保暦間記 上
小瀬道甫
(『』 )
※ 【割注】、(*入力者注記)
(序)
保元乱之事
平治之乱事
清盛加階之事
頼朝挙義兵事
保暦間記 上
小瀬道甫刊
(序)
夫惟天下國家治亂之本、徒不出於公私之間矣。一人用公、則民安而天下平、用私則國危而天下亂矣。異朝受辛爲政以暴則民虐而殷代一時亡焉。文王帥民以德則政正周祚八百余歳也。本朝醍醐帝施仁則兆民懷惠迄于今慕德也。鳥羽院用私而譲位不正於于茲悖道也。嗚呼王法陵夷苛政荐起、豈非上一人之私而喪天下國家乎哉。故記自保元至暦應之成敗、以欲使後人鑑之而已。
保元亂之事
保元之亂の本は鳥羽法皇美福門院にをぼれ給ふを種とし、理學行ひ給はざるに苗と成、諫言を用ひず佞臣を愛し給ひしに登て、主上・上皇【共に待賢門院御一腹】の御國諍と成しなり。古今理學を不好則實理に闇ふして浮利に明なる事あり。是より起て國病日々に胎み月々に生じ年々に長じて既に壞亂極ぬ。去ば崇德院【上皇】一宮なれば、天治元年(*1124)法皇御位を譲り進らせ、其後十九年を經て康治元年(*1142)、何の恙もをはしまさゞりしを御位を退らせ給ひつゝ、美福門院の御腹近衛院を御位に即まいらせ、當今に立せ給ふ。是に依て法皇與新院【上皇】御中不快のねざし出來けり。然處に久壽二年(*1155)近衛院俄に崩御ならせ給ふ。今度は崇德院の宮重仁親王嫡孫なれば御位につかせ給はん事尤も義の在す所なるを、美福門院の上皇を嫉み給つる御心にひかれ、引違へ第四宮後白河院【主上】御即位有しなり。是王道の衰ゆかん前表ぞかし。寔に攝禄の人々も上一人私心あれば下も正中を失ふ習なるにや、重仁親王を當今に立せ給ふべきこそ義なれと諌め止る人も無りき。是又人を選て任官する法のゆるかせなるより起れり。去ばにや、鬼神のとがめ多ふして法皇保元元年(*1156)七月に崩御ならせ給ひければ、頓て上皇世の亂れを思召立給ふ。其比宇治左大臣頼長と云しは知足院入道前關白(*藤原忠実)の次男、當關白法性寺殿(*藤原忠通)の御弟也。上皇の御方にて此亂を進めて謀を廻しけり。法皇も思召す事もや有けん、武士ども内の御事を可守護旨御遺戒し給ふとかや。平清盛・源義朝等也。清盛は桓武天皇の御末裔讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛が嫡子也。義朝は清和天皇の後胤伊豫守頼義四代の孫也。各源平の長者たり。上皇の御方には義朝の父爲義、清盛の伯父忠正參りけり。或は父子兄弟、或は伯父甥敵と成味方となる。關白殿左大臣殿御兄弟にて渡らせ給ひしかども、既に合戰に及びぬ。戰破れて上皇【讃岐院】をば讃岐國へ遷幸なし奉りける。九箇年の後此處にて崩御なりき。左府は流矢にあたり失させ給ふ。爲義は義朝を頼み來けるを勅定にて誅せられぬ。俗是を保元の亂と云。
平治之亂事
其後幾ほどもなく平治元年(*1159)主上御位を一宮二條院に譲らせ給ひ太上天皇と號す。然ども院中にて先例の如く政務を知召し玉ふ。其比權中納言右衛門督藤原信頼卿と云人あり。是は關白道隆公八代の後胤也。院の御氣色も他に異なれば、家に絶たる大臣の大將を心懸給へり。同比少納言入道信西と云るは山井三位永頼末孫進士藏人實兼が子也。院の御乳母ほどの人也ければ、近う召仕はれて諸事を沙汰し行ふ。然處に信頼が望の事仰合せられけるに、有べからぬ事と申たりし。信頼此事を聞て怒を成て源義朝を語ひ、平治元年十二月九日の夜院の御所へ押寄て院を取奉り内裏へ入奉て信西を尋けれ共、此事を豫め知落行、大通寺にて土にほり埋まる。彼子共を取て國々へ流しつ。信頼内裏にて天子のごとくに振舞しかば、皆人やがて天命に盡なんとて舌を振てさゝやきける。主上忍び給ひて清盛朝臣が六波羅宿所へ御車にて行幸なる。院は仁和寺へ御幸なりけり。信頼これを知らずして緩々と臥ける處に、同意の越後中將成親【中御門新大納言】急來て此由を知せければ、信頼いか〳〵にと驚く處に、程なく六波羅より大勢内裡へ馳向ふ。待賢門にして信頼・義朝爰を先途と防戰しかども、朝敵に成ぬる故にや相叶で、信頼は誅せられ、義朝は關東へ落行けるが尾張國の家人長田庄司が所に著て休息し給ひける處に、清盛より計策を以長田が心を變ぜしを知給ずしてやみ〳〵と討れぬ。鎌田兵衛政清もたばかられてぞ討にける。寔に平治の亂の時、爲義以下其外子共などを清盛潜かに朝敵たるの条、悉く亡し給へとあり〳〵しく奏し奉らんが爲に、先忠正を討し其上を以主上へ讒し亡し給ひしは、唯天下の權を一人して執給はん謀計也。在位の君子の威たくましく智有て義を知、さはる虎に羽翼の成ぬるが如く恐しかりしと云しも是なり。
清盛加階之事
其後清盛度々合戰に忠を致して勲功限りなし。寔に本は安藝守たりしが、播磨守・太宰大貳に成て正三位して、打續宰相・衛府督・撿非違使別當・中納言に成て、内大臣より無左右大政大臣に成にけり。加様に昇進するのみにあらず、一天下さながら我がまゝに行ける。嫡子重盛内大臣・左大將、次男宗盛中納言の右大將、一門共に昇進しけり。○永萬元年(*1165)六月十五日二條院崩御成ければ、彼御子六條院に譲國ありき。○仁安二年(*1167)六月御位をすべらせ玉ふ。是は本より法皇の御心にも叶はせ御座けるにや、同三年(*1168)十二月十一日、清盛公病によつて歳五十一にて出家あり。法名靜海とぞ申ける。出家の後も榮華彌よ進けり。○嘉應元年(*1169)に髙倉院御踐祚ありき【法皇宮建春門院御腹】。主上の中宮は大政入道の女なりけるほどに、此時ぞ殊更に憍ほこりける。○平大納言時忠と申は太政入道の北方二位殿の弟也。建春門院にも御親かりければ、入道も萬事時忠に申談じければ、時忠を平關白とぞ申ける。嘉應元年十月十二日に重盛次男資盛小鷹狩して還けるに、時の關白松殿に參相たり。夜の事なりければ、時めき玉ふ入道の公逹とも知ず、御隨身共とがめ懸て散々に追落しけり。入道此事を聞て安からぬ事に思て、片田舎の侍を召集て、同廿一日に松殿内裡へまいらせ給けるを路次に待かけて、御車を打破て御隨身を髻を切けり。是ぞ平家惡行の始なりける。爰に院中にて諸事御計ありければ、近習の人々隨分の朝恩を蒙るほどに、憍心いよ〳〵進て不思議の事ども有けり。中御門新大納言成親卿院の御氣色よかりける程に、大將の闕の有けるを指切て望申けり。さりともと思ふ處に、大政入道の嫡子重盛右に有けるが左に遷て、二男宗盛右に加てけり。成親口惜く思て平家を滅さんずる企をしけり。院中の近習の人々、北面の者共を語ふて折節をぞ待ける。彼近習・北面の中に左衛門入道西光と申は賤者太郎丸なり。見がきられける程に少納言入道(*信西)召仕けり。失にし後に院の御倉を預りにてありけるに、大方過分の振舞のみしけるが、其子の師髙加賀守に成り、彼目代當國の白山の大衆と事を出したりけるを、山門に訴へて度々奏状を以て是を申を云へども西光さゝへ申て叶はず。大衆安からず思て、○冶承元年(*1177)四月十三日に神輿を内裏へ振たてまつる。左衛門の陣にて武士防とて神輿に矢を射立つ。大衆おめきさけんで本山へ還る。其後山門を燒拂べき由聞へければ、法皇安からぬ事に思召されて、時の座主明雲僧正を伊豆國へ流罪せらる。大衆憤て大津の邊にて奪取て山上へ登る。西光申けるは、大衆座主を取て歸登せて候なる。今度緩宥に御沙汰候ては惡かるべき由奏聞す。これに依て山門を責らるべき旨武家へ仰られけれ共、大政入道進み申さゞりければ、院近習人々を催て山門を責らるべしとて軍兵を調へらる。成親卿よき次と思て日來の本望を逹せんとする處に、語ふ所の中に多田藏人行綱と申者あり。