湯土問答
土肥經平、湯浅常山
(内藤耻叟校訂。岸上操編『少年必讀 日本文庫』第6編 博文館 1891.11.24)
※ 〔原注〕、(*入力者注記)。縦書き表示用
解題(内藤耻叟)
序(宮田明)
目録
巻1
巻2
湯土問答卷之二
問(*問の文の省略は原典によるか、文庫収録時か、未詳。)
答
此三十年餘前に京都へ御使に罷上り候節、京書肆柳枝軒旅宿へ參り咄ども申候。其時六十餘と相見え候。此者物語に、今の板の始りは慶長の末よりと相見え候。其時の板は殘り不申候へども、すり本は世に多く殘り候。其時の物は、節用集・庭訓往來・實語經の類なるよし。其後寛永六七年の開板のもの多く、正保・慶安より京・江戸等其外にもすり本夥しく成り候由。尤是も慶長の末にや、嵯峨本と云謠本あり。是は角倉與市書候て、私に開板せしと申候。物今も世に殘り候。是等近世板本の初めなる由物語いたし候。夫にて考候に、節用集家藏せしもの、年の名はなく候へども、慶長の頃のものとも可申ものに候。嵯峨本の謠本も家藏いたし候。百册餘りに致し、成程古きものにて、其外古板の本ども、右柳枝軒物語に符合申候故、さも可有ことゝ存ぜられ候。又昔のことを考候に、寛元二年(*1244年)に 後鳥羽院宸筆(*原文「震筆」)の法華經を百部供養ありし。是は形木に彫られ、百部を摺寫されし由、東鏡(*東鑑)に見候。又法然坊の選擇集(*『選択本願念仏集』)の印板を燒失すべき由、山門より申状を元久三年(*1206年)に奉る。其古文書猶今に殘るなど申ことあれば、其頃はや板本有しこと疑なく候(*摺経・高野版・春日版・五山版等)。されども、中頃の亂世に如此摺本も䡊板(*版木〔で摺ること〕か。)も皆燒亡して、今世に殘らぬなるべし。若しは遠國の山中の寺社等に殘れるものもあるべき歟。其後もつゞきて䡊板も有りし歟。其餘所見なく候。
問
答
侍烏帽子に素襖を用候服、是は昔に云ひし折烏帽子にて、侍烏帽子と云名は特に近き世の名なり。素襖の名は明德記に初て見えたり。裁縫少し(*ママ)は異なれども、是服則昔に折烏帽子・直埀と云ものにて有る也。其直埀の初は保元・平治の比にや、其後武士の服となりて尊卑とも專ら是を用ることゝなり、殊に京都將軍の時に至ては猶更代に行れて、武士のみならず公卿が御方にも用ひ服したまふ事になりける。以來、精好(*精好織)・練帛にてせしものは、淺位の武士は用ることを得ずして、五位の武士は布にて調じて用ふ。是を布直埀と云〔一名大紋とも云〕(*文字の大きさを変えず、右寄せに印字)。夫より下りて無官なる兵士は、布にて調ずる已而(*而已か)ならず、組糸の緒をも不用、革の緒を用ふ。是を革緒の直埀と云。如此直埀の品三つに分りし(*ママ)より後、この革緒なるものを素襖と唱ふ。此素襖と云名は、元襖(*あお・おう。武官の朝服。)と云ものあり。其襖に又位襖・狩襖の品あり〔位襖は今の闕腋袍、狩襖は今の狩衣也〕。是狩襖と云、又無官の武士の服也。是往古よりの服なり。直埀起りてより、狩襖は晴の服、直埀は褻の服となれり。瀧口時賴が出仕の時は、繪書き花付たる狩衣に立烏帽子、私の行には直埀に折烏帽子にて衣紋を立ると云、則是也〔盛衰記〕。然るに是狩襖と直埀共に無官の士の服なれども、狩襖は盤領(*あげくび・まるえり)なり、直埀は方領(*かくえり・ほうりょう=垂領〔たりくび〕)也。其裁縫大に異なるものなり。されば、是革緒直埀を素襖と唱ること甚あたらず。後世に唱へ誤しものなるべし。既逍遙院殿の源氏物語の抄(*三条西実隆『源氏物語細流抄』)に當時すあをとて着するは狩襖の裏をのけたるもの也と注せられたり。狩襖の裏をのけたると云、則今の無紋にして一重なるを無官の兵士着して布衣と云ものなれば、是布衣を其頃まで素襖と云しこと明なり。明德記に素襖と云も今の布衣の事なり。布衣なれば素襖の名も相叶事也。應仁の亂より後、都は雲邊(*ママ)の夕雲雀(*「なれや知る都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は」〔『応仁記』飯尾常房〕)などよみて、公卿・殿上人都に居らしめ給ふことなりがたく、皆遠國へうつり身を隱し給ふ頃、物の名も世にとり失ひ、革緒の直埀に似もよらぬ素襖の名を呼誤りしや。今も亦かゝる誤なきにも非ず。蹴鞠するものゝ服、直埀の上に葛の袴(*経に麻・綿・絹、緯に葛を使う葛布〔くずふ〕で作った袴。)を着るを俗に誤りて水干・葛袴(*くずばかま)と云、又同類なり。飛鳥井家(*蹴鞠〔しゅうきく〕家元)より出る免許状に、裝束の上としるし附られて水干の名はなき也。尤是等の誤り世に專流行せしことなれば、唱へらるゝことはあらねども、事を書し附て世に殘さんには素襖と書くよりは革緒の直埀とかゝば紛るゝ方なくて見安かるべきにや。
又考るに、帛直埀・布直埀・革緒直埀の三つを分て尊卑の服とすること、後世に武家の定にして、 朝廷の令には非ず。故に今も飛鳥井家より蹴鞠するものゝ服に卑き者までも帛の直埀を免許あるにて知べし。されども、武家の定に、能き人の服に用るが故、直埀の名を遠慮ありて、裝束の上としるし附らるゝことにや。
今の肩衣袴を上下と云。其出來し起りは、赤松が義敎將軍を弑し奉る時に始るとも、又光源院將軍(*足利14代将軍義輝)の時、松永彈正が所爲なりなど云こと、世には云ども、皆誤れることなるべし。是を往古に考るに、久しき世よりの輕き兵士の服なるべし。延喜式に、隼人の服に肩巾の料布五尺とあり。又比禮挂る伴の男と云詞、六月祓(*原文「六月袚」)の詞にも又見えたれば、往古に薩人・隼人など云兵士又伴のみやつこ如き者の着しものにや。肩巾とも昔に書たれば、今の肩衣の制なるものなるべき歟。卑き者の服ゆゑ世には廢たれども、猶神祭の服には今も殘れりと云べきか。大甞會・新嘗會等に用らるゝ小忌衣に品々ありて、是を大忌(*おおみ)と云、私小忌(*わたくしのおみ。私弁の小忌衣。)と云、諸司小忌(*しょしのおみ。官給の小忌衣。)と云、出納小忌(*すいのうのおみ)と云、如形小忌など云へる中、出納小忌・如形小忌の二つは袖なきものにて、上下の肩衣の制の如きもの也。これ式に見えし肩巾にして其名の廢れたるにや。兵士のかたにも比禮と云名はあらねども、肩衣と云て代々用たることも有る歟。されども中昔には所見なければ不知。鎌倉の世に此物ありと見え(*原文「見ゑ」。以下同様の表記は改める。)て、法然の繪卷物(*『法然上人絵伝』)に武士の從者又太刀持ごとき者に肩衣を着し形所々見えたり。又足利家の世の鎌倉御所年中行事(*『殿中以下年中行事〔鎌倉年中行事〕』)に肩衣と云見え、今川了俊の大草紙(*『今川大双紙』)にも袖なき直埀と云ことゞもあれば、肩衣と云もの更に後世に調じ出せし物には非ず。
又袴の短きは昔の士大口の袴と云。今の袴の如し。又直埀の袴の短も古き畫に多くあれば、昔より袴に長短はありし。又近き世に素襖の袴の短きをば小素襖など云名も聞えたり。
問
答
往古は鬚をそることなし。萬葉に新田部皇子の大鬚、源氏物語に鬚黑大將あり。致仕大臣のいたみに込り給ひし時、鬚をもつくろひ給はぬと云こと見え、武士のかづら鬚(*鬘鬚)などもあれば、此物語の頃までは公武とも皆鬚ありしこと明なり。其後ほどなく公卿・殿上人鬚をそり給しにや、宇治拾遺・今昔物語などの類に公卿のひげの沙汰は更に聞えず。武士は昔のまゝに鬚ありしと見え、是等の書にかづら鬢(*未詳。「鬢」は鬚か)・たかづら鬚(*「た」は衍字か)・あか鬚など云ことも見えたり。齋藤別當(*斎藤実盛)などは牧の別當など云へども、外國の官人にて位階もなきもの、其儘武士にて、鬚もありしなるべし。
公卿・殿上人の化粧し齒を染給ふこと、昔も女の紅粉をぬり齒を染しことは、源氏物語・枕草子どもに所々見えたれども、男子のかゝる粧をなすこと古き物には見えず。右兵衛佐賴朝の齒を染め給ひしこと、薩摩守忠度のかね黑なりしなど云しことの見えたれば、源氏を書し頃より以來、公卿は鬚をそりて齒を染られしことになりしなるべし。或説に、男子の齒をそむること、 鳥羽院の御時に初ると書しものあり。上に注せる如きことなれば、 鳥羽院の御時と云、年代より能叶へれば其據あることにあるべき。
問
答
