上宮太子御記
撰者未詳
(『十七條憲法・聖德太子御傳集』 雄山閣文庫8 雄山閣 1937.6.10)
※ 見出しは入力者が仮に付した。
仏法東漸
太子の生立ち
崇仏・排仏の争い
上宮太子の奇瑞
晩年
追記
奥書
釋迦の正覺成たまひし日より、涅槃にいりたまふよにいたるまで、ときたまへるところのもろもろのみのり、ひとつもまことにあらざることなし。始には華嚴を説て、解らしめたまふ。日のいでてまづ高峯をてらすがごとし。つぎに阿含をのべて、聲聞にしらしむ。日の高くして漸深谷をてらすがごとし。また所所にして
方等の種種の經をあらはすなり。佛は一音に説きたまふといへども、衆生はしなじなに隨て解をうること、一味の雨の平等にそゝくといへども、草木の大小にしたがふてうくるところおなじからざるがごとくなり。一十六會の中に、
般若の空のさとりを敎て、四十餘年ののちに法華の妙道をひらきたまへり。鷲の峰にしてまたおもひあらはれ、鶴の林にして聲たえたまひしより、迦葉は詞を鐘の音に傳へ、阿難は身を鎰のあなよりいれて、つねにえらび千人の羅漢をとゞめて、みなしるしをける一代の敎なり。それよりのち、二十餘人の聖うけ傳へ、十六の大國之皇ひろめ守りたまへりき。釋尊は滅したまへども、敎法はすでにとまり、藥をとゞめて醫師にわかれたるにおなじ。誰か煩惱の病をのぞかざらむ。玉をかけて親友のさるににたり。つぎに無明の醉をさますべし。そも/\天竺は佛のあらはれて法を説たまふ境、震旦は法傳りてひろまる國なり。ふたところをきくに佛法漸
澆たるところなり。震旦の貞觀三年に、玄奘三藏天竺に行輪之時、
雞足山のふるきみち、竹しげりて人もかよはず、
孤獨園の昔の庭には、室うせて僧もすまざりけり。
摩竭陀國にゆきて菩提樹院をみれば、昔國王の觀音の像を造れるあり。身はみな地の底に入て、肩より上わづかに出たるあり。佛法滅しをはらむときに、此像いりはつべしとのたまひけり。また震旦にも聖人おほく道さかりなれども、屡みだるゝ時あり。後周のすゑの代に、大に魔の風をあふぎ、將に法の燈を滅せしかば、靄禪師の世を悲しかば、身を恨てもて命をすつ。遠法師の道をおしみしは、王に對て罪を論ぜしなり。
開皇のころに重てもて弘き。大業の代にまたもて衰へしかば、鬼泣神歎山鳴海騷。また
會昌の天子おほく經論をやきしかば、宮の内の公卿、かうべを低てもてなげき、門の前の官人は、なみだを流してもて悲しなり。彼
貞觀より已來三百六十餘年をへだつれば、天竺を想像に觀音の像いまはいりをはりぬらむ。會昌より以後一百四十餘年にをよびぬれば、大唐を推量に、法門の少成ぬらむと云々。あなたうと佛法東に流てさかりに我國に止れり。路をたれたる聖、昔
大あらわれて、道を弘たまふ君、今朝にあひつぎたまへるなり。十方界にあひがたく、無量劫にきゝがたき大乘經典を、こゝにして大くきゝみること、これおぼろけの縁にあらず。法の御音は毒のつゞみのごとし。一度きくに無明のあたをころすがごとし。經のみなは藥の木におなじ。わづかにあたるに輪廻の病をたすく。此ゆへにすゝむるにねむごろなる志は、身の皮をはぎて、大乘の文典をうつすべしと、これを敬こゝろは、くちのいきをもて、經卷の塵をのかざれとしめさしめたまへるなり。夫雪山童子は半偈を求て命をすて、最勝仙人は一偈をねがひて身を破しなり。常啼は東をこひ、善財は南を求め、藥王は臂をともし、普明は首をすてむとしき。
設ひ一日に三度
恒沙のかずの身をすつとも、尚佛法の一句の恩をも報ずることあたはず。昔床の下にして法を聞し犬は、舍衞國にむまれて聖となり、林の中にして經をきゝし鳥は、
忉利天にむまれてたのしみをうけき。鳥獸如
[レ]是、いわむや人の愼てもて聞をや。嗟呼
