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易学階梯 卷之上


(三枝博音 校訂・解説『天文・物理學家の自然觀(二)、儒敎家の自然觀』
 日本哲學全書9 第一書房 1936.9.20
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  「易学階梯」(抄)解説(三枝博音)   (目次)   卷之上
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「易学階梯」(抄)解説

〔口絵解説〕
皆川淇園の「易學階梯」は大部分寫本で傳へられてゐる。刊本となつたものは全三册のうち、一册のみであるといはれてゐる。この寫眞(*省略)は、上野圖書館所藏の寫本の第二丁の裏及び第三丁の表である。(帝國圖書館藏)

 著述年代

「易學階梯」の著述年代は今のところ私には不明である。彼の學問的功績は開物學の創唱にあると言はれてゐるが、開物思想の最もよくあらはれてゐる著述は、この「易學階梯」の外に「名疇」、「易學開物」、「易原」等である。然るに「名疇」以下の三著は、天明年間(西・一七八一—一七八八年)に、ここに擧げた順序で書かれたものであると推定される。この「易學階梯」は、その内容からいって天明より前のものではあるまいと考へられる。天明年間から寛政年間(西・一七八九—一八〇〇年)の間に書かれたことは間違ひないであらうと思ふ。

 著者及び其の著述

著者は皆川淇園であるが、彼の諱は愿、字は伯恭、淇園は號である。この外筇齋、呑海子などの號もある。享保十九年(皇・二三九四年 西・一七三四年)に京都正親町坊(中立賣室町西)に生れた。父は春洞といつた。碑銘(明經先生墓表)には、「生レテ而頴異。四五歳ニシテ。其父試ミニシテ杜甫秋興八首之。不ズシテ(*ママ)誦。自リシテ是而課讀書。一過便。弟成章亦夙慧。」と書かれてゐる。弟成章とは富士谷成章のことである。成章は出て富士谷氏を繼いだのである。本全書(*日本哲学全書)に收容した「神人辨」の著者(*富士谷御杖)は成章の子であるから、淇園の甥である。父の春洞も畫を好んだが、淇園が畫に長じてゐたことは周知の通りである。少年の時彼が就いて學んだ人は、大井蟻亭、伊藤錦里、三宅牧羊等であつたといふことである。この中、大井蟻亭は經史に通じた儒學者である。彼は年少の時から、「字義を知らざれば、文もとより作るべからず、亦解すべからず。經の平明は職として是れ之に由る」といふことを痛切に考へてゐた。後世彼が字義に精しく音韻に通じ、易學に於て獨創の説を立て得たことは、ひとつは彼のこの性向によるものと思はれる。名著「名疇」(天明四年 五十一歳)の序のなかで、「易學に鑚研するもの殆ど四十年」と言つてゐるから、易の研究が年少の時からはじまつてゐたことが知れる。しかし、易學に對する彼の秀れた解釋、つまり開物の思想が生れるやうになつたのは、大體五十歳以後と見てよいであらう。私は彼の多くの學的業績の中で、彼の開物の思想の勞作を最も意義あるものと考へるのである。彼の易學を慕つて集つた門弟は實に多かつた。敎育に於ける彼の功績は大きかつた。淇園江道館が中立賣に建つたのは晩年(文化三年)であつたが、その翌年、文化四年(皇・二四六七年 西・一八〇七年)五月十六日に歿した。彼の手に成つた碑文や書籍の序文・跋等は實に夥しい。淇園はまたわが江戸時代の偉大な思想家である。
著述は實に多い。私が讀み得たものは、學問論としての「問學擧要」(安永三年)、開物思想の著述としての「易學開物」、「易學階梯」、「易原」(天明六年自序)、秀れた範疇論としての「名疇」(天明四年序)等である。この外、易に關しては、「周易繹解」、「周易釋義」、「易原翼」、「易學開物小牋」、「周易擬議法」、「周易擬議圖」、この外尚數種ある。聲音學の方面では、「聲音本元論」、「音記」、「十母發揮」、「直讀闡微指南」等がある。「論語」・「老子」・「列子」・「荀子」・「莊子」・「孫子」・「鬼谷子」等に對する解釋書も書かれてゐる。尚、字書方面の著述は十種以上を數へる。その他詩及び之に關する著述も又十數種を數へる。以上の著書のうちには未刊のものが少からず含まれてゐる。

 内容の概觀

ここに收擇し得た「易學階梯」はその三卷のうち上卷のみである。紙數の制限上全卷を收容し得なかつたのは遺憾であるが、彼の開物學を本全書から逸することを得ないから、せめて上卷のみでも收めたのである。先づ、三卷の夫々の目次を列擧して置いて、内容の概瞥に移らう。上卷の目次は上卷の卷頭に擧げてある。中卷・下卷の目次は次の通りである。
易學階梯卷之中 目次
名物。外象。法器象神。四易。爻等物文。生遷撰。陰陽剛柔。道。位。擬象。撰法。直主。已生。直遷。小卦撰之所主。變通。改易。言。廣大。夏。故。貞。易簡。易之情。直化。連生。
易學階梯卷之下 目次
易經傳中文字。六十四卦名。彖爻。天地人。聖人。時。義。是非。存亡得失附喪。旡咎善辟。又誰咎。終旡咎。元。亨。利害。事。治亂。志。志行正。合志。孚。厲。用。正。正中。中正。征。誠。命號。在。物名總説。天文。地。渉大川。歳時。月幾望。方。人物。匪冠婚媾。宮室。身體。體用。心性。心用。願。旡所疑。德物。信以發志附發揮。順以巽。言語。政刑。禮樂。祭祀。災福。有慶。衣服。舟車。器物。寶玉。酒食。草木。鳥獸。色彩。雜字。旡所容。亦可醜。位當之類。未失常。久。永。乘。長。遇合。尚。助字。
易は開物といふことに歸するといふことは、淇園の主張である。易の解釋書は日本にも少くない。けれども、易經の中に書かれてゐる「開物」の考へ、、に着目し、これを思惟し發展せしめたことはひとり淇園の業績である。私は、専門家以外には耳新しいこの開物といふことを、少しく次に述べて置かうと思ふ。
開物の物とは、もともと獨逸語で言ひ表はすと、wirklich(現實的)なものを指すのである。極く具體的なものを指すのである。そこで、普通にいふもの品物しなもの生物いきもの等すべて)を指すやうになることいふまでもない。その時、その場合にそのものがwirklichであり、具體的なものであれば、そのもの開物かいぶつぶつの概念の中に入るのである。江戸時代も元祿の頃となれば、醫藥の需要も上下一般を通じて切實になつてゐる。從つて藥草の如きも一層現實的に必要なものとして取扱はれるやうになる。社會的なものになつてくる。讀者は、さうした時代に貝原益軒(西・一六三〇─一七〇五年)の「大和本草」が書かれてゐることを想ひ出してもらひたい。この益軒の大著の序文に「開物」のことを述べてゐる。「古昔聖人開物成務」と書いてゐる。益軒は本草の研究は一つの重要な開物であると考へたのである。この「開物成務」なる思想は「易經」に出てゐるものであつて、皆川淇園が本書の中で解説するところのものである。
以上のことから解るやうに、易の開物のは根本的な意味をもつものであつて、これが歴史的現實に於ては、植物としての物も、動物としての物もその中から(意味の上で)發展し得るものなのである。佐藤信淵の「經濟要録」が又開物の書であることを、ここにはただつけ加へて置くにとどめよう。讀者は江戸時代も終りに近づけば、あらゆる産業の開發によつて開物が全般的になつて來たことを、留意してもらへばよいのである。
讀者は、本書の中で、淇園が「物」を如何に解釋しようとしてゐるか、そのため如何に論理思想を發展し得たか、如何に必然性、恒常性、法則、範疇等の論理學概念に相當するものを、すでに思惟し得、且つこれを驅使し得てゐるかを見て驚かれるであらうと思ふ。私は彼の範疇論の創唱を機會を得て強調したいと思ふ。

 校訂に就いて

底本は帝國圖書館藏本にかかる寫本「易學階梯」を以てした。原文は片假名、句讀點はない。それ故、形式を次のやうに改めた。即ち、片假名を全部平假名に換え、適宜に句讀點を入れた。又濁點を附し、讀みにくい個所には送り假名を挿入して置いた。

 類似の文獻

「易學階梯」に類似の文獻を淇園の勞作の中で求めれば、何よりも「易學開物」、「易原」、「名疇」を擧げねばならない。未見に屬するが、「易學開物小牋」や「授易記業帖」は是非この書と共に注意さるべきものと考へられる。

