文會雜記
湯淺常山
(湯淺子誠・内藤耻叟校訂。岸上操編『少年必讀 日本文庫』第二編 博文館 1891.7.19)
※ 〔原注〕、(*入力者注記)。縦書き表示用
解題(岸上操)
序(宮田明)
巻1上
巻1下
巻2上
巻2下
巻3上
巻3下
文會雜記 六卷 解題
湯淺常山先生、服南郭(*服部南郭)の門に入り、東都の學者・文人と交ること廣し。故に其談話を記すもの、之を文會雜記と云。書中文事に屬する者尤多し。時に時政・逸事に及ぶ。皆當時の目見耳聞する所なれば信用すべきもの也。後人學者の傳記を修する者、皆之を採用するも、其當時の筆記にして虚傳なきを以て也。但し其体雜記のことなれば、重複無用のこともあり。今悉く本書に從つて改めず。流行の本誤脱甚夥しきを以て、今異本一二を得て之を校訂するも、猶補正することあたはざる者あり。類本皆同じく誤るを以て、今之を改訂するに由なければ也。讀者幸に之を恕せよ。
明治二十四年六月
編者(*質軒岸上操か。)識
(序)(*日本文庫には掲載なし。)
常山先生之敏ナル二于事ニ一也、職務煩劇ナルモ、偶得レバ二餘暇ヲ一、則チ訪ヒ二南郭服子ヲ一、且ツ與二親友・故舊一會集。乃至不佞如キレ明(*注─宮田明。)ノ者之話、悉ク記シテ而藏スレ之ヲ。其ノ奇佳ノ言、歴〃トシテ可シレ観ル。其ノ有ル三裨-二益於人ニ一者モ、亦復タ不レ少ナ。子誠淨寫シテ以テ示ス二於明ニ一。讀ムコトレ之ヲ數日、忽爾トシテ如シ下侍ツテ二先生ニ一而語ルガ上。感ズルレ舊ニ之深キ、不レ覺エ涕涙霑スレ襟ヲ。徃昔蔡中郎得二論衡ヲ一以テ爲ス二帳中之秘ト一。今也好事ノ者得バレ之ヲ、則チ不二啻ニ王仲壬之奇ニ一也、先生好學之至リ、片言モ不二苟クモ廢セ一。誰カ可ケンレ不ルレ起サレ敬ヲ焉哉。漫リニ書シテ以テ復ス二子誠ニ一。
天明壬寅(*天明二年〔1782〕)七月幾望(*十四日)
宮田明
常山先生之敏于事也、職務煩劇、偶得餘暇、則訪南郭服子、且與親友・故舊會集。乃至不佞如明者之話、悉記而藏之。其奇佳言、歴可観。其有裨益於人者、亦復不少。子誠淨寫以示於明。讀之數日、忽爾如侍先生而語。感舊之深、不覺涕涙霑襟。徃昔蔡中郎得論衡以爲帳中之秘。今也好事者得之、則不啻王仲壬之奇也、先生好學之至、片言不苟廢。誰可不起敬焉哉。漫書以復子誠。
文會雜記 卷之一上
備藩 湯元禎之祥 識
男明善子誠 校
一 寛延二年己巳(*1749年)己巳東役す。松崎君修〔松崎君修、名は維時、觀海と號す。─頭注〕曰、徂來四家雋(*韓柳李王詩文選)を作りて(*原文「四家を觽作りて」)、彌右衛門(*太宰春台)はよく書を精細に見る者なり、改めよとて見せられたり。春臺即點發(*てんぱつ─漢字の四声を示すために四隅に施す圏点。圏發。)などの誤りたる所處々につけ紙(*付箋)をして戻されたり。徂來見て、彌右衛門は讀書かやうにて精細なると思ふや、彌右衛門が見をとしたる所いく處も有とて、處々に付紙を自からして春臺に見せらると、君修物語にて、平子彬(*三浦竹渓、名義質、字子彬、通称平太夫。徂徠門。)云けると也。〔子彬、俗稱三浦平太夫、初峽侯(*甲斐侯=甲府藩主)吉保に仕へり。〕
一 春臺〔太宰春臺、名は純、字は德夫。─頭注〕曰、經濟のことさまゝゝ云とも、畢竟老子などは禮樂をすてたるにあらず、禮樂で治められぬ時をしりて、老子の一道を説出せる也。されば、吾も詩經解きをはりて後に老子の注をすべしとて、兼々いはれしが、老子の注十八九章出來し比物故せられしと、君修の物語なり。
一 神祖遺事(*『烈祖成績』)は安澹泊(*安積澹泊)の著述なり。深く秘するにや。澹泊は大に博識の學者なり、然れども文章は如何、をぼつかなし、遺事中に首實檢と云ふことを備首級と書れたり、供とは云はるべきが(*原文「云はるべきや」)、備とは云はれまじと云こと、岡田彦右衛門〔岡田は守山侯の臣也。─頭注〕(*守山藩家老兼山岡田彦左衛門。安積澹泊門。)が物語聞たりしと。されば、南郭も本書は見られざるや。序は鳩巣(*室鳩巣)の書れたると、南郭語られける。
一 徂來の政談は稿を焚れたるなり。 有廟(*有徳院徳川吉宗)へ獻ぜられたる書なり。春臺も見られざる由なり。君修の説に、來翁も春臺をばしかとしられざるや。一生さほど氣に入らぬやうにて過られたりと也。
一 壽門松(*ねびきのかどまつ。八文字屋自笑『忠孝寿門松』か。)の文章は小宮山木工之進〔幕下士〕〔小宮山杢(*原文「歪」)之進、名は昌世、字君延、號謙亭。─頭注〕(*享保中、幕府天領小金・佐倉代官。稲葉迂斎門。)かゝれて、李江晋と作者名をせられたり。李の字の中に木の字あり、江の字の中に工の字あり、晋は進の聲(*音)をかりたり。甚□用(*原文一字不明とする。入力者架蔵本朱書に「器」とあり。)の人なり。故ありて春臺は交たゝれたるとなり。
