んだが、終に來なかつたので、已むなく家に持歸り、之を伊勢神宮に獻じたと傳へられる。又東涯、一夜外より歸宅の途上、防火用の水桶を糞桶と誤り、之に溲して、一里ばかり歩して後、漸く防火の水桶であつたことに氣付き、誠に濟まぬことをしたと、舊路にもどり、何も知らずに寢て居る家を叩き起し、深く罪を謝したこともある。父子の行状が甚だよく似て居る。
傳ふる所に據ると、東涯は訥辯の上に聲が低く、講釋の聽取れないのに、門人連は皆苦んだと云ふ。然るに、生憎近隣に桶屋があつて、其箍をしめる音がガン〳〵と響き、それがひどく邪魔をしたと云ふ。斯る訥辯の人でも、文章を書くと、如何にも立派なもので、此點は乃父よりも數段上であつた。或は云ふ、仁齋の著述は、後に東涯が文章を直して、版に刻したものだと。これも東涯が能文であるから起つた説で、いくらか補筆した所もあるであらうが、伊藤家に存して居る仁齋の著述を、初稿、二稿、三稿と段々比較し、さて版本と較べて見ると、東涯は決して文章に手を入れて居らぬと、或る研究家から聞いた。漢文の大成しない時代に、後の補筆を要せぬほど立派に文をなした仁齋は、偉いと謂はざるを得ぬ。東涯は書に於ても親優りで、文徴明の行書は手に入つたものである。伊藤家で今度見た一卷の大卷物は、幾ど百篇もあらうと思ふほどの長短の詩を收めたものだが、各篇の首尾には、必ず印が捺してあつて、如何にも美事のものである。斯樣のものは、家に傳はらぬのが通例であるのに、印まで備はつて居る、多くの墨蹟の存して居るのは珍しい。多分、東涯に揮毫の趣味があつて、興到れば自作を書して、自ら樂んだものであらう。太宰春臺が、仁齋に及ぶ可からざること三つを數へ、東涯の如き嗣子を有したことを其一に置いたのは、實によく當つて居る評で、仁齋歿しても、それに遜色のない相續人があつて、家學をます〳〵發揚した。
伊藤家の此の父子に珍しいことは、遠く旅行をしなかつたことで、仁齋も、東涯も、終に江戸に出でずに終つた。これ一つは、諸侯に仕へなかつたためでもあらうが、坐しても、全國の子弟を待ち、之に敎へるに、これ日も足らず、忙しかつた故でもあらう。
今度伊藤家を訪うて、種々の遺物を見、終に請うて、仁齋始め東涯兄弟の遺印全部を觀、且つ其印箋を申受けた。印の數は百幾十の多きに及び、東涯の印が尤も多く存して居る。仁齋の印も、東涯の印も、黄檗僧の蘭谷と云ふが刻して居る。仁齋のは、一顆を除き、皆此僧の刻である。東涯も印の趣味があつたと見えて、十四歳の時に、はや自用の印を自ら刻して居る。其の十七歳の時に刻した印二顆の如きは、如何にも名刻で、其の白字の一顆の如き、漢印の譜中に置いても、恥ぢぬほどのものである。東涯自身も、この印を得意としたから、晩年まで之を用ゐて居る。末弟の蘭嵎も、亦印趣味があつて、多く兄弟の爲に刻して居る。東涯の遺印の中に、蘭嵎の刻したのが少からずあつた。
末子蘭嵎
蘭嵎が、紀州藩に仕へて寵遇を受けたことは、何人も知る所であるが、伊藤家は深く紀藩を德としてゐる。その譯は、東涯は、元文元年、六十七歳で歿したが、其子の東所は、七歳の小兒であつたので、蘭嵎は、後見のため、十年間、暇を乞うて實家に戻り、東所を敎育する傍ら、亡兄の門人に敎授した。此十年の間は、紀藩の祿を受くべきで無いのに、紀藩は、蘭嵎の辭退を聽かずして與へられた。之がため東涯歿して後も、伊藤家は窮乏を免れた。其の紀藩を德とするのは、此故である。蘭嵎は仁齋の末子で、長兄東涯と共に最も顯はれたので、伊藤の首尾藏と云はれてゐる。通稱を才藏と云うたが、五人の兄弟の内、最も才氣があつた。紀州侯に進講の時、侯は裀の上に坐して居られたので、蘭嵎いつまでも講義を始めぬ。何故と左右より問はれて、聖賢の書には、君侯と雖も敬意を拂はれねばならぬと云うて、君侯をして裀を下らしめた逸事は、廣く傳はつてゐる。自分の家に、蘭嵎が初めて江戸に上り、紀藩の屋敷に投じた頃、江戸の模樣を奧田三角に報じた長文の書簡がある。それには、江戸では、服部南郭の外、學者らしいものは見當らぬと云うて居る。又富士を觀て、餘程愉快に感じたと見えて、書簡中に富士の圖が書かれてゐる。そして此時分致仕の心が動きつつあつたと見えて、その意味がほのめかされてゐるが、併し、夫は實行されず、十年間、暇を乞うて實家の後見をしたが、それを過ぎると紀州に戻り、八十六の高齡で、安永七年に歿するまで、紀州に居た。
伊藤家で聞いた話に據れば、同家の遠廻りの親族には、當時著名の文學の士が少く無い。松永昌三(尺五)も姻族で、且つ仁齋の先輩である。仁齋に師なしと云はれてゐるが、姻類に斯る大家があるを以て觀れば、仁齋も恐らく之に學んだであらう。北村季吟も姻戚であり、嵯峨の角倉も姻戚關係がある。伊藤家に優れた學者の輩出したのも、血統上、決して偶然で無い樣に思はれる。東涯の弟に介亭、竹里等あつて、皆それぞれ逸事もあるが、他日の爲に、保留することにして、こゝに仁齋の項を結ぶが、仁齋は、ひとり京都の名物であるのみでなく、實に天下の名物である。其家が天正以來持續して、今尚儼然家格を崩さないなどは、珍と謂はざるを得ぬ。
仁齋は、字は源佐、古義堂と號した。伊藤家では、古學先生と謂うて居る。寶永二年、七十九歳で歿した。
二 酒井抱一
下馬將軍の舍弟
抱一は名門に生れた。彼れは寛文の頃閣老で在つた酒井雅樂頭の子孫である。酒井の上屋敷は今内務省の在る所で、昔は「下馬」の制札が立つてゐて、何人も騎馬で邸前を通行することを許されなかつた。時人は雅樂頭を「下馬將軍」と綽名し、威權赫々たるものであつた。抱一は次男に生れたが、其の靑年の頃は、此の屋敷の長屋に住んだ。抱一の兄即ち時の雅樂頭酒井忠以は、藝術に天才があつて、茶道も畫も狂歌も、なかなか殿樣藝ではなかつた。若し長壽であつたら、畫は恐らく抱一の上に出たであらうと云はれてゐる。狂歌の相手は、當時名人と聞えた唐衣橘洲、四方赤良、平秩東作〔ママ〕であつたが、中にも蜀山人(四方赤良)が愛されて始終參候した。いつも蜀山が參邸すると、主人公興に入り、夜の更けるを知らないので、近侍のもの大弱りで、ある時、近侍で狂歌をよくするもの、一首認めて、そつと蜀山の脇差の紐に結びつけた。其の歌に「いつ來ても夜ふけてよもの長話しあからさまには申されもせず」とあつたので、蜀山も自分の言ひさうな皮肉を云はれたと、頭を搔いたと云ふ。抱一も、畫は最初兄に學び、狂歌の席にも連なり、「尻燒猿人」と云ふ戯號で、兄や蜀山などと其技を鬪はし、酒井の家庭は、文藝倶樂部の如くであつた。
全體、抱一は、幼少より多藝で、揚弓〔ママ〕には江戸一の名を博し、金春流の大皷を打つに妙を得、刀劒などの鑑識も一簾のものであつた。畫に於ては、浮世繪もかき、四條も、漢畫も習つたが、後には文晁の門に入り、終に光琳の流を汲む樣になつて成功した。俳句は、初馬場存義に學び、後に其角に私淑して一家をなした。此の時分、松前侯の舍弟泰卿、雲州侯の舍弟未白、何れも俳句を善くしたが、抱一も酒井侯の舍弟で、揃ひも揃つて舍弟同士同趣味であつたので、時の人は、華冑界の三俳人と稱したと云ふ。
抱一は、立派な家柄に生れたから、或る年輩になると、方々の諸侯から養子に望まれ、四十餘ケ所の多きに迨んだと云ふが、何れも斷つて、終には頭を剃つて、遁世するに至つた。何故、華族を厭うて遁世までしたかに就いては、色々の説もあるが、つまり位置の高まらんよりは氣儘で暮す方をと選んだことも、一原因に相違ない。實は、遁世と云うても名のみで、僧にはなつたが、勝手の出來る僧になつたのだ。元來、酒井家は、禪宗であるから、本氣に僧になる積りなら、禪僧になるべきであるのに、本願寺の僧となつた所から見ると、戒律に面倒の無い眞宗を特に選んだらしく見える。彼れは、本派本願寺の連枝の格を以て遇され、本山に居るべきであるのに、剃髪後十四五日間、京都に居つた位なことで、直ちに事に託して江戸に上り、例のごとく放縱生活をつゞけたのである。
彼れは、酒を嗜まなかつたと云ふが、所謂通人氣質は具はつて居り、斯の社會に於ても巨擘であつた。彼れは、吉原につけびたりに流連し、彼れのお蔭で、當時吉原に有名であつた駐春亭(割烹店)や、山谷の八百善などは、料理が改善されたとまで云はれる。料理屋で入浴の出來るなどは、今は珍しく無いが、こんなことも抱一の指圖によつて始まり、彼れの喰ひ巧者は、八百善で、磨ぎたての庖丁で差身を作つたのを看破し、差身庖丁は、磨いで暫く井中に吊してから、用ゐるものぞと敎へたことなどは誰も承知の事だが、彼れの多方面の趣味才は、到る處に發揮し、料理にも、衣類の模樣などにも、抱一好みといふが持囃された。
花一つ金一分
抱一は、幾度か居を轉じ、本所の番場や、淺草觀音の境内や、下谷の根岸などに住した。大名の弟でも邸宅は振はなかつたらしく、晩年に住した下谷の住居などは、彼れが畫料の收入の尤も多かつた繁昌時代であつたが、其家の天井が落ちかゝつて居ると云うて、或る富豪の女弟子は氣味わるく思つた位だ。併し、彼れは、畫筆に倦めば吉原に行くのが日中行事であつたから、本宅は寧ろ北里に在りと云ふべきであらう。彼れは北里に流連して、巧に加東節をうなり、三味線をもよく彈き、玉屋の遊女誰袖に眤み、遂に落籍して妾とした。晩年、根岸の居に同棲したのは、乃ち此女である。抱一の物數奇は、此妾に態と里言葉を遣はせ、「ありんせん」など云ふのを聽いて興がつた。此女は、文字があり、書を董堂敬儀に習ひ、小鸞女史と云うた。抱一の晩年の寂寥を破つた者は此女である。
抱一は、宗家の酒井家から、どれほどの仕送りを受けたものか、分明でないが、餘り潤澤では無かつたと見える。併し、始終遊里へ通つた所から推測すると、まんざら供給が無かつた譯でもあるまいが、大體四十位までは、餘程不如意に困しみ、それが却つて藝術を進めることにもなつた。彼れが、晩年、鴻池より、金屛風一雙に杜若花と八橋を畫くことを託され、花一つ金一分の謝金を申受けたいと言ひ出したなどは、當時高い謝金であるが、彼れの藝術の認められたことが、此の相場に依つてほゞ窺はれる。乃ち彼れは、一花二十五錢の畫料を徴し得るまでに進んだのである。彼れの畫は、長い間、殿樣藝と見做されたに相違ない。畫が大に認められてからも、殿樣に金で禮をするは不敬だと云ふ口實の下に、菓子箱や鷄卵の折で義理を濟まされたことも長かつた樣である。抱一の不如意であつたのも無理はない。併し、流石に抱一は名門の出であるだけに、下町風を趣味とし、通人を氣取つたにも拘らず、畫に品位があつて、今日でも抱一の繪の具は贅澤だと云はれ、堂々たる座敷の床に掛けても卑しくないと云はれてゐる。當時、抱一が交はつた友人は、皆當世一流の文人で、蜀山は勿論、鵬齋、文晁、五山、米庵などは常に往來し、書畫會などある時は、抱一がいつも牛耳を把つた。
抱一の歿した時、酒井家の實兄忠以はとくに歿し、其子の忠實の時代で、叔父に當る人の遷化と聞いては、平生疎遠となつて居た酒井家の當主も黙過し難く、多數の供勢を具して、初めて根岸の居を訪れた。根岸の狹い道路は此の行列で塞がり、前列は既に抱一の家に達して居るのに、後列は根岸の入口にあつたと云ふ。忠實も、此時初めて未亡人なる小鸞女史に顏を合せ、其の言葉の珍無類なるに興味を感じ、爾來、此の婦人の、本邸へ出入することを許し、歿するまで酒井家で世話をなし、不自由なからしめた。後に、酒井家の許可を得て尼となり、妙華尼と云うたが、抱一の遺志により、養子を貰ひ受けた。それは、蜀山の狂歌の友人であつた香坂雪仙の子の八十丸で、年少ながら才學あり、殊に蜀山風の書をよくしたので、嘗て抱一に愛せられたものだ。是れが乃ち二世抱一鶯浦であるが、不幸にして早世した。
抱一は、文政十一年十一月、六十八歳で遷化した。屠龍、鶯村、雨華庵などと云ふは、皆抱一の號である。若い時、俳號を杜陵とも云うた。屠龍は乃ち杜陵の轉化である。又澤山ある門人の内、基一と孤村(池田)が尤も聞えてゐるが、此の孤村は、自分の居村、乃ち越後水原の山口の出身である。
三 上田秋成
父無し
大阪の遊廓から一文豪を出した、それが上田秋成である。曾根崎の茶屋に花屋と云ふがあつて、其の娘の産んだ兒が秋成であると云はれて居るが、父は何人であるか知れぬ。秋成自身も、知らぬと云うて居る。人より尋ねられると、俺は木の股から生れたなどと云うて、空嘯いて居る。併し、曾根崎の遊廓に生れたといふことは、秋成存命中一般に世間に廣まつた説で、秋成も之を敢て然らずとは言はなかつた。母のみ知れて父の知れないのは、或は身分ある人が其父であつて、世を憚り名を祕したものででもあらうか。