解説・校訂者 三枝博音


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易學階梯 卷之上

平安皆川愿伯恭 口授 男先(*允カ) 筆録

(目次)

伏犧氏作八卦。 開物。 易。 文王演易。 易四道。 本經六十四卦編次之旨。 六十四封象所由生。 彖爻辭。 坤乾。 彖爻二傳。 孔子繫辭。 春秋時列國筮占。 連山歸藏。 西漢已後易説。 河圖洛書。 太極。 蓍筮。 楊雄太玄經。 漢已後人占筮。 學易。 學易要旨。

[目次]

伏犧氏作八卦

伏犧氏の八卦を作り玉ひたること、繫辭下傳に、古者伏犧氏之王タル天下、仰イデハ於天シテハ法於地、觀鳥獸之文地之宜、近キハキハ。於メテリテ八卦神明之德、以萬物之情といひ玉へるに【已後皆如此書くべきことなれども、あまり煩なる故に皆いへると書くなり。】本づきて言ふことなるが、周已後、開物の道湮晦いんくわいして、漢より以後は絶へて知る人なし。是の故に、八卦は唯卜筮の用に供するより外はなしとのみ思へることになれり。是は以ての外なる淺はかなる心得なり。戰國の比までは、尚八卦は開物の爲の所用なりと知れる人も有りしにや、莊子大宗師に、伏戲得之以て襲氣母といへるを視れば、八卦の本體は即ち天地間の氣母なることを知れる人の言出せる説と見えたれば、後世の人の八卦を卜筮の用ばかりなりと心得たる淺はかなる見とは格別なることと思はるゝなり。されば伏犧氏の八卦を畫せられたるは、天下に王たる入用にて製作し玉へるものなり。仰觀俯察とは、人が天地の中間にありて、仰いで天に見こみ、俯して地に見こむに、天の紀實體用の道、地の紀實體用の道を、其の道を結び合せてそれを畫すれば、即ち乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八卦となる。さて鳥は林に棲む故に、其の羽形木葉に類し、獸は野に棲む故に、其の毛状草葉に類するを察し知れるが、即ち觀鳥獸之文與地之宜と云へるこゝろもちなり。此の理を推して、人の胸中の情理文章も亦、右の天の文と地の理とにあやかりて成れるものなるを知りて、さて始に右にいへる九籌の八卦を畫せられたりとなり。人の胸中の情理文章は、即ち萬物の情なるものにて、其の九籌の差等の別あるを以て、而して人の心の内に動ける神明の德も、それに因りて相互に其の趣を通じ知ることになれりと云ふことを知りて、八卦をば其の用ゆる所とせんために作れりと云ふことを、以神明之德以類萬物之情といへるなり。
[目次]

