春湊浪話
土肥經平
(大田南畝原撰、早川純三郎編『三十輻』第一 卷之八 國書刊行會 1917.4.25)
※ 〔原注〕、(*入力者注記)。縦書きIE用
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下巻
春湊浪話跋(土肥経平)
三十輻 卷之八
春湊浪話目録
卷中
- 田樂
田樂といふは、むかし早苗をうゆる(*ママ)時にする樂なり。今も奈良には其樂傳はりて、田樂法師といひて、是をわざとして家をたて、春日祭の時田樂をなす。是は早苗を植る時ならで〔◎脱アルカ〕舞樂すれば、其樣はかはれども、さすが其始田くら(*田畔〔たぐろ〕か)にてせし樂とみゆる事ども多く殘れり。往古の田樂の樣榮花物語に見えたり。若き女一やうに紅粉にてけそうし、齒を黑ふ(*ママ)そめ、白き衣に白き笠をきて、あまた田面に下り立て苗を植。其時田主といふ男坊尼といふ女、大がささゝし(*衍字か、または「かざし」か)、足駄はきて、田樂を十人計連て出で田樂をなす。其田樂は田鼓といふものを腰に結付、笛ふきさゝら(*簓)といふものすりうたふ事なり。是勢加院にて上東門院へ田うへ田樂を見せ參らすとて有しことなり。其時うたふ歌は作出されし、讀人はしらずと見えし。
五月雨にもすそぬらしてたをやめが
君がちとせのみまくさにせん
うふるより數もしられず大ぞらに
今にぞつまんみまくさの稻
とぞうたふ。是には舞の事は見えず。其舞今奈良にて田樂法師のするに木にぬきを入たるあり。是を高足(*「こうそく」=一本の竹馬。一足とも。)と名付て、此ぬきをふみて飛び行て舞ことなり。江次第・古事談等に、高足又一足といふ事見えたる、則是なるべし。此笠をき足駄はき高足をふむなど、五月雨に田間にて早苗とる時なす樂なるべし。今田樂をして田を植る事は殘れる所もあるが、甲乙男女の一樣によそほひ出立事は所々に在て、攝州住吉の神田の早苗をとることは、昔のさまにて又田樂をもすると聞し。又此田樂を永長の初に殿上人もてあそび給ひし事、古事談に見え、又鎌倉北條の末京都將軍の始、專ら行はれたる事も太平記に見えて、元弘・建武の比は田樂のみにて猿樂の事は聞えざりしに、貞和五年(*1349年)に四條河原にて新座・本座の田樂をせし時に、猿樂をあはせて舞出せしより後は、田樂は衰へて猿樂のみ世に專ら行はるゝことになりて、今に至れり。
- 猿樂
猿樂是も今奈良に四座ありて其家をたつ。其始を考ふるに、昔は是を散樂とはいひしなり。此もの國史にみえけるは、淸和天皇の貞觀三年(*861年)六月廿八日、殿前にて種々雜伎、散樂・透撞(*未詳)・呪擲・弄玉等の戲あり。相撲の節のごとしとあるぞ始なるべし。陽成天皇の御時には〓{忄+烏}〓{忄+許}(*烏滸か。後出本文では地名と解するか。)の人近之といふ者、并に右近衞内藏富繼・長尾米繼よく散樂して、人みな頤を解といふ事、是も三代實録に見えし。其後に村上天皇の御製の散樂策にも、〓{忄+烏}〓{忄+許}來朝して解頤の觀とすと書せ給へば、此散樂の根元は〓{忄+烏}〓{忄+許}といふ所より來りし物にて、是を富繼・米繼も近之に習ひ得たるにて有しなるべし。さらば文獻通考(*馬端臨『文献通考』)に散樂雜戲多幻術みな出二西域一とみへしものなるにや。然るに翰林胡蘆集〔明應の比に僧空竹がえらび(*「し」脱)なり。〕(*景徐周麟『翰林葫蘆集』)に、猿樂はもと申樂と書て、其始推古天皇の御時、秦川勝(*秦河勝)神樂によりて作り出せし故に、神樂の神の字を分ちて、申樂と名付。又其時上宮太子申樂延年記(*偽作)を書せ給ふといふ事見えたり。是は猿樂の家に傳へたる事を聞て書るにや。推古紀に此ことと覺しきことはみへず。尤此時百濟人味麻之來て伎樂舞を敎し事あれども、是は今の高麗樂の事にて有べき。古き書に申樂と書し事更に見えず。又猿樂の家の遠祖と稱する秦氏安が散樂策の位署にも、申樂とはなくて散樂得業生六位上行兼腋陣吉上秦宿禰氏安と書たれば、猿樂を昔散樂といひし事はまがふべからず。此秦氏安よりは廿九世の孫なる者、則今の猿樂の金春家の始といふ者なりといふ。是秦の姓なれば其祖川勝に散樂始るといふ、げに故あるが如きなれば、若其時にも〓{忄+烏}〓{忄+許}より散樂する人來りて、川勝習ひ得て舞出しけることの有しもしるべからず。散樂策を書給ひし天暦の御時までは、散樂とのみ見えし。夫より三四十年にや及びぬらん、源氏・世繼(*栄花物語)・枕草紙の類には、散樂とはなくて、皆猿樂又さるがふとは書替る。江次第には散更とも書たる。かくさま/〃\にいひけるが、終に猿樂といふ事になりて、藤明衡の新猿樂記(*藤原明衡『新猿楽記』)といふ書名も出來たり。