忽に心がはりして此事大政入道に告んと思て同じ五月廿九日に行綱西八條は小夜更る程に向て、始より新大納言并に西光法師以下巧し事共不殘申たりければ、入道大に驚て一門の人々軍兵召集て其夜の中に三千騎計馳つどう。六月一日に成親卿・西光法師已下を召籠らる。院をば遠嶋へ遷し奉るべかりけるを、重盛強に諌申して院は別の御事なし。成親卿は備前國へ流し、西光法師は切れけり。成親が子丹波少將成經・平判官入道(*平康頼)・法勝寺の執行俊寛は薩摩國鬼海嶋へ流されけり。彼大納言(*藤原成親)は平治の亂の時誅せらるべかりしを平家樣々に申助て位正二位、官大納言に至る。重盛の北方は彼大納言の妹也。維盛は彼大納言の聟なり。嫡子成經は平宰相の聟なり。方々親かりけるに、かゝりける事思立も偏に憍の至也。同八月三日讃岐院の御追號并に宇治左府の贈官の事あり。○治承二年(*1178)正月一日、院御所には拜禮ありて例にかわりたる事はなけれども、去年成親卿以下近習の人あまた失なはれたりし事いまだ御心行事にてぞ有ける(*ママ)。大政入道も行綱が告知せし後は君をも後へ(*ママ)たなき事に思ひ進て、下心打とけたる事も無し。同七日の曉、彗星東方に見へければ、何事かあらんずらんと申。二月五日、法皇三井寺にして御灌頂有べき由を山門の大衆憤り申ければ思召とまらせ給ふ。御灌頂は留りけれども堂衆・学生中惡して度々合戰して山上坂下靜ならず。其比建禮門院の中宮と聞へさせ給しが、春のくれより御惱あつて供御もはか〴〵しく進らず。平家一族何の沙汰にも及ばず諸寺諸社へ御祈ありける程に御惱たゞならず、御懷妊と聞へしかば、平家近來の歎き今は悦となる。主上十八歳に成せ給き。皇子も御座さず。平家繁昌の體を見に、定て皇子にてぞ渡らせ給んずらんと申けり。六月廿八日に御著帶、彼御祈の爲に大赦行はる。折節を得て平宰相(*平教盛)小松殿に取申て丹波の少將召還さるべき事叶たりければ、夜を日にして下れとて使をぞ立られける。同十一月十二日寅尅計に中宮御産の氣有とて平家の一族のみならず關白殿を始て馳參りけり。京中騷さゞめきあへり。大法秘法殘所なふして御驗者隙なし。諸寺諸社の御讀經御使走違ふ。内大臣重盛は父子の義也ければ、御衣・御馬以下持せらる。勇々しかりき。然ども御産滯りけり。怨靈しうねく御物の恠さま〴〵の事を申ければ、法皇御几帳近く居寄玉ひて、老法師かくて候はんには何物か近付たてまつるべき。况や顯所の怨靈皆朕が朝恩を蒙て人と成者なり。縱報當の義こそなからめ、豈障㝵を成んや。早く罷退き候へとて御念殊をさふ〳〵と押合せさせ給ければ、御産やがて成りぬ。中宮亮重衡つと出て、御産平安に皇子御誕生と披露有ければ一同にあつと云聲暫は止ざりけり。大政入道・二位殿聲を上て泣れけり。けしからずいま〳〵しくぞ見へし。大政入道法皇へ冨士綿千把進せらる。代々御産有けれども、一院の御驗者なき例とぞ申ける。此后御腹の皇子の御事、入道隨分頼みたてまつられける。安藝嚴嶋にまいりて申されて、加樣に心任なりけり。入道彼社を憑申されける事は故の有けるとかや。鳥羽院の御宇髙野大塔修造の奉行は清盛なりしに、修造終て供養の爲に清盛登山ありけるに、老僧一人來て清盛に對面あり。大塔修造事終候ひぬ。目出候。日本國に尋ても御覽候へ。此山ほどに密宗引へたる所候はず。返々目出候。其に付ては越前の氣比の社は金剛界、安藝嚴嶋は胎藏界也。嚴嶋の社破壞してなきがごとし。院へ申され安藝國の任を申延て修造せしめ玉へ。然ば官位俸禄肩を比る者なく、壽命長遠に御座べし。但し惡行あらば子孫までは叶べからずとて還らせ給。二三町は見へさせ給けるが、後はかきけすやうに失せ給ぬ。大師とぞ申ける。清盛歸京して此由を申上ければ、任國を延られて又彼社を修造す。事終たりける時清盛參詣したりけるに、内侍に神詫し玉て、汝知や否弘法大師の云しはとて神上らせ給ふ。それにこそ大政大臣にも上り一門繁昌しけれ。此皇子御誕生誠に平家榮華とぞ見へし。十二月八日に皇子親王の宣旨を蒙らせ給ふ。同十四日に親王太子に立せ給ひけり。いみじかりし事也。冶承三年(*1179)正月朔日の禮儀いつより花やかなり。二月廿六日、宗盛卿大納言・大將共に辞申さる。三月下旬にぞ丹波少將成經・平判官入道康頼都へ還り上る。俊寛法師は留て歎き明しくらしける程に、終に嶋にて失にけり。同夏比小松内府重盛熊野へ參詣して申されけるは、父相國の惡行を見るに、子孫傳て有べからず。重盛隨分諌をなすといへども不叶。然れば重盛が命を召て後世を助給へと申されけり。下向の道にて怪事共ありければ、權現の御納受有とて悦の使を奉り給ひけり。人是をしらず。其後幾ほども無て内府の背に惡瘡出來る。療治・灸治も驗無りければ、入道驚て種々に申されけれども、去る夏比權現に申事候き。御納受と存候ほどに療治を止と申され、同八月一日に四十三歳と申すに内府隠給ひぬ。此大臣の失給ぬることは平家一門の歎のみならず、天下の人の歎なり。よこ紙を裂入道も此人の諌にこそ有けるに、何なる事かあらんずらんと諸人上下なげきあひけり。大政入道のなげき誠に道理也。平家の運は盡ぬるにこそと申ける。十一月七日戌刻大地震動す。時を遷して震へり。同八日の早旦に陰陽頭泰親(*安倍泰親)院の御所へ參申けるは、夜前の地動は重愼也。只今御世も亡候はんずるやとてはら〳〵と泣く。穴けしからずや、あれ程に早く涙のこぼるらんと申けり。法皇大に驚御座ける程に、同十四日大政入道福原より數千騎の軍兵を相具して上洛す。朝家を恨奉るべしと聞ふ。院より靜憲法印をもつて六波羅へ仰らるゝ事共ありけれども、種々瞋り申て恨奉る。さまでの事はと思食ける程に、同十六日に關白殿を始たてまつて大政大臣師長(*藤原師長)以下院の近習の人々・北面の輩共に四十二人官職を停む。故中殿(*近衛基実)御子基通(*近衛基通)二位中將殿、入道の聟にて渡せ給ひけるを其夜に内大臣關白に成奉る。こは何事ぞと申せば、一年中納言御所望の時入道被執申けるに關白殿(*藤原基房)の御子(*藤原師家)三位中將殿に成らせ給ひし故と申せば、されば關白殿こそ何なる目をも御覽ぜずらんに、四十二人まで事に値べしやはとぞ申ける。去年讃岐院の御追號、宇治左府の贈官ありしかば、怨靈なんども鎮べしと思に、かゝる事共の出來こと、只偏に天魔の荒たることぞと申ける。關白殿・妙音院殿(*藤原師長)國々へ流されさせ給ふ。同十七日に明雲僧正を天台座主に還補す。今夜左少辨行隆(*藤原行隆)と申は中山中納言顯時(*藤原顕時)の長男也。此人の方へ入道立寄給へ、申度ことありと云せたり。此十餘年は物にも綺はねばと思へども、何なる事や有らんずらんとしづ心なけれ共、さて有べきならねば向給けり。入道見參して故中納言殿大小の事申承候き。其御跡なれば踈にも思奉らず。此程御籠居久成をも歎存候ながら法皇諸事御計なれば無力過候なり。今日よりとく〳〵御出仕候へとて百斛の米百匹の絹、入道の車牛に懸て送らる。行隆あしの蹈ところを覺へず。辨に成かへり給ふ、御年五十一、今更わかやぎ玉ふも哀とぞ見へし。同廿日、院の御所へ宗盛數千騎の軍兵を具して參たり。こは何事ぞとあきれ迷けり。主上幼御座せば時々世務に口入する事計也。其もさるまじくはさてこそあらめ。今日とも明日とも知ぬ老法師に憂目を見するよと仰られもはてず、龍顔より御なみだをはら〳〵と流させ給ひけり。宗盛さる事の爭か候べき。世を鎭めん程暫く鳥羽殿へこそ入進せめと入道申候と奏したりければ、哀れ内府には劣たる者哉とぞ思召ける。一年かゝる目を見べかりしを、故内府が兎角諌て去にしぞかしと戀しく思召ける。