- 一、狩谷棭齋の「轉注説」を「日本古典全集」に收録する次いでに、説文學上「轉注」に關する古來の學説の大要を記述し、併せて棭齋の「轉注説」が如何なる位地を占むるものなるかを一言して置かう。猶その前に支那の字原及び説文學に就て少しく述べたい。
- 一、抑も有史以前の支那に於て、言語の外に他物を假りて思想表現の用を爲したるものに八卦と結繩とが有り、次いで文字が有る。文字の制作に就ては、周の荀子(西曆紀元前二八〇年頃の人)が「有レ言好レ書者衆矣、而倉頡獨傳者壹也」と述べてゐるから、倉頡の前後にも文字に類した記號を制作した者が幾人か存在したと推定されるのであるが、倉頡の制作したものが獨り能く普及する長所を具へて居たのであらう。倉頡は黄帝(軒轅氏)の史臣とも伏犧氏(包犧氏)の臣とも云はれる。何れにしても四千年以前の人である。
- 一、倉頡等の初めて制作したるものは、點畫を用ひた「指事」の記號と、物の形象に據つた「象形」の記號とであり、之を「文」と稱した。次いで「文」のみにしては足らざるが爲めに、二文または三文四文を合せて制作したるものが「會意」、「形聲」の兩記號であり、之を「字」と稱した。さうして是等の「文字」の、口に言ふを「名」と稱し、竹帛金石に記るすを「書」と稱した。
- 一、斯くして支那の文字は制作の端を開いたが、爾來五帝(黄帝、顓頊、帝嚳、唐堯、虞舜)より三王(夏の禹王、商の湯王、周の文王)に至る七十二代の久しき間、時と人とを異にして幾度か改易せられたが爲めに雜多の異體を生ずるに至つた。後世此間の異體の文字を總稱して「古文」と云ふのである。次に周の宣王の時、太史の籀が「古文」の異體を整齊統一して「篆文」十五篇を作つた。之を後の「小篆」に對して「大篆」と云ひ、また「籀文」、「籀書」、「籀篇」とも云ふのであるが、字體は「古文」より出でて或ものは同じく、或ものは異つてゐる。整齊されたとは云へ多岐重疊して繁複の煩に堪へないものである。下つて春秋戰國に至れば諸侯力征の際に、諸方の言語、聲を異にし、之を記する所の文に「古文」、「籀文」、猶錯綜して行れ、人をしてその不便を痛切に感ぜしめた。當時孔子(前五五一「周の靈王廿一年」—前四七九「周の敬王四十一年」)が「必也正レ名乎」と云つたのは、文字の未だ統一されずして加ふるに譌文俗字の雜糅すること既に漸く多きを歎いたのであらう。次いで秦の始皇(前二五九─前二一〇)の時、丞相李斯(─前二〇八「秦二世皇帝二年」)が帝に奏して秦の文字と合せざるものを罷めしめ、趙高、胡母敬二人と議つて、「古文」、「籀文」及び諸國の異體文字を改刪修齊し、且つ多少の新字を増加して天下同文の制を創めた。此文字を「籀文」の「大篆」に對して「小篆」と稱するのである。然るに此「小篆」もまた閒人遊玩の文字にして、官獄繁く興り軍書交も馳する世情の變化に適せざるが故に、遽かに廣く行れるに至らず、此に於て「隸書」の一體を生じた。「隸書」は秦の下杜の人程邈が、罪を得て獄に在る間、篆體の煩冗にして倉卒に書し難きを思ひ、「大篆」を増減し、その繁複を除き、十年の工夫を費して之を制したのであるが、始皇は此字體を嘉して、先づ之を刑獄に行はしめた。即ち「隸書」の稱は徒隸の書の義である。また「隸書」を「左書」とも稱するは、「左」は古の「佐」字にして、其法簡捷、能く「篆文」を佐けて便宜の用を爲すを云ふのである。然るに此「隸書」もまた秦代に於ては廣く行るるに至らず、當時は僅かに之を用ひて刑獄を治むるに止まり、一般は「大篆」と「小篆」とを幷用した。「隸書」が普及するに至つたのは漢の武帝(一五七「文帝後元七年」─前八七「後元二年」)以後の事である。また秦の末に及んで「隸書」を簡約變省したる一體を生じ、之を「草書」と稱した。當時の諸侯、兵を構へて事多く、簡檄相傳へ、烽を望んで馳驅するに當り、篆隸の文を以てしては敏速を期する能はず、纔かに「隸書」の梗概を存して其規矩を損し、之を筆力の奔逸に任せて麁書し、以て草創の用を便じた。盖し草創の義に由つて「草書」の稱を得たのである。