秋成が上田を冐して居るのは、養はれた家の姓である。此の上田氏は堂島の商家で、名を茂助と云うた。もとは丹波の士族で在つたが、故あつて浪人となり、町人となつた。併し、此家は、商家ながら父祖より代々國學に精しかつたと云はれ、此茂助と云ふ人も相當の學問があつた。どう云ふ因縁で上田氏が此兒を養ふ事になつたか分らんが、秋成の生母は、秋成の四歳の時に歿したと傳へられて居る。
秋成が國學の大家となつたのは、養家の薰陶に因ることは略察せられる。併し、非常の天分を有して居つたことも亦確である。彼れは五歳の時に重い天然痘に罹つて、幾ど死なんとした。全體、體質が羸弱で、疱瘡が癒て後も多病であつた。それがためか、二十歳位までは、勝手氣儘に遊び暮らし、敎育も受けず、家事にも與らず、近隣では、上田の放蕩息子と嘲られた位である。
然るに、いつ何人に敎へを受けたでもなく、俳諧をやつたり、小説を書く樣になつた。當時、小説と云へば、八文字屋本が大いに流行した頃で、狹斜の事が盛に書かれた。放蕩兒たる秋成は、自然その趣味を感じ、これを讀み耽るのみでは滿足が出來ず、終に之に傚うて自作を試みるに至つた。乃ち今日尚版本で傳はつて居る「世間妾形氣」「諸道聽耳世間猿」の二書は、全く八文字屋に傚つたもので、秋成の處女作と見るべきものであるが、之を見ると、無敎育者の書いたものなどとは思はれないのみか、彼れの天稟の才は字句の間にほのめいて居る。彼れの俳諧も、時代感化で指を染めたものに相違ないが、これにも天才があつて、早く其の社會の鑑賞に入つた。彼れは一時深く俳諧に凝つたもので、當時著名の俳人高井几圭が浪華に漫遊した時などは、其の門にまで入つて、親しく敎へを受けた。
秋成も二十歳位から漸く志を立てゝ、學問に身を寄せ、國學を研鑽すると共に漢學をも修めた。其の天稟の才は、僅かの間に一大進歩を促すに至り、戲作者たる彼れは國學者と變じ、俳人たる彼れは歌人と認めらるゝに至つた。彼れが名著「雨月物語」の如きは、戲作とは言へ、八文字屋臭氣を全く脱し、國學臭味の戲作たることは、數行讀み下せば、何人も首肯し得る所である。
秋成の天才が、如何に速かに倭學や和歌を修得せしめたかは、彼の県居門下の秀才と云はれた加藤宇万伎が、大阪の定番となつて浪華に來た時、秋成、其門に入らんことを求め、宇万伎の需めに應じて自詠の和歌を示し、且つ國學に關する試驗を受けた際、宇万伎は其の學殖と和歌の才に驚歎し、師と仰がるゝを辭して、學友を以て交はることゝした一事に依つても想像される。
秋成に取つて不幸なる出來事の起つたのは、三十七歳の時に養父を失ひ、其の翌年、其の家が火災に罹つたことである。我儘なる秋成も、最早學問にのみ遊むで居ることも出來ず、家業の爲に前垂をかけ、十呂盤を執らねばならぬ境遇となつた。併し、これは彼れの性格には全く不向でああつて、營業舊の如くならず、其上火災に罹つたので、家産を全く破るに至つた。
そこで秋成は商賣替をやつて、村に引込んで醫を學び、三年許りを經て再び大阪に出て、醫の開業をした。これが秋成四十二歳の時である。三年の間に醫者に成り濟した彼れの醫術は、どれ程のものであつたか。いくら天才でも卒業が餘り早過ぎて、不安の感無きを得ぬが、秋成自身の語るを聞けば、病家の評判がよかつたと云ふ。ちと受け取れぬ樣でもあるが、併し、秋成の自白にも尤もらしい所もある。
醫は意ぢや
秋成の隨筆「膽大小心録」に此事の記載がある。その大略を秋成の口吻で、こゝに言うて見るのも一興である。俺は家を失つて別に活計を立てる藝が無いから、醫者を學びかけた。さて醫者を學ぶには、名醫の無い田舍で澤山の病人を手にかけるが肝腎と、一時田舍に引込んだ。四十二歳で町へかへり、開業したが、勿論未熟の者に多くの患者が來ようとは思はなかつた。そこで思案をした。全體醫は意である。深切を盡すと云ふことが、即ち尤も大切な醫術であると一主義を立て、合點のゆかぬ症と思へば、病家から迎へられないでも、自ら進んで二度でも三度でも出かけて診察をする。自分の手にをへぬと見ると、名醫を頼ませ、さて自分も相替らず日々見舞うてやつた。此の深切には病人も喜び、家族の受もよかつたと云うて居る。
秋成が己れの拙を補はんため、「醫は意なり」と云ふ新工夫を遣つて、病家を喜ばせたのは流石に才子である。斯くすれば繁昌するのは當然で、五年の後には、終に家屋を新築するに至つたと云ふから、相當の收入があつたことが想像される。
秋成は、二十九歳の時、植山氏を娶つた。その名を玉と云うた。京都在の農家の女で、植山氏に養はれ、二十一歳で秋成に嫁した。これが晩年尼となり、瑚蓮尼として知られた婦人である。俗名玉であるから、それに因む瑚蓮と云ふ名を命じたものであることは言ふまでもないが、秋成は有名な拗者で、何につけても常經を外れねば、みづから承知が出來ぬ性分で、人から、あなたの内君の名の意味を聞かせてくれなどと問はれると、意味も何も無いよ。コレ〳〵と、呼ぶに都合がよいからだと答へた。
村居の欣厭
秋成の醫者開業は、家宅まで新築する程繁昌したが、元來病身の彼れは追々健康を損じ、度々城崎の湯泉に出掛けて湯治を試みた。併し、一向其の效なく、益〻不快に赴く所から、巳むなく醫業を廢し、長柄川の畔加島村に隱退し、主ら靜養につとめた。これが秋成五十五の歳で、天明八年である。
幽居病を養ふ間に、彼れは書を讀み、和歌を詠じ、時には俳諧を弄して鬱懷を散じた。然るに、不幸にも、翌々年五十七歳の時に左眼の明を失うた。彼れは最早讀書三昧に耽る譯に往かなかつたが、併し、秋成は、これより前、既に學者として歌人として大名を馳せて居つた。當時國學の大家として名聲の喧しかつた本居宣長の著書を散々に論駁したり、音韻の事につき、本居と盛に論爭したりして學界を驚かしたなどは、皆隱栖以前の事である。
秋成は、此の幽栖の間に病を養ひつゝ、村居の寂寞に深く趣味を感じた。ある人が秋成の閑居に訪ひ來り、幽居の趣味を尋ね問うた時に、彼れは備に語つて云ふには、村居に雅趣もあるが、亦厭ふべき事もある。先づ愛すべきものを云へば、春曙秋月よし。月夜の旅雁よし。深更の寒蛩よし。春雨の蕭々たるよし。野寺の鐘聲よし。草露の團々たるよし。菘菁の鮮美なるよし。新穀の第一番に嘗むるよし。然れども厭ふべきもの亦在り。旱天久しく續き、雨を得ざる。三冬に温かき夜具なき。夏夜蚊の多き。檐前蜂の巣を營む。春夜蛙鳴き眠りを妨ぐる。秋風暴吹して禾穀を損ふ。野鼠飢ゑて墻を穿つ。狐狸の飯を盜む。語るに朋の無き。此等は皆憎むべきもので、中にも自分の最も嫌ひなのは、貧民餓鬼と里正閻王であると云うて居る。彼れの村居の消息、以て推測すべきである。
渠の述作
彼れは數年後幸ひに左眼の明を囘復することが出來たが、今度は右眼の明を失うた。これは京都に移つてからであるが、長柄の村居から京都に移住したのだ。十年許りの間に種々の不幸に出遇つた。併し、彼れの文學上の作品の、多く世に出たのは、此間である。眼を失うても屈せず筆作につとめたのにも因らうが、追々名聲が高まり、前に著はした種々の作品が、漸く書肆に需めらるゝ樣になつた故でもあらう。且つ自作の外に種々國學上の名著を校正し、之を梓に上せたのも少くない。
秋成は實に著述の多い人である。今日傳はつて居るものばかりでも六十種もある。全體此人は娟介〔ママ〕の性質で、自分の意に滿たぬ作品は、決して人に示さなかつた。晩年彼れは、五束の未刊著述を、門生に命じて井に投ぜしめた。友人の村瀨拷亭〔ママ〕が此事を聞き、多年の苦辛を水泡に歸したるを惜み、何故斯ることをしたと尋ねた時に、秋成笑つて云ふには、棄てたものには一時の漫筆が多い。まだ十分手を入れねば物にならぬ。然るに最早老いて刪修が出來ぬ。未定稿が萬一後世を誤つては罪が深いから、井中に投じたと答へた。此の棄てた中には「萬葉集訓詁」の草稿もあり、外に八十餘卷の草稿があつたと云うて居る。今日書名のみ傳はつて實物の無いものもあるが、多分此時に亡びたものであらう。亦書名も傳はらずして亡びた著述は、どの位あるか。蓋し鮮く無いであらう。
古事記傳兵衞
秋成は娟介不覊で、容易に人に許さなかつた。これは天才に有り勝の性格で、敢て異とするに足らぬが、併し、秋成の拗ね方は隨分珍しい部類に屬する。彼れの晩年に書いた隨筆「膽大小心録」には、多く交はつた人の事などを録して居るが、これを見ると、彼れの娟介の性があり〳〵わかる。
彼れは當時藝苑の名流と多く交はつて居るが、幾ど一二の人を除いては、心腹を許して居らぬ。十中の九まで、皆彼れが犀利の筆にかゝつて、散々に罵られて居る。彼れの推服した人と云へば、師と賴むだ加藤宇万伎位なものである。友人の内では、意外な程に太田蜀山を褒めて居るが、其他に至つては、皆めちや〳〵に罵倒して居る。殊に本居宣長とは仲が惡く、常に宣長に喰つて掛つて、國學上の論爭を遣つた。全體、秋成は、宣長の先輩たる契沖や眞淵を宗としたもので、眼中に宣長などは無かつた。秋成は、寧ろ宣長以上の見識を有つて居つたもので、其の下風に立つものでは無かつた。「膽大小心録」に、宣長の「古事記傳」に附會の説の多いことを嘲り、
ひが言をいふてなりとも弟子ほしや古事記傳兵衞と人はいふとも
と云ひ、又宣長が、自像の上に、例の得意の「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらす山ざくら花」と云ふ和歌(此歌、宣長、後に幾何か改めた。今傳はつて居るのと聊か異つて居るが、秋成の書いて居るのは此通である)を題したるを、秋成は僭上の沙汰とし、宣長は尊大のおや玉也と記し、且つ一首の狂歌を詠むで、宣長を罵倒した。其歌は、
しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又櫻ばな
右のごとくであつて、秋成は、宣長の著述の公にさるゝ都度、必ず論駁を加ふるが例であつた。此の敵手は、宣長に取つては餘程の苦手であつたと見え、
淸めおく道さまたげて難波人あしかるものを咎めざらめや
と詠じ、此の歌の意を取つて書名に「呵刈葭」と命じ、秋成が「鉗狂人」と云ふ宣長の著を駁したときの、原被兩造の説を一册とした書物が出來て居る。
秋成が大阪に住した頃、關西切つての大儒と云はれたものは中井兄弟、即ち竹山と履軒であつたが、秋成は、此等を眼中に置いて居らぬ。秋成の云ふに、五井蘭洲はよい儒者であつたが、今の中井兄弟は其の禿だ。竹山は山こかしと人がいふ。山はこけねど、こかしたがつた人ぢやと云ひ、又履軒に対しては、兄竹山よりも大器のやうに人は云ふが、これもこしらへ物ぢやと罵つて居る。又竹山履軒兩人が茶屋通ひをしないのに、なか〳〵如才なく、人をそらさぬ所があると云うて、履軒が「初午や狸つくづく思ふやう」とある俳句を戲れに捩り、「醫者はやる儒つく〴〵と思ふやう」と遣つたのを持ち出して、履軒は流石に才物だなどと褒めて居るが、實は、其の裏には輕薄な奴だとの意を寓したもので、秋成の皮肉な筆に觸れては、大儒も堪つたものでない。
秋成は、皆川淇園にも、其弟の富士谷成章〔ママ〕にも交はつた。前者は漢文の大家で、後者は國文の大家である。秋成自身が「膽大小心録」に書いて居るのを見ると、淇園と秋成は同甲であつたが、秋成は、前にも云うた通り身體が羸弱で、おまけに晩年は明を失した。之に反し、淇園は髪が黑く、齒も滿足で、杖いらずの目自慢で、いつも秋成に會ふ毎に、『どうぢや、おやぢ』などと云うて嬲つたものだ。然るに、或年遇つた時には、健康自慢の淇園何となく衰へ、骨が細く見えたので、君は多分俺より先に死ぬだらうから、念佛申して遣ると云つたことがあるが、果して我に先つて死んだ。それがため折角作つた講堂も明家となり、庭の曲水も犬の糞のたまる所となつた。して見ると、淇園はあはうに違ひはないと、妙な理窟をつけて嘲つて居る。又弟の富士谷に對し、どう云うて居るかと見るに、弟の方は兄よりもかしこく、學問も何もかもよかつた。自分の俳友で、昔は度々出會し、互に國詩國文を鬪はした。大阪へ來れば、ちよこちよこ立寄られた。此人は好色家で、終に腎虚の病で歿したと、此人を介抱した書生が話した。して見ると、これもやはりあはうであつたと言うて居る。秋成の人物評の峻酷なる、率ね此類である。
渠の友人
秋成は、幾ど何人をも許して友としなかつた樣であるが、太田蜀山、小澤蘆庵、村瀨拷亭〔ママ〕の三人だけは、先づ朋友と見るべき者であらう。秋成は自ら云ふ。三都に友のうるはしき者はない。江戸の太田直次郞(蜀山)、京の小澤蘆庵、村瀨嘉右衞門(拷亭)は知己だが、善友にあらずと云うて居る。此三人に對し、知己を以て許しながら、尚且つ善友にあらずの但書が付く。底ぞ友とし許すに甚だ吝なるや。