一 土凖夫(*土屋縄直〔ただなお〕。上総久留里藩二代藩主土屋利直孫。太宰春台門。入力者依拠本朱書に「号琴臺」とあり。)一字は勘解由、號曲江、祿千石御書院番なり。名節の極て高き人なり。春臺の病中にも日夜つきそひ居たまひ、棺槨のせは、小歛(*小斂。儒葬で遺体を整え、布でくるむ礼。)などは大ぶろしきの如くからだを包むやうにしたるをも、凖夫の人にぬはせられたりと也。
一 東周列國全志と云俗語の書に候(*入力者依拠本朱書「に候」を「二帙」と訂正。)乾隆中に著せる。書林の前川携來。三國志演義の如き書なり。百回(*百八回とも。)あり。春秋戰國の事畧をつゞりあつめたるものなり。
一 春臺は書を校することきはめて精密なり。史漢左傳の類、悉和讀要領の通りの點に直されたり。皆ごふん(*胡粉)にてすりけしてあり。一畫のちがひ・片かなの一畫にても改たゞされたりと也。されば、會業(*輪講)にて讀書甚くはしくなりたるとなり。君修話なり。
一 君修が與島大夫書とあるは、島助次郞と云人なり。詩は極て器用なる人なり。子式〔子式は高野蘭亭のこと、名は維馨、又東里と號す。─頭注〕も君修が一生の力にても島氏には追とゞきがたきと也。家老ゆへいそがしく、今は廢學せりとぞ。
一 水戸の大日本史は神后を后妃傳に下し、大友皇子を帝紀に立たまふと、南郭目録をば見られしと語られけり。
一 春臺、徂徠に與て豫侯〔豫侯は本多伊豫守なり。漪蘭臺滕侯(*藤侯か。本多氏が藤原兼通の流れを汲むことからか。)是なり。─頭注〕(*本多忠統)をしかりたる論書は、いまだ來翁の方にゆかぬ内來翁物故せられたると也。
一 徠翁其外も林希逸(*南宋。字粛翁、号鬳斎、又竹渓。『老子鬳斎口義』、『荘子鬳斎口義』、『列子鬳斎口義』等。)が老莊解はあしゝと云り。金華〔金華は平金華なり。─頭注〕(*平野金華)獨がひそかにさゝやきて、必希逸があしきにも非じと云り。君修に予、希逸が解さのみあしからじと云し時、右の如く金華の咄を君修語れり。君修も云、希逸が解議論をのけて文字はよく解したり。希逸にて老莊は解すべしと思へると君修は云へり。
一 松崎子允〔子允は君修の父堯臣、字は子允、觀瀾と號す。─頭注〕の説、琵琶湖の景日本の景なり。さつた嶺(*薩埵峠)より海を望るけしきは唐景なるべしとなり。
一 南郭〔南郭は服元喬、字子遷、芙蕖舘と號す。─頭注〕の云、育才あまりせはやきたるはあしかるべし。あるまゝに精出させて、ひとり進むやうにしてよかるべしと也。君修云るは、文章䡄範(*文章軌範)は極めてよくえらみたる書なり。初學の士には必ずみせならはすべき書なり。
一 南郭云、長門(*山県周南)の詩は極めてそまつなり。長門は一風ありとをぼゆ。精密なる學問はなし。すべて西京にも精密なる學問なし。輕浮なる土地なるゆえなり。吾社中の今の才子、皆きはめて精密に心を用るとなり。大内忠大夫(*忠太夫。大内熊耳〔余熊耳〕。徂徠門。)が文は于鱗(*李于鱗〔李攀龍〕)が法を、力をきわめ思をくるしめて悟得たるゆへ、きはめて于鱗に似たり。于鱗流の文、忠大夫ほど李に似たるは少しとなり。
一 君修云、太史公が書を見るに、軍のこときつたりはつたりと云が精しく見へず。司馬遷は前漢にても高祖の世を去ることよほど遠き故、きつたりのこと詳にしらざる也。それより後の史實録に日本の軍物語の如きことかつて見へず。是はいかなる故にや。文人は武事をしらず、又武功をばそまつのことと思へる故にや。きつたりはつたりの業の見へたるは左傳のみ也。左丘明は其時分文武いまだわかれぬ内ゆへ、直に車に乘りて軍にも出られたる故かと云り。面白き説也。
一 君修云、士にはとかくに武藝に精を出さすべきなり。ひろく世の人を見るに、武藝を好む人は人がらのあしき人はすくなし。學者は大かたは人がら惡しかりき。學問する人の中に、偏くつなる人は迂遠になり、才氣ある人は放蕩の文人無行と云やうになる。軍法者は片くななれ(*頑ななれ)ども、人がらは學問したる人よりは大かたはよき者也と云り。
一 徂來は才を愛すること甚しき人なり。水足平之進(*水足博泉、名安方、字業元、通称平之進。)が十六歳にて書牘を徠翁にをくれる時、それを見て悦べること甚し。竹溪(*三浦竹渓)がゆきければ、水足のことを云出して、さても珍らしき者なり、大事の物なればとて、其文をとり出し見せられたるに、文字にも顛倒ありと云しかば、徂來色を變じて、左樣なることを云ぞ、顛倒などは年のゆかぬゆへあるはづのこと也、それが何の妨になるべき、此見識の勝れたる、誰か立及べきとて、くりかへし/\ほめられたりと也。〔徂來の賞する所、見識に在り。〕
一(*原文「一」脱。) 宋儒已來書物を注するに、是非ともにすます料簡なり。其中に朱子は、しからず、未詳、又は闕疑など云ことを云をかれたり。實躰なるをやぢなりと春臺云ける、と君修かたれる。又朱子は古書をよくみて、古書にも手を下したり。二程(*程顥・程頤)などは曾て古書のさばきなし。朱子の門人より古書はよまずして古書をばみごとさばくと心得られたるゆへ、學問大にをとろへたりと覺ゆ、と君修の説也。