後にまた此書體を以て臺閣の章奏に用ひたるが故に「章草」の稱をも得た。而して今日に謂ふ所の「草書」は更にその「章草」より出でて、後世書道の名流の輩出に從ひ幾多の變化を經たるものである。即ち前の「草書」は「隸書」の變容であるが、後の「草書」は「章草」の變容である。次いでまた魏晉の時代に同じく「隸書」を簡約變省したる「眞書」の一體を生じ、之が六朝に入つて盛んに行れ、延いて後世幾多の變化を經つつ、猶今日に及んでゐる。人の知る如く「眞書」には「正書」、「楷書」等の稱が有る。もと唐以前に於ては「隸書」を「眞書」と稱したのであるが、「隸書」の簡約變省なるが故に「楷書」の名にも推移したのである。此「眞書」の簡約變省は久しき慣用の間に一定の法を備へ、之を識ると書くと併せて容易なるに至つた。例へば「水」の扁を悉く「氵」と作し、「手」の扁を悉く「扌」と作したるが如きである。然も簡約變省の過ぎたるものは造字の據る所の異るものをも之を混淆して、譌文俗字と擇ぶ無きに至らしめた。例へば「奉」、「泰」、「奏」、「春」の諸字、各その字源を異にするに關らず、皆約して「〓{春の頭}」に作り、「鳥」、「魚」、「馬」、「然」の諸字、また各その形體を異にするに關らず、皆約して「灬」に作るが如きである。されば後世文字の正しきを尋ねようとする者は、必ず先づ「隸書」の古に準ぜねばならぬ。「隸書」もまた流傳の間に本眞を失つてゐるから、更に「古文」及び「籀文」に遡らねばならぬ。然るに此二文もまた詭變の跡多く、殊に「古文」と「籀文」とは今に傳ふる所の字類極めて少なきが爲めに、「説文學」及び宋代に至つて興る所の「金石學」と相待つて、初めて討究の法を得るのである。最後にまた「行書」と稱する一體が有る。是れは未だ何れの時代に生じたかを知らぬが、恐らくはまた漢魏の際であらう。「宣和書譜」は「隸法地を掃うてより、眞は拘に幾く、草は放に幾し。兩者の間に介するもの行書あり」(原漢文)と云つてゐる。晉の王羲之(三二一─三七九)の「蘭亭集序」に之を書して以來廣く世に行れ、「眞書」に比ぶれば簡率、殊に「草書」の如き放縦難解の弊無きを以て、大概の文書は現に之を用ひてゐる。
- 一、以上は支那の文字の制作と字體の分化とに就て概叙したが、此外に猶「八分書」、略して「八分」と稱する字體が有り、早く漢の蔡邕に由つて用ひられてゐる。古來「八分」の稱に就いて多く異説を見るのであるが、蔡邕の子蔡琰(*さいえん)が父の言として述べた所に由れば、蔡邕は「八分」を解して「程邈の隸書八分を割いて二分を取り、李斯の小篆二分を割いて八分を取る」と云つた相である。淸の姚鼐(*ようだい)は之を敷衍して、「蔡邕、世俗の隸書の苟簡謬誤を嫌ひ、之を正すに六書の義を以てし、篆隸の間に取る。是れを八分と謂ふ。蓋し爭ふ所は筆畫の繁簡得失の殊なるに在つて、體勢波磔の辨に在らず。其の之を八分と謂ふは、隸の體勢、盡く篆理に合すべからざるが爲めに、略其十の七八を用ふるのみ」(原漢文)と云つてゐる。恐らく之が「八分」の眞義であらう。即ち「八分」は字形の正確を主とした「隸書」の一種であつて、「古文」、「大篆」、「小篆」、「隸書」、「草書」、「眞書」、「行書」の七體の外に別に一體の目を立つべきでは無い。
- 一、さて後漢の安帝(−一二六)頃に於て、許愼の「説文解字」十五篇が著された。是れは實に支那に於ける文字の全般に渉り、その字原の討究解説を企てたる最初のもので、著者の博學篤文なる、商周鐘鼎の遺文、其他あらゆる古文と籀篇とに攷へて能く九千餘字の解説を遺したが、爾來茲に一千八百餘年、世に字原の學を稱するに「説文」の名を以てし、斯學に從ふ者、皆長く許愼を始祖とするのである。
