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助字詳解 

皆川愿 伯恭(皆川淇園)
(『助字詳解』一 藤井孫兵衛 1814〔文化11年〕.1.日付ナシ、
1876〔明治9年〕.5.18 版権免許

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助字詳解序

古伏羲氏始畫八卦三墳五典八索九丘之書相繼出而文王之演周易也仲尼之述繋辭也並皆辨名開物之所以為作者而其所謂名物者乃字義也降逮秦漢學亡其傳道非其人字義之觧率取近似以彼喩此名物轉背訓詁愈遠偶有用心焉者徒求諸形貌不知可求諸聲象遂致聖經不明大道湮晦矣恭惟先師淇園先生生乎千載之下萬里之外以聰明之質出拔之才覃思精慮于周易数十年乃知開物之法存焉據此而作音記籌象用開物乃所謂立象盡意開而當名者萬不失一於是自夫孝悌仁義諸德物之名至古今慣用之字詳辨其聲象與其義訓傍引古書以徴證會通之其著作名疇及詩經左馬助字法虚字解實字觧等書即皆是也而虚字觧獨簡奧因更作之詳解如助字三書非不備然其觧書・作文之所關係最大矣因又作之詳解丁寧反覆無餘蘊也其諸書皆既上梓行于世助字詳觧之作在先師末年故未完畢稿今茲辛未君猷先生與社友挍此書以付剞劂乃遙命叙於知厎知厎以辱蒙不棄厠鄙名弟子之籍也不敢辞謝謹書其端曰名不正則言不順乃知學詳明名物可爲始名物得詳明則聖經可以得精究材德因可以立成而古先王之美蹟善政亦可以得復擧觀於今於遠矣則開物之學豈不甚大乎知厎恐世之學者或軽見此書不深留心焉者因言其所原出於古之由又言名之可重而助字之不可不㝡細究之故以為序也文化八季秋八月
門人  能登 戸部知厎 謹識 (空斎陽刻)(知厎之印陰刻)
古伏羲氏始メテ八卦、三墳五典八索九丘之書相繼ギテ。而シテ文王之演周易也、仲尼之述ブル繋辭也、並ビニ皆辨名開物之所-ニシテ、而其所謂名物トハ者乃字義ナリ也。降リテ秦漢學亡フル一レ、非ズンバ字義之觧率近似。以、名物轉クコト訓詁。偶-スルコト、徒ラニ形貌、不キヲこれを聲象。遂セリ聖經不カナラズ大道湮晦スルヲ矣。恭惟おもんみルニ先師淇園先生生乎千載之下、萬里之外、以聰明之質、出拔之才、覃---スルコト于周易数十年、乃開物之法存スルコトヲ焉。據リテ而作スニ音記籌象テスレバ開物、乃所謂立象盡意開キテ、而當名者萬。於孝悌仁義諸德物之名ルマデ古今慣用之字、詳カニ聲象與其義訓、傍キテ古書---。其著作名疇及詩經・【左馬助字法】〔注丨左伝助字法・太史公助字法〕、虚字解、實字觧等、即皆是レナリ也。而シテ虚字觧簡奧ナリ。因リテ【詳解】〔注丨虚字詳解〕。如キモ助字三書、非ルニハラ。然レドモ觧書・作文之所關係スルナリ矣。因リテ又作詳解。丁寧反覆無餘蘊也。其諸書皆既シテ、行ハル于世。助字詳觧之作先師末年。故クハ一レ稿。今茲【辛未】〔注丨文化八年〔一八一一〕〕【君猷先生】〔注丨皆川篁斎。淇園男。〕社友、以剞劂。乃カニ於【知厎ちし〔注丨戸部知厎〕。知厎以辱蒙不ルヲ一レまじユレドモ鄙名弟子之籍也、不辞謝、謹ミテシテ、【名不レバシカラ言不〔注丨子路篇〕。乃、學-スルヲ名物キコトヲメト。名物得レバ詳明ナルヲ、則聖經可精究スルヲ、材德因リテ立成。而シテ古先王之美蹟・善政亦可ゲテルコトヲ於今ヨリ於遠キニ矣。則開物之學、豈甚大ナラ乎。知厎恐ラクハ、世之學者或イハンジルコトヲ、不ルコト。因リテヅル於古之由。又言、名之可ンズ、而助字之不カラ-。故也。文化八季秋八月
門人  能登 戸部知厎 謹ンデ
〔漢文エディタ原文〕 古伏羲氏始メテ畫シ 2( 八卦ヲ )1 、三墳五典八索九丘ノ之書相繼ギテ出ヅ。而シテ文王ノ之演ベ 2( 周易ヲ )1 也、仲尼ノ之述ブル 2( 繋辭ヲ )1 也、並ビニ皆辨名開物ノ之所- 3( 以ニシテ為ル 2( 作ル者 )1 、而其ノ所謂ル名物トハ者乃チ字義ナリ也。降リテ逮ビ 2( 秦漢ニ )1 學亡ク 2( 其ノ傳フル )1^道ヲ、非ズンバ 2( 其ノ人ニ )1 字義ノ之觧率ネ取ル 2( 近似ニ )1 。以テ^彼ヲ喩ヘ^此ニ、名物轉タ背クコト 2( 訓詁ニ )1 愈ヨ遠シ。偶マ有ル 3( 用- 2( 心スルコト焉ニ )1 者モ、徒ラニ求メ 2( 諸ヲ形貌ニ )1 、不^知ラ^可キヲ^求ム 2( |諸(これを)聲象ニ )1 。遂ニ致セリ 2( 聖經不^明カナラズ大道湮晦スルヲ )1 矣。|恭惟(おもんみ)ルニ先師淇園先生生レ 2( 乎千載ノ之下、萬里ノ之外ニ )1 、以テ 2( 聰明ノ之質、出拔ノ之才ヲ )1 、覃- 2( 思-精-慮スルコト于周易ヲ )1 数十年、乃チ知ル 2( 開物ノ之法存スルコトヲ )1 焉。據リテ^此ニ而作スニ 2( 音記籌象 )1 用テスレバ 2( 開物ヲ )1 、乃チ所謂立象盡ク意開キテ、而當名者萬ニ不^失ハ^一ヲ。於テ^是ニ自リ 2( 夫ノ孝悌仁義ノ諸德物ノ之名 )1 至ルマデ 2( 古今慣用ノ之字ニ )1 、詳カニ辨ジ 2( 其ノ聲象ト與其ノ義訓ヲ )1 、傍タ引キテ 2( 古書ヲ )1 以テ徴- 2( 證-會-通ス之ヲ )1 。其ノ著作名疇及ビ詩經・【左馬助字法】〈NOTE 左伝助字法・太史公助字法 〉、虚字解、實字觧等ノ書ハ、即チ皆是レナリ也。而シテ虚字觧ハ獨リ簡奧ナリ。因リテ更ニ作ル 2( 之ガ【詳解】〈NOTE 虚字詳解 〉ヲ )1 。如キモ 2( 助字三書ノ )1 、非ズ^不ルニ^備ハラ。然レドモ其ノ觧書・作文ノ之所 2( 關係スル )1 最モ大ナリ矣。因リテ又作ル 2( 之ガ詳解ヲ )1 。丁寧反覆無シ 2( 餘蘊 )1 也。其ノ諸書皆既ニ上シテ^梓ニ、行ハル 2( 于世ニ )1 。助字詳觧ノ之作ハ在リ 2( 先師末年ニ )1 。故ニ未ダ 2( 完クハ畢ヘ )1^稿ヲ。今茲ニ【辛未】〈NOTE 文化八年〔一八一一〕 〉【君猷先生】〈NOTE 皆川篁斎。淇園男。 〉與 2( 社友 )1 挍シ 2( 此ノ書ヲ )1 、以テ付ス 2( 剞劂ニ )1 。乃チ遙カニ命ズ 2( 叙ヲ於【|知厎(ちし)】〈NOTE 戸部知厎 〉ニ )1 。知厎以テ 2( 辱蒙不ルヲ )1^棄テ、|厠(まじ)ユレドモ 2( 鄙名ヲ弟子ノ之籍ニ )1 也、不 2( 敢テ辞謝セ )1 、謹ミテ書シテ 2( 其ノ端ニ )1 曰ク、【名不レバ^正シカラ則チ言不ト^順ハ】〈NOTE 子路篇 〉。乃チ知ル、學ハ詳- 2( 明スルヲ名物ヲ )1 可キコトヲ^爲ス^始メト。名物得レバ 2( 詳明ナルヲ )1 、則チ聖經可ク 3( 以テ得 2( 精究スルヲ )1 、材德因リテ可シ 2( 以テ立成ス )1 。而シテ古先王ノ之美蹟・善政モ亦可シ 4( 以テ得 3( 復タ擧ゲテ觀ルコトヲ 2( 於今ヨリ於遠キニ )1 矣。則チ開物ノ之學、豈ニ不ヤ 2( 甚大ナラ )1 乎。知厎恐ラクハ、世ノ之學者或イハ軽ンジ^見ルコトヲ 2( 此ノ書ヲ )1 、不ルコト 3( 深ク留メ 2( 心ヲ焉ニ )1 者ヲ。因リテ言フ 2{ 其ノ所ノ^原ク出ヅル 2( 於古ニ )1 之由ヲ }1 。又言フ、名ハ之可ク^重ンズ、而助字ハ之不ト^可カラ^不ル 3( 㝡モ細- 2( 究セ之ヲ )1 。故ニ以テ為ス^序ト也。文化八季秋八月 門人 能登 戸部知厎 謹ンデ識ス

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助字詳解卷之一目次

總論 初丁  矣 九丁止附  也 十三丁  焉 十五丁  省矣也焉等文字法 十八丁  (乎 廿丁(*原書目次に欠く。)  (耶 廿二丁(*原書目次に欠く。)  歟 廿四丁  夫 廿六丁  哉 廿七丁  諸 卅二丁  旃 卅三丁  之 卅四丁  而 卅七丁  然 四十丁 


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助字詳解 卷之一

平安 皆川愿伯恭 著
允 君猷  仝
門人  中川恪 慎卿  挍
[目次]

總論

凡そ助字と称するものは、唯本邦の言語に、用ゆる所の、テニヲハの類なりと心得べし。されば、てと云ふは、聞人に只今言たる所のことをやはり引はり持て、後より言ふ事をば、其引はり持たることに付け合せて思わす意持(*こころもち)なり。にと云ふは聞人の心に、今言たる所のことを、後より言ふ物事のかゝり徃く塲処にして、思わす意持なり。をと云ふは、聞人の心に、今言たる所のことを、かゝゑもたせて、後より言ふ辞に、其をふりまわすことを、言ひ出すことを待たせ思わす意持なり。はと云ふは、聞人の心に今言たる所のことを、餘の事に混ぜざるやふに、別に一はな(*一端)としもたせて、後より言ふ辞に、其が筋合の立ゆく処を、言出すことを、待たせ思わす意持なり。凡そ本邦の人、平日の言語に用ゆるとっころの助辞、此テニヲハに限らず、其類尚甚多きことなるが、本邦の人の、右のテニヲハの類を、平常日用の言語に用ゆるに思慮擬議に渉らずして、賢愚老幼の差別なく、大抵其言舌の自由を得たる事になりては、縱横任意にして、右の語助を使用するに、大都皆言々節に中り、語々其冝に恊へり。さて其言語に其を用ゆる処の意持には、其差別を能く辨じ知りて、右の如き能用を為すかと思へば、其これを言ふ処の趣は、たゞ何となく、言ひ覺へて、右の妙用に恊ふことにいたれるなり。ヶ様のことを、易の繫辭傳に、百姓日用而不知といへる、即ち是なり。
本邦徃古の人の言語、今人の言語と、大に異なる故に、古人の思慮擬議に渉らずして、縱横任意に言出して、言々節に中り、語々其宜に恊ひたるところの語辞を、今人これを口にして言へば、たゞ佶屈贅牙なるのみを覺ゆるのみにて、其何の旨たることを辨識すること能わぬことなり。西土の古書の文讀難きも、やはり同じ類なることにて、此は其時代迥に隔りて、民俗の風習全く殊になりたる故に、右の如く知り難きことになりたるなり。
右に言へる二端の差別を、先づ其致一(*一致)なりと思ふべし。其故は今人日用の言語を出すに、平生其神氣の安泰にて、其精明の用滞りなき時には、誠に言々節に中り、語々冝に恊へども、一旦事に逢ひ、思ひに滞ることありて、神氣内に沮み、妙用伸び難きにいたりては、言語差錯し、黑白顛倒して、其身は、折角それを辨じ言ふ心なれども、言舌それに付きまはり難くして、人のそれを聞者には、一切聞へぬこととなることあり。右の程には非ずとも、其人ふと其言出す語辞に工夫を付けて、たとへば、をと云てよからんか、はと云てよからんかと、擬議する意出來りては、平日の言語、一切に皆其意の疑迷を生ずることになり、後には或は無体なる強誣の説をつけて、それを言出し、聞者捧腹して笑ふことにも至ることあり。
凡そ言語の道には、本邦の人の平常言語の間といへども、やはりヶ様なる妙なる道理をもちあるものなり。さる故に、西土の中古の諸名賢、古籍に博覧にして、廣識胸に滿ち、文辞に熟習して、咳唾篇を成すの人といへども、古書を觧し、文理を辨ずるにいたりては、謬誤册に充ち、強誣帙に盈たること多きことを致せるなり。余嘗て右様の事の文辞言語を執あつかふ内にあることを、漆塗の木屐を着けて、氷の上を走り行くにたとへたることあり。其故は漆木屐を以、氷上を行く人は、足を輕くふみ、身を引擧げて、はやく歩む時は、滞りなく行かるれども、足に力を用て、つよくふみとめんとする時は、是非にすべりて、ころぶことなり。先賢の古書を觧するに、謬語多きは、並に皆是の如きの由より出たることなり。又歐陽永叔・蘇子瞻等の文、其日用尺牘、其他諸奏議、記誌雜識の類は、意氣縱横にして、筆力超越したれども、古文の体に擬して作れる諸論説の類に至りては、辞理錯繆多く、語勢乖舛不順なること多し。元明の諸家は、尚更是類多くして、枚擧するに遑なき程のことなり。余嘗歐蘇文彈と云ふ一書を著したることあり。後には其稿を失ひて、上木せざれども、門人の内に謄寫せし人多ければ、其を得て讀人あらば、余が過論に非ざることを、知らるべきなり。