扨其散樂又猿樂の業とする所、三代實録より以來、物語の類、古事談・十訓抄・宇治拾遺・著聞集・源平盛衰記等にいたりて、皆其時に當りて人の笑を含、頤を解ことをたくみて作り出す事を以て、專らとすることにて有し由見えし。然るに其家にいふ所は川勝の時に六十六番の曲あり。後に卅三番とするとあれば、定し曲も有しか。是を散樂の策にて考ふるに、所謂船太が影靺鞨(*新靺鞨か。)・魚丸か世羅國(*吐羅国かという。)人是を美談とす。世に妙舞と稱すとみへ、其餘鞭を揚げて半蔀に騎り、柱に傍て胡籙を負ふ。安敕(*「あて」)氏が老に臨ある相撲などは、師の傳ふる所とあれば、曲の數卅三番などいふことも虚談ならず。同策に其術月次に隨て體を變ずといふこともあれば、其業時に臨で作り出す事も又ありしなるべし。昔天暦の御時に散樂策をみづから書せ給ひし程のことなりしが、根元いやしき業なる故にや、順德の帝の御抄(*『八雲御抄』)には凡賤を遠ざくべき事の條に、猿樂の如き庭上に參る事を止べしとかゝせ給ひし。又明月記にも下衆猿樂を召るゝ先に此事なし。仍只侍猿樂可レ召由といふ事も寛喜の記にみえて、下衆猿樂と云は其家を立たる猿樂の事にて、今も同例にて朝庭へ下衆猿樂參る事なしとぞ。いかにして此寛喜の比より後猿樂衰へ行て、鎌倉北條執權の末京都將軍のはじめまでは、田樂のみ世に聞えて、猿樂の沙汰はなかりしが、貞和五年に四條の橋を渡さんとて、新座・本座の田樂能くらべをせし時に、始て日吉・山王の示現なりとて、猿面をきせし猿樂を舞出せしといふ事は太平記にみへし。是より又田樂は衰へ、猿樂さかんに行る。されどもむかし散樂といひし時の古體は廢れて、年々に新敷事に移りぬるは、此貞和五年に一變せし根元なるべき〔是より前暦應三年(*1340年)に、伊豫國にて猿樂能有し
事、是も太平記にみへたれども、いぶかしくおもふ事あればこゝにとらず〕。其後さま/〃\の事ども作り添て、謠といひ能といふ事になりし。今の謠の百番二百番と云、みな平家物語・義經記・曾我物語の事跡ども多く、或は源氏物語の事もあり。昔し散樂といひし以前の事はすくなくて、たま/\神代人の世のはじめの事を作り出せるも、近き世の俗の詞のみにて、古雅なることなくて、散樂といひし時の殘れるかと見ること更になし。是貞和以來作出せし事なるべし。職人盡歌合(*『七十一番職人歌合』他)に猿樂又曲舞まいといふものの歌、又判の詞をみるに、今の狂言といふものぞ貞和以前の猿樂といふものなるが如し。若昔の猿樂今の狂言に轉ぜし事あるか。其道しらん者にたづぬべし(*原文「たづねべし」)。寛正の比興行有し(*原文「興有行し」)猿樂能の謠の名に、出雲・十柄・鶴次郞・打入曾我・梶原二度のかけ・星宮など書しもの有。今の内外二百番といふにはみへざるにや。今其名の轉じたるか廢れたるかしらず。
- 桂女
今の世に婚禮の時に桂女といふものを供に供す。是は鬘女といふを桂女と誤れる事にや。往古は玉鬘・木綿鬘・花鬘など有て、皇女などの尊き人は玉鬘をもてめさる。甚美麗なるものと日本紀に見え、又折にふれたる花にて花鬘を調じ、卑き女は木綿鬘せし事、萬葉集以來歌にも多く詠たり。後世京都將軍の比にても、布をもて鬘にせしを鬘卷ともいひて、乘輿にしたがふ半女(*「はしため」か。)など常の事にて有し。故に職人盡の繪の女どもは、必鬘卷したる所を畫き、猿樂能にも女の形をなすに桂帶といふを以頭を結ぶ。みな木綿鬘といひ、鬘卷といふことの遺制なり。其形を以婚禮の時古き式なりとてすることなるべし。昔は桂女にかぎりたることにはあらず。歩ながら行半女などはみな此禮なりし。然るに鬘に桂と訓同じき故に、桂女と書て或は桂の里の女を用などいふ誤れる事なるべし。尤桂女といふ事ふるくもなきにあらず。賴政家集に、
桂女や新枕せしよな/\は
とられし鮎の(*「のように」の意か)こよひとられぬ
と讀るは河内女・初瀨めなどいふ類にて、桂の里の女をいふ。鬘女とは同じからず。桂女といふは桂川にて取たる鮎を都へ持出て賣ひさぐ女なるべし。源氏物語に、うちむれてものいたゞきたるものの、おほどれたる(*だらしのない、乱りがわしい)聲に名乘してといへるものにぞ。その訓の同じき故に附會せし事なるべし。
- 水むまや
すべて同じ名にして其事の同じからざること多し。源氏物語にみづむまやといふは、飯驛・水驛のみづむまやにて、旅行の時今の俗に晝休み・小休などいふに同じ(*簡略な饗応)。令・延喜式等にみえたる水驛は、陸驛・水驛のみづむまやにて、行所をいふ(*水辺の宿場、街道の宿駅)。東海道の桑名の渡し、遠州今切の渡しのごときをいふなり。古くしるせるもの同じ名なるも、一樣におもふべからず。