- 一、然るに許愼の後、魏晉、六朝を經て唐に及ぶも、文學の隆運に壓倒せられて、經學の萎菲と共に説文學もまた久しく振はず、「玉篇」を著したる梁の顧野王、晉の郭璞、衞恒、釋希麟、釋可洪、唐の賈公彦、孫愐、裴務齊、釋慧苑、釋玄應、釋慧琳、顏師古の如き、字原または字音、字義に關して編述する所あるも言簡にし意疎く、南唐の徐鍇出でて「説文繫傳」を著し許愼を祖述するに及んで、其説は概ね牽強ながら、説文學は之が爲めに復興の機運を開き、宋初に入つて徐鍇の兄徐鉉の徒が許愼の「説文解字」を校訂する有り、また宋代に於ては「通志略」を著せる鄭樵、「韻略」を著せる毛晃、「復古編」を著せる張有、「重修廣韵」を著したる陳彭年、「類篇」を著したる司馬光、「切韻指掌圖」(舊説は司馬光の著としたが、今は淸の雛伯奇の説に從ふ)を著したる楊中修、其他郭忠恕、李壽、刑昺、陸佃、羅願、毛居正、婁機、賈昌朝、楊伯嵒、丁度、呉棫、洪适、劉球、翟耆年、夏竦、歐陽修、趙明誠、王楚、呂大臨、薛尚功、王球、王復齋、王黼、章樵等の諸家、或は説文學上に競うて新説を立て、或は韵書を編修し、或は金石古文、金石古器、鐘鼎款識等の蒐集と考證とに從ふ有り、次いで元代には、「六書故」を著せる戴侗、「六書正譌」、「説文字原」を著せる周伯琦、「六書統」を著せる楊桓、「古今韻會」を著せる熊忠、「周秦刻石釋音」を著せる吾丘衍、「字鑑」を著せる李文仲、其他劉泰等の字原音義の學者、概ね宋學の故轍を蹈襲し、明代には「説文長箋」、「六書長箋」を著したる趙宦光、「埤雅廣要」を著したる朱衷、「急就篇補注」を著したる王應麟、「六書精蘊」、「音釋」を著したる魏校、「六書音義」を著したる趙古則、「六書總要」を著したる呉天滿、「字考」を著したる夏宏、「古俗字略」を著したる陳士元、「同文備考」を著したる王應電、「篆林肆攷」を著したる鄭大郁、「六書攷」を著したる王圻、「毛詩古音攷」、「屈宋古音義」を著したる陳第、「陳注古音略」、「奇字韵」を著したる楊愼、其他、趙撝謙、宋廉、余象斗、梅膺祚、袁鳴泰、呂維祺、李登、方以智等の諸家あり、また概ね宋學に準據するのみであつたが、淸代に入つて學風一變し、宋學衰へて漢學の古に復し、經史を講ずるに程朱性理の説を閣いて許鄭訓詁の學に專ら攷據を求むるに至つて、説文字原の學もまた從つて大に隆興した。即ち淸の乾隆の初めに「音論」、「詩本音」、「易音」、「唐韵正」、「古音表」、「韵補正」等を撰したる顧炎武、「説文廣義」を著したる王夫之の二家之が先聲を成し、次いで嘉慶、道光の間に亘つて、「古韵標準」、「音學辨微」、「四聲切韵表」等の著者江永、「説文字原考略」、「説文偏旁考」の著者呉照、「六書韻徴」の著者安吉、「惠氏讀説文記」、「九經古義」の著者惠棟、「説文答問」の著者大昕、「王氏讀説文記」、「廣雅疏證」の著者王念孫、「説文解字註」、「經韵樓集」、「汲古閣説文訂」の著者段玉裁、「方言疏書」、「六書諭」等の著者戴震、「校正方言」、「經典釋文考證」の著者盧文弨、及び王鳴盛の諸家を出だしたが、就中段氏は質實の學風を以て專ら許愼の古説を祖述したる爲めに、徐諧(*徐鍇カ)以來好んで新説を立てた宋元明人が屢許愼の説と牴牾する所あるを免れなかつたのに比べて頗る異色を示した。許愼の學統より云へば段氏は明かに中興の祖であり、爾來説文に指を染むる者多く段氏に據るのであるが、今日より見れば段氏の保守説必ずしも悉く是ならず、宋元明人の新説必ずしも悉く非ならずと思はれる。段氏の後に「説文解字義證」(未脱稿本)、「札朴」、「晩學集」、「繆篆分韵」の著者桂馥、「説文解字校録」、「説文新附攷」、「段氏説文註」の著者鈕樹玉、「説文拈字」の著者王玉樹、「説文釋例」、「説文繫傳校録」、「説文韻譜攷」、「説文句讀」、「蛾術篇」、「臆説」、「文字蒙求」、「説文新附考校正」、「正字略定本」等の著者王筠、「説文訂訂」、「説文聲類」、「説文校義」等の著者嚴可均、「説文聲系」、「古音諧」の著者姚文田、「校勘記」、「説文聲讀表」、「説文聲訂」、「毛詩韻訂」等の著者苗虁、「説文引經例辨」、「説文外篇」、「韻府鉤沈」の著者雷浚、「説文答問疏證」、「文選古字通疏證」の著者薛傳均等の諸家出で、中にも王筠の學は鐘鼎の古文を參照して、其攷證は未だ精覈を盡さずとは云へ、肯綮に中る解説が多い。其れより道光、咸豐、同治を經て淸末の光緖に至るまで八九十年の間、説文韵書の學は金石鐘鼎の學と待つて愈盛んに、學者林の如く、著撰もまた空前の大數に上つてゐる。