雨夜のともしび(雨夜乃燈)
湯淺元禎(湯浅常山)
(大田南畝原撰、早川純三郎編『三十輻(續三十輻)』第二 卷之十 國書刊行會 1917.5.25)
※ 目次は入力者作成。仮名遣いは原文の儘。〔原注〕、(*入力者注記)。縦書き用
(目次)
(自序)
雨夜のともし火
秋雨の夜半に寒燈を剪て古き物語を書集ぬれば、これなん雨夜のともし火といふべし。
備前國臣湯淺元禎 輯
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權現樣豐臣太閤に御對面の時は、太閤我所持の道具粟田口吉光の銘の物より始て、天下の寶といふ物は、皆集候とて、指をおりてかぞへ立申され、さて御所持の御道具秘藏の寶物は、何ににて候哉と尋申され候に、しか/〃\の物御座なく候由、權現樣御返答被レ成候得ば、おしかへし尋ね申されしとき、權現樣おおせられけるは、我等には左樣のもの無レ之候。但我等を至極大切と思ひ入、火の中水の中へも飛入、命をちりあくたとも存ぜぬ士五百餘騎所持いたし候。此士五百餘騎を召れ候へば、日本六十餘州におそろしき敵は無二御座一候ゆへ、此士共を至極の寶物と存、平生秘藏に存候由御答なりければ、太閤赤面にて返答なかりけり。
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權現樣駿府に御隱居被レ遊 大御所樣と申ける。台德院樣(*徳川秀忠)江戸より駿府に御出被レ成候。二の丸に二ヶ月あまり御とうりう被レ成候節、權現樣阿茶局を召して、將軍には年わかき人なるに、於二隱居一二ヶ月に成ぬ。夜中徒然なるべし。花を使にして菓子を持せ、うら道よりしのびやかにやれ。もしなぐさみにも成ぬべきや。われ云たると聞れなば隔心あるべし。汝が心得によくはからへと仰られければ、阿茶局御心のつきたる上意やと御請して、花其頃十八歳、女中第一の美人なりしに、ことにとりつくろはせ、下女に菓子を持せ、初夜頃うら道よりひそかにまいらせけり。内々阿茶局よりかくと申ければ、台德院樣御上下を召待せ賜ふ所に、花參りて御庭の戸を音づれければ、台德院樣御自身戸をあけられ、花を上座に御直し、菓子を御取、これは大御所樣被レ下たるなるべしとて、御いたゞき、花はやく歸られ候へと、先に立被レ成、戸口まで御送り被レ成ければ、花かねてたくみしと違ひて、いふべき詞もなく歸りて、かやうかやうなりと申ければ、權現樣聞召、將軍はりちぎ第一の人也。われはしごをかけても及がたしとぞ上意ありける。
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參河國箕形原(*三方ヶ原)の合戰に、權現樣御打負なされ、濱松をさして御人數崩れし時、甲州の侍大將秋山伯耆下知して、黑鹿毛の馬に乘て、槍をば持ず、再拜(*采配)を腰にさし、度々取て返す武者ぶり。敵の大將〔權現樣の事〕を追つめて討とれとて、急に追かけたり。御馬廻り殘り少く討れければ、權現樣にも御討死の御覺悟被レ成候、御馬を引返させられし時、夏目長右衞門、こゝは御討死の場に候わず、早御退被レ成よと申候て、御馬の口を濱松の方へひき向け、槍おつとり、御馬のさんづ(*三頭。馬の尻の高くなったところ。)をたゝみかけてたゝきければ、御馬かけ出て敵と遠ざかりぬ。長右衞門踏とまり、敵の多勢にとりまかれ、槍の柄の折るゝ程戰て討死しけり。
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大猷院樣(*徳川家光)の御時御祝事の有しに、諸大名出仕にて、德川の御家御繁昌の事、さま/〃\物語有し時、新太郎樣(*池田光政)や〔◎や脱カ〕暫く何の御詞もなく御座被レ成候が、夏目長右衞門箕形原にて權現樣の御命にかわり申ずば、か樣に御はんじやうなる事御座有間敷由被レ仰しを、大猷院樣聞し召、德川家の士の節義の心を今更引おこしたる詞也。智者の一言とはかゝる事なるべしと、大方ならぬ御悦にて有けるとぞ。
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黑田右衞門佐〔忠之〕(*原文「右御門佐」)は、甲斐守長政の嫡子にて、おさなきとき滿德丸と申けり。四歳の暮に黑田圖書所にて袴ぎ(*袴著、着袴)の祝あり。母里但馬は老功の人にて、常にぢゐ/\とてなつき給けり。其祝の座にて、但馬滿德丸の髪をかきなで、はやく成長して武邊し給へ。とゝ樣よりよく成たまへと申ければ、甲斐守聞て何と言ぞ。但馬我等が武邊あしく思ひてか。若き時は其方などの差圖をも請たり。朝鮮に渡海し、又關原の合戰にも皆我等一分の手柄にて大敵を切崩したり。其後太平なれば場數はおとりたれども、此後も各にはおとり申間敷候。滿德丸いかにかせぐとも、我等になるまじとて、脇差に手をかけ、以ての外なる機嫌にて但馬をにらみつけられしに、但馬見むきもせず、いな(*異な)事に腹立哉。人の子に武邊よくしたまへといふがあしき事かとて、脇にふりむきける也。甲州彌腹立にて、父よりよくせよとは何事ぞとしかられければ、但馬うちわらひ、御心しづめて能御聞被レ成候へ。武邊と申ものは幾度事に合候ても、仕すましたると思ふ事はなく、度毎にたらぬ物にて候。よき人を御召れ被レ成、よき場にてか仕合にて御勝被レ成候を、御自慢は扨々御笑止千萬の事にて御座候。今まで勝軍に御逢被レ成、いつも此通と思召候はば、大成(*大なる)不覺を御取可レ被レ成候。味方敗軍の時はふみとまり、一足も引ず御討死可レ被レ成事は、御生付の御得てにて御座候。それは大將の武邊と申ものにては無二御座一候。味方を討死〔◎さ脱カ〕せず、軍に勝をよき大將の武邊と申候。殿樣の武邊大事の所たり不レ申候。か樣の事は中々一言にては合點の參候事にては無二御座一候。この差別は備後守功者にて御座候。度々御相談御尋被レ成、よく/\御せんたく被レ成候て、何とぞよき大將に御成可レ被レ成候。滿德殿、おさなきときよりよくきゝ覺、大將の道を稽古したまへ。よき大將には大ていや大かたの稽古にてはならぬ事に候。只一人かけ出し討死いたし候は、葉武者(*端武者・木端武者・雑兵)の役にて候。とゝ樣よりよく成給へと、又髪をかきなでてそらうそぶき居たり。栗山備後守(*利安。栗山大膳利章父。)次の間にて、若き衆中に酒のませ居しが、是を聞、銚子かはらけ取持走り出、勿體なきことながら差あげ申とて、甲斐守の前にかはらけさし置き、我わかき時如水樣御前にて、御しやくの小笠原存じ出し(*「思ひ出す」の謙譲語)候とて、銚子をとりければ、甲州打わらひ、栗山殿の御しやく是が初とて呑申されし時、備後守その御末を但馬守被レ遣候へと申候て、但馬が方へ向き、や何氣ちがひ者罷出、御かわらけいたゞき候へと申せば、但馬罷出いたゞき、三盃まで引受呑て、殿樣(*黒田長政。満徳丸忠之父。)御酒を不レ被二召上一、むざと御腹ばかり御立被レ成候。目出度御祝にちと御醉被レ成候ても苦しかるまじく候。差上候とて、其かわらけ(*原文「わからけ」)をもどしけり。長政たぶ/\と引うけられ、機嫌直りければ、つはものの交りなどうたひ出し、亂酒に成てけり。其時備後守申けるは、わかき衆中能きかれよ。御こゝろがけの深きも(*原文「深もき」)殿樣、分別なきも殿樣、又大たわけは但馬、たのもしきも但馬也。當家の武勇目出度時分也。酒よくのみて上下相和し、何事もあらん時は武邊の御用に立おけば、何事もゆるし候ぞ。うたへ舞へと云けるとぞ。此但馬は度々諫を申せし人也。年始に栗山が方へ長政行れ(*栗山は長政より18歳年長、母里は12歳年長。栗山は一万五千石、母里は一万八千石)、酒を出しけるに、四ッ過頃(*明け四つ=午前十時頃、か。)歸られしに、我等居たらば若き者酒をのみかね可レ申候。跡にてこゝろやすく呑せよとて、座敷を長政立れし時、但馬申けるは、今少居て若き者共に隨分懇に詞をかけ、うれしがらせ度事也。とかく氣隨の直らぬ殿也。ぎり/\に大成やゐとをすへ度と、高高とわめきけるを、長政聞ぬふりして歸られけり。