秋成は非常の負け嫌ひで、隨筆中にも幾ど人を褒めて書いて居る所が無い位だ。而るに蜀山に對しては妙に褒めて居るのは、寧ろ一奇とすべきである。彼れは、蜀山が官用で長崎へ赴く途中大阪に立寄つた際に面會して、興を覺えたと云ひ、さて、狂詩や狂歌を何と評するかと思ふと、此等は名高けれど下手だと貶し、却つて漢文を達者に書くことを褒めて居る。又秋成の著「藤簍册子」の序文を、蜀山が長崎から遙々寄せたのを評して、文意、和漢に渉る事詳也、過當ながら喜ぶべしと云うて居る。又蜀山と拷亭とを較べて、拷亭は大儒なれども國朝のことに暗き故、序を書かせても蜀山には及ぶ可からずと、兎角蜀山の和漢兼學に感服してゐる樣子が見える。
秋成は、晩年京都に移住した後は村瀨拷亭と向ひ合つたことがあつて、日夕相往來した。呉月溪とも同じ長屋に住した事もあるから、これも懇意な間柄である。拷亭は秋成と茶の趣味を同じうし、月溪は秋成と俳諧の趣味を同じうした。秋成の、茶に精しかつたことは後に述べる筈だが、拷亭も同趣味である所から、秋成の茶の著書「淸風瑣言」に序を書いて居る。向ひ同士日々の談論は、恐らく茶に關する者であつたらう。月溪は、畫を善くした上に、俳諧をもよくした。且つ酒を嗜んだ。秋成の妻瑚蓮尼も、酒を好んだ所から、月溪は飮友として常に往來し、毎日豆腐を肴に、酒次俳諧をも談じた。されば月溪も、確に友人の一に數ふべきであらう。
多方面の趣味
秋成は、煎茶の方面に於ても賣茶翁(高遊外)以後の大家として知られてゐる。何事に就いても人の後塵を拜することを好まぬ彼れは、此道に於ても一機軸を出し、茶の法則を定めた。其著はした「淸風瑣言」の一書を讀むで見ると、流石に彼れの所説は平凡でない。彼れは、自己の趣味に投ずる茶器を、淸水の陶工六兵衞に製せしむるを例とし、時には自身土を取つて手づくねを試みたが、此人の案に成つた茶器は、一種云ふ可からざる風韻があつたので、時人之を珍とした。今でも急須や茶碗などの底に、秋成の花押を大きく刻したものが、ともするとあるが、形と云ひ、蓋と云ひ、柄と云ひ、まことに雅趣のあるもので、成程と感服せしむる妙がある。前にも云うた通り、秋成は村瀨拷亭と此の趣味を同じうし、兩人相提携して煎茶の普及を皷吹した爲に、都鄙共に靡然として之に赴いた。秋成存命中でも、其の自作の茶器は、斯道の人の珍としたもので、一個十兩の價があつた位だ。秋成は全くの茶好で、晩年妻を失つてからは、炊事が面倒だと云うて、熬米を嚙みながら煎茶を啜つて、大抵は濟ましたと傳へられて居る。
秋成は多方面の趣味家であつたと思はれる。茶や俳諧や和歌に趣味があつたのみでなく、畫もかけば書もかく。其の作品には皆それ〴〵の趣があつて、他人の眞似の出來ぬ處がある。彼れの書は萬人好のしないものだが、上代の書風を學むで一家をなしたもので、高い處がある。彼れ自ら云ふ所に據ると、自分は幼少の時に疱瘡を病み、其毒が強く、右の中指短きこと第五指の如く、又左の第二指も短くして用に足らず。筆を取りては、右の中指無きも同樣で、筆力あらう樣なし。されば幼少の頃から、お前は書を學むでも駄目だと云はれ、自らも唯姓名を記すれば足れりとし、心任せに筆を走らすのを、晩年になりては、それをば人に持囃され、あなたは空海などでも學ばれたかと云ふものあり。又己が僞筆さへして賣るものもありなど云うて居る所を見ると、實は秋成、書はなか〳〵得意であつた樣に思はれる。恐らく書道にも人知れず苦心して、一家をなした者であらう。いつぞや大阪の亡友水落露石の處で見た、極めて晩年の書卷などは、書風がひどく變つて居つて、非常に進むで居るのを見ても、書には絶えず心を用ゐた樣に思はれる。
秋成の、其の家に殘した幾多の草稿類を見ると、彼れが書を以て樂むだ形跡があらはるゝと共に、なか〳〵の趣味家であつたことも窺はれる。或る册子の用紙などは、百枚ばかりの者、一枚毎に、いろ〳〵の花びらや紅葉などの實物を摺り込むで模樣として居る。又朱筆を弄して種々の線を劃し、或は輪廓を作り、或は雲形などに擬し、それに折合ふ樣に歌を書いたりして遊むで居るさまを見ても、其の趣味の程が想像される。
晩年の渠
秋成は、晩年大阪を立退くに當り、あらゆる物を賣つて、相當の金に換へ、妻の瑚蓮が京都生れで、故鄕を思ふ所から、京都へ移住した。その後數年間は氣樂に暮らした樣だが、瑚蓮が先立つて歿したのは、此の老文學者に取つて大なる打撃であつた。瑚蓮は秋成が放蕩時代からの室で、和歌などの嗜みもあり、氣むづかしい良人と、長く連れ添うた程の美質の婦人であつた。それが秋成の六十六歳の時忽焉として世を去つた。それより後の秋成の寂寞も思ひ遣らるゝ。
大阪を引拂つて齎した金は散じ盡し、妻には先たれた秋成。眼疾は依然たり。歳は益〻老ゆる。心細いことは云ふまでもない。彼れが、生計のため、人の需めに應じて、自著を自ら寫して金に替へたのは此頃であらう。當時大家として持囃された其人自ら未刊の書を寫して遣はすのであるから、人も之を珍として、相當の金を出したに相違なく、彼れは之を以て口を糊することが出來た。
彼れは、京都に住してから、しば〳〵轉居した。彼れに鶉居の號のあるのは此の故である。鶉と云ふ鳥は、處定めず移ると云ふ處から、これを名とした。彼れは、自分の小庵の入口に暖簾をかけ、それにみづから鶉居の二字を書きつけて置いたとある。或る夜、此の不如意な人の家へ、盜賊が壁を破つて忍び入り、無し〳〵の物を奪ひ去つた。然るに、秋成は平氣なもので、泥棒と云ふ奴も調法な者だ。丁度風を入れるによい處を選んで、壁を切つてくれたと云うて、その破つた處を修めもせず、之を窓に擬して「盜窓」と云ふ名を命じた。
彼れは、古稀の年に、最早死んでもよいと覺悟を極め、自分の死後骨を埋める處を京都の南禪寺側西福寺の紅梅の下に定め、こゝに小さな墓を作り、寺には死後こゝに骨を埋めてくれと託し、さて人に對しては、自分は既に死んだ。これからは孩兒となつて遊ぶのだと披露したが、その後六年も存命で、七十六歳で歿した。歿する頃は、友人小澤蘆庵の門人羽倉信美の家の厄介となり、そこに卒つた。
秋成は、通稱東作と云ひ、無腸、餘齋、鶉居などの號がある。又八文字屋風の戯作を試みた頃は、和譯太郞と云うた。
彼れは遊廓の茶屋に生れたが、氣品は高かつた。其の醫者となつた時に、みづから誓つて、婚禮の仲人と道具の取持ち、其の他總べて幇間じみたことは、斷じてせぬと極めたとある。又彼れが大家になつてからも、或ひは其の素姓を議した者もあつたと云ふが、彼れは「膽大小心録」に之を辯じて云ふには、三井は浪人もの。白木屋はきせるや。鴻池は小酒屋。小橋屋は古手や。辰巳屋は炭屋だ。神代から續いてある家のやうにほこることは、をかしい。俺をにくんで、茶屋のはてぢやといふから、俺は、大皷持の古うなつたのぢやと答へる。穢多でさへなけりや、御免の人交はり。何にもせよかし。たゞ今は山の大將我一人。お相手がござしやるまいと云うて、氣焔を吐いてゐる。
四 村田春海
渠の和學論
春海は商家に生れたが、人となり豪放磊落で、家業を勉めず、好むで人と交はり、交遊甚だ廣かつた。家が富饒であつたから、父の春道は其子の爲すに任せ、嗜める學問に耽らしめた。彼れは、賀茂眞淵に國學と和歌を學び、又鵜殿士寧、皆川淇園に就いて漢學を修めた。彼れは、大成の後、國學者として專ら知られて居るが、漢學者としても、一門戸を張るだけの力量が有つた。國學者中、此人ほど、漢學の造詣の深かつた者は無い。其の今日傳はつて居る漢詩幾篇を見ても、立派な詩人に伍する程の力が見えて居る。國文に於ては、特に時流を拔き、古今獨歩とまで稱せられた。其の漢學の素養の深い所から、唐宋八家の法に則り、和文に一新機軸を出し、すべて趣を唐土にかり、日本の言葉に之をうつし、多く古言を遣はずして、新しく思ひを構へた所に妙があつた。和歌に於ては、淡なる中に高き心と優なる趣きを寓し、當時名を齊しうした橘千蔭よりも、一段上であつた。又書も、佐理や貫之の如き上代の體に倣ひ、氣品の高いことは、千蔭などの及ぶ所でなかつた。
彼れはなか〳〵の能辯家で、議論風發の概があつた。太田錦城の子息の書いた「訓蒙淺語」で見ると、春海と木芙蓉(畫師)は錦城と懇意で、毎度訪ねた。兩人共に、舌は轆轤の如しとも言ふべき辯者で、至極面白き人物であつたとある。併し、隨分人を忌憚なく評論したと見えて、兩人の惡口は鰻の蒲燒よりも旨しと云ひ、芙蓉は「世説」〔ママ〕を諳記して、世説で惡口を言ひ、春海は和漢の事例を擧げ、夫を惡口の種子としたとある。其の氣鋒當る可からざる辯才と滿々たる覇氣が、此等の記事で窺はれる。
菅茶山の「筆のすさび」に、千蔭と春海の容貌が叙してあるが、それに據ると、千蔭は、隱居後は總髪で、顏色容貌、さしも歌人らしく見えた。春海は半髠で、頭大きく下ほそりたる顏で、洒々落々、一見舊知の如くであると云うて居る。春海が快濶であつた樣子が見える。
春海は漢學趣味の深い國學者であつたから、普通の國學者とは違つて、自ら儒を以て任じ、且つ漢學の爲に大いに氣を吐いた。當時の國學者は、皇學などと云うて、無闇に漢學を排し、日本の倫理道德は日本太古の遺法で、儒佛の流を汲んだものでないなどとこじ附けたのを、春海は常に嘲り、堂々と駁して居る所に、彼れの識見があらはれて居る。
我邦の道とする所、周公孔子の道也。これを舍て道を我太古に取る、吾未だこれを聞かざる也。故に、和字、我字に非ず、漢字を假りて我音に充つる也。衣服冠冕、皆隋唐の制度也。百官有司、皆唐制に傚ふ。各科、博士を設けたるも、和學歌學の博士を設けず。所謂和歌博士は、大江匡房の戲稱より出づ。本來和學なる者、儒者の、本朝の典故言辭に通ずるを云ふ也。歌學者は、儒者の歌を作る者のみ。吾儕庸陋と雖も亦儒也。儒者、歌を作るもの也。本朝の俗、少にして儒、老て佛。中古より以來悉く然り。由是觀之、儒に非ざれば則佛。此二道を舍て別に道を建つ、吾未だ之を聞かざる也。今の和學者、我邦別に道無きを恥ぢ、牽強傅會、妄に我古史を引き、人を欺き、己を欺く。吾安んぞ之を辯ぜざるを得んや。
春海は、賀茂眞淵の敎へを受けたが、其の道とする所は、師に曲從せぬと云うて、思ひ切つて、其の所信を、斯く明々地に告白してゐる。
春海は富饒の家に生れたが、天性財利に淡く、竟に家産を蕩盡し、晩年は甚だ不如意であつた。白川侯いたく其の才を愛され、月俸を賜はり、僅に餘生を送ることが出來た。
渠の情話
春海の樣な、資産もあり、豪放な性格の人に有りがちの事であるが、其血氣の時代には、一場の「ローマンス」があつた。彼れは、其の頃繁榮を極めた芳原の遊廓へしばしば通つた。其頃丁子屋と云ふ樓に丁山と云ふ遊女が名を馳せて居つた。春海は繁々此妓の許へ通つたが、當時丁山には御家人某が深く契つて居たので、何時も春海につれなく當つた。春海が當時詠むだ名高い述懷の歌が、「不逢戀」と題して、彼れの歌集「琴後集」に收めてあるが、實は此時詠んだと消息通は言うてをる。其歌は、
つらからぬ言葉ぞつらき却々に思ひこりよと言ひも放たで
よく、戀のつらさを道破して居る。
さて春海は、懲りずまにいよ〳〵繁く通ふのを、丁山うるさがつて、之を忌む意から、ある日難題の無心を言ひ掛け、是非急に二百兩入用があるから、辨じてくれよと賴むだ。當時の二百兩は大きいものだ。妓は出來ない相談をかけて追拂ふ方略であつたが、春海は快く承諾し、次ぎの日夕刻、百兩包を二つ持參して、丁山の前へ置いた。ところが丁山喜ぶ色もなく、これを尻目にかけて、『金は今日の晝までに入用であつたので、それを過ぎては、最早や用はない』と、無愛相に長煙管で其の金を突き返した。春海は失望の樣子もなく、立腹もせず、平氣な調子で、『お前が要らぬといふなら、他に取らする者がある』と云うて、二百兩惜氣もなく、茶屋の者や下婢などまでも集め、美事に蒔き散らして之を分ち與へ、例の如く振られながら、悠然として樓を去つた。
振られて歸る果報者と通語の通り、振られて蒔いた二百兩が終に果報の縁となつた。即ち此事あつて後、丁山も流石に考へた。あれほど度胸のある人と思はず、これ迄つれなく當つたのは誤りであつた。あの人にこそ一生を託すべきだと、茲に心機一轉、遂に春海に許すことゝなつて、久しい關係の御客と絶つた。
丁山は春海の妾となり、琴瑟よく和して、終身連れ添うた。後年春海は、昔の事を思ひ出して詠んだ歌がある。
諸共に解くるにつれて悔しきはつれなく過ぎし昔なりけり
といふので、此歌も秀逸として喧傳してをる。
春海は通稱平四郞、字は子觀、琴後翁、織錦齋などと號した。兄の春鄕も、春海と共に眞淵に學むで、和歌を詠むだ。養子の春路、娘の多勢子、皆歌人として知られてゐる。門人には殊に名流が多い。小山田與淸、淸水濱臣、岸本由豆流、小林歌城、本間游淸の如き、皆聞こえてをる。又彼れの交はつた重なる人物は、白川侯を始め、皆川淇園、菅茶山、源應擧、淸原雄風、賀茂季鷹、三島自寛、大窪詩佛、林述齋、市河寛齋、藤堂侯、濱田侯などで、當時の大家には大抵交はつて居る。彼れは、文化八年、六十六歳で歿した。