文字言語は、右の如く物なる故に、民日用すれども、其旨を知ることにいたりては、其事甚難きものなる故に、其道の立ちある処を、深く考へて、其條理に戻らざるやふにして學ばざれば、世俗に所謂畠水練と云ものゝ如き類となりて、終身それをなし居りても、始終疑網の中を出ることなく、自得して通達すること、なり難かるべし。凡そ世のこれを知らざるものは、言語は何かなく(*ママ)、よく言語する人に付きて、ひたと其まねをすれば、それにて能辨の人となり、詩を作り文を書くことも、善く作りたる詩を、ひたと熟誦し、善作りたる文を、ひたと倣ひて作れば、それにて詩文をよくする人となり、古書を觧するも、ひたと古書を玩びて、觧し見れば、それにて古書はよく通曉せらるゝものとのみ思へり。是の如きの見こみにて、是の如きの學びかたをなすは、いづれも皆專なき(*ママ)畠水練をするの類なり。昔し楚の優孟と云たる人、孫叔敖が死後に、孫叔敖が衣冠を着て、其言笑態度をうつしたるが、能く孫叔敖に似たりと云ることあり。されども、孫叔敖の貴ぶべきは、其才德の人にすぐれたる所に孫叔敖ありて、其衣冠言語態度の似たるは、何の用にも立ものに非ざるものなり。言語も、其物を辨じ、理を晰するの用に施すべからずんば、口氣は似たりとも、何の益あらんや。詩を作りても、物情を感動すべきに到らず、文を作りても、事物の情理を曲寫するに足らず、古書を讀みても、其作者の精意に通到することを得べからざれば、何ほどに工を積みたりとも、畢竟隔靴搔痒の伎倆を獲るのみにて、何事も實用に中るには、なり難かるべし。
何故に、右に述たる如くに言ふとなれば、先前に言へる所の、本邦の人の平常日用の言語を用ゆるに、思慮擬議に渉らずして、大都皆言々節に中り、語々其冝に恊へることを得る故を、明すべし。凡そ人の心中に動く神氣は、即ち天地間の神氣の通ひて、人の心主の觀感するところの、萬象の變動の運為を現じ、又因て其心主の思擬の象を、作すことを爲る物なる故に、其人々の心中に動くところの、彼我屈伸出入徃來、千態萬状擧數べからざるものなり。人の聲音は、又其觀感するところの、物の情態に隨ひて、それを形容して言ふの用なる故に、此亦千萬聲の變化となれり。されば聲音の妙用は、其神氣のすぶるところに属せるものにて、其象自然の勢によりて、神氣よりそれに應感し、其分々に應ずるの聲を出せり。是故に、心は神氣によりて、其動を作すことを得、神氣は、聲音の萬別に乗りて、其情の微至を盡すことを得ることなるに、心と聲音との相於けるは、其中間に神氣を介みて、直通を得べからざるものなり。其事是の如くなるものなる故に、人々の言語に於けるは、日用すれども其情に逹すること甚難し。易の繫辭傳に、精義入、以致也、といへり。されば右の神氣の用を、己に通知することを得たく思はゞ、先其精義入神の道を、思ひ求むべし。
精義入神の道と云は、易の開物の學即ち是なり。右の開物の學に通じ得れば、神氣物に感じて、其象を聲音にあらはすところ、古も今も一轍の事にて、たゞ其古今の差別、其義を用ゆるところ、古は深して全く、今は淺して盡さゞるのみの相違なると、又其風習によりて、言語繁簡の差別ある故に、知らざるものよりこれを見れば、截然各異なる如くにあれども、知るものよりこれを觀れば、神氣の用は、萬古一轍にて、少しの相異あることなし。右の如きものなる故に、前にも先づ一致なりと思ふべしといへるなり。
されば古人の書を讀みて、其文意をば、通じ知らんと思ふにも、先づ其古人のそれを言にあらはして、それを書きつゞけたる、其辞旨の持合をなしたる処に、心を付けて、其持合をなしたる処より、其意味を推して、それにて其文意の全体を通じ知らんとし求むること肝要なり。左にあらずして、讀むなりにして、其文意を觧することにせんとすれば、多くは己が意を主としてよむことになる故に、其文中の一二言ばかりを讀取り、其餘の文字は遺し置きて、復細に其旨を究めず、たゞ其讀取たる其一二言をば、己が意を綴り合せて、作者の旨には無きことを強誣して、其旨なりと思ふことになること多し。先儒の古書を觧釋したるに、此弊に陷りたること甚だ多くして、其明にせんとしたるが、却て先聖の旨を闇蔽することになりて、後世の人をも誤たす(*ママ)こと、徃々にあることは、亦全く文理は天下の文理にして、其神用に合せざれば、其理の昭晰なるに通じがたき故に、其神用をはなれて、心の思ふ処ばかりを以ては、讀み得べからず、觧し得べからざること、知らざる故の過なり。
凡そ天下の文理は、右の如くなるものにて、總て天下の神明の德の辨別する所に属したる物なる故に、天下の明德は、天下の文德と相合す。即ち一にして二、二にして一なるものなり。されば、一切の物の道理も、其文によるに非ざれば、立ぬものなり。それを知らずして、文字を離れて、物の道理のすぢを會得せんとする人、まゝあれども、此は究竟無理なることになる故に、たとひ其理に通逹して、其はたらき縱横無礙にして、自在に流通するやふに見ゆることになりても、是は譬ば浮萍の葉の水面にはびこりて、瀰滿繁舗したるが如きものなる故に、其水が風に吹かれて、大に動く時にいたりては、忽ち其瀰滿繁舗の姿を失ふが如くに、無くなるべし。その辨にのぶる道理もそれに根となるべし。徃古よりそれを傳へたる、文字の証なければ、其道理を其心の内に執れるにも、それを縶ぎ維持して、古人に引合せ付くる種なき故に、其中の實に信根立ゝず。信根立ゝざる故に、其心の底には、とかく疑惑を抱くことになりて、畢竟浮虚の贅用となることなり。
されば天下一切の事物の道理は、皆其名に属して立つものにて、名の別は、即ち文字の別なり。文字の義趣の別は、神識のそれを比會して、斟酌處分する所によりて出るものなる故に、神識に考へて、其斟酌處分するの趣をば、心に忘るゝことなく、思をつとめて、其処に至らさゞれば、古人の文を讀みて、其眞旨を觧釋し得ることには、至られざることと思ふべし。己が心を述べて、文字に書きあらわし、人にさとさんとすることも、其文理の欵曲の盡すべき処が、行きとゞかざれば、己のみ聞えて、人には聞えぬ文字となるべきなり。
さて一切の文理と云ものも、其語勢によりて生ずるものなり。その故は、語勢と云ものは、其時にあたれる神用の活機をふくみたるものが、其語勢となりたるものなる故に、其活たる神彩氣勢を、其儘にして貫ぬかして書くことが、文の要なる故に、たとへば緩なるには、緩にしてそれを承け、急なるには急にしてそれを承る、即ち文理の生ずる所なり。一切の語の詳畧先後の宜も、此處を矩として考へて、其冝・不冝を別つことなり。
語勢と云ものは、文字のつき合ひと、語意のうつり様の此の立ちかたによりて、其中に含める意氣のきおひが、即ち語勢と云ものになることなるが故に、其要とするところは、字義なり。然れども吾所謂字義は、世に稱する所の字義と異なり。世に稱する所の字義と云ものは、字書に注せる所を以て字義とおもへり。しかれども、此は余著はせる問學擧要にも、戴侗が六書故の説を引てこれを辨ぜり。六書説文に倚・依互に相釋と云るにて知るべし。説文依の注に倚也と注し、倚の注に依也と注して、よせ合せて考ふるに、依・倚の二字混じて分つべからざることになるなり。字義は字書の注にて、其大畧は知るれども、其精義に至りては、其文字の聲によりて、易の開物の法によりて、これを開かざれば、とくとしたる処は知れざることなり。然れども、開物の法は、其法に精練せざれば、其趣知れ難きものなる故に、余初學のために、此を畧通させんが為に、實字觧・虚字詳觧を著せり。今此助字詳觧も、其説ける処の義、並に皆開物の法より出たるものなりと心得べし。
凡字義、實字は知り易く、虚字は稍難し。虚字は虚にして、たゞ其模様のみありて、人の心にそのさまを持ちて後に、知るべき故なり。助字猶更其虚字を以て、物若は事のさまを形容するに付けて、其を聞く人の心に、それを持ち思ふ処につけて、其それを持ちて思ひやふの、心のはづみを活して、思はせんとて用ゆる文字なる故に、尤も心に入り難きものなり。
凡そ物の名の分るところは、並に皆其外物より、其物にうつり合ふところの筋によりて立つものなり。譬ば同じ一人なれども、父よりうつり合せて呼べば、子なり、君よりうつり合せて呼べば、臣なり、兄より呼べば弟、弟より呼べば兄、妻より呼べば夫なり。一切の文字、並に皆事若は物の名なり。たとへば、喜悦怡欣と云四字は、槩するに一つのよろこびのことなり。されども今まで心氣の沈みありたるより云へば、心氣がうきたつて、外にあらはるゝと云ふにまわりて、喜の字なり。今までは心にいまだ行とゞかずと、未得とし思へるにかけて云へば、悦の字なり。それに心がのりて、思わず氣がそれに引れて、のり行く様になりたるにして云へば、怡の字なり。今まで勢なく内に閉てありたるが、心を得たるによりて、急に外がわへはね出したる処にして語れば、欣の字なり。されば物は同じことなれども、唯其うつり合のすぢによりて、右の四字の別れなることなり。一切の虚なる文字、皆是類にて推し知べし。
助字は右に言る如く、物若は事のさまを、心に持ち思ふ処につけて、其持やふの心のはづみを、活して思はせんが為に、用ゆる字にて、愈虚にして知り難きものなり。然れども一切の文字の義を、心に通知することを得んと思はゞ、爰に一つの心得あり。文字を積累して、其文字の義のうつり合にて、物の事情をうつしたる處は、譬ば自鳴鐘の輪をそれ〴〵に取くみ合せて、鉛墜を重りにかけて、輪を自からめぐらし、それによりて、活動の機を其中に含みめぐりて、時を告る鐘聲の出る如きものにて、其を工みて作りたるは、人の思ひより出たれども、其成就して、其妙の見わるゝところは、其輪々の取り合せと、鉛墜の重りの、それをめぐらすによりてなれるものなり。其處にいたりては、人工の手つだふべきところにあらず。文字も、右の自鳴鐘の如きものにて、文字と文字の義のくみ合せにて、其すれ合の間より、其文義をうみ出せり。助語は其鉛墜あるが如きものにて、其文字と文字の持合の勢のはづみをもたせる道具なりと思ふべし。今此助字詳解は、此処を喩さんために、大抵毎字に、先本邦の人の言語の内に、其字を用ゆべきはづみの工合の、それを用ゆべき処を擧げて、それを喩す。學者心を潜めて考へて自得あるべし。

助字詳解 卷之一

[目次]
  字附
此字は語尾に用ゆる字にて、本邦の人の言語には、此矣字をはめ用ゆべき処は、なき様に思はるゝことなり。されども古今集御侍御傘と申せ宮城野の木の下露は雨にまされり、とよめる、此歌の語尾のまされりの下に、西土の文なれば、矣の字あるべき処なり。故は矣字は、總別物の左様にあるさまを、一つはなれて向ふにすゑ置きて、それに付けての事爲のなすべきを思わせ、又はなしゆくわざを付けたるを語るに、用ゆる字なる故なり。
同集十八足曵の山のまに〳〵かくれなん浮世の中はあるかひもなし、とよめるなしの下に、西土の文なれば、矣の字あるべし。なしと云ことが向ふに立ちある故に、隱れなんと思ふ意を、それによりて思うつらせることにして云るこゝろもちなる故に、矣字あるべきにあたるなり。
同集十七玉埀の小瓶やいづら小よろぎの礒の浪分おきに出にけり。此けりの下にも矣の字あるべき語勢なり。此歌は、寛平の朝に、上の侍中瓶をもたせて、后宮の方に御酒の餘と云てもたせて奉りけるを、女藏人ども咲て瓶を御前に持出て、何とも言はず成にければ、使の還り來て、其事をかたりければ、其藏人の中に、敏行朝臣がよみおくれる歌なり。存の外なる御前へ出てしまふたりと云こゝろにて、出にけりとよめるなり。故に矣の字あるべきにあたるなり。此より下は、語の中程(*原文{礻+呈})に矣の字あるべき語勢を云に、たとへば