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本多佐渡守(*正信)の弟に三彌(*本多正重。秀忠により舟戸藩〔千葉県柏市〕に封ぜられる。)と申せしは、以ての外に直言(*原文「外直に言」)をいひ出す人也。台德院樣に御奉公申あげけるに、或時權現樣三彌はよくすねる者(*すね者、旋毛曲り、世を拗ねた者)なりと上意也。其後一萬石拜領せり。權現樣三彌を召、料簡を改、人がらをたしなむゆへならんと上意ありければ、三彌承り、將軍樣は殊外御奉公申上よく御座候。あの如くなる主君にすね申すは氣ちがいに御座候と申上られければ、權現樣三彌が持病又おこりたりと御わらひ被レ成し。又或時幸若八太郞(*『駿府記』に幸若八郎・小八郎が慶長年間に舞曲という。)高館を舞けるを、御上覽の節、武藏坊辨慶は世にすぐれたる者也。今の世には少なかるべしと、權現樣上意有けるを、三彌進み出、判官殿のやうなる主君ありかね可レ申、辨慶は可レ有二御座一と申されけり。
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曹源寺樣(*池田綱政)の御時、御大名中御ふる舞の席にて、辨慶の事御物語に出し、辨慶ほしき事と評判の有けるに、木下肥後守〔公定〕末席より、いや其辨慶少もほしく無二御座一候。判官殿の料簡に成申候也ば、私の家來は不レ殘武藏坊也佐藤兄弟(*継信・忠信)に成可レ申。それゆへ何とぞ判官殿になり度と、久しく心がけ申候得共、まだ得なり申さず。口惜存候由申出されしかば、曹源寺樣聞し召、只今の肥州の理窟は拙者父新太郞が度々申たる事にて候。よき旦那に被レ成度と心がけ、色々種々に工夫し候へども、よき旦那に成候道合點いたし不レ申。書物をよみ學文仕候へば、よき旦那の道しれ可レ申と、一心不亂に存じきはめ、それより思按分別いたし、古の聖賢のおきてを稽古いたし、寢てもさめてもわすれ不レ申、少し旦那に成候道を合點いたし申候と、拙者へ申聞候。日本國にひゞきわたりよく御存の新太郞事(*原文「新太郞郞事」)にて候得ば、肥州には新太郞流と申者にて、此上道理は有レ之まじくとて賞美ありけり。
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板倉周防守重宗、大猷院にわらぢ一足獻上有りて、是は權現樣軍中にはかやう成が能と上意被レ成候を、よく覺候て、作り習ひ候わらぢにて御座候ゆへ指上候。もし御用に御座候はば、いかほども獻上可レ仕候と申されける。これは權現樣御小身より御成たち遊され、いやしき下々の情をよく御存被レ成、よこしまなる人の言なしに御取あい不レ被レ遊候ゆへ、上下の心ざしよく相通じて、下に怨る者なく、つゐに日本のあるじに成らせられ候。今日本をうけたもち給へども、下々の情よくしろしめされでは叶ざるといふ事を、わらぢによせて申上る心とぞ。
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板倉伊賀守勝重京都所司代の節、嫡子周防守重宗・二男内膳正(*「ないぜんのかみ」)重昌二人とも江戸にあり。大猷院樣殊の外にむづかしくいりくみたる公事の、何ともさばきがたきをわざとこしらへさせたまひ、周防守・内膳正を召して、御前におゐて判斷を被二仰附一しに、内膳正は上意を承り、理非あきらかにか樣/\とさばき申上て退出したりけり。周防守は良久しく思按の體にて、重て理非の落著可二申上一候と御受申上候て、退出の後二三日して登城いたし、さばきを申上られしに、内膳正申上たる趣きと同じ理也。人々兄にまされる内膳正なりとて取ざたしける。其後伊賀守京都より江戸へ下向有しに、大猷院樣御咄の序に、かの公事さばき委細に被二仰聞一たりければ、伊賀守謹で承り、内膳正は若氣にて分別なきやつにて御座候。周防守は御用にたち可レ申と申上られしかば、其わけを御たづねの上意。伊賀守、されば其事に御座候。公事をさばき候は、仕置の一ケ條にて御座候。仕置きと申ものは至極大事のものにて、一言の事にて下の數千萬人のめいわくにも成、又悦申事にて御座候。かりそめにもそこつに極め可レ申義無二御座一候。仕置きは大事のものぞと、くり返しくり返し分別を極め候所、御用に立可レ申。見へわたりに鼻の先の智惠にて、おのれが利根を人に見せ申さんと存候内膳は、何の御用にたち可レ申哉。御思慮被レ遊候得と申て退出せられしとなり。伊賀守の詞の如く、後の世までも周防守とほめられ、言傳ふ事すくなからず。
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板倉内膳正重矩は、肥前國島原に於て討死せられし内膳正(*板倉重昌)の子にて、伊賀守勝重の孫、周防守重宗の甥也。瞎(*片目)にてせいひくく、以の外見ぐるしき男ぶり成しか共、有德賢才有て、寛文二年(*1662年)御加恩一萬石被レ下、大阪の御城代被二仰付一。在番の頃、寛文五年(*1665年)正月二日の夜、大雨にて雷亥の刻計に天守におち、火出て燒上りしかば、大阪の騷動大方ならず。中にも町人どもうろたへさわぎてやまず。萬治三年(*1660年)雷火有し時、御城内の鹽焇(*焔硝─火薬)に火移り、おびたゞしく死人ありける由、かねて聞及びたりし故也。内膳正町奉行彦坂壹岐守・石丸石見守兩人に、御城内の藥は悉く御堀の中へうちこませたる由、觸られよと下知有ければ、町中忽ちしづまりけるとぞ。内膳正かねて警固の備かたく下知して置れし故、尼崎の靑山大膳亮を召れ大阪に來られ、警固の手くばりを深く感稱せられしとぞ。此旨江戸に聞へしかば、御奉書を以、此度の御奉公勝れたる由御稱美有ければ、内膳正則家來をあつめ、此御奉書を披露あり。是皆其方どもがはたらき故に、我等かく御稱美に預りぬと、功勞を家來にゆづられしと也。同年の冬江戸に召、十二月二十三日一倍の御加増二萬石被レ下、御老中に被二仰付一。同八年(*1668年)正月京都所司代牧野佐渡守正親の代被二仰付一までの内、暫く内膳正を以京都政事可二申付一旨仰出され上京有、參内して可レ奉レ拜二天顔一の旨、敕命を蒙り奉らる。内膳正先達て恐多き事に候得ども、此御禮儀簾を半まき上らるゝ先例に候得ども、天顔を奉レ拜の名有て其實なく候。簾を高くまきあげられ候やうに奉レ願の旨奏聞有しかば、尤也と敕命有て、御簾を高くまきあげられしは、内膳正一人なりしとぞ。後又壹萬石御加増、下野國鳥山の城主に被二仰付一候けり。此内膳正若年の時より詩歌を好み、學問に心をよせられ、後に熊澤了介(*蕃山)門人になり給ひ、嘉言善行多かりし。京都にて加茂川洪水の防の爲、白川より加茂川四條の土堤をつかせ、又鞍間の往來市原といふ所、數町水流往來(*原文「住來」)の困りなりしかば、加茂領の内田地を求て川筋を除き、山路を開かれしかば、内膳正死後迄も此地の土民其仁德をしたひ、同所如意山に内膳正の位牌を設け、跡をとひしと也。内膳正常に人に語られしは、世に金銀衣服をかすめ奪ふ者を盜と名づく。つら/\按るに大名たる人に盜多し。下土民の善行あるを取あげずしてすて置は、これ人の善をぬすむに非ずや。親族朋輩にも人の善を取りあげずして過るは、是も人の善をぬすむ也。