さらば疾と仰られければ、御車をよせ七條を西へ朱雀を南へ御幸なる。御車には尼ぜと申女房たち一人、御經箱計をぞ入られける。御力者金行法師計ぞ走付て參ける。京中の男女あはや院の流され給と泣訇るよそをひ御車の内へ聞へければ、保元に讃岐院の御下向の事思召合て御なみだのみぞ進みける。鳥羽院の北の御所へ入奉て、武士門々を守護申けり。大膳大夫業忠(*平業忠)其時は兵衛尉とて十六に成けるが、いかゞしてまぎれ參けん、是を御覽ぜられて、今夜失れんと思召すぞ。御行水や沙汰し出しぬべきと仰られければ、業忠走廻て狩衣の袖を結ひかけてつか柱(*束柱)など破などして深方に案内申たりければ、御行水ありて法華經をあそばして最後の御勤と思召ほどに今夜も明にけり。同廿一日に靜憲法印六波羅に行向て、法皇の鳥羽院に人一人も付申さずして渡らせ給ふ由承候。あまりに御痛はしく候。御免を蒙て參候はゞやと申されければ、入道げに〳〵しく僻事あらじと思はれければ、則免ぬ。手を合悦て出られぬ。急馳參られたりければ、法印を御覽ぜられて、あそばされける御經の上に御なみだはら〳〵と懸ければ、法印もきうたい(*裘代)の袖を顔にあてゝ泣れけり。良久あつて尼ぜをき上て申されけるは、昨日の朝七條殿にて供御まいりたりしより外は御ゆづけなんどをだにも御覽じ入ねば、無甲斐。御命もいかゞと覺ふるとて泣れければ、法印涙を押拭て申されけるは、など供御をば聞食れず候やらん。此事夢にも思召入べからず。何事も期と云事の候物を。平家世を取て二十餘年、惡行身にあまり候。果報此時極ぬと見へて候。其上入道には天魔入かはりて見へて候。天照大神・正八幡宮も君をこそ守奉せ玉らめ。殊更君の憑進せ給ふ日吉・山王も此御經に御影嚮(*やうがう)あつてこそ守護し進せ給ふらめ。世務に私あらじと思召れば、逆臣は水の淡の如く消失候べしなんど申されたりければ、君も慰む御心地して御湯づけをなんど聞食しけり。主上、臣下のかくなれるをだにも歎思召に、法皇鳥羽殿へ入せ給ふ事申に及ず。忍て内裏より御書鳥羽殿殿(*衍字)へありけり。山林頭陁の聖とも成なんと申させ給ひければ、君のさて渡らせ(*原文「渡せら」)給を憑奉てこそ露命も存候へ、何も愚老が成はてん樣を御覽じてこそと申させ給ひければ、此御書を龍顔に押あてゝ御涙にむせばせ給ひけるぞ悲き。院内如此わたらせ給上は中々申に及ず。神慮冥顯如何あるべかるらん。法皇の鳥羽殿へ入せ給ひて後は、御神事とて夜のをとゞへ入せ給ひ、主上毎夜石灰の壇にして太神宮を禮し奉らせ給ひける。法皇の御事を祈申させ給ひけるにこそ、打とけて御寢もならず、供御もはか〴〵しく上らざりければ、中宮を始めまいらせ御心苦く見へ奉せ給ひける。是よりしてぞ御惱付せ御座しける。入道かやうに行ひ散して中宮内裡に渡らせ玉ふ。關白殿御聟なり。天下の事一筋に内の御計なるべしと申て、福原へ下向有けり。此由宗盛奏聞せられければ、院のたびたる世ならばこそ。何の諌有て政務にいろふべき。執柄に云合て宗盛計ふべしとぞ仰られける。鳥羽殿には御歎き積けれども、參近づく人もなし。三條右大臣(*三条内大臣藤原公教)・葉室大納言(*藤原光頼)・中山(*中山中納言藤原顕時)など申せし人も失給ぬ。成頼(*藤原成頼)なんど申人も此世のありさまを見て髙野粉河に籠居し給ふ。かくて今年もはや暮にけり。
治承四年(*1180)正月元三にも鳥羽殿へは相國もゆるさず法皇も憚せ給ければ、參近づく人もなし。二月十九日、俄に東宮御即位あり。主上指たるつゝがも渡らせ給はず、是は何事ぞやと思召。只是入道何事をも心に任たる故也。此踐祚の後は入道・二位殿、父外祖(*外祖父)・外祖母とて准三后の宣旨を蒙て上日の者を召仕ひ、繪かき花結などせしものを出入しければ、偏に院中のごとし。出家の人准三后の宣旨を蒙る事、法興院の大入道殿(*藤原兼家)の例とぞ聞へし。主上僅に三歳にならせ給ふ。三月十九日、新院安藝嚴嶋へ御參詣あり。宗盛を召し、通り樣に鳥羽殿へ參てきと見參に入と思召。是も入道耳に觸ずは叶はじやとて御涙を流させ玉ふ。宗盛參て何か苦候べきと申たりければ、うれしげに思召して又御なみだぐませ給ふぞ忝き。鳥羽殿へ入せ給ひて、法皇・新院御涙にむせばせ玉ひ、良久あつて法皇何事の御願にか、今日明日はる〴〵と思召立つ御事にやと申させ給ければ、いと深う思こめぬる子細候とて又御涙にむせばせ玉ふ。穴絲惜し、我御事を申させ御座にこそと思召けり。角て程も久くなり日もたけゝれば出させ給ふ。同二十六日、嚴嶋の御參詣とげさせ給ひて、同四月一日に福原へ入給ふ。同九日に京へ還御あり。上は平家一體のていにて下は法皇の御事を祈申させ給ふ。遥の海路を凌思召立事、御願成就も疑なし。今日新帝内裏へ入せ給ふに依て、御迎として公卿・殿上人僅に二三人ぞ鳥羽殿まで參られける。同廿三日、新帝御即位あり。法皇の二宮をば髙倉宮とぞ申ける。源三位入道頼政法師常は宮へ忍けるに、進め申事あり。法皇の打籠られて渡らせ給ひ候こと口惜く思食候はずや。思食立て國々の源氏等を召て平家を滅さん事、時日を廻すべからずと申ければ、げにもとや思召けん、方々へ令旨を成れて便宜を待せ給ふ程に、同五月十四日に法皇の御事院も祈申させ給ひし御納受にや、宗盛も入道にさま〴〵に申して法皇を鳥羽殿より出し奉て八條烏丸の御所へ入たてまつる。今夜髙倉宮の御謀叛の事顯れて、取進せて土佐國へ遷申べしと宣下せらると聞へければ、法皇正き二宮にて渡らせ給ふ。鳥羽殿にてかゝる事をも聞ずして中々よかりし物をと思召ける。宮は忍て三井寺に入せ給ふ。三位入道進てまいる。大衆甲斐〴〵しく請取奉て南都山門へ事を觸けるに、山門は平家語らひけり。南都は領掌申けり。三井寺計にて難叶とて宮南都へ入せ給ふ。平家此事を聞て數千騎の軍兵を指遣し武士近付ければ、宇治の橋をひいて宮は平等院に御休息あり。御伴の寺法師防戰ども、足利又太郎藤原忠綱(*足利忠綱)なんど河を渡して戰ければ、官軍程なく破れて三位入道は自害しけり。宮は流矢にあたり失給ひぬ。吁痛哉、末世なる哉。抑此三位入道此事を思立ける事は、子息伊豆守仲綱(*源仲綱)と宗盛公と木の下と云馬故とぞ聞へし。不便なりし事共也。是も平家の不德に憍故也。六月二日、大政入道遷都の事を思立つ。此故は山門・南都近により、やゝもすれば神輿を振り神木を入奉る。是山河隔て其難あるべからずとて、都へ福原より申上らるゝ程に、同六日に俄に取物も取あへず行幸・御幸なる。あはたゝしさ限なし。池の大納言(*平頼盛)の宿所を皇居とす。法皇をば籠の御所とてけしからぬ所に入進せて、武士ども守護し進せけり。鳥羽殿は廣してよかりし物をとぞ思召されける。遷都の事は昔も度々ありけれども、長岡の京は桓武天皇より以來帝王三十代星霜三百八十餘歳は更に恙なし。此都程目出所なしとて、末代まで替らぬやうに御計ごと共ありき。而に入道輙くかくのごとく計けるこそ不思議也。八月廿一日に園城寺圓惠法親王公請(*くしやう)を停められて、武士共守り奉る。僧綱十二人召取れて國々へ預をかる。此上に藏人頭重衡三井寺に發向し、一宇も殘さず燒拂ふ。此寺は天智・天武・持統三代の御願、智證大師の草創也しが、一時に滅びぬるこそ淺ましけれ。古京には人々の家々こぼちつゝ、鴨河・桂河に入て福原へ下けり。其後新都は逐日繁昌しければ舊都は月を累て荒行く。其比源中納言雅頼卿の内侍不思議の夢を見る事あり。大内の神祇官とをぼしき所に衣冠たゞしき人々多く著座せらる。末座にをわれける人座を追立られ給ふことあり。是は如何にと申せば、大政入道方人嚴嶋明神と申す。其後上座し給へる人仰られけるは、此程大政入道に預置太刀をば源頼朝にたぶべしと仰らる。中に御座す人、其後は我孫に此太刀をば給るべしと仰らる。傍の人に問ければ、上座し給へるは八幡大菩薩、中程に御座は春日大明神と申す。角て夢は覺にけり。此事髙野宰相入道成頼聞て申されけるは、我孫と春日明神の仰られけるは、藤氏の末に將軍御坐べきやらん。又嚴嶋は女體にてこそ渡らせ給に、男にて見へさせ給ひけるこそ不審なれと申されけり。其後大政入道此事を聞及て、雅頼方へ其夢見たる者を給らんと有ければ、さる事候はずと申き。彼人は行方知(*不知カ)失にけり。其後入道嚴嶋へ參、御神樂なんどせられけるに、神内侍に詑かせ給ひて、東國に兵革起て天下安からんと仰らる。入道大に驚き給ひけり。此社の夢想によつて儲られたる手鋒も何地ともなく失ければ、彌驚て貞能を召て此事を仰合らる。東國の宗との者共みな在京し候なり。上總介八郎弘道(*平広常)こそ國に候へ。彼を急召べしとて大場三郎景親に仰て召れけり。