五 瀧澤馬琴
病身醫者の當主と大著述家の隱居
寂れた門構へ、醫者の看板、玄關には藥取りが一人二人、一見夫と知らるゝ醫者の家ながら、患者は少く、いと不景氣な樣子。其筈、主人公の先生、由來多病で、自分が病臥して居る事が多い位。醫術の方は兎も角、これでは患者が少いも無理はない。
此の先生こそ、有名なる「八犬傳」の著者曲亭馬琴の一人息子宗伯であつた。表看板は醫者、馬琴は奧の方に潛んで、幾多大著述の筆を執つたものである。馬琴の先代はやはり醫者であつた、そこで馬琴は斯業を我子に繼がせたのである。
さて、此の流行らぬ病人醫師の玄關も、百代に傳はる曲亭の名著を出した家とて、甚だしく當時の注目を惹いたもので、四方より集ひ來る訪問客は少くなかつた。馬琴の全盛時代には、翁の謦欬に接したいとあつて、田舍から態々出て來て、此の玄關を訪ふ者があつた。又江戸の文人墨客中には、地位の高い人達までが此門に出入したのも、奧の一室に、有名な著者が潛んで居たからであつて、不景氣な醫者の玄關に、患者よりも多く客のあつたのは此故である。併し、執筆者たる馬琴は、寸陰をも惜んだもので、多くは玄關拂、又は假病で有象無象を撃退した。又扇面や絹地を寄せて揮毫を依賴するあり、著作に序文を乞ふあり、隨分繁忙な事である。之が應接の役目は、子息宗伯の妻女、お路が務め、多くは歡迎役でなく、撃退役であつた。
馬琴の書齋は、どんな樣子であつたらうか。何しろ我家を天地とする人、滅多に門を出ない人、日々机に凭つて筆を運んだ人の一代の經路を顧みれば、此書齋は彼れに取つての世界であつたに相違ない。藏書家として、いくらか名もあつた位であるから、四壁は書物箱を以て圍まれて居つたであらう。幾十年自ら苦辛して著はした幾百の版本や、其の稿本は、周到なる翁のことだから、必ず順序よく整理され、堆かく積まれてあつたであらう。所藏の書畫類や、反故のやうなものでも、きちんと排列され、その中に机を構へて、膝も崩さず端然たる態度で、書を讀み筆を執つたであらう。日々、細記を怠らなかつた日記帳や、家計簿は、言ふまでもなく、常に机邊に置かれたであらう。裕福でもなかつた此家に這入つて見て、何人も驚きの眼を睜つたのは、書齋に貯へた財産の豐富であつたことであらう。
此翁の幼少時代や、其の生立などに就いては省略することゝして、さて、彼れは、二十七の年、三十歳の女の家に入聟となつた。即ち己れより三歳の女增を妻とした。この婦人はお百と云ふ名で、姓は忘れたが、翁は入聟となりながら、何故か終生己れの姓を姓とした。乃ち瀧澤氏は翁の姓である。さて、此の夫婦程互に性格を異にしたものは、多く世間にあるまい。お百は、云はゞ裏店式の無敎育もので、口がやかましく、下司張つて、極めて品性の低い婦人であつた。然るに、良人たる馬琴は學者で、著述家で、謹嚴家で、何事にも綿密周到で、苟くも筋の違つた事は假藉せぬと云ふ人物。こんな性格の異なつた兩性が、よくも一生連れ添うたものと、何人も不審に思ふ程である。恐らく一方が偉かつた爲に破綻を見なかつたのであらう。が、一家中には隨分風波が生じた樣だ。馬琴も忍耐家ではあつたが、此婦人の爲に如何に苦められたかは、其日記のあちらこちらに、苦情を洩らして居るのでも察せられる。
宗伯は此の不思議な夫婦の間に生れた子で、非常な孝行者。其配偶お路も亦寔に珍しい女で、よく舅姑に仕へ、よく勤めた。夫でもお百は、日夜嫁に小言を云うたので、流石に寛厚な翁も、見るに見かねて時には口を入れる。宗伯も弱り切つて、『又お母さんが』と、折には歎聲を發することもあつた。
宗伯は生れながら羸弱であつた。然るに、一方には謹嚴に過ぎた馬琴を父として、他方には口やかましい母を有つた爲に、病身の堪へがたく、神經衰弱に陷らざるを得なかつた。彼れの早く死んだ原因は、恐らく家庭にあつたと思はれる。此の宗伯は琴嶺と號し、文學の才もあり、醫學の傍ら畫を學んで、相當の處まで進んだ。畫の師匠は、最初は金子金陵で、後には谷文晁であつた。彼れは、此金陵の門に通うた時代に、同窓に一知己を得た。夫は世に隱れもない渡邊崋山である。此兩人は甚だ親しい仲となり、その關係からして、崋山も數〻馬琴を訪問した。
崋山と馬琴、これは一寸變つた配合である。第一、年齡も違ふ。人柄も違ふ。夫が不思議にも馬琴の息子の親友たる因縁で、崋山は切々馬琴を訪問したのである。馬琴は崋山の畫才に感じて畏敬したのみならず、其の人格の高きを早く見て取つて、禮を盡して遇した。崋山も亦馬琴の博學に服して、之を稱讚し、時々其敎へを乞うた。馬琴は事實博覽強記であつた。經學とか、史學とか云うて、專門の學術に傑出したとは云はれぬが、所謂雜學に於て廣く渉つて居つたことは確である。此點からして、彼れは當時の各方面の人々から珍重された。此の關係からして、其子宗伯は松前侯のお抱醫師に取立てられた。夫は松前侯が、宗伯の醫術を論外として、唯宗伯を因縁として馬琴に近付き、色々な事を質問する便宜を得たかつたのである。彼の塙檢校の高足屋代弘賢は、當時博識者と推賞されたが、やはり常に往來して馬琴に種々問うて居る。其他當時の大家と云はるゝ人々でも、何か判然しない事があると、自ら其門に參じ、又は書を寄せて疑義を質したもので、戲作者山東京傳の如きは馬琴の先輩で、馬琴が嘗て師事した時代もあつたが、併し、京傳も博覽は到底馬琴に及ばず、是亦しば〳〵馬琴に物を問うたものだ。
崋山は、畫に於ては近代の大家で、就中人物畫には空前の評を博した。そこで馬琴も、宗伯の歿した時に、特に崋山に託して其肖像を畫かせた。此事に就いて崋山から馬琴に送つた手紙が、馬琴の反故の中に發見され、其後饗庭篁村氏の物となり、轉じて自分の手に入つたが、之を見ると、崋山は深く宗伯の死を悼み、早速肖像を畫して送つて遣り、何れ閒を得て尊老の肖像をも畫きたいと書き添へてゐる。斯く馬琴と崋山は、互に十分の敬意を以て、將父子の如き氣持で交はつたものらしい。後崋山が自殺したと聞いて、馬琴は其日記中にひどく慨歎の意を洩らして居る。又其後崋山の弟の死を惜んだ事も、馬琴の日記中に見えて居る。
宗伯は馬琴の大切な一人息子で、馬琴は〔ママ〕宗伯の身體の弱いのを憂慮した事は、日記の種々な處に現はれて居る。宗伯の壽命を延ばさうとして、種々手段を盡した事も、日記の中に散見する。
一室を天地として滅多に外出しなかつたと言はるゝ馬琴が、宗伯の保養のためとあつて、自身宗伯を促して濱邊へ伴ひ、船遊びで鬱散を勸めたといふに至つては、勤めたりと言ふべきであらう。併し、宗伯は終に夭死して了つた。馬琴に取つては實に大打撃で、其日記には「叫天哭地」と書いて居る。
家翁失明後の路女の異常なる努力
されば馬琴の一生は、宗伯の死後黯澹たるもので、強健な其身も、軈ては失明の不幸に陷つた。但し、宗伯は一子太郞を殘した。之が養育に就いて馬琴の努力は大したものであつた。そして宗伯の妻女お路が、今や一家の支柱となつた。この婦人は、昔から名を知られた貞女中にも、餘り類のない傑出した女で、文壇に於て馬琴を珍とすべくば、この婦人の隱れたる功勞は、決して忘るべからざるものである。失明後の馬琴を助けて大著述を完成せしめたのは、此婦人の力である。此婦人は瀧澤家の夫人と云はんよりは、寧ろ馬琴の祕書役たる使命を受けて生れた者とも言へる。人若し文學の爲に馬琴に謝すべくば、此婦人にも感謝しなくてはならぬ。失明後の馬琴を一切世話したのは、妻のお百に非ずして、嫁のお路であつた。
謹嚴細心の父と、口やかましい下司張つた母との間に挾まり、病身の良人を有つた、瀧澤家の嫁お路程、同情に値するものは無い。今から考へて見ても、よくも忍んで、此のむづかしい家庭に終始したと、感服の外は無い。馬琴の兩眼健全の時代でも、なかなか面倒な家庭であつた。別して失明後は何から何まで、此のお路の輔佐に待たざるを得なかつた。それは、日夜の起臥飮食、其他一軒屋の主婦として爲さねばならぬ、あらゆることは勿論、普通の場合に於て、婦人の職務外とされて居ることまでも、馬琴の家に於ては、お路一身に之を擔任せざるを得なかつた。さて此の例外の任務の中、尤も重大のものは、馬琴の口授を筆記して、「八犬傳」の大著を完成せしめたことであるが、これを詳説するに先ち、盲父に代つて此の婦人が爲さねばならぬ日中行事が、どれほどあるかと云ふに、先づ幾十年も馬琴が書き續けた日誌を書かねばならず。勝手向の出納簿、物の贈答に就いて、馬琴が「贈答歴」と表紙に題した帳簿の記入もせねばならず。他より來る書状を讀み聞かせ、それに對する返事を認めねばならず。校正摺が來れば、それを讀み聞かせて誤りを直さねばならず。他より何か文學上の質問が來れば、盲父の説を録して答へねばならず。何事も人に任せかねる馬琴の如き神經質の書記役となつたお路の難儀は、思ひ遣らるゝ程で、手紙一通書くにも、恐らく筆者の爲すには任せなかつたに相違ない。日記の如きも、あらつぽく書けば格別の面倒も無い樣なものゝ、此の家の日記は、そんな簡單なものでない。馬琴が失明前、例の周到な筆を以て、一日の事を細大漏らさず書盡すにあらざれば已まぬ筆法を、お路に繼承せしめたのであるから、日誌を認めるだけでも容易ならぬ仕事であつた。此の日誌の原本五六册は早稻田大學の圖書館に藏してある爲に、お路の書いた部分も讀むで見たが、實に行渉つたものである。大抵毎日、誰が訪ねて來た、何んな話をした、何を贈られた、大切の時間を潰されて迷惑をした、若くば無益な談話を避くるため訪客を斷つた、何枚原稿を作つた、何枚校正したなどの事より、浮世の風聞、薪炭野菜買入れの些事に至るまで、漏らす所なく書かれて居る。無罫の半紙本に、天地の餘白をも存せず、ぎつしり書詰め、往々一日の記事が二枚三枚にも亙つて居る。多分馬琴が一々指圖をして、是れも洩すな、彼れも書けと、書かさせた〔ママ〕に相違なく、且つ書き了つてから讀ませて、意に滿たぬ處を、筆を加へさせたらしく見える。毎日日記を書くだけでも竝大抵でなかつたらう。
八犬傳完成と路女
馬琴一代の大災難は、一子宗伯の死んだ後、盲目となつたことで、お路に取つても、實にこれが大災難であつた。勝氣の馬琴は、眼力が朧氣になつても、自ら原稿を書き續けたが、その稿本を見ると、覺束ない字が界紙二行に跨つて居る亂脈なもので、如何に執筆に困難を感じたかゞ相像〔ママ〕される。追々兩眼とも全く明を失するに至つた頃、「八犬傳」は七部通り出來た位のものであつた。さて殘りの三分を斷念すべきや如何と云ふことが、馬琴の頭腦を煩はした大問題で、馬琴は幾囘か斷念せんと考へて、又幾囘か意を飜し、終に生命のあらん限り續けることに意を決したが、さて之を佐ける大役はお路であつた。
馬琴はお路を筆記者として、失明後「八犬傳」を書き續けることに意を決したが、これが爲にお路は非常の困難に陷つた。全體、お路は、どれほど敎育があつたか。その書き殘した筆蹟を見るに、多少、女子相當の敎育はあつたらしいが、馬琴のごとき難しい文字を竝べる著述家の記室相當の敎育の無かつたことは言ふまでも無い。されば、盲父の口授する文句を、一字々々、偏や旁を敎はり、假名遣ひを敎はり、覺束なく筆を進めるやうな始末で、最初は一行書くにも容易でなかつた。馬琴がもどかしがつたのもさることながら、お路にしても泣かんばかりのつらさを感じた。馬琴も流石に氣の毒に思ひ、『嗚呼、罪なことだ』と幾度か斷念せんとした。其の間の消息は、日誌にも、亦「八犬傳」の終りにも書いてあるが、これを筆記したものも、やはり同一筆者お路である。
馬琴の克己心は、終に難關を切り拔け、毎日々々の薰陶は、お路をして習熟せしめ、やうやく筆も捗取り、遂に「八犬傳」の大作も完成した。其の勞、實に大なりといふべきである。
盲人の大作といふ事は、他にも例がある。塙檢校は本來の盲人で、川柳にも「番町で目明き盲に物を問ひ」と言つた樣に大學者であつて、「群書類從」のごとき大編纂を成就したが、彼れは家が富饒であつたから、多くの學者を羅致〔ママ〕して編纂に當らしめたが、馬琴の境遇は之とは違つて、元來家計が豐でない所へ、幾らか生活の助けをして居た息子に先立たれ、一層不如意となつた晩年であるから、筆記方一人傭入れる餘力も無く、憐れむべき年若の寡婦を敎へながら、辛うじて大著述を完成した。此れと彼れとは、共に盲人ながら、實に比較にならぬ難易がある。
お路は、古來の烈女傳や貞婦傳に餘り例の無い、變つた境遇に處した、珍しい女流と謂はざるを得ぬ。此の婦人が優しく且つ辛抱強かつたことは、どちらを向いてもむづかしい舅姑に仕へ通したに依つても知られる。馬琴自身も、餘程此の嫁に感心して居つたらしく、其の日記の中に、家族が外出して、いくら深更に歸つても、お路一人は必ず寢まずに待つて居る殊勝さを、褒め稱へて居る。