自分は今茲に年代の前後を撿索する時を持たないから、知る限りの著者と書目とを順序無く擧ぐれば、朱駿聲の「説文通訓定聲」、「同補遺」、「古今韻準」、「六書假借經徴」、「説雅」、「小爾雅約注」、呉善述の「六書約言」、曹仁虎の「轉注古義考」、江聲の「六書説」、「尚書集注音疏」、王憲の「説文繫傳攷異」、王紹蘭の「説文段注訂補」、許巽行の「説文分韻易知録」、鄭珍の「汗簡箋正」、「説文新附攷」、「説文逸字」、莫友芝の「説文木部箋異」、錢大昭の「説文徐氏新補新附攷」、「説文統釋序注」、許溎祥の「説文徐氏未祥説(*未詳説)」、李楨の「説文逸字辨證」、王廷鼎の「説文佚字輯説」、「字義鏡新」、許棫の「讀説文雜識」、承培元の「説文引經例證」、「廣説文答問」、毛際盛の「説文述誼」、王煦の「説文五翼」、胡秉虔の「説文管見」、「古韻諭」、許槤の「讀説文記」、張行孚の「説文揭原」、「説文發疑」、「説文審音」、朱子端の「説文校訂本」、呉楚の「説文指染」、鄭知同の「説文本經答問」、高翔麟の「説文經傳異字釋」、呉錦章の「六書類纂」、王宗誠の「説文義例」、蔣和の「説文字原集注」、江沅の「説文釋例」、「説文音韵表」、胡重の「説文字原均表」、杭世駿の「續方言」、程際盛の「續方言補正」、邵晉涵の「爾雅正義」、孫星衍の「續古文苑」、「蒼頡篇」、兪樾の「古書疑義擧例」、「兒笘録」、陳建侯の「説文提要」、千傅の「説文職墨」、呉玉搢の「説文引經攷」、「別雅」、柳榮宗の「説文引經攷異」、陳瑑の「説文擧例」、「説文引經攷」、陳立の「説文諧聲孳生述」、李富孫の「説文辨字正俗」、畢沅の「説文解字舊音」、「釋名疏證」、「補釋名」、「續釋名」、「經典文字辨證」、「音同義異辨」、「秦漢瓦當圖」、王子昌の「學古堂日記」、孫詒讓の「周書斠補」、「札迻」、「古籀拾遺」、郭慶潘の「説文經字正誼」、楊廷瑞の「説文經斠」、張成孫の「説文諧聲譜」、鄧廷楨の「説文雙聲疊韻」、劉熈載の「四音定切」、「説文雙聲」、「説文疊韻」、鄭知同の「六書淺説」、傅雲龍の「説文古語考補正」、沈濤の「説文古本考」、洪亮吉の「六書轉注録」、「漢魏音」、「比雅」、毛謨の「説文撿字」、陳壽祺の「説文經字考」、馬壽齡の「説文段注撰要」、黎永椿の「説文通檢」、孔廣居の「説文疑疑」、馮桂芬の「説文部首歌」、萬光泰の「説文凝錦録」、顧廣圻の「説文辨疑」、陳詩廷の「讀説文證疑」、孫濟世の「説文説」、潘奕雋の「説文蠡箋」、任大椿の「字林考逸」、「小學鉤沈」、顧震福の「小學鉤沈續篇」、毛先舒の「聲韵叢説」、「韵問」、李因篤の「古今韻攷」、江昱の「韻岐」、孔廣森の「詩聲類」、翟灝の「爾雅補郭」、錢坫の「説文解字斠(*原文斗が邑)詮」、「爾雅古義」、
轉注説
六書の説指事象形會意形聲假借の五は古人の説く所略異説無し。轉注の一つ人〻同じからずして聚り訟るが如し。【説文序に考老是也とあれども、老は从人毛匕三體會意の字、考は从老省丂聲なれば、形聲字なるヿ各字の下に釋したれば、序に云ふ所と合はざるによりて説〻の生ぜしなり。】今攷るに其説皆據るべからず。愚謂らく、轉注の義を説んには先づ説文の序に後人の羼入あるを沙汰し刪り去て許慎の舊に復するに非れば其正義を得るヿ能はず。其羼入せし文は「一曰指事」の下なる「指レ事者、視而可レ識、察而可レ見、上下是也」と云ふ十五字、また「二曰象形」の下、「三曰形聲」の下、「四曰會意」の下、「五曰轉注」の下、「六曰假借」の下なる十五字、皆皆後人の羼入なり。是れを羼入と知る故は、後魏書の江式が傳に、其著せる「論書表」を載せて、歷代の書の沿革を論ぜしに、庖犧氏の八卦を畫し神農氏の繩を結び、倉頡が初めて書契を作りしより、漢の代に至るまでのことは、皆説文の序と全く同じくして、一も増減すること無く、次序も改むること無ければ、説文の序に依りしこと知るべし。然るに「論書表」には「周禮八歳入二小學一、保氏敎二國子一、先以二六書一、一曰指事、二曰象形、三曰諧聲、四曰會意、後曰轉注、六曰假借云云」とありて、所謂十五字は皆有ること無し。