頼朝擧義兵事
彼使いまだ下著せざる先に、八月十七日の夜、兵衛佐頼朝謀叛を發し、伊豆國目代が八牧判官平兼隆(*山木兼隆)を夜討にして當國石橋山引籠る。同二十三日、大場三郎景親平家の方人として相摸國勢を催し、三千餘騎石橋山へ發向し合戰ありけるが、頼朝無勢なる故にや打負て七騎に成、舩に取乗て安房國へ越。景親は猶山に臥里に下餘黨を相尋候と早馬を立て申たりければ、都の騷動申す計なし。先討手を下さるべしとて其沙汰有けり。抑兵衛佐頼朝平治の亂の時一門の中に只一人助り、伊豆國にして二十餘年を歴て此事思立ける事、後に承候へば髙雄の文覺上人の勸なり。平家追討の院宣をも此人申出たりけるとかや。頼朝上總へ越けるに、路にて三浦の一族參合上總介・千葉介參ければ、我も〳〵と馳加る。弘常申けるは、急ぎ山を越させ給へ。平家も討手を下す事あらん。山よりこなたを敵にしてはあしかりなんと申す。可然とて須田・八切を渡て瀧の河原にて御勢を記されければ二十萬八千騎と也。其外畠山次郎重忠武藏の七黨參たり。奥州より九郎義經馳上らる。因て頼朝の羽翼成ぬ。同廿六日に平家にも小松少將維盛關東の討手に下向す。今日新都を出けり。此人は平將軍貞頼より九代、大政入道の孫、内大臣重盛嫡子、平家嫡々の正統也。仍今度の大將軍の宣旨を蒙、先内裏へ參節刀を給る。凡朝敵を討時必給て所持する者也。是乎正盛源義親を追罰の例也。副將軍には三河守知度・薩摩守忠度也。侍大將には上總介忠清を先として都合其勢六萬餘騎、我劣らじと出立けり。勇々布(*ゆゝしき)見物なり。同二十九日、舊都を出て日數つもるまゝ駿河國冨士川の西に陣を取。源氏の先陣は黄瀬河の宿に付たり。明日は矢合の合戰と兩陣ひしめきけるに、其夜冨士沼の水鳥立騷けるを、平家は敵夜討に寄たりと驚き、取物もとりあへず迯て京へぞ上ける。源氏押寄て見ければ、大幕雜具山の如に引散し曽て人もなし。偏に八幡大菩薩の御計とぞ見へし。水鳥の中に鴒多く有しとかや。見逃と云事はあれども、平家聞迯れたりとぞ申ける。入道無念の事に思はれ、維盛を流罪し忠清を切べしとぞ怒られける。又木曽冠者義仲【六條判官爲義孫、帶刀先生義賢子】信濃國にして謀叛を起す。同十月十五日に頼朝相摸國小坂郡鎌倉に始て舘をかまへたり。是は源頼義朝臣の屋敷彼時奉祝置鶴岡八幡宮を修造す(*ママ)故とかや。新都には大甞會行はるべかりけるが、其所不可然して五節計ぞ行れける。遷都事不可然旨山門・南都、諸寺・諸社より奏状を以申ける。寔に常は横紙をさくやうなる入道も今度は和ぎ、古き都に還べしと同ず。同十一月廿一日、舊都に歸るべきとの事有ければ、餘のうれしさに取物も取敢ず、雜具已下取捨て我先にと歸上けり。一院・新院二十二日に福原を出させ給ふ。同二十三(*ママ)に行幸成、二十六日には五條内裡へ入せ給ふ。兩院・相國已下も六波羅へ付せ給ひけり。同二十八日に源希義の首を渡さる。是義朝の四男也。頼朝同意の由聞て誅せられたり。維盛朝臣還り上て後は、東海道は遠・三・尾・濃に至て源氏猛威を振ひけり。極月二日に知盛・資盛大將にて貞能を召具して東國へ向ふ。美濃・尾張にては山本・柏木以下の源氏并南都大衆平家を背く。可追罰とて十二月廿六日には藏人頭重衡大將として數萬騎の軍兵を卒し南都へ發向す。奈良坂・般若寺の二途を塞で大衆防ぎ戰と云ども多勢責入ければ散々に成ぬ。次第に責入て在家に火をかけゝるに、後は東大寺・興福寺に吹付て只一時に亡けるこそ悲けれ。興福寺は淡海公(*藤原不比等)の御願、藤氏一族の寺也。東大寺は聖武皇帝の常在不滅の御佛と思召なぞらへて手づから自ら鑄奉せ給ひし十六丈の盧遮那佛を始て亡び給ふこそ淺増けれ。神の嗔・人の恨、梵天・帝釋までも定て驚給ふらん。三笠山の嵐いと物さび、春日野草かれ〴〵に哀なり。同廿九日、重衡朝臣南都滅ぼし畢て四十餘の首を捧て上洛したりけれども、如何思はれけるにや首を渡すに及ばず爰かしこに打捨けり。聖武天皇の御記文に、我寺興隆せば天下も興隆せん、我寺衰微せば天下も衰微せんと見へたり。知ぬ、國土の滅亡・朝家の御大事と覺へたり。淺ましながら年暮て改る春にも成にけり。治承五年辛丑【養和元年】(*1181)一日あらたまの年立かへりたれども、南都火災・東國兵革に依て朝拜もなく節會のみ行れけれ共、主上の出御もなく關白殿を始藤氏人公卿・殿上人一人も出仕なし。平家の人々計出仕あつて執行はる。朝儀も皆すたれ、佛法・皇法ともに盡ぬるとこそ見へたれ。法皇思召けるは、我十善の餘薰にこたへて萬乗を忝す。思へば四代の帝子也孫也、何なる宿業に依てか懸る目を見るらんとぞ思召痛り(*いたはりカ)ける。新院、法皇の御事を強に歎思召けるにや御惱付せ給ひて逐日重り給ひしが、東大寺・興福寺も燒失すと聞召れし後はいよ〳〵憑み少く思食給ひしが、御歳僅に二十一にして同十四日、六波羅の池殿にして終に崩御成にけり。中々一院の御歎譬ん方なし。今は何事に御心も留るべきなれば、偏に後生菩提の御事より外は他事なし。加樣に思召沈給へる事を傳聞、さすがに恐しくや思ひけん、入道の乙娘の十八歳に成けるを院へ參らせらる。廿七日、上臈女房あまた侍り、公卿・殿上人供奉しつゝ偏に女御參のごとし。法皇是は何事ぞやとすさまじく思召ける。同二十八日、源氏尾張國まで責上と目代早馬を立たりければ、京中の騷動夥し。二月七日、大臣已下家々にて尊勝陁羅尼・不動尊の法行ふべき由宣下せらる。大法・秘法の行ひ甚だ大也。諸寺・諸社へ奉弊(*奉幣)を捧られけれども、神は非禮を受給はねば曽て其驗なく、源氏只責上りければ、人皆此上は何事もはか〴〵しからじとぞ申ける。同九日に、義基法師(*源義基)が首大路を渡し、獄門の木に懸らる【陸奥五郎兵衛義時子】。同十二日、知盛所勞によつて還り上る。清經朝臣(*平清経)同京に入。如此云甲斐なげに見へしかば、今度は宗盛下べき由申されけるに、目出候ぬと人々式代申す。同十二日に宇佐宮司公通(*宇佐公通)早馬にて九國住人等太宰府の下知に隨はず源氏に心を寄と告來ければ、貞能發向して責べき旨也けり。同十七日、天下の事を元のごとく法皇知召るべき由申されたりければ、政務に口入すればこそ懸る憂目をも見れとて聞召も入ず。同二十三日、東國にして頼朝伯父三郎先生義憲は平家に心を寄【六條判官為義三男】數多の軍兵を卒し謀叛を發す。頼朝舎弟範頼を差遣候て、下野國野毛の宮にして合戰いたす。義憲程なく討れけり。○同二十七日、宗盛東國へ下向すべきとて出立しけれ共、大政入道心地例ならずとて留る。