閑散餘録 卷之上
南川維遷
(『少年必讀日本文庫』第1編 博文館 1891.6.15)
※ 〔原文注記〕、(*入力者注記)。目次は入力者が作成した。(2011.8)
解題(岸上質軒)
序(江村北海)
緖言
目次
巻上
巻下
跋(高文肅)
閑散餘録二卷
解題
此書は勢州菰野藩儒南川士長の著す所なり。士長、名は維遷。金溪と號す。龍公美(*龍草廬)の門人にして詩を善くす。此書を著すの始末は緖言に詳かなり。龍公美は伏見人、後彦根藩の敎授となる。此書に題する詩あり、曰く、
菰城一箇ノ風流客 人ハ道フ男兒南八生ト 子建(*曹植)ガ文章推二繍虎ヲ一 適之(*維遷の字の一つか。)ガ豪飮似二長鯨ニ一 春深シテ沈醉驚二花落ニ一 秋靜孤吟對二月明一 閑散由來多二暇日一 録-二得タリ翰苑著書ノ名一
之を見れば、其人風流酒客なるに似たり。其詩は金鷄詩草あり。此書よく先哲の逸事を集録して、大に學者に益あり。且其人門戸の見なく、偏僻する所なきを以て、録する所も公平私なきに近し。珍重すべし。
此書もと刊行するものありて、後人の頭注を加る者を得たるを以て、今從て改めず。
明治二十四年五月
編者(*質軒岸上操)
閑散餘録序
可シ二以テ無一也。無キモ亦何ゾ損ゼン二乎己レニ一焉。不レ可二以テ無ンバアル一也。有レバ則有リレ益二乎人ニ一焉。盖不ルレ可ラ二以テ無ンバアル一也者ハ、世不二常有一。而可キ二以無カル一者ハ比々屬々、蓬出テ而集ル焉。天下ノ之事大抵如シレ斯。豈不ンヤ二憒々ナラ一乎。譬ルニレ之ヲ著作モ乃チ亦然ルカナ哉。近時浮輕ノ之徒、吻黄未ダレ銷セ、唯名ニ之レ趨ル。今日著ハシ二一書ヲ一、明日著ハス二一書ヲ一。充棟汗牛、要スルニレ之ヲ非レバ二屋上ニ架スルニ一レ屋ヲ、則舟中ニ行ルレ舟ヲ。不二啻ニ無キノミナラ一レ益二乎人ニ一、適足ル二自ラ汚スニ一。其レ將謂ン二之ヲ何ト一。若夫不ルレ可二以無バアル一也者ハ、絶テ無シテ而稀ニ有リ。如キ二閑散餘録ノ一是レナリ也。士長氏起リレ自二畎畝ノ中一、非ズレ有ルニ二父兄師友ノ訓導一。其ノ攻學文辭皆出テ二于資性ヨリ一、遂ニ能ク玉-二成シ其業ヲ一、釋キ二褐ヲ其ノ國ニ一任ズ二職ヲ文學ニ一。於テレ是ニ乎有リレ所レ著ハス焉。元和以來巨儒碩匠言語事跡捃摭シテ畧備ル。假ニ令テ下我邦ヲ一(*注─返り点注意。)無ラ中儒林文藝ノ之傳上則已マン、若有ラバ下志ス二于此ニ一者上、必取ン二徴ヲ此ノ書ニ一。是レ不ルレ可ラ二以テ無バアル一也者、非ナルヤ耶。然而所-三以ハ名クル二其ノ書ニ一、猶レ曰フ下我レ以テ二斯ノ編ヲ一消シレ閑忘ルレ散ヲ於テハ二學者ノ業ニ一固ヨリ緖餘ノミト上耳。士長氏盖以テ下可二以テ無カル一也者ヲ上自ラ期シテ、而人反テ以テ爲下不ルレ可ラ二以テ無ンバアル一也者ト上。較ルニ丙諸レヲ近時浮輕ノ之徒自ラ夸詑シテ以テ爲テ下不ルレ可二以テ無ンバアラ一也者ノト上、而人視テ以テ爲ルニ乙可キ二以テ無カル一也者ノト甲、其ノ得失果シテ如何ンゾヤ乎哉。噫我レ老タリ矣。馬班ガ之業非ズレ所ニレ可キレ希フ。亦唯同ク二士長氏ト一、婆-二心ス後學ニ一。乃録シテ二此説ヲ一贈リレ之ニ、以賛-二成スト其業ヲ一云爾。
安永癸巳(*1773(安永2))春二月
北海江邨綬〔江村北海、名は綬、字は君錫。
專齋の孫にして、剛齋の子なり。實は伊藤龍洲の次子と云ふ。─頭注〕撰
閑散餘録緖言
- ○予甞て桑名に寓居すること十年許、講書の暇金鷄雜話三卷を艸す。纔に稾を脱していまだ考訂に及ばず、既にして褐を解て薦野に仕ふ。
公子の爲に經を説き、諸子弟の爲に念書(*書物を読むこと)を授く。其間暇の日多し。由てさきに艸する所の雜話を校正して刊行せんと思欲す。此に於て其中に就て忌諱を犯すことあればこれを除き、褒貶人意に觸るゝことあればこれを削り、僅に上下二卷とす。名を更めて閑散餘録といふ。重て繕寫して俗を去り雅に從て言を修せんと欲す。いかんせん、邇者頗多事、意を筆硯におくことを得ず。故に稾本を以て一門人をして淨寫せしめ、書肆に授るのみ。
- ○近年梓行の書に河靜齋(*河口静斎)著す斯文源流あり、永田觀鵞編儒林姓名録(*熙朝儒林姓名録)あり。〔斯文源流一巻、叢書第三編に収む。儒林姓名録一巻、亦叢書中に收むべし。─頭注〕(*後者は日本文庫に収載せず。)姓名・鄕里・師資の相承等はこの二書に詳なり。就て見るべし。すべて源流・姓名録に見へたる(*ママ)ことは此書に略す。
- ○録中、仁齋・徂徠の行事を記すること極めて多し。これ昭代の大儒なるを以て口碑にのこること多ければなり。その中、仁齋のことは文集に行状〔仁齋の行状、子東厓(*東涯)撰。〕を附録す。故に世系・履歴は行状に讓りて、この書に贅せず。東野(*安藤東野)・周南(*山縣周南)・春臺(*太宰春台)〔春臺行状、門人。─頭注〕等の諸子も亦然り。白石の世系は、鳩巣文集〔白石碑文、室鳩巣撰。〕に詳なり。
- ○録中次第必しも年代に拘らず。事の似たるはその類に由て録す。學風の同じきも亦然り。他日人有て一代の史を修し、道學・文苑等の傳を立てば、或は取ことあらんといふ。
明和七年庚寅(*1770(明和7))冬十月
閑散餘録卷之上
伊勢 南川維遷士長 著
- ○