是れ江式が見たりし説文の序には、いまだ後人の羼入無かりしを證すべし。又序の後の文に「漢興有二艸書尉律一」とある艸書の二字、又王莽が時の六體の書を云ひし「三曰篆書、即小篆」の下なる「秦始皇帝使下杜人程邈所レ作也」と云ふ十三字も、「論書表」には無し。艸書のこと、序中前後に云はざるを、ここに突然と云ふべきに非ず。小篆は序の前文に、李斯が作りたることを云ひたれば、此に至りて「程邈所レ作也」と云ふべきに非ず。然れば、是等も江式が見たりし本には無くて正しかりしを、後人の羼入したるなり。(段玉裁は、「秦始皇帝云云」の十三字を、後の「四曰佐書、即秦隸書」と云ふ下にありしが錯亂したるなりと云へり。然れども、「一曰古文」の下には「孔子壁中書也」と云ひ、「二曰奇字」の下には「即古文而異者也」と云ひ、「三曰篆書」の下には「即小篆」と云ひ、「四曰佐書」の下には「即秦隸書」と云ひ、「五曰繆篆」の下には「所以摹印也」と云ひ、「六曰鳥蟲書」の下には「所以書幡信也」と云ひて、文勢も能く調ひ、理も明かに聞えたるに、獨り篆書の下、又は佐書の下に此十三字あるべきに非ず。篆書の下にあるべからざるは上に云へり。佐書の下にあらば、其説誤らざるに似たれども、若し程邈が隸書を作りしことを云はんとならば、前の秦書八體の「八曰隸書」とある所に云ふべきに、そこには云はずして、爰に至りて始めて云はんことも理無し。)是を何によりて羼入したらんと思ひしに、「上下是也、日月是也、江河是也、武信是也、考老是也、令長是也」と云ふこと、「漢興有艸書」と云ふこと、「下杜人程邈爲二衙吏一得レ罪、始皇幽二繫雲陽一十年、從二獄中一作二大篆一、少者増益、多者損減、方者使員、員者使方、奏二之始皇一、始皇善レ之、出爲二御史一、使レ定レ書」と云ふこと、皆晉書衞恒が傳に載せし「四體書勢」に出でたり。然らば此羼入は、後人「四體書勢」に由りて書き加へしものなり。又「指レ事者、視而可レ識、察而可レ見云云」の語は、顏師古も此の如く云ひて「漢書藝文」を注せり。(漢書注には「察而見意」とあり。識と意と韻を押したるにて、「可見」と云ひては韻合はざれば、説文の序は決して誤りしものなり。)若し説文序に此文あらば、顏師古必ず之れを引くべきに、出典を云はざれば、顏氏が見たりし説文には此等の文無かりしと思はるれば、是れも後人の羼入なること知るべし。(但し此六書を説きたる語、何に出でたるか。顏師古も此説を用ひ廣韻の卷末にも載せたれば、唐宋の間專行はれし説と見えたり。)然らば轉注を「考老是也」と云ひしは衞恒が謬説にて、「視而可レ識、察而可レ見等」の語も許愼が言にあらず。如此く改正して、考老の説、建顯一首、同意相受の語を刪らば、六書の義始めて説くことを得べし。それ六書とは、古書を讀み解かんにも、今文を書き綴らんにも、此六法に通ぜざれば手を措く能はず。故に保氏をして之れを敎へしむるなり。其六は事を指し示したる上下の類は指事なり。物の形を象りたる日月の類は象形なり。此二つを文と云ふ。又其物の文に从ひて、名に呼ぶ聲の文を添へたる江河の類は形聲なり。二文を合せて義をなしたる武信の類は會意なり。此二つを字と云ふ。(對文なれば其別かくの如し。散文には文をも通じて字とも云ふ。)説文は、此四つの本義を釋したる書なるにより「説文解字」と云へり。文と字とを説解せしと云ふ名なり。(今説文と云ふは省きて便に從ひしなり。)此文と字とを使ひ用ふるに、其本義を用ふるものあり、義を轉じて用ふるものあり、聲を借り用ふるものあり。本義は説文に釋せし義、是れなり。義の轉ずるものは、譬へば「令は發號也、从亼卩(會意の字なり)とあるが本義にて、法令の字なるを、法令を出だして民を法令の如くならしむるより轉じて、使令するを總て「令」(平聲)と云ひ、法令は吏長の民に命ずる故に、轉じて其命ずる吏を令と云ふ。(縣令など是れなり。)