滅度の後、像法のころにいたりて、震旦にはじめて漢の世明帝の時始て天竺より傳へ、我國にはおそく欽明天皇の代に百濟より來れりしなり。我いまたなごゝろをあはせて、法の妙なることをあらはすなり。
昔上宮太子と言ふ聖
御坐き。用明天皇のはじめて親王と成玉ひし時に、穴太部の間人皇女の御はらより誕生したまへる王子なり。始て母の夫人の夢に、金色なる僧ありて云、我世を助くるねがひあり、しばらく御はらに宿らむと、我は救世菩薩なり、家西方にありといひて、口の中におどりいるとみて懷妊したまへる太子なり。太子の御伯父敏達天皇の天下を治したまふ始めのとしの正月一日に、夫人宮の内をめぐりて、むまやのもとにいたるほどに、覺ずして生たまへるなり。おとも人いそぎて寢殿にいだきいたるほどに、にわかにあかきひかり西より來ている。御身ははなはだかうばし。よつきの後よりもののたまふ。あくる年の二月十五日の朝より、自たなごゝろをあはせて東に向て、南無佛とまふして拜たまふ。太子六歳なるに百濟國より始て法師尼經論をもて來れり。太子そうしたまふ、わたれる經論を見んと。香をたきてひらきみることをはりてまたそうしたまふ、月ごとの八日十四日十五日廿三日廿九日卅日これを六齋とす、この日は梵王帝釋國のまつりごとをみる。ものゝいのちをころすことをとゞむべしと。帝皇よろこびたまひて、天下に詔をくだしたまひて、此日日にはものをころすことをとゞめたまふ。八年の冬新羅國より佛像をたてまつれり。太子そうしたまふ。西國の聖釋迦牟尼佛の像なりと。新羅國より日羅と云人來れり。身に光あり。太子ひそかにいやしき衣をきて、もろもろの童にまじわりて、難波の館にいたりてこれをみたまふに、日羅、太子をさしてあやしぶ。太子おどろきてもてさる。日羅地にひざまづきて、たなごゝろをあはせて曰く、敬禮救世觀世音、傳燈東方粟散王、從於西方來誕生、皆演妙法度衆生、とまふすほどに、日羅おほきに身の光をはなつ。太子また眉間より光をはなちたまふ。また百濟より彌勒の石の像をもてわたせり。大臣蘇我の馬子の宿禰この像をうけたり。家の東に寺を造て安置したてまつりて恭敬したてまつる。尼三人をすゑて供養せるなり。大臣此寺に塔をたつ。太子のたまはく、塔はこれ佛舍利のうつわものなり、釋迦如來の御舍利自然にいできたりなむと。大臣これをきゝて祈に、齋食の飯のうゑに佛舍利一粒をえたり。瑠璃のつぼにいれて、塔におきておがむ。太子と大臣と意をひとつにして三寶を
弘。
この時に國の内に病おこりて死する人大あり。大連物部の弓削の守屋と、中臣の勝海とともに奏してまふさく、我國にはもとより神をのみたふとみあがむ、しかるに蘇我の大臣佛法と云ものを興しておこなふ、これによりて病世におこりて人民みなたえぬべし、これは佛法をとゞめてなん、ひとの命はのがるべきとそうす。帝皇詔してのたまはく、まふすところあきらけし、はやく佛法をたてと宣言あり。太子奏したまふ、
二の人はいまだ因果のことわりを不知なり、よきことをおこなえばさいわいいたる、あしきことをおこなえばわざわい來る、此二人いまかならずわざわいにあいなむと奏したまふ。しかれども宣旨ありて守屋の大連を寺につかわして、堂塔を破り、佛經をやく。燒のこれる佛をば難波のほりえにすてつ。三人の尼をばせめうちておいいだす。この日雲なくて大風ふき雨くだる。太子、わざわいはいまおこりぬとのたまふ。この後に瘡の病世におこりて、やみいたむことやきさくがごとし。ふたりの大臣ことにおもきとがをいひて奏してまふす、臣等が病くるしみいたむことたえがたし、ねがはくは三寶にいのりたてまつらむと。また勅ありて、三人の尼をめして二人の大臣をいのらしむ。また堂塔たえうせにし佛法を改しむるなり。これよりまた興す。太子の御父用明天皇位につきたまひぬ。二年ありてのたまはく、我三寶に歸依しなむと思