毛利貞齋は書籍に俚諺抄を作ることを專務とし、又舌耕をも業とせりと見ゆ。其頃の京都の書生の狂詩にも、貞齋只計フ席講ノ銀と云り。俚諺抄を著すは、標註を著すに如ず。宇都宮(*宇都宮遯庵)が業、貞齋に勝れること十倍せり。〔毛利貞齋、名瑚珀、字は虚白、浪花の人、京師に舌耕す。所著三十餘種中、四書俚諺抄・莊子俚諺抄・古文俚諺抄等あり。─頭注〕
- ○
宇都宮由的は松永昌三の門人にて、周防の岩國吉川家に仕へたる人なり。徂來も山縣少助(*山縣周南)が國に歸るとき、書翰を託して寄たることあり。文集に與二宇三近ニ一と題す、是なり。少助が其父に代りて徂來への報書を見れば、その時既に物故せるゆへ墓下に呈したるよしをいへり。東厓集(*『紹述先生文集』か。)に其子其孫の墓石の文あり。由的の業を見るに、文章は拙きことなれども、只博覽強記の人にて、諸々の書に標註を作れり。其以來の學者も陽には其人を賞せざれども、陰には其惠を受ること寡きに非ず。京師の書生の戯語に、虱先生と云り。多く頭書を著せしゆへなり。凡て今時の人情を見るに、一見識を建て人を倡ひ(*「訪ひ」に同じか。)文章を著せる學者は、あながち豪傑に非れども外人の毀譽に關りて名を揚るもの多し。毀らるゝは譽らるゝに比すれば好まざることなれども名を揚るの一助とはなることあり。其見識無用の事多くして世敎を助くるに足ざるよりは、由的の功大にまされり。然ども陽に人に取るゝことは寡し。實德ある人は、此間に於て一長嘆すべし。〔宇都宮由的、名三近、遯菴又頑拙齋と號す。四書標注・職原抄標註・杜律標註・錦繍段標註等を著はせり。寶永六年(*1709(宝永6)。宝永四年ともいう。)歿す。子三的、字は文甫、一角又圭齋と號す。岩國に仕ふ。山縣少助、名孝孺、字次公、周南と號す。徂徠が書翰を托せしは此人の父長伯なり。周南の徂徠に復する書云、以與都由的書託。嗟乎的也以今年春下世。乃與孝孺(*原文「孺孝」)議致之巖邑、使的子文甫祭告墓以成先生之志也。由的吾甞所兄事也。學術褒然、質行可尚不當。彼長身與先生相識、今則乃墓也。悲哉。〕
- ○
宋景濂が詩に吾國の事を述て、逸書百篇今尚存、令嚴ニシテ不レ許サ二中國ニ傳ルコトヲ一といへり。これは唐にて聞を誤るにて、逸書は吾國にも存せざるなり。秦の時、徐市(*「じょふつ」=徐福の別名。)吾國に來れりと云つたへ、今に其舊跡も存すれども、是亦云傳へたるのみにて、正しきことに非ず。〔徐福の墓と云ふもの、紀の熊野にあり。─頭注〕然ども古書の唐に亡びて此方に傳はれるものまゝこれあり。近頃梓行せる論語の皇侃が疏など、下野の國足利の學校より取出せる書にて、唐には久しく亡びたるものなり。〔論語皇侃義疏、徂徠の門人根本遜志校正上木す。─頭注〕古文孝經并に孔安國が註、これも吾國に存して唐には宋已前より亡びたりと見ゆ。〔古文孝經孔傳一卷、春臺校定上木せしを、支那に傳へ、鮑廷博其知不足齋叢書に收めたり。鄭注も彼土に亡びたるを、岡田挺之校定上木せしを、亦支那に傳へ、鮑氏又之を同叢書中に收めたり。─頭注〕仁王經の註〔智者大師の作〕、唐には久しく亡びけるを、惠心僧都の時かの方の請に因て度々贈られけれども、いつとても風浪の災有て海中に失ひしとなり。この外にも唐に亡びて吾國に存せる書尚多し。又吾國にて撰述の書にも歴朝の兵亂に因て失へるもの寡なからず。一々擧るに暇あらず。
- ○
近頃の儒士に餘姓の人あり。〔餘承裕、字子綽、熊耳山人と號す。通稱大内忠大夫。其先餘璋王より出るを以て文事に餘氏を稱す。徂徠門。文章に名あり。─頭注〕是朝鮮より出たる姓にて、餘璋王の苗裔なりといふ。其事は竹雨齋詩集に見へたり。然るに日本紀には餘豐璋とあれば、餘姓と心得るもことわりなれども、唐書には扶餘豐とありて、璋は其祖武王の名にして扶餘は百濟の氏なり。これを以て見れば、餘姓とするは誤なり。古代には朝鮮より吾國に來り住したる人多し。或はかの國饑饉の時は、其民を吾國に移されたることあり。又劉姓の人あり。これは唐土の彭城の劉氏なり。故に或は彭城と稱す。長崎の舌官の内などにこの姓あり。鉅鹿氏あり。これは鉅鹿の魏氏なりとぞ。〔劉宜義、氏は彭城、長崎の譯官。有文の名あり。鉅鹿民部、名は皓、字は子明、本姓魏氏、長崎の人。明の宴樂を傳へて京攝の間に鳴る。─頭注〕
- ○
儒にして佛を好める人、唐宋より以來甚多し。吾國古昔菅家その餘の學者も多く佛法を好めりと見ゆ。百五十年以來佛氏にて儒を好めるものには南浦〔文集あり。〕〔南浦、名玄昌、字文之、日向南外浦の人。薩の建長寺に住し、始て四書を訓點す。─頭注〕、曹洞宗の玄光〔護法集あり。〕〔玄光、獨菴と號す。護法十四卷を著す。─頭注〕、豐後の道香、肥前の大潮〔文集あり。〕〔大潮、名は元皓、肥の松浦の人。詩を以て徂徠と交る。松浦詩集・西溟餘稿等あり。─頭注〕、加州の無隱〔心學典論・金龍尺牘・無孔笛を著せり。〕なり。儒にして佛を好めるは森尚謙、赤石の梁田才右衛門(*梁田蛻巖)、この外一二これあり。〔無隱、名道費、金龍沙門又雜華堂と號す。詩を善し、大潮と交る。森尚謙、字は利渉、儼塾又不染居士の號あり。松永昌易に學び、水戸に仕へて史舘編修と爲る。佛敎に渉り、護法資治論を著はす。─頭注〕佛を出て儒に入ものは、惺窩先生・山崎闇齋・木下順菴なり。眞儒にして本業を成就し、旁佛氏にも渉る人は希なり。
- ○