一 君修の云、春臺は博識なれども、古書にきはめて精密なり。東涯は古書には精密ならねども博識は大に春臺にこへたりと覺ゆ。來翁は博識なれども、後世の書はさのみ精しからず。それゆへ論語徴に古書をひかれたれども、後世の書の説の自分の見と合たるもあまたあれどもひかれず。これ後世の書をばさのみ見られぬなり。只むつかしくすみにくき書をよみくだくことすきにて、戚南塘が書・武備志・明律など、人の中々得よまぬものをとかれたり。
一 春臺の文はとかく王充が論衡、又は潜夫論など云やうなる體にて(*原文「體手」)一てい(*一体)にて理を云とりたるにて、西京の奏議・上書などやうなる文をよしと云れたり。それ故、文を書に深く沉思せらるゝことなし。多くは夜六つ比より四つ比まで(*午後六時〜十時頃)の内一篇を書て、さのみ直されたることなし。それゆへ擊節の立つやうなる面白ことはなし。只ありのまゝに云のべたるまでのこと也。常に西京の文を至極よしと云れたる故、後漢文の如くなられたるか、と君修云り。又春臺は古文辭家には套語を多く用ると云はるれども、李が文には套語さのみ多からず。
一 南郭はもと歌人なり。歌と畫の藝を以て故甲斐矦吉保に仕られたり。それより詩を學び文をかきて徠翁に從ひたまへり。それゆへ和書はよくよみたる人也。
一 徂來の方へ藪久左衛門〔細川侯の臣〕〔藪震庵─頭注〕ゆかれたる時、初て相見て、そなたの學問は大かたなみ/\ならぬこと也と云て、其次に足下は西海にそだちたる人なり、先づ舟軍をば如何してしたまふべきと問れたると也。晩年は來翁如此軍法すかれたると君修聞たりと語れり。
一 南郭云、子謙〔子謙は莊子謙、名は允益、南郭門人なり。─頭注〕(*荘田豊城、通称平五郎。)の春秋世系(*『春秋世系図』)は色々今ある譜牒を合せて考たるものなり、其中に子謙も殊の外いそがしくなりて、打込てをきたるとて成就せぬとなり。
一 白石〔白石は新井君美なり。─頭注〕の著せる東音譜は、國字の音を譯言して音をつけたるものなり。
一 孔安國が書經の注はいろ/\説もありて、安國にてはあるまじと云、いかさまにも何とやらん心得がたきやうなりと君修も云り。又君修云、春臺は古書の分はなににても信仰あれども、家語などの内にもきと慥に孔門の後に附會にやとをぼゆる處もありと思はるゝなり。
一 書の會讀すると云こと、中華にては决てなし、と并子叔いへり。君修の云しは、中華の人學問は多く産ありてする。日本今の學者は舌耕して産とするゆへ、會讀などせねばならぬ勢もあるなり。又會讀にて書の見やう格別精くなるべし。
一 于鱗が文は如何よき文なるべきや、とかくに面白くなき文なり、と君修の論なり。又春臺讀て于鱗文はきこへぬことなり、と君修の論なり。
一 春臺の春秋三家異同は唯三傳の文字異同を校したるもの也。外に春秋擬釋例と云ものあり。伐國例又は弑君例と題目をあげて注疏などをひきたるもの也。少し出來かゝれり。外に左傳の内のことなどをひきたる物あり(*原文「物なり」)。春秋暦などをとり合せて一書にしたて、春秋經の注出來るつもりなりと見へたり、と君修語れり。
一 君修云、國初の治、 東照宮(*原文「官」)の御遺訓を見るに、全く老子の無爲の道に近し。 台德、 大猷二廟の比の大臣の議論も全く無爲の道なり。戰國一とたび治りて大平(*ママ)なる比なれば、さもあるべし。 嚴廟(*厳有院家綱)の時は禮制せらるべき時なるべきに、學才ある大臣なくてをしきこと也。
一 君修云、春臺は物をきはむることすき也。今(*入力者依拠本に「人ヲ」とあり。原文は漢字カタカナ交じり文なので、この読み方か。)會釋にも、とかくちよと逢時よりこれは此位の會釋にすべき人と云格を定めてかゝる類なり。書を讀るゝには、朝起て先國字の書など見、又は人の見せをきたる詩文をよみ、又校正の書をなし、又會業の下みなどをし、色々せらるゝゆへ、倦つかるゝことなし。夜は必四つ時にねられたると也。其言行きはめてをりつめて實儀なること、北宋の人物司馬温公・范文正公などに似たると也。行状書に及に、とかく小學の嘉言善行に入べき人のやうに覺ゆると也。
一 君修云、日本今の士の行儀かたく、紀律のりつぱになりたるは、昔より大にまされり。源平の時の士は、風流なるもあれども淫奔などの類さま/〃\盛衰記・太平記などに見たる(*原文朱書「見へたる」)。たゞぐさなることあり。今の世の中は中々左樣にはなし。これは戰國の時信玄などより打つゞき戰國にて、神祖の御世になりても人の氣遣物を氣つけ、まけじをとらじとする所より行義かたくなりたると覺ゆ。〔德川氏の時、士風の正しく禮儀を守る樣になりしは太平の餘澤なり。又文學の行はれたるが故なり。─頭注〕されば、戰國の士よりも士の風俗格別今はりつぱになりたりと覺ゆと也。〔禮文具修してよきことなり。然れども、亦文弱の弊を生ず。〕