開物

伏犧氏の天下に王たるの入用に右の八卦を作り玉へるは、何の爲にと云ふことを辨ぜんとならば、先づ其の旨の大略を心得べし。天下に王たるの要は、先づ天下の民の日用に執扱とりあつかふところの物の實を規矩として其れに順じ行ふことが肝要の入用にて、其の物の實を知ることを得らるるは、八卦を以てするに非ざれば出來難き故に、始めて八卦を作り給ひたることと見ゆ。天下の民・物を知ることを肝要とする故は、天下億兆の民を治むるはたとへば大河の水を治むるが如きものにて、其の水の性に順にせざれば治むることを得べからざる者なり。天下億兆の民も水の柔なるに似たるものにて、人工を以て其を抑遏し又は強ひてそれを行かしむれば、其の一時は人意の如くになり行けども、終には水勢の自性に復して、其の堤防を潰傷し其の溝渠を堙塞して大害をなすと同じものなる故に、民もとかくそれが性に順ひ行ふことが肝要なり。さて其の物の實を知ると云ふことは、かりそめにも天下の億兆の民の執扱とりあつかふところの物の實なれば、其の實を相違なきやうに知ること至つて難きことなるべし。こゝろ粗にして物の辨別に昧く、己が智を以て物を斷ずることを好み人に誇らんとするものは、何事をも唯己が物ずき又は舊習にまかせて、誣てそれと定めんとするものなり。然れども左樣なることを以て、天下古今うごきなき物の實をば定め知らるるものに非ず。是の故に聖人は己が私智を舎て、天地日月の道の大規矩に當てて物の眞實を得て、それを執る所とせんと求め給ふことなりと見ゆ。是乃ち易の開物の道の由て起る所なり。上繫に、夫。夫ヘリ天下之道。如クニシテ而已者也。是聖人以天下之志天下之業天下之疑といへるが開物を言へる出處にて、易を以てこれをなすと言へるによりて、伏犧氏の八卦の作は、即ち此の開物の用なりと言ふことはかりも知らるるなり。しかはあれども右に述べたる物と言ふ者のあることは、凡庸の智を以ては一向其の意外に出たることなる故に、心を潜めて審に思ひ求めざればこれあることを知ること難かるべきことなる故に、今先づ此の下の條に、右の開物成務以下の文意を細釋す。開の字の義は、門内にかくれたる物の、戸を明くるに隨ひあらはに見へ來ることをも、見へ來さすことをも言ふことにて、此に開物といへるは物を見へ來さすことにすることなり。物と云ふは、何にても其の質の一成したる所が他と混ずることなく、別にして擧げ指すべきになりたるを物と稱する故に、此の物と云ふには數種の別あり。有形の物は天地間の、人の目に見る所の萬物なり。有象の物はこれも日月・星斗・風雲・雷霆・烟氣のたぐい、人の目に見るばかりで手に捉へることを得ざる所の萬物なり。これらは開くに及ばずして常に人の眼前にあるものなり。聖人の易を以て開くことを求め給ふは別に又其の一種の、虚にして目に遮ることなく、唯人心に其の一成したる處の樣子のみありて、觸れあたりて覺ゆる所の物あり。是れ其の開くことを求め給ふ所の者なり。此の物は文字を其の宅とし、名聲を其の號として、人の言語にたよりて人の意識の間に往來出沒する者なり。此の物は天下の神明の片われにて、至極大切なる者なり。其の故は、民心の依違順逆も道德性命の實も、唯此の物の當否と虚實によりて得失成敗の效あらはれ、それによりて治亂存亡の由る所となるもの故に、聖人は至つてこれを貴べり。易の家人卦の大象に、君子以言有物而行有恒といへり。此の物を定め知らざれば、道德仁義を口に言つても、唯虚華なる辭稱のみとなりて、それを行ふこと恒を成すことは出來ず。其の物を定め知りて後に行有恒を得べき故にかく言へるなり。口にそれを言ひ心にそれを貴び思ひても、其の實物は是ぞと執り定めたる所なければ、其のそれを言ひそれを貴ぶ所が唯虚影の如く遠響の如くなれば、たゞそれに似よりたることをば、物に向ひ事に臨みて猿の人眞似をする如くにして爲しゆく故に、時々の氣ぶり物ずきのかわるに付けて變じかわりて恒有ることをなすことを得ず。さて又右の人眞似をする所、固より何も執り定めたることなく、僅にすこしの徴證とすべきにたより、己が物ずき氣癖をそれに混じ雜へてそれと思ひなし往く故に、譬へば下手の碁將棊の己が思ひを盡せる所を以て、名人の打ち指す所もこれに過ぎじと強ひて奮ひ思ひてなしゆくと同じことにて、左樣には思ひても其の實は中心には自ら信ぜざるもの故に、事毎に疑念起りて又樣々にかわりゆく。是れ天下の凡庸の人のする所、何事にても皆斯の如くになりゆくこと、人々に己に顧省せば其のおぼえあるべきなり。斯の如くなるを以て政を爲し、國家を治め、身を行はんとすることは至つて危きことなるべし。是等のこと、先づ其の大要の處を明にせむとならば、道德仁義の諸德物の義は勿論のことにて、天下の万事並に皆己が家風、己が宿習又氣癖又は自分のみの信ずる所、又は自分の勝手によき徴證のみにたよりてそれを執り定め極めんとすること、並に皆大なる僻事なり。趙孟が貴ぶところは趙孟亦卑之と云ふことありて、己のみを主として立てたることは、一時はむりに取り立つるとも、天下の通用の公道に非ざれば、終には己よりしてくづれゆくことになりゆくものなり。さてよき序なれば、先づ右の物と云ふ者の義をばしばらく後へまわして、成務と云ふ義を此に言ふべし。右に言へる如くなるもの故に、物を開きて物定あれば、其の務とし行ふ處も、常のおしへかた定まりあることになりて、いづくまでも一成したる摸にはまりて違はぬことになりゆく故に、開物成務といへるなり。さて易の用は右の通りに用ひらるゝものにて、道德仁義と云ふばかりに非ず。何事何物にてもそれを開き定めてそれを執る時は、並に皆其の務を一成にすることの用に立つてゆくものになる故に、冒天下之道といへり。天下、何事何物の道にも皆蓋冒してある故に冒と云へるなり。右の如くになり往く道なれば、自からそれを以て天下之志を通ずる事となるなり。漢宋已來の學風にては、天下の道德仁義を言ふことばかりならず、何事にても面々の見取りで以てそれを立てん立てんとする故に、いつまでも人々己々とのみなりて、せんぐりに(*先繰りに。次第に)異説の興ることになるべきなり。今の淸朝のしかたを見るに、朝廷にて詮議ありて、詩書五經共に天子欽定の著製の書あり。彼が如きは道を崇尚せしに似たれども、實は敎化の本に昧きより出たるしかたなるべし。その故は、聖人經藝のもうけあることは、畢竟の處、天下の士民に朝夕に玩誦させん爲の設なり。然るをば上へ引きあげて、其のおしへかたの定めを出すことになりては、天下の士民の其の經藝における所が、唯欽定の通りを記誦して、それに背かざる樣にのみ心がくることになりて、經藝のこと畢竟は上に媚びるの具となりて、士民の心には入らぬことになる故、あたらたひなますばかりに用ゆる樣になりゆくことなり。今の淸朝の士民の著述、多く皆經義の説に及ぶことなく、詩文の外はたゞ恠談奇話雜瑣の事而已のみをなせるにて、彼の地の風俗想ひやるべし。經藝のことは唯上へ引きあげて下へおとさず、中分に置きて、天子諸侯は其のすぐれたるものを引きあげてそれを尊び、師として天下に示さば、天下の士民並にそれを羨み競ひ事とするに付けて、盛德の君子も多く出づべきを、己が素姓韃より出でたるを輕んぜられまじとのみ思へるによりて、引きあげまじきことを上へ引きあげたる故に、天下の經藝を玩ばんとする念を亡ひ、唯輕薄の風俗にのみなりたるは歎ずべきことなり。ヶ樣なる仕方はただ無理におし付くると言ふものにて、天下の其の志を失ふことになることなり。通ずると云ふことは、思ひもよらぬことなるべし。然ればとて漢より已後、今に至るまでの風俗にては、右の仁義を稱するにも、譬へばここに一人ありてつとめて仁を行ふべしと語るをも、聞く人によりては、其方の言ひ給ふ仁とは心の德愛の理のことなる乎、それなれば其仁は我方へは通用いたさぬことなりと答ふるものあるべし。仁義の名は同じことなれども金の位の高下ある如く又は銀札と云ふものゝ境外に通ぜざる如くになり往きたることは、かなしむべきのはなはだしきに非ずや。さればとて己も己が見とりにて定め、彼も彼が見とりにて定めたることなれば、しひて己を立て彼を潰さんとすることもなるべからず。是れ即ち天下之志の通ぜず、天下之業のさだまらず、天下之疑の斷ぜざると云ふものなり。古の物と云ふ者を開けば、右の志を通じ、右の業を定め、右の疑を斷ずることに用ひらるゝ者なる故に、古の聖人君子は至つてこれを重んず。未濟卦の大象に君子以ンデクベシと云ひ、又下繫に開キテ而辨當名シテハレリ矣といへるにて、開物の至重なること見るべし。右の物と云ふ者をば天下億兆の民のそれを知ることは如何となれば、此は譬へば美色を見て美とし、美味を食して美とするが如くなるものにて、出會であひてはそれを知れども、これよりそれを捉定することになし得ざるものなり。聖人の作用は美味の美なる本を知りて、それを製造してその民の好む處に順ずるなり。其の本といふは、譬へば仁と孝との如きは、其の仁と云ふ名の聲の内に仁の物寓し、孝と稱する名の聲の内に孝の物寓せり。此の故は、天下億兆の民の好惡是非のある處にて、それを言ふに各其の言語あり。其の言語の言ふ處は、並に皆其の物の名にて、其の物の名の始めて作れるは、其の物の實の己が神氣に觸れ覺ゆるさまを感じ識りて、其の感じ識れるさまを、其の音聲を以て形容し出して其の名とせるものなり。これは近く取りて言はば、譬へば本邦の俗語にぶらりと云ひ、だらりと云ふことあり。ぶらりと云ふには、是非其のぶらりと云ふにあたる物の形状あり。だらりと云ふには、是非其のだらりと云ふにあたる物の形状あり。是れ其のぶらりだらりと云ふ其のあたりに合はすことを持ちたるが、即ち其の語の内に含める物なり。道德仁義孝悌の名の内に、並に亦各其の事物の形状を含みて名とせるを、聞く人も其によりて其物を識り得べき名なる故に、遂に天下に通じ稱するの名となりたるものなり。其の物によりて行へば、好惡是非する處に順なることを得。その物によりて行はざれば、好惡是非する處に順なる處を失ふ。是の處、毫釐の差にて千里の謬をいたす處なる故に、孔子の門人子夏の諸賢、仁孝と云ふことはその大抵を知らざるには非ざれども、數人しば〳〵同じことを問はれたるも唯右の千里の謬をせんことをおそるる故なりと知るべし。さて右の開物の法は、我著せる易學開物並に易原によりて求めらるべし。又此中卷にて尚其の仕方のことを述ぶべきなり。されども右に言ふ處の物と云ふ者は、畢竟漢土の民の言語の中に含まれたる者なれば、本邦にては又本邦の言語の中の物を用ゆべきことなり。漢土の物は用ゆるに宜しからざるべしと云ふ疑を抱く人もあるべきが、左樣には思ひ惑ふべからず。其の故は、吾邦を始とし天竺紅毛等の諸國は、並に皆單聲を以て行ひて、人意を以てそれを合せて物に象どり、其の諸名とせるものなり。唯漢土の音ばかりは、其の思慮に渉らず、唯其の神識の感ずる處より物に象どるに、その合聲を以てして名とする音なる故、其の合音の中に天地自然の妙用こもれり。故にたとへて言へば、人蔘は北蠻朝鮮の産を貴び用ゆべく、桂枝は南國交趾の産を貴び用ゆべきが如くなるものにて、他邦の及ぶべき處のものに非ざれば、唯漢土の言語に用ゆる名物のみ。天地日月の道に恊ひ行くべきの道は寓せりと思ひて信重すべし。さて三代の世までは、此の開物の道の貴ぶべきを天下の士君子皆これを知れる故に、春秋の時孔子忌みたる人ありたれども、孔子の道を先王の道に非ずと謂へるもの有るを聞かざるに、西漢より已後は、儒者皆開物の道によるべきを知らざるによりて、天下の大道を知らず、始めて仁義五条の性といふことを言ひはじめて、凡そ學ぶと云ふことは面々の持ちたる五常の性を復し、それをよく仕立て世に用ゆることぞと心得て、己が一身に本づき己が一家を重んじて、それを持立もちたてん〳〵とのみすることをば士君子の道なりと思ふことになりたる故に、儒者互に相誹り相忌まずと云ふことなし。唐の太宗の時は房玄齡・杜如晦・魏徴がたぐいの爭ふことなかりしは、太宗の英明なるに引きすべられたる故にやありけん。玄宗の時には姚崇張説が相忌あひいめるあり、中唐には牛僧孺、李德裕が相よからざるありて天下を亂り、宋には程伊川・蘇軾・蜀洛の黨の爭ひあり。其の後陸象山、呂祖謙、朱熹、並に皆すぐれたる名賢なれども、とかく打ちよれば犬のうなりかみ合ふ如くにありて、互に相よからず。古の舜・禹・皐陶・稷・契、周の亂臣十人の趣と雲泥の相違となりし故は、唯この道を言ふことの天地自然の開物に本づかず、自意に任せてそれを軌り、天地自然の大和の道なるを、面々に身より光りを出すことなりと思ひ執れる文義の誤りより出でたる弊なり。面々に身より光りを出すことなりと心得る風習を改むることなく、其の儘にて學者を多く出さんとせば、學を勸むるは却て爭亂を招くの基となるべしと思はるゝことなり。
[目次]