論語を圓珠經といへるは、皇侃が義疏の卷首の語に本づけるなり。徂來の説に、皇侃に出と云傳れどもその本據を見ずといへるは、義疏をいかに見過したるにや。あやしむべし。〔本邦古代論語を圓珠經と題し、孟子の命世才と題せる者あり。命世才とは、史記の孟軻傳に出でたり。─頭注〕
- ○
貝原篤信は俗稱を久兵衛といへる人なり。宋學にて好事なる人物と見ゆ。最親切なる學風なり。著述數十部あり。その内道學の見識を述たるは、自娯集・愼思録この二部にあり。晩年に大疑録といふ書を著して大に宋學を疑ふ。されども老後の事なれば、疑ひたるのみにて、一家の説も建ずして物故せりとぞ。其事は徂來文集・春臺文集に粗見へたり。予も亦其書を見ず。〔貝原篤信、字は子誠、益軒と號す、筑前福岡の人。所著五十餘種。父寛齋、兄樂軒、皆碩儒なり。─頭注〕
- ○
蜃氣の樓臺をなすこと、和名をながふといへり。長門の海中にまゝありと聞り。吾州の伊勢の海も昔より其名あり。二三月の頃、天氣暖和にして風浪なき日に多くあらはるるなり。これ蛤蜊の氣なりといひ傳へ、(*ママ)然れども蜃と蛤蜊と同く介類にして別あり。ことに桑名は蛤蜊に名を得たる地なれども、ながふの見ゆることを聞ず。但羽津・楠邑等の海邊に多し。吾友に楠邑の南川といへる里に山本勘右衛門といへる老翁あり。この人は弱年の時より兩度見たり。後に見たるは樓閣の中に種々の飾りありて甚奇巧なりしと物語せり。羽津・楠などにも蛤出れども、桑名にくらぶれば寡し。然れば蛤の氣にてなれるにはあらざるべし。楠の南一里ばかりに鄕あり、其名を長太と書てながふと訓ぜり。蜃氣に因て名づけたるなるべし。天地の間には理外の事多し。虹の日に映じて靑紫の色をなすが如く、海中の春和の氣日に映じて色を現ずるなるべけれども、樓閣の形象をなすはあやしむべし。
- ○
笠原玄蕃(*笠原雲溪、名龍鱗、字子魯。修して原雲溪と称す。)といへる儒士ありき。京都の西岡かたき原の鄕士にて、其先は浪人なり。詩を能し、又書を能せり。その頃までは吾國の詩家、皆三體詩・千家詩・錦繍段を金科玉條として學びたるを、玄蕃に至て初てこれらの書をしりぞけて、杜律(*杜律集解)・唐詩訓解を專ら倡へり。もと小笠原氏の人にて、人品も方正なりしとなり。桐葉篇といへる詩集あり。この人の集なり。その内に妻を亡ひし時の作に失鶴の詩あり。集中の絶唱なり。玄蕃が失鶴の作とて人口に膾炙せり。今その詩を見るに、七八の句少し口惜くみゆ。又伏見の人に鳥山佐太夫(*鳥山芝軒)なるものあり。〔鳥山(*原文「島山」)佐太夫、名は輔寛、字は碩夫、鳴春(*原文「嗚春」)と號す、攝津の人なり。─頭注〕玄蕃より少し先輩なり。芝軒吟稿を著す。徂來の評にも晩唐の宗匠なりといへり。入江若水(*『西山樵唱集』を著す。)などその門人なり。いづれも白石・徂來とは別出の作家にて、京師にて詩道のひらけかゝりしは此人々なり。
- ○
鳥山佐太夫の父を孫兵衛(*原文「孫兵衝」)といふ。後遜甫と稱す。能書にて洛陽名筆集にもこの人の書あり。東福門院の臣なり。〔東福門院、後水尾院皇后、將軍家光の女なり。─頭注〕又佐太夫に子あり、名は輔門といふ。孫平次と稱す。香軒詩集・同畧集あり。〔輔門、號香軒又岡之助と稱す。─頭注〕
- ○
吾國の學問惺窩先生の頃より四五十年前に至るまでは、古文前後集を專用ひたることなり。故に古文に標註・國字の解等多し。那波道圓の説に、その頃は滕王閣の序の落霞は鳥の名なりといふことを秘授口傳となしたるよし、遺稿の内に見へたりとなん。〔那波道圓、名方、活所と號す。惺窩門人。─頭注〕古文を學ぶは文章軌範を學ぶに如ざること、やゝ眼ある人は知れたることなるを、その頃の人々はいかに心得たるやらん。要するに時運の然らしむるならん。
- ○
朱舜水は明の同姓なり。吾國萬治二年(*1659年)に明末の亂を避て長崎に來る。後に水戸公の聘に應じて水戸に至れり。文集あり。(*『舜水先生文集』)水戸公父子(*光圀・綱條)の選なり。今世に行はるゝ朱子家訓(*『朱自家訓』)は、この人かの國より持來りしといふ。然れども朱子文集に載せず。朱門の人々もその沙汰なきを以て、僞作なりといふ人あり。予思ふに、徴明が法帖(*文徴明『停雲館帖』)にもこの家訓あり。中華にては久しく傳來せると見ゆ。且その言名敎に助けあり。朱子の作として子弟に敎るも、何の害あらん。
- ○
傳敎大師入唐して天台山拜巡の時、彼方にて與へたる路引のやうなるもの一紙あり。書人は知がたけれども、まのあたり唐朝のものゆへ古雅いふべからず。眞蹟和州多武峯の寺院に藏れり。浪華の蒹葭堂〔蒹葭堂、木村吉左衛門、名は孔恭、字成肅、巽齋と號す。大阪の豪商なりしが、性學を好み、珍本奇冊を購儲し、家爲に窮するに至る。當時名聲籍甚、三都の諸儒交を爲る(*「爲さざる」か)者なかりしと云へり。─頭注〕臨摹して石に上す。その中に從者丹福成といへる事あり。しかるに日枝山の坂下に福成明神の社あり。中古より何の神なることを知る人なかりしに、この路引にて明にしれたり。その昔大師の從者にて唐へも伴れたりと見ゆ。
- ○