お路は、盲父の書記役たるの外、炊事、針仕事をなさねばならぬのみならず、一子太郞の養育もせねばならず。瀧澤家家傳の丸藥を調合したり圓めたりして、生計を助ける料とせねばならず。時には、當時馬琴の競爭者であつた春水、種彦などの著作が出たとあれば、それを讀むで聞かせねばならず。馬琴が引用せんとする書物を探して、必要の所を讀むで遣らねばならず。如何に此婦人が日々忙殺〔ママ〕されたかは、想像するに難からぬ。良人宗伯のごとく、神經質にならなかつたのが、不思議に思はるゝ位である。
失明後、馬琴が嫁のお路に筆を執らせた「八犬傳」は、眞に涙の結晶とも云ふべく、其の稿本を一見して、著者と筆者の、當時の慘憺たる苦心に想到れば、何人も黯然たらざるを得ぬ。自分が前年、早稻田の圖書館に此の稿本を陳列して、多くの人に見せたことがあるが、閲覽者に甚深の感動を與へた。中にも越後長岡出身の小西信八氏(東京盲啞學校長)は、流石盲人敎育に從事せらるゝ人だけあつて、盲文豪に大なる同情を寄せられ、自分に、是非一たび同校に臨みて、盲生のため、馬琴の傳を講演せよと求められ、自分も辭しかねて、馬琴の失明後の著述に就いて講演したことがある。其時自分は、世に「一字千金」と云ふ語は、多く形容に遣はれて居るが、失明後の馬琴の著述は、涙と共に一字々々窄出したもので、眞に一字千金の價があると評したことを、今に記憶して居る。且つ自分の今尚忘るゝことの出來ない一事は、「八犬傳」のごとき大部の書物が、幾ど全部盲人用の點字に譯されてあつて、當日自分の講演が了ると、校長は自分の爲に、或る盲生に命じて點字譯の「八犬傳」を四五枚讀ませて聞かされた。これには自分も驚き、且つ盲人が、如何に此の盲文豪に深い同情のあるかを見て、感激を禁じ得なかつた。
馬琴の壽宴
馬琴が今日盲人の崇拜を受くるのは、寧ろ當然とも云へるが、其「八犬傳」が、馬琴失明前、時の社會に持囃された勢ひは實に非常であつた。其脚色は取られて劇壇に上され、講談師は寄席で語り、或は錦繪に畫かれ、或は京都の西陣では一部の繪を帶地に織込むと云ふ樣な工合で、都鄙共に、「八犬傳」で無ければ夜が明けぬ樣な大歡迎を受けたもので、本の賣髙も、隨つて空前の數に逹した。馬琴が、失明後、尚筆を絶つに忍びず、完結に執着したのも無理は無いと思はれる。
馬琴の還暦の會も、恰も此の好景氣の頃に催された。その時のことは日記に委しく書かれてあるが、來會者は千幾百人と註せられ、馬琴は、一ケ月前より、當日の配り物として、扇面や唐紙や絹地などに、詩歌俳畫の類の揮毫に沒頭したが、半分も書き切れず、巳むなく、懇意な畫家などに書かせたものをも加へて、やつと間に合はせたとある。當時馬琴の名聲は頂點に達した頃であるから、猫も杓子も皆會したと云ふ有樣で、席上の混雜は馬琴を困殺し、書を求むる者、詩を乞ふ者、坐邊に麕集し、馬琴は此の需めに應ずるため、會果てゝ後、十數日を費し、又囘禮の爲に數日を費したと日記に認めて居る。さて斯くして幾許の金を贏ち得たかと言ふに、意外の入費がかゝり、二百兩殘つたとあるが、當時文人の壽宴として、これほどの盛會は無いと、時人に謠はれた。
馬琴の著作
馬琴の著作は當時廣く讀まれたが、其の一作の現るゝ毎に、忠實に細評を下した愛讀者が四五人あつた。それは、讃岐高松の家老職で相當文學のあつた木村默老、伊勢の人で殿村篠齋、其他小津桂窓、石川疊翠等であつた。此の人々の批評は、頗る細微な處にまで渉つたが、その批評が馬琴の手に廻つて來ると、必ず之に答へるが例であつた。周到なる馬琴の事であるから、此種の書類は必ず保存したもので、他から來たものは勿論、自分から人に答へたものでも、副本が取つて無いから、一覽の上返却を乞ふと書添へて取寄せて居る。他人から考證などを賴まれて稿を作つた場合も、必ず返戻を請求して居る。それが爲に、いろ〳〵の物が殘つて居る。批評の應答の如き、チヤンと整理してあるから、讀むで見ると、なか〳〵興味がある。當時「八犬傳」其他馬琴の名著の流行時代に、自然讀者も此の批評を讀むを興としたと見えて、「犬夷評判記」と云ふものが版になつて居る。云ふまでもなく「八犬傳」と「朝夷巡島記」の二傑作の批評を集めたものである。
馬琴は學者氣取の戲作者であつたから、當時競爭者であつた他の戲作者、種彦、三馬、春水の徒を無學と侮り、品位劣等とさげすみ、自ら高く標持して相手にしなかつた氣味がある。學問にかけては、他の三人は、無論馬琴の敵で無かつた。早稻田に藏する馬琴の自筆中に、「■{馬+馬+馬:大漢和45093}鞭」〔ママ〕」と云ふのが載つて居る。これは式亭三馬の「大磯十人斬」を縱横に評して、その無學を罵倒したものだ。併し、此等三人の作者は、馬琴のごとく面倒な字を用ゐて堅くるしい事を書かなかつたため、却つて一般に歡迎された氣味もある。出版元の書物屋も、馬琴先生も、今少し艶つぽく書かれたら、益〻受がよからうにと、時には蔭口を突くこともあつた。ある時、馬琴に關係の深い書物屋が翁を訪うて、種彦の「田舍源氏」の大景氣のことを吹聽し、先生は學者は學者だが、艶は種彦さんに敵はぬと云ふと、負けぬ氣の馬琴、そんなことがあるものかと云うて、艶本位の小説を書き出した。それが馬琴の名著の一に數へられて居る「美少年録」である。
馬琴は文學者に有り勝の大神經家で、校正などのやかましかつたことは今古に例の無い位。一冊の本の内で振り假名が一つ違つた位の事を氣にかけて、日記には、大罪でも犯した樣に、再版の時改訂を要すと特筆して居る。彼れは學者氣取であつただけ、文字によく注意したもので、據り所の無い熟字は決して遣はなかつた。何かの序文を漢文に認めた折、「在昔」と書き初めた。「在昔」は勿論差支へない熟字であるが、馬琴は稿成つて後「在昔」の二字に疑ひを起し、其の用例を支那の書物から捜し出すに一日を費し、大骨を折つたことが、其日記に書かれてある。馬琴が大著述家に似ず案外遲筆で、「八犬傳」の如き、一日一枚二枚を書くを日課とし、多くも三枚を出づる能はなかつたと云ふは、文字に屈託したことなども原因であるに相違ない。
馬琴の趣味
馬琴は儉素を旨とし、錢厘と雖も無益に費さぬ經濟家であつたが、さうかと云うて全く趣味道樂が無かつた譯でも無い。書物を多く買ひ集めたごとき、著述の參考に必要でもあつたらうが、圖書道樂もあつたらしく思はれる。尤もどれほどの藏書があつたか、目録が殘つて居らぬから、よくわからんが、いつぞや早稻田に馬琴の遺著の展覽會を開いた折、諸方からその手澤本の寄つた數は意外に多かつた。馬琴は、失明後家計を助くるため悉く懇意な人に賣り拂つたと日記に書いてある。多分讃岐の木村默老なども買手の一人であつたと思ふが、斯く遠方にある本は別として、東京の各所にあるものだけでも五百種位は確にある。當時藏書家として名のあつた屋代弘賢には及ばなかつたにしても、相當の藏書家であつたことが想像される。家計を節約して、書物を買ふに如何に沒頭したかが窺はれる。
書畫趣味もあつたらしいが、これも、失明後賣却したと日記にある。さて此の目録も存して居らぬ。唯馬琴の遺族の手にあつて、今は早稻田の圖書館に納つて居る書畫部類は、「家廟遺墨」數卷。これは馬琴の先代の遺墨を張り込んだもので、外に「すつるもをし」と表題せる數卷の書畫がある。これは宗伯遺愛の書畫で、愛兒を偲ぶ紀念物である。此外、水滸傳の人物を寫した卷物が二卷ある。一卷の寫しが拙だと云うて更に寫させたのが、李龍眠を依倣した淸人陸謙の畫を、更に模寫せしめたもので、卷尾には、馬琴が、水滸傳の三大隱微と云ふ得意の説を録して居る。以上存在して居るものは家書とも見るべきもので、普通の書畫とは聊か異なる趣きもあるが、併し、水滸傳の人物を二度までも寫させて居る所から見ると、相當に書畫趣味もあつたらしく、幾らか書畫にも手を出したことが想像される。
馬琴として寧ろ意外であるは〔ママ〕、ある時代に、多くの小禽を飼養して慰むだことである。これに就いては馬琴自筆の記録が殘つて居る。此の記録は百枚足らずの半紙本で、「無益之記」と標題が附されて居る。幾百の小禽の名と其の代金、又籠の種類や其の價が細記してあつて、意外に數の澤山なると、之に費した金額の大なるに驚かざるを得ぬ。當時、恐らく馬琴の家は、鳥屋と間違へらるゝ程、鳥籠が陳列されてあつたであらう。馬琴は、此の記録の冒頭に、小禽を飼養するに至つた動機と、終に其の愚なるを覺つて、子孫に再び愚を爲す莫れと戒めた序文を書いて居る。それは左の如くである。
甲戌の春、余に小恙あり。夏に至つて尤も留飮に苦む。しかれども市中、尺地の逍遙するに由なし。おもへらく、もし試みに小禽を養はゞ、日々に運動して氣を養ひ生を養ふべし。因つて五月に至つて、はじめてこの戲をなせり。しかるに余が性、物に泥り、正に諸鳥を獲て、毛色啼音餌養の事、つばらにこれを極めんとする程に、覺えずその數百餘鳥に及べり。その事未だ盡さずして、心忽ちに倦き、病痾全く瘥えずして、囊中既に空し。是俗翁兒戲の態、何ぞこゝらに小心して徒に日を費すべき。則ちその鳥を放下して、復び養はず。録して以て自ら警む。大約養鳥の樂みは、財を費し業に怠つて、亦絶えて益ある事なし。譬へば登樓賭博に異ならず。故にわが非を飾ることなく、深く兒孫を箴むるもの也。 乙亥季秋、 解〔馬琴の名〕。
馬琴の凝り性は、彼れ自身の告白のごとく、追々深入し、後に悔ゆるに至つたが、ある時代に斯る道樂のあつたことは謂ふまでもない。
改過筆記
愛兒宗伯を失うたことの、馬琴に取つては大打撃であつたことは、前にも話したが、此の不幸につき、「惜字雜箋」と云ふ自筆本の中に、「改過筆記」と云ふ懺悔録が載つて居る。これに據ると、馬琴は、どこまでも、兒の病を、家相方位を誤つたためと云うて居る。さうして其の罪は兒にあらずして己れにありとなし、みづから方位學者に就いて方位の研究を爲すに至つた。今「改過筆記」につき、彼れが懺悔の大略を語らう。
文政六年夏の頃、兒の爲に居宅東隣の地を贖ひ、家の建増しをして、庭に池を堀り〔ママ〕樹木等を植ゑた。之より先兩三年ばかり前、此の土地を購はんとして、試みに關帝籤と云ふ御鬮を取つて吉凶を卜した所、吉ならず、奢を戒むと云ふ籤が出たので、其節は思ひ止まつた處、又復賣りたしと、持主なる刀研師が申出したので心動き、其節も籤を取つて見ると、不思議にも又前と同樣不吉の籤が出た。そこで不快に感じたが、合壁に博徒めきたる職人住ひ居り、宗伯の意に愜はざること多く、若し此の土地、他人のものとなつては、斯る不快は到底除き難しと、籤の不可とするに拘らず贖ひ入れたがそも〳〵一家に不幸を來す發端にて、漸く普請出來上がつたころ、大風に塀墻を吹き倒され、屋根を破られ、其頃より宗伯の病漸く増長するのみか、妻のお百が脚氣の重症に罹り、一家不幸の折柄、下女下僕が暇を取ると云ふ樣なことで、馬琴もしみ〴〵痛苦を感じ、かねて籤に背きたることが氣にかゝり、試みに方位家の説を聞いて見ると、池に止水を貯へることが、宗伯の病のためよからずとあつて、急に池を埋める氣になり、其後池を埋めたはよいが、さて池を埋めた土を、方位家の忌む方角にあたる溝より取入れたとケチがつき、馬琴はます〳〵神經を病ます折柄、宗伯は俄に胸膈閉塞して、滯食の病起り、幾ど數日間絶食の有樣なるに、馬琴の驚愕一方ならず、さる方位家の勸めるに任せ、遽てゝよき方角より土を求め、池の埋土と取替へて見れば、それがためか否かは知らねど、その後宗伯の病はやゝ薄らいだ。斯く眼前に方位が宗伯の身體に影響するを見ては、流石の馬琴も方位論を崇敬せねばならぬ樣になり、例の凝り性の翁は、斯道の書物などひねくり廻して、研究を始めて見ると、今まで可とも不可とも思はなかつた事まで、方位に照らして不可なることも發見され、愈〻神經を病ます基ゐとなつた。そは何かと云ふに、家作をなした其の年の春、小石川茗荷谷の菩提所深光寺にある祖先の墓を修理せんとして、聊か墓所の地を贖ひ、祖先の遺骨を埋め替へる折、他人の遺骨に觸れたことがあつた。さて此の土を動かしたことが、方位に照らせば土煞を犯したるに當り、馬琴はこれをも宗伯の病因に歸して、さて報灾の修法を執り行うて、一意災厄を拂ふことに沒頭したことが、「改過筆記」に委しく述べてある。
宗伯の病死は、果して馬琴の云ふごとき、方位を犯したるに因るや否や。學者を以て任ずる翁も、兒故に迷信に陷りたることは言ふまでもなく、人情は、何時、如何なる階級にても同一なることがわかる。
馬琴と鈴木牧之