一 君修云、于鱗が古文序記などにはよかるべし。碑誌傳の類、古辭をかりて今事を云ゆへ、不つりあいなることをも書て、何とやらん實事もうそと覺ゆるなり。然れども碑誌の類は甚韓退之にをとりたるなるべし。又韓退之の碑文多くは大臣・官人の事跡なり。于鱗は人に出あはぬゆへか、町人・百姓の碑傳をかきたるゆへか、存の外面白き事蹟なき歟と云へり。
一 君修云、六經は何とも手を下すべき樣なし。これは先漢儒專門の學の如く、六經を中にをぼへてよかるべしと也。これも至極の確論なり。
一 紀効新書(*戚継光)は徂來の跡にも書なしと、荻生七之亟(*丞か。)云り。此書公儀より徂來に校合を命ぜられたる時、とくと見られたると也。但し武備志(*茅元儀)に出たるにて、戚南塘が法の大意見ゆべしと也。
一 明律を讀て大に日本は中華と風俗の異なるをしれり。律にある所の罪を、日本の人などはをかす人曾てなし。されば中華人は日本より見ればちとだゞくさなる(*しまりがなく、乱雑な様。)と覺ゆ、と君脩の評なり。
一 徂來は浮腫煩て死去なり。春臺はかく症(*膈症。胃癌・食道癌の類。)なり。南郭は大に養生のよき人也と君修云り。
一 春臺は殊の外に字書をたゞされたり。字彙・玉篇・韻會を以てせられたり。其内字彙字をたづぬるによしと云り、と君修話なり。元禎云、徠翁のもたれたる四部稿の内一册ちらと見たるに、上に書込あり。正字通を專に引れたり。
一 君修云、朱子は意地のわるきをやぢのやうに見ゆれども、情こはくありつらめども、今の古學の古書を證にして論ずると云ことを聞せましたらば(*ママ。「聞せたらば」等か)、いかにも心服せらるべき也。天理人欲の沙汰こそ止むまじけれ、いかにも自分も古書をとりて論あるべし。むりにかざりつくろひて人をあざむくの生れつきとは見へず。その處は徠翁よく朱子に似られたると也。
一 墨子城制の處は春臺にもよめずして、付紙をして置れけると也。君修云、管子は戰國の人の擬作なるべきが、(*この間に、原文朱書書入「左傳より文がふわ付たると覚ゆ。」とあり。)左傳よりも又古き筈なるに左なきは擬作なるべしと思はると也。
一 神祖の比の大臣本多正信など云類・其外の諸將たちを中國人にくらぶるに、西漢の初比の人物に似たり、と君修の評なり。
一 人物を論ずるに、三代は云に及ばず。春秋の人物一品なり。戰國の人物一品なり。西京〔西京とは前漢の世をさす。─頭注〕の人物などは學問なき人も用にたつ人多し。東漢の少學問はやりて、二十八將の中にも學問ある人あり。又東漢の中比などは、學者と用に立つ人とにはかに分れたるやうなり。六朝は人品をとり、又學問もむたと(*「むざと」か。)四六斗りかきちらしゝかど、經書などは(*原文朱書「見ず。」を挿入する。)見るとても只四六の用交る(*原文朱書「交」を「立」に改める。)ことのやうになり、隋唐より科擧をこり、學問も人物も一變せり。宋は一風ありて、理窟を云はり(*いひはり)、をりつめたると云やうなるにて、北宋の諸君子一体。南宋の人物に又一變せり。元は云にたらず。明も中頃空同(*李夢陽)古文を唱へ、陽明道學を云り。學問又大に變ぜり。又明の季にいろ/\の學者出たり。古今學變如此、と君修の論なり。
一 嚴廟は埀拱無爲の君にて、下馬將軍と云れたる酒井雅樂頭殿〔雅樂頭忠淸。─頭注〕に何もかも任せられたり。 憲廟(*常憲院綱吉)即位にて、越後の騷動を决斷ありて、雅樂頭殿職を削て死去なり。實自殺せられしと云。 上使を以て尸を撿せんと云とき、雅樂頭殿の聟藤堂和泉守殿と松平紀伊守殿と云はりて、病死無レ疑、兩人が身上にかけて僞あらずと云れしゆゑ、別條なく尸を撿せずすみたる、と君修の話なり。此雅樂頭殿甚不尤なる人(*人を尤〔とが〕めない人物)なりと云へり。
一 君修云、孔門の諸子皆々自分の生れつきにて、存寄を一かまへ一かまへにて(*各々一家の考えを持って)、人にかゝわらず。これにてわざを思ふやうにせんと云志なり。それゆえ、孔子の諸子の志を問たまひし時、色々のことを云出したり。後世の學侶とは大に異なり。
一 子式(*高野蘭亭)の詩は、萬に及べし。但諸体不レ具。古樂府などは何もなき也。
一 君修云、縣次公・滕東壁(*原文「東璧」)〔縣は山縣周南のこと也。滕は安藤東壁也。共に徠翁門人。─頭注〕など云才子に守城せしめたらば、恐は朱子の門人黄勉齋(*黄幹)等には及まじ。わけは朱學の理窟、たけき面にはふみつめたることは及がたき程なり。いかにも徂來の學問聖人の道には叶へ(*ママ)けれども、あしく心得たらば法度・仕置とらまへ處もなくなるべきこと也。