- 蒲萄染(*葡萄染に同じ。「蒲萄」は日本書紀の表記。)
ゑび染の色古今同じからず。天武天皇の十四年(*685年)七月廿六日に定められし朝服色、正位(*しょうい)は深紫、直位(*じきい)は淺紫、勤位(*ごんい)は深緑、務位(*むい)は淺緑、追位(*ついい。原文「進位」)は蒲萄染、進位(*しんい)は淺蒲萄と日本紀に書給ふ(*冠位四十八階。諸王に明位〔みょうい〕・浄位、諸臣に上述の階を与え、各大・広に分けた。大宝律令で親王に品位〔ほんい〕、諸王・諸臣に正・従、上・下の五位までの内位、以下外臣に六〜八・初位〔そい〕までの外位〔げい〕を与える形に整理された。)に、蒲萄染今のごとくの色ならば、正位・直位と同色なるべし。こゝにいふは靑色なるべし。令集解に古記を引て、蒲萄は靑色を云なりといへる、則日本紀の蒲萄なり。されど蒲萄を紫といふも、古きことにて、天長に注せられし令義解には、蒲萄は紫色の最淺者なりとみへしより以來、しるせる舊典・物語の類に至るまで、みな紫色をゑびといふ。後代の説を以て日本紀をみむにはたがふなるべし。
- 戎衣に禁色
昔は武士の戎衣にも禁色を憚りて、緋威などといふもの絲を用ひず緋の革にて威して、此革なるものは制のかぎりにあらざりしにや。今鏡に江匡衡(*大江匡衡)の詩を評せし詞に、もののふのあけの革して緋威のかはしたるきて、えならぬ駒の足ときにのりて、逢坂の關をこゆるけしきなりといふ。此緋の革してといへるも、禁色の絲にてなきといふことをことはりたる詞とみへたり。されば昔より武士の絲なる緋威を著しことはなきにや。保元に宇治の左府の絲緋威を著給ひしばかりなるべし。是にて平人の絲なる緋威を用ひざる事をしるべし。然るに太平記をしるせし時は、かゝる式のあることをもしらず、長崎二郞高重が白絲の鎧の忽に緋威に染なしてと書るは、保元物語に緋威の鎧の洗革にやなりぬらんと、波多野がことをかきたるには、おのづからことばかはれり。又是も太平記に見えたる那須五郞が母、曩祖那須與一資高が八島の合戰の時扇を射て名を揚たりし時の母衣(*ほろ)なりとて、薄紅の母衣を錦の袋に入て送りしといふを考るに、壽永・元暦の比、母衣の色はたゞ紅なると白なると計にて、間色の母衣はなき世なるに、是を薄紅と書たるも、其世の紅の母衣といふものは色うすくて、ゆるし色といふ類なりしにぞ。是も禁色の緋を憚ける故なるべし。
- 裘代
きうだいといふ衣服、靜憲法印・辨入道眞觀など著用の事、平家物語・東鑑に見えたり。裝束拾要には大納言より參議まで法體の人は著用あるものとあれども、應永十五年(*1408年)北山行幸の時、あるじの鹿苑院准后著給ひ、伏見の入道親王・栂尾の法親王もきうだいを著給ひしこと行幸記(*一条経嗣『北山行幸記』 )に見えたり。又建久二年(*1191年)後白川法皇の法住寺殿へ御移徙の時の記(*中山忠親『山槐記』、『東鑑』等)にも、鈍色(*にびいろ)の裘代を御塗籠に置れしともあれば、法皇・法親王なども召るゝものにぞ。是を宮體とも(*原文「をも」)書れたれども、裘代と東鑑に書しや然るべからん。
- 羽織
羽織又道服といふもの、其起る所人によりて一にあらず。裝束拾要にみへし道服といふは、宮門跡又攝家にても著し給ふ。されども兩親御在世の時には憚り給ふとぞ。是らも佛道者の服といふなる故なり。されば道服とは道者の服の中略なれば、今醫師・陰陽師の類、剃髪せしものの著る羽織といふは、皆此道服に傚しもの成べし。又俗の著る道服或は羽織といふ者、今專ら用て下ざまなるに至ては、歩行羽織・足輕羽織などいふ類あり。是は上にいふ道服と其制其名も同じくして、其起る所大に異なり。此道服は道路の服といふことなり。壒嚢鈔(*『塵添壒嚢抄』)に道服は乘馬するに上に打きて帶せぬ物なり。灰ほとりのたちて衣裳を垢すを防ぐこゝろなり。ことさら内にて可レ著ものにはあらずといふ、則是なり。是をそれより以前は打かけといひしにぞ。舞の本に鈴木三郞重家が高館へ參りし時の詞に、わらづぬぎて、上に著たる打かけぬいで、ふはと捨てとあるも、道路の服なればなり。又鹿苑院將軍の嚴島詣し給ひし時、今川了俊の書し道記(*『鹿苑院殿厳嶋詣記』)に、此たびはめづらしき打かけといふものを同じすがたにき給ふ。花田のめゆひ(*縹の目結染)に染て、袖口ほそくすそひろきものと書たれば、其比より專らになりて、後に道服といひ、今羽織といふものにはなりたり。其羽織といふ名をよぶ事をもさま/〃\の説あれども、さも有べしとおもふこともなし。昔に打かけとよびし名のるひにて、衣服のうへに打はをるといふことより、羽織とはいふなるべし。いつよりか今は道服のみにもあらず、座間にも打著て、貴賤をわかず衣服の一物となり、俗にて今は褻の服といへるがごとし。