馬琴は嘗て貸本屋を遣つて見たことがある。これは馬琴に適はしい商賣であつた。自作ばかりでも二百數十種あり、他に同時代の作者の小説の、自然に集まつたものも少からずあつたに相違ないから、資本要らずのよい營業とも見えたが、著作の傍ら人を指揮しての商賣だから、終に失敗に終つた。此間の消息は、越後魚沼郡の豪家鈴木牧之に與へた長文の書状に、例の細筆を以て委曲を盡して居る。
此の鈴木牧之とは、如何なる因縁有つえか、馬琴は親類交際をしたもので、牧之の家には、馬琴の細字の手紙が澤山殘つて居る。一家の祕密までも露骨に打明けて居るところ、馬琴の傳記を作るには、屈竟の材料である。此の手紙の幾何かは、十數年前「帝國文學」雜誌に載せられたことがある。近年聽けば、鈴木家では、之を纒めて他へ讓つたとか。
此の鈴木牧之は、一生の事業として「北越雪譜」を著したいと念じ、馬琴に執筆を依賴した。材料は牧之より提供する事として、馬琴も承諾したのであるが、何故か約を果さなかつた。勿論、長い間此事に就いて雙方の間に交渉があり、鈴木家に殘る馬琴の手紙には、何時も雪譜の事に説き及んで居る。結局「北越雪譜」は山東京山に書かせた。雪譜といふ標題すら、馬琴が選んだものでなく、京山が擇んで居る。此間の經緯は如何に。京山と馬琴とは仲の好からぬ間柄であつたのに、商賣敵の手に成つたのも奇怪である。併し、馬琴に面當てに、京山に依賴したものとも思へぬ。と云ふのは、馬琴の家に殘つた牧之の手紙がある。此手紙は、饗庭篁村氏の手から自分の手に歸したが、之に依ると、牧之は、「北越雪譜」が、出版になつた事を馬琴に報じ、己が一生の望みが達した。どうぞ喜んでくれと書き、且つ自分も失明同樣の眼疾で困つて居るが、最早眼はつぶれても構はぬ。併し、貴老の眼はどうかと、同情を寄せて居る。此等の文意から見るに、交誼は依然として存續して居つた樣に思はれる。思ふに、馬琴は著作に忙しい處から、京山を推薦して書かせたものであるまいか。
馬琴も嘗ては寺子屋を遣つた時代がある。無論、大家にならぬ前である。早稻田の圖書館に「入門名簿」と云ふ一册がある。これが其の頃の事を語るものである。人名を調べて見るに、少年少女のみで、小説の門人などは一人も見えぬ。馬琴は主義として小説の門人を有たなかつた。
馬琴は、俳諧に耽つた時代もある。兄の羅文と云ふが俳諧趣味があつて、これと頻に唱和した。或は、羅文其他の俳友と俳文を作り、「風俗文選」に倣つて、之を出版せんと企てたこともある。早稻田の圖書館に馬琴自筆の「俳諧古文庫」と云ふ稿本がある。これが即ちその原稿だ。こゝにおもしろいのは、馬琴の名が一々塗抹してあることである。多分馬琴は、大家になつてから、己が名を附して若い頃の作を公にすることを快しとしなかつたためであらう。
馬琴の菩提所茗荷谷の深光寺に聊か遺品が藏してある。印が二三顆。一は圓形の印で、「人生二宇宙一。志願當二何如一。不レ行二萬里路一。即讀二萬卷書一。」と、己が心事を刻して居る。外に馬琴自ら道風の書を摹して、「芳流」の二字を刻らせた板額が一枚ある。寺の云ふ所では、久しく本堂の椽の下に埋沒してあつた者だと云ふ。此の「芳流」の二字を見ると、「八犬傳」の、信乃、芳流閣上の血戰を聯想せしめる。恐らく何等か因縁のあるものであらう。
馬琴の抱負
馬琴に就いて最後に語るべき一事は、彼れが通俗の歴史家を以て任じた形跡のあることである。馬琴は、學殖があつただけそれだけ、婦人や子供相手の小説を書くを以て滿足することが出來なかつた樣である。娯樂の間に國史を敎へ且つ風敎にも資せんと心掛けたことは、歴史の引き事が多く、且つ勸善懲惡が經緯となつて居るに見てもわかる。
賴山陽の日本外史は、馬琴時代には無論版にならなかつたが、馬琴は態々之を寫した。其の本は、一旦木村默老の所有に歸し、今は默老と郷國を同じうする黑木欣堂氏が所持して居る。これを見ると、特に此の書を寫す爲に界紙の版を彫つたと見えて、欄心に「日本外史」の四字と「瀧澤文庫」の四字が刻してあり、寫字生に寫させたらしいが、立派に寫してある。そして卷末に、馬琴の自筆で、山陽の小傳と此書の價値を云云して居る。負けぬ氣の馬琴も此書には感服したらしく、例の惡評を下して居らぬ。一説に、馬琴は『俺と山陽とは未見の間柄であるが、實は同じ仕事を遣つて居る。唯山陽は漢文で書き、俺は和文で書く。彼れは少數なる高い階級を讀者とし、俺は多數なる低い階級を讀者とするの相違あるのみだ』と當時人に語つたと傳へられて居る。馬琴の抱負は、恐らく然樣であつたであらう。
或説には、馬琴は勤王主義に於ても山陽と同感であつたと云ふ。それはどうか、確にそれと斷定も出來かねるが、當時幕府の權力の下に立つて無難に小説を書いて行くに、事に託して勤王論を擔出す譯にもゆかなかつたであらうが、いろ〳〵の作の内に、勤王主義を、隱微の間にほのめかして居ることが無いでも無い。勤王家の先驅とも云ふべき蒲生君平と親善で、深く交はつた關係から見ても、此の一説は否定が出來ぬ樣に思はれる。
馬琴の藏本の中に、南朝に關係ある圖書の殊に多いなども、彼れの心事が窺はれる。且つ彼れは新井白石の讀史餘論を精讀っした形跡もある。帝國大學に馬琴手澤の讀史餘論が藏してあるが、これも寫本で、幾度かひつくり返して讀んだと覺しく、誤字などが、いろ〳〵の筆で丁寧に校正されてある。此等に依つて見ても、馬琴は史家たるの心掛もあり、白石の此書を特に精讀した其の見識も、平凡で無かつた樣に感ぜられる。
浪華に於ける大鹽平八郞の騷動は、大御所の惡政に反抗する一種の運動とも見るべきであるが、此大鹽は馬琴と同時代である。細筆の馬琴は、其の日誌に、此の騷動の評判を例の如く録して居るが、論評を避けて可否を云うて居らぬ。併し、こゝにおもしろいことは、馬琴も此の騷動の罹災者の一人であつたことである。日誌の中に、浪華より來るべき荷物が遷引して、ひどくおくれて達したとある。それにつき事情を調べて見ると、荷物を預かつた運送屋の藏も、騷動の爲に燒かれた。幸ひに馬琴の荷物は失せなかつたが、上包には、あり〳〵と燒痕を存して居ると書いて居る。馬琴は、江戸に在りながら大阪の災禍に觸れたのだ。爰に倒幕論でも出さうな處だが、馬琴は細心な人で、斯る筆を愼んだ。幾多當時の小説家が刑辟に觸れたのに、馬琴のみ無事なるを得たは、思ふに、細心の故であらう。
六 長谷川雪旦
江戸名所圖會と渠
曲亭馬琴が、北齋も及ばずと、其の畫を褒めた長谷川雪旦は、「江戸名所圖會」の挿畫を書いて、世に珍重されるに至つた。
「江戸名所圖會」の珍とすべきは、其の記事にありと云はんよりは、寧ろ其の挿畫にあるは言ふ迄もない。今日の人が、此の德川期の江戸繁昌の有樣を、眼のあたり見るごとき心地を起し、大に興味を感ずるは勿論、江戸時代に於ても、都會に出ることの出來ないものは、皆此書を繙き、江戸の光景を味ひ、其の臥遊に供した者で、江戸に出て國へ戻る時には、必ず土産に此の書一部を購うて持歸つたものだ。若し此の書に挿畫が無かつたならば、殊に雪旦の畫の如き、趣味ある寫實の細畫が無かつたならば、此の書も決して都鄙に廣まらなかつたであらう。
「江戸名所圖會」二十册は、なか〳〵難儀をした歴史を持つて居る。此の書の編者は、神田雉子町の名主齋藤市左衞門が、寛政の頃思ひ立つて筆を執り初めたのがそも〳〵初まりで、秋里籬島の「都名所圖會」に傚つたものである。此の人は諱を幸雄と云ひ、松濤軒とも云ひ、長秋とも云うた。相當に學問のある人であつた。然るに、其功を果さず世を去つたので、其の子幸孝(縣麿)が親の志を紹ぎ、編輯十數年に及んだが、これも全部脱稿に至らぬ内に歿したので、其子の幸成(月岑と號す)が又其志を纘ぎ、終に大成して版に上すまでに至つた。即ち齋藤家三代、約四十餘年の苦心を積むで、漸く成つたのが此の名所圖會である。
冠山松平定常侯が、此書の卷首に序文を書いて居る。夫を見ると、此書のおそく世に出でたるを慨歎し、若し此書が早く世にあらはれたならば、必ず洛陽の紙價を貴からしめたであらうに、餘りに年數を經たから、その内に秋里の「都名所圖會拾遺」や、大和、河内、和泉、攝津等の名所圖會が續出して、大に期を愆まり、時を失した憾みがあると云うて居る。如何にも侯は急所を道破して居らるゝが、が、併し、亦一面から考へると、晩く出たのが本書の幸ひであつたかも知れぬと云ふものだ。若し此の編輯を企てた月岑の祖父の時代に版に成つたとしたならば、設令挿畫があつても、雪旦の如き名畫を闕いたであらう。記事の如きも、乾燥無味の、所謂昔風の名所記で終つたかも知れぬ。
冠山侯は、古來、名所と云ふものゝ、徒らに形式に流れて、動もすれば主客顚倒の弊あることを論じて居る。曰く、そも〳〵名所の稱は、元和歌者流より出で、古歌にある地名でなければ、設令山秀水麗の、唫詠に足る者ありとも、其所を稱して名所と呼ばぬ習慣となつて居る。秋里の選むだ圖會の如きは、正しく此の弊に陷つたものだ。云ふまでもなく名は客で、實は主である。實質に於て名所とするに足るものあらば、之を名所と云ふに何の差支へかあらう。そも〳〵武藏野の廣き、江戸の繁榮なる、古歌に詠ぜられた所は少なしとは云へ、其實に於て名所と爲すべきものは、實に少く無いと。名所の眞意義をよく道破して居るが、「江戸名所圖會」の、他の類書に優る所以は、全く侯の指導に基き、編者が奮つて慣例を破り、和歌などに泥まず、自由に勝區を選むだからである。
全體、名所圖會が、昔の名所記に較べて著しく異る點は、實用の外に趣味を加へた所にあるのだ。昔の名所記は、地名の考證沿革などに重きを置き、甚だ無味乾燥のものであるが、これは、地名の考證の外に、其土地に關係ある詩や歌や俳諧や、或は其地の巨人の事蹟や、風俗その他に至るまで、凡そ趣味を感ぜしむるものは、皆取り込むであるのみならず、圖を挿むで、文字の及ばぬ所を補うて居る。これが名所圖會の特徴と云ふべきものである。然るに、此の特徴を、圖の方面に於て幾ど極度まで發揮したものは、「江戸名所圖會」であらう。
既に冠山侯の所説を引いて云うた通り、名所撰擇の形式を打破し、苟くも實質に於て美とし勝とすべき名區は、皆採ることになつたから、千紫萬紅、絢爛眼を眩する樣な名所圖會が出來たのであるが、さて雪旦の趣味ある細筆の、之を助けるものが無かつたならば、「江戸名所圖會」も、類書の冠冕たる名譽を博し得なかつたかも知れぬ。
「江戸名所圖會」は、何人も見て居るであらうから、委しく云ふは野暮であるが、實に挿畫の豐富なもので、其圖が如何にも深切に精細に出來て居る。其の寫實の妙は、今日の寫眞と雖も及ばぬ所があり、すべて活きて居り、且つ趣味がある。試みに、其の首卷を開いて日本橋魚市の雜沓の状を見よ。又十軒店雛市の光景を見よ。誰か入念の深く且つ厚きに驚かざるものぞ。曲亭馬琴は、其の隨筆「異聞雜稿」に左の如く評してゐる。
江戸名所圖會は、その功、編者は四分にして、其の妙は畫にあり。遠境の婦女子の、大江戸の地を踏むに由なきには、これにます玩物ある可からず。(中略)畫圖なくば、増補改正江戸志あれば、讀書の人には珍げなからんを〔ママ〕、幸ひにしてこの自妙の畫あり。臥遊の爲、いと〳〵宜し。この畫工雪旦は余も一面識あれども、かゝる細畫はいまだ觀ざりき。縱令北齋に書かすとも、この右に出ることなかるべし。
これは、曲亭馬琴が本書二十册の内十册出た時の評であるが、馬琴は、本書の編制や地名の考證等に、種々誤謬を摘出して居るけれども、圖畫に對しては、滿腹の賞讚を與へて居る。雪旦の此書に對する功は、齋藤家三代四十餘年の功に較べて、優るとも劣ることは無い。
江戸時代に、幾百軒の貸本屋は、必ず此書を備へたもので、冷熱なく觀客が借覽したものは、「八犬傳」にあらざれば「江戸名所圖會」であつた。さて、何の爲に新しく流行つたかと云ふに、其の圖畫に趣味があつたからである。今日存して居る幾百の此書が皆垢染みて居るのは、萬人の手に振れた〔ママ〕紀念であることは言ふまでもない。さて此の名譽ある畫家は、此の書の卷尾に僅に名を刻されては居るが、誰の序文にも、跋文にも、一言此の畫家に及んで居らぬ。實は當時、此種の畫家を尊敬しなかつたのも無理はないが、今日はその眞價を認め、元來文字に對して從たる關係である挿畫が、其位地を顚倒することになつた。例へば、昔し狂歌師や俳人などが、愚にもつかぬ狂歌や俳諧を版に上すに方り、愛敬にとて書かせた畫などの内に、歌麿や祐信〔西川祐信〕の樣な名手の畫が挿さむである爲に、今は其書が一册幾十百圓の價を有つに至り、若し此の文字無からしめば、更に可ならんになど、文字を邪魔がる樣にもなつた。「江戸名所圖會」の如きも又其一例である。