軍人太刀の佩やうも餘り替り候こともなく候。皆着具すみ候て、上帶か腰當にて固め候故、太刀もしまり申候。かやうに致し、太刀を拔き試候にも、太刀は足有之ゆえ、刀をしかと固め候と違ひ、殊の外拔心よくものにて御座候。すべて太刀・箙等の負やう、古代の法を存候もの無之ゆえ、全体何も合点參り不申候。上帶にて惣固をいたし候故、六具よりしまり申候。夫ゆえ舟田が郞等鎌倉の軍し候て、箙の矢も射盡し、太刀を固め候用も不入時になり候ゆえ、上帶をとき候て相摸太郞をもしばり候ことゝ相見え申候。書集め候補正の餘りの中、腰當・上帶の考の所を書拔き入御覽申候。是にて箙の負やうも大概相見申候。其中にも少々書入候。小笠原備前入道隆元の傳來の弓法は、今世の中にあると違ひ、格別のことにて、矢束又負やう等よく古きことに叶申候。二十八年江戸にて傳をうけ申候。寛文の頃中川勘左衛門と申候人うけ傳居申、(*「二十八年」以降錯簡があるか。)其人再興いたし候流にて、世上に有之うきたることは一つも無之候。されども、却て江戸などにてはやり不申候歟。餘り外に沙汰無之候。
太刀の金具も前かと(*「前から」か。)調置候て、やう/\去々年鞘も鞘卷等もいだし立申候。これも太平記に見え候面影の太刀の同作、來國行(*らいくにゆき)二尺五寸有之をこしらへ申候。仕立候へば、殊の外りつぱすぎ申候。されども箇樣のことにて心を慰め申候。此金具の紋は矢筈にて候故、羽々丸と名付申候。鞘には柏と巴とを貝にて入させ申候。此金具、當時にては珍らしく、軍陣太刀と世に申候にてもゝよせ(*股寄。太刀の鞘の峰〔刀背〕・鞘口寄りに懸けた覆輪の金具。雨覆。)の金具有之候故、甚宜しく御座候。其外に畧制の太刀も二腰拵へ、其一つは閑居の座右に指置申候。腹卷は胴短かなるもの故、太刀にてなくては成り不申候。今の小笠原の家長は時の傳來にて、是は何頃よりか事を取失ひ、傳來宜しからず。とかく九冊の宗五が大双紙(*伊勢貞頼『宗五大双紙』)よき分か、三議一統(*小笠原長秀、他『三議一統』)にて濟され候樣子に御座候。夫ゆえ外々の應答にもこまり、小□(*一字欠の印。小言等か。)を抱られ候由にて、則家老に宮本主馬と申者、筋目御座候て、代々懇にいたし、忰も江戸にて當主馬所へも參り、御長屋へも參り逢申候。祖父時分は猶以懇にいたし候、故咄ども承候所、(*小笠原は)中々何も不委由承り申候。殊に
有德院樣(*徳川吉宗)御代に、鏡鞭(*鏡鞍か。)を 仰附られ、調進にて候處、甚古法に叶不申、夫きりに御用も無御座候由承り申候。辻山城(*幕府御用鞍師の家。辻政直・政也・政寿等。)へは拜見仰付られ候て、繪形を致し(*絵に描いたものを送り)、同人方にては鏡鞭の正眞と殊外秘藏いたし候其圖をやう/\半内(*藩内か。)へ見せ候を、又寫いだし申候。成程古き鏡鞭にては無之、俗説と存られ候事に御座候。夫ゆえこのましからず。今にても古きことの殘り、少々の咄承候にも據あることゝ聞え候は、島津家にて御座候。江戸にて年頭御使者に、 御城へ(*原文「ゑ」)出候時も素襖の着やう・紐の留やう、彼の御家のは外と違ひ感入候て、其後は夫を習ひ、悴へも外へも咄し候て、是を用申候。小笠原の使者は一等の猿樂着(*悪口の類か。)に致し居申候。又は細川樣に少づゝ古雅殘り候やうに相聞え候までにて御座候。
問
賴朝まな鶴(*真鶴)にをちたまひし時、烏帽子を左折に誤りてしたる事見え申候。此左折と申事は古き事にて御座候歟。
答
左折烏帽子と云こと、源家にて古き名なるべし。源家に左折を用ること、八幡殿(*源義家)よりのことゝ云こと、盛衰記に見えたり。其外には所見なく候。是に限らず、昔は折烏帽子の折やうは一樣ならず、其家々にてかはりあると見えて、平家物語にも烏帽子のため樣、六波羅樣と云て平家の世には專ら用しこと見えたれば、源家の樣は左折にせしを以て八幡殿此かたの例とせしなるべし。其後に至ても、家々にて其折形異と見えて、土岐のつらはり・京極の峰高など云唱もありし由申傳る歟。土岐家は知らず、京極家の烏帽子今に至り折形異由を江戸にて承候ゆゑ、其家の烏帽子を所望いたし見申候處、げにも折形甚異なるものに候。それをば畫形うつし置申候。(*原文の典拠本には図の記載があったものか。原文には掲載せず。問を省略するのと同様に、紙幅の制限のためと思われる。)
問
答
尻〓{韋+筒}(*該当の字なく、未詳。韐などか。)御見せ、面白く致し候ものにて御座候。是に矢さすべき事考可申よし、さしての事もなき儀と存ぜられ候。是は今の尻籠に又辨畧(*木下義俊『武用弁略』)等に見え候箙の形をとり合、物數奇に仕立候ものと相見え、矢さすべき法もなきものに御座候。左候へば、矢をいか樣にてもさし試み候てたよりの能樣に工夫致し刺し候方宜く御座候。古きものには作法有之候。其作法と申もの、皆便よき事にて候。されども後世に古法をしらで作り出し候樣は、甚便惡きやうに承及候事も有之候。此尻籠に古法を少し存じ候やと存ぜられ候は、中刺を可刺と相見え候所有之候。是のみ少し心にくゝ相見候斗に候。中刺等の事御慰に別に書附申候。御面晤(*原文「御面悟」)にてなくてはくだくだ不被申候。
中刺と云事
箙に矢を刺こと、昔征戰しば/\なりし故に、よき矢・よき鏃は秘藏をなし、並々の矢をまじへ指して一樣ならず。惡しき矢に至りては、すやきから又つのぎ割(*角木割。鹿角製・鏑形の鏃。)なども用候。夫ゆえ中刺にても、中刺の一、中刺の二、又端に指し候には刺一・刺二など、皆名をなして其の主心覺をして防ぎ矢などの射捨には並々の矢を用ひ、又當の敵には中刺を以て射る。夫ゆえ古きものに中刺取て打つかひなど申、又能敵をすやきにて射て不禮なりとてとがめしことなども北條五代記に相見え、其頃までは箇樣の體も殘りしと見えたり。今はかゝること聞傳る者も稀になり行き申候。其事は小笠原備前隆元より傳來の矢束の法に殘り候外には無之候。水島流に矢搦(*尻籠に刺した矢を上部でまとめる輪状の留具。)と唱て傳え候は何れより傳へたる歟。中刺・端矢の撰をなしてぬき出し候やうなることになく、其矢の名も聞え申さず候。されども吉田家にもよき傳無之ゆえ歟、矢がらみ水島流を用候と承傳申候。此隆元の傳は此邊には外に有之候とも不承候。關東にて水戸・佐竹の御家中にもし可有かと存ぜられ候。
問
答
腰當 上帶 ひた事
西宮記に攝腰(*武家の礼服の帯。腰当のことは、後項「布衣記」に詳しく見える。)と言てこしあてと讀候ものは、雲客鷄飼の裝束にていかなるものにや、強て不考。今昔に渡邊綱が父宛が腰當と云もの、東鑑に飫富が奉りし鏇に腰充を添へしこと、庭訓往來に箙・胡籙各腰當を相具と云もの、皆箙を附る帶なり。此こしあての名元弘(*1331年〜)頃より廢て、是を上帶と唱ふ。元弘より前永仁(*1293年〜)に齋藤助成が記(*『布衣装束抄』)に、箙・上帶の製金の平皮を附、調度掛の上帶は白布を十德の帶の如く平ぐけにすると書たれば、其時已に上帶と唱たり。其後京都將軍に及ては、三義一統(*三議一統)にも上帶と注し、尤延德隨兵記(*小笠原尚清『延徳随兵次第之事』)にも征矢を負ふ上帶をひたとも云、當家には上帶をたゞ箙に附置べしとも見えたり。小笠原隆元入道の傳に、上帶の方料たかばかり(*竹量・尺=竹の物差し)八尺・太さ大指の程たるべし云々、又曰此上帶を箙の大緒に通して箙を可附とも見えたり。
考ふるに、北條家の末に及て緒の付たる敷皮を腰當と云名を唱出せしより、箙の腰當を上帶と言改めけるにぞ。佐々木道譽の猿皮の腰當は敷皮なり。此名長門本平家物語に平賀平内左衛門木蘭地直埀に腰當・小具足してと云も敷皮と見えたり。されども其時に敷皮を腰あてと云こと不審し、後世より記したるものなるべし。
問
物の具にもちを供する事、いづれの時よりか始候らん。戰國の時に筆記せしものには曾て其事見えあたらず候が、もしや太平の時に及て始り候歟。
答
鎧の餅(*具足餅)、古くは聞えざること。されども御當家太平の代より先織田・豐臣の世に始りしこと(*原文「とこ」)にや。羅山文集(*『林羅山文集』)に鎧餅、其起を未知とあり。考るに、秀吉公薨ずる慶長三年(*1598年)羅山十六歳なり。其頃以後に始りしことならんには、其の起を現在見聞あるべきことなるに、起りを知らずと書したれば、猶其より先に起りしなるべし。一條兼冬公の天文十三年(*1544年)に書給ひし世諺問答に節分にせうのもちひとてくひ侍る。此のこと更に知がたし。此もちひを食へば物に勝つと云ふ功能侍る由申傳たる斗り也と書き給ひしも、此せうのもちひの轉じて鎧の餅と云こと起りたることもあらん歟。