(*と)。蘇我大臣おほせごとにしたがはむと奏し、法師をめして内裏にいれしなり。太子よろこびて、大臣の手をとりてなみだをながしてのたまはく、三寶のたえなることを人いまだしらぬに大臣意をよせたり、うれしくもあるかな、とのたまふ。ある人ひそかに守屋の大連につげていはく、人々はかりごとをなして兵士をまふけよ、あひたすくべし、といへり。守屋の大連また皇を咒詛したてまつるといふこときこえなれりとなり。蘇我大臣言、太子武士をひきゐて守屋の大連を追と。守屋また兵士をおこして城を
つきふせぐ。御戰その軍こはくさかりなり。御かたの兵士おそりおのゝきて三度しりぞきかへる。このときに太子御歳十六なり。將軍のうしろにたちて軍の務ごとをしめす。また秦川勝、
白膠木をもて四天王の像をきざみつくらせてもち、もとゞりのうえにさし、ほこのさきにさゝげて願をおこしていはく、我等をして戰にかたしめたまへ、しからば四天王の像をあらはし塔寺をたてん、といへり。大臣もまた如
[レ]是願じて戰ふ。物部の守屋の大連、大なるいちゐの木にのぼりて、物部の氏の大明神をいのりちかひて矢をはなつ。太子の御あぶみにあたれり。太子また舍人は
迹見の赤檮に
おをせて四天王にいのりて矢をはなたしむ。とほく守屋の連がむねにあたりて、さかさまに木よりおちぬ。其軍みだれ破れぬ。せめゆきて守屋がかうべをきりつ。家の内の資材庄園をばみな寺のものとなして、玉造の岸の上に始て四天王寺をたつ。これより佛法彌さかりなり。
太子の御伯父舅崇峻天皇位につきたまひぬ。この御宇に太子十九歳にて冠したまふ。また太子の伯母推古天皇位につきたまへり。國のまつりごとみな太子にまかせたまふ。百濟國の使にて阿佐といふ王子きたれり。太子を拜て
言、敬禮救世大慈觀世音菩薩、妙敎流通東方日本國、四十九歳傳燈演説、とまふす。太子眉間より白光をはなちたまふ。太子甲斐國よりたてまつれる黑駒の足よつ
白に乘じて雲に入て東にさりぬ。調士麿馬の右にそえり。人々あふぎてみる。信濃國にいたりて、
みこしの境をめぐりて、三日をへて歸りたまへり。太子推古天皇の御前にして、高座にのぼりて勝鬘經を講じたまふ。もろ/\の名僧をして義をとはしむるに時にこたふること妙なり。三日講じおはる夜、空より蓮華ふれり。華の廣は三尺、地三四町にふりつもれり。四寸ばかりなり。あくる朝に御門みたまふてその地に寺を建。いまの橘寺なり。ふれる華今に此寺にあり。また太子、小野の妹子を勅使として、さきの世に衡州衡山にありしときたもちたりしところの經をおしえてとりにつかわす。おしえてのたまはく、赤縣の南に衡山あり、山内に般若寺あり、昔
同法はみなすでに死しおはりにけむ、たゞ三人ぞあらむ、吾使となのりて、そこに住せし時たもてりし複せる一卷の法華經をこひてもて來れ、とのたまふ。妹子わたりゆきておしえにしたがひてもていたりぬ。門に一の
沙彌ありてこれをみてすなはち入て云く、思禪師の使來れりと告。しわおひたる僧三人つえをついて出、よろこびえみて使におしえて經をとらしめつ。すなはち
將きたれり。太子いかるがの宮の寢殿のかたはらに舍をつくりて夢殿となづく。月に三度沐浴して入たまふ。あくる朝出玉て
閻浮提のことをかたりたまふ。またこの中に入て諸經の疏を製たまふ。あるいは七日七夜出たまわず、戸をとぢておともしたまはず。高麗の惠慈法師の云く、太子
三昧定に入たまへり、おどろかしたてまつることなかれと。八日といふ朝に出たまへり。玉机の上にひとまきの經あり。惠慈法師をめして語てのたまはく、吾先身に衡山にありし時たもてりし經はこれなり。過にし歳妹子がもて來しは吾弟子の經なり。三人の老僧吾おさめしところを不