「江戸名所圖會」二十册の挿畫は、幾枚あるか知らぬが、多分此の書全部の五分の一、即ち冊に引直すと、四册程は繪であらう。さて此繪は、一枚と雖も机上の空想で書ける者でなく、一たび其境を訪うて「スケツチ」を執らねば、寫實にならぬものであるから、雪旦は、江戸中の重なる市街は勿論、名所とし云ふものは、寺でも、神社でも、行かぬ所なく、終に郊外にまで踏み出して、足跡、武藏の全土に遍く及んで居る。その探討の場合には月岑が連れ立ち、此處彼處と差圖をしたり、圖案に就いても、いろいろの註文した〔ママ〕。月岑自筆の日記が多く存して居るが、此人の足跡も、幾ど江戸の隅から隅に及んで居つて、日々の記事は、寺社其他の探討記である。月岑が晩年相當の畫家となることの出來たのも、雪旦に負ふ所が少く無かつたのだ。
さて此の挿畫全部は、幾年を經て成就したか、委しく分らんが、恐らく一生の三分の一位は、これに打込んだものであらう。雪旦の勞も、大なりと謂はざるを得ぬ。これに對し、どれほどの謝金を得たかと云ふと、いつぞや聞いて驚いたのは、其報酬の如何にも少いことであつた。今はよくも記憶して居らぬが、先づ今日未熟の靑年畫家が、雜誌の挿畫を書いて受取る畫料よりも遙に少く、おまけに各所へ出掛ける旅費も、其少い料金の内から辨ぜざるを得無かつた。雪旦が赤貧洗ふが如き境遇で一生を終つたのも不思議はない。
渠の凝性
雪旦の經歴や爲人は委しくわからぬ。故人香雪前田翁が和泉橋通徒士町二丁目に住居した頃は、雪旦は其筋向ひ東側に住み、香雪の先代夏蔭翁存命の折も、其後も、往來したと云うて、其隨筆に一二の逸事を語つて居る。その謂ふ所から想像して見ると、雪旦は近眼で、風采の揚がらぬ人で、好む道には、利益をも放擲して顧みなかつたと云ふから、名所圖會の挿畫の如きも、慾德で書いたものでなく、感興が乗つて一生懸命に筆を揮つたものに違ひない。彼れの凝り性に就いて、圍碁に關する逸事が傳はつて居る。
雪旦は非常の碁好きで、碁を打ち始めると、寢食も忘れて夢中になる。その癖、餘り上手では無かつた。所謂下手の何好きとやらの組で、相手さへあれば、畫筆を抛つて、いつまでも打つ。畫を依賴するため人が訪ねて來る。偶〻對局中であると、容赦なく誰彼れの別なく斷る。斷るもよいが、我れを忘れて大聲に留守だ〳〵と云ふから、戸外へそれが漏れて來客の氣受を害し、毎度家族が迷惑した。又人の家を訪ねて打つとなると、人の迷惑は一向に構はず、徹夜でも構はぬ熱心家であるから、隨分人を困らせた。香雪翁の祖父知雄といふ人は、なか〳〵上乘の碁打であつたので、雪旦稽古と云うて度々押しかけて、時間構はず長座をするので、いつも迷惑がられたとは、香雪翁の自ら云ふ所である。
こんな調子では、家計などはどうでもよい主義で、氣が向かなければ筆も取らなかつたらう。彼れの貧乏の原因も察せられる。彼れが「江戸名所圖會」の挿畫の樣なものを擔當したのは、必ず自分が感興があつたからであらう。こんな性格の人であるから、隨分「スケツチ」を取る爲にあちらこちらを歩き廻り、興に乘じて餘計な散財をしたこともあるに相違ない。そして失敗したり、滑稽を演じたり、人の誤解を招いたりしたこともあるであらう。
泥坊と間違はる
雪旦が「江戸名所圖會」の畫材を採集のため歩き廻る折、ふとしたことから盜賊の嫌疑を受けた。これが藝苑に隱れもない話しとなつて居る。併し、似寄りの事が畫家には隨分あるから、事實どうかと思つて居つたが、前田香雪翁の父夏蔭は、現に此事に與つたと云ふ事で、香雪翁の隨筆に委しく載つて居るから、事實は確である。但し前田の家で此の畫家の寃を雪ぐに種々苦心したことなどは、世間では知らぬことであるから、翁の「後素談叢」から、此の事に關する一節を、原文の儘、左に抄録する事にする。
雪旦は、毎月三四囘位、その寫すべき方角へ筇を曳き、寺社、或は農家、商家といはず、圖どりをなすに都合よき所にいこひて、下圖を作るを常とせしが、思ひかけず、竊盜の嫌疑をうけたる一奇談あり。聖堂より湯島圓滿寺邊をうつしに出たる日、疲れて水道橋際の守山といへる鰻店に入りて獨酌し、御茶の水の景色をおもしろしと思ひ、立つ居つ見廻したりしに、漸く暮近くなりしかば、盃をさめ飯を喫して歸りしに、其夜崖下のかたより竊盜忍び入りて、金錢、衣服など、少からぬ物を盜み去られぬ。此由、その筋へ訴へ出しとき、出入の者、又は來客などに、怪しと思ふ心當りはなきやとの尋問ありしとき、此夕刻、年五十餘の坊主の、僧とも醫者とも又俳諧師などともみえぬが來りて、あたりを隈なく見廻り、何やらむ手帳のやうのものにかきとめ歸りたるが、いかにも迂散に思はれし由、給仕の下婢の告げたるが、若し其夜忍び入らむ爲に、足場など細かに見て、かきとめ歸りしにはあらざるか。其夜この盜難ありしなれば、旁々不審に存する〔ママ〕由、申立しかば、其人相、衣類などまで委細に聞きとられしは、町奉行支配同心及其手先の者なりし。然るに、雪旦は、近眼といひ、人相もなみに變りし醜面なれば、忽ちにしか〴〵の所に住める畫工とは突き留たれども、只かばかりの嫌疑にて直に引上げることもならざれば、如何にせむと、手先ども案じ煩ひしが、我家(前田の家)には、門人の出入も多くあり、特にかの畫工も折々は立入る樣子なりとの事を探知せし故、或夜竊に來りて、己が父(夏蔭)に面會を乞ひ、内々其人となりを告げられたしとの事に、かゝる疑ひの掛りし者とは知らず、平常の有樣を語り、一體町方は誰の手にて探りに來りしか。我門人には安藤、蜂谷、中村など、與力にも三人あり、同心にも秋山など、知己のあるに、さる人より尋ぬる事あらば尋ねらるべきに、足下等が直に内聞きに來ること心得難しと語りしに、其手先は大いに麁忽をわび、急ぎ歸りしが、當時の與力の權勢は強大なりしこと知られて、翌朝早く安藤源之進といふがたづね來り、全く不心得の者、率爾に罷り出、御訊問申したる失敬の段、何とも申し謝すべき處なし。愚父(源之進の養父は安藤小左衞門といへる有名なる與力なり)がお詑に罷り出づべけれど、先とりあへず、私が參上せりと詑び入りしに、父(夏蔭)も、さばかり立腹したるわけにもあらず、殊に此源之進は門人にてありし故、よきほどに應答したり。
雪旦が竊盜の嫌疑を受け、前田香雪の家が同人を知る關係から、探偵吏より訊問を受けた次第、竝に香雪翁の父夏蔭翁が、訊問に對し率爾の無禮を咎め、時の警察も非を悟つて、失禮を謝した仕末は、右の通りであるが、尚香雪翁は、謝罪かた〴〵來た、與力の子で前田の門下生である安藤に應答の模樣を、左の如く語つて居る。
全體、雪旦の人物行爲など取糺さるゝは、いかなる必要あるにや。彼れは我亡父の時代より出入して、其性行はよく知れるが、決して不良の所爲あるものとは思はれず。併し、わが保證するを待たず、御支配下なる神田雉子町の里正齋藤市左衞門(江戸名所圖會の編者)は、とく知り居る筈なり。かれには、江戸名所圖會の眞圖を寫すことを賴まれ居るよし、本人より聞ける事あれば、同人を糺されなば能く知らるべし。さるにても、かく取調らるゝは何故ぞと、押返して問へば、實はかう〳〵しかじかなりとて、水道橋の守山よりの訴へに起因することを物語りしにて、初てそれとは知られしとぞ。
香雪が、其父翁より聞くが儘の記事は右の如くで、雪旦は勿論逮捕を免れたが、彼れの態度や性癖は、ともすれば、斯る誤解を生じかねなかつたと見えて、香雪翁は更に左の如く語つて居る。
近眼の癖とて、目をとゞむべきほどの物ならぬをも、打返しくりかへし見る癖あるゆゑ、毎度父は、戲れに、雪旦さん、そのやうに見ると、又泥坊の疑ひを受けますぞ、といひては笑ひしとぞ。
此記事を見ると、雪旦の面目躍如たるの思ひがある。藝術家には、兎角此樣な意外の事のあるものだ。
序に云ふが、雪旦の嫌疑を受けた守山と云ふ鰻店は、維新後まで存して居つたが、今は無い。此家はお茶の水の懸崖に掛出した面白い家で、仰いでは富嶽を望み、俯しては茶溪を瞰ると云ふ風流の構であつた。なぜに此家一軒ぽつつりこゝに在つたかと云ふに、水道番と云ふ名義で許されたのである。丁度此の鰻屋のあたりに水道の樋の桝があつて、此の鰻屋は此水で鰻を養ふから美味と評判され、當時繁昌したものだ。
雪旦は江戸の人で、名は宗秀、巖岳齋、一陽庵などと號し、法橋に叙せられた。天保十四年、六十六で歿した。其の子は雪堤と云ひ、巖松齋宗一と稱した。やはり畫をかいたが、親には遠く及ばなかつた。併し、雪旦の名が「江戸名所圖會」で喧傳したため、其餘澤で、贔屓にする人が市中に多くあつた中に、新川新堀邊の酒問屋に引き立てられた。此人は父雪旦と大分性格が變つて、小心家で節儉を旨としたから、雪旦の時代は、家政が常に困窮であつたが、息子の時代には、却つて家道が豐であつたと言はれる。
七 酒井 仲
膝栗毛の脚色者
一九の「膝栗毛」と云へば、比較的に近い時代、即ち德川末期頃の本ではあるが、其中には、當時の俗語などが屢〻洒落の間に挾まれてゐて、所謂斯道の通人ならでは、容易に理解されぬことが書中に決して尠くない。そこで特に「膝栗毛」研究といふことが、今は一部の人々によつて行はれ、是等難解の語を註釋して、一册の著書を成してゐるものすらある。それ程古くない「膝栗毛」も、斯うして今では既に「クラシツク」の範圍に屬してゐる有樣だが、此名著には、一九以外に隱れたる作者があるといふことで、それは茲に擧げた酒井仲が其原作者だといふのである。酒井は「膝栗毛」の原作を一九に與へ、一九が之を潤色して出したものだといふ一異説で、之には餘程根據がある。
酒井の書いたものゝ中に、一九が、自分の示した稿本を見て驚き且つ喜んで、是非とも貰ひ受けて、自分の名で世に公にしたいといふから、それを諾して出版した結果、忽ち世上の大好評を得た。其禮状を、今も有つてゐるといふ一節がある。想ふに、「膝栗毛」は、單に其骨組だけを原作から借り來つたもので、其處へ、更に例の一九が奇智や能文を大いに附け加へたものではあらうが、少くとも其荒筋だけは、酒井の頭腦から産み出されたものだといふことは推測が出來る。
さて此名著の背後に潛んで、一向世間に知られて居らぬ酒井仲の素姓に就いては、聊か傳へて置きたい氣もする。酒井は幕府に有名な酒井雅樂頭の血統に屬する人。世に、抱一上人といへば、俳に於て、畫に於て、誰知らぬものもないが、此人が又酒井雅樂頭の弟に當つて居る。抱一は性來の道樂肌で、當時上流の窮屈千萬なる型を好まず、勝手に飛出しては自分の趣味を恣にし、遂に畫を學び、俳に凝つた人であつたが、酒井仲も、同じく此血統を引いて、抱一に似た性格の持主であつた。是亦華冑界の形式的な生活を好まず、卓牢不覊〔ママ〕、大いに自我を發揮して、始終花柳界に出沒し、素行は甚だ修まらぬが、併し、一種の天才で、和漢の學にも造詣あり、俳句、狂歌、皆それ〴〵に優れてゐた。殊に諧謔の才は天稟であつたが、唯身持がわるかつたため、家を飛出しては諸方を漂浪し、摑まへられては又歸つて、或は勘當、或は押籠。其の揚句が、又フラ〳〵と放浪の旅に出て行く。
斯んな始末で、彼れの足は多く諸國を遍歴した。さうして國々の民風や景勝に常に感興の眼を睜つた。此點から考へても、「膝栗毛」に現はれた彌次喜多の經歴は、ことによると、酒井仲其人のことが大部分を占めて居るのではないかとも思はれる。殊に天性諧謔の才があつたといふから、一九の狙ひさうなところを、酒井が既に先を越して書いて置いたものかも知れない。
彼れ、諱は忠輔、名を古調、俳名は俳歌堂、又卍葉ともいひ、上州伊勢崎の藩主駿河守忠温の三男と生れた名門の出で、父忠温は抱一上人の叔父に當るから、酒井は即ち抱一と從兄弟の間柄である。其放埒や我儘も、蓋し抱一に似たのでもあらうし、本人自らも、或は叔父さんに私淑したのかも知れぬが、彼れ亦畫道にも達してゐた。自分は、まだ酒井の畫を寓目する機會を得ぬが、彼れの菩提寺なる伊勢崎の同聚院には、其筆に成る蘆葉の達磨が一幅あつて、之を一見したものは、孰れも歎賞する逸品だといふことである。
渠の遍歴振
酒井が放埒を極めた揚句、勘當、押籠を喰つた頃のことであるが、其實家でも始末に困つて、嘗て宗家たる姫路へ預けたことがあつた。其の當時は、流石に酒井も世間を憚つて、假に其姓を比刀根と呼び、暫く五十人扶持を受けて居たが、持つたが病の放浪性は、此時も亦窮屈に忍び切れず、例の如く飛び出して、諸國を流浪して歩いた。此流浪中のことであるが、彼れは、如何なる縁故があつたのか、越後新發田藩の或醫者の家に當分厄介になつてゐた。
其頃恰も中元に會つたので、其醫者の家では、墓參のためか、當日一家を擧げて外出してゐた。其留守中、酒井一人が殘つてゐると、夕暮過ぎて泥醉した藩中の士が此家に來て、『道が暗いので當惑するから提灯を一つ拜借したい』と賴込んだ。酒井は諾して、其邊を捜して見たが、何分家族でないだけに、まだ勝手がよく分らず、遂に發見しないので、是非なく飾つてある精靈棚から白張提灯を持つて來て、それを貸し與へることにしたが、併し、白張では餘りに變だといふところから、當意即妙、直ちに筆を執つて一句を題した。