○鎧の餅を食こと、今は多くは正月十一日を用ふ。是は
台德院將軍(*徳川秀忠)正月廿日に薨去ありしより後のこと也。其迄はなべて廿日を用たること、是も羅山文集に見えたり。京師并五畿内には廿日正月と云て小豆餅或小豆強飯を調じて廿日の日に祝ふこと、今も猶ありと云。鎧餅を調て祝ふことも、其始廿日正月に混じて起りしことにもあるや。異國にも此日紅縷を以て餅を繋ぎ屋上へ擲上ぐ。これを補天と云と、陳眉公が秘笈(*陳継儒『宝顔堂秘笈』)に見えたりと云にや。
問
答
犢鼻褌と書てとふさぎと云ものは、短き肌袴なり。又手綱と云ものは今の下帶とてとふさぎと同物にあらぬ歟。先犢鼻褌と云は、日本記
(*日本紀)に火酢芹命の
犢鼻をつけ給ふことあり。忌部正通が口訣
(*『日本書紀神代巻口訣』)にはだ袴と注し、近代埀加
(*山崎闇斎)が説も是に同じ。此説を得たりと云べし。又天武と大友と御軍の時、秦造熊が犢鼻斗りにて馬に乘りしこと見え候。世を隔て和名抄・宇治拾遺・著聞集等にとふさぎと云しも、皆肌袴なるべし。其制
(*製に同じ。)は後三年畫
(*飛騨守惟久『後三年合戦絵巻』か。)討死せし士の裸なるを畫て、短き肌袴の黄に彩たるものあり、則とふさぎ也。
手綱と云は、曾我物語に手綱とりかへ出せしとある。犢鼻を手綱にかへしことなるべし。又八幡殿が鎧を着給ふ次第に手綱と見えしも、則今の世の下帶のことなるべし。其製は職人盡の畫の相撲の圖に見へし今の下帶の如く畫し物、則手綱なり。是にて二つの物分明に候。然ば、右今とも相撲の時は手綱をせしこと一定なり。甲冑下には八幡殿手綱を用ひ給へば、是も手綱なること歟。されども後三年の畫には犢鼻を畫たり。承久に佐々木太郞もとさぎをうせし由あれば、是は一定のことにもあらぬ歟。然るに、盛衰記に犢鼻褌と書てたづなと訓ぜしことあり。又著聞・宇治拾遺にもとうさぎと書して手綱かと覺しこともあれば、とうさぎ・手綱其用る處同じもの故混じ記せしにや。さらば佐々木がとうさぎと云も手綱なるかも知るべからず。又盛衰記に難波六郞が布引の瀧へ入たる時は、紺の下帶をせしとあり。一本には褒と書て下帶と訓ぜしは、後世に訓を附たるか。其世に下帶と名はあるべからじ
(*ママ)。
歌に下帶又下の帶とよめれども、手綱のことにはあらず。
布衣記の中、問奉る條々
一 靑袴・押折
いか樣なるものにて候や。
一 狩衣袖單
袖單とはいかなるを申候にや。
一 大帷・袴重あり。
いか樣の物にて御坐候か。
一 織狩衣
をりものはいづれ/\に御座候。
一 練絹の白粉を附、上になる方に黑重をする也。
いか樣の事にか御座候。
一 弓矢の事と申次に、上帶、金牛皮付。
いか樣の事に御座候や。
一 走水干
製法常の水干とかはり申候歟。
一 馬具條下、 水干鞍、 或獅子面皮 力(*カ)皮獅子丸、 白鐙、 むちはくま柳(*熊柳)のとうまき(*藤巻き)のむち
寸法等如何。
馬はたか足
(*「答」には「馬ははだか足」とあり。)にて乘也。
一 笠の事、はれの時白袋、 けしやうがはあり。 茵腰にさす。
一 童裝束の事、髪をさげ、入もとゆひをする也。
一 はれの時、いんきん(*印金。絹布等に型紙を当てて糊を引き、金箔・金粉で模様を摺ること。)にてもする也。
一 調度がけの條下、 其帶を以てえびらを腰に外。
此つけ樣、いか樣に致し候や。
一 狩衣事、六位なり。
狩衣は六位斗きると申事にや。
一 仁和寺布
いか樣の物に候か。
瀧口出仕次第の候下
一 裝束の事、水干狩衣と申もの也。
水干かり衣とて別に一種御座候歟。 但登(*のぼり)・はた袖(*端袖)替るまでに御座候か。
登と申事如何。
答
○靑袴は襖袴也。ともにあをばかまと讀む故、通じて書たる也。此製則此書奧に委く見えたり。此製桃華蘃葉(*一条兼良『桃華蘂葉』)に近衛府の白襖袴と云則是なり。尤此制白にかぎらず色々あり。
○押折のこと、是も此書奧に委く見えたり。布衣の後の裾を前へ取てはさむことなり。馬上の時如此する也。馬より下たる時はもとの如く裾をさぐるなり。昔五月五日・六日、左右近衛眞手番(*まてつがい。相手を決めて競射すること。〔同〕手番)と云て騎射をす。其時も押折をす。是を古今集(*原文「集古今」)にはひをりと云て引折と書なり。偖顯昭が密勘(*顕昭『顕註密勘』。原文「蜜勘」)に注し、褐の尻を脇より引折て前にはさめり。されば此眞手番の日をひをりの日と云也と書るも同事也。昔は此ひをりの事を知る人なくて、大秘事とせしことなり。六條顯輔卿の説にも、此ひをりを古今集第一の難義とはせられしなり。是を布衣を着て馬上する時の式也。
○狩衣袖單
是は狩衣の下に單と云ものを重ね着すること也。是を單狩衣とも云なり。單と云ものは、腰切に短き物にて、襟も方領と云て常の衣類の如く仕立たるもの故、狩衣の襟へも裙へも見えず。只袖斗りへ單見え候もの也故、昔より袖單と申來り候。
○大帷、これも腰切のものに候。是は束帶以下何れの裝束にも、白小袖の上と袍の下との間に着もの也。當時畧して狩衣などには單も帷も重ね候こと無之候。袴重、是は指貫下絬(*括か。)の時は指貫の下に下袴を重て着ること也。是れにて指貫のすそふくらかに成りて、着ぶり殊の外宜しき也。
○織狩衣、爰に云は練貫の織色なるものを布の狩衣に對して織狩衣と云なるべし。實に織狩衣と云は、昔も今も衛府・瀧口等の着用の狩衣にはあらず候。
○練絹の白粉を附、上になる方に黑重をする也。
此義無覺束候。考に、是は狩衣の上にする腰當のことにて候。是も夏は一重を用、冬は裏あるを用るに、其表に黑き練絹を用、裏に白粉張りの練絹を附たることなるべし。
○弓矢の事と申次に、上帶、 金牛皮付。
此上帶と申は、狩衣の腰當のことにて候。分て申候時は、狩衣の上帶は上に見え候通練絹にて製し、又箙を負候。腰當は皮を以て作ることにて候。然るに、爰に上帶に金牛皮を附るは、狩衣の上帶と箙の腰當とを兼用したる物と存ぜられ候。甲冑の上にも鎧の上帶と腰當とを兼用すること、永德隨兵記に見申候。それと同例と存候。それ故調度を從者に負する時は、皮を不附と申候ことゝ存ぜられ候。乍次(*ついでながら)申候。腰當と申、一名四物有之候。昔、李部王記(*重明親王『李部王記』)に攝腰と書てこしあてと云もの〔(又體源抄にも見る。)〕(*文字の大きさを変えず、左寄せにする)、一つ。太平記に猿皮のこし當と、又鎌倉年中行事に虎皮の腰當と云、二つ。庭訓往來に箙に各腰當を相具と云もの、三つ。さては當時の具足に腰當と云もの、四つ。是にて御座候。皆別物にて、太平記のは引敷と云もの、庭訓のは箙負腰當にて候。軍器考補正(*土肥経平『軍器考補正(本朝軍器考袖)』)にも是を委く論じ候へば、餘り事長くなり候故大畧を注置申候。かやうのことをとくと考分ずしては、古書を見候ても事實分り不申ものに御座候。
○走水干 此製法覺悟不致候。是は從者など歩立の者の着用料と相見候。下品にて袴も短き水干と存ぜられ候。承合せ候て(*貴人に照会して)、重て可申候。
○馬具の中、 水干鞍、
此製覺悟不致候。以前も承合候へども、存候者更に無之候。浮説を稱し候ことなどは候へども、一向取られ候ことは無之候。
獅子面皮、 これは昔畫革といひ、當時正平革(*鞣し革に漆で絞り模様を描いた絵革の一つ。)と申候染革に獅子形をいろどり付候。甲の弦走(*弓の弦が当たるのを防ぐため、大鎧の胴の側面に貼った装飾革。)に用たる類の革の類なるべく候。
白鐙、 是は大やう銀をのし附しものを云なるべし。
鞭の寸法のこと、上原高家(*室町中期、朝倉家の弓道師範)・中原高忠(*室町後期、幕府侍所所司代多賀高忠。『中原高忠軍陣聞書〔高忠聞書〕』)などの説に多く聞え、尤然べくと存候も有之候ども、今川了俊の説に、鞭の緒を手へ貫入て弓引に、馬の頭を左へ不越程にする也と記されし寸法ぞ最上の説と存ぜられ候。此腕貫の製も、右の人々の説と當時風躰などゝ申ものを附候製とは殊の外違申候。然るに、古式の軍陣鞭などゝ申候て、新に製し候とて自賛して被爲見(*見せなされ)候衆など有之候しが、何れより傳來し製か、無覺束ことゞもに御座候。