吾國にて眞に老莊を好める人、甚寡し。學者たるものは皆老莊を讀ども、眞に好むに非ず。五十年前にや、金蘭齋〔金蘭齋、名字詳ならず。出羽秋田の人なり。─頭注〕と云人あり。この人實の老莊者にして、心も境も老莊に合へりとなん。近比老子の國字解を刻む。即蘭齋の解なり。國字なれども一家の見識あり。他の書の俚諺抄・諺解の如きには非ず。その頃の書生の狂詩にも、杜撰蘭齋諳シ二魯論一といへりとぞ。
- ○
蘭齋、家尤貧し。書生來ていづれの書にても講釋を請へば、我その書なしといふ。因て購ひ求めて贈る。さて開講の日に及んで書生數輩至れば、其書は既に米にかへたりといふ。やむことを得ず書生の本にて講ぜりとなり。ある時客至る。蘭齋猶寢たり。驚て衾の内より出るを見れば、袴を着ながら臥たりとなり。又あるとき講釋の半頃に、代神樂といへるもの鼓をうち笛を吹て街を過る聲あり。やがて書生にも謝せず走り出づ。小兒輩と共にかの者共の後に從て遊びありけるとなり。
- ○
淺山彜倫菴(*朝山意林庵)は初め九條家の諸大夫なり。致仕の後、京師の今の安井の北隣曼珠菴といへる地に隱居す。詩文集あり。後光明帝の師となり〔光明帝は近代帝王中好學名主なり。〕時々禁中に召る。庶人なるを以て別に布巾を賜ひ、禁中のすのこといへる所に於て書を講ぜりとなん。服は道服の類なり。巾は紗を以て作る。縁を漆にて塗れるよし。今に九條家に淺山氏あり。布巾共に其家に傳ふとなり。〔淺山彜倫菴、名は素心、藤丸と稱す。初五山の長老に學び、駿河大納言に仕へ、後後光明帝に侍讀し、寵遇優渥、帝常に呼て北白河の三位入道と稱す。其文傳僅に小瀨甫菴の太閤記の跋存す。─頭注〕
- ○
安東省菴〔安東守約、省菴と號す。筑後柳川の人。松下昌三に學び、柳川侯に仕ふ。子孫今に存す。─頭注〕は篤學の士なり。祿二百石を食む。初め朱舜水吾國に至りし時、俸祿の半を贈て奉養し、就て學びたりとなん。今時は左程に尊信すべき大德の師もなく、又志の篤き子弟もなし。澆季の弊嘆ずるに餘りあり。
- ○
本艸を講究して物産採藥を事とすることは向井元升〔靈蘭先生と號す。〕〔向井靈蘭、名元升、字以順、一號觀水子。醫を善し、後水尾上皇の詔を奉じ、八條宮を治し、其他皇子・後宮・公卿・大夫、奉詔爲治多矣。由是名聲籍甚たり。延寳中歿す。─頭注〕より始るといふ。稻生若水〔稻生若水、名宜義、字彰信。本草綱目を校正し、其著書傳ふるもの十三部。新井白石の囑に應じ、詩經小識を著せる人なり。父恒軒、醫を以て宮津侯に仕ふ。古林見誼(*見宜)の門人。─頭注〕に至て尤盛なり。貝原篤信も本艸を好み、大和本艸を著す。若水は著述百餘卷ありと自ら言り。韓人に序を乞たること唱和集(*鶏林唱和集か。)に見へたり。然れども世に傳はらず。今の本艸の新校正(*本草綱目新校正)は名を若水に託したれども和名に允當ならざることまゝ見へたり。疑ふべし。初め京師に住し、加賀に聘せらる。加賀より江戸に召し、敎命を蒙りて庶物類纂一千卷を撰せりとなん。松岡元達(*玄達)〔松岡玄逹、字成章、恕菴と號す。─頭注〕は若水の門人なり。本艸一家言を撰す。これ又世に公にせず。用藥須知その餘蘭品(*怡顔斎蘭品)・櫻品の類一卷二卷の冊子のみ刊行せり。元達の門人多き中に、津島恒之進と云もの如蘭と號す、加州の産にて京に住し學問の力はなけれども物産のことに精密なりき。今は物故せり。今にては浪華にて戸田齋宮〔戸田齋宮、旭山又旡悶子と號す。直海と共に松岡門と云ふ。─頭注〕、京師に直海元周、江戸に田村元雄〔田村元雄、名登、藍水と號す。阿部將翁門人。─頭注〕・平賀元内(*源内)〔平賀源内、名國倫、字士彜、鳩溪と號す。田村の門人、又吉雄幸左衛門(*原文「幸右衛門」=吉雄耕牛)に學ぶ。─頭注〕、これらの人皆本艸に名あり。火浣布は和名をひねずみといふ。中華にても甚珍重せるものなり。もと蠻國の制(*製)にて、紅毛人など持るものなり。紅毛にも是を制するもの、今は絶たりとなり。しかるを平賀氏考る所有て初てこれを制す。予甲申の歳(*1764〔宝暦14、明和1〕)浪華にあり。戸田氏が物産會に出てまのあたり見ることを得たり。予が見たるは、竹取物語に火鼠の香盆といへることあるを以て香盆に作りたるなり。いかにも烈火の中に入るゝにかつて燃ることなし。眞に奇品なり。その席上に一好事の人あり。熟々視て曰く、是石綿なるべしと。是又具眼の人といふべし。平賀氏は肥後の熊本にて其法を得て作り出せりとなん。この外本艸に精しきもの、三都及び諸矦の國に分處せり。撰述の書も亦多し。一々擧るに暇あらず。
- ○
中村惕齋〔中村惕齋、名は欽、字敬甫、七右衛門と稱す。阿波の儒臣洛下に講學す。─頭注〕は忠信篤實なる學者なり。旁ら樂を好んで音律に精し。朱子のいふ處、もし孔子の道に戻らば、朱子に欺かれたりと思ふて朱子に隨んなどゝいへるを見れば、其人品の温なること想ひやられたり。故に闇齋流の學風より見るときは、惕齋は名物には精けれども性理に麤なりと評す。よのつね辭を修すると云ふことを敎へ示されたりとぞ。たとへばこの頃ある寺の坊主が來て、笛が一本ござる、直段もやすふして賣たひと申すが、買しやらぬかと。是を辭を修していへば、この頃ある寺院の出家が來て申すには、笛が一管ござりまする、價賤しふして讓りたひと申しまするが、お求めなされぬかと云なり。總てヶ樣の類にて、君子たるものは平生の言を鄙俗に近かぬやうにせよと敎るなり。餘は類して知るべし。著述の書も多し。然れども有用の書は寫本にて行はれ、強て用をなさゞる書のみ板に鏤めたり。大方の學者の爲に用ひらるゝ書なれば初學の用をなさず。故によきものは却て埋れ、初學のものゝ資となれる書のみ多く行はる。近代の通患なり。