同集第四萩の露玉にぬかんと取ればけぬよし見む人は枝ながらみよ。此けぬは消ぬと云ことにて、此けぬの下にも、矣の字あるべき語勢なり。消たることが、已に向ふにありて立ちたる故に、枝ながら見よと云ことに、自から思うつらせることにして云る意持なる故なり。
同集十七名にめでゝ折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな、とよめるおちにきの下にも、矣の字あるべき語勢なり。左様のことありたりとして、向ふにそれを立てすゑて語る語勢には、此類並に皆矣の字あるべきなり。されども古虞夏典謨訓誥(*尚書〔書経〕の篇名。経書。)の文には、此字を用たること見あたらず。是は典謨訓誥の文は、物の情實の道の規則となすべきを、言述ることを主とせる故に、矣也焉等の事物のなりゆき、又は物の品わけ、其事物をよせて思はする塲処を指し示す語勢を用ることは、なき故に、用ざるなり。虞夏の世とても、日用の語中には、用たることなるべし。左氏に用たる矣の字は、余著はせる左氏助字法中に詳なれば、今擧せず。詩齊風に、雞既鳴矣、朝既盈矣、と云るは、問答の語なり。女と士は同寝してありたるが、女が夫に告て、雞が既してはうたふべしと云ならば、士よりは其旨を引とりすゝめて、朝廷に朝せる者が、已に盈つることになるべしと云べしと言ふことなり。此は未然の処の、さやふになりゆくべき様子を、向ふに立て、それにて思をうつらせんとして、言たるこゝろもちなり。大雅に、鳳凰鳴矣、于髙岡、と云るは、人が已に語りて、鳳凰が鳴て居れりと云はゞ、彼處なる髙岡の處に于に(*ママ)せるなるべしと思ふべしと云ことなり。此は語る人、己が見たる様子のあちらに有るさまを、向に立てゝ語るこゝろもちにして、矣の字を置たるものなり。詩の助字も、詩經助字法に詳なり。但し召南に、亦既ニシテ止、亦既ニシテントセバ止、我心則降ラン、と云る、齊風にルコト、何必告父母、既曰ハヾント止、曷又鞠ゲン、と云る、止の字矣の字に似たるやふなれども、止は左様に云ことになりたらばと云ふ意にて、今の処をさきにて成り徃く処へやり越すことにして、思はするこゝろもちなり。矣の字は、大に異なりと思ふべし。鞠止の止は、上の告止の止の響を、今一叚持こして、鞠の字の下に付けたるものなり。檀弓に孔子哭子路於中庭使者而問フニ使者曰醢矣遂ジテといへるは、衛の國にて子路を殺して、其肉をば醢しせりと告たることにして、衛國にての様子を向ふに立て、それを語るこゝろなる故に、矣の字を用たるなり。孔子の防に合葬し給たるに、孔子先反、門人後、雨甚シテレルニ、孔子問焉曰、爾來ルコト。曰、防墓崩。孔子不、といへる、此防墓崩の下に、矣の字か也字あるべきに似たる処なり。遲く來りたる故を明かす意にとりては、也の字なり。只其崩れたるを告る意ならば、矣の字なり。矣の字は前の語勢にかなわぬ故に、まだしも也の字なるべきことなるが、其也の字もなきわけは、防の墓が崩たりと思し召せと云きみにて、矣也等を用て、別段に向ふに立てゝ言ひ、又は品をわけて告るに及ばぬ処なる故なり。矣也等をはづすべき処を知らざれば、置くべき処も知れぬものなり。考ふべし。魯語に、公父文伯が母の文伯に告たる語を聞て、仲尼の語に、弟子記之、季氏之婦不、と云給るは、季氏の婦は淫せぬと云名のつくことになつてあると云こゝろなり。其次章の以為ラク於男女之禮ナリ、と云給るも、男女に別つの禮にあたることになりてあるといふこころなり。齊策に、シテ舎人、而内與夫人相愛スルトイフハ、亦甚不義ナリ矣。君其、といへるは、夫人とのことなれども、甚不義と名付くることに成つてあることなれば、君は其取扱ふには、これを殺すことになされよと云ことにて、これを殺せと云ことを言はんとて、甚不義といふ名の付くことになりあることを、向ふに立てすゑて、其今のうつりを取らんために、矣の字を置けるものなり。周策に、養由基が柳葉を射居たる処を、一人過曰、善射。可射を也矣、といへるは、射ることが上手じや。射ることをおしゑらるゝものぢやと云ふになつてあると云ふこゝろなり。莊子讓王篇に、曾子が貧して衛に居りて、衣冠弊れながら、商頌を歌ひ、聲滿天地、若金石と云下に、天子不トスルコトヲ、諸侯不トスルコトヲ。故、致とあり。之は天子・諸侯の友とし臣とすることを得ざる故をば、説きたるにて、故養志の故の字故にと讀むべからず、故はとよむべし。其心立て、形を養ふよりは、一叚打こしたる心がけにて、志を養ふ者は、形をも忘るゝ故に、天子諸侯より覊すべき所なき故に、不臣友なり。忘心の者は、又其上の一叚なり。いづれにも、此矣の字にて、其内面の操の立かたにて、依られぬ様子を立てしめして、さて前の友臣の得ざるのわけを、思ひ合させるこゝろにて、此矣の字を置たるものなり。前漢の比の文に用ゆる矣の字も、其語理が、後世になり行くに隨て、繁冗になる故に、矣の字は同じこゝろなれども、矣の字にもたせるはづみが、次第にゆるくなりて、輕くなりたり。たとへば、巨なる礎に、小家の細き柱をもたせたるが如くにて、礎の力の左のみ見へぬことになりたること多しと知るべし。此は矣の字に限らず、諸文字・助語、並に皆右の如しと知るべきことなり。世説に、陶貞白仙を好みて、曰、仰青雲白日遠矣、といへるは、世には遠矣と云ことなれども、我は左様に思わず、直に上昇して、登仙し到らるべしと思ふと云ことなり。周子居云、吾時月不黄叔度、則鄙吝之心、已復生矣(*「世説新語」)と云るは、吾は時月ありて、黄叔度を見ぬことぢやと云ことに、外がわがなるになりたる時は、胸中には鄙吝の心入が、もふはやいぜんの如くに生じてあることになりてあると云こゝろなり。いづれにも、後漢の頃より、言語の古と異なることになりたることを、應紹(*応劭)が風俗通(*「風俗通義」)に、これを言ひて、已に全く論たるが、六朝の頃より、五胡の亂を経て、漢土又徃昔よりの語勢に、胡人の語勢をも間へ用ゆることになりて、徃古の語助矣焉等の語は、多くは唯古文を倣ひて書くものばかり、それを文字にのみ用ひて書くことになりたる故に、漢土の人も、古書に熟練したる人にあらざれば、徃徃用法を誤失することありたりと見えて、柳子厚が杜温夫に復する書には、杜が也矣焉の用かたの失をば、譏りて書ける文あり。唐の頃すら右の如くなれば、宋元已下は猶更のことなり。されば、歐陽永叔・蘇軾などの名賢も、古文に倣ひて書たる文には、用字の誤甚多し。故に宋已下の文は、法とするに足らずとして、今此書には韓柳よりすべて其文を擧げて例とせぬなり。
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  此も語尾に用ゆる字にて、本邦の人の言語に常に用ゆる所の、これはそれぢや、かやふのことぢや、など云ふぢやの意にあたる文字なり。向ふ相手の神氣に持て來ることを、我語りてすぢを立てゝわけ言ふたるを、其内にもつたる物のこととし、すはるにし(*ママ。物のこととして据はる、の意か)、思はするに用ゆ。譬ば向ふ相手の神氣に、難波の蘆と云ことを持ち居るを、語る人が其蘆を人の呼び來りたるに、其すぢを立て、それは伊勢の濵荻と云ふがそれぢやといひて、それを聞人の心には、然れば此は其すぢに合ふものとし思はする類なり。古今集第一春の夜のやみはあやなし梅花色こそみゑね香やはかくるゝ。此あやなしと云は、無益と云ことにて、此あやなしの下に、西土の人の語なれば、也の字あるべし。春の夜のやみは無益なと云名の付くすぢにゆくことぢやなり。
同集第三月見ればちゞに物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど。此秋の字の下に、西土の人の語なれば、也の字あるべし。我身ひとつの秋ぢやと名の付くすぢの物にはあらねどと云氣味なり。
同集十八今さらに何おひ出らん竹の子のうきふししげき世とは知らずや。此うきふししげき世の下も、也の字あるべき語勢なり。憂ふし繁き世と名付けて、其すぢになりてある世ぢやとは知らずしてあるべき様なきに、何とて生出たるぞと云ことなり。
詩の邶風に、我心匪、不カラ也。我心匪、不カラ。といへるは、心は石にあらざれば、可轉と云ことにはならぬすぢな物ぢやなり。席にあらざれば、可卷と云ことにはならぬすぢな物ぢやなり。總じて也の字を用ゆるは、たとへば瞽者の路に迷ひて、行さまよふに、聲をかけて、其すぢ又は物をしらせて、それは溝なり、それは田畦なりと云が如し。其瞽者の心に、素より物のすぢ〳〵の別れは知りて居れども、其を以て今の當面の物にあてゝ知ることをなし得ざるをば、傍より其當面の物のすぢを知らせて、其素より識り居れるすぢに合ふことにして、知らせ思わするに多く用ゆるなり。左傳文十七年(*「春秋左氏伝」文公十七年)に、鹿死スルニ、小國之事大國也、德アラバ則其ナラン也。不德ナラバ則其鹿ナラン也。鋌而走、險急ナラバンゾ能擇、といへるは、大國が德を以てあしらはるれば、小國は其時は人らしくなりて、それに向はん。不德を以てあしらはるれば、其時には鹿になりて、中々なつくことなくて、身の全きことを得るかたへ、はしり赴くべしと云ことなり。論語に、君子人歟。君子人也、と云るは、君子人と云ものにすぢが恊ふと云ことなり。いづれにも餘の物と、其すぢを別にして持ちて、其すぢに聞人の意を紛れぬやふにして引入れて、それを言はんとするに、也の字を用ゆ。易の繫辭傳に、小大、辭險易。辭也者各指其所一レ、といへるも、前には卦と辞とをならべ言たるに、後には辞の一方を擧て語るゆへに、聞人の紛らし思ふことなきやふにとて、別にすぢを立て引ぬき言はんとて、辞也者と書れたるなり。中庸に、性道教をならべて言たる後に、其道ばかりに擧言ふ、道也者、須臾離也と云るも同じ意味なり。古文の中に、ならべ言はざれども、也者を用たることあり。國語の中に、君也者と書けるに、前に君臣民とならべ言はざれども、其旨はやはりならべ言ふ中にて、引わけすぢを立てゝ言たるなり。論語中に、回也賜也など云る、並に別人に引わけて、其すぢを立ておきて、其を語るこゝろもちなり。顔回者。好。不幸短命ニシテ死矣。今也則亡、と云たまへるは、昔は顔回と云ものありて、學を好みたるものありたるが、只今の門人の内のすぢにて言ふに、左様のものはなしと云ことなり。詩召南に、使ルコトニモ也吠といへるは、犬にてもあれ、それにも吠しむることなからんとせよと云ことなり。鄘風に也天只不。只と云るをば、前儒の注、毋と母の字別なりといへる、字學家の説に拘はりて、父母の母とせり。然れどもそれにては、也天只と義通ぜず。毋ナルノミトスルコトとよむべし。このすぢは、天性の通りにて徃ばかりとすることなかれと云ことにて、邶風の也可一レの也と同じ意にて、此すぢにては、忘る可しと云ことにならすことになるべしと云ふこゝろなりと知るべし。後世俗語に、也の字をまたとよむ意に用ゆることあり。五朝小説(*明・馮夢龍)に、陳氏某性緩なるものにて、何事にも、己が氣に入らぬことにあひても、也罷也罷と云たる故に、陳也罷と異名を付けたることあり。それもまたそれぢやのぢやと云たる意もちなり。齊策に、田單將ントシテ、徃魯仲子。仲子曰、将軍攻トモ狄、不スコトといへるは、田單は狄を攻ても、下すこと能はざるすぢになるべしと、察して言たる意もちなり。史記趙括傳に、趙王亦以母先言、竟誅也、と書けるは、とう〳〵誅することに、ならぬやふのすぢにしたりと云ふことなり。