病付給ひしより白き水をだにも呑入給はず、唯水を以身を寒せよ〳〵とのみにて他事なし。是熱病の攻甚き故とぞ見へし。病床二三間の内へは熱さに人入事なし。二位殿潤二月二日、御所勞日に隨て憑なく見へさせ給ふ。思食事あらば仰をかれ候へかしと申されければ、入道苦しさたへがたけれ共かき起されて、我平治より以來世を取て廿餘年、榮花身に餘て子孫に及び、何事も心に叶はざる事なし。但頼朝が首を見ずして亡なん事こそ口惜けれ。吾死して後堂塔の造立・供佛・施僧も有べからず。只頼朝が首を捕て墓の前に懸べしと仰られけり。宗盛を始として一門公逹・侍ども身の毛よだちてぞ覺へける。同四日、終に焦熱の病に因て終り給ける。寔敷年(*年ごろカ)多くの惡行をし給ひける其報眼前に證明なり。平家一門末有べしとも覺へざりしが果して哀なり。鏡之豈可不愼焉乎(*之に鑑みるに、豈に愼まざるべけんやカ)。偏に天の責を蒙り給ぬとぞ申ける。去正月には髙倉院隱れさせ給ひ、中一月を隔て懸る事の出來することよ。世間の無常今に始ずと云へども、生者必滅の理り打連て哀也。同七日、六波羅にて燒上げ奉て、骨をば圓實法印首にかけて福原へぞ下ける。○二十五日、重衡・維盛六千餘騎を相具して美濃國の源氏追罰に下向せらる。入道失給ひて後僅に廿二日に成に、さこそ遺言ならめ佛經供養の沙汰もなく合戰の場へ向はれけるこそけしからね。○二十七日、法皇法住寺の御所へ御幸なる。治承三年(*1179)鳥羽殿へ御幸の時は武士御車をうち圍で守護し奉りしが、今日の御幸には公卿・殿上人供奉して直體なり璽り(*ママ)覺へし。三月三日、尾張國須俣河の合戰に平家打勝由申けれども、東國勢いよ〳〵増攻上ければ源氏隨はずと云者なし。平家三河國矢作宿まで責下けるを、源氏謀に兵衛佐大勢にて著よし云せければ、取籠られては叶まじとて又京へぞ還ける。七月十七日改元有て養和元年(*1181)と號す。同八月、九國の御敵追罰のため貞能鎭西へ下向ぬ。同十六日、中宮亮通盛舎弟能登守教經北國に至て發向し、越前國にて合戰す。平家又打負由聞ければ、左馬頭行盛・薩摩守忠度重て向はれけり。天慶の例とて大神宮へ鎧を進せらる。勑使甲賀驛にて死けり。又日吉社にて調伏五壇の法行はれけるに、阿闍梨覺筭法印頓死す。佛神の納受なきの前兆分明也とぞ申ける。實に是を以天地人間靈神巍々として在す事、夫不可恐乎。同二十九日、中宮有院號建禮門院とぞ申ける。同十二月三日、皇嘉門院隱れさせ給ひぬ。御年六十一。是は崇德院の后にてましましき。養和二年(*1182)は壽永元年也。正月一日諒闇に依て節會もなし。當代の御忌月に依てなり。二月二十三日夜天變あり。太白昇星を犯す。此事天文要録には重きつゝしみと見へたる由申す。同四月十四日、顯眞僧都日吉にて一萬部法華經轉讀の事あり。法皇御結縁のために御幸あり。爰に何れより云ともなく山の大衆院を取奉て平家を責んと云出したり。山上には平家大勢にて山門を責んと云沙汰有とて騷動す。共に皆虚説なり。偏に天魔の所行なるか。法皇無益なりとて還御なるを、重衡三千餘騎にて穴穗の邊にて向取奉て歸けり。かくあらば御物詣でなど御心に任ぬ事もや有んとぞ思召ける。五月二十七日に改元有て壽永元年と號す。九月四日、前右大將宗盛大納言還補れて、十月三日、内大臣に成給ふ。上臈五人越へられたり。德大寺の左大將實定今度も又越られ給ふぞ不便なる。同七日兵仗を給て、同十六日悦申事あり。當家他家公卿十二人後車せらる。殿上人十六人前駈せらる。目出見物也。東國・北國の源氏蜂のごとく起て只今責上らんとしけるに、風の吹やらん波の立やらん、且心にも掛ずして加樣に花やかなるこそをこがましく見へけれ。同二十一日、大甞會御禊有り。かくて今年は暮にけり。○壽永二年(*1183)正月一日、節會已下常の如し。同二月二日、宗盛從一位せらる。二月廿二日、當今朝勤のために法皇の蓮華王院の御所へ行幸なる。同廿七日、宗盛公内大臣を辞し申さる。かゝりけれ共世間いよ〳〵しづまらず。南都・北京の大衆、九國の住人、熊野・金峯山、伊勢大神宮の神人に至まで悉平家を背て源氏に心をよす。四方へ宣旨を成、諸國へ院宣を遣とも、源氏の下知とのみ心得てければ隨付者なかりけり。其比より兵衛佐頼朝と木曽冠者義仲と中惡き事有て既に木曽追討のために信濃へ自ら下向す。遺恨なきの由を義仲が子息清水冠者義髙と云者を以て申されければ、頼朝是を請取て此上は子細なしとて鎌倉へ引還す。武田五郎信光の讒言とぞ聞へし。同四月十七日、頼朝・義仲追罰のためにとて大將軍は維盛已下八人、侍大將は越中前司盛俊已下三百四十人、其勢十萬餘騎、大略數を盡すとかや。義仲是を聞て越前國燧が城を堅めけり。平泉寺長吏齊明忽に心替して、同廿七日、彼城を責取ける。五月二日、林六郎光明・冨樫太郎が城を攻落し、同十一日、平家二手に成て、大手は越中國礪並山へ向へば、木曽馳向て相戰ふ。小勢なりと云とも種々の武略を廻せし故にや平家打負て倶梨迦羅が谷と云難所に追入られて多分は失にけり。維盛樣々にして迯給ひき。三河守知度討れぬ。侍大將飛驒判官景髙を始として受領・撿非違使百六十人、宗との者二千餘人、其勢既に五萬餘騎倶梨迦羅が谷にて失にけり。同二日、鹽坂の手は盛俊勝色にしなしたり。され共礪並落ぬと聞て引歸して一に成り、平家安髙の橋を引て人馬の氣をつがせける。源氏押寄たりけれ共、橋をひいたりければ爰にて日をぞ送ける。源氏案内者を以て河を渡し合戰す。平家も命を惜まず戰けれども、又打負てはう〳〵都へ歸上る。去四月下向せし時は十萬餘騎、今歸り上る勢は三萬餘騎とかや。七萬餘騎は今度討れぬ。同十一日、藏人左衛門佐定長に仰て神祇大副大中臣親俊を殿上口に被召て兵革しづまらば大神宮へ行幸あるべしと仰付らる。六月中旬に木曽は東山・北陸兩道の勢を語ひ攻上、既に越前國府に著しかば、宗徒の人々を呼集、いさや山門の大衆を語はゞやと被申ければ、各奉り(*うけたまはり)尤可然と也。さらば先牒状を遣し其返牒に隨て可計とて手書(*能筆)にて侍る覺明に仰て調へつかはしけり。平家も一族一列の状を捧て山門を憑けれ共叶はず。既に源氏の兵林六郎光明を山門にさし上せければ、惣持院を城郭とす。先陣は東近江を廻て野路に陣をぞ取たりける。平家も新三位中將資盛、貞能を具して宇治へ向ふ。七月二十二日、新中納言知盛・本三位中將重衡三千餘騎にて勢多へ向ふ。今日山科に宿す。同二十四日、宗盛公小夜深忍て女院の御所へ參て西國へ下向の事申されける處に、此夜半ばかりより法皇渡らせ給はぬと申させ給ふ。宗盛走廻て見まいらせければ、實に渡らせ給はぬ程に、憑む木下に雨のもる心地して、さりとてはと云て、同廿五日せめて行幸計なり共と鳳輦を指よせ、神璽・寳劒・内侍所の三種の神器渡し奉る。平大納言時忠下知せられたるは、印・鎰・時の簡まで取落すべからずと有けれ共、皆あはてたりければ取落すもの多かりけり。女院は主上を抱たてまつり、御輿にのせ進せ給ふ。時忠の外は大臣殿より始て鎧を著給ず。平家の人〴〵御輿の前後を打圍て、七條を西へ朱雀を南へ行幸なる。一年都遷とてあはたゝしかりき事、かゝりし事の有べかりし瑞相(*前兆)也と今こそ思召合けれ。平家の一族、受領・撿非違使官たる者百六十人、都合其勢十萬餘騎ぞ落行ける。是は東國・北國の合戰に討もらされ僅に殘し兵ども也。六波羅・池殿・小松殿より始て平家の人々の家々に火を懸たれば、黒煙天にみち〳〵て日の光も見へざりけり。都には主上も法皇もわたらせ給はず。女院・宮々も嵯峨・大秦に忍ばせ給ふ。關白殿(*近衛基通)は吉野の奥とかや。