一 南郭己巳(*原文「已已」。己巳は寛延2年〔1749〕。)の春、氣色快くあられて後、某が見廻(*三囲稲荷神社か。)で題壁の詩を作りたるを和せられたる詩、寒盡還蘇病後身、江東花鳥逐二靑春一、誰知張翰杯無レ恙、轉自二生前一混二酒人一。(*「君不見、呉中張翰稱達生、秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒、何須身後千載名。」〔李白「行路難」〕)
一 赤穗四十六士のこと、佐藤五郞左衛門直方評判は、仇を報ずることをせずして居る料簡なり。とかくに赤穗矦の死は毒を食て死したまふ如き類也。たれを相手すべきやうなしと云へり。又聖賢生じたまはゞしかたも有べしと云り。長澤純平も議論あり。(*巻一下参照。)
一 京師の神職羽倉齋宮(*はくらいつき=荷田春満)弟子兩人、羽倉藤之進(*東之進)〔羽倉東之進は荷田春滿(*荷田在満の誤り。)なり。─頭注〕・岡部三四(*そうし)なり。加茂眞淵(*賀茂真淵)と稱せしは則三四のことなり。三四は和歌の躰をよめり。右衛門督君〔田安宗武君のことを右衛門督と云ふなり。─頭注〕は殊に和學に長じたまひて、朝廷の典故に熟したまひ、三四を愛せさせ給ふ。藤之進も田安公の俸を賜りし後、俸をめし放されし(*ママ)と也。
一 正木のかづらと云和歌のことを論ぜしは、莊内の人酒井左衛門尉殿(*酒井忠徳〔ただあり〕か。)の家人久米五郞兵衛と云人の作なり。
一 南郭の料簡は、とかく治道も老子の流しかるべしと思へるにや、或時語りて云、先王の禮樂をつくり給へるも治平になさんと思召たるゆへ也。然るに今太平なれば、もはや禮樂にも及ばぬことなるべしと云れし、と君修の語なり。
一 徂來の學則の第一則は、徂來の著書付て額にしてはりつけて有り。春臺などの相見の時はや如此なり。それを段々に字を直されたり。後の數則は、一同に出來たると也。春臺も學則の第一則は眞の古文なるべしと云れたるとなり。又君修云、日本にて眞の古文と云は、學則の第一、又は南郭集の中に少しあるべし。三稿に見へたる長門矦の關東川ざらへの碑〔毛利家にて利根川川浚の工事に助工を命ぜられたるとき、南郭碑文を書きたり。─頭注〕などの類、眞の古文なるべし。南郭の文も不レ李不レ王別に古文の一体、面白く書なせり。詩は海内に又此類あるべからず。子式が詩の絶技なるも、日本の獨歩と稱すれども、又南郭には及がたきこと也。文は眞の古文と云もの、南郭集に少々あるべし。近比になりて、熊耳(*大内熊耳〔余熊耳〕)・鵜殿主膳(*左膳か。鵜殿士寧。南郭門。)の文眞の古文辭と云べし、と君修の話なり。南郭も士寧・子綽(*大内熊耳の字。)の二子は于鱗流の古文なりと云れき。
一 詩書古傳〔詩書古傳はよき書なり。─頭注〕は三十四卷あり。西京までの書三十四部より詩書をひきたる所をぬき出せり。後漢の書はとらず。春臺も甚古傳には骨を折られたる書となり。十八卷已下は大幸(*原文「大津」を朱書で訂正。)伴十郞淨寫せしとなり。
一 汪伯玉が文はとかくは(*原文「きかくは」を朱書で訂正。)面白なし。それを元美(*王元美)などめつたほめたるは如何なることにや、心得がたきことなり、と君修説なり。
一 神祖の海内を治め玉へる、治平百年、これは三代にもまさるべきなり。夏禹王の御子啓それより程なく亂れ、殷は未レ詳、周は文武成康とつぎたれども、昭王南遷して歸り玉はず。日本の今の治平は大に夏周にまされる体なりと思はるゝ(*ママ)、と君修の論なり。又日本の公家の昔の体とかく唐を擬せられたる物ゆへ、比叡山へ御幸ありて亂を避たまふと云やうのことも、玄宗の蜀へ幸し、德宗の奉天へ幸したまふまねのやうに覺ゆとなり。
一 南郭、謝安に似たる人なり。喜怒色にあらはさず、人にかまはず、我物ずきを立られし人なり、と子式の評なり。君修云、日本近來の學者皆酒量あり。仁齋は其中下戸(*上戸か。)なり。東厓(*伊藤東涯)も上戸なり。闇齋・淺見重次郞〔淺見安正、通稱重次郞。─頭注〕(*浅見絅斎)も上戸なり。徂來は下戸、南郭・春臺も上戸(*下戸か。)なりと也。
一 大高坂淸齋〔大高坂は芝山と號す。─頭注〕は松浦肥前守殿招し所の臣なり。此人適從録を著す。仁齋を誹れる書なり。
一 日本の古の日本紀などは編年の体にもあらず、史の躰にあらず、實録の躰ゆへ面白きことなし。水戸の日本史(*『大日本史』)は近頃出來たり。これは本紀・志・列傳をわけられたると也。
一 明律、瑣言・小言など云注さま/〃\あり。釋・筌と云もの、かながきの如くくわしく解したる物にて、をびたゞしく冊數あり、と春臺云れたると也。會典よめがたき故、律すみにくき也、と君修の説なり。