夜中勿レ踏レ白。 不レ水是石。
其の藩士が、翌朝酒醒めて此提灯を一見すると、いかにも簡勁で意味深い語だ。之を書くには、十分學殖ある人でなければならず、其上筆致も群を拔いて立派だ。が、併し、今我藩の醫者の家で、此位の實力ある人は無い筈である。之は不思議だと驚き且つ怪しんで、早速再び醫者の家に訪ねて來て、酒井に面して改めて禮を言ひ、『さて、貴殿は凡人ではあるまい。願はくば包まず素姓を御明し下さい』と、頻りに問はれて迷惑した酒井は、其の場は好い加減に御茶を濁して、件の藩士を歸したが、斯んなことからそろ〳〵身許が分りさうになるので、其翌日又もや新發田を出奔した。
彼れは、其後奧州を放浪中も、身を寄する所がなくて、遂には香具師竹澤某なるものゝ家に隱れ、熊の膏藥などを賣り歩いたこともある。折柄伊勢崎の相撲の一行が來合せて、不圖酒井に逢つたので大に驚き、『御身分柄にも不似合な、一體此御姿は・・・・・・』といふ樣な譯で、強ひて賴むやうにして、彼れを伊勢崎へ伴れ歸つた事もあつたといふ。其恬憺飄逸と、放縱不覊の面影は、此一話でも知ることが出來るが、彼れの狂歌としては、左の二首が殘つてゐる。
春風のさそひ出しては夜もまた軒のつまへと通ふ梅が香
世の中は兎角無慾にしろかねの人間萬事西行が猫〔銀猫の逸話〕
蓋し此時代は、殆ど日本全土を擧げて遊戲時代ともいふべき頃で、當時の華冑界から此種の人物を出したのも、敢て不思議のことではあるまい。此隱れたる「膝栗毛」の原作者酒井仲は、其好んで選んだ落拓の生涯〔ママ〕を、天保元年正月の五日に終つて、遺骸は、伊勢崎の同聚院に葬られた。
八 岸 岸駒
名詮自性
岸駒は、虎書の名人として聞えて居る。その專ら虎を書く樣になつた動機は、曾て支那人余文叔、唐啓暉と云ふに賴まれて、富士の圖を作つたことがある。その謝禮に、岸駒より特に所望して、虎一頭を貰ひ受けたのが、そも〳〵虎を畫くに趣味を感じた始めであつた。此人に虎頭館と云ふ別號のあるのは、此の記念である。
岸駒は名を駒、字は賁然、號を初め華陽と云うた。同功館、天開翁、可觀堂などの別號もある。さて名を駒と命じ、終に姓と併せて、「岸駒」と稱するに至つた其の由來に、面白い話がある。
全體此人は加賀金澤の生れで、幼名を岸乙次郞と云ひ、呉服物の上繪を書く職人岸某の子で、家に在つては、家職の上繪を書いたが、天性淨瑠璃が好きであつたのみならず、自らよく語つた所から、職人仲間の大評判となつて、太夫と崇められ、毎晩こゝかしこに招かれ、語りもし敎へもした。これが乙次郞の十八九から二十位までの事である。
或人が乙次郞の藝を惜み、大阪へ出て、よい師匠に就いて學びもしたら、相當の太夫になれるであらうと乙次郞に勸め、且つ若干の旅費を與へたので、乙次郞ひどく喜び、直ちに大阪に出て、當時大名ある淨瑠璃語は竹本駒太夫であることを聞き、さて訪ねて見れば、折あしく京都四條の劇場に出て居て、不在であつたので、態々京都まで出掛けて、駒太夫に入門を申込むだが、駒太夫は、折角の事なれど、家業を廢てゝ淨瑠璃を語るなどは宜しく無いと斷り、懇々不心得を意見した。乙次郞も已むなく思ひ止まつたが、さりとておめ〳〵と金澤へも歸り難く、且つ歸らんとしても最早旅費も盡き果てたから、足を京都に留めることに決心し、窮迫の餘り、佛光寺の經師の家に傭はれ、かねて心得のある畫筆を執り、傭主の命ずるまゝに、仕込の佛像などを描き、僅かに飢渇を免れた。
畫には天才があつたと見えて、其の畫いた佛像が、通常職工などの畫に較べて優れた所があつて、追々人に認めらるゝ樣になつた。中にも有栖川家より、特に命じて佛畫を寫さしめられた。然るに、其の畫が御意に入つて、之が身を起す基となり、遂に同宮家へ御内人として住み込み、後には近侍にまで取立てられた。さア斯うなると、遽に畫名も高くなつて來て、書かせる人も多く出で、愈〻立身して禁廷〔ママ〕の役人となり、初め越前介に任ぜられ、更に從五位下越前守に叙任せらるゝに至つた。淨瑠璃語りとならんとして失敗した乙次郞の出世も、眞に驚くべきである。
最初有栖川家に召された時は、岸駒自身職工を以て任じて居つた時であるから、雅號などは、まだ何も無かつた。然るに、宮家よりお前の號はと聞かれて流石に困却し、咄嗟に工夫も出來かねて、出鱈目に己が姓なる岸と駒太夫の首字を取り合せて、「岸駒」と答へたのが、遂に一生涯の名になつたのである。斯く由來を尋ね來れば、まことに滑稽千萬で、何人も一笑を催さざるを得ぬ。
收入主義
岸駒の素姓は、前述のごとく職人出身であるから、畫は上手でも學問の素養がなく、隨つて人格も低く、俗流には受けたが識者には常に指彈された。其の學問の素養の無かつたことは、虎を獲たからと云うて虎頭館と云ふ號をつけたり、何の事かわからぬ天開翁など云ふ俗な號を命じ、獨りよがりしたのでもわかる。
斯く素養のない人が俄に地位を得、且つ畫も行はれて、潤筆も多く入つたものであるから、此の俄成金、盛んに邸宅を築き、室内などは目も眩ゆき程の裝飾をやつて、己れは常に金襴の座蒲團に坐つて、如何なる人にも座を下ることをせず、應接の言語も傲慢で、常に從五位下越前守を鼻にかけた。
畫は沈南蘋に倣うて、自ら一家をなし、一時大いに持囃された。併し、其の人格の低級なることが、どこまでもつき纒うて、此人の潤筆は非常に高いと評判された。曾て東寺より賴まれ、本堂に蟠龍を畫いた時などは、畫料二百兩を申受けたいと云うた。當時二百兩と云ふ金は實に大金で、何人も此の破格の相場に一驚を喫した位で、此の頃和歌を以て名高かつた賀茂季鷹が之を聞き、狂歌を詠じて嘲弄した爲に、流石の岸駒も自ら安んぜず、二百兩の内百兩を寺へ寄附したが、併し、百兩の潤筆でもまだ高いと評判された。
岸駒は常に尊大に構へて、内實は收入を多くすることに腐心した。人より畫を託さるゝ時は、絹や紙を持參してもそれを斥け、そんな麁末なものには書けぬと云うて、必ず自分の家にあるものを用ゐた。それのみならず、畫の表裝まで、己が出入の表具屋にやらせるで無ければ承知しなかつた。且つ表裝切のごときは、特に自分の號の同功館の三字を織り込ませた雲形の緞子を表具に用ゐしめた。
斯樣なことは畫家の一見識と見られないでもないが、表具の受負〔ママ〕まで自分で遣つて、麁質の絹や表裝切や表具代を實費よりも高くかけて拂はせ、さなきだに高い潤筆の上に、尚是等からも刎を取つたと云ふに至つては、岸駒の人格の程も知られて、嘔吐を催さゞるを得ぬ。
岸駒は、虎を畫くに殊に多くの畫料を貪つた。ある富豪が多くの謝金を贈つて、虎の畫の依賴に及んだ。岸駒も謝金の多きを喜び、早速其囑に應じたが、此の依賴した富豪はかねてより岸駒の貪慾を嫌うて居つたもので、此畫を依賴するにも、實は内々趣向があつての事である。されば畫の成ると共に態と大いに滿足し、さて御慰勞のためと云うて某酒樓に大宴會を張り、岸駒を招き、且つ四五の友人をも招いた。當日岸駒は、二三の門人をも連れて席に臨むだ。酒酣なるに及んで、主人頗る酩酊の體で、俄に衣服を脱し、眞裸になつて躍り出した。さて其の腰邊に着けた犢鼻褌は、即ち岸駒の書いた虎であつて、それがあり〳〵と見えるので、流石の岸駒も座にえ堪へず、赤面して退いたと云ふ。併し、岸駒は此の諷刺に一向頓着なく、其の後は虎を畫くに益〻畫料を上げた。
岸駒は、識者の間には喜ばれず、見識ある當時の文人は俗畫師と呼むで、之に齒するを快しとしなかつた。ある時、岸駒の書いた竹の圖を携へて、賴山陽に贊を依賴したものがあつた。山陽は、その畫を見るまでもなく、眞平御免と謝絶したが、いろいろと請うて聽かないから、山陽も斷りかねて、試みに畫を展べて見ると、筆數が如何にも少く、頗る掬すべき趣があるので、内心畫の妙を感じたけれども、贊を書くことを躊躇した。併し、山陽も一代の才人、己が見識を害せず、依賴者の望みに添ふの工夫を咄嗟に得て、さら〳〵と七絶一首を題して還した。此幅は曾て自分の懇意の家に在つて、度々見たことがあるが、奉書大の紙本の横物で、如何にも竹がよく出來て居る。詩は忘れたが、其意は「これは俺が書齋の竹だ、いつの間にか俗畫師が偸み見て書居つた」と云ふのである。山陽が自分の家の竹だと云ふからには、其風趣の妙に打たれたに相違ない。併し、自家の地歩を保つ爲に、岸駒を俗畫師と呼び、又偸み見たなどと罵倒して居る。
いや大きに
岸駒も京都で大名を博したので、遂に生國加賀の前田侯の耳に入り、領内の一職工の身分で、畫界の大家となつたと云ふは甚だ奇特である。一たびは會つても見たいものと言ひ出され、岸駒も喜むで之に應じたが、さて錦を衣て初めて故郷に歸るわけであるから、衒気滿々たる岸駒の潤美は強勢なもので、駕籠を新調するやら、鎗を製するやら、大騷ぎで、愈〻出發となると、恰も諸侯の道中のごとく、駕籠の前後には四人の門生扈從し、鎗、挾み箱を持つもの數人附き從ひ、出入商人等の見送るもの百人にも及び、威儀堂々と京都を發した。當時岸駒と交はつた文人の内でも、景文や豐彦などは、送らぬのも義理を缺く樣だと送ることにしたが、さて行列を見ると如何にも仰々しいので、いや氣がさし、わざと行列を外して、少しく後れて蹴上まで行つたときに、門人どもも氣がつき、駕籠の中にある岸駒に密に耳打ちして『京から諸先生も送つて來られたから、挨拶されねばなりますまい。此邊で禮を陳べられ、これより先の見送を辭退されては』と云ふを、岸駒も如何にもと駕籠を駐めさせ、普通なれば駕籠より出でて、後れて來る人々を待つべきであるに、さはせず、やはり駕中に坐して、傲然待つて居ると、後れた面々漸く來り、駕籠に近づくを機會に戸をサツと明けて、宛がら家人にでも挨拶する如く、『いや大きに』と僅かに頭を下げたのみで、他に一語をも發せず、其儘戸をぴつしやり締め、直ちに輿丁を叱喝して舁ぎ出させたのには、景文や豐彦も呆れて、物も言はれなかつたと云ふ。
岸駒は、天保九年、九十の高齡で歿した。岸岸岱、岸竹堂などが其遺鉢〔ママ〕を繼いだことは、誰も知る通である。「畫乘要略」を著はした越後の白井華陽も、岸駒の門人である。其の華陽と云ふのは、師より讓られた號である。
九 蓮月尼
美少年の同居人
京都丸太町の閑雅なほとりに、庵染みた店附きの一棟を構へ、店には幾つかの手製の陶器を竝べて、之を賣つて生業として居る。表は店になつて居るが、其の横手には蔦蔓のからんだ風流な柴の門がある。之を推して内に入れば小庭があり、青苔滑かに、清楚なる茶室めきたる室があつて、なか〳〵掬すべき雅致ある住ひ。
勿論小庵室ではあるが、住む人とては一人二人故、敢て狹しといふでもない。此家の主こそは、當時京都切つての美人で、頭は圓めた尼姿ながら、人目を聳てしむるに餘りある美婦人。而も其のしとやかな、どこまでも優しい、女らしく出來て居る、品の高い相好に、どんな人の成れの果てかと、誰しも心を惹かれて、怪しみ佇まらぬはない。殊に時としては、此店に女にして見まほしき美少年が坐つて、客に茶をすゝめ、又は物を選り分けて客に商ふ手傳ひまで、何くれとなく落ちなき心遣ひをして居る。美婦人に對照して此美男子もいたく人目を惹いて、評判は次第に高く、一體あれは何者だらうと、噂とり〴〵であつた。
此の婦人こそ、其作品と共に其名を後の世までも傳へた、京都名題〔ママ〕の蓮月尼である。又此美少年は、今日京都中の耆宿として、已に八十以上の高齡を保ち、南宋派の泰斗と仰がれて居る富岡鐵齋の靑年姿であつた。鐵齋が、どういふ因縁で蓮月尼の家に起臥したかは判然しないが、此尼に師事して、國學や和歌を學むだことは確である。
鐵齋が此婦人に得た所のものは、國學と和歌のみではない。更に大なるものを得た、即ち高潔なる人格である。元來京都文人は品性が餘り高く無い。多くの文人は金錢に不淡泊で、ともすると醜聞を聞くが、獨り鐵齋のみは人格高く、品性は皎潔で、京都文人中鏘々たるものである。これは、多分其の少年時に蓮月尼に師事して、深く感化を受けた結果であらう。
當時、美女美男が同棲したと聞いては、此間單に異性の師弟關係以上に因縁があつたではないかと疑はれる樣なものゝ、其實、兩人の年齡の差は甚だしく距離があつたから、之を情愛關係と見るは甚だ當を得ない事である。但し、斯かる美男美女が同棲した事とて、口さがなき世間の噂は高まり、燒餅半分に種々と評判をし、内情を知らぬ者は、誠によく似合つた一對であると囃し、果は尼に向つて、彼の美少年を養子になされてはなどと、世話を燒く者もあつたが、蓮月尼は唯清らかに笑つて、聞き流したといふ。
はしがき
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