平家は落たれ共源氏は未打入ずして、主もなく人もなき都にこそ成にけれ。池大納言頼盛は頼朝を憑て都に止まり給ひけり。法皇は天台山に渡らせ給と聞へければ、同廿六日、關白入道殿・大政大臣・左右大臣已下諸卿我先にと馳參らる。同二十七日、法皇天台山より蓮華王院の御所へ入せ給ふ。錦織冠者(*源義広)白旗さして先陣仕る。此二十餘年絶て久しかりし白旗、今日始て御覽ずる御心地し給ひけり。同二十八日、源氏口々より打入。同二十九日、院の御所にして義仲・行家を召れて平家追罰すべき旨仰下さる。兩人畏て罷出づ。頼朝を召るべしとて御使下されけり。主上外家(*がいけ。外戚)惡黨に引れて西海へ趣せ給ふ事、法皇歎思召し、歸入奉るべきの由平大納言時忠に仰られけれ共、平家免れ奉ざりければ力及せ給はで、新主を立進せ給ふべき定有けり。平家は福原の舊都に著て泣々一夜を宿しけり。哀なるかな、三年が程に何れも荒はてゝむぐらの宿とぞ成にける。女院・二位殿・大臣殿は御前のすのこにをはしてさるべき侍共を召て仰られけるは、積善の餘慶家に盡き積惡の餘殃身に及に依て、神にも放たれ奉り君にも捨られ奉て帝都を迷出る上へは何の憑はなけれ共、一樹の陰に宿り一河の流を汲むも皆前世の契なり。况や汝等一旦蹤跗の門客にあらず、累祖相傳の家人也。寔に新羅・髙麗に至て行幸なると云とも、御行末を見奉り、合戰の忠を抽て古京へ今一度入奉て東國・北國を領せんと思ふべしとかきくどき給へば、侍共謹で奉り、實に譜代召仕はれ妻子眷屬等に至まであくまで重恩を蒙りき。何なる野の末山の奥までもならせ給はん御行衛を見奉るべしと異口同音に申ければ、二位殿・大臣殿涙ぐませはせ(*衍字)給ふ。明ぬれば主上を始奉て御舩にめさる。平家の跡とて敵に見せんも口惜しとて、邦綱入道の造り進せられし里内裡を始とし御所中に火を懸たりけり。都を出し程こそなけれ共、是も名殘は惜かりけり。八月五日、法皇は髙倉院三四の宮を請じつゝ見進せ玉ひけるに、三宮は法皇を面ぎらひし玉ける程にとく〳〵とて出し進せ給ふ。四宮法皇の御膝の上に左右なく渡らせ給ひしかば、此宮こそとて御位に付せ給ふべきに定ぬ。同六日、平家一族・公卿・殿上人の衛府・諸司都合百六十人が官職を止めらる。此内平大納言父子もれぬ。是は三種神器を還入奉るべき旨仰られけるに依て也。同十六日、院の御所にて除目行れけり。源義仲左馬頭兼越後守に成る。行家備後守に成る。義仲越後を嫌へば伊豫國を給ふ。備後を嫌へば備前守に成る。此十餘日先までは平家こそ如此官位・勸賞も心に任せたりしが、定なき世の習一夜の間に替るありさま思やられて哀也。八月十七日に平家筑前國大宰府に著て、安樂寺へ參て歌よみ連歌して慰給ふ。同廿日、四宮法皇の宣命にて踐祚あり。閑院殿へ入せ給ふ。攝政は本の攝政基通近衛殿なり。是西國へ下り給ぬ(*ママ)に依て也。九月二日、院大神宮へ公卿の勑使を立らる。兵革の御祈也。筑紫にて四宮御踐祚有と聞て、さては四宮をも具足して有よとすこし安堵し給ける程に、豊後の國司は刑部卿三位頼輔なり。當國の住人緖方三郎維義に仰て、平家九州に叶ふべからず、追出し申べし、是私の下知にあらず一院の院宣也と申されたり。維義領掌し既に向と聞へければ、種々にこしらへ申されけれ共叶はずして力なく落行けるこそ悲けれ。公卿・殿上人・女房已下袴のすそを取指貫のそばを取て箱﨑の津へ落けり。天の責をや蒙けん、折節降雨は車軸のごとく吹風は砂を上ぐ。山鹿兵藤次秀遠が舘へ入せ給ふ。又頼朝を召れけるに、俄に上洛輙からずとて、居ながら征夷將軍の宣旨を蒙る。平家は山鹿の城へも猶維義向と聞へければ、髙瀬舩に乗て四國へ渡り給ふ。民部大夫成良讃岐八嶋に内裡を造り入奉る。四國は隨にけり。木曽は都の守護となりけれ共、事の外なる田舎人にて、事に觸れてあらましき振舞・につかぬ事、或は笑しき事共多かりき。平家は山陽道八簡國(*八箇國カ)打取る由聞へければ、義仲八田判官代義清を打手にさし下す。同十月一日、水嶋にて平家と合戰す。義清無勢なりければ、取籠られて討れぬ。義仲則馳下る所に、都の守護に置たる十郎藏人行家謀叛の由聞へければ木曽馳歸て上洛す。行家義仲に違て播磨に懸り下向し、十一月二日室山に著しかば、平家推よせ合戰せしが、行家打負て和泉國へぞ引たりける。平家は室山・水嶋兩度の合戰に打勝て會稽の耻を且雪ぎけり。都には源氏郎等狼藉限なくして、八幡・賀茂の神領とも謂はず奪取打取ければ、京童皆平家に源氏を替劣りしたりとぞ申ける。院より狼藉止むべき旨、壹岐判官知康(*平知康)を御使にて義仲方へつかはされけるに、種々惡口をせし故にや、友康歸り色々に讒し申して、左右なく木曽を追罰有べきに治定有て山門・三井寺の衆徒を召けり。北面の者共興有事に思て云訇る。心も有人は哀只今壐事出來すらんと歎あへり。此事木曽聞て、上は手打れては叶はじとて、十一月十九日辰時計に法住寺殿へ押寄て北の在家に火を懸たりければ、周章さはひで散々に落行けり。院は御輿にて御幸成けるを武士取進せて五條内裏へ入進せ守護し奉る。八條の宮(*円恵法親王)御首を取れさせ給ふ。明雲僧正流矢に當て失給ひぬ。仁和寺の守覺法親王御輿にて出させ給ひけるを、武士追付見奉れば、金色の佛に見へさせ給へるにや、いや〳〵是は佛にて渡らせ給ふとて通し奉るこそ、末代といへども又有事にこそあれ。月卿雲客或は討れ或は疵を蒙る人多し。知康一番に行方しらず落にけり。主上は御前の池の舩に召し浮ばせ給ふが、夜に入て七條殿へ入せ給ふ行幸の儀式中々思遣るべし。同二十一日、木曽院の近習已下文武の官都合六十九人が官職を止む。攝政殿をも止奉て松殿の御子中納言の中將師家を一度に關白に成奉る。平家の惡行には猶倍せりとぞ申ける。宮内判官公朝關東へ馳下て木曽が狼藉の事申ければ、頼朝驚て幾度も義仲ひがこと仕候はゞ是へ蒙仰候はで左右なく合戰ありて、さるべき人々多討せ其上御所をも燒亡し奉るやうに御沙汰勿體なく候とて、公朝を詞あらに云しかども頓て打手を上し申さんこと時尅有べからずと申たり。木曽此由を聞て、平家に同意すべき由申下しゝかども平家用ざれば力なくして止ぬ。平家上を恨て謂く、源氏を招き平家を背かせ給へ共、木曽御所をも燒院をも蔑にし奉り、月卿雲客の人々をも多く解官し或は亡しき。さぞ悔給ふらめとて興に入てぞ咲ひける。義仲都の事恣に取沙汰して院の御厩の別當に推成て丹波國をぞ知行しける。十二月十日、院は五条大裏(*ママ)より大膳大夫業忠(*平業忠)が六条西洞院の宿所へ移らせ給ふ。松殿入道殿(*藤原基房)義仲に向て、惡行をのみ事とせし者の世をたもつ事は無ぞかし。平家も惡行多りしかども、又希代の善根をもしたりしかば二十餘年威海外に及き。然れば此程誡置たる人々免し被申よかしと仰られければ、則免してんげり。平家は西國ををさへ頼朝は東國を押ふ。木曽は都にて專らときめきしかば、世中何と成行べしとも不覺ながら既に今年も暮にけり。壽永三年【元暦元年】(*1184)正月一日、院御所は業忠の宿所に御座しき。御所の體何事もつき〴〵しからざれば朝拜もなし。平家八嶋の礒に春を迎へ、先帝御座せば主上と仰奉れ共四方拜もなく腹赤も奏せず氷樣(*ひのためし)も奉らず。寔世亂れ萬の序次も正しからざりしかども、指賀に都にては角はなかりしぞかしと申合けり。同十日木曽は院の御所へ參て平家追罰の爲に西國へ發向すべしとて出立所に、同十日東國より蒲冠者範頼・九郎義經大將として既に打て上由聞ければ、義仲方々へ軍兵を遣し防んとす。同廿日、佐々木四郎髙綱・梶原源太景季河を渡て責入る間、宇治の手破て候と告來たりしかば、義仲罷出ぬ。