- 陣羽織・押羽織
武士の陣羽織・押羽織といふもの、是は羽織といふ名は同じけれども、道服打かけといふものは、其起る所又異なるがごとし。此羽織の制さま/〃\有ども、多くは袖なしなり。是古の鎧直垂の遺制なるべし。たとへば鎧直垂を甲冑の下に著る事、昔のならはしなれども、是を著るものわづらはしきに、左右の袖をとりて別に作り、束折したる樣に作りて、是を弓小手(*ゆごて。弓籠手)と名付、右の手計にさし、左は手蓋(*てがい。籠手)をさしたり。かくて其上に甲冑を著ぬれば直垂はみへもせず其用もなければ、おのづから直垂の身はすたれて、右の弓小手ばかりになりし成べし。されども甲冑を著せず、小具足出立の時に直垂を著ざれば、其樣體の見ぐるしく賤しければ、其時は直垂の身をも著せしなるべし。されば鎌倉年中行事に、公方御發向の時に、具足出立に直垂といはず、錦の御肩衣と記せしなるべし。夫より前の太平記異本に、初て弓小手といふもの見えたれば、はや此書を記せし比より、ひたゝれを肩衣と弓小手と作り分しこと起りしにや。夫より後應仁の亂後には、五畿七道亂れぬ所もなくなりて年をへしまゝ、又肩衣を著ることもすたれたれども、さすが鎧をきず小具足ばかりなる時には、其體みぐるしければ、肩衣の形をうつして、袖なし羽織を作りはじめて、小具足出立の時に必著る成べし。此小具足出立といふは、專ら行軍の時、又陣中にての體なれば、是を陣羽織・押羽織と名付けるにぞ。慶長の末に上杉家の杉原常陸といふ者、甲冑の上に猿樂能の裝束の半臂といふ袖なきものを著たりしこと有しとあれば、鎧直垂といふ物なりと仰有しといふ。物語に鎧直垂といひて、肩衣を著せし者をはやく見覺え給ひしもの有し故に、かくは仰有しなり。
- 弓小手二品
弓小手といふもの二つ有り。甲冑の下なるは右にさすなり。射禮(*じゃらい)の時のは左にさす。甲冑の下なるは太平記に初て見えたり。其事上に注す。今一つは神代より聞えしものにて、舊事紀に手貫と見えたり。和名抄には射鞲(*鞲は弓籠手の意)一に小手と注せり。西宮記(*源高明『西宮記』)には手纏とみへ、江次第には拾と書て、同抄に拾は弓小手と一條禪閤(*一条兼良)の注し給ふ。如レ此其唱も文字もさま/〃\なれども、皆是は一物なり。朝庭の射義(*ママ)には歩射にも必是を用ける。武家には笠懸・犬追物等の騎射には用て、歩射にさす事は近き世には聞えず。
- 手纏に二品
日本紀の手纏と西宮記の手纏と同名にして異物なり。西宮記の手纏は上に注す。日本紀の手纏といふは往古の手の飾なり。其世には手に句金を入て是に鈴を付て手纏(*たまき)といふ。足の飾も同じくて、是をば脚帶といふ。古事記に宮人のあゆひの小鈴とよみ、萬葉集に君が足結をぬらす露原とよめる、みな此ことなり。女も又玉をもて手足を飾る、是をば手玉・足玉といふ。日本紀に所々見えたり。往古と中昔と今と、其名を同くして異物あり。又名を異にして一物あり。夫もよく辨ぜざれば、古き書を見て惑事多かるべし。
- 鞆
鞆(*とも)といふものは上にいふ手の飾にせし手纏を覆ふ料にせしものなり。手纏あるまゝ射ぬれば、弓の絃此手纏にふれて射られざれば、其上にこの鞆をかけて射るなり。故に鞆の制其中を虚にして高く覆る(*かへる)なり。よりて神代卷には是をたかからと訓じたり〔昔より其中の虚なるものをからといふ。萁をまめがらといひ、蠣房をかきがらといふ。皆同じ〕。其後手足の飾廢れて、男の手纏も女の手玉もかくる事なき世になりて、覆ふべき其ものなければ、鞆も無用のものとなりしより、是も又すたれ行て世々をふれば、鞆を何物とも何の用ありともしる人なくて、一條禪閤の博學強記の名を世に得給ふだにも、鞆を臂鞲と注し給ふ。其外忌部正通・卜部兼倶・淸原宣賢等の日本紀の注釋に、みな弓小手とのみ記されし事になりしを、荒井君美(*新井白石)の軍器考に、弓小手といふ説いかゞ有べし(*ママ)と疑れしばかりにて、手纏を覆ふ料なるものと注せず。多くの先賢いかでか此事に心づかざりし。いといぶかし。猶委しくはさきにしるせし(*未詳)軍器考補正(*土肥経平『軍器考補正(本朝軍器考袖)』。また伊勢貞丈『本朝軍器考補正評』あり。)に見えたり。
- 新國史