中には主人たる人は、下の善をあぐべき役を天道より命ぜられたるに、人の善をぬすみて、天命の役義をかくは、盜の大なるなり。かくいう我等ももし人の善をぬすむべきやと、是のみ心を盡す由云れしとなり。又伯父周防守先年語られしは、人の生れ付さま/〃\有中に、打見たる所のにくさげなる者あり、愛らしき人有り、此にくき人を見ては善事を言てもあしく聞なすものなり。況や理をつよく言へば、いよ/\にくくなるものぞかし。又愛らしき人の言事は、不レ尤事もよく聞なすもの也。是肝要の事也と、親父伊賀守の戒られしと言れしは、至極の道理にて忘れずとぞかたられける。又言れしは儉約と吝とまぎれ安〔ママ〕し。其本をたゞすは大に異なるもの也。儉約とは事の費をいといて、つかふべき事に財を用るを云、吝といふは是非善惡のわきまへなく、一向に物をおしむなり。又云れしは、我氣にあひたる者の云事は、何事もよく聞なし、行跡以の外不レ宜も目に見へぬ物なり。又我事をさしあてて無遠慮いふ人を、道理の至極なる事にても、それをば外になし、其いふ所無禮慮外と取なして、事を誤る也。是等皆よくわきまふべしと也。又其前いまだ一萬石の身の上なりし時、殊の外貧しかりしに、新に儉約の法を出し、自分第一に是を守られし時の歌に、
求なき心も事もおのづから
まかせて過る身こそ安かれ(*安けれ)
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大猷院樣の御時、土屋但馬守〔敬直〕まだ小身にて御奉公ありしが、子細ありて引籠居られし頃、大猷院樣御上洛ありけるに、但馬守忍て御後より登られける。親族家來さまざまにとゞめけれ共、曾て聞入れず、京に著てかたかげに忍び居られけり。ある時大猷院樣これこれの事は但馬守に申付よし上意有ければ、人々驚て、但馬守義は逼塞仕、江戸に罷在候と申上ければ、大猷院樣聞し召、尋て見よ。必京に來り居るべき但馬守なりと仰ありしかば、手をわけて方々を尋しに、はたして東の京にかくれ居られける。其儘御前に召出され、上意に、汝よく來候よ。もし來らずばよかりなん〔ママ〕(*悪しかりなん)と仰有りて、前の御用を被二仰付一けり。公方の御身として、はるばるの御上洛重き事なれば、後の御咎をもおそれず、忍で登られけるに、必登るべきとしろしめされたる明智の、遠き後の世にも有がたかるべし。かく志のわりなき、君臣水魚のたとへ(*水魚の交)、實にさる事にこそ。
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番(*ばん)藤左衞門は尾張國智多郡荒尾といふ所の者也。藤左衞門子を大膳と申す。大阪冬の陣に權現樣池田の御家に御不審の條々有て、御家御危難の時に臨めり。右の仰分られ有べき爲に、御使者を可レ被レ遣と入札に成けるに、過半大膳と入札に致しけり。興國院樣(*池田利隆。光政父)の御入札も大膳とは被レ遊御書ける(*原文「大膳と御書は被レ遊ける」)故、大膳に定まり、西の宮後陣所にて、委細被二仰渡一。大膳も次の間へ出ければ、御家老・番頭(*ばんがしら=番方の長。用人格。)・物頭いやが上にかさなりて詰いたり、伊木長門大膳に向ひ、御意よくのみ込たるや。此度の御使御家の大事なりといひしに、大膳不肖の私しかとわきまへ不レ申候得共、粗は承り申候。但これをといふて、懷中より九寸計の小脇差の冰の如くなるをぬきて、これは隨分のわざ物にて御座候。よく通り申候と云ければ、長門うちうなづきて、最早心安しと云けるとぞ。大膳が志御聞入なくば、其座に於て一刀と思ひ切たるなるべし。かくて大膳二條の御城に參りければ、權現樣の御前に召出され、さま/〃\の御尋有、中々御聞屆有べき樣子になかりける。尼崎の土地の圖一枚とり出し、段々に言上いたし、武藏守(*池田利隆)毛頭も二心なき趣き申上ければ、其時權現樣聞召わけられ、以後をつゝしみ候へと罷歸りて申聞せよと上意あり。番平伏して罷立ざりしかば、本多佐渡守、忝仰也。早々歸て申聞よと有ければ、番猶立ず。佐渡守、子細有て立ざるやといわれしかば、其時大膳少し佐渡守方へ向て、武藏守毛頭もあやまち無二御座一上は、此以後何をつゝしみ可レ申候哉と申す。權現樣聞召、少も不審ある事なしと上意有ければ、其時大膳忝旨を申、座を立て罷出けり。權現樣大膳の有樣を御覽ぜられ、ひげよくいゝたりと上意也。大膳は鬚有て男ぶりゆゝしき故となり。
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芳賀内藏允(*くらのすけ)は、小身の頃國淸院樣(*池田輝政。利隆父。)の御右筆也。國淸院樣美濃國岐阜の城攻落し被レ成候。權現樣へ御勝軍の御注進状を、内藏允に被二仰付一御書せ被レ成、御將机に御座被レ成候節、城中鹽焇藏に火入て藥飛出ける音おびたゞしき事にて、山の崩れかゝる如し。人々大に驚きうろたへしに、内藏允見むきもせず、少も驚く體なかりしかば、國淸院樣内々御感じ思召、いろ/\御試被レ成候に、只者ならざりしかば、知行三千石被レ下、御寵愛あり。大阪陣の頃、天滿橋御攻になりしに、御先手須賀左京竹たばを付候に御人數すくなく候。御加勢被レ下候へと申上しかば、内藏允茜染の羽織を著て、馬に乘行て見分せり。燒あとの土藏などをたてにしてひかへ居たり。橋より上にしるしのくゐの候。見られよといふ。内藏允心得〔◎候脱カ〕とて行を、内藏允は近頃取立られて出頭の者なり。右筆たちの武者ぶりを見よとさゝやき合たり。内藏允馬よりおりてしづかに川岸を行を、城中より鐵炮をうちかくる。水にひゞきて殊にはげしく聞ゆ。内藏允ちつともさわがず、足數をかぞへ歸り、いかにも各達申され分の通り可二申上一とて、御旗本に歸りけるとぞ。後番大膳と兩人御仕置(*統治)被二仰付一しに、大膳は遙におとりてけり。願申べき所有て大膳に云ひ達しければ、大膳事よく濟べき樣に答へければ、興國院樣の御前にては十分に事わけを得申のべず。又内藏允に言達すれば、内藏允色をかへ、左樣なる事旦那へ申さるゝ事にあらず。拙者は得取次致さずとあらゝかに申切て、さて御前へ參りては事の子細を申、是非共願の如く埒を明て後、其人を呼よせ、中々御聞入が有事にてはなけれ共、申上たれば、御上の御慈悲にて御聞屆有たるぞと申聞けりと也。それのみならず、度々御前へ御諫を申上、あらそひいく度といふ事なし。後にはこれを聞傳へ、内藏允御爲を思ふ事、大膳が及べき事に非ずと一同に賞美しけるとかや。さればこれを以て按ずるに、大膳が權現樣の御前にて命をすてて申ひらき致せしは、一旦の事にて仕よき事なるべし。國の仕置は極て大事の物なれば、大膳が一旦の骨折とくらぶべきもなき内藏允が忠なるべし。
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台德院樣御行義かたく、かりそめにも仰出されし事をたがへさせ給へる義、深く御恐れ被レ成候。御鷹野等にて御成の時、たとへば辰の刻(*午前八時頃)と被二仰出一相定りぬれば、御膳の半にても、御時計鳴るとそのまゝ、御はしをすてて御出被レ成候。依て御近習の面々御前すまざれば御時計鳴ざる樣に致しけるを、井伊掃部頭〔直孝〕聞て、以の外に御近習の面々をしかり、各達全く君に奉公するの道理をわきまへざるや。君正しき道を御すき被レ成候得ば、隨分面々も正しき道をたすけ可レ被レ申、左はなくて僞事をして御心にあわんと致さるゝ事、不屆沙汰の限也。君をだましてよき事なりや。こればかりの事なりと心得られなば、いよ/\不屆なるべし。すべて信を失ふとて、上よりの御法令は山は崩るゝとも動かすべからざる也。左樣に君を中にてだましたらんには、下々は上に遠ければ、上の正しき事御すき被レ成事をばしらず、怨るものできて、ついにわ君も下も相遠かりて、姦佞樣々の恐事を仕出す者なり。以來急度つゝしまれよと戒められけり。掃部頭の戒、古の聖賢の掟に符合すと申べし。