易の字の名義、漢儒より以來己が見取りを以て樣々に言ふことは、皆易の物たる所の者を知らざる故なり。大略なれども禮の祭義に、昔者聖人建陰陽天地之情立以て爲易といへるが、これを得たるに近き説なるべし。詳なることは易原の序にて考へ知るべし。要するに伏犧氏八卦の作ありしより、此の易と云ふものは既に見はれたることになりたることにて、古より已に易の名ある故に、周の文王の六十四卦は、別にそれに別ちて周易と稱せられたるなるべし。
[目次]

文王演易

周易六十四卦の作は文王の手に成りたること、人の口碑にのみ言ひ傳へて、明徴はなかりしことなるにや。下繫に、易之興ルヤ也、其ランカ之末世、周之盛德邪、當ランカ文王紂之事邪。是辭危。上繫辭に、神、知。其レカヅカランヤ於此哉。古之聰明叡知、神武ニシテシテ不殺ナルかなとあり。此等は並に明徴のなき故に疑辭を以て言ひ給ひたれども、文王より外にはヶ樣の作は出來まじきこととし、それに因りて十が九を推し究めて辭を爲し給へるなり。晋語に、文王經之能ありし故に文を以て諡となせることを言ひたるも、全く周易の作ありしによりて稱したることと思はるゝことなり。論語に、子畏於匡。曰、文王既シタレドモ文不乎。天之 マシカバサント也、後死ラマシアヅカルヲ於斯也。天之未 也、匡人其と云ひ給へる文王の文と云ふも、專ら周易六十四卦をば天地の文を以てこれを成せるを以て、稱して言ひ給ひたる者なりと覺ゆることなり。さて右の六十四卦の文をなせる處は、古の開物の小卦名を用ひたる次序に據り、其の卦彖爻の變通を生じゆきて、乾坤已下、既濟未濟までの六十四物を卦象に織立おりたてて成せるものにて、其の大旨のありし所、一つには、開物の道の亡びんことを懼れて、其をば此の六十四卦を成せる内に藏し置きて、後世に知者ありて出るならば、これを以て悟り知るべしと思ひてなし置き給へるなるかと思はるゝことなり。今一つには、開物の小卦の次序せるは、神氣の感ぜし處より、右の次序の變化動靜の出でたるものなれば、是の中にもやはり天地の妙機ありと知り、それによりて其の彖爻の象及び其辭をば分け出して、尚辭・尚象・尚變・尚占の用とせる、是れ亦聖知の妙用にて、凡慮の外に出たる能事なり。それを知りて其の繫辭の法を書き置きたまへるは、孔夫子の繫辭上下二傳なり。要するに易は聖人の用ゆる所にて、凡劣にて心を用ゆること能はざる、人の智を以ては窺ひ得べからざる大道の至要を含めたる書なる故、文王孔子、並に皆是の意を以てむざと世を廣くせんと思ひ給はざりしと見ゆ。聖人の用ゆる所と云ひ、並にむざと世を廣くせんと思ひ給はざりしと云ふことは、上繫に聖人以、退於密と云ひ給へる、是なり。凡劣にて心を用ゆること能はざる、人の智を以ては窺ふことを得ざるとは、上繫に神ニシテ而明ニスルコトハ乎其、下繫ザレバ道不シクナハレと云へる、是なり。
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易四道

易をば卜筮の書なりとのみ思へるは、物の差別を分たぬ一概なる淺見なるべし。其の故は、上繫已に易の四道あるを言ひて、易聖人之道四焉。以、以カントスル、以スル、以卜筮スルとあり。然るに餘の三道を蔑却して、卜筮の一道を以て掩取せしは如何なることぞや。易の彖爻の辭に吉凶悔吝等の文あるを見て、是れ皆知來の用をいへるなれば、卜筮するものの主として用ゆる處なりとのみ心得て、餘の三道を蔑却せるにや。此はあまり思慮なき輕卒の見なるべし。其の故は、上繫に、君子居レバ、而シテ、動ケバシテとあり。此に據るに、君子平日易の書を玩び、其の辭象の變を觀て其の占を玩びて、其の時々に出合ひたる時の心得とすることを、易をゆるの專要とする由なり。又卜筮と云ふは、筮を揲し卦を立て、さて其の動爻を取り、其の動爻にあたりたる爻辭によりて來事の吉凶を決し知るが、古より卜筮をするの法なり。右の上繫に言へる所、玩するとこそ見へたれ、平日卜筮してそれを見ると云へることは一向になきことなり。且つ卜筮のみの入用ならば、彖辭はいかがして卜筮の用をすると思へるや。若し又筮を揲せず卦を立てずとも、苟も吉凶悔吝等の辭を尋ねて事の行末のsまを決斷するならば、概して卜筮と謂ふべしといはば、凡そ人の物事を爲し行かんとて其の可否善惡をはかり、それに因りての吉凶禍福を決斷する思慮をも、皆亦卜筮と稱して通ずべしと思へるや。是は一向論ずるに足らざるふづまりなる説なれども、宋儒已來此の説ありて、それに惑へる人間々まゝ多かるべしと思ひ、それを曉し知らしめん爲の故に、先づ右の如くに辨駁するなり。さて前に引きたる上繫の四道を明すに、以て言ふ者は尚ぶ其の辭をと云へるは、上下繫二傳中に、諸卦の爻辭に依りて其の旨を引きのべて辭を爲せる、是れ易を用ゆる用ひかたの一道なるをいへるなり。以て動かんとする者は尚ぶ其の變をといへるは、上下經六十四卦の一卦ごとに六爻ありて、其の六爻の義、各々其の爻位の内外の材によりて其の辭同じからざるは、即ち亦其の時は同じ時なれども、人々の居る處に隨ひて、其の宜とする相應の變同じからざるを示せるものなるが、易の義にのつとりて、以て動かんとする者は、右のそれ〴〵の變あることを尚ぶが、亦易を用ゆる用ひかたの一道なるをいへるなり。以て制する器を者は尚ぶ其の象をと云へるは、論語に汝器也と云ひ給へる器と同じことにて、此の器にはそれぞれの差別同じからず。己が身を其の器としていへるあり。易の大象に、天行健、君子以メテと云へる是なり。君子己が身をば天の道をはまらせて行くものにせんとするには、天行の健を其の象の手本にして、自ら彊にし勉めて息まざるやうにするとなり。君子己が身をば地の德をはまらせてなさんとするには、地勢坤を其の象の手本にして、德を厚くし、物を載するとなり。又其の己が制立する大經を器として云へるあり。易の大象に、雲雷屯、君子以經綸といへる是なり。此は詩小雅に君子有徽猷、小人與屬と云へると同じ心持にて云へるなり。君子は雲にして、其の中に含める雷は即ち其の立てたる處の大經なり。此の大經に民下のする處をそれに相合して、後に條理をなすことになし行かんとするには、元來その大經が民の其の事の總綱となるべき處の機をよりすべることにしてたちたることにすれば、事皆其の大經に綸となりて相屬し行はる。たとへば萬物陽氣を鼓動する機を、雲中の雷にもちたる如くにあるべき故に、雲雷を其の象の手本にして經綸すと云へり。故に凡そ大象にいへる處の文、並に皆制のことにて、此れ亦易を用ゆる用ひかたの一道なり。卜筮尚のことは前に既に言へり。
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本經六十四卦編次之旨

本經六十四卦編次之旨は、乃ち亦聖人の深く其の意を寓し、其の物を藏して、これを爲して以て後學の尋繹して悟入することを待ち給ひたるものと見ゆ。先づ上經乾坤に始まり、坎離に終ふるものは、四象の兩端冬夏の象を藏せるものなり。下經咸卦を以て始とし給ひしは、四象の中間秋の象を藏せるものなり。既濟未濟を以て終とし給ひしは、四象に往來辭をかけて六爻の動を生じ、三才の道をなすの象を藏せるものなり。毎卦必ず其の反對を以てこれをあまれたるは、序卦の大旨を預係する處も有れども、一つには又、往來辭の相通じて變化を成すの象を示せるものなり。上經三十卦、下經三十四卦、其の數同じからざれども、反對を以てこれを計ふれば、各十八卦なり。此の十八の數は、即ち亦十有八變成卦といへる數と同じくして、往來辭の道象三六十八爻を以て數ふれば、乾道・坤道、各天地に彌綸するの義あることを藏せるものなり。上經反對、陽爻五十二・陰爻五十六、下經反對、陽爻五十六・陰爻五十二なるは、四易の一易ごとに陰十二・陽十二、四易を併せて、陰陽各四十八なり。八卦の名に陰陽各四なるを、陽名には陰を兼ねて八つとし、四十八に加ふれば、五十六なり。陰名には陽を兼ぬることなくして四とし、四十八に加ふれば、五十二なり。此の五十六と五十二の數を變化相乘するの義に倣ひて用ゆる義とする故に、上下經の陰陽の卦に、此の五十六と五十二を互ひに相代へて其の數としたるものなるべし。
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六十四卦象所由生