○馬ははだか足にて乘る也。
はだか足と云こと、沓をかけず素足のことなるべし。此名目、外にては更所見なく候。
○笠の裝束、化粧革のことは委しく大諸禮(*『大諸礼集』。小笠原流礼法伝書。)に相見え候かと覺申候。
茵(*しとね。敷物。)を腰に指すこと、これは敷皮又鞍覆のことゝ存ぜられ候。是をば此笠に附候を、笠持持候ことに候。然るに、此時は腰に指すこと法なるにや。寛永の行幸記の圖にも、皆笠に附候て持候所を畫有之候。
○童裝束の事、髪をさげ、入元結をする也。
此元結はかたき紙にて作り候ゆえ、結ながら髪のすそより指入候ゆえ、入元結と云よし。今も此通りに候。
○はれの時、いんきんにてもする也。
今も世にある印金と申候金薄(*金箔)を以て文を押たる絹にて候。是を領(*襟)と端袖(*はたそで)とに立入候ことゝ相見候。
○箙負樣
帶のことは上に見え候。負やうも此書に大概記付有之候。猶申候はゞ、此帶を以て箙の左右の大緒へ通し、ほう立(*方立〔ほうだて〕。箙の箱の部分。)を右脇にあて、其帶を前にて結留申候。さて鷹頭の緒に弦卷を半に附て、此緒を左肩へかけて、右の腰にて彼の帶にしかと留め候ことに候。此記又宇槐記(*藤原頼長『台記(槐記・宇槐記)に委く見え候處此通にて有之候。其中弦卷を肩に當ると布衣記には見え候へども、宇槐記には胸に當ると見え申候。古繪卷物(*原文「古繪物卷」)等にも皆胸に當て有之候へば、宇槐記の説宜と存ぜられ候。又法然卷物(*『法然上人絵伝』)・加茂祭卷物(*『加茂〔賀茂〕祭絵巻』)・西行卷物(*『西行物語絵巻』)、又延德記(*『延徳記』)などにて考候處、甲冑の上に附候は少しく異に候。又主人の調度を掛ると自らのとは違ひ候と考られ候。
○狩衣の事、六位也。 狩衣は六位斗着ると申ことにや。
狩衣のこと、六位の着候狩衣のことを爰に注したる也。最初に書たるは五位の狩衣を着候ことゆえ、爰に六位の出立を記付候。夫ゆえ爰に五位の時の布狩衣は已に前に出置なりと記し添たる也。同布狩衣にても五位、六位とは違めあること、初の所と此とを引合見候へば知れ申候。
○仁和寺布、 如何やうの物に候か。
これは仁和寺邊より織り出す其時代の布なるべし。宇治さらし・奈良さらしの名目の類と存ぜられ候。
○水干狩衣と申もの也。 水干狩衣とて別に一種御座候か。但登・はた袖替るばかりにて御座候か。登と申こと如何。
水干狩衣一種のものと相見候。此書に其製委く記付候通のものにて、此外に所見無之候。外にも近代水干狩衣のことを論じ候にも、此齋藤(*斎藤助成)が記を引用して有之候へば、外には此名目所見なく、珍き名と相聞候。のぼりと申候は、常の衣類の襟のことにて候。左より付けのぼり右へ付おろし候もの故のぼりと申歟と云説有之。左もあるべき歟。此製をば宮家(*原文「官家」)に方領と唱申候。
問
答
備前國往古學校和氣淸丸卿(*和気清麻呂)立られしこと、未所見候。了介(*熊沢蕃山)孝經外傳(*熊沢蕃山『孝経外伝或問』)に相見候由。相考候處、類聚國史に見え候ことにや。以前於京都類聚國史を書店より借り候て荒々と見渡し候時、百四十七卷に淸丸傳委く出居申候。夫を道鏡の時の難に逢配流、又歸京本位に復せられ候まで抄出いたし、其終事の外長き故書殘し申候。其所に此學校のことども出居申候歟と存ぜられ候。然るに釋奠は諸國にて行せられ候ことにて、延喜式にも其式委く相見え候。其文に諸學生學舘に淸齋して一宿すると見え、又廟堂・廟門・廟庭・東階・西階など見え候へば、餘程廣大に相見え候。此學舘と云もの、則學校なる歟。當國のものは、其先淸丸卿の取立られし學校にや可有。
問
答
神武天皇當國高島に三年皇居、日本記に相見え候。其地を今相考候に、高島の南正面兒島郡宮浦村にあり。此高島宮此所にありしにや。夫故是を宮浦と申候歟と存ぜられ候。其村の西の海へさし出候山の尾に餘程廣き畠有之候。若し此所皇居の舊地に可有歟と相見候ことに候。名寄にも、光俊、
三年經しこや高島の宮柱ふとしき立て後も萬代、と相見え候。
問
答
古代の陵地に壺多くうづめられしこと、二つの考有之候。 埀仁天皇二十八年に、 彦命薨給し時、是を大和のむさつき坂に葬る時、近習者を悉生ながらまはりに埋立し。數日不死、泣吟して遂に死す。 天皇これをいたみ給ひて、令を下して其後は其人の形を多く作りて、これを生人にかへて墓のまはりに立らる。是を埴輪又立物と云。此事日本記に見えし。夫より後世又形を畧して其姓名ども書て壺に入てこれを生人の替りに埋しことになりて、其壺の今に殘るか。然るに、播州の 仲哀天皇の陵は實のものに非ず。
麛坂
(*かごさか)王・忍熊王、播備の間にて、 神功皇后の御軍をむかへ戰はれし時に、かりに製られし陵なれば埴輪は有まじきこと歟。若し餘の例によりて壺斗を埋られし歟も知るべからず。又考、大甞會を往古に行はれし時は、其本國にも神祭ありて、其時の祭器を用終て其國の淸潔なる山野に埋と云こと、弘仁式に見えたり。其祭器と云もの
たかすき・
ひらすき・
とろすき・
つはゝ山抔等一祭に用る數二百斗なり。其物の形は何成ものと云こと知ざれども、徃古の物なれば、壺などの形なる物なるべし。其等を埋し所も可有、又陵のものは諸陵に荷前使立られ候時、其陵に又祭あるべし。其時の祭器を其邊に埋められしも知るべからず。又二斗入程のものは、神祭に一夜酒をかもしたる壺などゝや云べし。當國牛窓天神宮の山、又鹿忍
(*かしの)東の海手の山にも壺多く埋し所あり。是等も上に云類にや。
右卒爾の考至て覺束なく候へども書附申候。猶とくと考出し候。こととき候て又書付進可申候。
問
答
大化・白雉・朱鳥は日本紀に出、大寳は續日本紀に出候へば、まがふべくも非ず。白鳳・朱雀の二の年號は水鏡・神皇正統記に見え候へども、甚いぶかしく候。又古語拾遺、難波豐前朝に白鳳四年と記せしは白雉の字誤なるべし。此の御時に此號其餘更所見なきことに候。大同五年(*810年)九月十九日改元之時、 詔にも朱鳥以前未有年號之日、 難波御宇始顯大化之稱と日本紀畧にも見えて、朱鳥の前に續きたる朱雀・白鳳の號不見候へば、此二號を稱すること誤なること分明に候。故に此二の號水鏡・正統記ともに齟齬せしこと多し。白鳳の號、 天智の御時の年號とも注し、又 天武の初朱雀とし、其明年白鳳と改元、白鳳十五年朱鳥と改元せし由記せり。如此ならば、日本紀の年序より一年延びて、尤干支(*原文「支干」)も不相叶候。是其二つ也。水鏡に、 天武元年八月に野上宮へ筑紫より赤き雀を奉りし故に年號を朱雀と改られし由記せり。此元年御軍はてゝ、 大友の御首を野上の宮へ奉りたること、七月廿七日なり。未だ御世何れとも不定、又定しよりしと見れば八月にては日數の間あるまじき也。是其三つ也。是等にて又兩□書(*欠字の□を原文に記す。「〔つ〕の」等か。)の誤猶分明なり。然るに、世に此二の號を稱することを考るに、此朱雀・白鳳の號は、 大友皇子大津の宮に帝の如くにてましませし中に稱せられし年號なるを世に云傳へしにや可有。されども、舍人親王は 天武の皇子なれば、此二號の稱をいみ給て、小注にも注し給はざりしなるべし。此白鳳の號、水鏡の説によらば舍人親王誕生ましませしは則白鳳五年に當れば、記しもらし給ふべきことにも非ず。何れに考ても、此二號は取るまじきものにぞ。
問
答
後鳥羽上皇手づからきたはせ(*「鍛へさせ」か。)給ふ其劍の號を御所燒と云へば、御所にてきたはせ給ふは明なれども、何れの所と云ふことは所見なく候。其作らせ給ふ事、其所も何やら劍刀(*刀劍か。)の目利の書に見え候こと有之やうに覺え候へども、皆本阿彌家(*刀剣の鑑定・研磨等に携わる。本阿弥光悦等。)などの申傳しことにて、一家の説たしかならぬこと故、見しまゝにて覺不申候。御尋によりて何とやら存出し候やうに候へども、據とすべき所見覺不申候。
問
答