一 仁者心之德、愛之理と云やうなることを徂來も仁齋もとやかく云てはりあひ、せり合せらるれども、何の用もなきことなるべし。神祖の御遺訓に下を治は慈悲と云一言にて安民の道も叶べし。然れば經術と云てめつたに骨折も、隙にまかせて云ことなるべし、と君修の論なり。〔此論面白し。─頭注〕
一 武家の今の治めと云は、韓非がゝり(*原文「くゝり」を朱書訂正。)のこと多し。尤も刑罰の刻薄なるにはあらねども、ひしぎ付て下よりとかくを云はせず、上より云出すことなれば(*原文を朱書「あれば」と訂正。)請さすると云やうなることは、韓非子の數に似たり。又制度をきつとさだめられぬは老子の道に似たる所もあり、と君修の論なり。
一 本多佐渡守正信などは、陳平・張良などのゆきかた也。本佐録と云物一卷あり。少し學問もありと見ゆ。但し人の服せぬ人なり。酒井雅樂頭殿忠世なども正信と同く武功は何もなき人なれども、(*此は)人の服したる人なり。それは其人の器量によれるなるべし。又、 神祖の天下を御とり成れたるは、唐の太祖ほどのことなるべし。漢高祖・後漢光武・唐太宗・宋藝祖(*宋太祖趙匡胤)など同じ開國の君なれども、高祖・光武尤勝れたる人なり。其中太宗(*原文「大宗」)などは容レ諫こと得ての人なれども、眞主にはあるまじき樣なり。後漢光武などは諫をこばみ、怒り玉へども、何とやらん人品よきやうなり。藝祖尤をとり玉へる歟。又太宗の英武は大にすぐれたれども、兄を殺し、内行もすぐれたまはず。神祖已來の列君皆三綱甚正し。これ中華の天子の及たまはぬことなり。〔三綱甚正しきことは、德川氏三百年の治をなす基本なり。─頭注〕
一 神祖已來きつとしたる制度と云ものなし。三奉行(*寺社奉行・町奉行・勘定奉行)して天下をきりもりすること、あまりそまつのこと也。小宮山木工之進(*小宮山謙亭)の評判に、御當家の政は庄屋じたて也。大庄屋・名主・年寄とて三職なり、と君修の話なり。
一 子允の論に、風俗を害するものは豐後ぶし・常るり(*浄瑠璃)。學者を害するものは世説の風流過たるなりと云り。〔世説の害を論ずることは、支那人もいふこと也。─頭注〕
一 淫心を動かすものはかなしみの聲より引動す物なりと春臺の云れし由、君修の話也。
一 謝榛が詩に蟋蟀夜寒揚子宅、芙蓉秋老習家池と云詩、其きり/〃\す揚子が宅深切ならず、をかしき物なり。然るを白石變化し來りて菡蓞花嬌西子宅、鷓鴣聲怨越王城とせられたる、殊に面白きこと也。桂山義樹(*桂山彩巌)それをにせて葡萄酒滿靑金帳、菡蓞花披白板橋とせられたる、又大にをとれり。又桂山はもと白石の詩をしたへり、と君修語れり。
一 左傳の文に春秋の例と云ことはあるまじきこと也、と君修の語なり。
一 君修云、今の世上の詩は皆蘭亭流(*高野蘭亭)なり、南郭流にはあらず。南郭詩は手がかりなりにくきゆへ、子式の明詩の風世に行はるとなり。又子式は是非ともに于鱗が順德太守たる時までの格を一生守るとなり。それゆへ隨分りつぱに句法をたてたると也。又五言律の韻ある句に上〔●仄○平○平●仄○平〕如此第二字平の時第一字仄なることは絶てなきと、子式はよく覺えてをられたり。又唐詩・明詩などかたはしにくりて見られたるに、とかく二字ともつゞきて平字也。南郭はいくらも古人の詩に第一字仄字なるありとて、自分詩にも其通りに用られしとなり。
一 校尉と云こと、組頭に君修用たり。南郭は副帥(*原文「副師」を朱書訂正。)しかるべきと云れたり。これは字を新たにこしらへて名をつけたる心なり。
一 律詩を作るもの、瀛奎律髓必見るべきことなり。宋元又は晩唐の詩を于鱗は染直して出せる多し。若使二紅顔一偏拔レ冕と云、公道世間唯白髪、貴人頭上不二曾饒一と云、三体詩の中にある晩唐の句を染かへせるなり。其外多しと子式の説なり、と君修の話也。
一 君修云、鄭玄は文は下手なるべし。それゆへ諸注をなせるは却て奇なるやう見へたるならん(*原文「ん」ナシ。朱書により補う。)と也。
一 徂來は初名は世上にさのみ聞ず。蘐園隨筆刊行已後世上に名を廣く稱せられたりと也。
一 通雅〔通雅は方以智と云人の著編なり。─頭注〕は其まへは甚だ希にて金三十兩ばかりの價なり。某の所藏を春臺も借りよみて處々抄出せり。寫本世に出て大に價を减ぜり、と君修の話なり。
一 孔子家語を刊する時分、八十兩入たると也。紫芝園稿(*原文「稿」ナシ。朱書と後文により補う。)刊するに金百兩入用なり。水羽卿(*ママ。出羽國庄内藩家老華陰水野元朗。)〔水野羽卿(*原文朱書「羽」を「明」に訂正し、「元朗字明」とする。元朗字は明卿、原文朱書では本文「羽」も「明」に直す。)、庄内の家老なり。─頭注〕三十兩ばかり庄内よりこす(*「おこす」か。)べき筈なりしに物故せられて半分ばかり來れりと。紫芝園稿は五百張(*版木の単位か。一枚四丁張という。)ばかり、二十卷ありとなん。詩書古傳は此次に刻すとなり。