[レ]知して他經をおくれりしなり。よてわがたましゐをつかわしてとらしむとのたまふ。さきの經はみあわするにこれにはなき文字ひとつあり、このたびの經はひとまきにかけり
(*と)。黄なるかみにて玉の軸なり。又百濟國より僧道忻等十人來てつかふまつる。さきの世に衡山にして法華經を説玉し時、我らは廬岳の道士として、とき/〃\まいりて聞く人々なりとまふす。後の歳小野妹子また大唐にわたれりしなり。衡山にゆきたれば、さきの僧ひとりのこりてかたりていはく、過たる歳の秋汝がくにの太子もとは思禪師、靑龍の車にのりて、五百人をしたがへて東方より空をふみてきたりて、ふるき臺の内をさぐりて一卷の經をとりて、雲を
しのびてさりしなりといふ。あきらかにしりぬ、此夢殿に入たまひしほどのことなりけりと。
太子御后妃柏手の氏かたはらに候。太子語てのたまはく、君吾こゝろのごとし、ひとつのこともたがわず、さいわひなり、吾死なむ日は穴をおなじくしてともにうづむべしとなり。后こたえてまふす、千秋萬歳、あしたゆふべにつかえむとおもふ、いかなるこゝろありてか今日おはらむことをばのたまふやと。太子こたへていはく、始有者終あり、者のさだまれる理なり、一度生て一たび死るは人のつねの道なり、吾昔數多身をかへて佛道をおこなひつとめき、わづかに小國の太子として妙なる義を流布し、法なきところに一乘の義をときつ、五濁惡世に久しく
遊とおもはずとのたまふ。后涙を流してもてこれをうけたまはる。太子難波より都にかへりたまふ。片岳山の道の邊に餓たる人臥せり。のりたまへる黑駒あゆまずして止る。太子馬よりおりてかたらひたまふ。紫の上の御衣をぬぎておほゐたまふ。即歌を詠じてのたまはく、
と餓たる人頭をもちあげて御返歌をたてまつる。
太子宮にかへりたまひてののち此人死にけり。太子かなしみたまひて葬せしめたまふ。大臣等このことをそしる人々七人あり。めして太子のたまふ、片岳にゆきてみよとのたまへば、行てみるにそのかばねなし。ひつぎのうちはなはだかうばし。みなおどろきあやしむ。太子いかるがの宮にましまして妃を語たまひて沐浴し、頭をあらはせ、淨衣をきせしめたまふて、我今夜ともに去とのたまひ、床をならべて臥たまひぬ。あくる朝に久しくおきたまはず。人々大殿の戸をひらひてみるに、ともにかくれたまひにけり。御貌はもとのごとし。御香ことに
馥。御年四十九歳なり。おはりたまふ日、黑駒いななきよばひてくさ水をくわず、輿にしたがひてみさゞきにいたる。一度いなゝきてたうれ死ぬ。そのかばねをもうづむ。太子かくれたまひし日、彼衡山よりもてわたりたまへりし經はにはかにうせぬ。いま寺にある
(*は)妹子がもてきたれりし經なり。新羅よりきたれりし釋迦佛の像は、いまに
やましな寺の東の堂にあり。百濟よりたてまつれりし石の彌勒の像は、いまふるき京元興寺の東の堂にあり。太子四天王寺・法隆寺・元興寺・中宮寺・橘寺・蜂岳寺・池後寺・葛城寺・日向寺を造たまへり。太子三之御名あり。一には厩戸の豐聰耳の皇子とまふす。王宮の厩戸のもとにて生たまへり。十人が一度にうれえをまふすことをよくきゝて、ひとことお
(*ママ)ももらさずしてことわりたまふによりてまふすところなり。また聖德太子とまふす。生れたまひての御ありさま皆僧ににたまへり。勝鬘經・法華經等の經疏を製て法をひろめ人を
わたしたまふによりて聖德とまふすなり。また上宮太子とまふす。推古天皇の御宇に太子を皇居の南にすましめて、國のまつりごとをまかせたまふによりてなり。日本紀・平氏撰聖德太子傳・上宮記・
諾樂の古京藥師寺の沙門景戒の撰日本國現報善惡靈異記等に見へたるなり。
【日本三寶感通集】 日本三寶感通集卷第一云、天王寺の御手印の縁起曰、寶塔一基心の柱の中に佛舍利髪毛を籠たまへりと云々。又金堂の中に舍利拾參粒をおさめいれたまへりと云々。崇峻天皇元年に百濟國より佛舍利をたてまつり、日本紀にいたりて靈驗をあかさずと。