周易乾坤より既濟未濟に至るまでの卦象は、並に皆其の毎卦の名の聲の物に依りて、經緯を合せて織りなせるものにて、彖爻の辭の由て生じたる所は、その織りゆける間の爻象の變動のすがたの、其の擬議の思にうつるを、文にうつし言ひて辭とするに因て生じたるなり。此の義の實然にして確當なることは、余別に成卦圖擬議の注、及び辭象彙解あり。
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彖爻辭

本經彖爻の辭は、何人の作れると云ふことを傳ふることなくして、後儒或は彖辭は文王より出て、爻辭は周公より出たりとも云ひ、或は並に文王の作れる所とす。然れども象辭にては、夬に王庭あり、萃に玉假有廟あり、文王の易を作れる時、未だ王たらざれば王と稱すべからずとし、爻辭にては、明夷の箕子、升の王用享于岐山など、並に文王より後の事なれば、文王の作にてはあるまじと疑ひたる説もありて、此も千古の一大疑案となりたることなるが、余按ずるには、下繫に聖人の之情は見はる乎辭にとあるに據れば、彖爻二辭共に何とあるにもせよ文王の手より出たるものなる故に、下繫右の如くに言へるなるべければ、其を立てゝ後に其の疑はしき處を辨析すべきことと思ふなり。先づ王と稱せられたるを辨ずるに、三代の時の王號あるは、後世の天子と云ふとは其の勢少し同じからざる處あり。三代の時の列國の諸侯は、多くは皆往古より其の國に據りて、代々相傳へたる國君なるが、堯舜の時は堯舜の德盛にして、天下の國君ことごとく堯舜に朝して其の制を受くるに因りて、これが使令に從ひ居れり。禹の德盛なれば、又皆禹より引きつゞき其の子啓に朝して、それが使令に從ひ、又これが爵位を受く。何れにも天下の歸王する所が即ち王にて、因て他邦よりも並にそれを王と稱したりと見ゆ。故に文王も、其の在世の時より四方の君が已に來王するによりて、周人も文王を稱して王と言ひたりと見ゆ。大雅皇矣に、度鮮原岐之陽渭之將、萬邦之方、下民之主といへるにて見るべし。然れども古聖人の制作の旨、何事によらず、唯天地の道の通りを人の用ゆる道にうつし、それにのつとりて行ひて和順を得せしめんと思ひ給へる心のみにて、それによりて誰と云ふ人の制作なりと云ふ名譽を求め給ふ心は無きことなる故に、周易の作は文王なりと云ふことのたしかなる(*原文「たゝかなる」)ことも、傳へざることになりたるなるべし。因て思ふに、文王右の心を以て其の易を用ゆる法を其の史に傳へ置きたまひたりしに、史も其の心を以て其の易の辭を稽思して、文王の付け置かれしよりは此の辭にへたるが、當時の宜に恊ひて人の心にいり易かるべしと思へる處あれば輙ちまたそれを改め脩したる故に、右の王と稱し、又は箕子岐山の辭にもなりたるなるべし。其の取りあつかひのヶ樣にあることは、經の所有になりたる文はもはや天地の文の人を濟しゆく種になりて、其の作者の手もとは已にはなれてある故に、たゞ其の宜に恊ふやうにえらみ考へて改め行くことなり。此は詩三百篇の關雎の亂をば、師摯よりそれを始めたるにも、孔子の刪定ありたるにも、並に其の名を其の物にしるしのこされざるを以て、周易の辭のことも亦其の類なるを知るべきなり。是に由てこれを言へば、文王沒後のことが其の辭の中に有りとても、それをつめて言へばやはり文王の辭なるものなり。文王と云ふことはたしかならずとても、それをつめて言へば、やはり何れにしても聖人なるものの作なりと思ふをよしとす。さて又彖辭と爻辭とは、何の爲にわかれありて、これを用ひんとするには如何にしてそれを心得んやとならば、此の事は前に已にほぼこれを辨じ置きたれども、尚亦詳にせんとならば、凡そ六十四卦は、天地陰陽の氣化、物に行はるゝ所の大機の勢に本づけて、その(*それカ)が錯行變化之常軌を推し窮めていへる者なり。乾坤は其の本づく處なり。屯蒙已下は其の錯行の變化なり。彖は、君子の其の大機の化に乘じて、其の正に順なる所に居り樣の心得を言ひたる者なり。爻は又、其の身の其の物の機に相あたるに、或はそれを承け、或はそれに入りこみ往くの變化のさまを分けて、其のさま〴〵のあはし所をいへるものなり。
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坤乾

禮記禮運に、孔子曰、我欲スルニント殷道、是而不スルニ也。吾得坤乾焉とあり。此の坤乾の目、易傳の中に見へざれども、上繫傳に易天地といへる、又與天地相似タリ、故といへるは、正しく此の坤乾のことを易と稱して謂ひたるものと見ゆ。さて何故に坤乾を右の如くに重んじて易と稱したるやと考ふるに、四象の四象たる處も、六爻の動の六爻の動たる處も、すべ合せてこれを視れば、並に皆乾坤に此の坤乾の一爻づゝがそれ〴〵に分れてかゝり乘じたるが、或は四象となり、或は六爻の動となれるなり。今圖を以て明す。
四象図
然れども此の坤乾のことは、其の義、尚玄奧幽深にして、其の神用、廣大無量なれば、上繫の注釋に因りて略ぼ其の旨を領すべきのみ。故に今茲に略す。さて坤乾のことを茲に引きたるは、春秋の頃此の易の道の世に在りたる樣を今推し言はんが爲に引きたるなり。莊子天運篇に、老子曰、子又惡乎求之哉、曰、吾求ムルコト於陰陽十有二年ニシテ得とありて、此の時孔子行年五十有一とあり。莊子の言、荒誕無稽なること多くして徴するに足らざれども、すこしは其の面影あることに付けて言ひたるなるべし。莊子の言ひたる如くにして見るに、孔子易學に心を盡して、其の道を得んことを求め給ふこと久しかりしが、孔子の時の易學は、其のこれを卜筮の藝に用ゆることは諸國にありたれども、文王作易の本旨に達し知れる人は全く無かりしが、宋に遊び給ひしとき、其の國人の傳へし坤乾の象を得給へりとなり。其のこれを得給ひたるは、定めて宋の史官の家にて得給ひたるなるべきが、宋は殷の後なれば、其の國に坤乾の象を重んじ傳へしを以て、思ふに殷の世にも四易は有りしことゝ覺ゆ。四易あらば、周易に似たることも有りしにや。書の洪範稽疑に卜筮を言へるに、擇(*ママ)立卜筮、乃卜筮。曰雨、曰霽、曰蒙、曰驛、曰克、曰貞、曰悔、凡七。卜五、占用。衍〓{戊/心}リヲとあり。雨・霽・蒙・驛・克は卜五なり。貞・悔は貞悔二つなり。さて此の雨・霽・驛・克の五名は、此の五卦象に付けたる名なるべし。さて動爻をとり、坤乾を定規として六四九三あるを貞とし、九四六三あるを悔として占ふ故に、占用二といへるなる歟。然れども此は殷の卜に四易ありとするに付けての想像のみなり。何れにも文王の易は開物の名に本づき、夏殷の卜法の用ひたる所を擇み、其の法の依るべきを用ひ、六十四卦を作り給ひたるものなる故に、易は伏犧氏の時より已に其の萠しとなるべき象はありたれども、しかと易と云ふものになりて顯れたるは、文王より始まりたる故に、下繫にも易之興ルヤ也、其ケルカ中古乎、當ランカ之末世、周之盛德乎とも言ひ給ひたるなるべし。殷之末世とは、殷の卜法衰微極まりて、文王よりそれを一洗したまひたるをも兼ね含みての稱なるかと思ふことなり。
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彖爻二傳