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  此も語尾に用ゆる字にて、本邦の人の言語に用ゆる処にしていへば、それのところにと云ふ氣味に、其意のまわる文字なり。凡そ事は、時々刻々にうつりかわり徃くものにて、其塲処と云ものも、右の事と同じく定まりて、いつまでもうつらぬ塲処と云ものは、死定したるものより外には無きものなり。されば、日月の運行も、東に出たりとするが、早くうつりて天に中し、天に中したるが、早くうつりて西に入るものなるをば、人よりしばらく其処を設けて、東山の上とし、正午とし、西山のあちらとして、これを指し云にて、人の其処に見こみて、其に向けてわざをなしゆき、又は其に思を付くる心あても立つことなり。文字中の焉の字も、右の如く、しばらく其処を設けて、其を指し定めて、外の塲処に混ぜぬやふにして、さて其処にして、それを思はせる為に置く意なり。
古今集第四女郎花うしと見つゝぞ行すぐる男山にしたてりと思へば、此たてりの下に、焉の字あるべき語勢なり。女郎花の名によりて女として、さて其女が男山と云に立居て、何か待顔なれば、我はそれをうしと見ながら行過ると云意なる故、男山にしたてり、其処にと、塲処を指し定め、見こみを付て後に、うしと見ながら行過ると云意もちも付けて言ても、其わけが聞ゆるなり。
同集第五ぬれてほす山路の菊の露のまにいつか千年を我はへにけん、此けんの下に、焉の字あるべき語勢なり。菊の露のまと云を向ふに立て置に、それをわたる間にいつか千年をば、我は經たるぞ、其処にと云こゝろなる故に、焉の字あるべき処なりと云ことなり。
同集第九山かくす春のかすみぞうらめしきいづれ都のさかひ成らん、此さかひと云ふ下に、焉の字のこゝろもちあるべし。其かすみの内に入りて見たらんには、彼処よりの先きが、都の境と云処が、其処にあるべきが、今此望む処にては、其処をばいづれぞともわかれぬことに見るなりと云こと故に、さかひの下に焉の字あるべしと云ふことなり。
唐風に、獨行踽々、豈ランヤ他人、不トイヘ我同父。嗟行之人、胡焉、人無ランヤ兄弟、胡ンゾトイヘ、といへるは、獨行の踽々たる人は、他人の同行するが無きと云にあらざれども、我同父兄弟の如くにゆかぬ故に、此踽々たるをするなりと云ならんが、それは大なる心得相違なり。其道づれの人をば、何とて我を兄弟に比せざるや。其人にも兄弟あるべきに、何とてそれにひとしく思ひくれざるぞといへと云ことにて、胡不その処に、胡不その処にと云ことなり。 衛風に、反是思、亦已焉哉といへるは、已前に共に誓たることを、其夫は今の行のそれに反したることを思はずとし怨み、さて又反したることを思はずと思ひたらば、我もこれぎりにして、其処にやめることにすることにせんかと云ことなり。魯語に、昭公が楚の師を出して魯を伐んといへるに、榮成伯が對に、以伐タバ、魯既不レバ之取一レ也。必用焉。守ルコト必固カラン矣。若楚之克、諸姫コトヲ焉。而况ヲヤ、といへるは、昭公楚の師を出すことを許されて、魯を伐給はゞ、魯の士民は季孫が卞を取るさへ違乱なく從たりしことなれば、必ず昭公の旨には從はずして、季孫が命を其処に用ひて、守ること必ず固かるべし。若楚が魯に克たるにしては、晋衛等の諸の姫氏の國は、楚の取りたる魯へ手ざしもなるまじ。まして君に魯國をわたすことあるべきやと云ことなり。齊語に、桓公知天下諸侯多スルコトヲ一レ也。故又大、と云るは、其已に與する心のある処へ、又大に忠なるしかたを施せりと云ことなり。左傳僖二十二年に、春伐、取須句、反其君焉。禮也、と云るは、須句は國の名なり。去年邾人が須句を滅して、須句子が魯に來奔し居たるを、此度邾を伐て、其邾が取りたる須句を魯へ取りて、さて來奔して居たりし須句子を、其取りたる処へかゑしたりと云ことなり。東周策に、君謂景翠曰、公爵執珪、官柱國、戰而勝、則無ケンコト焉矣、不ンバ勝則死セン。不宜陽、と云るは、周累が東周の君におしへて、楚の景翠が韓の宜陽を秦より攻るを、救に出居れるに、謂はする辞なり。爵は執珪、官は柱國にて、戰而勝たるならば、其貴が上には、賞の加へ方あるまじと云ことなり。莊子逍遙遊に、人也、之、将スルニシテ萬物、以メニ一世ント乎亂。孰敝々トシテ焉、以天下ルノ之人ナランヤ、といへるは、さやふなる人、さやふなる德は、萬物を一所にからげて、一世のために少しは亂るゝこともあるやふにと求めいのるほどのことなれば、何故に其處に滞り、敝々焉として、天下を以て己がつとむべきこととするの人ならんやと云ことなり。此弊々焉と云焉の字を置ける意は、こちらに別にのびて來るべき路あるに、それによらずして、あちらの其処に弊々焉として、それをせんやと云意ありて、焉の字を用たるなり。又杯水於坳堂之上、則芥為、置ケバ焉、則膠(*「荘子」逍遙遊篇)といへるは、杯水の少しばかりなるを、くぼみある堂の上にうちかへせば、芥はそれが舟となれども、杯をば其處に置けば、それなれば、下に引つくことになると云ことなり。これもその杯水をくつがへしたる處を、すゑ見こませて、焉と云たるなり。齊物論に、南郭子綦隱而坐、仰而噓嗒焉。似フニ、といへるは、其几にもたれ坐し、天に仰ぎて口をあきたる所が、何とやらんあんごりとあるやふすが、其処にありて、其對し居りたる相手を、見失ひたるやふすにありたりと云ことなり。世説雅量に、稽(*嵇)中散が刑に臨みて、廣陵散を彈じて、此曲は今にて絶ゆと云ひなどした雅量ありしを、當時大學生三千人が命乞をせしに、許さゞりしことを、文王亦尋悔ヒシ、と書けり。これも其許さゞりし其処のことを、悔思われしと云ことなり。又支道林がリシニ、時賢並於征虜亭、蔡子叔前、坐近林公、謝萬石後、坐遠。蔡暫シニ、謝移、就キシニ其處、蔡還謝在焉、因、自復(*「世説新語」雅量篇)と云しは、蔡が起たる跡へ、謝が移り來りて坐し居たるを、蔡還り、謝が其処に在るを見て、謝が坐したるを、其褥ぐちに持あげて、地へほりつけたることなり。
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ブク矣也焉等文字 
凡そ句下にあるべき文字、矣也焉、并に乎耶の類を省くには、先づ第一に心得べきことあり。文字の事を知らざるものは、文字は唯讀にて、其物事の大畧を識りて、それを己が心の目算に通わして、知ることのみなりと思へり。右の如くに心得たる故に、一切の矣也焉等の字をも、皆これを稱して置字といひ、唯其飾りに置くもののやふに思へり。此大なる心得の相違なることにて、右の如く心得たる故に、後世は餘程すぐれたる人も、書を讀むには、其大義を領すれば足れりと云論などをも、言出すことになり、それを一豪傑のなすべき仕かたと思ひ、それより細心に書を讀むをば、嘲りて、文字章句の儒など言なして、愚なる仕業の様に謂ふことも出來りたることになれり。此は全體のわけに昧く、且己がわざの所詮左様の吟味にとどき難き故に、強て右の如くに抂げて言取りて、私の勝手に自慰して言へる偏見の説なりと思ふべし。古人の其書置たる文字が、左様にあらくよみて聞ゆる事ならば、其無用の文字をいらぬことに置くべきやふなし。其無用と見ゆる文字を、餘計あつめて組み立て、其内に其旨を寓せるものなれば、其をのこらず觧ほどかざれば、其中に寓したる物は、取出されぬ道理なり。それを一一に觧ほどくことを、面働(*ママ)なることに思ひて、そつぽふ(*外方)にて見て取りて、此は大抵此事をいへるなるべしと見取りて、定めんとするは、あてずひと云ものにて、甚だあぶなきなり。韓非子説難に、隣家の父を盗賊は是人ならんと疑ひたれば、其人のするところ言ふところが、とかく其盗賊にあたりたるものゝ、するところ言ところなりと、聞なしたることを言へることあり。見取りて定むるには、十が五六は、皆此弊あることと思ふべし。されば大義に通ずることを事として、文字章句を事とせずと云へるは、何ものが言たるにもせよ、身勝手にまかせたるしかたにて、細に思はざるの過なりと思ふべきことなり。されば讀書は、其言へる物事を識りて、それを己が心の目算に通はして知ることなりと心得ること、甚しき、ひが事なり。凡文字に書たるは、並に皆當時の其言語の通りを、文字にうつし取りたるものにて、即言語の通りなり。言語には、それを聞人の心に、其言ふ物事の大小・遠近・緩急を聞取らせんとするが為に、其語勢に、或は言切り言つゞけ、或は外へのけ、或は内にもち、様々にして、其神氣のはづみをうつして、それを言ふことにて、此はづみばかりによりて、其語意の聞ゆるところに、活ると死るとの差別を生ずることなり。一切の語助は、並に此はづみをうつす入用にて、一字にても語助を加ふれば、緩みて外となり、省けば急になりて内となる。内となるとは、聞く人の心にそれを持て、今其心の當面につけて、離れさせずもたさんとする勢あるなり。外となるとは、當面よりは一叚打こして、遠ざかりて、表則凖的に立つる類となる。譬ば向ふにのけて立るは、射の的の如し。内にするは、弓と矢を内の方にもちて、最中それを張りて保ち持つが如し。故に凡語下に矣若は也焉あるは、並に其語をば、此によりて立て、向ふにのけて立て、あとの意の趣くところのあてをとるところとするがための用意なりと思ひ、助字なきは、内にそれを專らにして持たす辞なりと思ふべし。
論語に、賜也始可一レ已矣。告諸徃而知、と云給る、此已矣より上は、向ふの標的として、のけて立るこゝろなり。知來者は、聞人これを心に持て、其標的にして立たるところへ、思ひ合さする意もちなり。
子夏問孝。子曰、色クテ、有レバ事弟子服其勞、有レバ酒食先生饌。曾是以為乎。此饌の下に焉の字ありてよき処なれども、全体の語勢が、顔色はいやに思ひなりに、其勞に服し、先生に饌するなどのしかたのあることなるが、これまでさやふのことをも孝といわるゝと思へるかと言給ひたる意なる故に、先生饌已上の數語は、其事を今十分にそれを持たせ思はする語意なる故に、焉の字は用られずして省けるなり。
子游問。子曰、今之孝者、是謂能養。至ルマデ於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。此能養の下に、也の字あるべきに似たる処なり。されども能養と孝と別なるわけ、未わかれざる故に、也の字を省けるなり。餘は此を以て類推すべし。
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  此は問の辞に用ゆる字なり。乎邪歟の類、並に皆問の辞に用ゆる類なるが、其問の意もちに、深淺の差別ありて、乎の字は、問の意淺きに用ゆ。問の内に一かまゑの内づらありて、それへ向ふの引つきたることを内にもちて、此内の処にとまるならずやと云ふきみなり。意淺と云は、此問の辞にて、向ふのこたゑて然りと云を、先づ取りおきて、さて其につけて、向ふが其筋にちがひあるを推し言ふか、又は其なれば、なぜに斯はせざるぞなど云ふ辞を、あとよりかけんとて、先づ向ふを捉ふるためばかりに問ふ意なる故、淺と云ふなり。
古今集十四かげろふのそれかあらぬか春雨のふるひとなれば袖ぞぬれぬる。此それかあらぬかのか、乎の字にあたるべし。蜻蛉は枕辞なり。それかあらぬかとは、半ばわすれ半ばおぼゑたるを、春雨の至てほそく、あるかなきかのやふなるにたとへていへるなり。ふるひとなればと云るは、雨る日となればと云ふと、人にふるされたる人なればと云を、もぢらせていへるなり。されば、此かの字の意、あるかと思ふが、それなるか、あらぬと思ふが、それなるかと、たゞ物の外がわの処ばかりを、ちよと引かけとりとめて付けんとするこゝろなり。
同集十五吹まよふ野風をさむみ秋はぎのうつりもゆくか人の心の、といへる、ゆくかのか、乎の字なるべし。秋はぎのと云るは、秋はぎの如くにと云はんが如し。彼に思ひをかけ、此に思ひをかけて、心多く迷ふ故に、我には心が次第にはなれて、うつりゆけると思ふが、それなるかといへる意なり。