又「長」は「久遠也、从兀从匕、兀者高遠意也、久則變、匕亡聲、兦(*原文兦字を上下反転した字形)者倒亡也」會意にして、又諧聲の字なり)とあるが本義にて、遠長の字なるを、轉じて物の長短の字とし、又轉じて長(上聲)幼の字とし、又凡人に勝れたる人を長者と云ひ、(佛典に財に富める人を長者と云ふも、其意全く同じ)又轉じて主領たる者を長と云ふ。此の如き類を轉注と云ふ。(轉は車輪の運るが本義にて、凡そ物の移るをも轉と云ふ。譬へば、左にあるものを右に移し、上なるものを下におろせば、物は即ち其物ながら、用を異にするを云ふ。注は「灌也」と釋し、滴字を「水注也」とも解して、水の甲より乙に流し注ぐが本義なり。山の水の注して谷水となり、谷水の注して川水となり、川水の注して海水となるが如く、物は其物ながら、名を異にするを云ふ。轉注は轉運灌注の義にて、文字の本義をめぐらし使ふを云ふなり。又灌注の義、轉じて書の解しがたきを釋するを注と云ふ。難義を解きて流注せしむる故の名なり。戴震は此義によりて、轉注を互訓とせり。段玉裁此説に從ひたれども、許宗彦が鑑止水齋文集の轉注説に是を破りて、東漢以前古書を釋するをば解と云ひ、説と云ひ、傳と云ひ、故と云ひ、章句と云ひ、解故と云ひ、説義と云ひて、注と云へること無し。鄭玄始めて箋注(*毛詩箋注)の名ありて後、多く注と云へり。かく東漢に始まりし注の義を以て、古より有る轉注の注に當てんとするは篤論(*着実で行き届いた議論)にあらずと云へり。是論覈實、從ふ可し。)しからば、衞恒が假借の例に出だしたる、「令」、「長」の二字は、倶に假借にはあらで、轉注なり。(轉注の例に出だしし考は形聲字、老は會意字なること、上に云へり。)又聲を借り用ふるものは、其字無きによりて、其物の名と同音なる文字を、何の文字にもあれ、借り用ふるを云ふ。譬へば、之は「出也」と訓じ、(艸の地より出づるなり)「焉」は鳥名、「也」は女陰なるを、音の同じければ皆借りて語辭とするの類を假借と云ふ。(皇國にて、西土の文字の音を借りて皇國語を書くを「かな」と云ふ。全く是れと同じ。「か」は「假」なり。「な」は「名」にて、即ち字と云ふ事なり。古「かりな」と云ひけんを音便に「かんな」と云ひ、後に省きて「かな」と云ふなれば「かな」とは、即ち假借文字と云ふことなり。)この轉注、假借の二つは、文字を使ひ用ふる法なり。文と字との本義のみにては用を成すこと能はざるにより、轉注して本義を活用し、文字無きをば同音の文字の假借して之れに充て、用を成すことを得。故に文字ありと雖も、此に法無ければ語言を成すこと能はず。此に法を以て文字を使用すれば、事として辨ずべからざるは無し。故に文二つ、字二つに此二つを併せて六書とは云ふなり。この六法備はらざれば、文字を使用し意を達すること能はざれば、此理は誰も誰も知るべき事なれども、かく云ひては「轉注者、建類一首、同意相受、考老是也」と云ふ義に乖くを以て、ここに思ひ寄らざりしなり。故に六書の義を定めんには、必ず先づ説文の序に羼入せし謬説を刪りて、許氏の舊に復するに非れば其正義を得ること能はずとは云へるなり。
明以上の諸家、六書を説きし轉注の説皆非なることは、今論ずるに及ばず。(趙官光が六書長箋、戴震が東原文集、曹仁虎が轉注古義考等に詳に論じたり。)淸に至りて學問精密を極めたれども、此轉注に至りては未だ善説を得ず。(戴震は「老考也、考老也」と訓ずるによりて、互訓の説を立て、唐仁虎(*曹仁虎の誤り)、許宗彦は「建類一首、同意相受」の語によりて説をなせり。皆後人羼入の文によりて興したる説なれば云ふに足らず。上に云ひし如く、指事、象形、形聲、會意の四つは、造字の本、轉注假借の二つは、使用の法なれば、一をも闕くべからざれば六書と定めしなり。この人人の考へし轉注は、造字の本にもあらず、使用の法にもあらず、其説に從はずして五書とせんも、文字の使用するに足らざること無ければ、必ず然らざること明らけし。)ただ江永が「本義外、展轉引伸、爲二他義一或變レ音、或不レ變レ音、皆爲二轉注一、其無レ義而但借二其音一、或相近之音、別爲二假借一」と云ひたる、(戴震答江永論小學書の中に引けり)暗に愚説と合へり。然れども説文序羼入の事を云はず。いまだ江永が書の全文を見ざれば、極め言ひ難けれども、若し羼入を刪る説あらば、戴氏が答書之れが可否を辨ぜざる可らざるに、其事無きを見れば、江氏の説此に及ばざりしならん。説文の序の「建類一首、同意相受、考老是也」とあるを許愼が言とすれば、江氏が説之れに合はず。戴氏が其説に從はざりしは、この故なるべし。然らば江氏が説も偶中にて、覈説にはあらず。