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奧平家の家老奧平傳八、父のかたき同姓隼人を討し時、一味の士大勢也。傳八まだ幼少にして、奧平家を立ざりしに、一味の面々も悉く立去て、傳八が成長を待居ける。其中に一人の士、妻は稻葉丹後守(*稲葉正勝)の家中の士の娘にて有ける故、預け置けるが、やがてかたきうつべきといふ前の事なりけん。妻の所に行て存る旨ありける。離別する也。何方へも嫁入し候へかし。親の苦勞にならぬやふにと言聞せければ、彼妻聞て年久しくへだてなく過しに、俄に右樣に被レ仰候は、定て子細有べし。さはなくて暇給りては親に向て申わけなく(*原文「申わなけなく」)候間、其趣を御物語候へと言ければ、つつみかくして、實はかやうの事にて傳八と一味なれば、近年の中にかたきをうつべき也。其時は討死をするか、又は御上の御咎によりて殺さるゝか、とにもかくにも此世に存命すべきにあらず。御身は年わかき人の、わが死後に難義して、父にももてあつかはれん事いたはしくて、如レ此申也と言ければ、かの妻本ゆひの際より髪をふつと切、かたき討首尾よく仕すまし給ふて、御目にかゝるまで、此髪いろひ(*弄ふ─取り扱う、いじる)申まじくと誓言して、なく/\別れけると也。其後敵打おふせて、彼士もすぐやかに助太刀して行向ひ、對面しけるに、もとゆひの間より髪のび出て、本ゆひはそのまゝ有しとぞ。
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松平越後守〔光長〕(*越後高田藩主。以下は高田騒動の記述。)子なかりしかば(*原文「なかしかば」。促音便ではなく脱字か)、家督は實の弟に永見大藏(*永見長良)なるべしと大藏も思ひ、又家中も大方是ぞと思ひ追從しけり。小栗美作(*小栗正矩。高田藩首席家老。)あくまで邪智有者にて、御家督は大藏にて可レ有といふ人あれば、左樣にてあらんと返答す。大藏聞傳へて悦べり。扨て江戸へ家督の事伺に美作行ば、大藏を賴むとはなけれども、暇乞に事よせて念頃の體也。美作江戸へ行、才覺をめぐらして參河守(*永見長頼の子万徳丸。松平綱国。)を立べしとの評定也。參河守は一伯(*松平忠直。光長父。)配所にての子、永見賴母(*永見長頼)といふ。其子を參河守といへり。永見大藏は賴母が弟なり。是も配所にて生れたりとなり。是により大藏大に本意を失ひ、家中日頃大藏へ取入たる面々あきれたり。然れ共上意と披露ある上はせんかたなし。美作は大藏を欺たりと獨ゑみして、三河守をもり立て、權威を大きに振はんと思へり。大藏はたゞかねて入魂の面々徒黨し、美作を打果さんと、荻田主馬(*原文「萩田主馬」。高田藩家老荻田隼人の子本繁。)など張本たり。美作そらしらぬふりして取あへず。扨て美作は越後守の妹聟なれば、子大六(*小栗長治)は越後守のおひ也。一門の如く家中の士敬べしと云せけり。是より家中騷動して、終に江戸へ訟數年決定せざりしに、常憲院樣(*徳川綱吉)御代初、御自身雙方の公事を御城殿中にて聞召御決斷ありて、越後守高田二十五萬石被二召上一、美作死罪被二仰付一、子の大六は曹源公(*池田綱政)へ御預け、天和元年(*1681年)六月二十二日、御屋敷弓場の東作り庭にて是も死罪に被二仰付一、永見大藏、荻田主馬(*原文「萩田主馬」)八丈が島へ流罪、其外死罪流罪に被二仰付一たる士あまた也。此取あつかひに付渡邊大隅守(*大目付渡辺綱貞)八丈島へ流罪、松平大和守(*松平直矩)閉門被二仰付一、翌年閉門御免、姫路十五萬石被二召上一、豐後日田(*原文「日向」)にて五萬石被レ下、松平上野介(*松平近栄〔ちかよし〕)廣瀨三萬石のうち一萬五千石被二召上一、酒井雅樂(*酒井忠挙〔ただたか〕。忠清子)・久世大和守(*久世広之か。)御老中職召放けり。是皆越後守暗弱にて、威を家老・用人に奪れ欺かれし故也。常憲院樣の叡斷、異國唐の玄宗を太平の天子と申せしにくらぶべしと、其節より諸國畏れ服し奉りけると也。
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池田の御家老土倉市正は四郞兵衞の養子にて、瀧川左近將監〔一益〕の先手の侍大將岩田小左衞門也。新太郞樣御使番誰か可レ然と、段々御吟味被レ遊、いまだ決定せず、市正に御尋被レ成候得ば、市正承り、中村忠左衞門可レ然と奉レ存候。忠左衞門どの私共に對して毛頭も諂ふ心のなき男にて御座候。あの如くなる男にて役義不レ被二仰付一候て、誰か外に可レ有二御座一とほめ立ければ、新太郞樣大方ならず御機嫌にて、忠左衞門使番と被二仰付一けり。日頃市正と忠左衞門とは大に不和也。御前にての樣子を忠左衞門に語り聞せし人ありければ、忠左衞門も日頃の不和を少し後悔の氣色あり。また此由を市正に語りける人有ければ、市正御尋によりて人を申上る事は御國の爲也。毛頭も私の慮なき也。不和はもとの通り不和にてこそあれ。忠左衞門は我心をしらぬといひしと也。是をぞ家老の職分を失はぬと申べし。君君たれば臣臣たるといふ事誠なるかな。
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文祿年中朝鮮より虎をひき來る。鐵の鏁(*鎖)をつけ、兩方より七八人取付ひきける。朝鮮先陣の諸大將たち名護屋(*肥前国松浦郡名護屋城)に歸りあつまられし時、彼虎に大力の男あまたひきはり、どつといふてかけ出、ならび居られし中を通りけるに、人々皆々驚きさわぎ立たる所に、加藤主計頭〔淸正〕ひざ立直し、こぶしをふり臂をはりてきつとにらまれしに、虎もしばしふみとまりて淸正をにらみて通りけり。加藤左馬助〔嘉明〕は初より壁にもたれかゝりて、居ねむりて有しが、虎返りつる後暫く有て目をひらき、何事にさわがれしや。虎をひきかへれる故かと、しづかにいわれしとぞ。主計頭の子肥後守〔忠廣〕大に父におとれる人也。ある夜近習の人に物語して、われも大力になりたく思ふなり。おもき具足二領を打かさね著て軍に出なば、鐵炮に恐ろしき事あるべからずといわれしを、飯田角兵衞(*飯田直景)父の時より奉公して、度々武勇のはたらき有ける老功の者なりしが、是をきゝすゝみ出て、先殿樣は御具足一領にて、志津嶽七本鑓の武功より、いく度となく軍に御出被レ成候へ共、つゐにうす手も負せ給はず、朝鮮國に攻入て鬼將軍と異國の人もおそれ奉りき。誠に死生は天命にて御座候。用心の分別にて參る事にてはなく候。但よく戰ば生き、あしく戰へば死すると申古法の御座候。國中の百姓を隨分いたわり、家中の士よく心服し奉りなつきしたがふ時は、たゝみの上にても軍の勝負の道理明にわかり候ゆへ、軍の場に至りても、千萬の人數手足をつかふが如くに成候。されば御家中の士著申す具足は皆大將の御一身に打かさね召候と同じものにて御座候。もし御家中の士心々にはなれ候なば、たとへ百領千領の御具足をめし候共、何の用に立可レ申候や。なげかしき御一言に候と言て退出しけるが、先殿には何とてあれまでにはおとらせ候にやと、聲をあげなく/\出けるとぞ。其後忠廣滅亡せられたり。近頃にも新太郞樣の仰に取傳へたる大兼平は何の用にたつべき。家中の士の刀を殘らず用にたてさせんには、向敵は有まじ。大名の身にて刀一腰をたのみにせんは、口おしき事の至極也と、備後守樣(*未詳)に御戒ありしも、飯田も同じ理りにぞ。