虫明(*むしあげ・むしあけ)八景(*岡山県瀬戸内市邑久町)は僕が祖母の弟にて候伊木淸兵衛忠親定め候て、京都の僧智善と申者に詩を作らせ、落葉軒と云者に和歌をよませ候由承候。其詩歌書付有之候へども、殊の外拙く相見え申候。其作者兩人とも名もなき者にて、如何者か承傳不申候。是は延寳八年(*1680年)の事也。其後淸兵衛江戸へ參候節、新井殿へ詩所望いたし候時、初の題を引直され候由、虫明殘月を裳掛とし、扇子夕陽を扇濱とし、唐琴暮雨を夜雨とし、黑井鯨音を晩鐘と直され候(*玉葛晴雪・舟越帰帆・裳掛残月・扇浜夕陽・黒井晩鐘・立華鹿鳴・迫門黎明・唐琴夜雨)。○又玉葛山夫木集(*藤原長清『夫木和歌抄〔夫木抄〕』)等にも古き歌は見え不申候。此玉葛山・もかけ石(*裳掛石)・扇濱等、皆飛鳥姫の韓泊に身を投ぜしことの古物語によりて出來し名なるべし。此飛鳥姫の古物語、昔ありて後世に廢れし故、其所名所の據一つも知れ不申候。其古物語のことによりて大貳三位狹衣物語を作り出されしことゝは見えたれども、今の狹衣は全く作り物語ゆえ、其事實齟齬せしこと多し。狹衣物語には姫の實に身を投ぜしならねば、裳の掛るべき石もあるべからず。扇も舟に殘りたれば扇濱の名も有るべからず。故に是等の名所の本縁知れず候。誠に古物語の面影斗狹衣物語見ゆるなるべし。○海左介がこと・馬塲の事は盛衰記に相見候。されどもいつの世の人とも知れ不申候。是を日本紀に考候へば、 敏達天皇の御時吉備の海部直羽島と云もの、百濟を征して兒島の三宅に歸りしことあり。此海部の羽島がことにやと存ぜられ候。海部が塚は兒島にあり。馬塲は玉葛山の麓にあり。天城と云も、此左介が城が天城より連島(*つらじま)へかけて昔の三宅鄕と云故に、今兒島に三宅鄕なく候。
問
吾 大東に車の造り出されしはいづれの比にや。又、 天子御車に召ける事もいづれの世に始りけるにや。大和物語に 御輦に鷹をとまらせらる
(*ママ)事見ゆ。輦とは手かきにする車なり。車は牛にひかするなれば、輦と車とは異なる物也。さて昔は賤き人も車に乘たる事、今昔物語等に見えたり。然らば車の制度に貴賤の品有しにや。檳榔毛など名目も聞ゆ。又車のすたれたるはいつ比よりの事にや。
右詳にせんは事長かるべくとも、くはしきこと承申度こそ存じ候へ。
答
車作り出されし事、國史等所見なく候。然るに海東諸国記(*申叔舟)に、 天武天皇十二年に始て車を作ると見え候。外國より記せしことなれども、日本記に不見して其後國史等に見え候へば、此説よく叶たるが如し。此廢れしことは、いつとさして見え候ことはなく候へども、應仁の亂都は野邊の夕ひばり(*前掲注参照。)と讀し頃に、車までも殘りなく燒失し、其後公卿・雲客も諸國へ流浪し給ひ、たま/\殘り給ふも、 即位の禮さへ御讓位以後十年餘を經て行し世なれば、其公卿車など作り出す料など思もよらず成りにしより、自然と廢れしぞ。文明十二年(*1480年)に一條禪閤記し給し桃華蘃葉に、私家有之車破殞の後は院の御車を申出して使用なりとあれば、彼の應仁以來は、 仙洞斗に車も殘りありしを、攝家などはかり用られしなるべし。今は諸臣の車を用ひ給ふことなき世とはなりたり。
天子御車のことは更になきことにて、御輿なり。是に三つあり、鳳輦・葱花輿(*葱花輦)・腰輿なり。是は行幸に鳳輦、神事行幸に葱花、宮中又燒亡等の時に腰輿のよし、有職抄に見えたり。是をかき奉る駕輿丁七十人の定の由候へ共、當時は五十人斗京都に居申由に候。輦は和名抄に和名天久流萬と見え、職員令義解に舁行曰輿、輓行曰輦とも見え候。是は宮中にて牛を放て手びきにする故の名也。又別に輦と云車を作りて、更衣等後宮中(*原文「後更衣等宮中」)を行かよひ給ふ時の料なるも昔は有しと云。然るに、鳳輦に手車の字を書こと不審なること也。初め轝(*輿に同じ。)なりしを、誤て輦の字を用候やと云。本朝にて似たる字にて通用する例多きことに候。
車に貴賤の品あること、 餝車〔加茂祭乘之。〕・靑糸毛〔春宮乘給之。〕・赤糸毛〔加茂祭女使乘之。〕・尼眉(*雨眉)〔關白・太政大臣乘之。〕・唐庇〔上皇・女院乘給之。〕・半蔀車〔大將以上乘之。〕・檳榔車〔關白以下至參議常乘之。〕・網代車〔家々説不同也。〕・長物見大八葉(*ながものみおおはちよう。窓を大きくとり、大きな紋を八つ記した車。)〔大臣乘之。〕・切物見大八葉〔上下乘之。〕・小八葉車〔外記・史・辨宦・醫・陰之輩乘之。〕之由、物具抄(*『物具装束抄』)に見えたり。されども諸家の記どもの説一條ならず。殊に網代車の事、説々不同と記せし如きことにて、一條家裝束抄(*『三條家装束抄』か。)には半蔀車と同物なる由見え候へば、貴人の物に候。されども源氏物語に御忍びあるきなれば御車もいたふやつし給ふとある所の諸注に網代車なりとあれば、賤き車也。其外にも賤しきには網代車と多く書しことあれば、一条家裝束抄の説不審なり。然るに、西宮抄(*西宮記)に昔賤きもの乘候網代車には紋を多く畫きて文車と云とあれば、網代車に制作のやうによりて貴賤の品あるにや。又猶賤きには板車と云ありて、下臈の乘には簾の縁を色革を以てすると云ことも、惣役車(*雑役車)に僧の乘りしと云ことも古く見えたれば(*『宇治拾遺物語』等)、昔四天王(*頼光四天王。渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光。)と云ひし武士の乘しもの(*「頼光の郎等共、紫野に物見たる語」〔『今昔物語集』巻二十八第二〕─平貞道・平季武・坂田公時。)などは文車・板車などの類なるべし。
問
二十一社(*林羅山『本朝神社考』に「二十二社之事」とある由。)の中、稻荷神社考に空海東寺の門前にて行逢たりし稻負老人を祭るといふ事見ゆ。心得られず。和爾雅(*貝原益軒『和爾雅』)には秦氏の祖神と見ゆ。孰か是に候や。
廣瀬・龍田も詳ならず。延喜式には大忌祭〔廣瀬〕、風神祭〔龍田〕(*どちらの注記も、本文と同じ文字で左寄せにする。)と見ゆ。大忌といふ事如何。龍田は風の神にや。
廣田神社考詳ならず。和爾雅には在攝津武庫郡と見えて詳ならず。
丹生、是も詳ならず。和爾雅には罔象女神(*みずはのめのかみ)と見ゆ。是も如何あるべきにや。
貴布禰、 祈雨と見えて、何れをいつき祭るといふ事見え候はず。
答
稻荷神社、 神祇拾遺曰、 本殿宇賀御魂
(*うかのみたま)〔父素盞嗚尊、母大山祇女大市姫。〕、 第二殿素戔嗚尊、 第三殿大市姫云々。 山城風土記曰、稱伊奈利者、秦中忌寸等遠祖伊侶臣。秦公積稻梁有富貴。用餅爲的。化白鳥飛翔、居山峯生子。遂爲社。至其苗裔、悔先過、而拔社之木、殖家祭之也云々。諸社根元記、其事を和銅年中のことゝす。されば和爾雅の説を得たりとす。依て考れば、秦中家が祖伊侶臣、餅を射て白鳥と化たるによりて
稻倉魂を祭たるか。又もとより此神社ありし。其神の白鳥に化したる歟。何れにもあれ、弘法よりははるか前よりの神社なり。
廣瀬、 龍田
日本紀曰、 天武天皇四年
(*675年)四月遣小紫
(*しょうし。天智天皇三年制定の冠位二十六階にあり。)美濃王・小錦下
(*しょうきんのげ。同前。)佐伯連廣足、祠風神龍田立野邊、小錦中間人盖・大山中
(*だいせんのちゅう)曾禰
(*原文「稱」)連韓犬、祭大忌神於廣瀬阿曲と云。是始也。舊事記曰、風神號曰、級長彦命
(*しなつひこのみこと)、大忌神號曰稻倉魂命、ともに伊弉諾尊所生神也云々。
廣田神社
日本紀曰、 神功皇后還
務古水門(*大輪田泊、現在の神戸港)、而卜之。於是天照太神誨之曰、我之
荒魂不可近皇居、當居御心廣田國、即以
山背根子之女
葉山媛令祭云々。如此見えたれば、祭神天照太神にてましますこと明也。然るに、今祭神を蛭子命と云、又祭神五座とも云へば、其中に蛭子もましますにこそ。又是を今西宮と云こと、廣田社歌合
(*『広田社歌合』〔1172年〕)に、
名にしおへば賴ぞかくるにしの宮そなたに我を道びくやとて
名にしおはゞ西てふ神を賴おかんそなたをつひにたのむみなれば
けさ見れば濱の南の宮造改てけり夜半のしらゆき
昔より如此よみて、廣田を西宮・南宮と分けて稱し來れるより、今は廣田とは云はで專西宮とのみ稱し、南宮をば沖荒夷又濱夷など云ことになれり。今の武庫郡西宮則廣田神社也。
丹生
大和國也。兼倶の説紀伊と云。されども續日本紀、廢帝
(*淡路廃帝=淳仁天皇)奉幣於畿内群神、其丹生河上神者加黑毛馬とあれば、廿二社と稱するは大和なること明なり。諸社根元記に貴布禰、水神罔象女神也。此降迹者和州丹生大明神・貴布禰大明神也云々。和爾雅に此説を取たるなるべし。