一 徐中行(*号天目山人)天目集(*『天目先生集』)は甚すくなし。唐本一冊あり。靑蘿舘詩集(*沢田東江『青蘿館集』。青蘿館は東江の号。)より少し多き位なり。極て精選したるもの也。子式持居られて、いづれやらん諸侯へ進じたるとなり。
一 于鱗が少方伯□(*原文一字不明とする。)月詩三首、其第一首至ておもしろし。第二番月の詩の結句など、搦華玄經若レ有レ神、大に月のことに深切ならず、句も面白くなし(*原文「面白けなし」)。いかなることやらん、合點もゆかず。作りかねてせん方なく作りたらめ(*ママ。「作りたるならん」等)、と君修の話也。
一 李王の詩を比視するに、格別の上手・下手なり。李が郡城樓に上りたる詩に、使君盃酒郡城樓、倚レ檻登臨落日愁とつくれり。王が使君盃酒一登樓、倚檻蕭條落木愁と作れり。同じやうなれども、一登樓と云一の字うれしからず。蕭條之字跡よりついたるやうなりと也。
一 朱子は同時にて、張南軒(*張栻)・呂東莱など皆朱子に屈服せられたるに、陸象山ひとり服せず。鵝湖の大極の論(*鵝湖の会。朱・陸の論争。)も、象山の云分ん甚尤に覺ゆ。朱子も陸象山を勁敵(*原文「歒」)と思はれたるやうすなり、と君修の話なり。
一 古人は多く自分の材を是ほどのことはなすべきと云ことを定め置てとりかゝりて、專それを修たり。孔門の諸賢皆其通りなりと覺ゆ。それより已後、漢の賈誼など不幸にしてわざをなさずと云ども、上䟽の内に書たるほどのことはなすべき也。韓信が高祖にときて天下を定め、武矦(*諸葛孔明。諡忠武侯。)の天下三分のことを先主に云たまへる、其言の如くなしたり。武矦も平生艸盧の中に打ふしてをられたる内、今亂世なればもし出たらば天下を三分にすべきと云ふことを工夫して居たるならめ。それより已後大かた理窟ばかり云て、自分の材の其口状の通しなすべき程をつもらずと見へたり。近く今に在りて云、春臺などもとかく經術を治むべきと云見識を胸中にたくはへて、何をするも皆經術の爲にするなりと見へ、南郭なども徂來に學びかゝりたる時より、古文と詩にて著述不朽の名をなさんとつもりたると覺ゆ。それ故、先見識を定てこれほどのことをなしをほすべきと云つもりをせざれば、學問風を捉む。こゝの所早く見識を定むべし。又于鱗なども、我は古文のよめぬ流を出すべしと云、又元美が變化自由の文をかゝんと互に云合せこそしつらめ。又七才子(*明七才子=李于鱗・王元美・梁公實・謝茂秦・徐子與・呉明卿・宗子相。)皆走徒(*ママ)にあらず。然るに同調の詩を作ること、皆云合せられたると覺。其中に元美など才博に過て少し見識定らぬゆへ、色々變じたるやう也。又木下順菴門下の人にも、榊原玄輔(*榊原篁洲)・白石兩人に(*原文「を」を朱筆訂正。)志を順菴問れしに、二人口をそろへて天下有用の學問をなすべき由を云たり。玄輔は律學、白石は日本の典故に明なる學問をせられたり。是等もこれほどのことをなすべきとあらかじめつもりを定めてとりかゝられたりと覺ゆ、と君修の話なり。
一 杜律邵夢弼(*邵伝。『杜律集解』等。)の注あしきは勿論なり。全集に集注と云ふあり。和刻にあり(*『杜工部七言律詩』〔元虞集注・杜律虞註〕か)。注に故事を出し、中々よく覺ゆ、と君修の説なり。
一 長谷川如辰云、主馬〔主馬・洞雲、何れも狩野家の畫師なり。─頭注〕が畫至て上手なり。然ども少し格ちがいを書たり。洞雲はよはき畫なり。雪舟前已の畫は皆から畫をかきたり。雪舟などは至てするどく實なる畫なり。それゆへ筆けしやう(*化粧=外観だけを飾ること、か。)らしきこと曾てなし。今の世は(*原文「に」)皆よはく書てうすき畫なり。又云、秋月(*秋月等観〔高城秋月〕)は雪舟弟子の内にて至極の上手なり。探幽畫も採幽齋と書たる時の畫は成程よし。それを過て老年の畫は唯しやれたるばかりにて、大にあしゝ(*ママ)。今は皆其あしき處を學ぶ故、いよ/\下手になりたり。又狩野に畫の傳授あり。其傳授をしれば何にても書るゝ也。龍には大にかねあひあるもの也。又土佐家には繪のぐのこしらへ別なり。今の狩野家にてもこしらへければ出來れども、大に手間の入ること也。又唐畫は筆よし。それゆへ細畫など書るなり。養朴(*狩野常信)などは宗對馬守殿にたよりて朝鮮筆を求てそれをみたきて(*ママ)畫筆にゆひたり。又今狩野家にかく竹は皆東坡流なり。
一 住吉内記(*住吉広行か。住吉具慶の裔。)が繪土佐流なり。八幡殿を書たるを見るに、至てうるはしき甲冑きはめてぎんみしたると覺ゆ。上手なり。如辰も大に賞す。又相良矦の臣の繪師養朴〔狩野養朴─頭注〕弟子あり。至て上手なり。今東都にて追つく人かつてなし、と如辰語れり。
一 春臺は漢魏叢書の十餘部あると、又永懷堂十三經(*『十三経古注本』永懐堂刊)をもたれたりと、元鱗〔元鱗は東江のこと也。─頭注〕云へり。