- ○
山崎闇齋〔山崎闇齋、名嘉、字敬義、嘉右ヱ門と稱す。小倉三省、野中兼山に師事し、會津正之(*保科正之)公に事ふ。後神道を修め、垂加(*原文「重加」)と號す。─頭注〕の履歴、詳にしれる人なし。先年友人の家にて一卷の寫本を見及ぶ。題して垂加翁行實といふ。神道の事などに附會の説と覺ゆる事あり。其時の心に、これ實録にはあらざるべしと思へり。故に熟覽にも及ばざりければ、一事をも記臆せざりき。この頃土洲の處士村田龍亭といへる人に逢て、其あらましを聞り。曰く、闇齋は播磨の産なり。幼にして天台山の兒童となる。時に今の土州矦の祖一豐公の弟出家して京都妙心寺大通院の開基となる。ある時かの兒を見て、實に英物なることを知り、請て土州に誘ひ歸り、城下の寺に吸江寺といへるに於て薙髪せしむ。長ずるに及んで才智日に増長し、直に俊傑のきこへあり。時に土州矦の太夫野中傳右衛門〔野中傳右衛門、名中止、字良繼、兼山と號す。土佐侯に仕へ、世祿六千石を食し、兼山の時増して一萬石と爲る。後坐して貶黜せられ、尋(*ついで)病歿す。或は死を賜ふとも云ふ。─頭注〕といへるは儒術に達したる人なりければ、闇齋が豪傑にして緇徒に陷ることを惜み、勸めて還俗せしむ。これより山崎嘉右衛門と稱せりとぞ。
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野中氏は土佐矦の上太夫にて、學術に富み兼て経濟地理に長ず。土佐の地は山多くして水がゝりあしゝ。然るを山を穿ち、溝渠を通じ、艸莱を開き、農作の利をなせり。又長曹我部(*長宗我部)元親の遺臣、浪人して國中に多く住けるを、各田地を與へ、兩刀を佩ことを許して鄕士とす。一鄕に五十人ほどの鄕士の住する鄕あり。今に毎年正月十一日に矦の前に出て、甲冑を著し馬に乘ことなり。春臺(*太宰春台)が経濟録に、土州薩州に鄕士有て、古の兵農の職にかなへりといふはこの事なり。又土佐の國中は、野中と闇齋の餘澤にて、今に火葬少く儒葬多しとなん。〔土佐民俗、葬以荼毘數禁之、而不止。兼山令曰、從今後凡有罪者之死、當焚其屍、而葬其遺骨。於是火化自止。─頭注〕ある時、野中氏自ら山野に歩して地の利を見る。一人の老農あり。田畝に耕す。野中氏かの翁に語て曰く、この國の地は山野空地多くして、是を開けば莫大の田地となる。昔の人はかゝる眼前の利を知ずして、軍を遠きに出し、人民を惱まし他國を取んとす。愚なるに非ずや。老人答て曰く、さればこそこの翁が先祖にも公の如き愚夫ありて眼前の小利のみを事とせしゆへ、この翁もかく老衰に至るまでも稼穡の艱難を免れず。野中氏曰く、吾過てり、吾過てりと。後に故有て自殺せりとぞ。
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闇齋初め僧のとき絶藏主と云ふ。墓は黑谷の山にあり。五靈の社地に靈を祭れる由は、其比五靈の神主出雲地寺、闇齋の門人なればなり。遊ブ二比叡山ニ一詩に二十年前讀書ノ處、再遊不厭路崔嵬といへる句あり。又遊ブ二妙心寺ニ一詩に昔年貧ク見ル關山ノ月といへる句あり。關山は妙心寺開基の號なり。これらの詩にても叡山及び妙心寺に居られたること明なり。
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木下順菴〔木下順菴、名貞幹、字直夫又錦里と號し、平之允と稱す。松永昌三、同人本朝通鑑編輯に與る。─頭注〕はもと京師の産にて、學成て後加賀に聘せられ、加賀より江戸に召れ、敎命を受て國史を修せりとなん。その門人に豪傑多く出づ。白石・南海・鳩巣〔新井白石・祇園南海・室鳩巣、各世に聞えたる人なり。─頭注〕、是等の人を初として擧るに暇あらず。白石〔新井白石、名君美、字在中又錦屏山人と號す。幼名璵、勘解由(*原文「勘由解」)と稱し、幕府に仕へ、從五位下筑後守と爲る。─頭注〕の停雲集に姓名畧傳粗見へたり。伯樂が厩に凡馬なし、順菴の才德も奧床しく覺ゆ。白石詩艸の自註に、順菴の幼年より奇才の事及び一生の履歴等粗見へたり。
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白石の詩は、白石詩草(*原文「白石草」)・白石餘稿二ツの集あり。詩草には、朝鮮の學士及び長崎の書家高玄岱(*高天漪=深見新右衛門)が序跋あり。餘稿には、今の淸朝の翰林學士の序及び室新助(*室鳩巣)・高玄岱が序跋あり。その詩高華雄渾にして片言隻語も寒乞相(*みすぼらしい様子)に渉ることなし。大凡古今の詩人を歴選するに、窮愁孤獨の境を離れて富貴の相を得たるは此人に如はなし。徂徠と同時にして少し先進なり。故に詩は此人より開たりと云んも誣るに非ず。もとより仕途に就て經世を務としたる人ゆへ、一生敎授に預らず。故にその名を知ざるもの多し。且詩は此人の餘業にて、其才第一經濟に長じたり。最初白石布衣の時、順菴の推擧に因て甲府に仕ふ。程なく甲府公入て統を繼たまふ。 