貴布禰
丹生同神なること、前に注す。又説々あり。何か是なることを不知。一に曰、日本紀曰、伊弉諾尊拔劍斬軻遇突智
(*かぐつち)爲三段。其一段爲
高龗云々。兼□抄
(*原文一字不明とする。『兼倶抄〔日本紀神代巻抄〕』か。)曰、丹生大明神・貴船大明神、高
龗之降迹也云々。一に曰、神皇正統記に、貴布禰は水德神、顯國狹槌尊
(*うつしくにのさずちのみこと)也云々。
如此水神たる故、丹生・貴布禰に雨を祈ることなるべし。
問
對馬國には龜卜の法傳はれるよしを申すにや。聖人の國には絶はてたりし事の吾 邦に傳はれる、殊に珍しきなるが、延喜式、卜部取三國卜術優長者、伊豆五人、壹岐五人、對馬十人と見ゆ。然らば、上古より傳はれるにや。詳なる事を聞まほしき事也。近頃東雅(*新井白石)を見るに、我國龜卜の事、古にありて伊豆・壹岐・對馬によくしたりき。今も對馬の人は大事をば必龜卜を以て斷るよし。又さくらの條下に、龜を灼にははゝか(*波波迦。ウワミズザクラの古称。)を用、式にも見えたり。對馬にはたらの木を以て龜を灼なり。對馬の平倫久に問しに、はゝかは火さくらに似たり。それを用ゐて灼と答と見ゆ。先年大甞會の時、卜部兼敬卿、龜を灼て卜有しといふ事申ふらす也。上古何方より傳へ、誰が請得て候にや。
答
龜卜神代にありしこと、日本紀の私記・同釋・同纂疏(*一条兼良『日本書紀纂疏』)等に見えたり。されども、是は高遠のこと故、爰に不記。人の代となりて、仲哀帝御宇に跨耳命(*はこみみのみこと)は天兒屋命(*あめのこやねのみこと)十二代の孫なるに、龜卜の術に達せられし故に、始て卜部姓を賜りし。其後胤此龜卜の術を傳へられし。以是思ふに、跨耳命の時神代の龜卜の道を再興ありしなるべし。又式に伊豆・壹岐・對馬の卜術優長者を取とあれば、 仲哀の御時壹岐・對馬へ三韓より龜卜の渡り傳はりしなるべし。又奧儀抄(*藤原清輔『奥儀抄』)に、龜の甲を燒て占ことは奧の夷のせしこと也と云こと見えたれば、伊豆國なるものは奧より傳へ來りしにやあるべき。此等の術を跨耳命の時に猶學び得て、家に傳へ、今も卜部家に龜卜の術を世々傳來て、大甞會の時も是を被行なるべし。元文三年(*1738年)の大甞會(*桜町天皇)にも、八月二十八日紫宸殿(*原文「紫震殿」)の西の軒廊(*こんろう。原文「斬廊」)にて神祇官の官人列座にて、卜部二人龜甲を燒て國郡を卜定ありし由、其時の式を記せしものに見えたり。尤悠紀・主基の國近江・丹波に今は定られたれども、猶兩國の郡名を二つ宛しるして、龜卜に從て其郡を定らると云ことも見えたり。
問
答
日本に古へこたつのこと、無名抄に火をこさぬ夏のすびつの心地して、人もすさめず、すさまじの身やと長守と云人よみ候を、娘の冬のすびつの火のなきは今少しすさまじけれと云しことあれば、長明の頃ははやすびつ有しこと明かに候。枕草紙の類にありしやうに覺候へども、確ならず候。
問
答
蚊屋は、昔にかつて見え不申候。是は四季とも帳臺に帳をかけ候て起臥候故、夏斗用不申候と察せられ候。然るに、延喜式、大神宮の神具の中に蚊屋と申候物相見え候へば、是も古より有しこと明に候。京都將軍の御時には、夏の初に蚊帳を伊勢氏人必掛候由、三議一統か大草紙(*『今川大双紙』)かに相見え候。其節は帳臺に常につり置、夏中有之事のやうに相見え候かと覺申候。是又其本上屋敷にさし置申候。
問
答
酒の價の古今の品、未だ見當り不申候。酒を多く造り候ことを禁ぜられしことは、度々東鑑に相見候。其世には米の出來少く候故と存ぜられ候。只今にては酒を作り不申候ては、米はけ不申候て、却て士も困り申すべき時代々々にて、一定ならぬものに御座候。
問
答
平假名のんの字のこと、旡の字の略字と云へり。又梵字の空點と云ものなりとも云へり。されども、假名四十八字皆草字を用ひ、畧字を用ひ、又我國の古文をも用て、梵字を用たることなければ、旡の字の畧字と云ふことなるべし。
問
源平の比遊女といふもの、今の世とは大にかはれる事歟。小松大臣の伊豆守仲綱のもとへ馬ををくるとて、夕部陣外より傾城のもとへ通れん時用ひらるべしとありし事見え、又志水冠者(*木曽義仲男義高)を遊女別當としたる事は、いか成事やらん。又太平記に、金崎の城舟遊に島寺の袖と云遊女參りし事見ゆ。戰の中なるゆへにや、 東宮の御前へもうかれめの參りし事、其時代と今と異なる風俗のゆえにや。
答
遊女の事、今の世或は傾城など申候。大にかはれるもなきにや。朝野群載(*三善為康)に見えし所、大躰今のごとき者にて、專ら船舶旅宿のものと見え候へば、今の留め女又湊の遊女のことゝ相見候。其中河陽(*淀川北岸)に遊女多く有之候由、大江以言の遊女の詩の序(*『本朝文粋』)に見えたり。是は今の山州(*山城国)山崎の地なれば、都近にて今の島原町のごとくなりしなるべし。是ももとより船着の地にてありし故なり。昔は遊女と云へば船泊の女、傀儡と云へば旅宿の女にて、是をばくゞつと唱へしこと也。故に歌の題にも遊女とあれば江口・室などをよみ、傀儡とあれば野上・鏡などの宿をよみ來り候。されども、昔に傾城と呼しことは聞えざるにや。小松の大臣の仲綱のもとへ申送りし傾城は、遊女にかぎりしことに非ず、遊女にもあれ常の女にもあれ、みめよき女を傾城と云ることにや。此外にもみめよき女を傾城と云しこと、古書に見申候やうに覺候が忘れ申候。又東鑑に、里見の冠者(*里見義成)を遊君の別當とせしことは〔志水にてはなく、里見にて候。志水は木曾殿女〕、時に取りてのことなるべし。此ことを考るに、是は富士野の狩の時のこと歟と覺申候(*原文「申覺候」)。其世にすべて遊女の買論又盃の思ひざしなどに口論ありて鬪諍にも及ぶべきこともありしこと、曾我物語に見え、其上富士野の狩塲遊女多くつどひ行しことも同じ物語に見たれば、其異論などあらぬ爲に奉行人を命ぜられしことなるべし。其世武家の政道になりし初なれば、禮儀等も不調、又東國の風などもありて、はしたなき名の別當もありしなるべし。其外東鑑の初には、當時の武家のならはしに異なること多く相見え申候。又金崎の舟遊の時、 東宮の御前へ遊女出しこと、其時までも古代のならはしの殘りたるなるべし。古代の 行宮へ遊女を召ありしことは多く候。 宇多帝鳥飼院にて玉淵が女の遊女になりしを召て、歌をよみて奉り、 後三條帝住吉詣し給ひし時に遊女を召、 近衛帝の島の千歳・若(*若の前)と云遊女を召しことなど、大和物語・大鏡・榮花物語・平家物語等、何ほども見え候ことにて候。
問
令に田長三十歩・廣十二歩爲段、段租稻二束二把、此のことより考出し不申候へば、古の米穀のつもりはしれかね可申候。束と申物、把と申物、いかほどのことに御座候か。義解に束稻舂得米五升也と見え申候。此升法、只今行はれ候升にて御座候か。二束は一斗と見え申候へども、二把の事如何心得申べく候や。又田地のよしあしによりて分れも有べく候に、一概の事の樣に御座候。
答
令に二束二把と有之候束又把如何程と云こと所見なく候。是を今考るには、米穀の積りより考出候はゞ可知事に候歟。令の升法十合を爲升、十升を爲斗、十斗を爲斛と云。又義解に
秬黍の中者を容ること、一千二百爲籥、十籥爲合也と見えたれば、今も秬黍の中なるものを以てつもり見ば、今の世の升の古量知るべきことにて候。さて其米
糓一斗を得たる稻を取て二束とせば、束の程も知れ申すべし。又束と把と云は、令に段の租稻二束二把と云、町の租稻二十二束と見えたり。其段と云田地の十なるものを町と云へば、二束二把を十倍して廿二束と見れば、把の十なるものを束と云こと明なり。又上中下の田によりて違あること、集解に、令に云數は中田なるものゝ由見え候。
或曰、往古の一升は今の八合に當ると書しものあり。秬黍を以てつもりて其量を得て云たるものか。又今の升に改たることいつよりの事歟。 後三條院延久四年(*1072年)斗升法可據長保(*999年〜。一条天皇の時代。)例之由下知と云こと、扶桑畧記(*皇円『扶桑略記』)に見え候。此長保定められしもの、今の世のものなる。
問
答
日本の古大名と申し候名