宇多・醍醐・朱雀の三帝の史を新國史といふ。又續三代實録ともいへり。小野宮のおとゞ〔淸愼公〕(*藤原実頼)、敕をうけて撰給ひし、今も世に傳はると聞けども見しことなし。本朝書籍目録に新國史仁和より延喜に至るまでとあれば、宇多・醍醐兩帝にて、朱雀の御代には其史及ばで、全備せざれば、奏覽に備る事なかりしか。夫故あらかじめ續三代實録の名を儲けられしまゝにて、新國史といふ名にて止たるにや。古記に皆新國史とのみ書れたり〔拾芥抄(*洞院公賢)・釋日本紀(*卜部兼方〔懐賢〕)・桃花蘂葉(*一条兼良『桃華蘂葉』)等に〕。又是を並べ記す所も六國史の類には不レ入なり。されども朱雀帝迄は國史を修せられしといふべし。新儀式に國史は三四代を隔て是を修とあれば、新國史の後は村上・冷泉・圓融・花山の帝三四代の史を修せらるべき時、一條院の御代に當れるに、其事の御沙汰もなかりしか。其御代の比には、官女に才子多く有し時にて、此國史を修せられぬを、官女のかたにてなげきいきどをることありて、さて世繼を赤染衞門(*後述「赤染右衞門」)の書しなるべし。右に新國史の次の帝村上天皇の御代に筆を起して、帝王の世紀をつぎてかかれけるを以、世繼と其名をも稱せしなるべし。げにも此世繼の出來ければこそ、つゞきて續世繼(*今鏡)・彌世繼(*伝藤原隆信)・増鏡等の撰ありて、假名ながらも國史連續したり。是赤染衞門の大なるいさおし(*ママ)といふべし。
- 世繼物語
是をふるく世繼物語とのみ稱せしに、近き世には榮花物語と稱す。摺本の大鏡に、此世繼の卷の名とて、はじめ月の宴より鶴の林の卷まで卅卷の名しるせり。さらば赤染が書し世繼といふは此卅帖なるにぞ。則其卅帖なる鶴の林の終りの詞に、つぎ/\(*原文「つき/〃\」)の有さままた/\有べし。見聞給ふらん人も書付給へかしと書たり。是は長元元年(*1028年)の事なり。こゝにて赤染は筆をとゞめしとみへたり。又疑の卷に、淨明寺の燈御堂殿の寛仁二年(*1018年)に火をうちてともし給ひし火、此二十餘年いまだ消ぬと書し詞、寛仁二年より廿餘年といふは、長暦年中(*1037年以降)なり。長元元年鶴の林まで書終て、長暦中までは十年に及ぶ。此時淸書せしにぞ。其淸書の時の詞なるべし。次の殿上花見より紫野までの十帖は、後に外の人の書つゞけたるなり。其作者たれといふことはさらに所見なけれども、此十帖の内に出羽の辨の歌多く出たるにておもへば、此出羽の辨の筆作か。是を榮花物語といふことは、はじめ卅卷のほどをさして榮花の上の卷と書しこと繪合の卷に見えたれば、赤染の書し三十卷を榮花の上卷といひ、書つぎたる十卷をさして榮花の下の卷といふことにて、前後なべて四十卷を榮花物語とはいふにぞ。
- 赤染右衞門
此赤染は一條院・三條院の御時よりの人にて、後に上東門院につかへしことは、大やう見えたる事あれども、年齡の程も身うせしことなど記せることなければ、考ふる所なし。しかるに後拾遺集に中關白〔道隆公〕の少將に侍ける時、女にかはりてよめる赤染右衞門の歌二首あり。
やすらはでねまなし物をさよふけて
かたぶくまでの月を見しかな
入ぬとて人のいそぎし月影は
出ての後もひさしくぞ見し
此中關白の少將なりし事を補任(*『公卿補任』)にて考れば、天延二年(*974年)十月より、貞元二年(*977年)正月までにて、中二年の間なり。此時に赤染の年を十六七にしてかぞへみれば、世繼を書とめし長元元年には六十八九の年にて、長暦に淸書せしにやといふ時は八十歳に及ぶべし。又後拾遺に江匡房の生れし時の歌もあり。此生れし年を補任にてかぞへみれば長久三年(*1042年)なり。其年は八十三四なり。赤染の長壽なる如レ此なれども、年も凡かぎりあり。榮花の下卷の終堀川の帝の時は、赤染の年凡百四十なれば、いかで其折までながらふべき。是にて末の十卷は他人の手に書し事明らけし。
- 同
赤染は大隅守赤染時用が女なり。實は平兼盛が女なること、江談・袋草子・袖中抄にみへたり。然るに釋契沖が考に、赤染右衞門と兼盛と親子といふ年序かなはざるかと書たれども、是は誤れるなり。赤染の年齡上にしるしたるにてかぞふれば、兼盛正暦元年(*990年。原文「延暦元年」)卒すと歌仙傳(*『三十六人歌仙伝』)に見えたる時、赤染のとし大てい三十に近きほどなるべし。
- 源氏物語
幻の卷のすえに、
物おもふとすぐる月日もしらぬ間に
年も我世もけふやつきぬる
といふ歌にて筆をとゞめしがごとく、又宇治十帖のはじめの詞に、其比世にかずまへられ給はぬ古宮おはしけると書けるは、發端の詞のやうなれば、はじめは前後別に書て、後に是を一つにあはせんために、匂宮・紅梅・竹川(*竹河)の三卷を書て一部とせしが如く、此三卷は史記の列傳などのごとく、匂宮と紅梅大臣と竹川の大臣との傳を書て、前の如く年序を強て次第せず、匂宮の卷より上九年の間も闕たり。宇治十帖は文の體もことなり。依て宇治十帖は大貳三位の書けるといふ異説も昔に有なるべし。
- 物語の帝號