其後義經先六騎打連て院の御所へ馳參じ、東國より兵衛佐頼朝木曽が狼藉の事承候て追討の爲に範頼・義經を大將として六萬騎差上候。範頼は勢多く上候が未參候。義仲河原を上に落候に付冠者原を差遣候つる。早打取ぬる事もや候らん。院は中門の連子より叡覽有て義經御所を守護し候へと仰られけり。義仲六条河原・三條河原にして度々戰しか共、打破れて粟田口さして落つゝ今井四郎兼平を尋々行程に打出の濱にて行合ぬ。打連て尚延び行きけるが、木曽が勢所々の合戰に皆討れて今は主從二騎に成て、義仲粟津の松原にて打れぬ。兼平自害したりければ、合戰は止にけり。同廿二日、師家公關白を罷止て本の攝政基通【近衛殿】に還補あり。同二十六日、義仲首大路を渡し獄門の木に懸られぬ。同廿九日、範頼・義經平家追罰の爲西國へ發向の旨申上ければ、業忠の仰けるは、神代より傳り御座す三種の神器事故なく入れ奉べき旨勑定とぞ宣ひける。平家八嶋を出て攝津國福原に著。西は一谷、東は生田森を木戸口とし、室・兵庫・須磨の板屋戸に陣を取り、山陽道八箇國・南海道六箇國を打隨て、其勢十萬餘騎を籠めける。讃岐國の在廳等心がはりして平家を背き源氏に心をよすと聞へければ、能登守教經を大將として備前國下妻城にて合戰す。在廳等打負て落けるが源爲義が子淡路冠者と申すを大將として合戰せしが、冠者もなんなく打れぬ。在廳等百六十人が首を取て福原へ進する。河野四郎道信源氏に志ある由聞へて、能登守教經追懸て相戰ひしが、道信一人に成て落にけり。備前國今木城に平大納言教盛の御座けるを、九國住人押寄て責戰ふ。教經後攻として追懸て戰ければ、こらへかねて九國の住人等は筑紫へ引退く。而して教經も福原へ返る。能登守度々の髙名雙びなしとぞ仰られける。二月四日福原には故入道の忌日とて佛事を營み、除目行れて僧俗任官す。源氏今日福原へ寄べかりけるが、善事妨ん事罪深とて延ぬ。五日は塞り六日は惡日なれば、七日卯時、東西の木戸口の矢合と定て、源氏大手は生田森、大將軍蒲冠者範頼五萬騎、搦手一谷へは九郎義經一萬騎。二月四日京を出發向しけるが二日路を一日に馳著て丹波國三草山の東山口に陣を取。平家の大將は新三位中將資盛・有盛・師盛三人七千騎にて三草山の西の麓に陣を取。源氏不意を討んとて今夜即夜討によせしが、案のごとく打落されて資盛・有盛面目なくや思けん、八嶋へ越られける。平家是を本意なしとや思ひけん、一谷の山手へ重て能登守を差遣す。義經ひへとり越(*ママ)に向ひ、同六日一谷後の山に陣を取て城郭の強弱を見下しけり。熊谷次郎直實夜中に西へ廻て一谷木戸口に寄て平山の武者所季重と先がけして合戰す。生田森には梶原平三景時前駈して戰けるが、其勢も少かりければ輙打落すべし共見へざりけり。去程に義經合戰の體を見て、同七日去來や落んとて七千騎の馬の鼻を並て能登守の假屋の前を一度にさつと落したる。平家思もよらざりければ、取合するにも及ばず、我先にと落散けり。大將通盛討れぬ。能登守は何とか思はれけん、屋嶋へぞ渡られける。角て東西の木戸口破れしかば、平家大將軍本三位中將は生捕れ、越前三位通盛・但馬守經正・薩摩守忠度・備中守師盛・武藏守知章・大夫敦盛等も討れけり。越中前司盛俊已下の侍は數知ず亡ひにき。其外討漏されし人々みな舟に取乗て讃岐の八嶋へ渡られけり。討れぬる人々の北方、或は樣を替或は出家をせんとこしらへける。其中に越前三位の北方は互の心や深かりけん、終に海にぞ沈み給ひける。是は小宰相の局と申人也。源氏は平家の生捕并首共を持せて上洛す。二月十三日、撿非違使是を請取て大路を渡し獄門の木に懸る。翌日重衡卿をも大路を渡さる。法皇も御車を立て御覽有けるが、左衛門佐定長以て召問る。定長仰を請、赤衣に劒笏を帶し重衡に向て立ながら宣命を讀けるに、生ながら冥途にて冥官に値へる心地して哀也。昔は物のかずともせざりし定長、今はをそろしく覺ける。重衡無恙御座さんとならば三種の神器を還し可入奉旨西國へ申下し候へと有しかば、則重衡其旨申送しか共、平家用申ざりければ了簡の及所に非ず。其後頼朝申請られける程に、同三月十日、重衡をば關東へぞ下されける。兵衛佐見參して、角だに候はゞ大臣殿にも見參に入候ぬと覺ふとぞ仰られける。軈も切られぬべかりしを狩野介にぞ預られける。權亮三位中將維盛三月始に八嶋を忍て髙野山へ參られけるが、瀧口入道と云者を先に立堂塔巡禮し給ひつゝ奥院へ參て大師の御廟を拜給ふ。御入定を思へば承和二年(*835)過こし方は三百餘歳、又行末は五十六億七千萬歳の後、慈尊三會の曉を待給ふらんもいと久しさよ。維盛が身の上雪山の鳥の鳴らん樣に覺へ侍るとて涙ぐませ給ひけり。今夜は瀧口入道が庵室に宿し給ふ。遁れぬべくは角ても有まほしくぞ思はれける。明ぬれば出家して、瀧口入道を先逹にて熊野參詣し給ふ。證誠殿の御前にて我身こそかく成ぬとも妻子安穩にと申されけるこそ不便なれ。或僧一人しみ〴〵と涙ぐみて見え給ふに問ば、あれに御座す山伏こそ小松内府の嫡子權亮中將殿にて御座候へ。此人の四位の少將と申せし時、法皇仁和寺殿にて五十の御賀のありし時、重盛は内大臣・左大將にて階下に著坐ありき。頭中將通盛・本三位中將重衡已下一門の卿相雲客、今日を晴と出立ち花やかなりし人々也。其中より此人青海波を舞出られたりしは、譬へば嵐のさそふ花の匂の御身に餘り風にひるがへる袖までも物を照し、天もかゝやく計也。今二三年あらば大臣の大將とこそ思しに、只今の御あり樣かく見なし奉べし共思はざりしかとて泣れけり。惡行をせし人の因果の末皆かくのごとし。其後那智に參り、それより舩に乗て帆立嶋と云所に上て其有増を札に書付て立置、舩に乗て推出し、三月廿八日、念佛申し卒に海へぞ沈給ひける。與三兵衛、石童丸も同海へ入にける。日も暮ければ聖は髙野へ還り、舎人も八嶋へ返りけり。同日關東にして頼朝正四位下に叙し給へり。義仲追罰の勸賞とぞ聞へし。同五月三日、池大納言頼盛東國に至て下向し給ひければ、四位殿故舊の因みなんど云出され、官位・所領元よりも厚して珍しき物など賜り歸洛の體尤いかめしくぞ見へたりける。同六月六日、平田入道と申肥後守は貞能が弟なり。伊賀・伊勢の勢を語ひ謀叛を起し、近江國まで打て上り相戰けれども、天に捨られし平家の運に引れけるにや程なく打負散々に成にけり。是志の賢きより出て終り有べき大勇に非ず。夫天下に大功を立萬民の勞苦を救ん者は、時の運の至否與天の助の去就を見て、智士・勇士に計て其功を思ひ立べし。平田ごときは却て敵に力を添ふ。京童三日平氏と笑ひけるも此事也。平家八嶋に還ても、東國よりは大勢彌重て上ぬると云、九國よりも寄來と櫛のはを引ごとく告來れかは(*告來ればかカ)、心も有平氏の人々は、清盛の積惡此衰に相加り天の責彌極りぬるよと方々の憂こと共に取添思はれけるこそ哀なれ。二十八日、新帝御即位あり。八月六日、九郎義經一谷の勲功に依て忝き宣旨を蒙り、同廿八日五位尉に任じ大夫判官とぞ申ける。蒲冠者範頼は三河守にぞ成たりける。九月二日、範頼西國へ發向しけるが、備前國にして飛驒守景家・越中次郎兵衛等に渡し合せ相戰ふと云ども源氏打しらまされにけり。然共平家も八嶋へ相引にぞしたりける。源氏は室・髙砂の邊にやすらひつゝ屋嶋へも寄せず都へも歸らずして只民をのみ費し日を送りける。同廿日には御禊の行幸あり。去々年河原の御はらへの行幸にも平家こそ取行しにと哀也。都には十一日大甞會を行はる。判官義經供奉して本陣に候けり。是は木曽には似ず事の外京馴て勇々しく見へけれ共、なを平家の人々には劣てぞ見ゑ(*見え)し。