【太子御廟注文出現】 太子御廟の注文出現の事
後冷泉院即位第十季也。
天喜二年歳次甲午、僧忠禪爲
[レ]起
[二]寶塔
[一]、削-
[二]平于地
[一]、而間地中堀
(*ママ)-
[二]出一銅凾
[一]。其蓋銘曰、今年歳次辛巳、河内國石川郡磯長里、有
[二]一勝地
[一]、尤足
[レ]稱
[レ]美。故點
[二]墓所
[一]已了。吾入滅以後及
[二]于四百參拾餘歳
[一]、此記文出現哉。爾時國王・大臣、發-
[二]起寺塔
[一]、願-
[二]求佛法
[一]耳云々。内銘曰、吾爲
[二]利生
[一]、出
[二]彼衡山
[一]入
[二]此日域
[一]、降-
[二]伏守屋之邪見
[一]、終顯
[二]佛法之威德
[一]。於
[二]處處
[一]造-
[二]立四十六箇之伽藍
[一]、化-
[二]度一千三百餘之僧尼
[一]、製-
[二]記法華・勝鬘・維摩等大乘義疏
[一]。斷惡修善之道、漸以滿足矣。
【松子傳太子讃】 文松子傳云、
| 大慈大悲本誓願 |
愍-[二]念衆生[一]如[二]一子[一] |
| 是故方便從[二]西方[一] |
誕-[二]生片州[一]興[二]正法[一] |
| 我身救世觀世音 | 定慧契女大勢至 |
| 生-[二]育我身[一]大悲母 | 西方敎主彌陀尊 |
| 眞如眞實本一體 | 一體現三同一身 |
| 片城化縁亦已盡 | 還歸[二]西方我淨土[一] |
| 爲[レ]度[二]末世諸有情[一] | 父母所生血肉身 |
| 遺-[二]留勝地[一]此廟崛 | 三骨一廟三尊位 |
| 過去七佛法輪處 | 大乘相應功德地 |
| 一度參詣離[二]惡趣[一] | 決定往-[二]生極樂界[一] |
| 印度號[二]勝鬘夫人[一] | 晨旦稱[二]惠思禪師[一] |
惠文禪師・惠慈法師、太子御時師主也。思禪師御師也。佛法傳來振旦日域有三節、所謂正像末也。正法千季之間天竺流布。像法第十三季漢明帝代時、中天竺摩騰迦・竺法蘭二人聖人、佛敎負白馬來。振旦漢明帝、都西白馬寺始興[二]佛法[一]。後經四百八十餘年、大日本國第三十主欽明天皇代、百濟國聖明王、佛像經卷等献我朝王。入[二]像法[一]五百歳也。
愚禿親鸞 八十五歳
以彼眞筆草本
釋寂忍 二十五歳
德治第二暦孟冬六日天、於造岡道場、拜見此書、於和田宿坊書寫之了。
釋覺如
予依[二]目所勞更發[一]、仍雇他筆、雖終功、至于奧、又故書止之而已。
上宮太子御記 終
うすらぐ、衰える等の意味に用いるか。
雞は鷄に同じ。
唐武帝
開皇九年(589)に隋が建国。
627年。原文の成立は西暦990年頃か。
たとひ
恆河沙
須弥山にある天界。
入滅
おはしき。
おほいに
ひろむ。送り仮名の省略は他にも多い。
物部守屋と中臣勝海。
築き、
ぬりで。ぬるで。
仰せて(=命じて)、
まうさく。いはく。
しろき(駒)
三越か。
同朋
修行僧
もちきたれり。
須弥山南方海上の大州。諸仏の出世する地。
【さんまいぢやう】仏法専修の状態。
「しのぎて」か。
あそばむ
しなてるや片岡山に飯に餓ゑて臥(こや)せる旅人あはれ親なしに汝生りけめやさすたけの君はや無き飯に餓ゑて臥せる旅人あはれ
斑鳩の富の小川の絶えばこそ我が大君の御名忘られめ
かぐはし
興福寺
済度し
なら(奈良)
1054年
1257年
1283年
1307年
マガダ国
給孤独園(ぎっこどくおん)。祇園。給孤独は須達長者の称。
鶏足山(けいそくせん)。迦葉入寂の地。
【ほうどう】大乗の教え。
悟りを得る智慧。
【とみのいちゐ】厩戸皇子の舎人。物部守屋が依った大木は「朴」であるともいう。
仏法東漸
太子の生立ち
崇仏・排仏の争い
上宮太子の奇瑞
晩年
追記
奥書