(同集十九)あま(*又以降三字分程度不鮮明。埋め字の跡か。)雲のよそにも人の成行かさすがに目には見ゆるものから、といへる、成行かのかも、乎の字なるべし。さすがにとは、さふは云つゝやはりと云ふきみなり。我は忘れやらずして、其人の面かげは、我目に常に見ゆるものなりに、其人の身は、天雲のあなたになりゆく故に、茲に遠ざかりて、來ることのならざるか。我はさやふに思ふが、それなるかと云意なり。此二首のかの字の餘意に、さやふなれば、是非もなしと云ふ氣味をふくめるなりと知るべし。
鄭風に、女曰、觀乎。士曰既且、且徃觀、といへるは、其語勢右にいへるとは、少しかわりありて、湊洧の水の景色を見物せんと思ふが、さやふになるかと、女のいへるに、士のことふるに、既にせりと云ふとも、それにはよらずして、徃きて見物することと云ことに、身を以てなることであらふかと云氣味にて、旨の淺き処は、後世の使ひ方と同じけれども、語勢は少し入れこみていへり。論語に、學而時習之、不亦悦、と云給へるは、これも亦悦ばんことなりとはいはれざるかと云ことにて、其餘意に、悦ぶべきことと思はば、なぜに學べば悦ぶことありと思はざるぞと云わんための引かけなり。楚語に、不義、猶敗國家。今壹ニセルニ五六、而必欲セルハ、不亦難カラ、といへるは、一の不義の人を用ふる國(*國の字不明。)ありても、國家をやぶることなるに、今は五六の不義を一つにからげて持たる人を、必ずそれを用んと欲せんことは、これも、やりにくきことと云ならずやと云こゝろなり。晋語に、梗陽人有獄、将ント勝、請ルコトヲ於魏獻子。獻子将ント、閻没謂叔寛曰、與子諌メン乎。吾主以於諸侯。今以梗陽之賄セバ、不可ナリ、といへる、此乎の字、詩の觀乎といへる乎の字に似たる語勢にて、與子諫むることにせんと思ふが、さやふになるべきかと云ふ意なり。齊策に、孟甞君出、問門下諸客、誰計會、能於薛ナルカ、といへるは、孟甞君より張り紙を出して、其紙上の文言にて問へるに、門下諸客の内に、誰か算を能くして、薛の民へ借し置たる金の未入を請取ることをせんものぞと云ふ意にて、此収責のことに、誰と云ものが、此任になるであらふぞと云ふこゝろにて、乎の字あり。莊子讓王篇に、孔子謂顔回曰、回來、家貧シク居卑。胡とは、家は貧し、居塲処は卑きに、なぜ仕へぬと云ことになつてあるぞと云給へる意なり。世説に、孫子荊少時欲、語王武子、當ベキニ枕石漱流トイフ、誤セント一レ。王曰、流可石可、と云る乎の字も、流は枕にすればなり、石も漱ぐことにすればなることに、はまるかと云ふこゝろもちなり。
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  此も多く問辞に用ゆれども、全体は物のなり來りたるを見るに付けて、其内づらのそれになり來りざまを、推して形容し言ふ辞の尾に用ゆる字なる故に、其時の語勢の引はなしによりて、自から問の辞になれるなり。
古今集秋の野の草の袂か花すゝきほに出てまねく袖と見ゆらん。此草の袂かのか、耶の字にあたることなり。秋の野の諸草の内にての、袂と云ふにあたることになりて、あのやふに見ゆることなるかと云ふきみなり。
後撰こりずまの浦の白浪立出てよるほどもなく歸るばかりか、此ばかりかのかも、耶の字にあたるなり。こりずまの浦の白浪なれば、折角立出たれども岸邉によるほどもなく、打あがらずして、歸るばかりの様にゆくことなるかと云ことなり。
古今集心ざし深くそめてし折ければ消あへぬ雪の花とみゆるか、此も上に同じ。志を深くそめて折ければ、雪の消あへぬも、花と見ゆるやふにゆくことなるかなり。此は漢の李廣が石を虎と見て、矢を射たりしに、石も虎になりて、矢を飲みたるに比してよめるなるべし。
後撰秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか浪のよするか、此も上に同じ。花かあらぬかは、花乎非耶なり。浪のよするによりて、あの如くに見ゆるやふに徃くことになるかと云意にて、耶の字なり。
老子に、ズヤ其無一レ私耶。故スニ其私といへる耶の字、問の意にあらずして、たゞ其奥の方の來る筋を付けて言たるにて、其私なしと云ふにゆく筋にある故に、能く其私を成せるに非ずやと云ことなり。史記趙堯傳に、メニ趙王年少而戚夫人與呂后郤邪、備ヘントスルニ萬歳之後ニシテ、而趙王不ジトイフニ上レ自全スルコト、といへるも、有郤と云やふなることにゆく筋あるがためにと云ふことにて、問の辞にあらずして、たゞ辞をおぼろにして、推したるを、それなりに立てゝ言たるにして置たる字なり。易繫辭傳に、乾坤之縕メル邪、又云、乾坤之門邪、と云るも、邪揣を以てあてゝ言たるこゝろもちなり。乾坤の二卦の内には、自から坤乾の象こもりたる故に、易之縕めると云筋になることか、易の出くる門になると云筋にゆくことかなり。荘子逍遥遊に、野馬也塵埃也、生物之以相吹也。天之蒼々タルハ、其正色邪。其遠而無至極スル邪。其視タルモ亦若ナレバ、則已矣、といへるは、野馬・塵埃の類の、此地面の上に動きて息ざるは、天地間にある生物の息を以て相吹ばなり。相吹ざれば、塵埃の如きもの滿あることあり。天の蒼々と見ゆるは、正色なりと云ふになることか。遠而至極する所なしと云ことになることか。其至高の處より下を視たるも、亦蒼々と見ゆべしとせば、先づそれにてよいと云ことなり。左傳の中には、耶を用たる処、ただ一處あるかと覺ゆ。國語には全く見へず。畢竟紀事までにて、邪揣の辞の如き、入こみたる語勢は書くことに及ばぬ故なるべし。
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  此は其中の實を推し定めんとする意にて、問ふ辞に用ゆる字なり。半ば推し定めたる意にて、次の語に直にそれに極め置て言ふ辞にもかゝることあり。本邦の古語、此に類せるあれども、少し軽く使へり。
古今集天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも。此かものか、歟の字の旨と同じことにて、少し軽し。三笠山に出し月と云ことになることにあたるかなり。
(古今集第十九)(*原文注記なし。二字下げ、空白。)幾許(*いくほど)の田をつくればか郭公しでの田長(*たおさ)を朝な〳〵よぶ、此つくればかのか、歟の字の旨と同じことにて軽し。後拾遺まてといひし秋も半になりぬるをたのめか置し露はいかにぞ、此は待てといへども聞ぬ顔にて、秋も半になりぬるに、此方よりたのみたることもなき露は、何のためにおくことになることになるにあたるぞと云こゝろにて、たのめかのか、歟の軽きものなり。
殷頌に、猗與那與、といへるあり。此は其やふに道のつくことになることにあたるか、まわり〳〵てそれになることになるかと云こゝろにて、殷の先祖を祭るに、樂を奏せるところが、我を綏んじて成を思はしむることにあたることになるかと云こゝろなり。禮檀弓に、孔子之喪、有燕來觀者、舎於子夏氏。子夏曰、聖人之葬人與、人之葬聖人也。子何觀焉、と云るは、聖人の人を葬ると云ことになることにあたれるか、其故に觀んとなれば尤なるが、此は人の聖人を葬るなれば、何を觀んとして來れるぞと云るなり。論語に、與、抑〳〵與、といへるも、それを求めたりと云ことになることになるにあたるか、またはそれを與へたりと云ことになることになりてあたるかなり。莊子、罔兩問景曰、曩子行、今子止。曩子坐、今子起。何特操、といへるは、史記樊噲傳に、始陛下與臣等豊沛ヨリ、定タルニ天下、何ナル、といへるとは、似たる語勢なれども、旨大なる相違なり。天下を定めんと思ひ立て、身をはげまし事をつとめ給しことは、何とある御心入にて、其時の様子が内氣充實して、外に張りて壮んなりしやと云きみにて、其時の心入のすぢのたちたるところを、顧み思はせんとて、推し問へるなり。此何其無特操與は、景は己が意を以て其行止坐起をするに非ざることを、罔兩も能く識りての問とし作れる故に、何とて其行が止となり、坐が起となりておれば、別にはなれてかやふにするぞと云ふ、とりきまりたる操なきことになることにあたるぞと云こゝろなり。さる故に、景が答に、吾有コト而然者邪、といへるなり。又云、知周之夢蝴蝶與、蝴蝶之夢周與、と云るも、周之夢蝴蝶と云ことになるにあたるか、蝴蝶之夢周と云ことになることにあたるかと云ことなり。又云、栩々然トシテ蝴蝶也、自喩セルヲ與、不リキ周也コトヲ、といへるは、自から己が志に適せるを心に入れて思ひしと云ことになることになるにあたるか、身は周なりと云ことを知らざりきと云ことなり。齊策に、老子の文を引て曰、必以、雖必以基。是以侯王稱ルハ孤寡不穀、是其之本與、非夫、といへり。今の老子の文には、自謂孤寡不穀、此其賤為ルカ耶、非、とあり。齊策の文の意にては、是やふにあるは、其意に賤をば本とせるになることになるにあたることなるか、是説は非なることにあたるかと云こととなる。今の老子の文の意にては、自から右やふに言成せる此意は、其旨に賤を以て本とせるにあたることになりてくることか、そうではなきことかと云きみなり。齊策の文の通りにては、貴を賤の本とすることに、人より引取りて見ることにして言へるなり。今の老子の文にては、其自稱の意のおこりを推して思わす意持なり。齊策此下に、孤寡者、人之困賤下位ナルニ也、而ルニ侯王以自カラフハ、豈非人而尊ニスルニ、といへるも、人に下りて士を尊貴にすると云ふに非ずと云ことになるになりあたるかと云ことなり。後世の文にも推しずい(*推量)にしていふに用ゆ。史記曹相國世家に、惠帝恠ラク相國不事、以為豈少トスル、といへるも、曹があのやふにあるは、朕を少き故に、目もきかぬ故に、事をつとむるにも足らずと云こゝろもちにて、あの如くになることになるにあたるかと云ことにて、即ち推しずいの未决の辞なり。宋の蘓軾が鼂錯論に、其中程にては、錯が誅せられたるわけを、ント、安アランルヽ、と云おきて、結尾に至ては、之所自全スル、乃其以自禍スル、と書けり。始めは蘇は其わけを十分に知り居る言かたにて、其つまり処にて、此未决の辞にせるは、文理のつまらぬ書かたにて、畢竟與の字を用たるも、唯古人の口眞似にて、拍子のみにて書て、其實は古人の辞意に昧き故なり。唐宋已後は、名賢の文にも、此類甚多し。されども、古文に似せざる文には、蘇と雖も書ぬことなり。要するに、唐宋已後の文は、皆法とするに足らぬこと多しと心得べし。
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  此も語尾に用ゆる夫字にて、疑辞に用ゆ。此字意本其物がらを、其已前の此方の塲処より、遥なる向ふの先に立ちあるにして、それにあてゝ思ふことにしたるこゝろもちに用ゆるなり。
古今集老ぬとてなどか我身をせめぎけん老ずは今日にあはましものか。此ものかのかの字、夫の字にあたるべし。今日の塲処より、已前の塲処にての向ふの内に立あるものにして、其にあてゝ思わすることにして云るなり。
古今集我袖にまだき時雨のふりぬるは君が心に秋やきぬらん。此ぬらんの下に、夫の字のある氣味なり。耶の字の、向の内にてのなりて來ざまを推し言ふとは、少しかわりて、向ふの内にすわりたる処を、あてゝ言ふきみなり。耶は動き、夫は靜なりと心得べし。