範頼は未西國にをはして出仕などもせ無りけり(*せざりけりカ)。國々の民共も源氏に煩され或平家の衰を見續などするに、勞するのみにて其年も既に暮にけり。元暦二年乙巳(*1185)正月廿日、大夫判官義經院御所へ參て平家追討の爲に西國發向の旨申上ければ、三種神器事故なく歸し入奉らん計略を廻し候へとぞ宣ひける。義經承り、其功を勵し候はんと申上、今度平家を打亡ぼさずんば歸り參べからずと申切てぞ罷出ける。八嶋には隙行駒の足早して春も半ばに成りつゝ、憂にのみ沈み安きを知ずながらも早三年の春にあひにけるこそはかなけれ。寔に何事もかはり果たる世中に、花一木のみ香しければ、却て其も吾心のみさほならぬを耻にけり。又關東より軍勢彌増上りぬると聞へあり。二月十八日に範頼・義經、渡部・神﨑に著。義經は阿波國へわたり、範頼は山陽道を歴て長門へ向ふ。義經與梶原と逆櫓の口論有て、梶原我手を引分て留にけり。大風甚けれ共、五百餘艘の中より唯五艘出して義經は渡られけり。殘の舩は大風に懼るゝもあり、梶原に恐て出ざるも有。常は三日に渡る所を只三時計に阿波國はちま(*八間)の浦にぞ吹付たる。明方の雲間よりほの見けるに、赤旗指たる軍勢共見えしかば、判官僅五十騎計にてをめいて懸給けるに、一矢も不射三町計引たりけり。彼大將臼杵・近藤六近家を生捕てより其手皆源氏に隨ぬ。彼を路知べに具して櫻間介良遠【成良子】が舘を追散して、二日路を夜もすがら越て廿日の寅時計に屋嶋の南の山口に陣を取。同卯時に牟禮髙松と云在家に火を懸たり。平家是を見てあはや敵近付たりとて周章騷ぎつゝ惣門の前の汀より先帝を始奉て大臣殿已下我も〳〵と舩に乗、一二町計押出したりける所に、先陣の中より唯一騎惣門の前の汀に馳來る。平家の方より舩を寄て名乗れと云ければ、一院の御使大夫判官源義經也けるぞや。我と思はん人あらば寄かしと仰けれ共、左はなくして引退て謂けるは、源氏は小勢也ける物をあはてゝ舩に乗し事よとて千悔しけれ共甲斐なし。源氏内裡并に人々の宿所に火を懸て燒拂ふ。大臣殿は教經に向て、舩より下て合戰し給へ。源氏は小勢なりけるぞ、口惜物哉と仰られければ、畏て承候ぬと云も果ず、宗との兵五百餘人召具して惣門の前の汀に上りければ、義經五六十騎にて打向ふ。伊勢三郎義盛と越中の次郎兵衛盛繼と言戰せし處を、金子十郎能引て射たりければ、盛繼がむないたに中て引退く。教經は大將を一矢射とてねらひけるを、佐藤三郎兵衛次信(*佐藤継信)是を見て義經に駈塞て戰しかば、大將は恙もなかりけり。其外我をとらじと兵共進ける中に、次信眞先なりし故にや精兵の矢にあたりけり。義經次信を陣の後へかき入させ近習の士を付置看病ねんごろ也しか共、卒に失にけり。翌日忝く吊せ給へば、皆人感じあへり。角て四國勢多分源氏に隨ひぬ。角て四國勢多分源氏に隨ひぬ。今日も戰ひ暮しければ、(*平家は)志度道場著き、源氏は牟禮髙松に陣を取る。明ければ平家の跡を追て打けるに、義經眞先駈て押寄しかば、強士七八十騎つゞひたる平家是を見て、例の大將軍也、打取れや者どもとて宗との人々八十餘人命を惜まず爰を先途と攻戰しが、互に精つき相引にしたりけり。平家の舩の中より女姓を一人出し、舩の舳に扇を立させ、源氏是を射よかしとて招ひたる。其間いと遥なるに、下野國住人那須の與一是を射落しゝかば、兩陣の感聲今だも鳴も止ず。平家は風に隨ひ波にまかせつゝ漂ひけり。義經志度の浦に著て、伊勢三郎に計て田内左衛門を生捕る。其よりして彼手勢三千騎皆源氏に付にけり。さてこそ四國は皆隨けれ。梶原百四十艘の舩に取乗て今日八嶋に著しかば、皆後のあをい、會に合ぬ花とぞ笑ける。大夫判官都を出し日、住吉の第三の社より鏑矢西を差て出ぬと何地ともなく云出したりしが、院御所より種々神寳等を神主長盛に附て恩賜あり。角て熊野別當四郎道信も源氏に隨ひしかば、見るが内に大勢に成にけり。義經は勢汰(*そろへ)し舩しらべして平家の跡を追て急れけり。平家は八嶋をば落されつ九國へは入られず、長門國追津平津門司赤間が關邊に浮てたゞよひけり。元暦二年三月廿四日、源氏長門國壇浦に打寄たり。平家も五百艘の舩を三手に分てこぎ向ひ、今日を最後の軍せんと思ひ定、皆其約を云かはし遺言など認つる心の内こそ武士たる上角こそあらまほしけれと思ひあへり。源氏の舩の間三町計也。新中納言下知せられけるは、如此成ての上一つの謀あり。十死一生に極める時は還て一死十生の利有事、先規度々なり。此理をつよく思籠よとなり。皆々げにもと思入、連序して進ける。いかゞ仕りたりけるぞや、成良(*阿波重能)計ぞ惡びれたる。兩陣の舟入違へ亂合、面もふらず戰ける。平家いつのまにかは猪しゝ武者に成たるらん、今度は源氏射しらまされて引退きしかば、平家は勝に乗てぞ責にける。かゝる處に民部大輔成良忽に心替して平家の後矢を射る。平家したく相違してんげれば途に迷ひぬ。成良が心替は嫡子田内左衛門を生捕れけるに依てなり。源平の兵共入亂相戰ふ。其聲上は梵天下は龍神までも驚給ふらんとぞ覺えし。二位殿今を限と思ひ定め、寳劒を腰にさし神璽をば脇にはさみ、先帝をば按察局に懷かし奉り、海へぞ入給ける。譬ひ平家は運命至極してかく有ぬ共、先帝を失ひ奉る事尤上なき無道也。元より此老尼は常にしも武き人也ければ、かゝる事をもなど仕出さゞらん。然るを大臣殿已下の人々兼て諌ざるは至極の不覺なり。女院もをくれ進せじと飛入せ給ひけるを取上奉る。教盛・經盛手を取組で行幸の御供せんとて海へ入給ひぬ。又小松殿の公逹も手をとりくみつゝ一度に入給ひぬる心の内思ひやるさへに哀也。大臣殿は退れぬべくはいかにもして遁れみんとせられけるを、或人通りざまにつき入奉る。子息右衛門督清宗もやう〳〵にして入給ひしかども、沈もはてず漂ひ給けるを取上、父子共に取奉る。能登守今を限と汗水に成て戰はれけるを、知盛哀よしなき事をし給ふ物哉と申されければ、げにもとや思れけん、敵三人脇にかいはさんで海へ飛入ける。知盛見るべき事は見つとて立れたるに、大臣殿は生捕られ給ひぬと申せば、穴心憂と宣ひて海中に急がせ給ひけり。内侍所の唐櫃を武士寄て開奉りしが、眼と口より血涌出るがごとく流れければ、打捨てあきれたり。義經平大納言時忠に仰て本のごとくしたゝめ奉る。神璽は浮たりけるを取上奉りぬ。寳劒は終に失にけり。戰過ければ、女院・北の政所・平大納言以下の生捕を先立て、義經諸事を行ふに、賞罰其所を得、上下の恨なし。かゝる大將軍は末代にしていと珍らかなりとぞ感じあへりける。義經京へ早馬を進せけるが、四月三日未刻計に京著し、去月廿四日、長門國檀浦にして平家を悉く打亡し、三種の神器事故なく取返し奉候。并に大將軍宗盛父子生捕候と申上たりければ、御感のあまりに使源八廣綱(*源広綱)を兵衛尉になさる。四月廿五日、内侍所鳥羽に著せ給ふと申ければ、御迎に公卿・殿上人參られけり。先今夜は大政官の廳に入奉る。同廿六日、生捕京へ入ければ、見る人數を知らず。法皇も六條東洞院の大路に御車を立て御覽あり。公卿・殿上人も車を立並べ所せげに見えたり。大臣殿の車の前後の簾を上左右の物見をも開たり。平大納言以下も推續いて見えけり。僧俗男女の見物いと夥し。見る人の内思ふどちさゝやきけるは、古今義を外にし利を專にし、上を蔑にし下を苦め、己が樂をのみ事とする人の終りは皆如此ぞかし。是を曉し愼まざらんは心盲のみ。急に吾身に移し得て、善をば倍して信じ、惡をなさば清盛と吾と一致たるべしと、いと深ふ其所に止り給ふべし。
保歴(*ママ)間記 上 終
(序)
保元乱之事
平治之乱事
清盛加階之事
頼朝挙義兵事