一 徂來は殊の外に人の才をほめたつる人なり。春臺・南郭は中々人をほめず。それゆへ弟子をとりたつること徂來の如くにはなき也。又春臺人の才ありて學問をするをほむるは人を害するなりとて、一向にほめられざりし、と君修の話なり。
一 君修の同家中の人仁齋にあひたりし人の云しは、仁齋は何となく一所に居りたき人なり。されども太山(*泰山)の如くにて、中々うごかしがたき人と思はるゝ也。
一 仁齋を紀州より千石にて召されける時、辭してゆかず。中々外へ奉公は仕らじ。但し祿多少によらず、少しのことなりとも國政を御相談成され候はゞ參るべしと、紀州矦へ辭せられしと也。大志可觀也。
一 天門上人(*了玄。徂徠門。)は春臺も詩を上手とほめ、徂來も作者と云れし由。然れどもあまり上手とも云がたし。成島道筑(*徳川吉宗表坊主・奥坊主成島家初代。錦江・柳北の祖。)位なるべき歟、と君修の評なり。
一 徂來は庫一つに書物の拂ありたるを金六十兩にてかはれたり。其中種々の書物ありて、四部稿(*王世貞〔弇州〕)・于鱗集・名山藏(*何喬遠)・たんすい(*原文に朱書「甔甀」と書き込みあり。)洞稿(*呉國倫)・天目集・李□集(*原文一字欠字とする。朱書「本寧」を補う。)など明の書夥しくありしと也。家財をうりはらいてかわれしとなり。誠に豪傑のしわざなり。
一 矢崎藤五郞は古書をくはしく見中にも、十三經の註疏までも悉句とう(*句読)をきりてをきたると也。古郡三次郞と論語古訓の名例を度々往復せり。三次郞は己巳(*寛延2年〔1749〕)春廿三歳にて卒す。才子なり。おしきこと也。三次郞は與力なり。君修墓誌を作れりと語れり。
一 刺孟篇〔王充〕・疑孟〔温公〕(*司馬温公)たはひもなき論なるを、臺翁(*春台)尤なりと云れしは心得がたし、と君修説なり。
一 春臺は笛の曲七十斗も覺られたり。至て細工よければ、笛をも自ひらかれたる(*ママ)と也。又十五歳の時、八月十五日夜に、家來の塵劫記を見居たるを側よりみて、八算(*除数が一桁の割り算。)を合點し、それよりけんいち(*見一。除数が二桁以上の割り算。)をしり、其後大本のぢんかう記をかりて見て、數學に忽通じたりと語られし、と君修云り。
一 公・穀二傳(*『春秋』公羊伝・穀梁伝)はとくとよまずばあるべからず、と君修説なり。井文學〔井文學、後に云、并子叔のことか。─頭注〕も同説なり。
一 荻生七之亟は伶利(*怜悧・伶俐)なる人なれども、春臺・南郭も年まさりゆへ子どもの如くに思て、二先生の方へもやられぬ。それゆへ學問すゝまずとなり。
一 殷の世にひたと(*遽かにではなく、頻繁にの意か。)都を遷されたるは尤のことなりと説あり。即遷都論を春臺作られたるとなり。〔春臺の遷都論ばかりで江戸のことを論じたる也。─頭注〕
一 春臺は殊の外に字彙(*梅膺祚)を嗜好なりて、何も字彙にて正されたり。ひたと字彙を出して音をたゞされたり。韻字は殊にくわしかりしと也。又于鱗集七百張少餘あり。春臺がそへて于鱗が事業は七百張にすぎずと云れたり。
一 白石の采覧異言は殊の外によく書れたると春臺大方ならずほめられたり、と君修の話なり。
一 儀禮はでこ(*原文に朱書で「木偶」と注する。)を作りて進退してみたらば濟べきと南郭の説なりし。鄙見と符同す。又周禮を紫芝園にて會ありける時、初三十人みへたり。後には君修と今一人と二人になりて、周禮を全部をはれりと也。
一 中村深藏〔中村深藏は蘭林のこと也。─頭注〕朝鮮人にやられたる五論の中に、中庸は首尾貫きたる書にはあらじ。仁齋の古樂經の脱簡とうたがはれたるも有なりと論あり。君修も此深藏の中庸は全部せざる書と云るは甚尤なる説なりと。
一 四大家文範(*『四先生文範』)の點を大内忠大夫(*大内熊耳〔余熊耳〕)付たるを南郭見られて始て驚て、さてこそ于鱗が文を見たるとほめられたると也。
一 春臺は王充が論衡を殊の外に面白しと云れたり。春秋繁露(*董仲舒)などをも面白がりて讀れたると也。
一 國策(*『戦国策』)を春臺の方にて會ありし時、甚よみにくき物ゆへ、これは游説立まわりたることなれば、とかく口にて云てみたるがよきとて、會讀をめい/\本文の通を今日の口上にて云てみたると也。それゆへすむ處・すまぬ所はきとわかれたると也。
一 春臺同社中の詩をあつめかゝれたるは、皆火災にやかれたり。其後又興觀集と云て同社中の詩を少々集められたると也。
一 元麟(*元鱗か。沢田東江。)云、春臺は杜林(*杜預・林堯叟)合注の左傳を至極よく字を改られたり。常に筆をとりて几によりて書てよまれたると也。
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解題(岸上操)
序(宮田明)
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