禮檀弓に、魯人有シテ而暮。子路笑之。夫子曰、由爾責於人、終無キカコト夫。三年之喪、亦已シイカ矣夫、とある、此上下の夫の字、上の一つは、子路が心根の立かたにあてゝ指し、下の一つは、それを向ふの心の立かたとして、指し思わせ給へる心持なり。晋語に、靡笄之役、郤献子見、公曰、子之力也夫、といへるは、靡笄の合戰に、晋の軍勝になりて歸りて、郤献子が晋公に見へしに、子が力によりてなることかのことはと云ふことにて、乃ち靡笄の勝の様子ありしを、向ふに立あるにして、それにあてゝさして夫と云るなり。荘子逍遥遊に、今子有ラバ五石之瓠、何以為シテ大樽而浮ブルコトヲ乎江湖。而ルニルハ其瓠落トシテキヲ一レ容、則夫子猶有レバニスルコト之心也夫、といへる、其さまを其心の内にあるにして思ひて、指すこゝろなり。太宗師(*大宗師)に、天無私覆、地無私載、天地豈セン哉、求其為之者而不得也。然而至、命ナルカ也夫、と云る、天地に私の覆載なきからは、私に我を貧ふすべけんや。其私にすることをするものを求めても得ぬと云ほどのことなるべし。しかるに我此貧の極に至れるは、命也と云ふことにあたることか。其あちらの内にあることにて、こちらにさやふになることならんと云こゝろなり。後世の文、此字を歎辞・疑辞に使ふことは、率皆古語の語勢に似よりたる處にても、用ゆることあれども、常として用ゆることは、多く見へず。
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  此も歎辞に用ゆる字なれども、乎夫等よりは、其意味こみ入りたるきみあることなり。其故は大抵人の物事を取あつかふ道のあるところに、常量の度あるものなるが、偶〳〵其物若は事の、其常量のつもりの外へはづれ徃くことになりゆくことのあるには、並に此哉の字を着けて言ふを辞とすることなり。
古今集十六あかなくにまだきも月のかくるゝか山の端にげて入れずもあらなん。此かの字、哉にあたるべし。まだ入るまじきと思ふ常量の外へはづれ徃くことになりて、かくるかいと云ふきみなり。
古今集あな戀し今も見てしか(*見てしが)山がつの垣ほにさけるやまとなでしこ、此見てしかのか、哉にあたるべし。戀しと思ふあまりが、むりなることながら、今も見たしと思ふこころになり徃くことになりてゆくわいと云ふきみなり。
檀弓に、子思の母を葬んとせられしに、栁若謂子思曰、子聖人之後也。四方於乎觀禮。子蓋諸。子思曰、吾何愼哉、といへる哉字は、栁若が愼めといへる心あたりのこと、子思の覺悟の度量の外になり徃きたるを、推して尋問わるゝ意持なり。又云、子蒲卒。哭者呼。子皐曰、若是野ナル。哭者改、といへる哉の字、易にナル哉乾元、至レル哉坤元、又は論語に、善哉問、檀弓に、美哉輪タリなど云ると同じ意持にて、並に世間の野なりと云ふにあたることになりてゆかふかい、大と云ふにあたることになりてゆかふかいと云ふことにて、これも自分の極め言ふことには打こして、おゝやけの言にして、推あてゝいへるこゝろなり。檀弓に、人豈有之者は、世の人の見る処にても、此事のヶ様にあるに、それを非とするもの有りと云やふなることに、はづれてゆかふかい、徃まじと云ふことなり。又成子髙が吾縦トモ於人、吾可死害アル於人乎哉(*「礼記」檀弓篇)は、これにては、死を以て人に害あることにせらるゝはと云やふなることに、所存を付くることに徃かふかいと云ことになり、乎は、と云やふなることと云ふことにて、此乎の字は、上の可の字までに屬し、哉は、吾の字よりかゝる意持なり。上に引たる子路朝祥暮歌の人を笑へるを、夫子のとがめ給へる辞のあとに、子路出。夫子曰、又多ナラン乎哉。踰ヘバ則善カラン、と云たまへるは、三年の喪の上に、又多日こらへよと云やふなることにゆかふかい、月をまたげたらば善からんにと云たまへる乎哉も、同じこゝろもちなり。晋語に、厲公の鄭を伐んとせしを、范文子は欲せずして、諸侯がつく故に、晋に憂多しと云たりしに、郤至曰、然則王者多憂乎。文子曰、我王者ナラン也乎哉。夫王者、成シテ其德、而遠人以方賄。故憂。今我寡德ニシテ而求王者之功。故、といへる、此の我王者也乎哉は、我は王者也と云やふなることに徃かふと思へるかい、それは郤が心得の相違なりと云ふきみにて、此の如くにいへるなり。荘子逍遥遊に、今子有大樹、患ヘバ一レ用、何於無何有之郷、と云へる下に、斤斧、物無害者、無用、安困苦スル、といへるは、左様にもありたらば、どこらに困苦するところと云ことがあることに徃かふぞいと云ことなり。齊物論に、神禹、且不コト、吾獨且奈何哉、といへるも、神禹がありても、知ること能はじと云ほどのことなるに、吾獨衆にぬけても、まあなんとして知ることにゆかふぞいなり。齊策に、乃得不肖者、而為コトヲ賢者、豈而噬ナラン、といへるは、不肖なる者をのきて、賢者にかはるゝ狗となることを得らるゝならば、左様にあるには、其腓をつかみて、それをかみつくが、其すぢなりと云ぎりにゆかふかいと云ふことにて、其つもりが、其外へも出ることをつもりにして、其外へ出ぬがつもりの外となる故に、亦哉の字を以てこれをいへるなり。論語に、觚不觚、觚哉觚哉、と云たまへる哉も、さなければならぬことに極まりたることが、外になりて徃くを云ふ氣味に以て、觚哉なり。即ち觚と称することに叶ふに徃かふかいと云こゝろなり。左傳哀十六年に、諾哉といへる語あり。此もいかにもとうけ合れぬことなれども、先づいかにも心得たりと云ことにしておこふかいと云ふきみなり。唐宋已後の文に用ゆるも、皆此心にて用ゆることなる故に、例を引に及ばず。又乎の字哉に似たる使ひ方、古文に間(*まま)多し。乎の字は、前にも言る如く、それを言ふ辞の内に、其なりの所ある故に、それを見せて、いかにも其通りなりと云答辞を取る意に用ゆれば、問辞となり、唯其事物の象を、人の意想の前におし立て言ふばかりなれば、哉に似たる氣味となることなりと心得べし。論語に、煥乎其有文章とは、煥たりと稱することにあたる様子にてと云ことなり。巍々乎唯天為(*「論語」泰伯篇)も、巍々たりと称することにあたる様子にてと云ことなり。荘子讓王篇に、越人三世其君を弑したるによりて、王の子の捜これを患て、丹穴と云処に逃れたりしをさがし出して、むりに乗するに、王の輿を以てせしに、王子捜仰而呼曰、君トスルカ乎君乎、獨不以舎一レ、といへるは、やはり問辞のこゝろにて、我をも亦弑するところの君とするかと云ふこゝろなり。孟子に、孔子の流水を觀るに、歎じてナル哉水哉といひ給へりと云るにて、乎哉の別を思ひ知るべし。詩齊風に、コトアラントシ於著乎而、充耳以セントセバ乎而、尚ルニセントセン(*原文{玉扁+(爪/曼)})乎而、とある乎而のこゝろは、我を著の処に俟て居れりと云こと乎の字なりになりたらば、それ而字なりにはと云こゝろなり。瓊華の下の乎而は、上の於著の下の乎而をこゝへ引つけて、思ひ合させんとして、置きたるものなり。荘子逍遥遊に、歸休乎君は、休美を君に歸することであらふと云ことなり。此乎をかなと讀むは誤りなり。史記趙世家に、王夢見處女鼓シテ而歌、曰、美人熒々、顔若之華。命ナルカ乎命乎。曾トスルコトとは一向に我をばすぐれたりとするものがなしと云ことなり。左傳に、南蒯が郷人に酒を飲しめたるに、郷人或歌曰、已ンカ乎已乎、非之士、といへるは、もはやこれぎりにてやめてしまふことであらふ、吾黨の士と云ものと云ふには、筋の違ふことと云ことであらふと云ことなり。論語に、孔子の蘧伯玉が使者の對の善なるをほめて、使ナルカ乎使乎と云るは、使者と云は、此人のことであらふと云給へるこゝろもちなり。又春秋の時の人語に、人名を呼ぶに、此乎の字をつけていへるあり。後世の人は、やはり其ころの語に、人名の下に也の字を置きたると、同じやふなることに心得へて(*ママ)、差別をつけて讀ざるは、疎なることなり。譬ば論語に、回也・参也などあるは、衆門人の中にて、孔子より其人の内づらばかりを引分け立て呼びたまひたる意なり。其人の自稱に回也・賜也など云るも同意なり。参乎吾道一以貫、と云給ひしは、本は参吾道一以貫之乎の意持なれども、下にあれば、全く問の辞となり、上へ引擧れば、参吾今言ふところを、其方が身にとりては、とくと聽くことであらふと云たまへるこゝろなり。晋語に、郤献子が齊に聘し、婦人に笑われたるを怒り、歸りて齊を伐んことを請たりしとき、范武子退朝曰、燮(*原文{(火+言+火)/火})乎吾聞、干サバ之怒、必獲焉。夫郤子之怒甚矣。不ンハ於齊、必發セン晋國。不ンバ、何以逞セン。余将攻焉、以ント其怒。無フルコト也、爾勉二三子、以承君命唯敬、乃老とあり。此は范武子が其子の文子名は燮に、郤至が怒をよくあしらはざれば、事によりては、却て晋國の乱とならんことを恐れて、致仕をする故を語り、尚亦范文子も、其心得にて郤子に觸るゝことなくして、朝に仕ふる様にと言聞すことなる故に、文子が身に取りて、とくと聽分けて心得べきこと故に、最初に燮乎と呼かけたるなり。又訾祐が死せしに、范宣子が其子献子名は鞅に謂て曰、鞅乎、昔者吾有訾祐也、吾朝夕顧焉。以相晋國、且為吾家。今吾觀也、專則不能、謀則無與。将之何、といへるも、献子が身に取りての大切なることにて、思案工夫を付くべきことを、相談に及ばんとする語なる故に、最初に鞅乎と呼かけたるなり。参乎も、曾子の大切なることとし聽べきを以て、乎と云たまへるなり。やはり亦已乎など云る乎の字の意持なり。荘子人間世に、禍重乎地ヨリ、莫一レコトヲ。已乎已乎。臨ムニ。殆乎殆乎、といへるも、禍は來りては、地より重くして、載せがたかるべきに、孔子はそれを避ることを知り給ふこと出來まじければ、よきくらゐに、左様のことをやめることであらふ〳〵と云たるが、已乎已乎なり。人の上にのりかゝるに、己が德を以てせんとせるは、あぶなきことであらふ〳〵と云たるが、殆乎殆乎なり。詩秦風に、テセンニ我乎、夏屋ニモ渠々タランニ、今也毎スルヒハ餘、于嗟乎、不レバナリトセヨ權輿、といへる於我乎は、彼より我へあしらふあたりであらふなれば、夏屋渠々たるを以てすべきはづなるに、今にては食ごとに餘なきやふなるを以てあしらへりと思はゞ、こゝはかやふにはあるまじきと云ふ思にあたることなり。彼が最初の様子に承けて、事を取りあつかわざることをと云ふが、即于嗟乎なり。大雅抑篇に、於乎小子、未臧否、匪シテ手携一レ、言ニシテ、などいへるは、こゝにては小子にて、未臧否と云ども、心を付くべきことなるべしと云ふ氣味にて、於乎といへるなり。下の於乎小子、告舊止、といへるも、同じきみなり。周頌に、於乎不ンヤハレ、文王之德之純ナル。假ニシテ以溢レン、我其メン、といへるも同じこころにて、こゝにては、文王の德の純なるを、大にいたりて我の方へあふれ來れると云ものなるをば、我には其にそれをとり入れて、己が有とせんと思ふべきことなりと云ふことなり。閔予小子(*周頌の一章)於乎皇考も、同じことなり。訪落の章の於乎悠哉、朕未、といへるは、こゝの處にて、かやふにも思ふことなるべしと云こゝろなり。總じて歎辞に用ゆる嗟呼・嗚呼の呼の字、並に乎と同音にて、やはり乎の字の意なり。とかく其辞意に其処を一塲処として、其辞旨を一はな(*一端)立たることにして、其処に別に心をかまゑて持つこゝろあるにまわる時は、並に呼の字を加ふるなり。下の辞意、別に二叚に切るゝことなく、其辞意のつづきなりなるには、嗟の字ばかりにして言ふことなり。たとへば、禮檀弓に、黔敖為ツテ於路、以待餓者ハスに、餓者ありて來りたるに、黔敖左曰、嗟來セヨ、といへる如きは、今眼前の餓たる境界を、己が食を施す塲合の各叚なるに引取りて、思わすこゝろにて、嗟とのみいへるなり。史記孟軻傳に、嗟呼利之始也、といへるは、古今ともに、利を爭ふより、亂の起ることを、別に心あたりに、其始終を持て居て、さて歎じたるこゝろにて、呼の字をそゑていへるものなり。
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  此字春秋の頃の語助に用たること間見ゆ。後世には絶て用ゆることなし。字書に諸は之乎の合音なりと云るあれども、乎は虞韻に属して、諸の韻属と少しく異なれば、之於の合音の意に見るべし。譯して言へば、それを其方になしゆくと云意あるに用ゆ。