文廟〔文廟は六代將軍家宣公なり。初め甲府中納言と稱す。─頭注〕是なり。因て大に 文廟に信用せらる。 文廟も又經世に志あり。車服官名その餘諸の制度に至るまで預してその法定まり、既に諸矦の朝禮も車に乘じ衣冠にて徃還あるべき由にて、城中に先車寄を造らせたまひ、近年の内敎命下るべかりけるを、俄に 文廟薨じたまひぬとなん。然れども 文廟の世に諸々の法度前朝とかはれることは、皆白石の意より出たり。〔白石の經邦典例は、此改革の爲に作られしものと云ふ。─頭注〕數ならぬことなれども、朝鮮の三使の來るを來朝と唱へ來りしを來聘とし、或は代々の武家諸法度に儒醫僧家は制外とあるを、儒を去て醫師僧家と書せ玉ひたる類の如し。誠にいかめしき干戈の氣を去て郁々たる文國ともなるべきを、 文廟の薨去に因て一朝にその功を廢せしは大なる遺憾にあらずや。朝鮮の信使へのあしらひもこの御代ばかりは諸事大に別にて、饗禮にも雅樂を用ひたまへり。その時の白石の燕樂筆語(*朝鮮使燕楽筆語)、今寫本にて行はる。
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白石の弱冠の時、家貧にして書に乏し。その頃河村瑞軒(*瑞賢)〔河村瑞軒のことは、白石の畿内治河志等に詳かなり。─頭注〕といふもの書を多くたくはへたるゆへ、日々に其家に之て書籍を讀む。瑞軒も凡庸の人にあらざれば、白石の末賴母しき才智を知り、女を以て妻せんといふ。白石の曰、吾は只書を讀んが爲にこゝに來るのみ。彼ら如き鄙夫の女を娶るべきに非ずとて堅く辭せられたりとなり。〔此事白石の折燒柴の記にも見え(*原文「見ゑ」)たり。─頭注〕白石餘稿の附言を見るに、あらはに瑞軒とはいわざれども其事を載たり。大志ある人は尤さもあるべきことなり。
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白石の著述の書多くあれども、皆寫本にて行はる。其中軍器考は近來梓に鏤ばめたり。是亦有用の書なり。東雅などよき書なれども、寫本にて且卷數多きゆへ人毎に見ることを得ず。〔白石の著書、藩翰譜・奧羽海運記・畿内治河記・奧刕五十四郡考(*「刕」は「州」の別字。)・白石遺文・讀史餘論等、維新前上梓せり。─頭注〕
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因に曰く、蘭陵王入陣の曲は、假面を被り鐵鞭を以て入陣の勢をなせる舞なり。正德辛卯(*1711〔正徳元年〕)十一月三日、かの朝鮮使の饗禮にこの曲を奏せさせたまひしに、朝鮮人これを見て問るは、かの手に持るは何物ぞや。白石の答に籥(*笛)なりといへり。この曲の由て起る所を知ずして、詩經に所謂左手ニ取ルレ籥の籥なりと思へるならん。智者の一失なり。
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ある人予に語て曰、白石よのつね人を訪ひ又人に訪はれて物語りせらるゝに、煙管をとれば、さてこの煙管といふものは何れの代に誰が初て制したり、扇をとれば、この扇といふものは唐にては何れの世に誰が初めて制し、吾國にては何れの代に誰が初めたりといふやうに、その物々に從て出處來歴故事までを面白く説話せられたりとなん。博物強記の君子なること想ひやられたり。
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熊澤息遊軒〔熊澤息遊軒、名伯繼、字了介、又蕃山號す。通稱次郞八、後助右衛門と改む。年十六、始めて岡山に仕ふ。藤樹の薦に出たるとは謬りなり。と─頭注〕は藤樹〔中江藤樹、名原、字惟命、又頤軒・嘿軒と號し、與右衛門と稱す。近江の人。始て陽明學を唱へ、德行卓絶、近江聖人の稱あり。─頭注〕の高第の弟子なり。初め備前の岡山矦〔松平信太郎(*新太郎)光政〕學に志あり。その頃藤樹大儒のきこへ有ければ、禮を厚ふして聘せらる。藤樹は年老たるを以て辭してゆかず。息遊軒にその餘の弟子を添て岡山にゆかしむ。岡山矦息遊軒を尊重して大夫に上し國政を任す。凡吾國百五十年來の儒士皆屠龍の技(*無用の長技)にて、學び得たる處は行ずして一生を終る。白石といへども、十分が一も施し行ふことを得ず。その餘儒生の諸矦の國に仕るもの、皆閑官散職に投ぜられて文字訓故の顧問に備るのみなり。息遊軒の遇を得たるが如きもの一人もなし。岡山の政事には、今に其流風ありときけり。退居の後、著述さま/〃\あり。その學問は象山・陽明の心學より出て、孤峻なる學風なれども、全體度量豁大なるを以て、心法のみにも繋縛せられず、且經濟地理に練達せること、拘々たる儒生の及ぶ所に非ず。集義和書・同外書・喪祭論等を見て知べし。予又大學衍義といふ書を見る。この書は大學の中の治國平天下の別卷にて、國天下の治體のみを説り。經濟に志あるものは必見るべき書なり。元來孤軍なる心學より出たる學風ゆへ、政事にもけやけき事(*風変わりなこと)など有しと見ゆ。一二の非を執して其餘の功を廢すべからず。徂徠・春臺の經濟にも、暗に息遊軒が意を潤色せしことまゝ見へたり。〔徂徠與藪震菴書云、承問熊澤集書不佞未見其書。曾聞其人太聰明、蓋百年來儒者巨擘人才。則熊澤學問則仁齋餘子碌々未足數也。又曾て曰く、熊澤の才・仁齋の德・余の學とを合せて東方一箇の聖人を爲し得べしと。─頭注〕予が友に岡山に遊びしものあり。其物語に、岡山の寺院を見るに、息遊軒の頃の石塔は賤しき農工商に至るまで法名を彫ずして(*原文「しで」)、男子なれば何太郞・何兵衛が墓としるし、婦人なれば於八十・於淸が墓としるせりとぞ。蘐園談餘・爲學初問(*山縣周南)などに寺社を破壞したる由を大に謗れり。然れどもそれを見てその外の功を廢すべからず。總て人を論ずるには、その人の全體を能知て功罪を辨へずんばあるべからず。徂來の言にも、學問は仁齋、人才は熊澤、餘子は碌々取に足ずといへり。