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細川越中守〔忠興〕に(*原文「に」注の前にあり。)冑の物ずきを賴まれし大名有。越中守即書付を其使者に自分渡されしに、使者一覽して冑のたてもの(*兜の鉢の付け物。)下地桐の木と御座候。桐の木は折やすき物にて御座候。折申候得ば見苦しく可レ有二御座一候と申ければ、越中守以の外機嫌損じ、武士の作法にうとき云樣哉。戰場に出るもの命二つ持て出る人やある。二つなき命さへ何共思はずしてこそ軍場へは出る習なるに、何とて立物の折るをいとふべき。只かろきこそよけれ。立物の折る程働きたらば、何とて見苦しかるべき。ひと面目にてぞあるべきと云れしとぞ。
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松平伊豆守(*松平信興か。伊豆守信綱子。美濃守・因幡守。元禄三年、京都所司代。)元祿年中京都の町奉行勤められし時、海北友竹〔(頭書)友松ノ子友雪。友雪ノ子友竹。友竹ノ子友賢。〕といふ畫師參て、紅梅のよく開きたるをいけ置れしを見て、御所司代并こなた樣ならで、かようの初花見申さずと申けるに、伊豆守とかくの返答なく、落涙せられけり。友竹いかなる故にやと按じ居るに、やゝ有てよくこそ云たれ。誠に左樣なるべし。我等不肖の身にて、かゝる重き役義を仰蒙り、威勢あるをしらず、うか/\と心付かざりしは大きなる油斷なり。これに付ても大事の役ぞと思へば、氣遣しくて落涙したるぞと言れしとかや。かりそめの一言にも心を付られしは、古の君子の道なるべし。されば此人の仁德京都にて後まで申傳ふるとぞ。
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安藤帶刀〔直次〕咄の序に、本多上野介〔正純〕はやがて滅亡すべしと語られしに、程なく上野介に御加増有ければ、帶刀に先日いわれし詞と相違致候は如何やと問ければ、帶刀後を見られよといふ。又下野國宇都宮二十萬石を上野介に拜領被二仰付一ければ、前の人又帶刀に向後はよく心得給へ。私などが承候所は苦からず候、人中にて上野介の噂無用にせられよと異見しけるに、帶刀打わらひ、拙者慥に見極たる事の候。上野介の滅亡彌近づき候と返答有しに、程なく上野介身體(*身代)滅亡しけり(*1622年秀忠により改易)。前の人又帶刀にあひて、さて/\驚入たる御智惠にて候。いかなるいわれにて候やと問ければ、帶刀聞て、されば其事に候。關原の軍に台德院樣木曾路を御登り遲く御座候て、權現樣御機嫌不レ宜候時、上野介權現樣へ申上けるは、是皆私の父佐渡守(*本多正信)がしわざにて御座候。佐渡守に切腹被二仰付一には、御世つぎに御あやまりなき段、世上にしれ可レ申と申せしと聞き、それを上野介平生の心に大なる忠をなしたりと驕る氣象なり。父を死罪といへる三千(*三千世界か。)第一の刑罰なり。いかでか滅亡せずして有べき。上野介の身上滅亡殊外おそく候きと答へられけり。帶刀の子を飛騨守〔直治〕と言。成瀨隼人(*成瀬正虎か。正成子。)あるとき飛騨守に紀州打の刀を所望してもらひけるが、尾張にてためし物(*試し切り)をするに切ざれば、此事を飛騨守にかたり、やきも出來よく候に殘多く候。今一腰うたせ給はり候へと申されしかば、飛騨守安き事に候と返答あり。其時隼人おどけ言に、紀州にてはこゝろよく切たりしよし物語候に、尾張にては心よく切候はぬは、尾張者は骨かたき故ならんといはれしに、飛騨守聞もあへず、いや尾張者のうでよわきにて候。鉛刀にても紀州にてはよく切れ候と返答有しかば、隼人とかくの詞なかりけり。
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紀州大納言〔賴宣卿〕智勇たくましき御人なる上、諫をうけさせ給ふ事もたぐひまれなりけり。御年わかき御時、御腰物をためし見んとて、とが人を自身けさを掛給ひしに、快よく切れしかば、機嫌よく、那波道圓(*那波活所)が側に居申せしに、いさぎよき事也。かゝる刀も切る人ももろこしに有べしやと仰ありしに、道圓刀はもろこしにて干將・莫耶にちつともおとり申まじく候。人君の御身にて、人を切て機嫌する惡玉、もろこしにては桀紂にて御座候。御前も少も桀紂におとらせたまはじ。後の世までも惡き主君のためしに引申べしと申せしかば、大納言殿つと内に歸入らせ給ひしが、其夜道圓方へ使を被レ下、今日の事全く我等大きなる心得違ひ也。よく思按して思ひあたれり。返す/〃\もよくも言聞せたるよし仰ありしと也。これ等をば明君忠臣共にたぐひすくなき事と申べし。道圓常に亂世には臣下たるもの君の御爲に討死する事多し。太平の時は諫て死する道を忘るべからずと、子孫を戒めけり。
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太田持資〔後道灌と號す。〕上杉家(*上杉政真か。)の家老也。鷹狩に出て雨にあひ、百姓の家に入て蓑をかし候へと言はれしに、若き女ものは何ともいはずして、山吹の花一枝折て出しければ、花をくれよといふ事にてはなしとて、腹立て歸られしに、是を聞きし人の、それは、
七重八重花はさけ共山吹の
みの一つだになきぞかなしき
といへる古歌の心にて、みのなきと申事をいはでしらせしなりと申ければ、持資驚て、われこれ程の事をしらで、百姓の娘におとれるも口惜しとて、それより書をよみ歌に志をよせられけり。下總國へ軍を出す時、山涯の海邊に山上より石弓をはりたり。潮たゝへたらば通りがたかるべし。いかゞといひし時、折節夜半なるに、いざ見來らんとて馬を乘り出しけるが其まゝ歸る。潮は干たりとて軍をおし通されけり。是は、
遠くなり近くなるみの濱千鳥
なく音に潮のみちひをぞしる
とよめる歌あり。それを思ひ出して、千鳥のこゑ遠く聞へたれば、潮のひたるをしりたりとなり。又退口に利根川を渡す時、これも夜半にてくらさはくらし、いづこか淺瀨なるべきと口々に言けるに、持資、
そこひなき淵やはさはぐ山川の
淺き瀨にこそあだ波はたて
とよめる歌あり。波の音あらき所を渡せと下知して、難なく淺瀨を渡りけり。されば昔より武將は必ず學問に志をよせ、歌の道をしり給ひけり。奧州の合戰に八幡太郞義家、安倍貞任・宗任を攻て衣川の城に追つめ給ひし時、きたなく後を見するかな。物いはんとて、
衣のたてはほころびにけり
といひかけたまひしに、貞任しころをふりむけて、
年をへし絲のもつれの苦さに
と付たりければ、八幡殿はげたる箭をさしはづし給けるとぞ。かゝるはげしき所にてかくつけける事、ゆうにやさしき事なるべし。かくて八幡殿上京の後、宇治の關白殿に參りて軍物語ありけるを、中納言匡房卿聞て、器量はかしこけれども、軍の道はしらぬといひやられけるを、八幡殿の郞等聞て、にくき事をも申され候と、八幡殿に申せしかば、八幡殿子細あるべしとて、匡房の中納言車にのられける所へ參りて、會釋有てやがて弟子になりて學問し給ひけり。永保の合戰(*後三年の役)に、八幡殿金澤の城(*清原家衡の居城)を攻らるゝ時、一行の雁の刈田の面におりんとしけるが、俄に驚きて飛亂れけるを、八幡殿御覽じて、馬をひかへて、中納言殿に學問しけるに、兵法に鳥起者伏也と云事あり。定て伏兵あるべしとて、野の三方をとりまかれしかば、按の如く三百餘の敵伏居たりしを攻やぶられけり。八幡殿學問に心を寄給はずば、何ともかゝる事をしり給ふべき。右大將賴朝卿も和歌に志を寄給ひ、近き頃信玄・謙信兩人も詩歌を好み給へり。蒲生飛騨守氏郷は伊せの松坂十二萬石より奧州會津百萬石を太閤に拜領有。奧州を切しづめたる無雙の猛將なりけれ共、きはめて和歌を好給へりけり。氏郷の家に佐々木の鐙といへる名高き鐙ありけるを、細川越中守〔忠興〕所望ありけるに、家來ども是名物にて候。別の似よりたる鐙(*原文「鎧」)を進ぜられよと申せしかば、氏郷、