同じ物語に朱雀院・冷泉院と申奉る帝は、古今集に宇多天皇を朱雀院とも亭子院とも申奉る類にや。其住せ給ふ宮殿の名を以て申奉るなり。歴代の帝の御名と同じけれども、おのづから諡號に稱し奉るとは同じからぬことなり。
- 春日野の歌
古今集春の部よみ人しらず、
春日野はけふはなやきそ若草の
つまも籠れり吾もこもれり
と出たり。伊勢物語には五文字武藏野はと置て、武さしの國にての事とす。大鏡にも春日野と有りて、二條后をつれ參らせて、業平奈良へ行かくれしを、堀川のおとゞ、國經大納言のいまだ下臈にてありし時にて、取返しに來り給ふ時の歌なりと有て、三書とも同じからず。今按ずるに伊勢物語には二條后をつれ參らせて行しを、芥川までと書て奈良まで國を隔て行しを憚りて、自記には此歌を武藏野のと五文字をひかへ武藏國にての事と書れしにぞ。又古今集に此歌を春の部に出し、眺望の歌に取なされしも、敕撰の時までは二條后も其御子の陽成天皇も世にましましければ、憚てよみ人をもかくして出されしなるべし。大鏡に記せし所本説なるべし。
- 二條后宮
二條后〔高子〕は、中納言長良卿の二女なり。入内の前に業平朝臣に密通ありければ、陽成天皇は實に業平の子なりといふ説あり。大に誤れる事なり。后宮入内は貞觀八年(*866年)十二月廿七日にて、天皇の御降誕は貞觀十年(*868年)十二月廿六日なる事、ともに三代實録に見えたり。此年月のうつりたるにて誤れる事尤明なり。貞保親王と申御同腹の御弟なるよし、紹運録(*洞院満季『本朝皇胤紹運録』)等にみへたるに、何によりて注せるや。古今榮雅抄(*飛鳥井雅親『古今栄雅抄』)に貞保親王は淸和の第一の皇子とあり。さらば此親王二條后の入内より間もなく御誕生ありて、業平の子なるといふ疑ありし故に、后〔◎皇カ〕兄ながら弟となし給ひて、陽成天皇立坊まし/\けるか。是をあやまりて天皇の御事といへるか。されども貞觀十二年(*870年)九月十三日第四皇子誕生、皇太子同母弟と三代實録に見えたる、此親王の御事なるにや。されば第一の皇子といふ説も覺束なし。此貞保親王を南宮と申、管絃の道にすぐれ給ひて、南宮譜(*『日本音楽・歌謡資料集』にあるか。)をあらはし給ふ。此譜今も世に傳はれり。
- 山邊阿麻眞人
寶龜二年(*771年)に乎部王(*守部王)の男阿鹿王(*何鹿王)に、山邊眞人の姓を賜ひし事續日本紀に見えし(*「従四位上守部王之男笠王。何鹿王。猪名王。賜姓山辺真人。」〔巻第卅一、宝亀二年九月丙申〕「庚辰。山辺真人何鹿。山辺真人猪名。並復属籍。」〔巻第卅七、宝亀七年九月康辰〕)。此山邊阿麻眞人(*「阿麻」の字未詳。「阿鹿」か。)といふ、若歌仙なる山邊赤人にてはなきか。其名相ちかく時代もほゞ相かなへり。
- あさといふ詞
六百番歌合に舊戀左歌兼宗朝臣、
今はたゞむかし語になりはてゝ
戀も我みもはなれましかば
此歌を右よりはなれましかばあさはなれたりと難じけるを、俊成卿判者にてあさはなれたるとはいかにはなれたるにか。いともしらぬこと葉に侍る。いかにもよろしからぬよしにやかゝれたるは、雅語ならぬをとがめていともしらぬと書れしにや。其比下ざまにもいひし事か。沙石集にあさ鍋賣(*浅鍋売か。)といふことあり。是もあしき鍋をいふか。此あさといふ詞いにしへになきにもあらず。あざわらふ・あざなへる等なり。文選に糾纏の字をあざなへる、咍の字をあざわらふと訓じたり。又鶴林玉露(*羅大経)の欲笑の字にあざわらふと書そへたるは、誰か訓ぜし。是等のあざはあさはなれたるといふと同意ともおもはれず。されど同じ詞なればこゝ(*原文「こゞ」)に注す。
- 書寫山の法華經に俊成卿和歌
播州書寫山の靈佛寶物どもに、寶暦七年(*1757年)この國岡山府下圓覺寺へうつし持きて、緇素に拜ませける、其中に天正十四年(*1586年)二月に記せし過去帳といふものありしをみしに、其奧に歌三首を書たり。
花の御法またひらくべき朝まで
澄なる月の影に納めん
筆の跡色にかざりし人も皆
佛の道はかさね置けん
種蒔し心の水に月澄て
ひらけやすらん胸の蓮葉
是は俊成卿自筆のものにて、法華經を金紙に書て寄附ありし、其經の奧に書て有ける歌のよしなり。しかるに新千載集をみるに、一品經を書寫山におくるとてそへて侍ける、皇太后宮大夫俊成、
種蒔し心の水に月澄て
ひらけやすらん胸のはちすも
とあり。此三首の歌長秋詠藻にも見えず、其外にも世に聞へざる歌なれば、則此書寫山の經卷の奧に俊成卿の書置れし三首の歌をみて、其中より取て爲世卿(*二条為世)も敕撰に出されしなるべし。此過去帳にかく書たれば、天正の末まではまさしく俊成卿自筆の法花經、其奧に三首の歌も書たるもの、其山に傳はりありし、いと難レ有筆跡なるに、今はあるやなしやしらず。
- 田子の浦あまの原の和歌