古今集第三夏の夜のふすかとすれば郭公鳴一聲にあくるしのゝめ。諸の字の使ひ処と云ふに非ざれども、使ひ方の氣味合の似たる処なる故に、此をこゝに出せりと心得べし。夏の夜のふすやふの方になしゆくかとすればと云こゝろなる故に、漢土の語の末に用たるも、此やふなる処に用ゆと云ことを、これにて悟るべし。
詩邶風にトセン居月トセンカ諸、胡而微、と云るは、人心の中に正しき心の心にうつるをば、譬ば日輪とするにあたることがあるが、憂ふることを月輪と云方になしゆきて、たとへんかと云はゞ、それに答へて、日月はたがひに目にかゝらぬものになるものなり。心の正しき・憂ふるとには、左様のことなきに、なぜそれに喩ふるぞと言ふべしと云ことなり。論語に、子貢曰、有美玉斯。韞櫃而藏、善賈を求めて沽諸と問れたりしは、藏と云方にせんか、沽と云方にせんかと云し意なり。子禽が問に、子貢の答て、ナリ乎人之求タルトスルニといへる諸の字も同じ意もちなれども、先づ子禽が心得を早く引まはし思せんとする意得に、語末にあるべきを、先づ上へ引上げて、其は此方のことにして心得ることであらふと言ふこゝろにて、其諸といへるなり。左傳に、語末に諸乎と使ひたる例間見ゆ。やはりその方にして行くことにすることであらふかと云ふきみなり。
[目次]
  之焉の合音にて旃と云。此も後世には用ゆることなし。譯していへば、それをぞんじよふ、それにしよう、其処にてと云こゝろに用ゆ。詩唐風に、人之為、苟亦無信、舎、といへるは、それをそれなりに聞舎(*聞き捨て)にしよふ、其処にと云こゝろなり。魏風に、哉。猶來無止、と云るも、その上にもそれを愼むやふにすることを、其処にせんことであらふかいと云ふきみなり。
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  此字をのとよむ處に用ゆることあり。これをとよむ處に用ゆることあり。全体の此字意、聞人のそれを其意に持ち居る処につきて、やはり其物のことにつきての先を指しいふ意にすれば、のなり。その聞たる人の意に持ち居る処の物、若くは事を指していへば、これなり。されどもこれとよむこと、本明白ならざる訓なり。それと云こゝろなりと心得べし。論語に、而時ニシ、は學びたる処のそれを習ふなり。子禽が與、抑與(*「論語」学而篇)といへるも、其是邦に至るとするには、必ず其政のことを、其國君・大夫が孔子の耳に入るゝことにすることを指して、之と云たるなり。詩周南に、参差タル荇菜、左右ニス、といへる之は、左右を指し、窈窕淑女、寤寐、の之は、寤寐を指すことになることなり。其故は、之の字右に云たる如く、聞人の意にもちたる所の物事を指すことなるが、今手のことを、左も右もと指し、精神のあるところを、寤も寐もと指し言へば、聞人のこゝろ、其左と右と寤と寐とをもつに滞るを、其滞る処の當面のものを指すことになること、自然の勢なる故に、流之の之は、左右のこと、求之の之は、寤寐なりと云ことにあたるなり。古文に其物を上に言たるによりて、下に之字を用て、それと指したるものは、常例にて、人の多く見及びたることなり。又物を下に言ふべきによりて、上に先づそれを指して、之字を用たることあり。論語に、クニ、齊スルニスレバ、民免而無、と云る如きは、之と指せるもの、即ち下に云る民の行を指していへるなり。又物を擧げ言はざれども、其語勢にて、其物自から知らるべき故に、其物を始終言はざるあり。孟子に、江漢以濯、秋陽以曬。皓々トシテ乎莫能加、といへるは、有若をば、或人孔子に似たりとして、師とせんと言たりしを、中々及も付かぬと言ふことを、質のあしき布を、幾へん水をかけて、炎日にさらしても、全体の質が相違なる故に、所詮よき布の白きには及ばれざることを喩に取りて言るものにて、之と云は、其質のあしき布をさして言へるなり。又之を疊みていふに、累倍と云ことあり。江漢以濯、秋陽以曬、と之の字を疊むときは、曬之の之の字、濯たる其布を指すことになることなり。易乾文言、君子學以聚、問以辨、寛以居、仁以行も、其聚めたるを辨じ、辨じたるに居り、居るところのことを行にすることなり。次第に累るにつけて、其物が段々に倍する故に、累倍法と名付たるなり。又其上につゞけ言たる処にて、直に指し言ふことあり。論語に吾是之未といへるは、之にすることをばと云ことにて、即ち仕へて其言を出して、用ひらるところの、目當にせらる辞の通りをば、後までそれに違はぬやふに行くことを、未だ能せずと云ことなり。中庸に、ニスル性、率性之、といへるも、之謂と書て、之字を謂の上に置けるは、之の字の上活動となることなり。天命之謂とあれば、天命のとおりになしゆくをば、性と謂ふと云ことなり。下も性にすることに率ふやふになしゆくをば、道と謂ふと云ことなり。易繫辞傳に、富有之大業、日新之盛德など、並に同じ。、闢、などの謂之とあるは、謂字の上、並に靜定してある物の、其名目を明したるなり。之謂の上の活動したると同様なりと思ふべからず。其他列女傳などに、詩曰、云云は、是之謂乎などいへるも、是やふなることにいわれふかと云ことなり。楚辞に、之九畹、とあるも、蘭之は、蘭をばと云ことなり。史記陳渉世家に、之隴上とある耕之も、耕ことをばと云ことなり。これも其楚より念をかけたる張儀をばと云ひ、庸人のするわざの耕すことをばと云も、香氣のすぐれたる蘭をばと云こゝろにて、思入れのある品には、皆右の如くに書くことにて、やはり之上動活(*ママ)と同じ意味なり。又此字を中に挾むと、下に置との差別あることなり。易遯卦六二に、黄牛之革、莫勝説、といへる、即ち中に挾めるなり。たとへば莫勝説コト一レ之と書きても、事は同じことなれども、文勢に叶ふと叶はざるとの差別あり。又下に書くべきを、中に挾むことにし書きても、其上の文勢に叶ふと叶はざるとになること、同じことなり。如此文勢の冝不冝を先づ近く喩さんとならば、知己と云は、朋友の己がことを能く知りたるを云ことなれども、彼が知ることが、己には各別なりと云ことに成、彼を主として云ことになることなり。己知とあれば、かくある己を知れりと云ことになり、己を主として云ことになる。左傳僖廿八年に、晋文公楚に子反を殺せることを聞き喜びて、スルコト也已、といへるが如きは、子反が目ざす敵は、晋の文公なれば、其目ざすところにあたりたる余に、ひどきことを以てあたることが、此已後は出て來ることあるまじと云るきみなり。とかく右の如く、當面にあたりてあることを指すには、莫勝説、莫の如くに、中に挾みて書くべきことなり。當面にあたることになりあたらずして、語る人の心にのみ知れることを拈出して、言きかす語勢のときは、下に置くことにし書べきことなり。されども後世の文には、古文の體のみを傚ひて書くばかりにて、語勢の活動の機までに通じたる文士寡なきにや、かやふに中に挾みて書けること、甚だ少きことになりたり。又此之字をのとよむの用ひ方にも、心得べきことあり。總別本邦の人、物事を語るに、のの字を言ふこと甚だ多き故に、西土の文字中に之字を用べきと、用ゆべからざるとの差別、至つて微細のこととなりて、紛れ失ひ易きこととなれり。たとへば本邦の語にて、表の門の屋根の内の東のはしより西へ五枚目の瓦など云ふに、のの字を六つも重ねて言ふことなるが、西土の文字にこれを書けば、前門屋上自東第五之瓦と書くことにて、之字は只一字を最後の字の上に用ひて聞かすことなり。此は前門と云より屋上と云までも、並に物に付きてそれを指すに非ずして、聞人の心に覺え居る処の前門屋上を呼び出し、其心にうかまし置きて、さて其自東第五と指す処へ、其心をば持ちこませて、さて其瓦として指す故に、之字を一つ用ゆることにて、之字多からざる故に、心の持こむべきすぢが、すわることになりて、紛れぬこととなることなり。凡そ文字を用ゆるの大意は、右を以て推して、其他を例知すべし。故に之字の文中にあるは、たとへば、山路を行く人のために、先へ行きこしたるものが、あとより來る人の為に、枝折を付けてしるしとするが如きものなりと思ふべし。一すぢばかりに枝折を付けずして、四方に付けては、却て迷を重ぬる種となるなり。されども、古文に又之字を疊用したるあり。禮檀弓に、南宮縚之妻之姑之喪、夫子誨、と書けるが如きは、深き子細ある故のことなり。其故は南宮縚之妻といへるは、即ち論語にいへる処の、夫子以、とある、孔子の兄の女のことにて、孔子の為には姪女なる故に、孔子これに髽の禮を誨へたまへるなり。作者此わけを聞さんとて、南宮縚之妻とかけるなり。其妻のためには姑なるもの、喪にて、孔子の姪女の為には、大切にすべき禮なる故に、孔子これを誨給へるを見せんとて、又妻之姑と書たるなり。之喪の之字は、乃ち常例の之の字なり。かやふの処、其一處〳〵に之字を置ざれば、孔子の誨へ給ひたるわけの分らぬこととなる故に、一處〳〵に、之字を用ひ、讀人の心の符牒を、其處ごとに心をそれに持こまし〳〵して、聞さんとて、右の如くにかけるものなり。假りにこれを言はゞ、叚々已前の符牒を合せ合點させて、さて今の正面の処までに、思ひいたらせんとする意持なり。さて此字を用ゆる大意は、品別をするが第一の旨なり。晋語に、暇豫之吾々タル、不トセヨ鳥烏。人皆集ルニ、已獨集ルハ於枯、といへるは、人の菀に集りて樂あるに引わけて、己はひとり枯れたるに集れりと云こゝろもちなり。詩陳風に、之洋々といへる之字は、をばとよむべし。是は小水をば洋々たる大水なりと思ふべしと云ことなり。かやふなる差別は、全体の語意によりて、辨知る(*わきまへしる)ことにて、之字の置かたは同じことなり。又之字をこのとよむ例は、此是の下に出す。
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  此字してと讀ことなれども、本邦の語にしてと云ふは、只其事の其次につゞくことを言んとするに、右のしてと云辞を用ゆ。文字中の而字は、右と小異ありて、其事のつゞきを語らんとするに、譬ば二の次の三を語るに、其二を引かけて持たせ置きて、さてそれに三を加へて思はするに、而字を用ゆ。本邦小兒の戯に、自から右手を以、其左の耳朶をつまみ、左手を以、其鼻の尖をつまみて、三四返まわることをすることあるが、右の事を語るに、右手耳朶をつまみ、左手鼻尖をつまむとのみ言へば、耳朶をつまみやみて、さて鼻尖をつまむことに聞取りては、詮なきことなるが、其間に右の而字を加へて、右手耳朶をつまみ、而シテ左手鼻尖をつまむといへば、右手耳朶をはなれぬことにして聞くことになる。かやふのところ、即ち而字必用の処なり。右の故を、更に細に其所以然を明さんとならば、凡そ文理と云ものは、但一すぢなるものなり。故は人の神氣は、即ち天地の神氣にて、國語(*「左伝」か。)にも、神者聰明正直ニシテ而壹ナル者也、といへり。右の壹なる神氣に、其言ふところを聞せて、さて其思をば、其言ふ辞の象をもたせて、はこばすことなる故に、幾はなも路ありては、神理に違ひて通ぜぬこととなる故に、文理は但一すぢなるものなり。されば其すぢをつたひて、叚々に次へかわり〳〵するは、右の一すぢをまぎれぬ様に立て辞とし、即ち文理とすることなるが、物には、又表裏・陰陽・向背ありて、此裏背陰は、皆幽の属、表向陽は、皆明の属にて、物を語るに、其を併せて喩さゞれば、通ぜぬことあり。右の文理の一すぢなるに於て、物の幽明を併せて語れば、其明なるが、文理の正面のこととなりて、其幽なるは、其明に旁帯そひおびたる依り物となる。而の字は、いつにても、此幽明のかすがひにて、幽明を併せてもたするために、用ゆる文字なりと思ふべし。されば本邦の助辞に用ゆるしてと云ふ語の、次〳〵を立てゆくために用ゆるとは、全体の趣相違せる字なりと心得べし。