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藤樹はもと近江の人なり。京都葭屋町一條邊に今にその宅地あり。ある時竹轎に乘て江州より京に到る。其道中にて竹轎に乘ながら轎夫に向て性善良知能の事を説話せられければ、心なき轎夫も落涙して悦びしとなん。實德の物を感動せしむる、此の如きに至る。賞嘆に堪たり。この門の學風、今は一向廢れたるやふに見ゆれども然らず。諸矦の國々には、代々家學を受繼てこの流を主張する人まゝきゝ及べり。ことに門風實學なるゆへ、今の世の浮華輕薄の徒に比すれば、彼は是より善といふべし。象山文集・王陽明の傳習録より出て、其家にて秘する寫本多く有り。それを逐々に學び得るなり。
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山崎闇齋は孔孟程朱の道の天下の正道にして佛氏の法の正道にあらざるを覺り、還俗して儒士となれり。其事既に前に見へたり。後又惟一の神道を吉川惟足〔吉川惟足(*原文「維足」)、初江戸の賈人なり。京都に上り、吉田殿に仕へ、其神道を傳ふ。─頭注〕に學び、伊勢流の神道を出口延佳〔出口延佳、伊勢神宮の神人なり。─頭注〕に學びて大に是を主張す。その頃正親町殿〔正親町殿、實豐卿なり。─頭注〕闇齋の門人にて神道を學びたまふ。闇齋風水抄といふ書を撰述して進めければ、正親町殿この書を 仙頭院〔仙洞、後水尾院にや。─頭注〕の御覽に備へらる。 上皇これを見たまひて曰、此書は貴重なる事のみにて容易の説に非ず。長く汝が家秘して妄りに人に示すことなかれとぞ。これより闇齋の神道を正親町流の神道と稱するなり。故に今も志あるものは正親町殿の門に入る。入門すればかの風水抄の中を彼是省畧斟酌して傳授したまへるなり。天人惟一の傳、土金の傳などゝいへる類の事なるべし。奧州會津などに闇齋學の弘まりしは、多くは神道を行はれたるなり。門人にも豪傑多し。淺見重次郞〔淺見正、綗齋と號す、初名順良、通稱重次郞、近江人。終身關東の地を踐まず。德川時代處士尊皇の先魁なり。著はす所十余種、靖獻遺言一巻あり。─頭注〕・佐藤五郞左衛門〔佐藤直方、字號なし、通稱五郞左衛門。備後人。一に號剛齋と云は誤なり。─頭注〕・三宅丹治〔三宅尚齋、名重固、儀左衛門と稱し、後丹治と改む。播摩の人。─頭注〕この外多くあれども、皆國々に分處し、或は仕官のものなどは其名廣くきこへず。右の人々の著述も亦多し。その内淺見は旁神道をまじへ用ゆ。佐藤と三宅は神道を好まざりしと見ゆ。人心面の如し。三人のいふ處各小異有て、其門人に至ては愈同じからず。淺見は大極博物にして文章も拙なからず。佐藤は文章拙く博覽の功もなし。見識は甚丈夫にして孤峻固陋の弊あり。その流弊に至ては、門人の中に終に陸王の學に陷るものあり。三宅は二子に比すれば後輩にて、闇齋の晩年の弟子なり。故に二子とは朋友にして、又敎育にもあへりと見ゆ。因て淺見と佐藤とは後には絶交なれども、三宅は身を終るまで二子の説を折衷して用ひたり。
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三宅の事に奇話あり。最初三宅氏學成て、出て阿部矦〔阿部侯は豊後守正武なり。常憲公の時老中たり。─頭注〕に仕へ、用人の職に進み、又轉役して世子の傅となる。時に世子弱冠にして時々葭原の花街に遊ぶ。三宅氏數々諫れども聞入れたまはず。且世子の近侍の中にも門人あり。ある時かの門生二人亡命して書を遺して曰く、吾師數々諫を入るれども世子きゝたまはず、剰へ吾々をも花街に從へゆきたまふ。是義に於て甚安からず。是に因て臣たることを致して去となり。その頃は 憲廟〔憲廟は五代將軍綱吉公なり。─頭注〕の治世にて、三宅氏も殿下に謁したる人なり。一たび 殿下に謁せしものは、大故有ても容易に放逐し難し。故を以て三宅氏も亦出亡せんことを慮り、急に密室に蟄居せしむ。三宅氏初の心は何とぞして自殺せんと欲し、やゝ日を經て思ふは、古の聖賢も幽執の中に書を著したまへる人まゝこれあり。いざや吾も書を著さんと心付たり。然れども筆墨を與へず。やふ々釘と葭とを拾ひ得て、釘を以て手指を傷り、葭をかみて筆となし、風寒に感じて鼻に淸涕を流す由をいひ立て紙を多く乞ひ、易説を工夫してこれを血書す。凡三百葉に滿りとなん。この故に別して易に長ぜしとなり。その後 憲廟薨じ玉ひて〔寶永六年(*1709年)正月、公薨ず。─頭注〕、三宅氏も獄を出して放逐せらる。