總じて易の十翼は皆孔子の作なりとすることは、史記の孔子世家に、孔子晩ニシテ而喜、序彖繫象説卦文言とあるに本づけて稱することなり。しかれども左傳昭二年に、韓宣子來聘シテ魯春秋、周禮盡と云ふこと見ゆ。易の象とは易の大象のことにて、乾の大象に君子以メテと云ひ、坤の大象に君子以クシテと云ひ、屯の大象に君子以經綸と云へるの類、此れ其の一言、並に皆物の大義の宜しき處を建つべき法則となるべきことを持ちたる故に、周禮と稱したるものにて、此の時は孔子未だ幼稚のことなり。然れば象傳は孔子より已然に已に有りしものなり。彖傳とても同じことなるべし。槩して孔子の作なりとすること甚だ粗なる説なり。
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孔子繫辭

繫辭上下の二傳は孔子の作り給へるなりと知ることは、下傳に顏氏子其ンド庶幾ちかカランカ乎の語ある故なり。此の語並に此の前後、易の爻辭によりての辭は皆此の前に、陽は一君にして而して二民、君子之道也。(*仮名ママ)二君ニシテシテ一民、小人之道也とあるに付けて、右の諸卦の撰象の中にて其の君子之道又は小人之道、象に撰し行く所の爻象のさまに擬議して辭を爲せるを其の下に列し置きて、學者の其の道を得るのたよりにし給はん意持こころもちにて此の數語の有ることなれば、全體の文段、孔子のこれを以てつなぎ給ひたる結構の思を寓し給ひたるものにて、不圖ふと此處に攙入したるに非ざれば、二傳は乃ち孔子の作なること、これを以て決し知るべし。さて此の繫辭と云ふこと少々入りこみたる義あることなり。其の故は、先づ此の辭と稱したるものに二つあり。一つは彖辭爻辭の辭なり。一つは四象に、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤の八卦を夏象の初よりかけゆき、凡そ三數して冬象上坤に止まるを往辭といひ、冬象の上より巽よりかけて來り、凡そ三數して夏象初震に止まるを來辭と云ふ。
往辭・來辭
此を往來辭と稱するは、説卦に數往者順、知來者逆といへる、上繫に卦に極メテ、之と云へる、並に此の往來辭を以て稱したるものなり。又此を辭と稱するは、上繫に卦小大、辭險易といへる、又辭者各指一レうごと云へるの類、並に皆是なり。其の義の詳なることは、余が繫辭の注にて見るべし。さて繫とは何を繫するなれば、彖爻のそれ〴〵に其の辭を付けられたるは、彖爻にあたる象のそれ〴〵ありて、それに是の辭を繫けられたるを以て稱せられたりと見るは、先づ表向き一通りの義なり。然れども深く思ひて考ふれば、そのあたり〳〵にて是の辭を付けられたることなれば、繫と云ふ義までには及ばぬことなるべければ、此の繫辭の繫の義、專ら往來辭によりたる繫の字なり。何故に繫と云ふとなれば、凡そ先づ繫と云ふは、牛馬をつなぎ船を繫ぐの繫の如き、並に皆其のはなれ行くことをさせまじとてつなぎて、柱又は木の株などに其のつなをくゝりつけて置くことにすることなり。諸卦の象を織りなすに、小卦の名によりて或は靜象に倣ふべきあり、或は爻辭の象に倣ふべきありて、此れ其の二象にも名其正雜を宜に隨ひ用ひて其の外象に見あはせ、その倣ふべき象を得べきを、其の辭に引きつけある易象の九六を先づは目當に取りて遷りゆくことなるが、此の易を辭に引きつくるに或は顯乾とし、或は顯坤とし、神陰とし神陽とするの軌則ありて、さて其の遷りゆきたる先の易象の九六、或は外象と同じく或は外象と異なるに同じければ、其のまゝにて次にも其の辭を用ひ、異なれば化して其の辭を用ひぬなり。故に辭に付けたる易は、たとへば船の柁の如きものにて、專ら其のつなぎたる易によりて、用・不用の別を生ずる故に、此れ其の易を繫ぐこと尤も大切のことなり。されば此の二傳は、其の主意、專ら先づ其の易を辭につなぐのつなぎ方を述べて繫辭傳と名づけ、さて右を述ぶるつひでに、外の巽法などへも及ぼし言へるものなり。
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春秋時列國筮占

春秋の時、列國の史官並に易を學びたりと云へる人ありて、或は筮占をなしてこれが占辭を作りし、或は易の占法を述べたること、往々左傳國語の中に列載せるを見るに、多くは姫姓の國、魯・衞・晋、其の佗は秦・齊、又皆周によりて立てたる國なれば、並に皆周の史官に文王の筮占擬辭の法を傳へ守りて絶えず有りしと見ゆ。然れども唯筮占擬辭の法を學びたる而已のみにて、何によりてヶ樣なる道あるぞと云ふことを知りたるは無かりしにや。昭十二年に子服景伯が吾嘗ツテベリ矣と云へるは、孔子に學びたるやとも思はるゝことなり。何れにも、孔子の繫辭の二傳を作し給へるを以て想ふに、擬辭の法ばかりを傳へて、全體の興りたる所以などへは及ばずして、唯其のかたばかりを覺えたることなる故に、孔子は其の道の遂に湮晦せんことを懼れて、此の二傳を作り給へると思はるゝなり。左傳國語に載せたる筮辭は、其の法盡く皆易經の彖爻及び彖象二傳の法と同じことにて、少しも相違したることなきものなりと云ふことを見せんとて、余別に春秋國語占筮解を著はし置きたれば、それを見て考へ知るべし。
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連山歸藏

連山歸藏の名、周禮に、大卜掌三易之法。一曰連山、二曰歸藏、三曰周易。卦皆八、其別皆六十有四とあるに因りて、于令升が説に、連山は夏人之易、歸藏は商人之易など云ふことに言ひたることなり。今考ふるに、周禮の作は或は戰國の末などに出たるものにて、其のこれを著はしたる人、つとめて先周のことをひろひ集めて遺さんことを思ひて、作りたるものなるべけれども、其の次序したる處は己が意を用ひてなしたる故に、此の連山歸藏の名を周易より前に列する樣なる謬をなせりと覺ゆ。今考ふるに連山の名、左襄九年穆姜薨於東宮。始往而筮之遇艮之八。史曰、是謂艮之隨とは此の占に因りて起れりと見ゆ。其の故は、凡そ筮卜の法に之八といふことあるは、揲蓍して六畫の一卦を成して、さて又下より揲蓍して動爻を生じて見るに、立てたる卦の初爻陽にて動爻に六を得れば動爻を得たるなり、九を得れば動かざるなり。因て又すゝみて其の二の動爻を取りて見ると、かく九六相反するを得たる處にて、動爻を得たりとすることなるが、全卦を盡しても動爻を得ざる時に、八に之くと云ふことをすることなり。それには下に云ふ歸藏の法用ふべからざれば、全卦を上下を連ねながら打ちかへして、さて其の上を初爻の如くに見て、其の第五の爻に得たる處の動爻をあつる。是れ即ち艮之八にて之隨になるの占法にて、艮の山を連ねて打ちかえす故に、連山の名を以て稱せりと見ゆ。(次頁圖參招(*ママ)。)(*校訂者注記)
歸藏の名は、晋語に公子親筮之曰尚有晋國得貞屯悔豫皆八也と云へる、此の占に因りて起れりと見ゆ。其の故は、前に云へる如くに動爻を取りて、此の屯の卦にて得ざりしに、此の之八のしかたは上にある卦を下へおろして、さて下より第二爻に得たる處の動爻をあつる。是れ即ち貞屯悔豫皆八の占法なり。皆八とは、未濟の道象は悔、既濟の道象は貞なるが、貞になりても、坎の中九二悔になりても、坎の中九二なるが動爻があたる故に、皆八と云へるなり。
此の筮せる象を、其の時に司空季子が占せる辭に震車也として、車上水下といへる、即ち下震を上へあげたることを云へるなり。又車班外内順以訓之と云へるも、屯卦のときは震下卦にあり、解卦にすれば上卦にあり。故に班内外といへるなり。坎の卦をば坤とするによりて、順以訓之と云へるなり。此を歸藏と稱する故は、説卦傳に坎萬物之所歸也といひ、坤以藏之といへり。是れ、坎は歸にして坤は藏也。今、下卦坎を坤にする故に歸藏と稱したりと見ゆ。此の貞屯悔豫と艮之隨の二占の之八の法、史官の秘したる法なるが、此の時より世に知ることになり、且つ其の法を覺へやすき故に、其の法を連山歸藏と稱したりと見ゆ。此等にても當時史官の其の法を秘したること、想ひ見るべきなり。又乾艮坎離は、連山歸藏の法用ゆべからざる故に、二卦には用九用六の占と云ふもの別に設けあることなり。
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西漢已後易説