大名・小名と云こと、いつより言しことにや。東鑑・盛衰記等に專ら見え候て、其以來今に呼候ことに候。又名主と云名目も東鑑に見え候、名田と云ことも古く聞え候。是等の名と云こと分明ならず。推て考候へば、往古皇子・皇女に給ふ邑里を名代と云こと、日本紀・舊事紀等に多く見え候。後世に莊園を給ふと云が如きものに候。是を名代と云こと、其皇子・皇女の御名を後世に殘さん爲に置由なれば、名の替りと云如く聞えけれども、此代と云は田地の數の名にとりたるにや。昔の詞に十代田と云こと有之候。袖中抄(*顕昭)に是を解して、一代は一反なり、十代田は一町の田を云とあり。されども是は誤れるなるべし。今義解に百代を五つ合して一町とする由あり。拾芥抄(*洞院公賢・実煕)にも此説をとりたるにや、五十代を一段(*=一反。一千平米。)とすと見えたり。されば十代田は二畝(*二十歩〔ぶ〕。二百平米。六十六坪。)の田に當る也。然るに、此代と云田數の名廢たるより、名代を名田と改めたるにや。又其皇子・皇女は都にましまして、是を奉行するもの其所にありて、是を名主と云、其名代・名田を多く奉行する者を大名など云しことにやあるべき。慥なるそれと可定據所見なく候。
問
答
羅山神社考
(*『本朝神社考』)に出居申候鴨羽箭のこと。
鴨羽箭、羅山神社考に日本僧史に見え候由有之候。僧史と云は、扶桑畧記・編年集成
(*永祐『帝王編年記〔帝王編年集成・歴代編年集成〕』)などを云にや。されども、編年集成には此こと不見候。略記に有之や。然るに、神社啓蒙
(*白井宗因)に此事を吾未聞と云は、白井が一據の説にて候。僧史にもせよ、 古書に出候へば本據に取るべき事に候。此鴨羽箭のこと、たしかなる據あればこそ、山本相國藤公守
(*洞院公守)の歌に、さかのぼる鴨の羽川
(*かものはがわ)のそのかみを思へば久し代々の瑞籬とよみ給ひしを、取りて勅撰にも入られたれば、鴨の羽箭によりて地名になりしこと俗説ならぬこと明かに候也。
按ずるに、續後撰(*『続後撰集』巻九・神祇) 前大政大臣(*西園寺実氏か。)
さかのぼる鴨の羽川のそのかみを思へばひさしよゝの瑞籬
問
答

昔の寢殿の圖、荒々考候て書付候間、入御覽候。源氏なども、家居のことをよく考候はで、圖にても致し見申さでは、中々解候ものにはなく候。夕日のさしと云ひ、月のさし出たる三の間の、又角の間の小障子の上より見しと云こと、よく宮殿の住居を考へずしては、其時の情通じ不申候。花鳥
(*一条兼良『花鳥余情』)に殊の外よく論じて御座候。其時も卒爾に知れがたきこと多くと相見え候。
江戸、 御城大廣間則六間寢殿なり。岡山、 御城御書院則四間寢殿なり。江戸には中門も附有之、中門の格子も有之候。此格子を後世實撿の窓など申し候。
此帳臺に帳をかけ候故、帳臺と云。其帳は竪幅をたれて、上に橫に一幅の者を引回し候。是を帽額
(*もこう)と云也。昔宮殿又攝關などの亭を寺院へ施入せし者多く候。夫故是に其餘もならひて作り候へば、今の禪寺の方丈と申候造、皆六間の寢殿にて、玄關を角へよせて附候。則昔の中門の形にて候。其中央の帳臺を佛壇に用て、其儘帳臺の帳かけ候故、今寺のも上に帽額を掛け下に帳をたれ候。是帳臺の帳を用候遺制と存ぜられ候。則御抄出の帳の圖
(*常山から漢籍に見える帳台の図を提示したものか)、是に叶候は和漢同制と存ぜられ候。』又塗籠と云もの、帳臺と同じことゝ見えて又一樣ならざるが如く、是を花鳥餘情・弄花抄
(*三条西実隆)等にて委しく考るに、帳臺は寢殿の中央なり、塗籠は廂にまうけて壁をぬり、但し妻戸を内外に附て調度どもすうべき
(*原文「すべき」)所なり。故に稱名院内府
(*三条西公条。実隆男。)の御説には、文庫などの躰なりとも見えたり。拾遺和歌集に、貞盛がすみ侍りける女に、國持が忍て通ひける程に、貞盛まうできければ、塗籠にかくして後の戸よりにがしけると云も、源氏に、夕ぎりの小野にて中のぬりごめの戸あけ合せて渡り給へると云も、寢殿の側の廂とは見えたり。又、 二條院にて經供養ありしに、西の廂のぬりごめにて紫の上聽聞ありしなども書たれば、ぬりごめは廂に作るものなることを知るべし。然るに、平治物語に、玄光・金王丸が長田が家へ切入、塗籠の口まで攻入けれども、美濃・尾張の習、帳臺の圍ひしたゝかに拵たれば力なく、長田父子を討得ずと書しことも、著聞集に各打やすみて寐ぬれば、あるじも塗籠に入てねにけりとあるも、帳臺と塗籠と同じやうに聞ゆ。是ぞ
(*「を」か。)又考るに、下ざまには帳臺を設ることなく、廂にぬりごめを作りて、夫を夜の臥所とする故に帳臺とも唱しなるべし。法然傳の畫卷物に武士の家作りを畫しあり。其の如く見ゆる也。
其餘昔の家作寢殿の左右に|透渡殿`すいわたどの´
(*原文「透殿渡」)をかけて、左の對屋・右の對屋を作る。或は畧しては寢殿に作りつゞけて對代にもする也。是等にて母屋の大饗・廂大饗のまうけ、又は御八講の時等は放出
(*はなちいで)に作りなすこと等、江次第・西宮・北山
(*藤原公任『北山抄』)に見ゆ。花鳥餘情に委く注置けれども、中々淺學にては雲圖抄・雅抄
(*『雅亮装束抄』)等會考候へども心得がたく候。
又泉殿と申候物有之候。是は則今の猿樂能の舞臺にて候。昔の泉殿の殘り有りしを舞臺に用しよりのことなるべし。其板敷

如此泉殿の四方面に
(*原文「四方面に泉殿の」)はりしもの也。其餘ははし掛り
(*橋懸)迄相同きなり。是も法然の卷物、月輪殿の泉殿相見え候。
今江戸にては帳臺を御納戸搆と唱へ申候。是は昔の鎌倉の殿中をうつして作られし故の名なるべし。鎌倉殿中の古圖に帳臺を納戸と記し有之候。
大和問答附録(*『湯土問答』は『大和問答』と称したか。未詳。)
此間はくはしき御答ども繰返し申候。少々御疝痢の氣味候よし、殊の外餘寒強き故と存候。隨分御保養可被成候。其中此間はよほど暖になり候まゝ、御快と存候。私も此間の暖にて力を得申候。先日の五十首不絶御誦し被下候由、本懷の事。故人の申候才に患と申候事、さる事にて、短才ながらも其身ひまなきものにて御座候。夫に付、一枝軒の述懷百首御見せ、扨々面白き事。かやうに骨折候歌は更に御當地にて外には無御座、才子にて御座候。殊に殘雪・歸雁・更衣・苅萱などの歌は、躰も優美にて、何れへ出候てもはづかしげなき歌にて、かはるはうすき夏衣かなとよくとまり申候。とかく哉どまりは歌によりむつかしき物にて、一通りよく留り候も有之候へども、「歌により留り候にむつかしき物にて一通りよく留り候も有之候へども、」
〔編者(*原文「偏者」)云、括弧内の文字恐衍(*恐らくは衍ならんと)。─頭注〕當時にても私には哉留りはきわめ不申候事になり申候。□
(*原文一字欠の記号を付ける。是などか。)はし哉留りにても九月盡のうき涙哉と候は、上の句よりつゞけがらよく、留り候とも被存
(*存ぜられ)ざるやうに候。すべて以前より今に至り、御當地の歌、てにはと雅語・俗語のわかち不吟味に御座候。つゞけがらにより雅語も俗語になり候事有之候。されども堂上方より添削候もあらましに御座候。私ども讀出し候ても、風竹亭又姉小路殿などはてには傳授も無之故、其身も遠慮も有之歟、くはしからず大概にて、必二首に一首は點を合せ事濟申候。又冷泉家にて定家卿の點などは猶以大あらめなる事に、三郞兵衛歌の添削に相見申候。右之趣にては不分明候故、下拙上京の砌、烏丸光胤卿へ五度程參り、三度緩々と物語ども承り、直に添削ども請候て、とかく無遠慮直し給候樣に願奉るよし申候へば、其執心ならば心得候よし返答にて、されども夫にては退屈可有と笑被申候。夫故二首づゝ讀遣し候に、三度に一度は三首五首題中一二首は二首ともにつきかへされ候事度々にて、一度はよみ直し遣候事三度に及、やう/\四度目
(*原文「四目度」)に事濟、七首めにやう/\賞美申參候なる程、其申參候所無利にても無之候。されどもか樣に添削有之は外には無之よし、毎度申參候。其事は多くてにはのつゞけがらと雅俗の事にて有之候。夫にて考候へば、此百首にても其行とゞかざる所は所々相見え申候、されども、其時も今も此吟味のよきはこゝもとには無御座候。先日も三郞兵衛門弟の歌書付、 御前へ出し候よし。其中のよみ候人出し候て三首見せ申候。一通りの事ならばにて候へども、あまりの事見へ候故、夫をば存念申候事に御座候。先爰元などのは一通り濟候へばそれなりにて、なか/\吟味の所にてはなく候。御歌の夏野の道は有とだに見ず、扨々面白御座候。御□考