なき名ぞと人にはいひてやみなまし
こゝろの問はばいかゞ答へん
といへり。歌の心のはづかしきとて、彼の鐙をおくられけるとなり。元亨の亂に、菊池寂阿(*菊池武時。原文「菊地寂阿」)入道が後醍醐天皇の敕命にて敵の城(*鎮西探題)へよせけるとき、櫛田(*櫛田神社)の前にて馬のすくみたりしに、
武士の上箭のかぶら一筋に
思ふ心は神ぞしるらん
とよみて、神殿の大蛇を射て馬のすくみ直り、既に討死すべき時、故郷へ一首の歌を書つけて遣しけり。
故郷に今よひばかりの命とも
しらでや人の我を待らん
とよみて、忠義の爲に命をすてし。皆文武の人と申べし。大將ばかりにもあらず、名高き士は皆書をよみ學問し、和歌をもすき申けり。梶原(*梶原景時)が一の谷にて、
物のふのとりつたへたるあづさ弓
引ては人のかへす物哉(*「返すものかは」)
とよみ、奧州を賴朝卿攻めらるゝ時、白河の關をこへ給ふに、梶原、
秋風に草葉の露をはらはせて
君が越ゆれば關守もなし
とよみけるとかや。すべて學問してける名高き勇士多く文武は二つならず。詩歌を公家の玩物と思へるは、無下に口おしき事なり。近頃大猷院樣文武の聞へ有士を、陪臣の中より十七人ゑらみ出させ給しに、永井信濃守〔尚政〕の家臣酒和田喜六(*坂和田喜六)歌人にて、
芳野山花咲ころの朝な/\
こゝろにかゝる峯のしら雲
とよみける歌を聞し召、これも又文の一事也。喜六がすぐやかなる事は、内々聞し召れしとて、彼の十七人の中へ酒和田をも入させ給ひけり。此酒和田きやしや(*花車・華奢─風流・伊達)風流のみを心がくる人にあらず。林道春(*林羅山)に聖賢の學問をも尋問けり。信濃守江戸の留守に、家中の士勝手にめいわくして(*生計に困って)、喜六に願て金錢をかり度由を云けり。喜六則信濃守にかくとも申さで、藏の銀子千貫目借しあたへければ、信濃守江戸より歸り、大に腹立て、借とも何とも我等にいはざるや、我まゝに借したる事不屆也と申されければ、喜六承り、されば其事に御座候。只今私を御しかり被レ成候御志を存候故、申上候とても御聞入有二御座一間敷と、兼て奉レ存候。申上候て御聞屆無二御座一、おして借申候事如何に御座候。又御趣意を守り申て借し遣し不レ申時は、御家中大にめいわく可レ仕候。上方の商賣町人の銀をかりて過分の利を遣し、町人に利をとらせては無益の事に御座候。御藏の銀子をたくはへ置れ候は、軍用公用の爲に御座候。御家中貧乏を救ひ人馬をへらさず、知行高の極を勤り申もの(*ママ)、軍用のもとに御座候。是公方樣への御奉公と奉レ存候へど、大なる公用に御座候。且又御藏の銀を取出候へども、少もへり申事御ざなく候。十年賦に申付候間、御家中忝と存候。上の大益に御座候故、たとへ私のとがを蒙り候てもと存候て借申候。外の御用人は更に不レ存、私一人の所爲に御座候間、いか樣とも罪に被二仰付一候へと申ければ、信濃守閉口致されけり。
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りちぎなる(*実直な)者ならでは武邊はせぬ由、昔より云傳へたり。加藤主計頭淸正、剛の者をほしく思ひ、一生の間目利に心を盡して、人相までを稽古致されしかども、其術を得られず。只りちぎ者に武邊者多しと言れしとかや。又加藤左馬介嘉明も申されしには、氣先(*気構え)のけなげなる者は、人のめを驚すほどの働きをするといへども、ふみつめたる(*未詳。徹底した、という意か。)武功はりちぎなるものにあり。たとへばたのみなく旦那の威おとろへて、人々二心をもつ中に、獨義を守りて心がわりなきつよみは、りち義者ならではたのみにならず。旦那の出頭を心がけ、知行を取て人に笑るゝをもはぢとはおのれもしれども、其恥をはづかしと思はぬ者は、旦那を殺しても、身の爲によき事ならばなすべきなり。僞と貧と品はかはれ共、落著は同じ事也と言れしとかや。新太郞樣にも常々へつらい者に知行をあたへ置候は、盜賊をかゝゑ置くとおなじ事也と仰られし由。智者の詞には符を合す如く也。
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水野日向守〔勝成〕始は六左衞門といふ。水野和泉守〔忠重〕の嫡子也。長久手の軍に、やみめを煩て冑をきず、はちまきにて出られけるを、父の忠重みてきやつが冑は小便つぼにしたるかと惡口せられけるを、父ながらあまりの詞かな。我が首を敵にわたすか、敵の首を取る二つに一つといふまゝに、馬ひき寄せ打乘り、一文字に乘出しけるを、忠重段々人を遣しよび返されけれ共聞入ず、眞先に乘行て、秀次の大將白井備後守が備へつゐてかゝり、冑首をとりて乘歸る。其日の一番首也。父忠重へあしざまに申入有て勘當せられ、虚無僧と成て諸國をめぐる。後に權現樣三州刈屋を被レ下、大阪陣にも大和口の御先手として大功有しは此人也。其後備後福山十萬石被レ下けるが、年寄ほど彌身をげす近くもてなし、總て士に上下はなきもの也。主となり家來となり、互に賴合て世はたつもの也。されば大事の時は身をすてて忠義をつくす事也。我を親とも思はれよ。われは其方たちを子と思はんと、常に家來の士にいはれけり。或時鷹野の先にて昔日向守に奉公せし士を見かけ、いかになつかしや。わが方にては三百石の知行なりしに、立去りて越前へあり付、千石の知行と聞。今日爰に行違たるは、如何にして爰に來りしやと問しに、彼士承り、御意の通りに知行は越前にて取りまし申候得ども、殿樣の御事は、下を御いたはり懇に御あいしらい被レ成候御なじみ、知行にはかへがたく、越前を暇申て歸り參り候。もとの知行にて御奉公申上度といへば、日向守大に悦て、時々思ひ出しぞかしとて、もとの如く仕れけり。其後日向守隱居して又鷹野に出られし道にて、彼士の屋敷の門をたてたるを見てふしんせられしに、彼士日向守の子息美作守の心にちがふ事有て、暇を乞て出奔したりと申ければ、日向守大に驚き、彼者は越前の知行千石をすてて、わが家の小知行をしたひ歸參せし者なるを、いかなればかくはからわれしや。作州(*美作守)は江戸風を似せらるゝ事のなげかしき也。かく云日向守わかき時、武藏國金川(*神奈川)根笹流(*普化宗十六流の一)の弟子と成、尺八一本を持て虚無僧と成て日本國をめぐり、野山に夜をあかし、さま/〃\の難義にあひ、人にもいろいろにしられしかども、一言僞りをいふ事なく、不仁のはたらきせざる故、今福山十萬石拜領して大名の中に入たり。然ども下の情をしる事は虚無僧の德也。返す/\惜き士を失ひぬる事也。さて又江戸風といふ事は、公方には日本六十餘州の身の上也。福山は十萬石の身上なり。江戸風の下の情にうとき事を似せて、下すの情は作州しられぬと見へたり。すべてよき士は主や頭のいふ事にても、不埒なる事には心腹せぬもの也。たとへすこしのとが有ても、よき士をばしらぬふりして、猶すてがたき事あらばそと異見などさすべき事なり。美作の仕置にが/\しき事也。水野の家も末になりたり。子孫つゞくまじきといはれけり。