秦の世、六經を焚きて儒者の道を言ふことを禁ぜられしに、易は卜筮の書なりとて焚かずしてのこされたりと云へり。周易の書には開物の道を中に寓し藏したる書なる故に、天意の暗祐することもありし故に、全きことを得たりしも知るべからず。漢の藝文志の言ふ處、魯の商瞿子木が易を孔子に受けしより、魯の橋庇子庸に授け、それより段々に傳ふる處ありて後齊の田何子裝に授けしが、漢興りて易を言ふ者は、要するに田何に本づくることにて、それより費氏又は孟氏など出て、孟氏の學、京房に傳へり。後漢の時に至りて、陳元鄭衆が徒、皆費氏に學べりなど言ひ傳へたることなり。然れども京房が學等、專ぱら災變を言へるを以て推し思ふに、唯卜筮を主とせるが漢の易を言ふ者の專らとせる所なりしと見へたれば、商瞿子木と云ふ人の孔子に受けられたりと云ふ學びかたも、開物の道までは及ばずして、皆唯其の章句を記誦して傳ふるのみを第一としたりと見ゆ。
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河圖洛書

漢儒の易を言へるは、何れにても吉凶禍福を知ることをのみ要として、繫辭・説卦の易を言へるにはまゝ道德性命のことに及ぼせる旨あるものと異なるを以て、宋儒より漢已來の説をはなれ、別に新説を建つ。其の大抵、繫辭に易太極、是兩儀と云へる、其の太極の名にたよりて、妄りに一圖圏を畫きたるものを以て喩へを設け、太極と名づけて是を道原とし、繫辭に河出、洛出、聖人則と云へる文にたよりて、妄に一より九十に至るまでの數を品をかへ錯列して二圖とし、一を河圖と名づけ、一を洛書と名づけ、是を易數起る處の原として、それに據りて經文の條理の本づく處として、それを以て其の道德性命の説をさま〴〵に生じ、後には又其の傳來したる系圖を立てて誇り言ふことになりて、道統など云ふ名目を言ひのゝしることになれり。右の太極と心得たる圖圏のことは尚下にこれを論ずべし。其の河圖・洛書と稱したる物、僞妄の製なること、淸の毛奇齡が河圖洛書原舛編と云ふ書を著はしてつぶさに是を論ぜり。余は又其の河圖の數を言ひたるの非を擧ぐ。河圖の天一生、地二生、天三生、地四生、天五生といへるは、書の洪範五行の次第、一曰水、二曰火、三曰木、四曰金、五曰土とあるによりて附會せるなり。然れども凡そ數と云ふものは、物ありて後に生ずるものなるに、數と云ふ物が先づありてそれが物を生ずると云ふこと、聞へぬことなり。且つ天一が何故に水を生ずるや、地二が何故に火を生ずるや、體もなき妄言なるべし。繫辭に天一、地二、天三、地四とあるは、下に所ナリ變化而行鬼神也と云ふことを見せんとて、奇數をば皆天とし、偶數をば皆地として、さて其の天の地と變じ、地の天と化することあるを見せんが爲に、天一地二と言ひたるものなるを、一は是非天にひつつき、二は是非地にひつつきたると心得たるは笑ふべきことなり。此の天地變化のことは、余が周易繹解に詳にせる故に此に略す。洛書と云ふものは、又緯書易乾鑿度に、太一行九宮。九宮之數、以九一三七四方、以二四六八四隅。而シテ五爲中宮。と云へるをば、直ちに洛書と云ふ者にしたるものにて、此れ亦名を假りたる紛れものなり。此の二圖の本、亦華山の道士陳搏より出たる由なれば、其の來りし處もたしかならざるを、宋の諸儒むざとそれを信じて、眞の河圖洛書なりと思ひたるはあやしきことなり。余別に河圖洛書の考あり。詳なることは周易繹解に出せる故に此に略す。
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太極

太極と云ふは、上繫に易太極、是兩儀、兩儀生四象、四象生八卦といへるにより、太極と云ふことを言ふことなるが、先儒の説、此の太極と云ふものを形容して、一圓相を畫きて太極と名づけ、一陽畫・一陰畫を兩儀と云ひ、それを重ねたるを四象とし、又一畫を加へて八卦として、是を其の説なりとせるは大なる誤なり。太極が物ならば、是の字なくして太極生兩儀とあるべし。是の字あるにて、物に非ざることは知らるべきを、物なりとせること、大なる誤見なるべし。兩儀と云ふ儀の字も何故に稱したる、わけもなき粗なることなり。四象と云ふは、別に東西南北に配する四象なるを、四畫の陰陽の重なり樣異なるを四象と稱せしこと、尤もわけもなきことなり。且つ先儒の説の如きは、但だ人の物ずき工夫を以て、陰陽の畫を段々に入子にして積みゆくことなれば、成れるとは言ふべし、生ずとは言ふべからず。此の太極のこと、余が著せる易原幷びに周易繹解に出せる故に此に略す。
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蓍筮

先儒より傳へ來たれる揲蓍の法、尤も粗妄なることあるを、古より、其の法の古法とは相違あるべきかとも疑はずして、其の儘に傳へ來りて、本邦にてもやはり其の法を是なりとして異しむべき心の付けざるは、是も不思議なる程のことなり。上繫に揲蓍の法を云へるに、大衍之數五十、其用四十有九、分而爲、以。掛シテめとドルニテシテ、以四時、歸シテろく、以、五歳再閏アリ。故再扐シテ而後とあり。此に據るにめとドルニテシテ、以四時と云ふことは、蓍を四本づつにしてそろへ行くのみのことにて、陰の二十四策を得、陽の三十六策を得たりと云ふは、此處にては未だそれには及ばぬ處なるに、先儒より強ひて此處にて正策の數を言へる故は、四十九策に一を掛くれば、餘四十八策なるを、四づゝにして揲すれば、終まで四づゝにそろひて、餘數と云ふものを得べからずして、奇と云ふべきなし。乃ち歸於扐の文に至つて其の説窮せる故に、強ひて此處にて正策之數と云ふ名を付けて、それを得ることを言ひまぎらして、其の末の四を奇と稱せり(*ママ)なり。然れども、四策を除きても餘四十四策にて、陽數にもあらず、陰數にもあらず。四十四は何を以て正策と稱することを得らるべきや。且つ經に揲ルニテスとこそ見へたれ、揲するに(*仮名ママ)テス四十四とは言はず。縱令たとへ四十四を揲するにしても、其ののこりをば餘とは云ふべし、奇とは言ふべからず。奇とは四づゝに盈たずして、三とか一とかになるの稱なるを、枉げて此の奇名を餘に冒らしめたるは、文字の義をはなれたる勝手のまゝなる妄説なり。然るに後世の今に至りても、此の誤を覺ゆる人なかりしは、此れ亦可シムなどのことなり。蓍卜の法、余が考正したる説は、著せる蓍卜考誤辨正及び周易繹解に詳にせる故、此に略す。
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楊雄太玄經

漢の楊雄が太玄經と云ふものを著せるは、聖人の易に擬したるものと見ゆ。然れども聖人の易は、人の言ふ所の名聲は、もと人の神識の深く感じて物の形容に象どりたるものにて、其の聲の生じたる所、其の四等淸濁等の間に自から天地の道の妙機に合同したる者なるを悟り囘して、九籌四象を以て其の機の運る數を推し、易の生々によりて云爲して、さて六十四卦を作り、又其の易を以て撰するの法を用ひたる其の象を觀て擬議せる所を以て、其の辭を作り給へる物なる故に、聖人の作れる所なれども、やはり天地の示せる所の象、天地の告ぐる所の辭となりて、聖人の手をかりて天地の道象の著はれたるものなるを、楊雄は知らずして、己が私見を以て其の眞似の出來べきものと心得たるは、自から量を知らざるの甚だしきものと謂ふべし。
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漢已後人占筮