猶江戸・京・大坂に居住することを禁ぜらる。もとより別號を尚齋といふ。因て吉田尚齋と變名して京地に居を卜たり。後又赦に逢て、終に本姓に復し、三宅丹治と稱す。老後に至て阿部矦の世子は執政の職に升り玉ひ〔阿部豐後守正喬、六代公の時、正德元年(*1711年)四月、老中と爲る。─頭注〕、三宅氏が舊時の忠を追憶し、一たび面して謝せんことを欲せらる。折境三宅氏出府せしことあり。終に接見して舊きを語りたまひしと也。三宅氏の傳は、述作の祭祀來格説の初めに山宮官兵衛〔山宮官兵衛、名維深。尚齋門人。─頭注〕が撰せる小傳あり。然れども此事の始末は諱て載ざるゆへ、こゝに詳にす。予が記する處は、三宅氏が門人蟹佐左衛門〔蟹養齋、名維安、佐左ヱ門と稱す。尾張人。─頭注〕が話をまのあたり聞及べり。
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京師に妖怪宅地あり。價を賤しふして人に借ども、五日或は十日を經れば必妖怪あらはるゝを以て、其人恐れて住ことを得ず。一書生あり。剛強の氣を負て、請てかの家に移る。妖鬼も其氣象に辟易しけるにや、二三月も害をなさず。彼書生の想へるは、吾鐵石の心には果して妖怪も怖れたりと。是よりやゝ驕惰の心ありしに、ある日夙に起て手水盤に向ひけるに、盤の内より毛多く肥たくましき隻手忽然として現出す。是より書生も恐怖の念を生じて、終に居を移しけり。其後久しく空宅となりしを、三宅丹治是を聞てその家に移る。丹治が僑居せる内は怪異もなかりしとなり。仲尼は已甚を爲ざる人なり。たとひ虚説にもせよ、左樣の處には君子の近づくべきに非ず。丹治謂つべし、中行に過たりと。
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闇齋の神道はもと主張せる程朱の理學と多く符合せることと見へたり。然らずして其理大に別なることならば、闇齋の氣象にて神道を學ぶことは有べからず。彼家の神道(*前出「正親町流の神道」)に、土金の傳といふことあり。つゝしむはつちしむなり、即土しまれば能金を生ずるの意なりと。是即宋儒の持敬・主一無適の説と合す。天人惟一の傳といふことあり。是亦宋儒のいふ所と合す。その餘も多くは此類の事なるべし。
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○淺見重次郞(*綗齋。前出)が門人に若林新七なるもの〔若林新七、初號強齋、後寛齋と改む。─頭注〕あり。能淺見の道統を繼で旗を一方に建つ。ある時濃州北縣に之て書を講ず。北縣に野狐あり、元正といふ。數百年を歴て能妖術をなし、又頗醫方を知る。艸野の民疾あれば、かの狐に啓す。やがて主方を書て與ふ。若不治の症なれば、固く請ども主方を與ることなし。かの野狐一人の老翁と變じ來て、日々講筵に侍り。面部に黑子多し。人の吾顔色を見ることを欲せざる樣子なり。新七は講後これに坐を與へて一再物語し、或は鼠の油煎して食せたりとなん。守鶴といへる狸のこと、人口に膾炙し、寫字も今に傳はれり。元正もその類なり。
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若林新七あるとき祇園祠に詣して和歌を詠ず。その歌に
千早振 神性たけき あらかねの つゝしみ深く すめる瑞籬(*みづがき)
これ彼家の土金の傳の意を以てよめるなり。
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京師の醫學の傳來。昭代に至て初め素問・靈樞を講ずる人なかりしに、|饗庭`あいば´東菴〔經脉發揮の作者なり。〕首として素・難(*難経)を講じ、其門人味岡三伯に至て愈盛んなり。三伯の高弟井原道閲・淺井周伯・小川朔菴・岡本一抱子〔岡本一抱子、名は爲竹、京師の人なり。─頭注〕四人あり。一抱子は楊梅瘡(*梅毒)を|疾`やめ´ること有けるゆへ、三伯師弟の約を絶せり。道閲は沒後その統を受る人なくして、知るもの寡し。今に道閲流の銅人形とて、まれに殘れり。周伯の家は其子孫今に業を受く。朔菴は堀元厚(*本居宣長の医学の師。)に傳へ、元厚はその義子元昌に傳へ、元昌物故して嗣子幼弱なるを以て暫く門衰へたり。芳村恂益は玄醫〔名古屋玄醫、字は閲甫、宜春庵と號す、又丹水子、京師の人なり。─頭注〕の高第にて、この門より起れるに非ず。これらの人々は皆|自`みづか´ら刀圭を取て人を療治せるに非ず。但素・難より宋元明の醫書を講ずるを業とせり。古林見宜〔古林見宜、字桂菴、一に壽仙坊、見宜堂と號す、名正温、播磨の人なり。─頭注〕・中山三柳・北山壽安〔北山壽安、友松子と號す。長崎の人。我邦に於て始て明醫の窩屈を出て長沙を宗とすと云ふ。─頭注〕・名古屋玄醫・香月牛山〔香月牛山、名は則眞、字は啓益、豐前の人。貝原益軒の門人なり。─頭注〕等の人々は學醫にして治療を專にせるものなり。述作の書を見るにも、學問を專にせると治療を要にせると、體裁同じからず。近時の古方家は又大に格別の事なり。一々に擧るに暇あらず。亦皆成書あり、就て見るべし。
閑散餘録 卷之上 終
解題(岸上質軒)
序(江村北海)
緖言
目次
巻上
巻下
跋(高文肅)