さて右の幽明と云ことを、古言に徴して知らんとならば、先づ論語に、而時習之とある學は、まなびておきてと云ことに回る故に、幽なり。時習之は、當面のこととなる故に、明なり。人不知而不とある、其上の人不知は、人の知らぬことがありてもと云ことに回る故に、幽なり。不慍は、即其明なり。大學のルトキ而後有コト、も止を知ることありと云ことを會得してと云ことなる故に、これも幽のことなり。荘子逍遥遊に、北冥魚、其鯤。鯤之大、不幾千里也。化シテ而為。其、といへるも、化することになりて、さて鳥となると云ことなるが、其化したることをかげへ回して、それを持て、さて其鳥となりたる処を、正面にもたし聞さんとて、而といへるなり。又云、奚を以之て九萬里に而南を為ん、と云るは、何とゆくことにて、九萬里にあがり之きて、さてそれから南へむきゆきやふなることを以てせるぞと云ことなり。凡而字を用ゆるの法、後世の文にても、やはり皆このとおりにして用ゆることなり。古文には而字用たると用ざると紛るゝことあり。たとへば、人無信とありても聞ゆべきに、論語に、ニシテ而無とあるは、人と云をもて居てと云ことなる故に、人而なり。大學の可ん以す人にして而不といふを一レ鳥に乎、とは、人でありながら、鳥ほどにゆかぬと云ことを以て言ふて立つことかと云こゝろなり。孟子に、齊桓晋文之事、可コトヲ、とあるは、只聞くことを得べしと云ことなり。論語に、夫子之言フハ天道得而聞コトヲ、といへるには、而字をはさみたり。これはかやふにすれば、それなりに聞くことを得らるゝと云ことにゆかぬと云こゝろにて、而と得との間に、かやふにすればそれなりにと云ふきみを言ふ語を略したるものなり。孟子萬章に、盛德之士、君不而臣トスルコトヲ、父不而子、と云るは、而臣は、それなりに臣とするなり。而子は、それなりに子とするなり。左傳隱十一年に、鄭荘公の許に命ぜし語に、ニシテ而既周德矣、吾其許爭ハン、とあるも、天と而の間に、上に言おきたる許の德を修し、天を敬することをすることを、此處に挿み持て、天がそれにてと云こゝろもちなり。史記商君傳に、喟然トシテと書き、蘇秦傳にも、喟然歎と書きたるあるに、又自序に、喟然トシテ而歎と書き、又司馬相如傳に、听然而笑と書けるあり。此はたゞ喟然たる様子にて歎じたるが、喟然嘆なり。喟然たる様子にて、さて嘆じたりと云ふが、而嘆なり。此は、其坐して居たる景色などを書きて、さて其処にての喟然歎なれば、而を用ゆ。其故は、聞人のそれを聞き居れる心の象に、已に其列坐し居れる象を、目先に持ち居れる故に、先喟然たりし様子を、其処にもたせて、さて其語の意旨へ、聞人のこころをうつし聞さんとする故に、右のごとくに書くことなり。而字を句末に置く法は、詩の乎而なり。此義已に前に辨ず。今贅せず。此の而の字、又然の字に似たる使方あり。下に辨ず。
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  此の字本火の物にもゑ付きて、其焰のつたひゆく処が、其形質の通りになりゆくことを、然と稱する故に、借用して此物の實のゆきざまが、其辞に形容したる通りなるを、其とおりなりと許し言ふに用ひたるなり。論語に、冉雍が乃太簡ナルコトといへるに、孔子答て、之言然と云たまゑるは、雍が言へる処が、實にはすぢは其とおりにゆくことなりと云たまへるこゝろもちなり。此然の字、是の字と紛るゝこと多し。されども、是也と云は、物のあたりが、それかこれかとするを、これが其物にあたると云ふが、是の字にて、非の反對なり。孟子に、前日之不受是ナラバ、則今日タルハ非也。今日之受ナラバ、則前日之不受非也と云類にて推知るべし。然ば右に云る如く、物のゆきざまが、其辞のとおりにあれば然なり。其とおりに合ざれば不然なり。荘子齊物論に、惡乎然、然於然、惡乎不然、不トス於不一レ、とあるも、これを以て辨じ知るべし。されば齧缺問乎王倪曰、子知之所トスル(*「荘子」斉物論篇)と云るも、物のさま〴〵なる多勢が、いづれもそれは、これがそれぢやとするところは、こゝなりと云ところを知るやと云ことなりと心得べし。逍遥遊に、連叔曰、然、といへるは、さぞさやふに、あるべきことなりといへるこゝろなり。さて此然字を語辞に用ゆるときは、十が七八、とかく然字の下は、上を打かへす語勢多しと心得べし。其故は、辞の常理にて、物の其通りにゆくことを許すは、先づ其すぢを立てとおらして、其はづみを一ぬきぬかせて、さて其許さぬところのことを合點さするこゝろもちなり。史記鄒衍傳に、其上に中國の九州は一州にて、其九州を一州としたる如きもの、九つありて、其外を裨海がそれをめぐらし、其裨海の環れる如きもの、又九つありて、大瀛海其外をめぐれり。天と地との打合なりと云後に、其術皆此類也。然ドモスルニ其歸、必止乎仁義・節儉・君臣・上下・六親之施、始也濫スル、といへる然字の如きも、其始めの妄誕なることの限りもなき様子を、人々のそれを見て思ふところを、それにして立てとおらして、それはそれにてあれども、其落着の處をつめたるところは、ぜひに仁義・節儉に止ることになりあるが、其を言始むるには、法にはづれて言出せるばかりなりと云ことなり。平原君傳に、虞卿は魏齊に忍びざるに及んで、卒には大梁に困めり。庸夫も且知其不可。况賢人ヲヤ乎。然ドモ虞卿非レバ窮愁、亦不以自見コト於後世といへるも、魏齊をすつるに忍びずして、趙を去り艱苦したるを、智者にては知らぬことにてはあるまじと思ふと云ひて、さてそれはそれにして立てとおらして、それはそれにてあれども、虞卿は窮して愁たるに非ずは、書を著はして後世には知られまじと云ことぢやと云ことなり。刺客傳に、曹沫荊軻五人、此義或成或成。然ドモ其立意、較然トシテ、名垂後世。豈妄ナラン也哉、といへるは、五人の義のあるところ、事の成就・不成就の差別あれども、それはそれにてあれども、意を立てたるところ、きつかりとわかれめ立ちて、其志を欺かざれば、其名の後につたわることが、あたりのなきことであらふかいと云ことなり。何れにも、此然字は、物事の外がはの様子の、善にても、惡にても、それと立ちて見ゆる處を、先づそれなりにして立つことにして、さて其内づらの實にそれに因らざる一筋を、推し立て言はんとするには、必ず此然字を用ゆることなり。又然と雖然との差別あり。此は雖の條下に辨ずべし。又古文然を用ゆるに、語の首に置くことあり。詩大雅に、帝謂文王、無畔援、無歆羡、又天之方難、無然憲々、天之方蹶、無然泄々、といへる然字是なり。これはやはりいつまでも、今までの畔援のとおりになし居ることをやめて、それを改めよと云きみなり。歆羡・憲々・泄々、並に此を以て凖知すべし。さて而字の然と紛るゝ處の別を辨ぜば、史記南越傳に、南越内属、國之利也。而ルニ相君苦不便、といへる如きは、然字に似たれども、此而の下の語意に、別のすぢを立ることなく、唯其而字の上の語意に持たる処へ、持かへして、其がそれを持ながら、兩岐に分るゝ処を、推し問意なる故に、而字を用ゆるなり。平凖書に、今天下不幸ニシテ急、而ルニ父子死コトヲ一レ。雖戰、可謂義形於内、と云るも、今天下の不幸にて、南越の反せる急ありて、それを持たるに、卜式は自から奮て、父子共に徃き戰て、死せんことを願へるは、戰かはざれども、其義なることは、内にあらはれたりといはるゝと云ことにて、此而の字、それを持たるにと云ことにあたるなり。左傳昭七年に、昭公楚に徃きて、楚子公を新臺に享し、大屈の弓をおくりて、後にそれを悔しに、薳啓疆それを聞て、昭公に見へて、わざと拜賀す。公曰、何スル。對曰、齊晋越コト矣。寡君無トシテルコト也。而シテヘタリ。君其セヨ三鄰。慎守寳矣。敢不賀乎、と云るは、大屈の弓は、、齊晋越の三國より望をかけたるものなれども、寡君よりいづれへとし與へやふなき故に、今君にそれを傳へられたり。君はこれより右の三鄰國に備へて、奪に來るをふせがれよ。慎て守るは寳なれば、賀するなりといへるなり。此而字も、それに意をもつてと云こゝろにて用たるなり。されば此而字は、上に言たる語の、事あるに立かへり思はせて、其を心に持て、それに付けて後の事の出で來りたるを、つなぎ合せて聞かせんとて、右の而字を用たるにて、然字の打かへす意とは相似たるやふなれども、各叚の別勢なり。又然而とつゞくことあり。韓非子説難に、二説者、其知皆當レリ矣。然ルニ而甚者、薄者、といへるは、其知皆當ると云になりて徃きたるにも、それを持たるなりにと云こゝろにて、然而なり。陳平傳に、宣言諸将鍾離昧等、為項王、功多矣。然ルニ而終而王タルコトヲと云るも、功の多きは多になり徃きたるに、それにもつたるなりにと云こゝろなり。さて又而字を省くべき処を知らざれば、而字を加ふべき処も明かならざれば、先づ而字を省ける法を辨ずべし。大凡文中に、而字に限らず、其語勢助字あるべきを省きたるは、多くは前にもいへる如く、當面の辞とする故にせるものなり。當面の辞とは、凡文章に書くは、並に皆今日の言語を、文字にうつしたるもの故に、全体をば先づ言語なりと思ふべし。凡今日の言語に物事を言ふに、其後に添る聲なきは、並に皆當面の辞なり。たとへば我は只今來たと云ふは、當面のことにて、それをうけさする辞となり、我は只今來たぞとぞの字をそゆれば、語りてそれを心得さする意となる。うけさするとは、其只今来たとばかり云て、未だ其あとを言わざれば、聞人の心を、其辞の内に引つけうけさするなり。其後にぞの字を付れば、已に早其を聞人の心の内に心得さする語氣となることなるが、而字は已前にも言たる如く、幽明のかすがひに用ゆる文字にて、たゞ物の表に其裏を合せて聞かさんと思ふばかりのこゝろにて、此而字を以てつなぎ言たる意持なる処にて、此而字のつなぎたるは、たゞ其旁帯したるばかりの心となる故に、而字ありながら、尚未成の語となれることもあるなり。禮表記に、ハシテ之善而美トシ之功、以コトヲ、といへる如き、彰人之善は、其幽のことを彰わすことなり。美人之功は、其明のことを美とするなり。右の二言にて、其幽明に於ける処のことを、つなぎ丸めて言て、さてそれを以て、賢に下らんことを求むることをすることなりといへるなり。又而字を累用したるあり。易繫辞傳に、ワシテ而察、而微ニシ、といへる是なり。此彰徃は、明にするなり。察は、幽にするなり。右の二言にて、其幽明に於ける処のことをつなぎ丸め言て、さてその丸めたるを幽に持て、それにて顯を微にすることをも、幽を闡くっことをもなしゆくと云ふことなり。されば而字は、其を用ふれば、右の如くに幽明をつなぎ合せてまる物になる故に、而字を中間に挾みたる語は、自から聞人の記識界に、半分を明界にかけてもたせる趣となることなり。而を省くの法は、其つなぐべきをつながずして、此辞の内に、其聞人の心を引つけ承けさせて、彼が幽界に於て、自己の意を以て完成するやふにして、聞かすこゝろもちなり。故に而字あれば、已成の語となり、無れば、未成の語となり、當面になりて活動す。然れども、其つながざる前語が、冒頭となるか、又は斜挿となるかになりて、其全体の勢、即ち當面の語勢となるなり。史記張耳傳に、貫高曰、所スルシテ死一身無一レ餘者、白張王一レ、といへるは、不死の二字冒なり。陳渉世家に、百姓多聞、未は、聞其賢の三字斜挿なり。欣然トシテ笑・喟然トシテ歎など、欣然・喟然、笑・歎の爲に、勢を取るの冒なり。凡そ右の如くなる而字を省きて、當面の語とし言ふたるは、並に聞人に其処を見こませて、其勢をいきたるやふにして、思わせんとて、右の如くして言へるなりと知るべし。

助字詳解 卷之一
(助字詳解巻一<了>)

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