(*□は高、尊などか。)の如く子の日せしと御直しの方ゆたかにて、一入宜しく御座候。なか/\是ほどの歌、爰もとの歌人衆にはさらに無御座候。其なかへ御出し候てさらに外にまさり候は無御座と相極申候。右に申候二づゝよみ遣し、三度迄非難申參り、四度目には私も相極候て、かへ歌なしに唯一首よみ遣し候へば、大に賞美申參候。落花の歌にて候。
さくらさく峯のあらしやわたるらん花ちりかゝる谷の岩はし
此歌にて御座候。今までもせがまれ申候はゞ、よほどよみ上げ可申に殘念なる儀、やう/\三年餘りにて、光胤卿蟄居にて相止申候。京都にて三首題から
(*原文「かに」)述懷の歌、
よるべあらば分てたづねんわかの浦の貝はちひろのそこにありとも
とよみ候て詠草直しに指し出候處、扨々嚴敷執心、是ならば此方にも心得ありとて稱美、悅にて御座候ひき。さて無やくなる不問語り、御一笑可被下候。
一 黄
鱘の事、委しく御考、且外よりの考まで辱存候。是にてよく相知れ申候。爰元にのうそふか
(*のうそう鱶か。「のうそう」は鱶の類。)と申物御座候。大方是ならでは無御座候也。何分何方ぞに出候所有之と存候。猶相尋見可申候。
月 日
三吟一日百首御見せ、一日百首にかやうに出來驚入申候。やつがれも前かど(*「前廉」=それ以前。)一日百首二度よみ申候へども、中々書留候樣なる歌は二三十ならではなく、其外はやり捨申候。昔より一日百首にて世に殘り候ものは、世々の堪能にも無之候。文永の夏の七百首に、爲氏の百十四首被詠候事珍事にて、其時も爲家は八十首出、是等世に殘り、其外一日百首たま/\有之といへども、更に世に書殘し候やうなるはなき者にて、釋正徹が一夜百首珍しき者と申候。元亨の度の七百首の御當座にも、爲世八十首詠出候。其時も百首に及候もの無之よしにて候。義夙も前かど一夜百首よみ候て、是は今も書殘し有之候。されども是は其砌追々とりつくろひ、詠し直し等にて出來候者故、名斗にて御座候。且同人歌評判ひゞき候よし、なか/\左樣にてもなく、一通りの歌はすら/\と致し申候。されども、もと文盲不才故よみ來り候題詠の外は詠出に及不申候。又弟子あつかひも爰元初心の衆にはなか/\宜しく、されどもかの學問ぜめの心がけなく候故、承も氣毒なる事の違ども多く候て笑止に御座候。是は師匠さへしらざれば、弟子は猶しらず。譽られ候へばよきと存じ、人前へ出し候。されども又一等に夫を知り候ものもなく候故、更に笑候ものもなく、夫にて濟申候。不才の世には不才の者の世中にて、世は夫にて濟申候。○學問ぜめにて學問ぜめの見えぬ事、な/\出來るものにてはなく候。雪霽の二句、不存ながら、なる程かやうの事と被存候。何の理屈も何の骨折も見えず、出候詞をすら/\と申候斗と相見え候。歌も同事にて、何の巧もなくすらりと申所に言に盡されざる事御座候。其すらりと申候中、少にても心がゝり候て、あなたこなたと巧を入候へば、もはや秀逸とは不被申候。されども其巧の見えざる所に、千萬の巧有之事、夫を言出すものも見候ものもなく候。尤關東の者の知る事にてはなく候へども、後代ながらも、 水まさるたかせの淀のまこも草わづかに見てもぬるゝ袖かな、 さほ姫の衣春風なほさえてかすみの袖にあは雪ぞふる」など申候歌は、津の國の小屋(*昆陽・児屋−歌枕。「来や」に掛けた歌の一部か。)とも人のいふべきに」と申候歌にもまさるべき歌、 狩くらし片野(*交野─歌枕)のましば折しきて淀の渡の月を見る哉」といふ歌などのたぐひにて候。それをもしらで新敕撰の後にはとる歌なきなどゝ松宮が申せし事など、扨々をかしき事にて御座候。誠の關東評判(*悪口の一つか。)の出ほうだいにて御座候。
○百人一首解よく致し候ものにて御座候。なる程絶句解にならひ候、よく聞え安く御座候。是はいづれにても聞え安きもの。源氏物語を此通りに致し度ものと毎度申候事、されども年無御座、心斗りに御座候。此序にも嘉應に中院入道(*中院通村)の(*人の)もとめに應じてと决定して書候事(*『百人一首聞書』〔近衛信煕〕・『百人一首講尺聞書』〔近藤尚嗣〕・『後十鈔』等。父中院通勝に『百人一首抄』あり)、是は近來の世談をとり候にて御座候。此事は契冲が改觀抄(*『百人一首改観抄』)に書候。夫より觀鵞百談(*細井広沢)等にも書て此説をもてはやし候。是は明月記の殘編を見申候ての事に候。二條家の説は全編を見て注し出されし事にて候(*原文「事にてす候」)。其二條家の注に悉く本據有之事、此事は烏丸家にて則御尋申候事にて候。百人一首にかき古今までも詠歌の事、其外事にふれ候ては御傳授事も被仰聞候事にて候。尤全部の古今の傳らは、さらに外へ出ず候。されども〔(闕文)〕
月 日
此間御書付被下候布衣記の中の事、存寄候まゝ書付申候。されども管見甚無覺束存候。よく御考可被下候。
一 後作意の呉宮詞御見せ被下、殊にくはしく御書付添下され候故(*原文「故候」)とくと合點參り、扨々面白く毎度口吟仕候。昔にも何ほども面白き詩可有之候へども、さし當りくはしく注し被下候て、又新御作と申候にて、甚面白く此上もなきやうに毎度吟申候。
一 書肆曾我物語持參候よし、取寄せ見可申候。又老人雜談(*江村専斎『老人雑話』)御覽被成候に、龍山御物數奇にて肩衣被成候事、さらに覺不申候。手前にも持居申候。取出し見可申候と樂申候。見候てもうか/\と見候ては覺ざるものにて御座候。(*補足後出。)
一 石弩御見せ被下、久しぶりにて見申候。前に河合平太夫見せ候を覺居申候。悴どもは初て見申候て、殊の外めづらしがり申候。別て辱存候。殊に孔子家語に出候よし、肅愼と御座候よし、中國より見申候へば同じ方角ゆゑ、此出羽の事かも不知にやとも被存候。國史にも度々見え申候。仰にまかせ書拔進申候。(*後出。)珍敷品則返却仕候。
一 集義外書(*熊沢蕃山)御見せ忝、前かど一通り見申候。久敷にて見申候。仰の通聖德太子の未來記にはまさり候事御座候。とかく年を經申さず候ては、其人の德見えかね申候。いか樣近來にての人物(*現代に傑出した人物)にて御座候。
一 須磨の記(*『(菅家)須磨記』偽書)の事、近來に出候もの、文開け候所より年來うづもれ居候書も出申候。まがひもなき古書、落涙に及申候ものに御座候。則此間書付申候もの(*実平著書か。未詳。)にも終に書入置申候。御覽被下候哉。思召寄御座候はゞ(*原文「御座はゞ」)被仰聞可被下候。尤更に心を入候ものにても無之、誠の隨筆にて御座候。以上。
六月四日
猶以江戸の夜歌よく出來候ものにて、是は餘程の者の致し候事かと被存候。いか樣せん。たゞ近寄候樣に御座候。穴賢/\。
續日本後紀(*前項「石鏃」の補足。)
承和六年
(* 839年)十月乙丑、出羽國言、去八月廿九日、管田川郡司解
儞(*に)此郡西濱達府之程五十餘里、本自無石。而從月三日、霖雨無止雷電鬪聲、經十餘日乃見晴天。時向海畔自然隕石、其數不少、或似鏃或似鉾、或白或黑或靑或赤、凡厥
(*その)壯體鋭皆向西、莖則向東。詢于古老所未曾見、國司商量此濱沙地、而徑寸之石自古無有。仍上言者、其所進上兵象之石數十枚、收之外記局。
三代實録
元慶八年
(*884年)九月廿九日、出羽國言、六月廿六日、秋田城雷雨晦冥、雨石鏃廿三枚。七月二日、飽海郡海邊雨石似鏃、其鉾皆向南。
仁和元
(*ママ。885年)六月廿一日、出羽國秋田城中及飽海郡神宮寺西濱雨石鏃。
同二年
(*886年)二月、出羽國飽海郡諸神社邊雨石鏃。
右雨鏃見國史、以上五度也。
石上の一冊御返し下され、落手申候。夫に付御筆記(*常山楼筆余等か。)にくはしく被書加候よし、甚面目の至に御座候。しかし僻案赤面の至に御座候。古史通(*新井白石)にも被記候通、神代の事はたしかに無動(*動くこと無き)説はなしがたく候故、先これほどの事と存ぜられ候。
一 日外被仰越候曾我物語又一本にて、參考に被備候と存候ゆえ調置申候。もし御覽候はゞ、いつにても可被仰下候。殊に古物にて、家藏致し申候。未だ書申(*書き申さず)候事も御座候やうに候へども、又擘に(*ママ)心かゝり筆をとめ申候。又近日可申候。矢籠も返進申候。穴賢。
湯土問答 終
(湯土問答 巻之二 <了>)
解題(内藤耻叟)
序(宮田明)
目録
巻1
巻2