小倉山莊の百首の歌のうち、
田子のうらに打出でみれば白妙の
富士の高根に雪はふりつゝ
天の原ふりさけみればかすがなる
三笠の山に出し月かも
此二つの歌を此比の世にきそひ論ぜる事ありて、たとへば萬葉集にはましろなるふじの高ねとあり、土佐日記にはあをうなばらふりさけみればとあるを、定家卿の引直されしと思ひて、ふるきまゝなるこそよけれなど書しものあり。此あまのはらの歌は古今集の歌を其儘取て出されしなり。夫を彼卿の所爲なりといふは古今一つだにみずして、猥にいへることなれば、論ずるにも及ばず。又ましろなるといふこと、今の世に行はれたる萬葉集の點を見て取出せし事なり。今の點は定家卿時代よりは後に、寛正に仙覺法師が付たる新點にて有也。彼卿の時までの點は天暦の御時の古點か、御堂殿の時の次點か、又家本の點かにて書給ふなれば、すべて今の點と同じからぬ事是にはかぎらず多かるべし。されば是もかの卿の引直されたる事にてはなし。殊にましろなると點ぜしより、白妙と點ぜしがよく叶たりといふべし。眞白衣と書たる眞は心なし。衣をたえとよめる、古く何ほども有べし。衣をなるとよむべきいわれはなし。かゝる事もいかで辨へしるべき事かは。なべて女童だによみならへる古今集の一つだにみしことなく、露しらぬ歌のことをしりがほに批判をなす、おろかさこゝに取ていふべきことにはさらにあらねど、無下に同じ類なるものの、是をげに/\しく(*原文「けに/〃\しく」)もて興ずることのうるさきまゝに、こゝにあら/\注しつけぬ。
- 宗良親王
中務卿宗良親王は後醍醐天皇第三皇子、御母は權大納言爲世卿の女爲子にて、其御外戚につきて和歌を學び給ひ、其ほまれ幼齡の御ときよりかくれなく、晩年に風格天が下にためし少くおはしませし由、耕雲の口傳(*花山院長親『耕雲口伝』)にみへたり。されども南朝のみこにておはせし故に、其後の世々の敕撰に御歌のもれてみへぬぞ遺恨なるべき。玉津島の歌合(*『玉津島社歌合』)よませ給ふ二百首戀の歌の中に、
このくれもとはれんことはよもぎふの
末葉の風の秋のはげしき
此一首は古人にも及ぬべし。又學びがたきこゝろなりと、同じ口傳に見えし。此親王の御集を李花集(*宗良親王『李花集』)といふ。又南朝の弘和元年(*1381年)敕撰有し新葉集(*宗良親王撰『新葉和歌集』)には、御歌あまた出たる。北朝にて風雅集撰ばれし時、あらぬさまなる撰者にて、二條家爲定卿もれたもふ(*ママ)と聞へ給ふて(*『風雅集』は光厳院撰。正親町公蔭・玄哲〔藤原為基〕・冷泉為秀を寄人として編纂した)、このみちもなくなりぬる心ちし給ふとてよませ給ふける(*ママ)、
いかなれば身はしもならぬことの葉の
うづもれてのみ聞えざるらん
この度はかきながすとももしほ草
なか/\わかのうらみとはせじ
是も李花集にみへし。
- 戰場の和歌
又同じ親王征東將軍をうけ給はり給ひ、武藏國に小手指原にて手分など有て、いさみあるべきよし兵どもにおほせ侍りしついでによませ給ふ、
君の爲世のため何かおしからん
すてゝかひある命なりせば
其時より前延元元年(*1336年)逆徒兵庫の浦へ敗軍せし時に、細川和氏、
武士の是やかぎりの折々も
忘られざりし敷しまの道
又いかなる折にや源致雄、
命をばかろきになして武士の
道よりをもき(*ママ)道あらめやは
是等家集・野史にも見えて、征東將軍にてたゝかひの場に懷を述べ給ひ、又武士の戰ひの急なるに、大和ことばを詠じ、或は物部の心をなぐさむる和歌にも、己が道の切なる心をよめる、とり/〃\難レ有ことの類なれば、世々の集にも撰び入られしぞかし。
- 太平記齟齬
正慶三年(*1334年)河州赤坂の城を攻んとて、關東勢攝州天王寺の邊に陣をとる。時に人見四郞入道恩阿・本間九郞資貞ぬけがけして朝のほどに(*原文「はどに」)赤坂城に至り討死す。其首を僧の乞請て取歸り、本間が嫡子源内兵衞資忠に渡せば、其首を取納めて天王寺を打立、父が跡をしたひて城に至りて、其日の晩に討死す。此天王寺と赤坂城の間上方道十里なり。しかるに人見恩阿も本間資忠も、共に二月二日と鳥居に記し付、父子の討死も同日の朝晩といふ。此時三度の往來三十里を一日の事とする、尤いぶかし。是一つ。後醍醐天皇しばしかくれさせ給ふ多賀郡有王山といふ。山城國多賀郡になくて、多賀郷に有王山あり。是は郷を郡と書誤れるなり。山城の綴喜郡なり。是二つ。西園寺の北山の亭へ紅葉御覽の行幸といふ。建武二年(*1335年)六月の事なり。紅葉御覽といふ、誤なるべし。是三つ。上杉重能・高師直・直義朝臣の事を、三年の中に日を替ず報ひけるこそ不思議なれと有ども、上杉が殺されたるは貞和五年(*1349年)十二月廿日なり。