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大内義隆は周防・長門・豐前不殘(*残らず)領國にて、安藝・石見も大かた領地なり。太宰大貳を兼たる故、筑前も下地(*下知)したがへり。周防の山口に居城して、其頃ならびなき大名なりければ、漸く武備におこたり、遊山をたのしみ、茶の會に日をくらし、家中國中の難儀を露も知らず、仕置は家老の陶尾張守晴賢にまかせられしかば、尾張守二心を持つきざしあり。毛利右馬頭元就これを察し、或夜ひそかに義隆の〔◎脱アルカ〕(*イ前に)出て、古より國を奪ふもの皆其家の家老にて候。それ故明君はよく家來を引廻し、威を家老に奪れず候。威を奪れなば、役義を言付知行をやり候ても、其主君よりの下知と不レ存、家老より取計ひ申すと心得候故、其主君はあれ共なきが如くに候。家老役人の勢ひ次第につよく成て、後には其主君を殺し國をも奪ひ候。その樣子危く候間、御心を付られ候得と申たまひしかども、義隆合點なく、つゐに尾張守に殺され給ひけり。按るにこれは亂國の世の事にて、太平の時は君を殺し奉る事はなけれども、主君をだまして其威をうばひとるは家老・用人の常の事也。されば熊澤助右衞門〔後に了介と云ふ〕新太郞樣の御時執政たりしが、常に人にかたりて、やがて今の大名は家老・用人にだまされ、我國は皆家老・用人の物となるをしらず。下の敬ふをよき事として、だますといふ事少しもしらず。下の情露計りも心附なく、何十萬石の身の上にても、國を持たるにては有べからずと語られし由、智者の詞何かはたがふべき。思ひあたれる世と成ぬるぞ悲しき。
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稻葉伊豫守一徹、織田信長にしたがひけれど、信長心とけず、數寄屋にて茶をたまはり、其席にて刺殺べしとのたくみ也。一徹數寄屋に入時、相伴の三人あいさつに、掛物の繪の讚をよみたまへといふ。これは韓退之の詩にて、雲横二秦嶺一家何在、雪擁二藍關一馬不レ進といふ句也。一徹少し學問ありてよみけるに、相伴其意を問。一徹あら/\子細を咄しければ、信長壁ごしに是を聞、つと走り出、一徹にはあら勝負計する勇士と思ひしに、今聞處文學にも達せり。奇特の事感心する餘りに實を語るべし。今日のもてなしは茶湯にあらず。其方を刺殺さんとせしたくみ也。相伴の三人皆懷劔をさゝせたり。今日より永く我に隨て謀を致されよ。ゆめ/\害心をやめたりと云れければ、三人の相伴懷より小脇指をとり出す。一徹平伏して、死罪を御免被レ下之事忝く、私も内々今日殺さるべきにて候はんと察し申候へ共、せん方なく是非相手一人をとり可レ申候と存、用意仕候とて、是も懷刃をとり出して信長に見せ申ければ、信長彌其心がけをほめられけり。
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靑蓮院の宮にや、幼き宮方に、中院前内府通茂公(*なかのいんみちしげ。熊沢蕃山門人)御後見成して、ある時將棊盤有しを見て、家司坊官(*門跡院家司。僧服帯刀する。)をよんで、何とてかやうの物を置ける。はしたなきわざは本よりあしければ、たとひ有ても、御年ゆきて後は御心付てやむる事もあるもの也。是等はさしてあしき事にあらざるゆへ、其事なれ(*慣れ)、空しく月日を過し、御學問の御志おこたるものなれば、あしき物也といはれけり。誠に内府公の詞は至極たるべき也。又ある時其宮へ出入する者、尺八の名高きを御めにかけたり。大事の品とて折紙など附たり。かゝる所へ内府公御入有て、是は誰がわざぞ。かやふの物御めにかくる事や有といふまゝに、柱にうちあてて碎かれけり。其後尺八のぬし參りけるに、其故を語り聞せ、返す/\寳物打くだかれて氣のどく成と坊官(*原文「坊宮」)などいひしに、尺八の主少も苦しからず候。唯私の持たりと内府公の聞し召されん事おそろしく、御聞なきは私の仕合なりと申けるとぞ。其子通躬(*みちみ。原文「道窮」)は嚴なる人にておはしけり。人の後見にはかゝる人をつけ度事也。豐臣秀賴に權現樣御對面の後、本多佐渡守〔正信〕を召て、秀賴はかしこき人也。人の下知を受べき人に非ず。父太閤の後をつぎなんと驚き給ひて上意ありけり。正信承り、いや私計にて秀賴卿を愚になし申さん事、いと安き事に御座候と申て退出しけり。秀賴卿の御臺所は將軍樣の御娘にておはしましければ、佐渡守御臺所の上臈女房に對面し、すべて上下共に女は嫉妬をあしき事の至極とせり。秀賴卿は日本のあるじにて御座候へば、御召仕の女房大勢なくて不レ叶事也。何とぞして秀賴卿の御男子御誕生にて、豐臣家の御血脈御相續有樣に願ふ所なれば、必ず美人をゑらび出し、あまた御側に置れよ。もし嫉妬する人あらば女とはいはせじ。我等とがに申行ふべしとかたく云ふくめ置り。又秀賴公の近習面々にあふては、秀賴公御かしこく御座被レ成候事、大御所殊の外悦に御座候。猿樂を御なぐさみに被レ成、少間も御油斷なく御かゝり御座候樣に有度候。御養生第一の事に御座候。只今御年わかき内、何かと御心苦勞の事有ては、鬱症を御煩被レ成候。此段氣の毒千萬に御座候。ゆめ/\御仕置の事を御心にかけさせられぬ樣に、とかく猿樂のうたひ舞にて御養生第一に可レ然よし、身になりがほに大切にして言なしければ、皆尤と聞受て、秀賴卿色にふけり猿樂を好み給ひ、仕置の事毛頭もしり給はず。ましてや下の情ゆめにだにも合點なく、あへなく終に滅亡し、蘆田矢倉にて自害し給へり。日本のあるじを失ひ申されし事、本多正信が計ゆへなりけり。秀賴公にも中院内府公の如き人後見たりせば、本多が計もいたづらなるべし。此事は今太平の世なれば、敵國より大名を愚にすべきにはあらざれ共、今の大名は皆家老を初め重き用人の爲に愚に成たまへる事ぞかし。其子細は主君下の情〔◎脱アルカ〕よき(*イを知り能〔よく〕)人を用ひたまへば、己が恣なる事なしがたきゆへ、いかにもして主君の愚にならせ給へと、明暮心の内に願ふ事、和漢同じためしにてある。此所をだに大名のわきまへしろしめさるれば、人にだまされ給ふ事有べからず。
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會津神公〔左中將保科正之卿〕は台德院樣の第九男にて、殊外豪氣の人におはしまし、御近習の儒官に小櫃與五右衞門と云者にも〔「にも」マゝ〕(*イにも旡)、或時中將殿與五右衞門に、其方が身に何ぞ樂しみ有やと尋られしに、與五右衞門承り、大に樂に存事二つ御座候。それは如何樣なる事にや聞度由なりければ、與五右衞門申けるは、我第一貧者にて御座候故、奢と申事終に存不レ申候。若し富家に生れ候へば、奢を常に存、禮義の道を存間敷に、天然の貧乏を冥加と存樂しみ申由申。殘りの一ッはと尋ね給ふに、重而可二申上一候。たやすくは今一ッ申上がたく候由申けり。十日計り有て、今一ッの樂を聞んと仰ありければ、與五右衞門何とも是は申上にくい御事に御座候。不二申上一候て再應尋問れしかば、與五右衞門謹而、然らば可二申上一候。大名に生れ不レ申候。是大成冥加と常々天道に對し難レ有奉レ存候由申ければ、中將殿其子細は如何なる事ぞと問給ふ。與五右衞門、されば其事に御座候。生後かしこき御方も、皆あほうに家來より致しなし申て、小身者には師匠朋輩と申者有て、あしき事をも異見し戒をも致し申候へども、大名には左樣の人無二御座一候故、とかく御機嫌を背かぬ樣にと計いたしなし申候(*二重敬語)。其所より少其旦那のよき事御座候得ば、山の如くにほめそやし、御氣に入だてに(*寵愛をよいことに)色々のあしきならはしを付、いかなる無理を被レ仰候ても、御尤々々と申候故、旦那にはいつとなく氣隨我まゝに成せたまひ、それよりは一言諫を申上られぬ事に成行候。いかにはつめい(*聡明・怜悧)の生れ付にても、學問もなく敎もなくて、よき事知りたまふ事は無レ之ゆへ、あほうに御成候と申物にて候。人と生れ、人にだまされ、あほうに成給ふ大名は、無二是非一事の至極にて御座候。依て私大名に生れ不レ申候故、あほうになり不レ申。此段冥加に叶申候と、明くれ悦たのしみ申事に御座候。奉二恐入一候へども、御尋にまかせ申上候とて平伏しけるを、中將殿つく/〃\聞し召、さて/\尤也。予此事の理を聞事おそきゆへ、いかにも其方が言たるあほうに成たる也。今よりあほうに成らぬ樣心得べし。急ぎ筑前守〔中將殿の御嫡子〕(*保科正経)にもはや云聞せよ。是は當座の褒美とて、加増二百石與五右衞門にあたへられ、それより學問を好ませ給ひ、仁政を國中に行給しことの數々にて、諸國までも、備前の芳烈公(*池田光政)・水戸の義公(*徳川光圀)・會津の神公、此三人の御方樣を、千百世の中に有がたき君と申傳へけり。