許宗彦は、指事、象形、形聲、會意、皆指二造字之始一言レ之、則假借、轉注、亦出レ於二造字之始一可レ知也。或分レ事形聲意爲レ體、假借轉注爲レ用者、非也」と云ひたれども、六書と云ふ名は文字も備はり、それを使ひ用ひて文章をなすことを敎ふるに至りて設けしものなり、倉頡が時出來しにはあらず。周禮に保氏が國子に敎ふる目に出でたり。(書勢に、黄帝始作二書契一、字有二六義一、玉編表に庖犧始成二八卦一、倉頡肇創二六文一とあれば、倉頡の時この目ありし如くなれども、後よりめぐらし云へるものにして、其實は周禮に始めて見えたるなり。)周の代、文字行はるる時に至りて學ばんには、先づ文字の本義を知るべく、文字の本義を知らんには、其字の指事なるや、象形なるや、形聲なるや、會意なるやを辨へ、さて夫れを使用する法を學ばざれば、文章をなすこと能はざるにより、轉注、假借の二つをも學びしなり。其實は指事、象形、形聲、會意等を分かつことは知らずとも、文字の本義を知り、それを轉じて使ひ、又無き字は假借することを知らば、用に於て足らざること無からん。保氏これを敎へずして、ただ造字の本をのみ敎へんに、如何でそれを使用し得べき。
往年與二友人市野迷庵一、論二六書一、迷庵以二互訓一爲二轉注一、(戴震説暗合)愚以二展轉引伸一爲二轉注一、以二序建類一首、同意相受、考老是也等語一、爲三後人所レ加、非二許愼之舊一、其事去レ今廿余年、後獲二北魏書、晉書二證一、知二前説之不一レ誤、迷庵化爲二他物一、愚亦鬚髪變レ白、囘二顧之一。總與二一場夢一無レ異、頃有下擧二轉注一事一問者上、於レ是書三昔日所レ攷、與二其後所一レ見、以答若レ是、天保乙未年(*天保六年〔一八三五〕。原文「二未年」は誤植)二月三日、狩谷望之草。
(轉注説<了>)
轉注説附録 (澁江抽齋、岡本況齋)
「下杜人程邈云云」と云ふこと、皆晉書衞恒が傳に載せし「四體書勢」に出でたり。
按ずるに、「四體書勢」にこの文を載せて、上に「或曰」の二字を冐らす。もし許愼が語ならんには、「或曰」とは云ふべからず。滋許氏の原文にあらざることを知る。
(分注)廣韻の卷末にも載せたれば云云。
按ずるに、廣韻の卷末には「只左轉爲レ考、右轉爲レ老」とばかり有りて「建類一首等」の語は無し。盖し先生の偶談に係る。刪るべし。
其物の文に從ひて名を呼ぶ聲の文を添へたる「江河」の類は、形聲なり。
按ずるに、形聲の某聲と云ふものも聲をとりたるばかりにては無く、原は必ず義有りしものなるべし。今に至りてはその義の知り難きもの多し。その推して知るべきも往往あり。たとへば、枼聲の字は皆薄片の意、堯聲の字は皆高明の意なるが如し。かく云へば、會意と混ずるが如くなれども、會意は聲にあづからず、形聲は必ず聲によるを異とす。又形聲と云へる名義は、江河の字なれば、水旁は形にて、工可は聲なり。形と聲と二つのものを合せて字となる故に、形聲と云ふ。或説に、形聲と云ふは象聲と云ふと同義にて、聲音を形容する義なりと云ふは非なり。
保孝按。「渫」除去也、从水枼聲、「嫻」嬥也、从女枼聲、「諜」軍中反間也、从言枼聲、「澆」沃也、从水堯聲、「撓」櫌也、从手堯聲、「嬈」苛也、一曰擾戲弄也、一曰嬥也、从女堯聲、これらの字薄片の義も高明の義も無し。されば某聲に義を含むと云ふこと、概しては云ふべからず。若し某聲に必ず義ありとせば、「臧」は善也、从臣戕聲とあるなどは、更に解くべからず。戕は槍也、他國臣來弑レ君曰レ戕とあれば、その戕の聲の臧なれば善也とは訓じ難かるべければなり。そもそも文字製造、取レ義多端なるうへに、許君すでに某聲とのみ云へば、ただ聲とのみ、おほらかに心得べし。しからざれば、なかなかに解きひがむこと出で來ぬべし。