高が殺されたるは觀應二年(*1351年)二月廿五日なり。直義の鴆死(*〔鴆毒による〕毒殺)せられしは觀應三年(*1352年)二月廿六日なり。三年にあらず四年なり。日を替ずとあれど同じ日にあらず。是四つ。貞治六年(*1367年)中殿御會の時、將軍供奉の帶刀十人と有て九人あり。一人もれたる、異本ども皆同じ、いかゞ。不審なる事なり。雲井の春(*『享徳二年晴之御鞠記』)にて考れば、第三の右の大内七郞詮長をもらせり。是五つ。其餘天子の御衣をばいつにても袞龍(*袞龍御衣=龍の縫い取りをした唐風の礼服)と禮服なるを以しるし、舊事本紀(*『先代旧事本紀〔旧事紀〕』)の事を神代より持統天皇に至ると書て、推古天皇と記さず。羅城門の南なる鴻臚館と書て、北とせざるの類猶多し。是等の事いかで參考なかりし。參考本にみな脱せり。
- 北條篤時
東鑑の終文永三年(*1266年)より、太平記の元弘三年(*1333年)五月廿二日鎌倉にて高時入道生害ありて、北條家滅亡せし年までの間、凡年數六十八年なれば、文永の時の人殘れるなし。其中に東鑑の終文永三年七月宗尊親王御上洛供奉の人の中に、尾張四郞篤時と出たるあり。只此一人元弘までながらへて、高時入道と同時に自害せし。其時太平記には苅田式部大轉篤時としるしたり。考るに年齡八十に三つ四つもあまれるなるべし。
- 赤橋英時妻の歌
同じ時赤橋修理亮英時は九州の探題なりければ、筑前國早良郡姪濱の鷲尾山の城にて、五月廿五日自害せし。其墓今に姪濱にありといふ。其妻は赤橋守時の女なりしが、尊氏の室の姪なりければ、京都にむかへてありし、其時の歌に、
しらざりし心づくしのいにしへを
身のおもひ出と忍ぶべしとは
- 骨食太刀
賴政卿鵺を射られし時に、豬早太が懷にさしたる太刀を骨食といふよし、源平盛衰記にみへし。其後尊氏將軍九州下向ありし延元元年(*1336年)に、太刀二つを帶せらる。其一つ骨食といふ重代の物のよし、梅松論にみへし。昔の賴政卿のものをうけ傳へられたるか。又同名別物かしらず。作者の名もしらず。同じ時九州にして大友左京大夫氏時骨啄の太刀を奉る。是は吉光が作にて、罪人ありしを切る眞似せしかば、其人の骨微塵にくだけける。故に骨啄といふ。其後將軍家の重器となるといふ事、筑紫軍記に見えたり。さらば其後京都將軍家には骨喰〔マヽ〕・骨啄といふ二つ太刀有しなり。永祿八年(*1565年。原文「年」欠)義輝將軍御生害の時に、松永彈正久秀骨啄をとりて所持せし。松永も亡びて後に大友左衞門佐義鎭、是は元來我家のものなりとて、三千兩に買求て秘藏せしを、又豐臣太閤へ奉りけるも、一とせの亂に失けるが(*原文「か」)、河内國の土民ひろひ得て世に殘りける。是は粟田口吉光が作なれば、二つの骨食のうち、尊氏將軍へ大友より參らせしものなり。賴政卿より傳へたるものはいかゞなりけん。吉光の作の骨啄一とせの火災に燒失たりしといふ。今は二つながらなくなりしにぞ。
- 獅子王の太刀
賴政卿鵺を射られし時、朝廷より獅子王といふ御劔を賜りし事、源平盛衰記に見えし。是は備前助平が作といふ。いかに傳へ來りしか、後は播州の赤松家の重代のものとなる。赤松左兵衞尉廣英〔一に云廣秀〕まで傳へし、是を後□(*ママ。一字欠。「斎」か)村左兵衞尉(*斎村政広=赤松広英)といひて、慶長五年(*1600年)の冬同州にて廣英自害して、赤松家斷絶の後、土岐三郞は賴政の遠孫なる故に、獅子王の太刀を賜り、今も其家にありといふ。
- 名物の太刀
名ある太刀朝廷なるものはたゞ人の委く知べきことにあらず。武家に傳ふるものは源家の鬚切・膝丸、平家に小烏・拔丸・鴉丸、惡源太義平の石切、朝長の薄緑、右大將家の小手丸、北條の鬼丸、畠山が鬼切丸、利家の篠作り・二銘・大博多、鎌倉の足利家の大倉牛・目貫廣・股寄、大内家の初櫻・千鳥・荒波・若楓・鷹匠切・大蛇切、武田家の鉈丸、上杉家の五虎、筒井家の筒井丸、小笠原家の甲破、今川家の八々王など名高く聞へしものなり。天下一振の吉光、影の吉光・米澤立花吉光・淸水吉光・藥研藤四郞・鎬藤四郞・あつ藤四郞・北野藤四郞・豐後藤四郞・太みや正宗・三好正宗・佐々木正宗・本莊正宗〔一名左馬頭正宗といふ。すぐれたるものにて、正宗の中に第一とす〕・切刃貞宗・高木貞宗・安宅貞宗・會津貞宗・寺澤貞宗・蜂屋郷・鍋島郷・靑木郷・中川郷・三好郷・太郞坊兼光・竹俣兼光・波游兼光・不動國行・荒身國行・面影國行・大般若長光・宇佐美長光・取替國次・三齊國次、其餘名ある太刀短刀ども猶言盡しがたし。されども兵災火難等にかゝりてうせにしものは多く、殘れるものはすくなかるべし。
(中巻<了>)
上巻
中巻目次
下巻
春湊浪話跋(土肥経平)