漢已後の人の占筮、周易の卦象を用ゆれども、其の辭をそれに付けて擬議せる所は、周易の法と異なり。文王の象爻辭は勿論のことにて、春秋の頃の人の占筮、其の吉凶悔吝を言ふ判斷の辭、共に易象にならひて言ひしことなり。たとへば吉孰大焉とあるは、其の易象に孰大焉と言ふ象あり。斷可識矣とあるは、其の易象に斷可識矣と言ふ象あり。たゞ也の字ばかりが、占者よりその字を加へたるまでなり。右の通りの占法なる故、卦象の取り方も後世とは大に相違なることにて、古は易が活きたる物にて、其の象を以て人に示せるをば、人よりそれをば籌色又は文字の象にうつしうけ、且つ判斷のことばまでも其の卦象の中にあるものにして執りあつかひたることなり。後世、晉郭璞等が占斷の法は左に非ず。其の卦象をば、たとへば謎畫の如き取りあつかひにて、卦に乾金ある故に金を得ることあるべし、坤なる故に土にてこしらへたるものなるべしなど云ふの類にて、其の判斷並びに皆占者の胸中より附會して言ふ宋の邵康節などの占など、並びに皆是の通りにて大に古法を失ひ、文王の、易を天地間の一活物として作りたまへる本意とは大に相違せる取りかたなり。郭璞・邵康節等、古人の法に達せず、古より易は我ごときあつかひかたなる者と心得て、自から深くそれを信じて占ひたる故に占もよく奇中したるか。但し易はもと靈物にて、人心の感通により、其の時にあたりて、其の占判する人の機に應じて其の象を示せるにや。何れにも、漢已後の人の易を用ひたるは、其の意全く祠筮佛籤と異なることなし。
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學易

論語に孔子、假スルニ數年ヲモッテシ、五十以ババ、則カル大過矣と云ひ給へるは、即ち君子學易の心得とすべき訓なり。孔子是の時に其の年已に老ひ(*ママ)給ひし故に、假我數年と云ひ給へるなるべし。五十は卒の字の訛にて、卒以は、下地より易を學び居りたまへども、尚其のまゝに年を經て、其の仕掛ある學易の業を卒ることを得たまはゞと云ふことなり。凡そ人は、明に天地日月あり、幽に鬼神ありて、人の行、其の道にそむき、其の心正しきを守らざれば、暗にそれを罰して、其の咎を降すもの故に、古の君子の心とする所は、唯天を畏れ天を敬するを常とせり。故に古の君子は幸を得、福を獲んことは、天の心まかせとして、己よりはそれを得ることをば心の願とはせず、唯罪悔なからんことをのみ心に願へり。詩の大雅に后稷の心持をいへる、即ち是なり。故に文王の易にも、懼レテ終始セバ、其要旡咎と下繫に言へり。さて其の學法如何となれば、即ち亦前に述べたる上繫の文の、君子居レバ而玩と云へる、是なり。玩のみにてすむべきを、觀の入用なること何故なれば、凡そ辭と云ふものは外物の條理を判斷するの入用になればなるものなる故、已に其の辭ばかりを記臆し居りては、己が内を修することにははづれゆくこと多きものなり。其の辭を生ずる象を觀じて、それに幷せて其の辭を記し居れば、たとへば常に直諫をするもの己が心の左右前後に附きそひあり、其の言を聞くが如くにて、乃ち内を修するの用となる故に、下繫に、其出入以テシ、外内使。又明ニシテ於憂患一レわけ、旡ケレドモルコト師保、如セラルルガ父母と云ひ給へり。學易は、此の象と辭を幷せてのこらず心に記臆して、何事にふれても、其れに應じて心にうつり來るやうになることに至るが、其の學の業の成就なりと知るべし。
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學易要旨

右に述べたる如くに學ぶこと、即ち君子學易の法なる故に、象爻の辭の旨をとくと心得て、忘れぬ樣に心がくること、勿論のことなれども、辭の生じて來る象を目に忘れずして、幷せて記臆し、其の辭を活かして我心に往來さすること、第一の要とする處なり。右にいへる所の辭を活かすと云ふことは、(一)上繫〔一(上繫) 以下の引用句は繫辭下篇にあり。〕(*原文注記)に、書、言。然聖人之意、其ルカナカラ乎。聖人、立テテ、設ケテ情僞、繫ケテ、以、變ジテ而通、以、鼓、以セリとあり。これを書きたる文字ばかりにては、生ける人、其れを言ふとおりを盡さず、言ばかりにては其のこころもちを盡さぬことなれば、聖人の意は書きたる文字にて見るべからざるかと云ふ疑あるべきことなるが、聖人の是の易の制作には立象あるによりて、右の盡しがたき意の盡るやうになしてあり、設卦あるによりて情僞を盡し、象爻の辭をかけて其の言を盡し、利をも神をも盡しあれば、卦象の變動に觀るものは、聖人の今こゝに存在して、直ちに我に告げ給ふに異なることなしと思ふべしと云ふことなれば、これにて我、右の活かして往來さすると云ふことのわけ明らかなるべし。殊更右の易象の中には、伏犧氏の開物もこもりたれば、文王・伏犧氏にも、其の神は相通接することを得べきなり。されども前に述べたる右文王・伏犧氏も、其の作用は其の手に關りて成りたれども、全體は天地日月の道なれば、即ち亦天地鬼神の靈妙の機の存する所なりと知るべし。右の如くなる道こもりたる易象なれば、因天下之志、可天下之業、可天下之疑こと、前の開物の條に述べたるが如し。如言へばとて、漢より以來の諸賢を皆愚なりと云ふには非らず。道は天の物にて、其の顯晦に時ありて、人力のみにて開くべきに非ざれば、未だ其の時にあたらざる人の道に至らざるを、不賢なりとは思ふべからず。其の道を重んじ任して(*ママ)維持せる功は、凡庸の及ぶべきにあらざれば、並びに皆賢哲の人と稱すべし。愿が如きは中人よりも下りたる庸愚の質にて、もと右の如き要道を悟り知るべき樣なけれども、幼より家訓を奉じて、駑駘の力を勉めて求めたるに、天の要道を開きて、世に顯はるべき時に遭會して、此の事を心に知り、物に徴して決定することを得たるべし。漢土は西漢より今の淸に及び、本邦は中古より近時の諸儒まで開き得ざりし道を、一人の私臆に非ざることを、六十四物の卦象の撰法の符合一の如くなるに徴して、開き得たるは、不肖の大幸なるものなり。右の通りの事成れども、人には或は心に惑を執り、或は矯抗することを好める者あるべし。矯抗することを好めるものは、人の能は何事にも忌みて、それを受けまじ〳〵とするものなれば、何となりとも言ひまわして、要道なりと心に知りても、それを受くることなかるべし。如此の人は論に及ばず。是れは是非なきことなり。唯其の心に惑を執りて、要道ならんと知りても受けがたく思ふ人あるべし。惑と云ふは他にあらず。孟子云ふ、滕文公の、孟子の敎にしたがひて三年の喪を行はんとせられしに、父兄百官皆不。曰、吾宗國魯先君。吾先君亦莫ヘル也。至ツテ於子之身而反スルハ不可ナリと云へるの類、是なり。物事の差別、大小の理宜を分ち得ざるの固陋にては、右の如き惑はあるべきことなり。されども、先君に行はぬことなりとて、善道と知りながら替へざるは愚なりと云ふべし。今までの曆、天に合はざれども、先君よりかへざれば替へることなかるべしと云はゞ、冬は夏になり、夏は冬になりて民其時を失ふべし。(*明和八年〔一七七一〕に改正宝暦暦が施行された。)今までの醫術の、疾は治し難けれども、先君よりかへざれば替へる(*ママ。一段動詞化カ。)ことなかるべしと云はゞ、醫術は其の用に立たぬを善とするにあたるべし。曆術方伎(*ママ)すら、其の善なるは改め從ふべきことなるに、替へずして、吾は父祖よりの世守なり、吾師より受けたる訓を守るなりと云はゞ、善なりとも替へることなかれと云ふにあたりて、父祖又は其の師の本心をば、己より汚して辱しむることにするなるべし。斯の道は天地日月の道にて、萬古をつらぬきたるものなれば、先君より左樣にはせぬことなりとて、それを執り惑ひて蔽はんとするは、日月の明を爝火の影の害なりとして、それをふせがんとするに齊しかるべきなり。右の如き道なる故に、易を學ばんとする人も、象は用に立たぬことなりとせば、易を學びても其の益少なかるべし。此の卷の言ふ處は此に止まる。中卷已後は易象及び辭の象を合はすの用なれば、象を觀ずることにかゝり難き人は、それを讀みても無用なるべし。

易学階梯上卷<了>─日本哲學全書掲載分はここまで。

  「易学階梯」(抄)解説(三枝博音)   (目次)   卷之上
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