此の如き類を轉注と云ふ。
按ずるに、段玉裁は、この轉注を假借の中に包有して、引申假借と云ふ名目を立てたり。
(分注)戴震は此義によりて、轉注を互訓とせり。
按ずるに、戴段(*戴震・段玉裁)の説の如く、轉互注釋の義とする時は、轉注は文字を注釋するの法にして、用字の法と云ふべからず。矛盾甚し。
(分注)許宗彦が鑑止水齋文集に云云。
按ずるに、文字衍、原書に無し。且つ此文、原書のまま漢文にて記すべし。原文左に録す。
東漢以前、釋二古人之書一者、曰レ解、曰レ説、曰レ傳、曰レ故、曰二章句一、曰二解故一、曰二説義一、無二曰レ注者一、自二鄭氏一始有二箋注之名一、以後乃多作レ注、而欲三以レ此當二六書之轉注一、恐非二篤論一。
音の同じければ、皆借りて一語辭とするの類を假借と云ふ。
按ずるに音の同じと云ふことは皇國の「かな」と同意にて、聲を借りたるのみにて、義は無きなり。語辭に原「し」と云ひ、「ゑん」と云ひ、「や」と云へる詞に、「之」の字、「焉」の字、「也」の字を當てたるなり。所謂本その字無きにより、但その音を借りたるものなり。再び案ずるに、本その字無き故借りたるは、もとより然り。されども、本その字あるも、同音の他字を借り用ひたるもの往往あり。「許」は許聽(*きよてい。聽許に同じ。)の義なるを借りて鄦國の字に用ひ、「辰」は十二支の字なるを假りて「日月之會、謂二之䢈」の字に用ひたるが如し。「又この中に就て、更に二別あり。一は原よりその字ありて、外に同音の字を借り用ふるものあり。鄦許、この例なるべし。一は原その字無くて、同音の字を借り用ひ、後にその字出來たれども、やはり本のままに借字をのみ用ふるものあり。辰巳の字古くありて、䢈宿の義にも借り用ひたらんを、後に䢈の字出來たれども、その字は用ひずして、辰字を用ひ來れるが如し。その差別の審なるに至りては、今にありて悉く知り得がたきもの多し。
乙未(*天保六年〔一八三五〕)初夏(*四月)廿八日、道純抽齋
品字箋 (書聲第三十七書)
轉注者、謂三一字數義、展轉注釋、可二通用一也。如二長久長字一、長則物莫レ先焉、故又爲二長幼之長一、長則有レ餘、放又爲二長物之長一。如二行止行字一、行則有二蹤跡一、故又爲二德行之行一、行則有二次序一、故又爲二周行之行一。如二數字一、有レ數則可レ數、故又爲二數往之數一、可レ數則密矣、故又爲二疎數之數一。又音促、數罟(*さっこ・そっこ。目の細かい網)亦密矣。又有二本其意一、特轉レ聲用レ之者、如下以二女妻人一爲レ妻之類上。舊説考老轉形之説、非也。
假借者、謂三本無二其字一。因二字聲義一、而借二用之一也。如レ能豪〓{獣?}也。今借爲二賢能英豪之類一、此聲借也。如下内外之内作二收内之内一、伯仲之伯、作二王伯之伯一、有レ惡而可レ惡、有レ好而可レ好之類上、此義借也。又如下占卜之爲二占奪一、女子之爲二爾女一、房舍之爲二取舍一、肉骨之爲二肉好一之類上、但借レ聲、不レ借レ義也。
孝云、占奪猶レ言二侵占一也。正字通云、占擅據也、今俗謂二之侵占一。〔頭注を此に收む〕
嘉永六年三月廿一日、偶然品字箋を見るに、轉注假借の説あり。轉注の釋を讀むに、大に小學の旨を得たるやうにおもはれて、大方はこれにて轉注のことはよきを、何故に棭斎先生の引用されぬことかと疑ひながら、假借の解を讀むに甚だわろし。さては六書の旨をよくは知らずして、たまたま轉注の釋に云へる所は、其誤の見えぬにて、假借と云へる中に轉注なるが交りてあれば、轉注の意味は知らぬなり。先生の齒牙にかからぬは、宜なる事と知られたり。假借に義借と云ふことは無きことにて、この義借とて云へる所は、みな轉注なり。初學の輩、惑ふことなかれ。聲借の中なる肉好も轉注ぞ。
況齋岡本保孝識
- 小島氏存疑(小島氏、名知足、俗稱五一、備前福山侯藩士) 一册
- 岡孝代二棭齋先生一質二小島氏之疑一 一册
- 澁江氏補正 一册
- 岡孝讀補正 一册
- 小島氏再答 一册
右五種合册、藏二於岡孝之家一、未三廣流二布於天下一。
解題(正宗敦夫)
転注説大概(与謝野寛)
転注説
転注説附録(渋江抽斎、岡本況斎)