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左衞門督樣〔忠繼朝臣〕(*池田忠継。輝政男)は、東照宮の御女北條氏直に嫁したまひ、後國淸院樣へ御再縁にて、其御腹に御誕生被レ成、大坂冬陣にて左衞門督樣十六歳にて御出陣也。御歸陣の後家中の士寄合て咄しける時、一人申出候ける。今度わかき殿樣日頃と大にちがひて、御出陣より初て、萬事の御下知とかく言べき樣もなし。中にも今まではとかく詞に出さねども、餘り有がたきに申出す也。仕寄場にて寒氣にてさぞ苦勞ならんとて、小き手樽に酒を入て被レ下、又わた入の肌著を被レ下、必ず此事人に云なと仰られし、志の忝さ身にあまりけると言けるとき、一座十餘人一同に手を打て、さても/\忝き哉。我も/\皆其通りなりき。一人のあいしらい(*待遇)と思ひしに、皆々加樣に御心を付給ふ事、ためしなしと感申合けるとぞ。されば良照院殿(*家康女督姫。忠継母。)興國院樣(*池田利隆。忠継異母兄。)を御毒飼被レ成候節、御身がはりに御立被レ成御かくれ被レ成候と申傳る也。又兄の身がわりに立しためし、もろこしの衞の國の壽子(*衛宣公の太子急子〔汲〕の異母弟寿子〔寿〕。)の外多からぬにや。末代に有がたかりし御事也。今國淸寺に御像の御座候所、以ての外草のはへ茂りて、あれはてたるけしき、天道物知る事なき世と覺てかなしけれ。
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井伊掃部頭〔直孝〕大坂冬陣に物見二人をやり、雨にぬれ歸りければ、樣子を聞れて後、則きられし小袖二ッをぬいで兩人にやられけり。さて安藤帶刀〔直次〕へ小袖をもらいに遣し、我等加樣の事にてきる物二ッながら家來に遣し、著替無レ之候とて、帶刀のおくられし小袖をきて、革袴にて權現樣御前へも度々出られけるとぞ。今の世を以て見れば、三十萬石の身體にて、著替の無かりしといふは、餘りなる事と不審する人もあれども、大樣其節の有樣如レ此なりしとなり。權現樣大坂夏御陣に、御臺所用意の事仰付られ候付、膳米五升・干鯛一枚・味噌・かつほぶし少にて事たるべし。味噌も多く持すなと上意ありし由、加樣になければ武備は曾て以てはりがたき事なるべし。掃部頭かやうに質素なりけれども、彦根湖上より船にて都にゆくに便よかりしかば、太平の後は彦根の士ども大に奢り、風俗あしく、衣類美麗に成しを、掃部頭儉約にかへすべき道をつもり、江戸より歸るとき、木綿の衣服を供の士の數ほど用意し、彦根に到著の朝俄にくばりあたへてきせられけり。彦根の家中旦那の待受にきかざりて迎に出けるに、供の士一同にもめんなりしかば、不審する處に、旦那の掃部頭、いかにもよごれたるもめんの衣をきられ、駕籠の戸をひらき、それ/〃\に詞をかけらるゝを見て、己が身を顧て、りつぱの衣類引さき度心地して、それより又質素に成けるとぞ。國淸院樣村々莊屋に高一石に米二斗づつ免ゆるし候へと、年號月日堀甚兵衞殿と御自筆に被レ遊たるを、今其家に持傳へたり。百石〔マヽ〕(*百万石)の御身上にて、かく有けん事あやしき程の事なれども、是は戰國の世とも申べし。新太郞樣この竹をきりてくゐにせよ、何村のたね米は加樣にせよ、何の役は加樣にせよと云事、御自筆に被レ遊たる御書の、予が曾祖父に被レ下たる數十通、箱一ッに有て傳へたり。今は加樣の事郡代もしらざる體なり。おとろへたる世の有樣にこそ。太平久しく、亂をわすれて人々油斷し、あたゝかなるまじき士の風俗、以ての外奢りになりて、明暮酒もり・茶の會の無益の費をして、川遊び・物もふでに日を送りて、禮義の方には心もつけず、馬具・武具いかに成たらんもしらず、多くは町人の家に質に遣し、物語するを聞けば、女道のたはぶれ事のみにて、士の道は露かたり出しもせず、儉約に事よせて、利欲にあらぬむさき事をしても恥とも思はず、親類朋輩の難義を救ふ心もなく、人のものをかりて返す事をわするゝ類ひ、口惜しき世の有樣なり。但此事は士の上ばかりにもあらず、すべて天下の人を四ッにわりて、士農工商とすることは古より定まりたる事、中其重き士をあまた持給ふを大名と申事なれば、天下の貴人は大名にてぞおはしませ(*ママ)。然るに今大名貧乏にさしつまり、買たる物の價をやらず、國中士民のかんなんをすくはず、四民の内第一の下れつの町人を賴みて金銀をかり、それにてやうやう取つゞき給ふ事、口惜き事の至極なり。天下の貴人として、天下のいやしき町人に手をさげて(*ママ)、彼等が料簡にて、やう/\に身體を持せたまふと言事や有べき。されども世のならわしと成たれば、是を恥とも思ずおはしますこそうたてけれ。つく/〃\思慮おはしまさば、大名の恥辱此上やあるべき。されば古より質素をよき事に、奢をあしき事とするは、ゆへ有事ならずや。
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新太郞樣常に御意被レ成候は、家中國中をよく治めんとならば、威と恩との二つ成べし。威なくして恩ばかりなれば、あまやかしたる子の敎訓を聞ぬ如くにて用に立ぬ。又威ばかりにてきびしきを第一とせば、上むき(*ママ)上に追從するとも眞實になつきたるにあらざれば、是また散々の事也。恩にてよくなつけ、法度の少しもくづれざる如くに、賞罰を行ふを威と云べし。恩信なければ威も無用の事也、威なければ恩信も用に立ず。然ども畢竟の處、よく下の情をしらざれば、恩信も威も用に立まじきぞ。とにもかくにも聖賢のおしへを稽古なくば、此一大事はしりがたしと仰有と也。
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厩橋(*前橋)の城主酒井雅樂頭〔忠淸〕佐藤五郞左衞門〔直方〕を殊外崇敬にて、客人のあいしらいなりし。あるとき五郞左衞門井伊掃部頭のもとに招請せられ、いまだ掃部頭對面し給はざる内、家老・用人物語しける時、五郞左衞門申けるは、大事と申物は勿論少のわざにも傳授稽古と申事御座候。御師匠にたより習受、其上工夫をつくしてやう/\合點參る物にて候に、日本にては至極大切の事に傳授もなく稽古もなく、自己の分別にて智を明候事有レ之候。各達御存にやといふ。家老もいや皆々不レ存候。いかゞと問ければ、其時五郞左衞門、されば其事にて候。一國の仕置にて候。數萬の士民の一命にかゝり候大事にて、安危の至極にて候。それゆへ異國にては聖人・賢人敎おかれし言葉、萬世のかゞみ有レ之、それを稽古致候。今大名方の主も家來も是に心付なく、聖賢の萬世のかゞみに成候道を稽古なく、自己の分別にて埒を明られ候。さてもさても危き事の至極に候と語りけり。
右雨夜之燈火は常山湯先生輯録、宗政公(*池田宗政)へ奉し一卷也。其後備藩典刑并烈公遺事(*『吉備烈公遺事』─芳烈公池田光政の事蹟)を輯録し、而獻じ奉るとなん。
(雨夜の燈<了>)
(目次)
(自序)